Chapter.VI:喜びの結婚 Act.2

翌日、どこか鬱蒼とした気分でホテルへと行けば、更衣室でやけに晴れ晴れとした顔をした楠木と鉢合わせる。
「おはようございます」
「あら、テンション低い。おはよう」
「そういう楠木さんはテンション高いですけど」
「ふふふ、これを見なさい」
そう言って楠木さんは手の甲をこちらに向けてくる。
一体何が……そう思っていれば普段指輪などしていない楠木がシンプルなプラチナのリングをしている。真ん中に随分と大きめなダイヤモンドと、両サイドには小さめのダイヤモンドが二個ずつあしらわれていて、更衣室の鈍い明かりでも光り輝いて見える。そしてしている指は左手な訳で……。
「け、結婚するんですか!?」
菜枝の出した声に楠木は耳を塞ぎながらもにんまりと笑う。
「そう、結婚するの」
「えっと、誰と……?」
菜枝としては嘉門以外は全く考えていなかったけれども、恐る恐る聞いてみれば楠木は高らかに笑う。顔立ちのせいか、楠木にはそういう笑いもとてもよく似合っていた。ある意味、恐ろしいほど……。
「一之瀬からよ」
「いっ!?」
驚きすぎて息を吸い込んだ瞬間に、菜枝は激しく咽せる。そんな菜枝にも楠木は先程とは違い、カラカラと笑うと菜枝の背中をさすってくれる。
「驚いた?」
「度肝を抜かれました」
「どうしようとか思わなかった?」
「……ちょっと」
「大丈夫、一之瀬じゃないから安心しなさい。でも、どうしようと思ったのは何でだかきちんと考えなさい」
うぅ、どうにも最近宿題ばかりが増えていく気がする。しかも、一之瀬のことばかりで正直、菜枝としては泣きたい気分だ。
「嘉門よ。あいつ昨日、人の家に押し掛けてくるなりこれを差し出してきて、愛してるから結婚して欲しいって」
「言ったんですか!」
「言わせた」
「は、ははははは」
つい菜枝の口からは乾いた笑いしか出て来ない。でも、ある意味、この二人にはそれがらしいのかもしれない。
「それで指輪をつけてるってことは結婚するんですね」
「だってお願いって頭下げるし仕方ないでしょ」
と言いつつも楠木の顔は晴れ晴れとしていて、ここ最近一番のいい笑顔だと思える。
「それで、まず最初に謝っておかないといけないわね。常盤には悪いことした、ごめん」
「えっと、何がでしょう?」
「正直、常盤と嘉門が仲良しでちょっと妬いてた」
「ただの先輩と後輩です」
「まぁ、嘉門もそう言ってたわ。だからちょっと意地悪しちゃったりしたし」
はて、いつ意地悪なんてされたのだろうか。
菜枝には思い返しても思い当たる節が無い。確かに一之瀬も楠木と共同ラインを引いたなんてことを言ってはいたけど、これといって楠木に何かをされたという記憶は無い。どちらかと言えば、助けられたことの方が多すぎて、多少の意地悪くらいならされてもどうでもいいような気がする。
「すみません、全然心当たりがありません」
「嘉門との食事を邪魔したりしたでしょ」
「別に邪魔じゃないですし。っていうか、私は面白かったですよ。だから全然問題なしです」
「意地悪したって自己申告してるのに?」
「だって、された記憶のないことを自己申告されても、私の中では無かったことですから」
「……普通、怒ったり、嫌になったりするでしょ」
「まぁ、普通はすると思いますけど、楠木さんには本当に色々と面倒見て貰ってるから全然気にならないというか……いや、本当に何かされた記憶が無いんですよ」
困ったように楠木を見上げれば、菜枝を見ていた楠木は長い溜息を吐き出した。そして、菜枝の頭を軽く撫でる。
「何だか嘉門が心配する気持ちが少し分かったわ」
「私、心配させてます?」
「心配というか、可愛くて仕方ないみたいな感じかしら。でも、私も常盤みたいな妹だったら欲しかったかもしれない」
「姉御!」
ふざけて言えば、途端に軽く小突かれた。ムーッと唇を尖らせれば、楠木が楽しそうに笑い出す。
「それで、常盤と一之瀬にお願いがあるのよ」
「うぇ、一之瀬と一緒ですか?」
どうしても今その名前を避けたい菜枝としては、つい嫌そうな声になってしまう。けれども、全く楠木は取り合わず言葉を続ける。
「私と嘉門の結婚式、あんたたち二人を指名するわよ」
「え? でも、社内結婚な訳ですし、そういうのは部長に」
「だめよ、部長はきちんと仲人として入って貰うんだから。それに菜枝がどういう形で仕事して顧客を掴んでるのか知るチャンスだし」
「チャンスも何も、楠木さんの方が成績良いじゃないですか」
嘉門と楠木、ブライダル部門のトップ争いをしているのはいつでもこの二人だ。そんな楠木に菜枝のプランなんてためになるとは思えない。
「だって、常盤って紹介率、凄く高いじゃない。何か秘訣があると思うのよね」
「あー、そういえば、一之瀬もそんなこと言ってました」
「嘉門も口では軽く言ってるけど、実は気になってると思うのよね」
「気にされても、私は余計に差がつけられて全然美味しくないと思うんですけど」
「あら、一之瀬と仕事が出来るじゃない」
「……それも嬉しくない」
出来たら今は本気で近付きたくない。近付いたら、嫌でも考えなきゃいけない問題がある訳で……。
「馬鹿ね、一之瀬からも色々と学ぶことはあるわよ。きちんと技術は盗みなさい。で、美味しい所取りはしておくものよ」
そう言われると、確かにトップ争いに食い込む程では無いけれども、入社してわずかであの成績を維持している一之瀬の仕事を近くで見るのは悪いことでは無いのかもしれない。打倒一之瀬、という菜枝の気持ちは相変わらずくすぶったままなので、それはそれで悪く無いかもしれない。
「よし、頑張ります!」
「頑張ってよ、私の結婚式なんだから」
「はい!」
元気に返事をする菜枝に対して、楠木も笑みを見せた。けれども、その笑みに悪魔が隠れていたことを菜枝はまだ知らない。
着替えて事務所に入れば、既に一之瀬は隣の席に座っていて菜枝は挨拶をすると、いつもと変わらずに返事がある。けれども、いつもと違ったのは菜枝に差し出されたファイルの束だった。
「何これ」
「楠木さんに聞いただろ。あの二人の結婚式用のファイル。聞き取り、菜枝がやれ」
「えー、一之瀬がやればいいじゃない」
「話しを聞き出すのは菜枝の方が上手い」
「おだてても何も出て来ませんけど?」
「本当のことを言っただけだ。やるのか、やらないのか?」
少しの間悩みはしたけれども、菜枝としては最初にやるプランの打ち合わせが一番好きだったりするから、素直にそのファイルを受け取った。中を開けば既に嘉門と楠木の名前が書かれていて、相変わらず男にしては綺麗な字に小さく溜息をついた。
「何か問題があったか?」
「別に何も無い。字が綺麗だと思ってさ。何か男の一之瀬が字が綺麗だと、私としては立場が無いというか」
「菜枝の字はそのまま方がいいだろ」
「どういう意味よ」
「ころころしてる」
「そりゃあ、あれか、太ってるってことか」
「いや、そうは言ってない。逆にもう少しついた方がいいんじゃないか?」
そんな問い掛けと共に一之瀬の視線が向いたのは胸元で、容赦なく手にしていたファイルで一之瀬の頭をはたいた。
通常業務の間に楠木たちから話しを聞くことは難しく、結局福永とも話し合って聞き取りは業務後に行うことになった。菜枝がついたお客さんは、色々な人たちに宣伝をしてくれているらしく、大抵二日に一組は菜枝を指名してくるお客さんがいて、菜枝としてもやっぱり嬉しい。
実際に、その人たち全てが大きな結婚式をやる訳では無いし、むしろパックの小さな結婚式ということの方が多いから売上には余り繋がっていないのかもしれない。それでも、こうして誰かが指名で来てくれるというのは菜枝にとって嬉しいことだった。
営業成績は事務所に張り出されているから、気にならないと言えば嘘になる。けれども、やっぱりこの仕事をしたいと思った理由が、幸せの手伝いなのだから余り拘りたく無いとは思っていた。ただ、無性に一之瀬には負けたく無いと思う気持ちが湧いてくるのだけは難点だったけど……。
業務が終わって楠木と嘉門から聞き取りをするのは三回目になった頃、四人掛けだったテーブルで一之瀬が溜息をついた。
「どうした、一之瀬」
「何故、菜枝がここまで必死になれるのか分からない」
「お前だって仕事中は必死だろ。何だ、俺たちの結婚式には手抜きってことか?」
からかうような嘉門に一之瀬は肩を竦めて見せた。
「別に仕事は仕事ですから、どんな仕事でも同じ仕事をしますよ」
「まぁ、そうよね。一之瀬の仕事って無難にっていうのが多いわよね」
「無難、ですか?」
「そう無難」
もう一度繰り返した楠木はどこか面白そうにテーブルに肘をつくと一之瀬を指差した。
「だから詰まらないの」
「まぁ、俺も無難系だから余り大口叩ける訳じゃないけど、確かに一之瀬のは無難だな。要領はいいから顧客は結婚式まで上げるけど」
「菜枝と一之瀬のプラン、一之瀬には違いが分かるか?」
「菜枝の気合が客に伝わってるとか?」
「まぁ、気合は確かにあるが、そうじゃなくてな」
「菜枝のプランには想い出が沢山詰まってるの。俗にいう良い結婚式だったて想い出がきちんと残る結婚式になってるってこと。菜枝の場合、大抵パックの客が多いけど、随分と演出考えてるわよね。実際に、これとかもそうだし」
そう言って楠木が指差したのはファイルの上で、そこに書かれているのは先程話し合った演出内容についてだった。
「こういう努力、一之瀬はしないでしょ」
「しませんね」
「こういう所が新たな顧客に常盤の場合は繋がってるのね。だって誰だって嫌だもの、他と同じ結婚式なんて。出席してても詰まらないし」
「結婚式に詰まらないという発想はありですか?」
「ありに決まってるでしょ。それこそ詰まらない結婚式の楽しみはご飯くらいしか無いじゃない。じゃあ、私はこのご飯代にご祝儀出したのかと思うわよ」
「あー、分かる、分かる」
楠木の言葉に納得しているのか、横ではひたすら嘉門が頷いている。残念ながら菜枝の周りで結婚話しが出て来たのは美華子が初めてで、まだ他の誰も結婚をしていないから実際に結婚式には出た事が無い。
それこそ、ずっと昔、まだ両親が健在だった頃に一度だけ親戚の結婚式に出たことはある。ただ、それは夢のように綺麗だったことしか覚えていなくて、正直、楠木や嘉門が言うことには菜枝としては理解が出来ない。
「幸せだけじゃダメなんですか?」
「じゃあ、何で菜枝はこういう演出を考えるんだ?」
「え? だって、どうせなら皆が幸せな気分で帰って貰えたら嬉しいじゃないですか」
「まぁ、お前のそういう前向きなところは見習わないといけないと思うけど、一之瀬には確実に足りない部分だろ」
「無いですね。そういう面白結婚式に出たことが無いので」
「面白結婚式とか言うな! 人聞きの悪い。第一、私だって結婚式なんてドラマの中でしか知らないわよ」
途端に三人の視線が菜枝へと集まり、思わず菜枝は身を引いてしまう。
「な、何ですか」
「常盤、あんた結婚式出たことないの? それでこの演出?」
「そういうのはネットで色々探しました。あとは友達のつまらないという意見聞き出したりとかして、そういうところを潰すようにはしてますけど」
「はぁ、見えない努力はしてたのね」
「ちょっと見直したぞ」
何なんだ、この脱力感漂う空気は。多分、誉められてる。誉められてるとは思うけど、何だか微妙だ。
「誉められてるんですよね?」
「そりゃあもう手放しで」
「何だか反応しずらい空気なんですけど」
「拍手でもすれば納得するか」
「いや、そういう問題じゃなくて……って、何よ」
こちらを見たまま微動だにしない一之瀬に声を掛ければ、これまた大きな溜息をつかれて酷く納得行かない。
「言いたいことは口にすれば」
「少し腹立たしい気分になってるだけだ」
「それ、余計に訳分からないんだけど」
「まぁ、落ち着けって。多分、誉めてるから」
「多分って、それ、本気で嬉しく無い感じです」
でも、嘉門も楠木もどこか苦笑いに近い笑いを浮かべていて、一之瀬に至っては不機嫌そのものだ。これのどこが誉められてるんだか訳が分からない。
「取り消してやる」
「何がよ」
「追いつくのは無理だと言った言葉を取り消してやるって言ってる」
それは一体いつの話しだ! もしかして、七月の売上が出た時の話しか?
すぐにそれを思い出せた自分も自分だけど、そんな細かいことを覚えてる一之瀬も一之瀬だと思う。
「馬鹿も取り消せ」
「馬鹿は馬鹿だから、取り消せそうにない」
「誉めるなら素直に誉めればいいでしょ」
途端にこちらをちらりと見た一之瀬が再び盛大な溜息を落とした。こういう態度が本気で腹立たしい。
「自分がどこへ向いてるのか分からないのは馬鹿以外の何者でもないだろ」
「別に分かってるわよ。今はあんたの方に向いてるでしょ」
途端に前に座る二人から爆笑が起こり、菜枝は驚いて二人へと視線を向ける。何故に笑われているのかさっぱり分からない。
「いや、うん、確かに一之瀬の方を向いてるな」
「もう、常盤って本当に笑わせてくれる! あんた最高よ!」
それこそヒーヒー言うような勢いで笑っていて菜枝は首を傾げながら一之瀬を見れば、酷く不機嫌そうな顔でこちらを見てる。
「やっぱり、馬鹿決定」
「ちょっと、何でそうなるのよ!」
「菜枝、今のは菜枝が問題ありだから」
「そーね、常盤の方が問題ありだわ」
二人に言われてしまうと、訳が分からずとも菜枝は口を尖らせるしかない。何だか、もの凄く馬鹿にされてる気がするのは気のせいなのか。そんなことを考えながらもちらりと一之瀬を見れば、一之瀬と目が合いさも仕方ないという顔で笑われる。やっぱり、それはそれで凄く面白くない。
「まぁ、一之瀬も勉強になっただろうし、今日はこの辺にしましょう。明日も仕事があるんだから」
「そうだな。これ以上は明日に響くだろ。飯奢るから一緒に行くか?」
「奢りなら勿論行きます!」
挙手して菜枝が言えば、やっぱり二人に笑われてしまい、今度ばかりは一之瀬も笑っている。
「私……意地汚い?」
「うんにゃ、いいんじゃないの。菜枝らしくて」
「そうだな、嘉門さんの言う通りだ」
「常盤に遠慮されると後が怖いわー」
三者三様、そう言われてしまうと菜枝としてはもう何も言えない。だって、嬉しかったんだから仕方ない。
三人ともが笑いながらもテーブルの上を片付けていくと、菜枝も一緒になって片付けてから四人で食事に行った。珍しく一之瀬も軽口を叩き、けれども嫌味を忘れずに嘉門を奈落に突き落としたりもしていた。
けれども、そんな気軽な会話も楽しくて菜枝も楽しく食事が出来た。そして、楠木と嘉門のコンビっぷりも見せつけられて、とにかく楽しい一夜を過ごした。

Post navigation