日常業務プラス嘉門たちの結婚式となると、最初の打ち合わせくらいなら良かったけれども準備段階に入ると徐々に残業が増え出した。それに合わせて徐々に指名のお客さんも増え出したことも重なり、気付けばかなりの忙しさに足を突っ込んでいることに気付いた。
美華子が言うには、お勧めとしてネットに菜枝の名前が上がっていたことも大きいらしい。口コミというのは中々恐ろしい。実際にホテル名も名前もイニシャルだったらしけれども、それでも客足が増えるのだからネット様々としか言いようが無い。
時折、結婚雑誌の取材を受けることもあり、いつもの業務をしているだけで菜枝を指名する客は随分と増えていた。そんな中、どうしても書類が片付かないことがあったりして、料理スタッフと打ち合わせをして事務所に戻ると書類が片付けられている日が出て来た。
わーい、小人さんがやってくれたの! と言えるほどお子様でも無い。その字を見れば、誰が片付けてくれたのかは見ただけで分かる。だからと言って、恩を押し付けてくるようなことはしない。恐らく、見かねてというところなのだということは分かる。いつかお礼をしなくちゃいけない、そうは思うけれども目前に迫る忙しさに完全に菜枝は振り回されていた。
十月、十一月は式場が書き入れ時ということもあり、まさに菜枝はくるくると目の回る忙しさでもあった。それでも、十二月に入れば随分と楽になり、忙しさの反動なのかぐったりと気が抜けてしまった。
「大丈夫か?」
不意に声を掛けられて顔を上げれば、一之瀬が無表情にこちらを見ていた。
「うん、まだ生きてる」
「死なれたら困るんだが。これから嘉門さんたちの打ち合わせに入っても平気か?」
「大丈夫。いける」
時計を見れば既に二十一時を回っていて、最近定時に帰った記憶が無いな、などとぼんやり思う。一之瀬と一緒に立ち上がり、シャンパンタワーとちょっとした余興をお願いしていたこともあり、ホテル内にあるバーへと向かうと裏口からマスターへと声を掛けた。
「すみません、ブライダルの打ち合わせに来ました」
「こんな時間にお疲れさん。何か出そうか」
「出来るならお願いしたいです。もうお腹ペコペコで」
菜枝が素直に言えばマスターは従業員の控え室で待つように言い、菜枝と一之瀬はそちらへと移動した。一之瀬の隣に菜枝は座ると、改めて一之瀬の方へと向き直る。
「あの、色々とありがとう」
「何のことだ」
「書類とか、その他色々、凄くフォローして貰ってる。本当に感謝してる」
「別に感謝する必要は無い。下心込みだからな」
「した……あんた、素直に礼くらいは受け取りなさいよね!」
思わず椅子から立ち上がりいつもの調子で言い返せば、菜枝を見上げていた一之瀬が口元に笑みを浮かべた。
「菜枝はその方がいい」
「はい?」
「疲れてるのか元気が無かったからな。それくらいの方が張り合いがある」
くー、変なところ見てるな。
実際、予約が多く入るようになってから、ひやかしの客も増えたのか打ち合わせが良い所までいっても結婚しないカップルが出て来始めた。確かに直前で婚約破棄なんて話しもあるからおかしなことでは無いけれども、福永が言うには他のホテルの偵察も入ってるんじゃないかという話しだった。でも、菜枝としては思っていたよりもショックも大きく、疲れも倍増というイヤな方向に向いていたこともあって空元気になりきれていなかったのかもしれない。
「別に私はいつでも元気ですよーだ」
「その方がずっとらしいな」
そう言って笑う一之瀬の表情には疲れなど無い。ここ最近は、一之瀬も紹介の客が増えてきて、更に売り上げを伸ばしている。嘉門が言うには、菜枝のお陰だろあれは、と言っていたけど、やっぱりそれは一之瀬の努力だと思う。
それなのに、菜枝のことまで手伝う余裕があるのだから小憎らしい。でも、感謝はしてる。
「今度、何か奢る」
「お前は礼と言えばそれしか無いのか」
呆れたような溜息に、菜枝としては言葉に詰まる。だって、他に礼のしようなんて思いつかない。ましてや一之瀬相手なのだから、更に思いつかない。
「じゃあ、何がいいのよ」
「菜枝の身体」
一気に自分の顔が赤くなったのが分かって、フイと一之瀬から顔を背けた。さすがに感謝していても、それはさすがにあげられない。
というか、冗談じゃない。あんな恥ずかしいのは一度で沢山だ。
「却下」
「それなら夕飯作れ」
「はい? それは私にあんたのおさんどんをしろと?」
「別にずっとしろと言ってる訳じゃない。外食に飽きた」
言われて不意に思い出したのは、前に一之瀬の言えで見た出前のファイルで思わず菜枝は笑いを堪えられずに噴き出してしまう。
「そうだよね、あれじゃ、確かに飽きるわ」
笑いの合間にどうにかそれだけ言えば、一之瀬は憮然とした顔をしている。確かに唐突に笑い出したのだから、面白く無いと思われても仕方ないに違いない。
「分かった。じゃあ、明日には」
「菜枝を待っている間やることが無い。書類、分けておけ」
「いや、それやって貰ったらお礼にならないし」
「暇なだけだ」
素っ気なくそう言うけど、こういう嫌味な口調で優しさを隠してしまうところも最近は分かってる。でも、ムカつくものはムカつく。
「暇してればいいでしょ」
「可愛く無いな」
「私に可愛さ求めるな」
つい憎まれ口を叩くのもいつものことで、一之瀬は全く気にした様子も無い。でも、そんな遣り取りがどこか心地いいと感じるのは、それだけ気を使わなくてもいい相手だからかもしれない。
ノックの音がしてオーナーは両手に皿を持って入って来ると、途端にお腹の虫が騒ぎ出す。結構大きな音だったこともあり、隣に座る一之瀬がプッと笑いを噴き出す音が聞こえたけど、それは聞こえないふりをしてオーナーへと笑顔を向けた。
「こんなものしか用意出来なかったけど」
「全然構わないです。えっと、余り時間取ると悪いので、食べながらでもいいですか?」
「こちらは全然構わないですけれども、消化に悪くありませんか?」
「大丈夫です。あ、でも、折角作って貰ったのに悪いですよね。それじゃあ、とっとと打ち合わせを先にしちゃいましょう」
「いいですよ。私はまだ勤務時間ですから、食べ終わったら声を掛けて下さい」
穏やかな笑みを浮かべたマスターはそのまま部屋を出て行ってしまい、再び部屋には菜枝と一之瀬の二人が残される。静かな部屋の中で、一之瀬がボソリと呟いた。
「意地汚い」
「仕方ないでしょ。この時間になれば人間お腹だって減るんだから」
「俺は減ってない」
「あんたのお腹と一緒にするな」
そんな言葉を交わしつつも、マスターの持って来てくれた割り箸を勢いよく二つに割った。
* * *
翌日、残業にはまりそうになった菜枝を助けたのはやっぱり一之瀬だった。溜めてあった書類を片付けようとした時には既にサインを入れるだけの状態になってきちんと重ねられていて、思わず菜枝としても唖然としてしまう。
報告書の類いはまだ残っているけれども、それでもプランなどの書類関係や披露宴の打ち合わせなども一之瀬がこなしてくれたらしく、益々頭が上がらない気がする。
「うー、有難うございます」
隣に座る一之瀬に顔を向けることなく、渋々とお礼を言えば「早く終わらせろ」と冷たく返ってきた。
どうやら余程早く帰りたいらしい。そんなに家庭料理なるものが食べたいなら自分で作ればいいのに。
そんなことを考えながらも休憩中に終わらなかった書類を全て終えると、福永のデスクの上に置いた。
福永は本日は奥さんの誕生日ということで定時に上がっている。夜の披露宴も無かったから出来る技でもあったが、もしかしたらそれすらも計算していたのだったら凄いと思う。ただ、最近、福永のあの笑顔はあれはあれで、結構くせ者だったりするんじゃないかとちょっと思い始めてもいた。
自分の机に戻れば既に一之瀬の姿は無く、菜枝も着替えるために更衣室へと向かう。
冬は楽でいい。制服のブラウスに上からカーディガンを羽織ると、その上からコートを着てしまうだけでいい。どうせ制服を着ていたところで、コートを着るから見える訳でも無い。これにマフラーを巻けば完璧で、菜枝は鏡で軽く確認してから更衣室を出た。
もしかしたら、そこで一之瀬が待っているかと思ったけど一之瀬の姿は無い。不思議に思いながら従業員口から出れば、何故かこの寒い中、一之瀬は外にいた。ただ、一之瀬は微妙な顔をして通りの小さくなっていく人影を見ていた。
「一之瀬?」
声を掛ければ、我に返ったかのようにこちらへと振り返ると、さりげなくコートのポケットへ手を入れた。長身なだけに、そんな格好も似合ってはいる、ムカつくくらいに。
「ごめん、お待たせ。誰かいたの?」
「嘉門さん」
「あれ、先輩も今帰りだったんだ」
「あぁ……行くぞ」
そう言って歩き出した一之瀬のコートの背中を菜枝は慌てて掴む。振り返った一之瀬は不機嫌そうな顔をしていたけど、それにも劣らず菜枝も不機嫌そうな顔を返す。
「買い物。あんたんちに食材はある訳?」
「……無いな」
「だったら先にスーパー」
そう言って菜枝は一之瀬の背中から手を離すと、反対方向へと歩き出す。
食材も無いのに一之瀬の家に行っても何も作る事なんて出来ない。少なくとも、菜枝には霞から料理を作る技術は持っていない。
文句を言うことなく一之瀬は後ろからついてきて、スーパーでも菜枝が買っているものに口を出すこともしない。ただ、珍しげに野菜を見て質問してくることはあったけど、その様子からも全く食事を家で作ったことが無いことは伺えた。会計する時に菜枝が払おうとしたけれども、結局強引に一之瀬が払ってしまう。
これじゃあ、本当にお礼になるんだか。
そんなことを思いつつ一之瀬と二人で家に向かって歩き出す。そして、家に向かう段階になって、はたと気付く。
あれ? 私、本当にいいのか? 抱きたいとか言ってる男の家に行って、本当に食事だけで済むのか?
そんなことを考えた途端、歩く速度が急激に下がった。
「菜枝?」
離れたことに気付いた一之瀬が振り返ってこちらを見ている。けれども、その表情はいつもの一之瀬で、別段変わった雰囲気は無い。
気のせい、気のせい。
言い聞かせてみるけれども、何か予感するものは確かに感じていた。
一之瀬の家に入るなり、菜枝は一之瀬が持っていた食材を受け取るとキッチンへと入った。もし、鍋の類いが無かったらどうしようかと思ったけれども、それはもう豪華な鍋類が揃っていた。ただ、鍋類も炊飯器すらも箱に入ったままだったが……。
それらを全て洗い、それから食材を切っていく。時折、一之瀬の視線はビシビシと感じていたけれども、それは全て無視して料理に専念するふりをした。
大根と水菜が安かったこともあって、結局テーブルに並べた料理は牛スジ大根と水菜のサラダ、ブリの照り焼き、そしてご飯にみそ汁、ついでに赤かぶのお新香もつけてみた。
「口に合うかは自信無いけど、食べられないってことは無い筈」
驚いたことに一之瀬の家には箸すら無く、幾つかあった出前でついてきたらしき割り箸を差し出した。自分用に作ることはあっても、こうして人に食べさせるために料理を作ったのはもう何年ぶりになるか分からない。それこそ、まだ学生の頃は優が食べに来たりもしていたけど、優が仕事を初めてからは外食するようになった。
だから久しぶりすぎて、他人が好む味付けというのがよく分からない。不安に思いながらも、一之瀬が食べる様子を伺っていれば、みそ汁を飲んだ一之瀬は少し驚いた顔をして菜枝へ視線を向けてくる。
「え、不味かった?」
「いや、逆だ。これ、普通のみそか?」
「まぁ、味噌は普通だけど、いりこで出汁を取ってるから」
「ふーん」
分かったんだか分かってないんだか、非常に曖昧な返事をした一之瀬は次々と口へと運んでいく。逆ということは、美味しかった、と受け取っていいんだと思う。でも、菜枝としては逆とか言わないで、素直に美味しかったって言え、と思ってしまう。
途中、料理の説明を求められて説明をしながらご飯を食べると、何だか落ち着いた気分になってしまう。
「お茶飲む?」
「うちにそんなものは無い筈だが」
「お茶の葉も買った。いる?」
「いる」
答えは端的で菜枝は椅子から立ち上がると、唯一箱に入っていなかったやかんでお湯を沸かす。本来なら急須でお茶を淹れた方が美味しいけれども、この際文句も言ってられない。お湯が沸く間、一之瀬は新聞を読んでいて、キッチンに立つ菜枝は何だかおかしな気分になってくる。
何でこんなにほのぼのしてるんだろう、不思議だ。
そんなことを思いながらも沸いたやかんの中にお茶の葉を淹れると、念のために買って来てあった茶こしでカップにやかんからお茶を注ぐ。カップといってもマグカップなところも、もう何だかやけくそな気分にさせられる。むしろ皿やカップがあっただけでも大したもんだ、とすら思うから末期かもしれない。それくらい、このキッチンには人の手が入った気配が無かった。
「どうぞ」
淹れたばかりのお茶を渡せば、すぐに新聞を畳んだ一之瀬はそれを受け取りすぐに口をつける。猫舌な菜枝としては、何だか羨ましい限りだ。
一之瀬の向かいに腰を落ち着けると、自分の分であるカップを口元に近づけて息を吹きかける。とにかく冷めないことには飲めない。
「さてと、そろそろ返事を聞かせて貰いたい頃なんだが」
「返事? 何の?」
「告白の」
一瞬、頭が真っ白になって思わず手にしていたカップを取り落とすところだった。
「と、突拍子が無さ過ぎるんだけど」
「なら、ここへ来る段階で予想していなかったのか?」
「してなかった……多分」
「そういう無駄な嘘はいらない。返事を寄越せ」
「っていうか、それが返事を求める言葉か、あんたは!」
「だが、自覚はあるだろ?」
自覚、これが果たして自覚というのだろうか。菜枝としては認めたく無い、と頭の中で叫んでいるのだけど、これが自覚か?
「イヤだー、認めたく無いー」
心の中で叫んだつもりだったけれども、思わず口をついて出てしまい、一之瀬の不機嫌そうな視線とぶつかる。
「あ、あははは、ごめん。今のは無しで」
「お前に色々期待した俺が馬鹿だった」
溜息を共に眼鏡を外した一之瀬は、眼鏡を折りたたみテーブルへと置いた。そして真っすぐな視線とぶつかると、菜枝はコクリと唾を飲み込む。
不意に一之瀬が立ち上がったかと思うと、テーブルを回り込んで菜枝へと近付いてきて慌てて菜枝はカップをテーブルに置いた。
「ちょ、ちょっと待ったー!」
「もう随分待ったつもりだが?」
「いや、でも待て!」
「残念だが時間切れだ。あれからもうどれだけ経ったと思う」
確かにあれを言われたのはまだ残暑の頃だった訳だから三ヶ月近くは経ってると思う。告白の返事としてはかなり待たせている自覚はあるけど、でも、認めたく無いんだからしょうがない。
「だって、認めたく無いし」
「ようは好きってことだろ、それは」
「うー、だってさ、それ認めたら私の中の何かが瓦解する気がする」
「別にそんなもの一つ瓦解したところで、お前が変わるとは思えないが」
「でもさ」
「もういい、黙ってろ」
伸びてきた手が菜枝の肩を掴んだかと思うと、一之瀬がゆっくりと屈み込んでくる。近付いてくるその顔に耐えられなくて、菜枝はギュッと目を瞑った。ゆっくりと近付くと、唇に触れる柔らかな感触と体温。ただそれだけなのに、酷くその行為が恥ずかしい。
更に続きがあるのかと身を強張らせていれば、一之瀬は予想外にも離れていった。恐る恐る目を開ければ、そこには勝ち誇った顔で笑みを浮かべる一之瀬がいて訳が分からない。
「何で笑ってる訳?」
「逃げないことが全ての答えだろ」
「それは、あんたが肩を掴んでたりするから」
「でも、菜枝なら嫌だったら殴ってでも逃げるだろ」
いや、まぁ、確かにそう言われたらそうかもしれないけど。うん、確かに殴るなりするなりの時間は与えられていたと思う。
「これから菜枝を抱く」
「いや、無理です! あんなのもう絶対に無理!」
「大丈夫だ。かなり良かったからな」
「私は良くない!」
それでも強引に腕を取られて椅子から立たされると、一之瀬に引き摺られるようにして寝室へと足を向けてしまう。
でも、違う。それだとダメだと思う。
だから、菜枝は力一杯足を踏ん張って歩みを止める。振り返った一之瀬の顔はやっぱり不機嫌で、それじゃあダメだと分かる。
「待って、ちょっとだけ待って」
「十秒待つ」
そう言って一之瀬も強引に進むことなく足を止めてくれる。取り合えず、そのことにホッとしながらも菜枝の頭は高速回転していた。
このまま、もししちゃったら一之瀬が悪者になるのは分かりきってる。でも、この状況で一之瀬を悪者にしたら一生後悔する気がする。だからって、じゃあ、何を言えばいいかっていうと、それは……。
「うー」
「時間切れだ」
溜息混じりにそう言われて、菜枝の足が宙に浮くと同時に横抱きにされてしまう。
「だからちょっと待っててば」
「待っただろ、きっちり十秒」
「もっと待ってよ!」
「無理だ」
「無理じゃない」
「無理だ」
そんな遣り取りを繰り返している間に寝室のベッドの上に下ろされる。
ダメなのに、このままじゃダメだって思ってるのに。ならどうすれば一番てっとり早く伝わるのか。
菜枝に思いついたのは一つしか無かった。覆い被さってくる一之瀬の襟元を両手で掴むと、強引に引き寄せる。それと同時に菜枝も一之瀬の唇に唇を重ねた……つもりだった。
ガツッと激しい音がして、襟元を離した菜枝は思わず口元を押さえる。
「痛い……」
「それはこっちの台詞だ、馬鹿」
そう言いながらも一之瀬も口元を押さえていて、しかめっ面をしている。菜枝も痛かったけど、一之瀬もあの勢いだったからかなり痛かったに違いない。
「どうしてそう、やることに突拍子が無いんだ」
「だって、ダメだと思ったの! きちんと言わないと!」
「何を」
「一之瀬のこときちんと好きだって」
……あれ? 何か今、もの凄くサラリと告白してしまった気がする。
恐る恐る一之瀬を見上げれば、呆れたような顔で菜枝を見ている視線とぶつかる。そして深々と溜息をつかれた。
「お前は俺を煽る天才だな」
「別に煽ったつもりは無いから! ただ、このまま……んんっ……」
言葉途中で一之瀬の唇に塞がれて、続く言葉は出て来ない。口内に入り込んだ舌は縦横無尽になで回し、この間のキスなんて目じゃないくらい激しいものだった。
「ふっ……んっ……」
飲み下せない唾液が口の端から零れ落ちて耳元へと伝う。それを指がぬぐい去り、ようやく嵐のようなキスから抜け出すと視線と吐息が漏れた。
「菜枝、好きだ」
真っ正面から見つめられて、それだけで心臓が痛いくらいキュッとなった。
この間とは全然違う一之瀬が目の前にいる。いつもの無表情だけど、その目が真剣でどこかやらしく見えるのは菜枝の気持ちがそう見せているのかもしれない。
「私も、多分」
「多分はいらない」
「うー……好き」
小さい声ではあったけど、言った瞬間に再び唇を塞がれてしまい、舌を絡めてくるのにぎこちないながらも答える。
一之瀬の舌と絡み合うたびに、どんどん思考が痺れていく。時折鳴るクチュという水音がまたやらしい響きで、更に菜枝を追いつめていく気がする。舌を吸われて甘噛みされると、もうそれだけで背筋がゾクゾクして色々なものが思考から零れ落ちていく。
「ぅん……ん……」
キスしている間にも一之瀬の手は胸元を弄っていて、スカートからブラウスを引き出すと脇腹を撫でる。途端に身体が震えてしまうけど、一之瀬からのキスは止まらない。
背中に回された腕がブラジャーのホックを簡単に外してしまうと、すぐに反対の手が胸元に伸びてきて掌が胸を包み込む。胸を揉みしだきながらも、時折先の方を指先で挟まれて摘まれると、のけぞりベッドから背中が浮く。途端に背中を指先で刺激されて、またそれが更なる快感を生み、じわじわと飲み込まれていくのが菜枝にも分かる。
唇が離れた時には、完全にブラウスのボタンは外されていて、スカートのホックも外されている状態で菜枝は小さく吐息を零した。
「相変わらず、手、早すぎ」
「こっちにも色々事情があるんだ。身体起こすぞ」
言うなり腕を掴まれて強引に起こされると、ブラウスからブラジャーから全て取り去られてしまう。胸元を隠してはみるけれども、すぐに一之瀬の手に拘束されて、見えた胸に一之瀬が唇を寄せる。舐められ、舌先で転がされ、そして時折甘噛みされるとジンと頭が痺れていく。
唇からはもう言葉にならない声しか出せなくて、どんどん追い上げられていくのが少し怖い。
「待って……んんっ…はぁ」
「お前が無駄に煽るのが悪い」
「それは、あっ……」
舌先が激しく胸の先端を刺激してきて、菜枝の言葉は宙に浮く。それと変わって、自分でも聞いたことの無い甘い声に菜枝はギュッと目を瞑るしかない。
ゆっくりとベッドに横たわったかと思うと、すぐにスカートと共に下着も取られてしまい、そんな菜枝をいつの間にかシャツを脱ぎ捨てた一之瀬が見下ろしている。
「見ないでよ」
そう言った菜枝の声はいつもよりもずっと弱々しいものだった。けれども、そんな菜枝に一之瀬は楽しそうに笑うと耳元に唇を寄せる。
「菜枝、好きだ」
名前を呼ばれて一言落とされただけなのに、震えが止まらない。一之瀬の舌が耳をなぞり、耳の中へ舌を淹れられるとグチュリと卑猥な音がして、聴覚からも刺激を与えられる。
「やっ……それ、や……」
「そんなことは無さそうだがな」
耳元で囁きながらも一之瀬の指が下肢をまさぐりだし、あそこに指を埋めてくる。途端に身体が震えるけれども、一之瀬の指は止まらず何度もそこを撫で上げる。もうそこは完全に濡れていて、菜枝としては泣きたい気分になってきた。
「やめ……あぁ……んんっ……っ…」
時折敏感な場所を掠める一之瀬の指先に翻弄されているのが自分でも分かる。
止めて欲しい、これ以上は知りたく無い。そう思うのに、一之瀬の指は止まらない。
そして、ゆっくりと指先が中へと入り込んでくると、さすがに菜枝の身体は一瞬強張る。
「大丈夫だ、痛く無いだろ」
「でも」
情けないくらい声が震えているのを自覚しながらも、一之瀬を見上げたけど、一之瀬は楽しそうな顔で自分を見下ろしている。何だか自分の余裕の無さが酷く恥ずかしい。
「菜枝のここ、絡み付いてくる」
「そういうことは…んんっ…あっ……」
指先は奥へと入り込んでいるのに、指の中ほどが一番感じる場所を刺激してきて上手く言葉にならない。出て来るのは甘ったるい吐息と声ばかりで、菜枝の恥ずかしさはもうピークだった。
「も、無理……はぁ、…ん」
「俺が限界だ」
その声と共に指が引き抜かれると、すぐに熱いものが押し当てられる。
「まっ…ああっ!」
ゆっくりだけど質量のあるそれが中に入ってくると、もう菜枝の口から言葉は出なかった。ただ、ゆっくりと侵入してくるそれに、言葉にならない声しか出ない。奥まで入り込んだところで、一旦一之瀬は腰を止めると、ゆっくりと菜枝を見下ろす。
「中がヒクヒクしてる」
「言うな! 馬鹿!」
涙声になりながらもそれだけ怒鳴りつければ、クツクツと一之瀬が笑う。けれども、その笑いさえも振動となって菜枝の中に響く。
「も、やだぁ……」
「馬鹿言うな、これからなのに」
その言葉と共に菜枝の腰を掴んだかと思うと、中で一之瀬が動き始める。
「や…んんっ、あっ、はっ……くぅ……」
鈍い微かな痛みと共に、粘膜を擦られる度に快楽が押し寄せてくる。恥ずかしくてイヤなのに、一之瀬はどんどんと追いつめてくる。
不意に、一之瀬の腕が腰から離れたかと思うと膝裏を掴みそのまま広げられた。
「やっ! そんなの!」
足を閉じようとするけれども、一之瀬の手の力は強く閉じることは出来ない。その内に先程までの緩やかな動きとは違い、激しく一之瀬が腰を打ち出すともう菜枝には恥ずかしいとか考える余裕も無くなった。ただ追い上げられるその気持ち良さに、背筋を反らせてただひたすら声を上げる。
一つになったその部分から聞こえる水音と、菜枝の上げる声と、そして一之瀬の荒い息づかいに包まれてどんどん追い上げられる。
目なんて開ける余裕も無いのに、一之瀬が不意に動きを止めて名前を呼ぶ。だからうっすらと目を開ければ、見下ろす一之瀬と視線が絡まる。
「菜枝」
一度も見た事が無い切なくなるような顔で名前を呼ばれて、胸が苦しくなる。悔しいけど、やっぱり一之瀬が好きだ。シーツを掴んでいた手を一之瀬に伸ばして抱きつくと笑う気配がある。
「お前、本当に馬鹿だな」
そんな言葉と共に一之瀬が強く腰を打ち付けてくと、菜枝は再びギュッと目を瞑って一之瀬に縋り付く。
「も……いちゃっ……あぁぁっ!」
一気に上り詰めたところで、中にある一之瀬を締めつけてしまい、中で何度か脈打つのが菜枝にも伝わってきた。荒い息の中で、一之瀬が中からズルリと抜け出すその感覚にも身震いすると、一之瀬が微かに笑う。
「今回は大丈夫そうだな」
そう言って汗で張り付く菜枝の前髪を上げると、額に唇を落とす。既にいっぱいいっぱいなのに、更にそんなことをされてもう菜枝は気を失いそうな気分で一之瀬を見上げた。こういう甘やかな空気には菜枝には初めてのことで、どんな顔をしていいのか分からなくて唇を尖らす。
「何か私ばっかり余裕が無くてずるい」
その言葉で一之瀬は片眉を器用に上げてから、その口元にいやーな笑みをゆっくりと浮かべた。
「だったら、何度もして慣れたらいい」
「はい?」
息だって落ち着かないし、心臓だってバクバクいってるのに、額に触れていた一之瀬の指先が頬をなぞり、首筋をなぞる。それだけで、またゾワゾワと新たな気持ち良さが沸き上がってくる。
「い、一之瀬?」
「ずるいんだろ? 仕方ないよな」
「ち、違う!」
「慣れるくらいまで抱いてやる」
「いいです、遠慮します! だから…あっ……」
一之瀬の指で胸の先端を少し強めに摘まれるとそれだけで声が上がる。唇が反対の胸にも落ちてきて、舌先が悪戯に嬲っていく。まだいったばかりのあそこにも指が埋め込まれて、もう、ぐずぐずに思考が壊れていく。
その日はイヤだと言っても一之瀬は聞こえないふりをすることに決めたらしく何度も抱かれた。羞恥心は途中からどこかへ壊れて、もう何を言ったのか、何を言わされたのかも菜枝も覚えていない。ただ、最後には声も出なくて吐息のような悲鳴を上げて気を失った。
* * *
次に目が覚めた時に部屋は暗くて夜なのかと思ったけれども、どうやらカーテンの隙間から零れてくるのは昼の日差しで、菜枝は起き上がろうとしてその場で撃沈した。
ありえない……腰が立たないって、どうよ。しかも、その理由がやりすぎて腰が立たないという事実に、菜枝としては地中深くまで埋まってしまいたい気分になる。
部屋を見渡しても誰もいる様子は無い。確かに、今が昼であるなら一之瀬は今頃仕事中に違いない。だからこそ遠慮なく大きな溜息を吐き出したところで、扉が開き思わず逆に息を飲み込む。
「い、一之瀬、何でここに?」
「俺の家だ、居て何が悪い」
「いや、そうじゃなくて、仕事」
「嘉門さんがシフト変更してくれた」
「って、あんた、昨日の時点でこうなることを予想してたのか!」
「俺だけじゃなくて嘉門さんも予想してたみたいだけどな」
そう言って一之瀬は壁に掛けてある昨日着ていたジャケットから何かを取り出した。そしてそれを放ってよこされて、手の中に収まったものを見ればそれが何だかさすがの菜枝でも分かる。
「な、何でこれ」
「嘉門さんがくれた」
「先輩も何考えてるんだか!」
男同士て本気でこういう所が分からない。
普通にありなのか? こういうのはありなのか?
自答自問しても男じゃない菜枝にはどれだけ答えは無い。
「あれ? でも、昨日使った?」
「昨日もその前も使ってる。ただ、使わないでしてやろうかとは思ったけどな」
さらりと恐ろしいことを言われて一之瀬を見上げれば、予想とは違い憮然としたものだった。
「子供でも出来れば嫌でも認めるだろうと思った。でも、子供は欲しく無い」
近付いてきた一之瀬がベッドサイドに座ると、菜枝の前髪を掻き上げて額にキスをする。何だかそれが酷くくすぐったい。
「菜枝がいればいい」
ヤバい、どうしよう、こいつ私を喜ばせる天才だ。ついでに、恥ずかしがらせる天才だ。
「だからもう一回抱かせろ」
遠慮無く、上げた手で一之瀬の頭にチョップを食らわせた。
「あれだけやってまだやるか!」
「どれだけおあずけ食らったと思ってるんだ。こうしてゴムもあることだしな」
「ギャー! 見せるな、そんなもの! 第一、先輩からそんなもの受け取るな!」
「押し付けてきたんだから仕方ない」
言いながらも押しのけているのに、一之瀬はしっかりと覆い被さってきて、抵抗むなしく唇が重なる。起き抜けなのに濃厚なキスをされて、離れた瞬間に吐息を零せば、それと同時にお腹の虫もグーッと鳴いた。
「菜枝……」
途端に呆れた顔を見せる一之瀬に、先よりもずっと顔が赤くなってくるのが分かる。
ヒィーッ、さすがにこれは余りにも恥ずかしすぎる。
思わず布団を掴み頭まで被ってしまうと、布団の外からは一之瀬の遠慮ない笑い声が聞こえる。どんな顔で笑っているのか見てみたかったけど、恥ずかしさで菜枝は布団から顔を出すことは出来なかった。