Chapter.VII:理想の結婚 Act.2

二日目になって、母親の書いた日記を読んでいた菜枝の手が止まる。数十年前、それこそ菜枝が生まれる前になってようやく探していたホテルの名前、センチュリーホテルの名前が出てきた。そこには菜枝の両親がセンチュリーホテルで結婚式を挙げたことが書かれていて、菜枝の祖父の計らいで新婚旅行へ行ったことも書かれていた。
祖父の名前は出ていなかったものの、その後を読んでいけば父親がその祖父と上手くいかなくなり絶縁したということが書かれていた。父親の仕事が認められない、父親の事業を継がない複雑さは書かれているものの、祖父が一体何の仕事をしてるのかは書かれていなかった。
それ以降、日記に祖父のことは書かれることなく、菜枝が生まれ事故が起きる直前まできっちりと日記は書き込まれていた。短い日もあったけれども、きちんと毎日書かれた日記はまさに母親の伝記のようなもので、読み終えた時には菜枝の口からは溜息が零れた。
菜枝がまだ学生の頃、どんなことを思って、どんなことを考えたのか、日記は全てを伝えてくる。そして、母親が菜枝を生んだ年齢と、今の菜枝の年齢は同じもので、そんなところも感慨深く感じる。
ただ、菜枝の祖父については分からないばかりで、荷物を全て整理してもそのことについて分かることは何も無かった。そうなると後に出来ることは数多くない。
菜枝は部屋着から着替えて部屋を出ると、まずはレンタル倉庫の事務所に立ち寄り、契約の解除を申し出て精算を済ますと、その足で役所へと向かった。平日の昼過ぎということもあり、役所は思っていたよりも人が少なかった。そこで戸籍謄本を取り寄せ、それを両親との繋がりという証拠にして両親の戸籍を取る。
二通戸籍を取って三十分も掛からなかったに違いない。本当ならその場で封筒に入れた書類を広げたい気持ちはあったけど、もし事実だった叫びだしたい気分くらいにはなるに違いない。だからこそ、家に帰って落ち着いてから、そう思ってたのに、タイミングが微妙に重なる時というのは本当あるから困る。
「常盤さん」
名前を呼ばれて振り返れば、そこに立つのは先日ライクスホテルに顔を出した塚本だった。先日のいかにも堅苦しいという服装では無く、今日は随分とラフな格好をしている。恐らく菜枝と同じく休暇に違いない。
「塚本さん」
「常盤さんもお休みだったんですか。もし宜しければ昼食を一緒にいかがですか?」
「結構です」
正直、今は食事どころの話しじゃないし、塚本と一緒に食事をする理由も無い。そう思うにも関わらず、街中だというのに派手にお腹の音が鳴り出し慌ててお腹を押さえる。恐る恐る塚本を見れば、やっぱり聞かれていたらしく、口元に手を当てて菜枝から視線を外しつつも笑っている。
余りの恥ずかしさに菜枝としては逃げ出したい気分になる。いや、この場合、逃げ出すべきじゃないか? そう思った途端、菜枝は塚本に頭を下げて「失礼します」と声を掛けて早々に立ち去ろうとしたけど、しっかりと腕を掴まれて引きずるように塚本は歩き出してしまう。
「ちょ、離して下さい!」
「いやです」
「こっちがイヤです!」
「いいんですか? あなたが会長の元へ戻られたら、私はあなたの婚約者になるんですよ?」
「とにかくイヤなんで……は?」
何だか今、物凄くとんでもないことを聞いた気がする。そこまで言う、ということは塚本には菜枝がセンチュリーホテル会長の娘という証拠があるに違いない。いやいや、問題はそこじゃない。
「あの、誰と誰が?」
「私と菜枝さんが」
「もし、塚本さんと婚約なんて決まってるんでしたら、絶対に戻りませんけど」
「一之瀬会長の孫がいるからですか?」
「……何のことでしょう」
誤魔化す声は自分的にも上擦っていたと思う。元々、菜枝は嘘をつけるような性格じゃないし、下手な誤魔化しは大抵失敗する。そして今回もそうだったに違いない。
「そうきますか。まぁ、色々と調べはついているので構わないですけれども」
一体、何を調べたんだ! それこそ胸倉でも掴んでガクガクと塚本を揺さぶりたい気分だけど、生憎菜枝の身長では胸倉を掴むのが精一杯に違いない。そして、優が言っていたように、本格的に菜枝のことは調べられているらしいことが分かったのは、塚本と会ってから数分せずに連れて行かれた店についてからだった。
落ち着いた店内にはいくつもの絵画が飾られている。けれども、そのどれもが優しい雰囲気を持ち、色鮮やかで繊細に、でも可愛らしさを損なうことない、そんな絵が幾つもあるものだから思わず菜枝の足はゆっくりなものになる。
小さい頃、すぐ近くで優が絵を描いていた影響で絵を見るのは嫌いじゃない。こういう可愛らしい雰囲気の絵柄は菜枝がもっとも好む部類でもあった。店員さんに促されて我に返ると、案内されるままに進めば通りの見える席へと案内され、腰を落ち着ける。
そこで正面に座る塚本がニヤリと口の端を上げたのを見て、菜枝は座ったばかりの椅子から立ち上がった。
「よく考えたら……考えなくてもこうして席をご一緒する理由がありません」
「私にはありますよ、目立ってますので座って頂けると助かりますが」
その言葉で辺りを見回せば、周りから注目を浴びていて菜枝が見回したことでその視線を逸らされる。けれども、思った以上の声だったこともあり伺われているのは菜枝にも分かる。一層このまま席を立つことも考えたけれども、ここで決着をつけるのも悪くない、そう思って菜枝は不機嫌さを隠すことなく椅子へと座った。
「お食事は何になさいますか?」
タイミングを見計らっていたかのように菜枝が座った途端に声を掛けてきたウエイターに、塚本は菜枝の意見を聞くこともなく注文を伝えてしまう。それが菜枝にとっては更に面白くない。ウエイターは全てのオーダーを聞くとすぐに席を外してしまい、不機嫌な菜枝とどこか楽しげな顔をした塚本がテーブルに残される。
楽しそうに見える塚本だけど、決してその顔に笑みは無く、けれども菜枝には楽しげに見えるから機嫌はどんどん下降していくのが自分でも分かる。
「普通、こういう時は多少なりとも好みを聞いたりしませんか?」
「聞かなくても、あなたの好みは調査済みですから」
「もの凄く不本意です」
これが一之瀬相手であれば、それこそ喧嘩に突入するくらいの勢いで言い返すに違いない。けれども、塚本とはまだ会って二度目ということもあり、一応、それなりに礼節は通さないといけない。そうは思うけど、既に菜枝としてもその礼節は剥がれつつあるのは自覚済みだ。
「いずれ婚約者となるのであれば、それなりに調べることもしますよ。少なくとも好みくらいは把握しておくと便利ですから」
どうしてだかよく分からないけれども、何だか塚本の言い方は菜枝にとって不快だった。ただ、それが何で不快だったのか菜枝自信にもよく分からない。
「私としては全く塚本さんの婚約者になるつもりはありませんけれども」
「それは残念です……と引くと思いますか?」
「そう思いたいです」
「思うのは結構ですよ。ぜひともそう思っていて下さい。こちらとしては動きやすいですから」
一体何をどう動くつもりなのか、ぜひとも問い詰めたい気持ちはあったけど、どうせ聞いたところで答えるとは思えない。だから菜枝としては別方向へと会話を逸らす。
「勝手に婚約することを決められて構わないんですか?」
「そうですね、今回に限って言えば全く構わないですよ。むしろあなた相手であれば大歓迎です。あなたと婚約、結婚することで得るものは私としては大きいので」
「でも、全然好きでも無い相手と結婚するのは嫌ですけど」
「好きですとか、愛してるという言葉を求めているのですか? だとしたら茶番でしかない。あなたは違うでしょうけど、私はあなたの全てを求めていますよ。全てをね……」
薄暗い目をしていると思う。だからなのか、その言葉を聞いた途端、菜枝は寒くも無い店内にも関わらず鳥肌が立つ。少なくとも、ここに現時点で座っていることを迷わせるくらいにはその言葉に含まれる毒は強かった。ただ、こうして塚本がここまでして近くに来るということは、鞄の中にある戸籍を確認するまでも無く、菜枝の祖父はセンチュリーホテルの会長ということなのだと分かる。
分かるけど、やっぱりきちんと自分の目で確認したくて、菜枝は鞄を持って塚本へ声を掛けてからトイレに入った。実際、確認もしたかったけど、塚本の毒から逃げたかったことが大きかったに違いない。
化粧テーブルに荷物を置くと、椅子に座ることなく鞄の中から先ほど役所で貰った封書を取り出す。そして、その封書から戸籍謄本を二通取り出すと、両親の分の謄本を恐る恐る開いた。そこに表示される名前を携帯で調べれば、すぐにセンチュリーホテルの会長の名前と同じものだと分かり、菜枝は溜息をついた。
実際、この名前が違えば塚本に謄本を突きつけてお帰り願おうと思っていた。けれども、塚本にこうして強引にここへ連れて来られた時点で、期待が薄くなっていただけに落胆は思っていたよりも大きなものでは無かった。それでも、実際に祖父がセンチュリーホテルの会長だからといって、菜枝は塚本と付き合うつもりは爪の先ほども無い。
だからこそ気合いを入れ直すと封筒に謄本をしまうとトイレを出て、再び塚本の座る正面に腰掛ける。そして、相手の言葉を待つことなく菜枝は断言した。
「私は塚本さんと婚約なんて絶対にしません」
「手は色々ありますよ。あなたはまだ、実際に婚約している訳でもありませんから。指輪を貰った、というだけでは婚約者として認められていない筈ですからね」
菜枝は膝の上に置いた掌をグッと握りしめた。もしかしたら、ここに座ったこと自体、間違えだったのかもしれない。その言葉で塚本がいたるところまで菜枝を調べていることが分かる。
こうして塚本と向かい合うことに恐怖すら覚えていたところに、唐突にノックするような音が響き菜枝は飛び上がらんばかりの勢いで驚いた。音のする窓へ視線を向ければ、窓の外に立つ一之瀬の姿があり菜枝は小さく溜息をついた。
多分、情けない顔をしてるとは思う。途端に一之瀬が窓ガラス向こうから姿を消すと塚本が小さく舌打ちする音が聞こえた。
「あなたが呼んだんですか?」
どこか詰問口調の塚本に、菜枝は殊更偉そうに胸を張る。
「呼ぶ訳ないじゃないですか。何で私が呼ばないといけないんですか」
「てっきり救援を求めたのかと」
「救援がいる状況ですか? これ」
「あなたが思っている以上にはそういう状況だと思いますよ」
そんな会話を交わしている間に店内に入ってきた一之瀬は塚本を一別すると、何も言うことなく菜枝の腕を掴むと強引に立ち上がらせる。
「ちょっと、いきなり来て何よ」
「いいから立て」
「少なくとも理由を説明してよ」
「俺が気に入らない、以上」
「それ、全然説明になってないし」
「いいから来い」
一之瀬とのやりとりに塚本は口を挟むことも無く、ただ店から出て行く菜枝たちを見送っただけだった。強引に店の外まで引きずり出されすぐ近くに止まるタクシーへと乗せられた。
「ライクスホテルへ」
「は? 何でホテルに行く訳?」
「お前を両親に紹介する」
「ちょっと待ったーっ! あのさ、そういう事には順番があるでしょ、順番が!」
「婚約指輪を渡した。両親に紹介する、何の順番が間違えてる」
「あたしの気持ちだーっ! 少しは考えさせなさいよ!」
「……考えるのか?」
真剣な表情でぽつりと問われると菜枝としては言葉に詰まる。実際に一之瀬との結婚が嫌な訳じゃない。ただ、展開が早すぎる気がしないでもないし、菜枝としては結婚はもう少し後でも構わないんじゃないかと思っている。婚期がどうとかでは無く、今はまだ気恥ずかしさが勝っていて結婚を考えられないというか、考えたくないというか……とにかく照れくさい。
だからこその言葉だったけど、まさかこんなに本気で問い返されるとは思ってもいなかった。もう、悔しいけど一之瀬が好きなことは認めてるけど、やっぱり結婚となれば一生モノだから普通は悩むくらいする。むしろ、考えている様子すらない一之瀬の方に問題ありなんじゃないかとすら思える。
「あんたは、考えが無さ過ぎ!」
「ほー……むしろ、婚約者気取ろうとする男にホイホイついてく方が問題ありだと思うが?」
菜枝にも分かるくらいに不機嫌そうな低い声で問われて、後ろめたいことは何も無いのに焦る。少なくとも菜枝が勧んで塚本を誘った訳では無いから、何も変なことは無い。
「べ、別に私は婚約者なんて認めてないし。とにかく、両親への挨拶は困る」
「今は断られると俺が困る」
「何でよ」
「既に両親に連絡済みだ」
そう言って目の前に翳されたのは携帯で、そこに表示されているのはメールだった。文字を追えば、今晩の食事は彼女と同席させて欲しいと書いてあり、菜枝は一瞬にして血の気が引く。
「いやいや、無理、絶対無理! それに、両親に挨拶しに行くような格好じゃないし!」
「別に構わない」
「私が構うっての!」
「そんな事、どうでもいい」
「よくない! どうしてこうあんたといい、塚本さんといい、強引に事を進める!」
「……あれと一緒にするな」
途端に一之瀬の空気がまさに不機嫌ですというものに変化し、菜枝は地雷を踏んだこを知る。しまったと思ったところで既に遅し。菜枝は逃げるように一之瀬との距離を空けたけど、狭い車内で空けられる距離なんて大きなものじゃない。
「菜枝は俺が嫌いか?」
問い掛ける声は低い。怒っていることも分かるけど、その問いに菜枝としては答えられない。これがもし二人きりだったりしたら、素直に言えたかもしれないけどここには少なくともタクシーの運転手という第三者がいるだけに言える筈も無い。
「ちょ、ちょっと! そういうことは時と場所を考えて」
「嫌いか?」
こういう強引な所は本気でイヤだ。それなのに冗談でも嫌いだと言えない雰囲気がイヤだ。
「……じゃない」
「聞こえない」
「嫌いじゃないって言ってるの! このバカ!」
「バカは余計だな」
そう言いながらも一之瀬の顔からは先ほどの不機嫌さは消えていて、菜枝としては内心安堵の溜息をついた。そんな会話を交わしている内にホテルへと到着してしまい、タクシーを降りた一之瀬と共に裏口から高官専用のエレベーターに乗り込むと一気に上階へと動き出す。
「あのさ、やっぱり今日は止めない?」
「無理だ。菜枝は放っておくと面倒ばかり起こすからな」
「別に面倒は起こしたつもりないんだけど」
「婚約者にたかる蠅は十分面倒だが?」
「塚本さんの件に関しては私は何もしてないわよ」
「……佐伯もいるだろ」
確かに友好的とは言い難いものがあったけど、まさか一之瀬がそこまで優のことを気にしてるとは思いもしなかった。その意外性でつい一之瀬をマジマジと見ていれば、頭に手を乗せられたかと思うとそのまま下を向かされる。
「ちょっと、何よ、いきなり」
「両親に面通しすれば、塚本の出入りは出来なくなる」
その言葉でようやく菜枝自身の立場を考えて両親と引き合わせることにしたのだと気付く。だからこそ、菜枝の反論する気持ちは一気に下がってしまい頭の上に乗る手に自分の手を重ねる。
「分かりづらい」
つい拗ねたような声になるのは、一之瀬の気持ちが分かりづらいからだ。どうせなら、これくらい気遣いしてるんだと胸張って言ってくれた方がずっといい。こんな些細なことだといつか一之瀬の優しさを遣り過ごしてるんじゃないかと不安になる。
けれども、逆にこういう優しさがムカつくくらい菜枝を舞い上がらせるのも事実で、一之瀬と付き合ってからというもの菜枝の気持ちはいつでも複雑だ。
「バカに多くを語っても無駄だからな」
笑い混じりの声に菜枝としては子どもみたいだと思いつつも頬を膨らませることくらいしか出来ない。ようやく頭の上からどいた掌の感覚に顔を上げて一之瀬を睨み付けたけど、その表情はいつもの如く飄々としたものだ。それに比べて、間違いなく菜枝の顔は赤いに違いない。
「本気でムカつく」
その言葉と同時にエレベーターの扉が開き、赤い絨毯の敷かれたエレベーターホールがあり、少し先にはガラス張りになっていて両開きのガラス扉が見える。外が見える窓際には立派な花瓶と共に高価そうな花が溢れんばかりに飾られていて、菜枝は思わず溜息をつく。
まだ入社したての頃にこのフロアへ足を運んだことが一度だけある。高官専用ということで一般スタッフは基本的に出入りを禁止されていて、このフロアだけはフロア専属の人間がついている。
ガラス扉を開けて入れば、右手には受付のようなカウンターがあり受付嬢が頭を下げる。菜枝としては微妙に居心地の悪さを感じつつも、一之瀬に促されるままに正面にある木の扉へと近づけば、傍についていたドアマンが扉を開けた。扉の向こう側はもう一つ扉があり、右側の壁にはチャイムが用意されていて、左側の壁には水が天井から流れていてかなり豪華な作りになっている。
背後で扉の閉まる音を聞きながら菜枝は一之瀬がチャイムを鳴らす指を見ていた。口から心臓が出てきそうだと思うのは、さすがの菜枝でも気のせいでは済ませそうにない。
一之瀬の後ろで小さく唸れば、振り返った一之瀬が口の端を上げる。嫌な笑みだと思うのに、その笑みに安心する自分がイヤだ。もう、何もかもがイヤだ尽くしじゃないか!
余りの緊張感に菜枝の頭は既に逆ギレ気味だったけれども、扉が開くとまさに借りてきた猫の如く身を縮ませた。
「会長がお待ちです。私はこれで失礼致します」
扉を背中で押さえつつ頭を下げる女性に一之瀬は気にした様子も無く部屋に足を踏み入れる。そして菜枝としては果たして本当に足を踏み入れていいのか、ここに来てまで更に迷う。
「菜枝、早く来い」
もの凄く緊張してる。それこそ、手と足が一緒に出そうなくらいには緊張してる。いや、それ以前にどうやって歩いていたのかすら分からず緊張していれば、溜息と共に戻ってきた一之瀬が菜枝の肩を抱いて部屋へと招き入れられる。
中へ入れば部屋は広々としていて、手前に六脚セットのテーブル、壁際にはテレビボード、奥にはソファがあり二人の男女が立ち上がるのが見えた。
「おや、常盤さんかな?」
そう言って声を掛けてきたのはライクスホテルの会長その人で、菜枝は慌てて頭を下げた。けれども、続く言葉が出てこない。
少なくとも入社式では会長からの挨拶もあり、全く面識が無い訳では無い。ただ、それ以外でその顔を見ることは無く、何と言って挨拶をしていいのか分からなくなる。
「こ……こんにちは」
両親との顔合わせ第一声がこれで正しいのかなんて分からない。せめてもう少し時間があれば、スマートな挨拶の方法くらい本やネットで調べたり出来たに違いない。それを思えば、一之瀬を恨めしく思う気持ちが湧いてくる。
「あら、お父さん、知ってる方なの?」
「うちの従業員の子だ。中々面白いアイデア持ちみたいでな。ほら、この間話しただろ、マタニティウエディングの話し」
思わず顔を上げて会長たちを見れば、穏やかな顔で笑う会長と目が合い軽く微笑まれる。既に七十を過ぎると聞いているが若々しくとてもその年には見えない。隣に立つ女性も上品な出で立ちで会話を交わすその顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。ただ、この時点で微かに何かが菜枝の中で一瞬浮かんだけれども、疑問は彼女の声で消えてしまう。
「あら、もしかして彼女が?」
「そう、彼女のアイデア。常盤さん、うちは君のお陰で利益が上がったいるよ」
笑顔で言われて菜枝も引き攣りながらも笑顔でお礼を言う。
「けれども、まさか拓磨が彼女と付き合っていたとは思わなかったよ」
その言葉のニュアンスが歓迎という雰囲気では無いのを感じた菜枝は、笑顔を保つだけで精一杯だった。恐らく、口調からも菜枝の両親、その祖父について知っているのかもしれない。
「最初から分かっていて付き合っていた。問題は無い」
思わずその言葉に一之瀬を見上げたけれども、一之瀬の視線は両親に向けられていて菜枝に向くことは無い。確かに、前に結婚相手を調べることはあるかと菜枝は聞いた。一之瀬は迷い無く調べると答えていたのだから、確かに菜枝のことは調べたに違いない。
だとしたら一之瀬は菜枝の両親について、菜枝の祖父について菜枝よりも詳しく知っている可能性がある。それに比べて菜枝は一之瀬のことを知らない。話しをする時に両親の話しが出ないからということもあるが……先から何かが引っかかってるけど……。
「あっ!」
菜枝の声に部屋にいた全員の視線が菜枝へと集まる。どうして言いか分からずに菜枝は「すみません、ちょっと……」と言葉を濁しつつ頭を下げた。
入社当時、一之瀬には隠し子という噂があったし、それを嘉門と噂していて一之瀬本人に聞き咎められたことがある。けれども、その後、一之瀬は実力で噂を払拭してしまったし、菜枝自身も同期として実力を知っていたからこそすっかりその話しを忘れていた。
確かに菜枝に両親がいないし、一之瀬が隠し子ということであれば、お互いに家族の話しが出てこなくてもおかしくはない。でも、隠し子なのにこうして堂々と奥さん交えて父親と会うというのはどういう現状なのか、菜枝にはさっぱり理解が出来ない。すっかり忘れていて聞かなかった菜枝も悪かったけど、せめて一之瀬からもう少し説明をして欲しいところだった。せめてこうして顔を合わせる前には……。
「拓磨がそう言うならいいだろう」
「何を偉そうに言ってるのよ。拓磨の人生なんだからあなたがどうこううるさく言えるものでは無いのよ」
「だが」
「常磐さんでしたっけ。ぜひともこちらにお座りになって。拓磨が彼女を連れてくると聞いて、美味しいケーキを用意していたのよ」
男二人を放り彼女は菜枝の近くまで来ると、菜枝の手を引いてソファに座らせてくれる。戸惑いながらも一之瀬を見れば、肩を竦めるばかりで口を挟む気はないらしい。恐らく好きにしろ、ということかもしれないけど、ここで突き放されても菜枝としては本気で困る。普通はもう少し橋渡し的なことをしてくれてもいいんじゃないかと思うけど、さすがにこの場で口に出すことは出来ない。
噂通りなら本当の母親では無い人だけど、一之瀬を見る目は優しくて親子だと言われても全く違和感は無い。それどころか、時折、一之瀬に問い掛ける様子はいかにも母親で優しさに満ちあふれている。正直、そういう愛情というのは少しだけ菜枝には羨ましく思えた。
用意して貰ったケーキは横から見ると層になっていて、上にはカラメルが掛かっているのか薄いカラメル色で艶めいている。フォークで一口大に切ろうとすると、表面がパリッと音を立てて割れる。そのまま層になる部分を切ると口の中へと入れた。
甘酸っぱい木イチゴのムースと控えめな甘さのチーズスフレ、そしてチョコレートのしっとりしたスポンジが程よいバランスで混ざり合っていてもの凄く美味しい。
「ね、美味しいでしょ?」
「はい、もの凄く美味しいです!」
思わず力説すれば、彼女はとても嬉しそうに笑い紅茶を差し出してくれる。それを受け取り紅茶を口に近付けるとふわりとアールグレーの香りがする。菜枝にとっては、それは最高に幸せな時でもあった。紅茶をカップに置いたところでふと顔を上げれば、呆れた顔をした一之瀬と視線が合う。
「あれだけ緊張していたのに、ケーキ食ってご機嫌か?」
「うっ……だって、本当に美味しいし」
「拓磨、そういう意地悪言わないの。女の子に嫌われるわよ」
途端に一之瀬が口を噤んでしまうところを見ると、どうやら彼女には一之瀬も弱いらしい。思わず口元に手を当てて笑ってしまえば、一之瀬にしっかりと睨まれた。
一之瀬の父親とは微妙な緊張感を伴いながら会話をしたけれども、終始、彼女は穏やかで優しく菜枝としては非常に助けられた。勿論、こういう場で一之瀬が役に立つ筈も無い。
お茶をして、それから彼女と話しをしている内に料理が用意されテーブル席へと移動すると四人で食事を始める。目の前に並ぶ豪華な料理に菜枝としては涎物だったけれども、さすがにそこら辺は弁えているからガッつくことはしない。
けれども、一之瀬としては絶対に何か言いたかったに違いない。どこかからかう視線を投げられてムッときたりもしたけど、とにかく料理は美味しいものだった。恐らく菜枝が自分の財布で食べようとすれば、一体何日分の食費を消費するのか考えただけでも途方に暮れるような額に違いないことだけは分かる。
そして食事の席で一之瀬はさらりとまるで何でも無いことのように言った。
「彼女と婚約することにした」
「グッ……ゴホッ」
その唐突さに菜枝は思わず喉に料理を詰まらせて咳き込んでしまう。非常にマナー違反だということは分かっていたけど、いきなり切り出した一之瀬を涙目になりながらも睨み付ける。
けれども、菜枝の正面に座る彼女は「あらあら、常盤さん大丈夫?」とまるで何事も無かったような様子だし、父親の方も「そうか」と言うだけでそれ以上何も言わない。菜枝としては本当にそれだけでいいのかと思わずにはいられないけれども、彼女が問い掛けてきた。
「常盤さん、拓磨で本当に大丈夫? この子ぶっきらぼうだし」
「や、いえ、それは大丈夫ですけど……」
もうここまで来たらそういう問題じゃない。どちらかと言えば、菜枝としては親の反応の方がずっと気になる。
「私が拓磨と知り合ったのは、拓磨が高校生の時だったけど、もう本当に無愛想でイヤになっちゃったわよ」
それは実の親子でも無いのに言葉にしていいことなのか、菜枝としては分からなくて相槌すら打てずに固まる。けれども、彼女は全く気にした様子もなく穏やかな顔で笑いながら言葉を続ける。
「会話を促しても大丈夫です、とか、平気です、とかばかりで会話にならないし。でもね、私の食事を一度も残したことが無いの」
「初耳だな。お前の料理を残さず食べるのは至難の業だ」
「仕方ないじゃないの、料理はどうしても苦手なんですから」
そう言って顔を赤らめる彼女に、父親の方はからかい気味の笑みを浮かべていて、一之瀬はどこか気まげに顔を逸らす。
「それに気付いた時、初めて拓磨に愛情が持てたの。今は私も言いたい放題だから、何でもはっきり口にするわ。こうして彼女を紹介してくれたのは初めてのことだし、それだけ本気なことも分かるわ。伊達に十年近くも付き合ってる訳じゃないから」
「結婚を認めて貰えますか?」
それは静かな、そして真摯な響きを持っていた。彼女の視線は父親へと移り、つられるように菜枝の視線も一之瀬の父親へと向く。ただ黙って一之瀬と父親は真剣な表情で向き合っている。
どれだけの間そうしていたのか、最初に小さく溜息をついたのは父親の方だった。
「好きにしろ、お前の人生だ」
「有難うございます」
「別に礼はいらん。これは我が儘だと思うが宜しく頼む」
「は、はい」
唐突に話を振られたこともあり慌てて返事をしたけど思わず声が裏返る。正面に座る二人は少し驚いた顔をしていて、隣に座る一之瀬は視界の端で反対側を向いて肩を振るわせている。
微妙に背をむけている一之瀬に蹴りを入れてやりたいのは菜枝の気のせいじゃない。少なくとも、こういう場面ではフォローするくらいの役回りをしろと思ってしまう。
だって、相手は自分が勤めている会社の会長なんだから緊張するなというのが難しい。それに最初が微妙な空気だっただけに、こんなにあっさりと許可が下りるとは思ってもいなかったのもある。もう恥ずかしくて俯いてしまえば、豪快に二人も笑いだし菜枝としてはまさに穴があったら入りたい心境だった。
食事を終えてデザートをごうちそうになり、最後には彼女から「また、一緒にお茶しましょう」と誘われてそれに二つ返事で頷いた。何でも、男たちは美味しいケーキを出しても反応が無くて詰まらないそうだ。
まぁ、正直、ケーキを食べて美味しそうな笑顔を浮かべる一之瀬なんていうのはちょっとホラーだ。
二人に見送られるように特別室を後にすると、再びエレベーターで降りていく。思ったよりも受け入れられていてホッとしたのも確かだったけど、全く反対されないことにも驚いた。
知ってる、んだよね? あれ、これでもし知らなかったりしたらどうすればいいんだ? きちんと話すべきことじゃないか、これは。もし、後でスパイみたいなことで疑われるのもイヤだし。
だからこそ一之瀬に声を掛けようとしたところで、エレベーターの扉が開く。そこは地下駐車場で思わず「え?」と声が出た。けれども、一之瀬は全く気にした様子もなく菜枝の腕を掴み歩いて行く。
そして一台の車の前に止まると菜枝の腕を掴んだまま助手席の扉を開けた。一度乗ったことがあるから、それが一之瀬の車だというのは分かるけど、どうしてこう唐突なのか説明くらいはして欲しい。それでも一之瀬がマイウエイなのはいつものことなので、小さく溜息をつきつつ助手席に腰を落ち着けた。しっかりとシートベルトを締めている間に運転席に一之瀬が乗り込み、菜枝よりも手慣れた動作でシートベルトをつけると車のエンジンを掛けた。
「それで、どこへ行くつもりよ」
「俺の家。聞きたいことが色々あるからな」
ん? と思ったのはこの時になってからだった。けれども、チラリとこちらを見た一之瀬が意地悪く笑うのを見て慌ててシートベルトを外すために手を掛ける。
マズい、これはもしかしなくても機嫌が悪い。何か両親の前で失敗したのかと考えてみるけど思いつくことなんてない。慌てれば慌てる程シートベルトは外れなくて無情にも一之瀬の声が車内に響く。
「遅い」
その言葉と共に車は走り出し、菜枝は泣きたい気分になってくる。これはもしかしなくても踏んだり蹴ったりという奴じゃないだろうか。いや、菜枝はそう思っても一之瀬はそうは思っていないに違いない。
「……罪状は何でしょう」
「他の男にホイイホイついて行くからだ」
「そ、それはもう時効ということで忘れちゃったり」
「しないな。諦めろ」
「えー……、それは、その」
「何だ、はっきり言え」
傍目に見てもイライラしてるのが伝わってくる。でも、菜枝はどうしても確認してみたくなった。
「……嫉妬してる?」
「悪いか?」
「あ……イエ、ゼンゼン」
だってまさか、あの一之瀬が嫉妬するとかありえないみたいに思ってたから意外性が高すぎるし、しかもそれを素直に認められたりするもんだから、菜枝としてはからかうことすら出来ない。いや、下手にからかえば間違いなく一之瀬だけじゃなく自分もダメージを受けるのは目に見えている。
でも待てよ、嫉妬してて不機嫌……それって無茶苦茶立場ヤバくないか?
「あ、あのさ、一之瀬、私としては出来たら今日は家に帰りたいかなーとか思ってるんだけど」
「却下」
「いや、でも明日から仕事だし」
「休みは明後日までと聞いてるが?」
「とにかく! 家に帰る!」
「却下。諦めろ、自業自得だ」
「それはない。少なくとも私は悪くない、はず……多分」
徐々に声が小さくなるのは自信がある訳じゃないからだというのが、菜枝的にはかなり情けない。確かに塚本と二人というのは菜枝だって微妙だと思うし、逆の立場なら多分怒る。いや、多分激怒?
待て待て、でもここで一之瀬についていくのは飛んで火に入るなんとやらという自覚くらいはある。少なくともこうして見ているだけで不機嫌オーラは漂ってる訳で、出来ることならお近づきしたくない。一之瀬の家に行けば、それこそ延々と一之瀬の嫌味を聞かなければならないに違いない。そんな苦行は絶対にイヤすぎる。
だからこそ、信号で止まった瞬間に扉のロックを外すと、逃走の為に車を扉を開けようとした。けれども、素早くロックが掛かってしまい思わず背後の一之瀬へと振り返る。しっかり一之瀬の右手はドアロックに掛かっていて、ロックを開けた途端に閉められたことが分かる。目が合った一之瀬に菜枝はへらりと笑ってみるけど、一之瀬は無表情のままで動じることも無い。
「……三十分延長」
「説教か? これ以上説教かます気か!」
「自業自得だ。それから車というのはシートベルトを外さないと車からは降りられない。本気で馬鹿だな」
悔しいことに、一之瀬に言われる通り菜枝はシートベルトをつけたままで歯噛みする。もの凄く言い返したいところだけど正論すぎて菜枝は口を噤むと、一之瀬から顔を逸らして窓の外へ視線を向けた。既に夕暮れから夜へと変化した外は楽しいものはなく、ガラス越しに見える一之瀬の顔は相変わらず無表情だった。

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