Chapter.III:嘘まみれの結婚 Act.1

刈谷との撮影も終わり、教会から衣装室へ送ったところで菜枝は挨拶をして刈谷と別れた。その足で急いでラウンジへ戻れば、ぼんやりと窓際の席で外を眺める美華子がいた。
美華子との付き合いは大学からだったけれども、気の強い美華子はよく男をポイ捨てしては泣きついてきたことを覚えている。

その美華子が結婚ねぇ……正直、意外よね。

顔だけで男を選ぶもんだから、付き合い始めてから問題が起こっても美華子はすぐに男を振ってしまい、格好いい男はごまんといるんだからと嘯いていた。だから、菜枝としては美華子はずっとそうやってフラフラしていて一人の男には決めないんだとばかり思っていた。

先に福永の所に報告へ行き、無事に刈谷の撮影が終わったこと、満足してそうな様子だったこと、そして笑顔がとても綺麗だったことを報告すると、それを聞いていた福永は穏やかに笑う。

「それでは新しい仕事、始めましょうか。常盤さんのご友人とか?」
「えぇ、大学時代の友人ですけど、余り期待しないで下さい」
「といいますと?」

珍しく意外そうな顔をする福永に菜枝は苦笑いを返すしかない。まさか、男にフラフラしているので結婚までの道のりは遠いと思いますとは言えないし、本人相手なら遠慮無く言うけど、さすがに第三者に言うべきじゃないことも分かってる。

「余り結婚願望の強い子じゃないから、結婚話も本当だか分からないので」
「まぁ、その辺も含めてゆっくりお話聞いて下さい」

新たなファイルを手渡されて菜枝は笑顔で返事をすると、ファイルを片手に窓辺でぼんやりしている美華子へ近付くと肩を叩いた。

「菜枝! へー、そうやってると一応仕事してるみたいに見える」
「一応じゃなくて仕事なの。ここへ来るってことは結婚する気はあると?」
「あるから来たんだけど、何よ、私が客だと不満な訳?」
「別に。それではお客様、お話を伺わせて頂いても宜しいでしょうか」

わざと菜枝もいかにもな口調で返せば、途端に美華子は口を尖らせる。

「何かそれ嫌」
「もう、本当に相変わらず我侭だよね」
「常盤さん、少し宜しいですか?」

背後から声を掛けられて振り返れば、そこにはいつもと変わらない穏やかな顔をした福永が立っていた。慌てて立ち上がり美華子に「ごめん、少し待ってて」と伝えると、福永と共にテーブルを離れた。

「常盤さん、お友達ということで気が緩むのは分かるのですが、一応、お客様ですし、他のお客様の手前軽口はちょっと」

言われてみれば当たり前のことに気付かなかった自分に、赤面する思いで菜枝は頭を下げた。

「申し訳ありません」
「今後気をつけてくれたら構わないですから。それから、ご友人でしたら部屋の方へご案内するのも手ですよ」
「分かりました。これからは気をつけます」

接客業をしていれば当たり前のことだというのに、そんな単純なことまで抜け落ちていた自分が恥ずかしすぎる。つい、美華子とあった瞬間、大学時代に戻ってしまったような気がして、余り場所柄を考え無かったけれども、これは猛反省するしかない。

視線を感じてそちらへ顔を向ければ、呆れた顔で一之瀬がこちらを見ていて唇だけで言葉を綴る。

……えぇ、えぇ、どうせバカですよ。言われなくたって自覚済みですよ。

そんな気分で胸元で小さく殴る真似をしてから、一之瀬に背を向けて美華子のテーブルへと戻る。

「どうしたの」
「まぁ、色々とあります。ここだと話しも聞けないから部屋へご案内致します」

がらりと口調を変えた菜枝に美華子はパチクリと瞬いたけど、事情は分かったのか素直に立ち上がると空いている椅子に置いてあったバッグを手に取った。

「ごめん、怒られた?」
「うんにゃ、怒られてないけど、怒られないだけに怖い……」
「うん、怒られないって本当に恐怖だよね……」

ポツリと零す美華子の口調はいつもの明るい彼女らしくなく、菜枝は少し気になった。部屋に入れば美華子はまるで我がもの顔で勝手に椅子を引くと腰掛けて足を組んだ。相変わらず細くて綺麗な足をしていて羨ましい限りだ。

「で、結婚て、どうしたのよ」
「それがね、玉の輿よ、玉の輿!」
「……だから結婚決めたの?」

思わず冷めた目で見てしまうのは、美華子のこれまでの遍歴を知っているせいだと思う。

「何よ、喜んでくれない訳?」
「いや、いつ飽きるかと思って」

そんな菜枝に美華子は怒ることもなく、ただ苦笑すると菜枝から視線を逸らした。

「うーん、まぁ、玉の輿も美味しいんだけど、好きなんだよね彼のこと」
「それはいつも言ってる」
「じゃあ、もう卒業目前から続いてるって言ったら信じる?」

大学卒業してから既に半年になるけど、美華子が半年も同じ男と付き合っていると聞いたのは初耳かもしれない。大抵、短くて一週間、長くても三ヶ月が最長だった記憶がある。それを考えれば、多少なりとも信用はしたくなるけど……。

「大丈夫なの?」
「大丈夫、と言いたいところだけど……実はさ、彼に嘘ついてるんだよね」
「嘘? 可愛い嘘程度だったら相手も美華子のこと好きなら言っちゃえば問題無しじゃない」

確かに嘘はよくないだろうけど、可愛い嘘程度であれば彼も美華子が好きであれば問題にはならないだろうし、白状してしまえば問題だって無くなる。結婚を考えるくらいだから、小さな嘘くらいでは引かないと思う。

「それが……実は大企業の娘って……」
「は? あんた馬鹿でしょ!」

思わず声を大きくした菜枝に、美華子は大きく溜息をついた。確かに勝ち気で気紛れな美華子は、ある意味お嬢様のように映ることを近くにいた菜枝は知っていた。けれども、見えると嘘をつくでは大きく違う。

「で、相手も玉の輿っていうくらい大手だから困ってると」
「うん、結婚はしたいくらいには好きな相手なんだけどね……っていうか、こんなに好きになると思わなかったんだもん」
「でも、それなら余計言わないといけないんじゃないの?」
「……嫌われるかもしれないし、結婚ダメになるかもしれないじゃん」
「知ってる? そういうの自業自得って言うの。っていうか、結婚してから知られたらそれこそ詐欺で訴えられてもおかしくないわよ」

それは美華子も分かっているのか、俯くと大きく溜息をついた。

「もう、何て言うか好きすぎて頭ぐちゃぐちゃよ、もう」
「うん、でも、恋愛に投げやりだった頃より可愛く見えるよ」

恋愛に夢が無くて豪快に男を叩き切っていた美華子だったけど、こうして見ていると年頃の女性だと思える。何よりも恋に真剣になってる美華子は悪く無い。

「きちんと彼に話して、それから来なよ。そしたら相談のってあげるからさ」
「うん……とりあえず、パンフレットだけ貰える?」
「それは全然構わないわよ。まぁ、ここに書いてあるもの以外にも色々出来るから、今度二人で来る時にはまとめておいてよ」
「ありがとう。菜枝は少し格好良くなったかな」

滅多にお世辞なんて言わない美華子に言われると菜枝としても嬉しい。

「そう? 何か全然進歩なくてさ。そういう美華子こそ秘書だっけ?」
「まぁね。仕事はきっちりやってるわよー、あんたと違って」

先程のことを当て擦ってることが分って菜枝としては口をへの字にするしかない。

「うるさい。大体あんたのせいでしょ、ったく」

拗ねた菜枝に美華子は花が咲くかの如く綺麗に笑う。綺麗な人は笑うだけで絵になるんだから全くもって特だと思う。先程の刈谷も本当に綺麗だったし……。

「さてと、私はそろそろ行くわ。忙しいみたいだし」
「そだね、確かに忙しい」
「相変わらずねー、あんた」

呆れた顔をする美華子に菜枝は笑いながらも、テーブルの上に無造作に置かれたバッグを持つと美華子に手渡す。

「うん、忙しいから帰れ。で、早く彼に暴露して二人でここに来ればいいじゃない。そしたら邪険にしないよ」
「暴露して振られたら?」

恐らく美華子も振られるとは思っていないに違いない。その表情はどこか悪戯めいて、楽しげに菜枝へと問い掛けてくる様子からも分かる。そうでなければ、もっと深刻になっている筈だ。

「奢って慰めるくらいはしてあげる」
「フレンチね」
「やだよー、そんな高くつくの」

こんなノリも学生の時と何ら変わらない。けれども、美華子は結婚も考えるようになっていて変化は確実にある。ただ、菜枝自身にも就職したことで確実な変化は何かあるのか考えてみたけど、思いつかなくて早々に匙を投げた。

「じゃあ、お酒でも飲みながら慰めてよ」
「あんた、その酒豪もきちんと暴露しておきなさいよ」

菜枝の声に美華子はカラカラと笑うと、受け取ったバッグを持って立ち上がる。美華子と共に部屋を出てエレベーター前まで見送ると、菜枝は小さく溜息をついた。

時計を見れば既に昼の時間になっていて、少し悩んでからラウンジに立つ福永に声を掛けてから菜枝は休憩に入るためにスタッフルームへと足を向けた。丁度スタッフルームから化粧直しをしたのか楠木が出て来てすれ違う。

「先、刈谷様が見えたわよ。凄いお礼言ってたわ。幸せそうな顔してたわよ」
「そうですかー、よし、午後からも頑張れそうです」
「程々にしなさい、空回るわよ」

からかいの笑みを浮かべる楠木に唇を尖らせると、楠木は笑顔のまま菜枝の頭を軽く撫でるとそのままラウンジへと出て行ってしまう。菜枝もすぐにスタッフルームで食事を取ると、次々と押し寄せてくるお客さんに対応して回った。混雑は夕方を過ぎても収まらずラウンジを閉めた時には既に八時を回っていた。

事務所に戻れば、今回のブライダルフェアで客を掴めた人、掴めなかった人、それぞれその状況が表情が現れている。席についた途端、背後から伸びてきた手に頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、菜枝が振り返れば背後に立っていたのは嘉門だった。

「おう、菜枝はどうだった?」
「一応、三組ゲットです」
「ほー、随分幸先いいじゃん」

そういう嘉門は恐らく菜枝の三倍は顧客を掴んできたに違いない。こうして話していると軽そうな嘉門だけど、張り出された成績はがっちり一位をキープしていたから侮れない。

「それから紹介で来られた方が一組」
「お前、本当に紹介率は高いよなー。まぁ、それだけ満足してる顧客が多いんだろうけどさ」

褒められて悪い気はしない。だからこそ菜枝は満面の笑みで「もっと誉めてー」と嘉門に言えば、隣から大きな溜息が聞こえた。こういう時に水を差すのは決まって一之瀬だ。

「何よ、何か文句ある訳?」
「知ってますか、常盤さん。喜ぶのいいですけど、報告書を上げないと帰れないですが?」

嫌味たらしく丁寧な口調で言うところがまたこいつの嫌なとこであって……ん? 報告書?言われてみれば今回対応した客についての報告書は確かに必要だと言われていた。

「先輩、もう書いたんですか?」
「んあ? まぁ、休憩中とかにちょこちょこ埋めてたから、もう八割は終わってんな」
「……全然やってないし」
「だったら早くやれ。何人担当したんだか知らないけどマジで帰れなくなるぞ」

そうか、休憩中に少しでも片付けておくって手があったか。大抵、担当する客というのは普段であれば三組くらいなので終わってからのんびり報告書を書いても問題無かったけれども、ブライダルフェア中の顧客数は半端無い。それでも午前中は二組、刈谷と美華子の対応をしていたから、それでも他の人に比べたら少ない方だと思う。とはいっても普段の三倍は担当しているから、報告書は九枚必要な訳で考えただけでも顔は青醒めてくる。

「お疲れ様でした、常盤さん」

笑顔で言う一之瀬は既に書き終えた報告書を手にしていて、福永の机へと向かってしまう。初めてのブライダルフェアで浮かれていたこともあったけど、報告書だけは確かに仕上げないといけないもので菜枝はすぐにボールペンを手にすると机に向かう。

「すみません、この後の報告書は机の上に置いておいて下さい」

福永の声が事務所に響き、菜枝も報告書から顔を上げれば、福永は一之瀬と共に会議室へと入っていってしまう。

「何したんだろ、一之瀬」
「菜枝……呼び出しは必ず怒られるものと決まった訳じゃないんだがな」
「あ、そっか」

基本的に福永は人前で注意することは余り無い。大抵の場合、一人呼び出されて注意されることが多いのだが、菜枝の場合、注意でしか呼ばれたことが無かったので嘉門に言われるまでそのことに気付かなかった。

「ほら、報告書すぐやれ」
「うぅぅ、手伝って下さい」
「無理。とっとと手を動かす」
「ふわぁい」

気の抜けた返事をしながらも改めてファイルを横で広げながら報告書に書き込んで行く。一人、また一人と事務所から上がってしまい、ついに最後の一人だった同僚も帰ってしまい、菜枝は最後の一枚である報告書に取りかかった。さすがに何枚もこなしていれば慣れてくるもので、似たような報告書になりがちなことに苦笑しながらも最後の一枚を書き上がったタイミングで会議室の扉が開いた。

正直、もうとっくに話しなんて終わっていたと思っていただけに驚いて扉を凝視してしまう。それは向こうも同じだったのか、珍しく福永も驚いた顔でこちらを見ていた。

「常盤さん、まだ残っていたんですか?」
「すみません、あ、今報告書全部書き終わりました」

最後に慌てて自分のサインを入れると椅子から立ち上がり、丁度自席へ戻ろうとする福永へと手渡す。

「お疲れ様でした」
「いえ、明日からはもう少し手際よくやっておきます」
「そうして下さい」

穏やかに笑う福永に「お疲れ様でした」と声を掛けたところで、一之瀬も福永に声を掛けて同じタイミングで更衣室へ向かうことになる。隣を歩くといっても、一之瀬とでは会話する内容も無い。それにどこか不機嫌そうな一之瀬に菜枝は話し掛けるのも憚られて、二人で歩いているにも関わらず黙っていれば隣で小さく笑う気配がある。

「……随分大人しいな」
「不機嫌な人に突っかかりにいくほど馬鹿じゃないし」
「不機嫌そうか?」
「とっても」
「だったらそれはお前のせいだな」
「は?」

問い掛けるよりも先に更衣室前に到着してしまい、一之瀬は有無を言わせぬまま男子更衣室に消えていった。一体、何で菜枝のせいになるのかさっぱり分からない。

ただの当てこすりだったのかと結論づけると、多少腹を立てながらも菜枝も更衣室で手早く着替えてしまう。デニムにかぶり物のカットソーだけだから、着替えるのにも時間は掛からない。一応化粧直しも軽くして更衣室を出れば、一之瀬が壁に凭れていて度肝を抜かれた。

「あんた、何してるの?」
「お前を待ってた」
「私? えっと、待たれるようなことしたっけ?」
「してないな」

そのまま黙ってしまった一之瀬に、菜枝としては沈黙されても困る。

「用件あるなら言えば? 言わないなら帰るけど」
「うちで今、一番紹介率が高いのはお前だと言われた」
「そうなんだ。そっか、ちょっと嬉しいかも」

じわじわと喜びがやってきて、思わず顔がにやけてくる。

「馬鹿顔で笑うな」
「うるさいな、嬉しい時は嬉しいって顔して何が悪いのよ」
「悪いとは言ってないな。ただ馬鹿だと思っただけだ」
「あのねぇ、確かに馬鹿かもしれないけど、馬鹿とか言う方が馬鹿なんだからね」
「……小学生並の切り返しだな」

いかにも呆れたという顔をする一之瀬に、いつもの如くカチンときた。

つか、何でこう人の神経を逆撫でするのか、本気で、本気で、凄いムカつく。

「あんたと話してると本気でムカつく。もう声掛けるな」
「同じ職場で仕事している以上無理に決まってるだろ、馬鹿」
「だから馬鹿馬鹿言うなって言ってんでしょ」
「お前も言ってるだろ、俺に」
「あんたが言うからだ!」

人差し指をビシッと突き刺しながら言い放った途端、本気で馬鹿らしくなってきて一之瀬に背を向けた。

もう、疲れたし帰ろう。

あっさりと歩き出したところで、背後から肩を掴まれて嫌々な顔のまま振り返る。

「まだ何かある訳?」

それに答えることなく菜枝を上から下までジロジロと遠慮無く見た一之瀬はフッと鼻で嗤った。

一体、こいつは本気で何だと言うんだろう。

「言いたいことあるなら言えばいいでしょ」
「いや、経験も無さそうなお前が枕営業なんて出来る訳無いかと思ってな」
「枕、営業……そんな馬鹿なことするか! あんたの頭、相当イカれてるんじゃないの? 第一、経験あるか無いか分かる訳?」
「……あるのか?」
「あるに決まってるでしょ!」

売り言葉に買い言葉、言い切ってはみたけど、そんなのハッタリ以外の何者でもない。そんな菜枝に一之瀬は疑わしげな視線を投げてきて、菜枝はカチンときた。

「だったら試してみればいいじゃない」

一瞬、自分が口にした意味が分からず、頭の中で反芻したところでサーッと血の気が引いてくるのが分かった。衝動的な言葉だっただけに、菜枝としては時間を巻き戻したい気分でいっぱいだった。けれども、こちらを見ていた一之瀬の唇がゆっくりと動く。

「試して、ねぇ」

そう言った一之瀬の口元に笑みが浮かぶが、菜枝にとってその笑みは悪魔の笑みに見えた。

「あ、いや、そのね、言葉の綾ってやつで」

「経験あるなら試すのも手だろ。何しろ自分で言ったんだからな」

自分で言ったからにはやっぱり責任は取るべきなんだろうか。いやいやいや、幾ら自分の発言とはいえ、さすがにこいつ相手に初めてを捧げるなんてありえない。むしろ悪夢にしかならなそうだ。

「いや、無理」
「自分の言動だ、責任取れ」
「……もう経験無いってことでいいです」

正直、ここまで食いつかれるとは思ってもいなくて、菜枝としてはジリジリと後退する。それなのに一之瀬は後退した分だけ詰めてきて、菜枝の背中が壁にあたると両手を菜枝の顔の横へついてしっかりと囲い込む。

「だって、あんたとなんてその気になれないし」
「俺はさせる自信あるがな」
「無理、本当に勘弁して下さい」
「まぁ、自己責任ってやつだ」

それだけ言った一之瀬は、菜枝の腕を掴むなり出口に向かって歩き出す。

「一之瀬、ちょっと!」

強引に引かれながら前を歩く一之瀬に声を掛けるけど、一之瀬が振り返ることは無い。

「無理、ほんとーに無理!」

何度も何度も同じ言葉を繰り返すけど、一之瀬は全く人の声を聞いていないかの如く歩いて行く。一之瀬の歩みに引き摺られると、菜枝としては小走りになるしかない。自業自得とは思うけれども、一之瀬相手というのは本気で冗談じゃない。明日には絶対に自己嫌悪で地獄を見ることになるのが目に見えてる。

「もう、離してってば! 腕痛い!」

もの凄く人目を集めながらもガンガン文句を言っているのに、全く気にした様子が無いところは一之瀬だと思う。ホテルから五分も歩いた頃に、かなり大きなマンションへ足を踏み入れた。

「ちょっと! こんな所、不法侵入!」
「お前、本気で馬鹿だな。ここは俺の家だ」
「は? こんな立派なマンションが一之瀬の家?」

そこで菜枝は一之瀬がオーナーの息子だったということに気付く。普段、全く気にしていなかったからすっかり忘れていたけど、一応、これでもお坊ちゃんという奴だった。ポケットから取り出した鍵でオートロックのガラス扉を開けると、中には応接セットまで用意されて菜枝としてはこんな立派なマンションに足を踏み入れたことは無い。だから、興味の方が勝った。

エレベーターまでの通路は黒い大理石になっていて、両脇には白い石が綺麗に敷き詰められて笹なんて植えられている。しかもロビーにあるソファは二点用意されていて、ガラスで仕切られているから驚きだ。引き摺られるようにしてエレベーターに乗り込んだ時、回りの景色が見えなくなったことで急に菜枝は我に返った。

「……あんた、欲求不満?」
「という訳では無いな」
「だよねー、そう言う所上手くやりそうなタイプだし。っていうか連れ込んで何をしようって訳? あんたみたいなタイプが私を相手にするとは思えないし?」

結局、菜枝が取れた方法は相手のやる気を削ぐ、という一番単純な方法だった。少なくとも、どういう理由で一之瀬のスイッチが入ったんだか菜枝にも分からないけど、恐らく一之瀬だって誰でもいい訳ではないと思う。だとしたら、多少なりともやる気を削げば、すぐに引くに違いない。

「第一、ペチャパイは好みじゃないでしょ」
「まぁ、そうだな」
「じゃあ、私はお役御免だよね」

そうそう、そのまま流してしまえばいい。けれども事はそう上手くいかないのが世の中というものだった。

「証明するんだろ?」
「だから、それは」

やけに明るいエレベーターの中で、一之瀬の両手が菜枝を囲み込むように壁につく。途端に影が落ちてきて、菜枝は一之瀬との身長差を改めて感じる。

「……今、もの凄く殴りたい気分になってきた」
「だったら簡単だ。殴れないようにすればいい」

途端に一之瀬が屈み込んだかと思うと、菜枝の両腕を巻き込んで抱きしめられて菜枝は声にならない悲鳴を上げる。やけに近い位置で一之瀬と視線が合って、菜枝の顔は引きつった。

「じょ、冗談は止めて欲しい気分かなー、とか」
「冗談だと思うか?」

笑いを消した顔で言われると、菜枝としてはもう固まるしかない。

「蹴っていいかな?」
「いいと言うと思うか?」

全くもって思わない。けれども、冗談で流そうとするのに、一之瀬は全くもって流されくれそうな雰囲気じゃない。

「いち……んんっ……」

名前を呼ぼうとしたところで唇が重ねられる。触れた次の瞬間には口の中に舌が入ってきて菜枝は驚きで目を見開く。途端に近くで目が合った一之瀬が笑った気がした。ヒーッという叫びは口の中に消えて、一之瀬の舌が我が物顔で動き回る。

菜枝の頭に浮かぶのはもう悲鳴のみで、感想のかの字も出て来ない。

口内を一之瀬の熱い舌で舐め上げられると、その度に菜枝の身体は小さく跳ね上がる。舌先を甘噛みされると頭の後ろまでジンと痺れて、頭の中は真っ白になった。

時間にして数秒、けれどもエレベーターの到着音と共に一之瀬が離れた時には、菜枝の膝がカクリと抜けた。

「手間の掛かる」

溜息混じりにそう言った一之瀬は、床に座り込む菜枝の前に屈み込むと、腰を腕に回したかと思うとそのままこともあろうに肩へと担ぎ上げた。担ぎ上げられた菜枝としてはたまったものじゃない。普通に考えてありえない。

こういう時はせめて横抱きにするもんでしょ。

そう文句を言いたいけど、痺れた舌先が上手く動かない。そんなことを考えている間にも、一之瀬は一つの扉の前で立ち止まると鍵で扉を開けた。一之瀬は事もあろうか靴のままで部屋の中へと入って行き、担がれている菜枝も勿論靴なんて脱いでいない。

「い、い、一之瀬、靴! 靴!」
「後でハウスキーパーが掃除するからいい」

ハウスキーパー……そんなもの、菜枝の中ではドラマか小説でしか知らない。というか、存在していたことに驚きだ。

「可愛いメイドさん?」

部屋の奥の扉を開けた一之瀬は、部屋の何故か真ん中に置かれたベッドの上に菜枝をまるで荷物か何かのように放り投げた。確かにスプリングの利いたベッドだから確かに痛くは無い。痛くは無いが――――。

「一体どういう扱いしてるのよ!」
「本気で馬鹿だろ、お前」

呆れた冷めた視線を一之瀬が投げてくるけど、菜枝はそんなもの物ともせずに睨みつける。

「何がよ!」

「ハウスキーパーとメイドの違いも分からないのか?」
「うっさい! そんなもの、私には縁の無い世界なんだから知る訳ないでしょ! っていうか、一体どういうつもりよ!」
「何が」

何が? 事もあろうに人のことを荷物扱いして何が、だと。

「ふ……ふざけるなぁ!」

声あらん限り叫びを一之瀬にぶつけると、すっかり沈み込んでいるベッドから身体を起こして降りるために足を下ろした。けれども、すぐに腕を掴まれて再びベッドの上に逆戻りし、菜枝の顔は怒りに引きつる。

「今すぐどいて欲しいんだけど」
「その気はないな」

ブッツリと菜枝の頭の中で切れる音と共に、振り上げた足で一之瀬のお腹を怒りに任せて蹴り飛ばした。さすがの一之瀬でもその攻撃は考えていなかったのか、膝をついてうずくまる。立ち上がった菜枝はそんな一之瀬を見下ろすと、見上げた一之瀬と視線が合った瞬間に鼻で笑う。

「馬鹿じゃないの。悪いけどあんたのその訳の分からない思考に付き合ってらんない! 馬鹿馬鹿バーカ!」

特大の馬鹿を投げつけてから、菜枝は靴を脱ぐことなくリビングを抜けると玄関から外へと飛び出した。一体、何がどうなってこうなったんだか菜枝にはさっぱり訳が分からない。ただ、菜枝に分かったことは、一之瀬は無茶苦茶危険人物ということだけだ。

「本当に、付き合ってられるか! あんな馬鹿!」

エレベーターに乗り込み一階のボタンを押すと、ゆっくりとエレベーターの扉が閉まる。最後まで見届ける前に靴についている小さな飾りリボンに気を取られたのがいけなかった。

凄い音と共で顔を上げれば、隙間から出て来た手はゆっくりと扉を開ける。徐々に開く扉の向こうに現れたのは一之瀬で、それはさながら菜枝にとって恐怖映画のように映った。扉を押さえた状態で立つ一之瀬に、思わず菜枝はエレベーターの一番最奥まで下がると、背中に壁があたる。俯いた一之瀬の表情全ては見えないけど、身長差のせいで見える一之瀬の口元には笑みが浮かんでいるように見えて背筋に冷たいものが伝う。

「……この俺に手を上げるとはいい度胸だな」
「べ、別に上げたのは足だもん」
「そういうのを屁理屈と教わらなかったか?」

静かな笑いが非常に恐怖を煽る。ここまでくれば菜枝にとってはもうホラーだ。

「人を足蹴にした覚悟は出来てるんだろうな」

それは静かな声で、菜枝はもう口の中だけでヒィーッと情けない悲鳴を上げる。それでもどうにか口を開くと言葉を紡ぐ。

「元はと言えば、あんたが原因じゃん」
「元……元を正せばお前の馬鹿な発言が原因だろう」
「あれはだから、売り言葉に買い言葉で!」
「けれども、お前の発言だ」

ゆっくりと一之瀬がエレベーターに乗り込むと、その背後でエレベーターの扉が閉まり、微かな重力を感じた後にエレベーターが降りて行く。

「な、何よ」
「キャンキャン吠える馬鹿な奴を組み敷くのも悪く無いと思ってな」
「あんた、それ人間としてサイテーだと思うんだけど」

既に後の無い菜枝に一歩ずつ近付いた一之瀬は、口元に笑みを浮かべたまま手を伸ばしてきた。思わず目を瞑る菜枝の顎を掴むと上へと向けさせる。

「別に俺が楽しければどうでもいい。身体はともかく、顔は悪く無いしな」
「次は蹴りじゃ済まないと思うけど?」
「縛る趣味は無いんだがな」

そこですぐに縛るに直結する思考がもう菜枝には異星人にしか感じられない。ゆっくりと近付く一之瀬の顔に慌てて手を伸ばし、その顔を押しのける。

「何するつもりよ!」
「さぁ」

不意に上がった一之瀬の手が菜枝の両手を掴むなり、壁に押さえつけられて菜枝は思わず目を瞑る。キスをされると思っていたけど、予想もしていなかった所に唇が触れて思わず身体が強張った。触れた次の瞬間には舌で舐められて、それから少し痛みが走る。

「な、何?」
「さぁ」

一之瀬の拘束が解かれて、菜枝は先程痛みを感じた場所に手を当てる。何だかよく分からないけど、これ以上は何もしないということなのか、一之瀬はエレベーターの扉が開くとボタンを押したまま立っている。

「どうぞ、お帰りはこちらです」

手まで外へ向けて差し出されて、訳の分からなさに腹が立って来た。

帰れと言うなら帰ってやる、えぇ、勿論、帰りますとも。

そんな気分でズカズカと大きな足音を立ててエレベーターを降りた。勿論、降りる時に一之瀬の足を踏むことは忘れずに、降りた途端に菜枝はダッシュで逃走した。背後から一之瀬のクツクツと笑う声は聞こえたけど、菜枝は振り返ることなくマンションから出ると駅に向かって走る。

何なんだ、何なんだ、何なんだ! あいつは一体何なんだ!!

訳が分からないままに駅に到着すると、そこにきて鞄が無いことに気付く。鞄の中には財布やら定期も入っていて、菜枝は途方に暮れた。

ホテルを出て来た時には確かに持っていたし、一之瀬の家に向かう時にも持っていた。だとしたら、あのベッドに投げ出された時に鞄も投げ出したに違いない。だからといって今更一之瀬の家に戻るのも癪に触る。今更ホテルに戻ったところで事務所に残っていた人はいなかったのだから、誰かにお金を借りることも出来ない。

しばらく悩んだ菜枝は、渋々ホテルとは違う方向へ歩き出した。歩き出して十分もすれば、一つのビルの前へと到着する。そこで足を止めて、入るかどうするか悩みながらも、結局選択肢もなく菜枝はビルへと足を踏み入れると、階段で二階へと上がった。階段からすぐにある扉の前にはライクスデザイン株式会社という看板が掛けられていて、曇りガラスからはまだ光が漏れている。

もう一度ここで躊躇しつつ、菜枝は手を挙げてノックを二回した。すぐに返事があり扉が開くと、出て来たのは驚いた顔をした優だった。

「菜枝、どうしたの?」

いつでも穏やかな顔をしている優にしては珍しい表情だった。そんな優に情けない顔をしながらも、菜枝は優の手を握りしめた。

「仕事中にごめん! お金貸して」
「……はい?」
「鞄落としちゃったみたいで、定期無いから家に帰れないの」
「警察に行ったの?」
「あ、まだ、かな?」

実際に鞄を落とした訳でもないから警察に行ける筈も無い。けれども、そんな菜枝に優は大きく溜息をつくと「待ってて」という言葉と共に一度中へと戻ってしまう。閉められた扉の前で待っていれば、程なくして優は戻ってきて菜枝の手を取ると、その上に一万円札を一枚乗せた。

「そこまでは必要無いよ」
「一応、念のため。ん?」

優の手が伸びてきて、首筋に触れる。

「ちょっと、くすぐったい!」
「ここ赤くなってる」

触れられたところは先程一之瀬に多分噛み付かれた場所で、菜枝はもうそこでしゃがみ込んでしまいたい気分になる。

「虫、虫に刺されたみたい」
「ふーん、そう。まぁ、虫も多い時期だしね」

一体、噛み付かれてどうなってるのか分からないけれども、あの痛み程度だったら大したことにはなっていないに違いない。だからこそ、この時期の虫は本当に嫌だよねー、と言いつつ優にお礼を言って別れた。

帰りに遅くまで空いてるスーパーで、家にある物を考えつつ野菜類を買うと、家に帰り食事を作る。高校時代に両親を亡くした菜枝は、それ以来一人暮らしということもあり食事だけはどんなに疲れても家で作ることにしている。両親を亡くしてから保険金が降りるまでの間、思い返しても随分酷い生活をしていた時期があった。だからこそ、菜枝としては質素、堅実第一で、外食は月に一度すればいい方だった。

いつものように手早く夕食を作り上げると、ちゃぶ台の上に並べた。今日は帰りも遅かったこともあり、人参やキノコ、レンコンを入れた親子丼と切っただけの簡単サラダの二品だけにした。それを一人で手早く食べてしまい食器を片付けると、ようやく風呂に入る。

服を脱ぎ鏡の前に立った瞬間、菜枝は目を見開いた。

「な、何でこうなる訳!」

鏡に映るのは裸の自分。けれども、その首筋には赤い痕がしっかりと残っていて、それがキスマークと言われるものだと認識した途端、顔が一気に赤くなるのが分かる。恥ずかしいのと、ムカつくのと、感情が入り乱れたまま菜枝は思わず手にしていたタオルを叩き付けた。

「あの馬鹿、よりによってキスマークか! っていうか、噛み付くとキスマークが出来るなんて誰も教えてくれなかったじゃんか!」

もう、自分でどこに怒りたいのか分からないまま、叩き付けたタオルを拾うと菜枝はズカズカと風呂場に入る。怒り醒めやらぬまま髪や身体を洗い、湯船に浸かったところで恥ずかしさが再発した。

大学時代の友達がキスマークをつけてきて、友人たちにからかわれていた記憶は菜枝にもある。それがかなり恥ずかしいことだというのは分かるだけに、果たしてスーパーの人はどう思ったのか、優はどう思ったのか、それを考えただけでこのまま湯船の底に埋まってしまいたい気がする。

優は果たして虫さされで誤摩化されてくれたんだろうか。大した反応を見せなかったけど、あれは流してくれた優の優しさだったのかもしれない。だとしたら、次に会う時にどんな顔をすればいいのか、考えただけでも菜枝は恥ずかしくなってくる。

そういう経験の無い菜枝にはどうすればキスマークがつくかなんて分からなかった。まさかあの程度、噛まれただけでキスマークがつくとは思ってもいなかった。

軽く、噛む……?

何となく沸き上がってきた好奇心で、菜枝は自分の腕に軽く噛み付いてみる。多分、こんくらいの痛さ程度だったと思うんだけど……。それから自分の腕を見てみたけど、首筋についた痕のように鮮やかな赤はそこに無い。それどころか、赤みすらなくて菜枝としては首を傾げる。

あぁ、そっか、肌が柔らかいところだからか。

そんなことを考えてはみたものの、好奇心とはいえ自分の今の行動を振り返ると、菜枝はがっくりと肩を落とした。さすがに湯当たりしそうな気配がして風呂から上がると、菜枝は鏡を前にしてパジャマを着るよりも先に首筋に絆創膏をはりつけると「よし」と一人納得する。制服のブラウスであれば隠れはするけど、さすがに更衣室で着替えている時に誰かに見られたらそれこそ憤死するに違いない。それを避けるためにも、菜枝は対処を済ますとパジャマを着てドライヤーで髪を乾かすと、早々に布団へと潜り込んだ。

何も思い出すまい、そう自分に暗示を掛けながら菜枝は眠りについた。

Post navigation