Chapter.VII:理想の結婚 Act.1

家の中でぽつんと一人でちゃぶ台の上にある物を複雑な気持ちで菜枝は眺めていた。古びた電気にも関わらず、輝きは素晴らしく菜枝の目には煌めいて見えるのは多分気のせいじゃない。
これをどうしろと……いや、どうするつもりだ、自分は。
もうこの言葉を思ったのも既に何度目になるか分からない。ぼんやりというよりかは、呆然というのが正しいかもしれない。煌めくそれの蓋は開けてみたものの、まだ手に取る勇気は無く、大きく溜息をついて蓋を閉めた。正直、目にも心にも毒だ。
今日、嘉門たちの結婚式中に押し付けられたといっていいその箱は、予想通り指輪が入っていた。しかも、宝石店の窓越しにしか見たこともないような立派なダイヤのついたそれに菜枝は非常に複雑な気持ちでいっぱいだった。
確かにお付き合いなるものはしてる。というか、それ自体、世界の七不思議に数えてもおかしくないと菜枝は思う。それなのに、何がどうしてこうなったのか誰か説明して欲しいくらいだ。
確かに好きだとは言われた。ただ、一之瀬は一体菜枝のどこか好きになったのかさっぱり分からない。いや、そういう意味で言えば、菜枝自身も一之瀬のどこか好きかと問われたら応えられないからお互い様なのかもしれない。
口を開けば嫌味満載だし、すぐ人を小馬鹿にするし、イヤな要素なら探さなくたって数えられる。それなのに好きだというのは、菜枝にとってまさに人類の七不思議でもあった。
不意に玄関のチャイムが鳴り、慌てて玄関へと視線を向ける。それから時計へ視線を向ければ既に十時を回っていて人が訪ねてくる時間では無い。だからといって無視する訳にもいかなくて、立ち上がると玄関の扉を開けた。チェーンをつけたまま開けた扉から覗いた顔は見慣れた顔だった。
「遅くにごめん。携帯に電話したけど出なかったから」
「え? ごめん、全然気づかなかった! 今開けるからちょっと待ってて!」
一旦玄関の扉を閉めてチェーンを外すと、大きく扉を開けて中へ入るように伝えると苦笑されてしまう。
「相変わらず危機感足りないね、菜枝は」
「危機感? きちんとチェーン掛けて出るくらいの危機感はあるけど」
「まぁ、いいけど。閉め出されたら僕としても悲しいし」
言いたいことがよく分からないけど、家の中に入った優にクッションを一つ渡してから菜枝は手早くインスタントコーヒーを作ると優の前に置いた。
「それでどうしたの? 珍しいじゃん」
「一つは携帯に出なかったから心配だったのと、一つはこれ」
そう言って優が差し出してきたのは一通の手紙。表書きは優宛のもので裏を返せば優の母親の名前が書いてあった。
「見てもいいの?」
「うん、菜枝に見て欲しくて持ってきた。あれ、それ……」
優の視線の先にあるのはビロードに包まれた小箱で、菜枝は慌ててそれを掴むと机の引き出しに放り込んだ。
「あ、あはははは、あれは別に大したものじゃなくて」
「結婚するの?」
「いや、まだそういう展望は無いというか、想像も出来ないというか」
「でも、プロポーズされた?」
「う……ん?」
確かに押し付けられたとは思うけど、それらしい言葉はあいつの口から聞いていない。ただ、話しの内容からそういうことだろうと思ったけど、これといった言葉は聞いていない。
「あれ?」
「菜枝、余りうるさいことを言うつもりは無いけど、結婚は慎重に考えた方がいいと思うよ。まぁ、僕としてはぜひとも別れてくれたら嬉しいくらいだけど」
「さらりと恐ろしいことを言うな! えっと、取り合えず、これ見せて貰うから」
それに頷いた優は既にコーヒーに口をつけていて、菜枝はそれを視界に納めながらも手紙の封を開く。開くと言っても既に優が読んだらしく封は開いていて手紙を取り出した。数枚に渡る長い手紙で、最初は健康を気遣う言葉、そして菜枝の心配、そこからが本題でもあった。
「……優、これ冗談?」
最後まで読み終えた菜枝が優に声を掛ければ、優は大きく溜息をついた。
「僕もね、まさかと思って折り返し電話したんだけど、どうも本当らしいんだ。母さんは菜枝の連絡先を教えなかったし、住所とかも知らせなかったって言ってたけど、いずれ調べがつくかもしれない」
「調べって、そういうところに頼むかもしれないってこと?」
「だって相手、うちのホテルと同じくらいの規模があるよ? それこそ探偵の一人や二人雇ってもおかしくないでしょ」
確かに優の言う通りかもしれないけど、俄に信じられない。ライクスホテルがライバルとしているセンチュリーホテルの経営者がお爺さんなんて、普通にありえないと一刀両断したところだ。でも、優のお母さんがそういう嘘や冗談を言う人では無いことは菜枝だって短い付き合いじゃないから知っている。手紙からも酷く心配していることが伺えた。
「取り合えず、親の遺品、少し探してみる」
「ガセの可能性あるかもよ。菜枝の場合、今ある意味有名人だし。あぁ、それこそ一之瀬さんに頼んでみたら」
「こんなプライベートを?」
「プライベートだけど頼める仲でしょ。こんなこと僕に言わせないでよ」
「うっ……」
いや、だからといってさすがに家のゴタゴタまで一之瀬に投げられる筈も無い。少なくとも、これが本当だとしたら自分はライクスホテルにいられない可能性もある。
「あ、それはイヤかも」
「何が?」
「もし、もしも、ガセじゃなかったらどうなると思う?」
「相手次第じゃない? もし菜枝のお爺さんだったとして、帰って来いとか言われて帰る?」
「無理。だって、お父さんたちが連絡すらしなかった人だよ? 何で私が行かないといけないのよ」
「だろうね。だから別にそこまで深く考える必要は無いと思うよ」
「そっか、そうだよね」
そんな会話をした翌日、自体は考えてもいない方向へシフトしていた。朝、いつものようにホテルに向かえば、更衣室前には一之瀬が腕を組んで待ち構えていた。憮然としたその表情からも不機嫌さは十分に伺えて、思わず後退したい気分にさせられる。
「おはよう」
それでも声を掛ければ、こちらに気づいた一之瀬はこちらが一歩を踏み出すよりも先にズンズンと近づいてくると、菜枝の腕を掴むなり歩き出した。
「ちょ、ちょっと!」
「いいから来い」
文句は受け付けないとばかりに歩き出し、そのまままだ人のいないラウンジを通り打ち合わせ室へと連れ込まれた。
「昨日、菜枝の家に誰か行かなかったか?」
「誰かって……優が来たけど」
「何故家の中に入れた?」
「はい? 何でそれをあんたが知ってる訳?」
「色々と聞かされたからな」
一体、誰に何をどう聞かされたのか知りたいところだが、何だかこの問い詰められる状況というのが一番気に入らない。
「で、何が言いたい訳?」
「むやみやたらに他人を、しかも男を家に入れるな」
「だって優だし」
「あいつはお前に惚れてるんだろ。馬鹿か」
「えー、えー、どうせ私はバカですよ。それに優はそういうつもりで家に来た訳じゃないから!」
「本気で馬鹿だな。何かあってからだと遅いんだが」
「別に何も無いって言ってるんでしょ! 優は兄弟みたいなもんなの! それくらい分かりなさいよ」
「分かる訳ないだろ。普通に菜枝と佐伯は血の繋がらない男と女だろ。もう少し危機感持ったらどうなんだ」
言いたいことは少しだけ分かる。でも、こう頭ごなしに言われるとムカつくし、本当に優はそんなつもりで家に来た訳じゃない。だからこそ余計にムカつく。
「危機感? 危機感なんてあんた相手にいつでも持ってるわよ!」
そういう意味ではずっと一之瀬の方が危険度が高い。少なくとも優の方が絶対紳士だし、こいつみたいに強引じゃないし、言いくるめるようなことはしない。
「お前、本当に馬鹿だな」
溜息つきの呆れたような声に、頭の片隅でプチッと切れた音が聞こえた気がした。
「どうせバカですよ! こういうバカは放っておいてあんたは好きにすればいいでしょ! 一々、バカバカ言わないでよね!」
それだけ言うと一之瀬を置いて部屋を飛び出した。背後で一之瀬が呼ぶ声は聞こえたけど、立ち止まるつもりは全く無い。
基本的にバカなのは自覚済みだけど、何度もバカと連呼されて腹の立たない奴はお笑い芸人くらいだっての。しかも、慌てて追いかけてくるとか、そういうこともしないところが本気でムカつく。それなら追いかけられたら絆されるのかと言えば、余計に腹が立つのが目に見えているから人間は複雑だ。
更衣室に入りそこにいた数人と挨拶を交わしながらも手早く着替えてしまうと、菜枝は昨日から考えていた通り事務所に向かい既に席へ座る福永の元に足を向けた。
「おはようございます」
「おはよう、どうかしましたか?」
「実は明日から三日程有給を取りたくて相談に来ました」
「それはまた、随分急なお話しですが何かありましたか?」
「人生に関わりそうなことが色々と」
真剣な顔でそれだけ言えば、福永はさもおかしそうに笑い出す。でも、実際、菜枝には笑い事じゃない。両親の荷物は殆どがレンタル倉庫に預けてあるので、あれを引き取って荷物を整理するとなれば随分時間が掛かるに違いない。
「分かりました。まさかそこまで早く事が動くとは思っていませんでしたけれども、今は暇な時期ですしシフトはどうにかしましょう」
「有難うございます。そしたら、明日から三日程休暇をいただきます」
「有給休暇の書類を帰りまでに出しておいて下さい」
「分かりました」
一礼して自席へ戻ったところで首を傾げる。福永は事が早く動くとは思っていなかったと言っていたが、一体、何に対して事が早く動くと思っていたのだろう。気になって問い掛けようと思ったけれども、福永は朝の定例会議に出るために書類をまとめて部屋を出て行ってしまったので問うことは出来なかった。しばらくすれば隣に一之瀬が来たけど、向こうから話し掛けてくることは無い。
明日からの三日間の間に予約が入っていないことを確認して、今日の予約を確認しながらぼんやりと考えてしまう。一之瀬は誰かから聞いたような話しをしていたけど、一体、誰に何を聞いたのか気になる。もしかして、ストーカーの如くつけられているのかとも考えたけど、一之瀬がそこまでするとは思いたくない。
だとすれば一体誰が……。
そんなことを考えている間に時間は過ぎていたらしく、朝礼がいつものように始まる。けれども、菜枝とはしては隣に座る一之瀬のことが気になって仕方ない。一体、誰が一之瀬にわざわざ菜枝と優が会っていたことを言ったのかそればかりが気になる。一層のこと、直接一之瀬に聞いてしまおうかと思わなくも無いけど、どうにも話し掛けるなオーラが出てるような気がして声も掛けられない。
朝礼も終わりラウンジへ移動すると、すぐに福永に声を掛けられて新規のお客さんについたりして結局、昼休みを終えても一之瀬に声を掛けることが出来ずにいた。
菜枝の昼食が終わり午後一で、福永に呼び止められた。
「常磐さん指名のお客様がお待ちしていますのでお願いします」
そう言って福永が示した先にはコーヒーを飲んでいるスーツ姿の男性がいて、珍しいと思いつつファイルを片手に席についた。
「お待たせ致しました。常磐と申します」
「こちらこそ宜しくお願い致します」
打ち合わせに女性一人ということはあっても、男性一人ということは非常に珍しい。もし、男性一人で来る場合には、大抵両親が一緒だったりするものだけど、この人はどうやら本当に一人でここへ来たらしい。どこか堅い職業を思わせるようなきっちりと着込まれたスーツと無表情に少しだけ違和感を覚える。
「私はこういう者です」
そう言ってこちらが名刺を差し出すよりも先に名刺を出されてしまい、慌てて菜枝も名刺交換に応じる。そして、相手の名刺を手にした途端、名刺から勢いよく顔を上げて相手の顔を凝視する。名刺に書かれた肩書きはセンチュリーホテル専務、塚本と書かれていて、昨日、優に見せられた手紙を思い出す。
「結婚式、というお話しでは無さそうですけれども」
「えぇ、相手がいないので結婚する予定はありませんね」
「それでしたら、何故私を指名してこちらまで?」
「当ホテルへの引き抜きに参りました」
そう言って堂々と茶封筒を取り出すとこちらへと差し出してくる。けれども、菜枝はその封筒を開くことなく塚本の前へと返した。
「応じる予定は全くありません」
「ここの倍の給与を支払うつもりですが」
「給与の問題では無く、私はこの職場が気に入っているので」
実際、今までに引き抜きの話しが無かった訳じゃない。それでも、菜枝はここに残りたい、このホテルにいたい、そう思う気持ちがあったからこそ今まで断ってきた。ただ、まさかこんな正面きって乗り込んでくる人間は一人もいなかっただけに、微妙な気分にさせられる。
「当ホテルと常磐さんの関係が深いものだったとしたらどう致しますか?」
あ、やられた、と思ったのはこの言葉を聞いた時だった。
少し大きな声だったのはわざとに違いない。視界の端でこちらを見るスタッフの顔は興味津々というものだ。
「どうもしません。今までお付き合いもありませんでしたから他人ですよ」
「……また改めて連絡させて頂きます」
「必要ありません。どうぞお引き取り下さい」
嫌みなほど笑顔を向けたけど、塚本は気にした様子もなく茶封筒を再び鞄の中へしまうと椅子から立ち上がる。それに合わせて菜枝も立ち上がり、いつものようにエレベーター前で見送りすると小さく溜息をついた。
これは正直、面倒なことになったと思う。確かに菜枝としてはセンチュリーホテルとライクスホテルは同等規模だと思っているけど、中にはセンチュリーホテルの方が格上と見る人間もいる。そんなところから引き抜きの話しが出た、しかも身内かもしれないとなると、それなりに疑心暗鬼になる人間も出てくるに違いない。
せめて嘉門や楠木がいる時であれば、こういう噂も一掃してくれただろうけど、その二人は今は新婚旅行で海外へ旅立っている。いやいや、この時点で二人を頼ろうとするのが間違えているかもしれない。菜枝は気合いを入れ直すと、まずは一番に報告しなければならない福永の元へと近づくと声を掛けた。
「お騒がせして申し訳ありません。今後、この方がきても担当を外して貰いたいのですが」
「そうですか、分かりました。余り気にする必要はありませんよ」
もしかしたら、何かしら言われると思っていたのに福永の反応は穏やかな笑みを浮かべたいつものもので、驚く程に反応が薄い。近くにいたから話しは聞いていた筈だけど、菜枝が突っぱねたから福永は気にしないということなのだろうか。だとしても、多少の探りは入りそうなものなのに、菜枝にとっては意外でしかない。
もしかして、福永の元には既に打診があったのか、それとも福永自身が塚本と見知った仲なのかと考えて小さく首を横に振った。
もしも、もしかしたら、そういうことは仕事上で考えても仕方ない。どうせそれを考えるのであれば、事態が起きる前により多くのもしもを考えておかないと意味が無い。少なくとも、菜枝としては優から聞いていた時点でもしもを考えておくべきだったのだと思うと多少なりともへこむ。
ただ、いつまでもそんなことに引きずられたくないし、今は分からないことが多すぎるからこそ、塚本のことは忘れることにした。その日は微妙にスタッフからも遠巻きにされながらも業務を続ける。最終のお客さんが長引いてしまったこともあり、仕事が落ち着いて一之瀬のことを思い出した時には既に帰った後だった。
帰ったのであれば仕方ないということで、着替えてその足でレンタカーの店に駆け込み軽のワゴンを一台借りるとレンタル倉庫まで走らせた。運転するのはかれこれ二、三年ぶりだけど以外とどうにでもなるものらしい。レンタル倉庫の建物に入るとセキュリティーカードを取り出して、カードを通すと幾つもの扉が並ぶ部屋へ入る。更にその扉の一つで再びカードを通して扉を開けば、そこには一畳に満たない程度の個室になっていて、幾つかの段ボール箱が積み上げられている。
両親を亡くして呆然としていた菜枝に変わり、両親の荷物をまとめてくれたのは優だった。だから、実際にこの段ボール箱の中に何が入っているのか菜枝には分からない。本来ならもっと早く片付けるべきだったと思うけど、忙しくて手つかずのままだった、というのは今なら言い訳だと分かる。でも、いつまでもこのままでいいとは思えないし、丁度タイミングとしては良かったのかもしれない。
自室に十以上ある段ボール箱を入れると、その足でレンタカー屋に車を返してから家に戻ると、一つずつ段ボールを開けていった。両親が死んでしまった時、菜枝は自失呆然といった感じで、優と優の両親が荷物を纏めてくれた。
だから、実際、菜枝には何が入っているのか分からずにいたけど、それでも段ボールには最低限の内容が書いてあり色々悩みながらも洋服の類は全て処分した。貴金属の類は箱のまま机の引き出しに片付け、両親が結婚前にやりとりしていた手紙も後で読むことにして片付けた。それ以外の小物も心を鬼にして不要品は細々と処分してしまう。
出来ることであれば全て取っておきたいけれども、それが許されるだけのスペースが菜枝には無い。だからといっていつまでもトランクルームに預けたままには出来ないし、したくは無かった。それではいつまでも両親の思い出を置き去りにしている気がしてならなかった。
ただ、寂しさがない訳じゃないから、心境としてはかなり複雑な気分だったけどそれでも菜枝は四つの段ボール箱を解体したところでその日は眠りに落ちた。
翌日から食事も忘れてひたすら両親の物を片付けていると、一つの段ボール箱の中から母子手帳などと一緒に母親の日記を見つけることが出来た。夜までひたすら片付けをして、シャワーを浴びて一段落してから布団の上に転がりながら日記のページを開く。
懐かしい文字が綴られていて、菜枝が生まれた時の喜び、育てることの大変さなどが書かれていて涙が滲んでくる。その日記には幸せな時が綴られていて懐かしく感じ、菜枝が物心ついた頃に書かれたイベントなどは菜枝にも思い出すことが出来る。
今だから懐かしく、穏やかな気持ちで読めるのだともう知っている。涙は出てくるけど、それは決して悲しみの涙では無かった。
日記を捲りながら菜枝の一日目の休暇は終わり、電気を消すこともなく眠りに落ちた。

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