Chapter.VII:理想の結婚 Act.3

駐車場に止まった車から降りるとエレベーターのボタンを押して待っていれば、一之瀬が車を降りて横に立つ。
「逃走終了か?」
「いや、うーん……何で言うかさ、いつも一之瀬の部屋に行く時って強引っていうか、無理矢理というか、そんな感じで行くことが多いでしょ。だから説教覚悟でも、たまには自分から行ってみようかと思って。一応、なけなしの愛情表現?」
「タイミングとしては最悪だがな」
「どうせタイミング悪いですよ。でも、もう両親にも会った訳だし開き直った!」
「菜枝はいつでも開き直ってるだろ」
「素直に喜べないのか!」
「喜んではいるが?」
だったら少しくらい表情を変えるくらいしてくれてもいいのに、喜びなんてその表情から全く読み取れないから困る。いや、もうこれが一之瀬だからと諦め入っているからいいんだけど。
それに強引でムカつくことはあっても、優しいことは知ってる。ただ、分かりにくいだけで……いや、そこが一番の問題かもしれない。
「もう少し嬉しかったら嬉しいって顔してみたら?」
「俺に営業スマイルしてろと? 菜枝相手に?」
「いや、そうじゃなくてさ……うん、もういいや」
別に言ってはみたけど期待していた訳じゃない。だからこれ以上強く言うつもりもなく、到着したエレベーターに二人で乗り込んだ。
扉が閉まるなり、菜枝の手に一之瀬の手が触れると優しく握りしめてくる。別に手を繋ぐことが初めてな訳じゃない。ただ、こうして優しく扱われたことなんて一度も無かっただけに、変に意識して顔が赤くなってくるのが分かる。
「正直、迷っていた」
落ち着いた、余り抑揚のない一之瀬の声がエレベーターの中に響く。いつもと変わらない声なのに、やけに心臓がバクバクいってる気がする。
「……何が?」
「両親に紹介すること」
「私がセンチュリーホテル会長の孫だから?」
「そんなものはとっくに調査済みだ。菜枝が入社した段階で分かっていたことだ」
「は? そんな前から知ってた訳?」
「あぁ。だから菜枝が気に病む必要は全く無い。知らなかったんだろ?」
「今日これ取りに行った」
そう言って菜枝は鞄の中から封筒を取り出すと一之瀬に差し出す。封筒の中から書類を取りだした一之瀬は開いた書類を数秒見て、封筒へ戻すとまるで興味が無さそうな雰囲気で菜枝へと返してきた。
既に知っていたのであれば、確かに興味を惹く書類では無いに違いない。ただ、菜枝にとってこの数日は本気で衝撃的なことだった。塚本さえ現れなければここまで調べたかどうかも分からない。
けれども、知らなければ良かったと思うようなことは一つも無かった。一之瀬とのことは不安に思いはしたけど、正直、大丈夫じゃないかと楽観的に思っていた。恐らく、そう思えたのは一之瀬がそれなりに菜枝に対して執着を見せてくれたからだと思っている。
それなら、逆に考えると菜枝は一之瀬に執着しているのを見せたことがあるのかと言えば殆ど無い訳で、それもあってこうして素直に一之瀬の部屋へと足を向けている。
エレベーターが到着して一之瀬の部屋に入ると、いつ来ても整理整頓された部屋になっている。元々、ハウスキーパーが入っていると言っていたから、一之瀬本人が片付けている訳じゃないことは知ってる。ただ、いつきても整理整頓された部屋は素っ気なくて、余り生活臭がしない。まるで一之瀬本人を映し出す鏡のようにも見える。
でも、そんな一之瀬が菜枝に嫉妬したというのは本当のことなんだろうかと、今でも信じられない。確かに執着はされている自信はあるけど、一之瀬と嫉妬という言葉が余り結びつかない。
いや、今はそれを考える時じゃないと気持ちを切り替えると、ソファに腰掛けながらキッチンに消えた一之瀬に声を掛ける。
「それで、何で紹介するのに迷った訳? 両親がいないから?」
「それを言ったら俺の出生の方が遙かに問題がある、そうじゃない。うちの社長が兄貴なのは知ってるか?」
「それくらは知ってます! バカにしてる?」
「馬鹿だから一応確認してみた」
「何だと!」
「冗談だ」
色違いのマグカップを持ってキッチンから現れた一之瀬は、クツクツと笑いながら片方のカップを菜枝の方へ差し出してくる。お礼を言ってそれを受け取ると、菜枝はカップに息を吹きかけて少しだけ冷ましてからカップに口をつけた。
そういえば、一之瀬の部屋に来てこうして一之瀬の淹れたコーヒーで落ち着いているのは初めてのことかもしれない。それなのにどこか馴染んでいる自分がいて、ちょっとした驚きだった。実際にここへ来たのは三度だけ、しかも無機質な部屋だと思っているにも関わらず落ち着いてる。何だか変な感じだと思いつつも、カップをテーブルの上に置いた。
「それで?」
「兄貴はまだ結婚していない。だから……」
もの凄く慎重に一之瀬は言葉を選んでいるように見える。いつでも端的な物言いをするだけの、こういう一之瀬は非常に珍しい。
「兄貴よりも先に子どもを作るつもりは無い」
苦々しげにそれだけ言った一之瀬は、俯いていた顔を上げると真っ直ぐに菜枝を見る。真剣なその表情と視線からも言葉の本気を伺える。
「……いいんじゃないの。一之瀬、最初から子ども欲しくないって言ってたじゃん」
「だが、結婚するなら」
「別にいいわよ。確かに子どもがいる幸せもあるだろうけど、子どものいない幸せだってあるんじゃないの? 別にうちは孫見せろという親がいる訳でもないし……そりゃあ、全くいらないって訳じゃないけど、理由あるんでしょ?」
問い掛けると、珍しく一之瀬はその視線を逸らした。本当にこんなことは珍しい、いや、もしかしたら初めてのことかもしれない。
「兄貴に子どもがいない状態で俺に子どもが生まれると……恐らく、相続問題が起きる」
確かに家族だけでやってるホテルとは訳が違う。きちんと役員もいて、株式公開もあるのだから人事について口を出してくる人間はいるに違いない。そして後継者問題も恐らく一之瀬にとってはかなり根深い問題なのかもしれない。親と上手くいってるからこそ余計に……。
こうして内心を打ち明けられたのは初めてのことかもしれない。何だか、初めてづくしというのも新鮮で、けれども驚きが無い訳でもないからカップに手をつけると落ち着くためにコーヒーを一口飲んだ。ぬるくなったコーヒーは菜枝の気持ちを落ち着かせてくれる。
「下手に継ぐものがあると大変だねー」
今までの深刻さに比べたら、かなり軽い言葉だったに違いない。実際、聞いた一之瀬も目を見開いて菜枝を凝視している。でも、そういう驚いた顔を見るのは菜枝としては楽しい。
「……言うことはそれだけか?」
「正直言うと、コメントに困ったなー、って感じかな。でも、下手に期待持たせない所が一之瀬だなーと思ってさ。別に子どもがいなくちゃ幸せになれない訳でもないでしょ」
「そうかもしれないが……すまない」
「謝られても困るんだけど。いいじゃん、それでいいって言ってるんだから。私は子どもいなくても楽しめる自信があるけど、一之瀬には無い訳?」
「それはないな。菜枝一人で十分だ」
「だったら問題無いじゃない」
それだけ言うと菜枝は手にしていたコーヒーを一気に飲み干すとソファから立ち上がると、もう一杯コーヒーをごちそうになるために立ち上がった。
「……時折、お前の潔さが怖い」
「それを言うなら、一之瀬に怖い物があることにびっくりだわ」
キッチンから答えながらもカップにインスタントコーヒーを淹れると、片隅に前回来た時には無かったポットが置かれていることに気付く。ポットの近くにはこの間菜枝が買った茶葉があり、外袋からも量が減っているのが分かる。どうやら、緑茶を飲むためだけにポットを買ったのかもしれない。よく見れば、洗いかごの中にはやたらと渋い湯飲みまでいて、思わず小さく笑ってしまう。
持っていたカップにポットからお湯を注いでソファへ戻ると、一之瀬はソファに身体を預けてコーヒーを飲んでいる。全て話して楽になったというところなのかもしれない。
菜枝も先ほどと同じ場所へ腰掛けようとしたところで、一之瀬が自分の座る多人数掛けのソファを軽く叩いた。どうやらそこに座れということらしく、菜枝は肩を竦めると一之瀬の横に腰を下ろした。途端に一之瀬は菜枝が持っていたカップを取り上げテーブルに置くと菜枝の背中にゆっくりと腕を回すと柔らかく抱き締められた。
「な、何?」
「結婚して欲しい」
「……はぁ? なに今更言ってる訳? 指輪まで押し付けた癖に」
もの凄く不本意そうな声だったに違いない。途端に一之瀬は菜枝から腕を離すと、顎に手をあてて考えるそぶりを見せる。その表情は相変わらず無表情で感情は読めない。
「菜枝には必要無かったか。確かに今更ではあるな」
「何なのよ、一体」
「嘉門さんからプロポーズだけはきちんとしないと一生文句言われ続けると聞いたから実践してみた。空気読めない菜枝には意味が無いものだったらしい」
「空気読めないって本気でムカつく。つか、あれだけインパクトある渡されかたされたら一生忘れないわよ!」
「返事」
「はい?」
「返事をまだ聞いていない」
ここまで話していて今更返事も何もあったもんじゃない。っていうか、もう返事なんて聞かなくても分かってる癖に何で……!
隣に座る一之瀬を睨み付けていれば、視線の合った一之瀬の口元が笑みを象る。勿論、優しげなものなんかじゃなくて、意地の悪い笑みだ。
恐らく菜枝が恥ずかしがっていることなんて一之瀬にはお見通しに違いない。それがまた腹立たしい。
「返事」
「言わなくても分かってるじゃん」
「俺もきちんと言った」
「あんたはいつでも恥ずかしげもなく色々言えるじゃん!」
「菜枝も大概だと思うが? 別に今更返事一つで恥ずかしがる必要も無いだろ」
「そりゃあそうかもしれないけど……分かりました。これでいい?」
「色気が足りない」
「そんなもん求めるな! バカ!」
相変わらず無表情でぼやいた一之瀬の頭にしっかりとチョップを食らわせると、菜枝はテーブルに置いたままになっているカップに手を伸ばす。けれども、カップに辿り着くよりも先に一之瀬に手首を捕まれる。
「何よ、まだ何かある訳?」
「あるな。聞きたいことが色々とある」
その言葉と同時に両手首を捕まれてゆっくりと体重を掛けられる。
「ちょっと、重い!」
文句を言うけど一之瀬は聞いている様子も無く、菜枝の身体はゆっくりとソファの上に倒れた。上から見下ろしてくる一之瀬と視線が合った瞬間、もの凄くヤバい体勢になっていることにようやく気付く。
「ちょ、ちょっと待った! なに、この体勢!」
「うるさい、さわぐな」
「これって普通さわがずにはいられない状況だと思うけど?」
どうにか拘束から逃れようと動いてみるけど、体重を掛けて一之瀬に押さえ込まれたらさすがに菜枝でも身動きが取れない。しかも、元々座っていたから足は床についていて微妙に身体をひねった状態というのが力の出ない原因でもある。
「普通に聞けばいいでしょ」
「誰かは状況がヤバくなると逃走を図るからな」
「……じゃあ、逃げない」
「信用すると?」
フフンという感じで笑われたら、さすがにカチンとくるところだけど、実際に逃走しようと企んでいた菜枝としては言葉に詰まる。
「あー、もういい! 何聞きたい訳?」
「佐伯はよく家に来るのか?」
「昔は来たけど今は余程用事が無い限り来ない」
「来たら家に上がるのはいつものことか?」
「友達来たらよっぽどじゃない限り家に上げるに決まってるじゃない。っていうか、何でこの間、優がうちに来たこと知ってるのよ」
「……佐伯から連絡があった」
「は……?」
余りにも予想外なところから連絡があったことに驚いた。少なくとも菜枝が見ている限り、連絡をしあう程、優と一之瀬は仲良しじゃない。いや、むしろあの冷ややかな空気からも敵対くらいの勢いがある。それが何がどうあって優から連絡することになったのかさっぱり分からない。
「ごめん、もう少し聞いても?」
「用事があって菜枝の家に行ったら、警戒することなく家に上げられた。もし、僕がその気になったらどうする?」
「それ……優が言ったの?」
口にすればするだけ、一之瀬の機嫌が急降下している気がする。その声を聞いているだけで菜枝としては冷や汗ものだ。しかも、何でそんなことを一之瀬に言い出したのか優の考えてることもよく分からない。思わず恐る恐る問い掛けたけど、一之瀬の視線は非常に冷ややかなものだった。
「とても挑発的だったな」
あぁ、一之瀬の言葉から冷気を感じる。それくらい機嫌が悪くなっているのが分かる。菜枝としては図らずとも逃走したい気分だった。
「えっと、他には?」
「余り手抜きすると、僕が菜枝を貰うけどいいかな」
「……それに対して一之瀬は」
「電話を切った」
一之瀬は嘘をついたりしないから、言ってることは事実なんだと思う。けれども、こうも淡々と答えられると菜枝としてはちょっとした恐怖体験だ。しかも、気付けば……逃げ場がない?
「菜枝には色々と言い聞かせないことがあるらしい。男を家に上げるなとか、知らない人間にはついていくなとか」
「ちょっと待て。私は子どもか!」
「子どもよりタチが悪い。少なくともこういう気にはなれる」
ゆっくりと見せつけるように近づいてきた一之瀬は、菜枝の首筋に噛みついた。
「っっ! あんたは肉食獣か!」
「……まぁ、似たようなものかもしれないな」
正直、さほど痛みは無かったものの驚いた。そして更に驚いたのが噛みついた場所を一之瀬が舌で舐める。途端にゾクリと肌が粟立つのが分かる。
「な、なに?」
「ここまでしててまだ分からないのか? 馬鹿にも程があるだろ」
「いや、分からなくはないけど……ちょっと!」
一之瀬の掌がスカートの裾から膝頭を撫でるから慌てて声を上げれば、非常に不満そうな顔をした一之瀬と視線が合う。
「まだ何かあるのか」
「こ、こういうことは、普通ベッドで……ほら、もうちょっとムードもって」
「お前にムード云々言われたくない」
「でも、ここじゃヤダ!」
「ほぉ……ここじゃなければいいと?」
「あ、いや……そういう訳でも無いけど」
「ならどういうつもりだ」
別にするのがイヤかと言われたら本気でイヤな訳じゃない。正面切って聞かれたら恥ずかしさ直撃で正直には言えないけどイヤじゃない。もう一層のこと勢いのままに流された方が気分的には楽なくらいかもしれない。
でも、こういう会話を楽しんでいる部分はあるのかもしれない。何か言えば反応を返してくれる、それが嬉しいとは思える。最初こそ強引気味だったけど、何か言えば手を止めてくれる辺りは結構優しい。
恥ずかしいけど、やっぱり好きなのが何だか悔しい。一之瀬が当たり前のようにサラリとこういうことをするのも何となく負けてる気がしてならない。勿論、恋愛は勝ち負けじゃないとは思うけど、素直に好きと言えないとか、行動に移せないとか、そういう部分でも負けてる気がする。
「菜枝、どうかしたのか」
「何か……悔しい」
その言葉に見下ろしている一之瀬は一度瞬きをして、菜枝を凝視してから大きく溜息をついた。そして、そのまま身体を起こすと両手を離すと改めてソファへ座り直す。
「言いたいことがあるなら言え。一応聞くだけ聞いてやる」
言えるものならきちんと正面切って好きだって言いたい。でも、そんなの平然として言える筈もなくて、唇を引き結ぶ。もしかしたら、他の人だったらあっさりと簡単に言えるのかもしれない。実際、勢いさえば言えるし、普通の会話であれば好きなんて言葉は幾らでも言える。
けれども、一之瀬相手だとやっぱり特別なものがある。言葉には出来ない、態度には示せない、これではさすがに一之瀬だって呆れるに違いない。
不意に一之瀬の手が伸びてきたかと思うと、掌が額にあてられ後頭部にも手が添えられると勢いよく振られた。
「ぎゃっ! 何するんだ!」
「考えすぎてる様子だから柔らかくしてやろうと思ってな」
「普通するかー!」
叫ぶ菜枝の声は一之瀬に頭をガクガクと揺さぶられて奇妙にビブラートが掛かっている。叫び終えたと同時に手を離した一之瀬を睨み付ければ、別人かと思えるくらい優しい顔した一之瀬がそこにいた。
「……あんた、普通に笑えたんだ」
途端にその表情がムッとしたものになり、すぐに笑みは消えてしまう。一層、写真にでも撮っておきたいと思うくらいにはいい笑顔だった。そして、そんなことを思った自分に菜枝は驚く。
「ありえない」
「お前の態度の方がありえないだろ」
「だって、写真撮りたいとか思ったんだよ? ありえないでしょ!」
「……普通、それを本人に言うか?」
「あ……」
我に返ればかなり恥ずかしい発言をしていることに気付いて、菜枝としては俯いて口を噤むしかない。
確かに勢いがあればさらりと言えるけど、思い返してみれば自分の発言こそありえない。絶対に赤くなってるだろう顔を見られたくなくて俯いていれば隣で一之瀬は再び盛大な溜息をついた。
「嫌なら嫌だと言えばいい」
「……はい?」
一人ぐるぐるしていただけに、一之瀬の唐突な言葉の意味が分からず、かなり間抜けな声が出た。見せたくないと思っていたにも関わらず、思わず顔を上げて隣に座る一之瀬に視線を向ける。
「したくないなら、嫌だと言えばいいと言ってる」
いや、確かに自分の行動を振り返ればそう取られてもおかしくは無い。でも、実際は違う訳で、菜枝は一之瀬の腕を掴むと一気に捲し立てた。
「違うから! そうじゃなくて、私もきちんと好きだから、本当はきちんと好きとか言わないといけないし、本当なら抱いてとか、したいとかくらい言えないといけないのかとか、こう色々考えたら恥ずかしくなってくるし、どうしていいか分からないし! しかも、このままだと負けてる気がしてもんの凄く悔しい気がするし! 私だってきちんと好きだし」
余りの剣幕に驚いたのか、本当に珍しくぽかんとした顔をして菜枝を見ていた一之瀬はその表情を緩めると同時に、優しげな笑みを浮かべた。それは営業スマイルとかでもなく、菜枝は思わず見とれてしまう。
そんな菜枝を気にした様子も無く、一之瀬は菜枝の頭をまるで子ども相手のように撫でてくる。
「取りあえず、俺を押し倒すことだけは勘弁しろ」
「するか!」
「でも、しそうな勢いだったな。今の告白は」
「今すぐ忘れて!」
もう、恥ずかしくて顔なんて上げられない。何でこんなに余裕が無いのか自分でもよく分からない。普通に隣に座って頭を撫でられてるだけなのに、下手なことをしてるよりもずっと気恥ずかしい。それはいつもであれば素っ気ない一之瀬相手だからに違いない。
「……最初はからかうだけのつもりだたんだがな」
一之瀬の口から漏れた呟きは聞かせるつもりがあるのか、無いのか、中途半端な声量で菜枝は反応に困る。だからといって菜枝はここで引いたりしない。
「今も遊びとか言ったら殴る」
「遊びで指輪を贈るほど酔狂じゃないつもりだが」
「分かってる」
そこでしばらく沈黙が落ちて再び一之瀬が溜息をついた。何だか今日はやけに一之瀬の溜息ばかり聞いている気がする。
「最初、本気で馬鹿だと思ってた」
「喧嘩売ってるなら買うけど」
「いいから聞いてろ」
頭を撫でていた手は優しいものから、少し力の籠もったものになりグシャグシャと乱暴に撫でると、一之瀬は菜枝の頭からその手を下ろした。横に座る一之瀬の横顔を見れば、菜枝が思っていたよりもずっと真剣な顔をしていた。表情はいつもと同じ無表情だけど、その目は仕事中の時みたいに真剣そのもで菜枝は一之瀬の言葉を待つ。
「突っかかってくるのは本気なのかフリなのか、最初は分からなかった」
「フリ? どういう意味?」
「鳴り物入りであそこに入社したからな、違う部署の人間が擦り寄ってくることもあった。だから、菜枝がどちらなのか少しだけ気になった。けれども、本格的に気になり出したのは七月の営業成績を見てからだ」
「あー……悔しいことに完敗したやつ」
菜枝としては非常に苦い思い出であって、余り楽しい過去じゃない。けれども、あれで一体何が一之瀬にとって変化したのか菜枝には分からない。首を傾げていれば一之瀬は苦笑しつつも口を開く。
「リピート率。正直、かなり納得行かなかった。しかも、部長に呼び出されてお小言貰うし、本気で一体どんな魔法使ったのかと思ったぐらいだ」
「あれはまぐれ、かな? 自分でもよく分からないや。でも、一之瀬、そんなにリピート率悪かった訳?」
「あの時点でゼロだからな」
「それは……ご愁傷様」
「……喧嘩売ってるのか?」
「や、そんな訳無いじゃん。素直な感想」
途端に一之瀬がその表情を緩めると、上がった手が菜枝の頬へと触れる。
「最初から馬鹿正直だったな」
「バカはいらない」
「本気で馬鹿だと思ってたから、まさかこういうことになるなんてあの時は想像もしてなかった」
「それは私も一緒。もうあの頃の自分に教えてあげたいくらいよ」
「俺は教えられても信じないだろうな、例えそれが自分の分身だったとしても。けれども、菜枝の言葉は素直に聞けた。腹立つこともあったが、菜枝の素直さに救われたことも多かった」
それは初めて聞く言葉で思わず一之瀬を見たけれども、すぐに顔を逸らされてしまってその表情を見ることは出来なかった。
「ハイエナみたいに群がってくる連中も煩わしかったし、機嫌を取ろうとする部署の人間たちも面倒だった。けど、菜枝や嘉門さん、楠木さんは、普通に扱ってくれた。だから辞めずにあそこにいられた」
「じゃあ、最初は辞める気満々だった訳?」
「面倒になってた。ただ、父親の手前、辞める訳にもいかなかっただろうな」
確かに一之瀬の立場はある意味特殊だ。実際、菜枝も嘉門と噂してたくらいだし、その他大勢と余り変わりない。けれども、その中で菜枝を選んでくれたことは嬉しい。
「ねぇ、どうしてそんなこと言ってくれる気になってくれた訳? 正直、一之瀬の性格からして言うとは思ってもいなかったんだけど」
「自爆とは言えども、あそこまで盛大な告白されて何も言わないのも卑怯だと思ったからな。実際、菜枝があそこまで言わなければ墓まで持って行くつもりだった」
だとしたら、もの凄く一之瀬的には妥協してくれたということかもしれない。基本的に仕事を見ていても妥協するタイプじゃなことはもう知ってる。
「ねぇ……私のこと好き?」
「結婚なんて一生しないと思っていた俺が申し込むくらいにはな」
でも、今聞きたいのは遠回しな言葉じゃない。我が儘なのは十分に承知の上で、菜枝は一之瀬の襟元を掴むとグッと視線を真っ直ぐに合わせた。
「そういう遠回しなことじゃなくてきちんと聞きたい」
「一度言った。二度は言わない」
「別に減るものじゃないでしょ」
「減る」
「くーっ! 本気でムカつく」
子どもみたいなこと言ってる自覚があるだけに、一之瀬の襟元を離してじたんだを踏めば逆に顎を捕まれて無理矢理視線を合わされる。悔しさから睨み付ければ、一之瀬の唇がゆっくりと動いた。
「好きだ……これでいいか」
無表情どころかいかにも仕方ないみたいな顔をしている一之瀬が本気でムカつく。確かに強制するものじゃないことは菜枝にも分かってる。でも、こんな時じゃないと聞けそうにないし、そういう確実な言葉が欲しい時だってある。絶対にこいつには死んでも女心なんてものは分からないに違いない。
「そういうやっつけ仕事みたいなの、もの凄くイヤ!」
「我が儘だな」
「そうさ、我が儘さ! 言葉の一つくらい恋人に我が儘言えないでどうする!」
「切れる程のことか」
「程のことでしょ! 普通に聞きたいでしょ! プロポーズだって普通じゃなかったんだから! 一生呪ってやる!」
「お前のそういうところ、本気で馬鹿だな」
呆れた視線を隠すことない一之瀬に、菜枝は頬を膨らませる。自分でも段々何にこだわってるのか分からなくなってくる。実際、一之瀬が言おうと言うまいと菜枝の好きという気持ちは変わらない訳で、こんなのは駄々をこねてるだけだ。言葉なんて強制するものじゃないし、例え笑顔であってもそこに心がなければ意味なんて無い。
もう何度目になるのか分からない溜息が沈黙の間に落ちた。菜枝が視線を上げれば、ゆっくりと一之瀬が近づいてくる。
キスして誤魔化すつもりかと身構えていれば、一之瀬の指は菜枝の顎を離れると耳に掛かる髪をゆっくりと掻き上げられて思わず身が竦む。髪に触れる、ただそれだけなのに一気にドキドキが加速する。耳元に掛かる一之瀬の吐息がくすぐったい。
「菜枝が好きだ」
それはいつも聞く声の中で、格段に甘く優しい響きと声だった。別に緊張はしていない。けど、もの凄く心臓は早いし、絶対に顔は赤い。
自分で言えと迫ったにも関わらず、菜枝はこの場所からもの凄く逃げ出したい気分になっていた。確かに甘い空気に願望が無かった訳じゃないけど、こんな空気は知らない。とにかく恥ずかしくて顔を上げられない。
それなのに一之瀬は強引に菜枝の顎に指先をあてると視線を合わせて、それから無表情に言い放った。
「顔が赤い」
「指摘するな!」
先ほどの甘さはどこへ消えたのか、一之瀬の表情にも声にもその成分は全くと言っていいくらい含まれていない。まさに、こんなのは詐欺だと叫びたい気分だった。
「……もういい」
確かに菜枝の経験値が足りないということもあるだろうけど、あんな声は詐欺だ。本気で詐欺だと言いたい。だって、あの一之瀬があんな大切だと言わんばかりの声で好きなんて言うと予想してなかった。別に普通に無表情でもいいから、好きと一言くれたら菜枝はそれで納得出来たのに、これはこれで非常に納得が行かない。
「さてと問題は全て解決した。夜はこれからだが」
どうすると言わんばかりの口調で、意地悪い笑みを浮かべている。これは絶対に何か言われると身構えて掌を握りしめる。
「菜枝から誘ってみるか? ベッドへ」
挑発する言葉と笑みに菜枝はムッと唇を尖らせた。
「絶対に誘ってやらない」
「抱いて、だっけ?」
その後、クツクツと笑い出した一之瀬に菜枝は面白くない気分で向かいのソファへ移動すべく立ち上がる。一歩を踏み出す直前に一之瀬に手を握りしめられた。
「違うだろ、行く場所が」
「いつでもあんたの思い通りになると思わないでよね」
「先までの可愛げはどこへやった」
「遙か遠く彼方」
確かに一之瀬は嫌いじゃないけど、いつもいつもやられっぱなしは性に合わない。でも、先ほどの勢いで抱いてとは言えそうにない。
「それは残念だ。だが、俺はしたいと思ったことをするタイプだ」
ソファから立ち上がると同時にわずかに屈み込んだ一之瀬に腰を捕まれたと思った途端に視界が反転した。
「なっ! ちょっと下ろしてよ!」
これはまだ記憶にある。初めてベッドに運ばれた時にこうして肩に荷物のように担がれて連れて行かれた。少なくとも恋人相手にする扱いじゃない。
「下ろしてよ!」
「無理」
「自分で歩くから!」
途端に足を止めた一之瀬は、しばらく菜枝を見下ろしていたけれども、そのまま菜枝の足を床へと下ろしてくれる。菜枝は逆に一之瀬の手を掴むと寝室に向かって歩きだした。
そう、女は度胸だ。
誰の言葉かは知らない。でも、菜枝はそれだけを何度も心の中で念仏のように唱えると寝室へ足を踏み入れた。扉から入る明かりだけの寝室は薄暗い。けれども、何も見えないという程でもない。
けれども、菜枝の足はそれ以上動かなくなった。というか、ここから先、どうすればいいか分からなくなった、というのが正しい。
「ここで終わりか?」
一之瀬の声にはからかうような響きがあった。その声にカチンときたのは確かだった。まさに勢いのままに一之瀬の手を引いてベッドまで来ると一之瀬をベッドに座らせると、菜枝は一之瀬の上で覆い被さるとシャツのボタンに手を掛けた。でも、指先が焦りすぎて、震えて上手くボタンを外せない。そんな菜枝の手を一之瀬の手が行動を咎めるようにボタンから離す。一之瀬を顔を見下ろした途端、掴んでいた手が離れると頭を抱え込まれると抱き締められた。
すぐ近くに一之瀬の心臓の音が聞こえる。菜枝よりも遅いけど、十分に早い鼓動で平然としてるように見えても、本当は平然としてないことがその音からも分かった。
「お前のそういう精一杯ですという感じも、意地っ張りなところもは嫌いじゃないが、泣きそうな顔されながらされるとさすがに罪悪感が湧く」
「だったら、こんなことさせないでよ」
「……悪かった」
ここで素直に謝ってしまうところが優しいと思う。実際、こうなったのは菜枝が暴走しただけの話しで、一之瀬はただ単にからかっただけだ。
「ごめん」
自分でも何か無茶苦茶だと思う。それなのに、頭を撫でる手は優しくて少しだけ泣きたい気分になる。それからどれくらいの間、そうして抱き締められたまま頭を撫でられていたのかは分からない。いつの間にか菜枝の心臓も、一之瀬の心臓も落ち着いたところでようやく頭を撫でていた一之瀬の手が離れると、ぐるりと体勢を入れ替えられた。
「我が儘は終わりか?」
「……もう言わない」
「言いたいことがあるなら言え。聞くだけなら聞いてやる」
「聞くだけな訳?」
「当たり前だ。実際に行動するかどうかは考えてからだな」
それだけ言うと一之瀬は屈み込んできて菜枝の唇にそれを重ねた。

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