Chapter.VI:喜びの結婚 Act.1

翌日、朝から仕事に出た途端、いきなり嘉門に捕まり空いている会議室へと連れ込まれて着替えすらしていない菜枝としては驚きを隠せない。
「先輩、どうしたんですか?」
「この間、楠木と飲みに行ったんだよな」
「どうしてそれ知ってるんですか?」
「一之瀬に聞いた。あいつ何か言ってたか?」
「何か? えっと、昨日、楠木さんと一緒だったの先輩ですか?」
「あぁ、そうだけど、言ってたのか?」
「まぁ……うだうだ男らしくないこと言うから面倒とか言ってましたけど」
途端にガックリと肩を落とす先輩に、さすがの菜枝も同情を禁じえない。
「色々突っ込んで聞いてもいいんですか?」
「聞きたいことあるなら好きにしろー」
どこか投げやりな態度ではあるけれども、許可を得たからには菜枝としては気になっていたことをズバリと聞いてしまう。
「三人で飲みに行ったあの日、楠木さんと何があったんですか?」
「お前……本気で遠慮無いな」
「だって、もうずっとモヤモヤしてて気持ち悪いし」
しばらく迷いを見せた先輩だったけれども、大きく長い溜息をついた後、手近にある椅子に腰掛けると菜枝を見上げた。
「まぁ、楠木が言ってたけど、入社当時、色々派手にやったからもうホテルの人間には絶対手を出さないって決めてたんだがな」
「って、ことはまさか楠木さんに手を出しちゃったんですか!?」
驚きも露わに嘉門を見れば、やっぱりどこか投げやり気味に嘉門は両手を叩く。
「ご名答ー。まぁ、確かに酔った勢いってのもあったんだけど……ただのキツいだけの女かと思ってたけど、抱いたらあいつ可愛くてさー」
「すみません、先輩、生々しすぎます」
「何だよ、菜枝だって大人になっちゃったくせに」
「そ、それは!」
顔が赤くなるのが分かったけれども、そんな菜枝に嘉門は小さく噴き出すと手を伸ばしてきて菜枝の頭を撫でる。
「相手が一之瀬なのがちょっと嫌だけど、俺的に」
「先輩! 私のことはいいんです! 今は楠木さんのこと!」
「あぁ、えっと、なんだ、端的に言うと惚れた」
「端的すぎます。あれ、でも……」
昨日、一之瀬は何て言ってた? 菜枝と嘉門を引き剥がすために共同ラインを引いたと言っていた。一之瀬の気持ちは分かっているから、私的に納得はいかないけどそうする意味も分かる。
だったら楠木さんはどうして……?
「先輩、楠木さんに何て言ったんですか?」
「え? あー、いや、なぁ」
「いつものノリで軽く責任取って付き合ってあげるとか言ったんじゃないんですか?」
「……言いました」
どうして、こう肝心な時にそれをするのか菜枝の方が知りたいくらいだ。付き合いが長いから、告白向きの言葉なんて言えない人だってことは分かってる。でも、本気だったらそれくらいは言ってもおかしくないんじゃないかと思うし、何よりも楠木相手に責任取るなんてへらりといつもの笑顔で言ったなら殴られても文句は言えないに違いない。
「きちんと告白しないと伝わりませんよ。第一、一度したから責任取るとか言われたら私でも蹴りますよ、そんな男」
「ダメかな?」
「ダメです。っていうか責任って何? 責任で付き合われても女としては全然嬉しくないですけど」
「そりゃあ、まぁ、そうだろうけど……ほら、でも、そこは分かってくれというか」
「ダメでーす。甘い言葉の一つも言えないんですか?」
「好きだとか、愛してるとか?」
「そう、それですよ!」
思わず菜枝はビシッと嘉門に指を突きつければ、情けない顔の嘉門と視線が合う。
「菜枝、それは無理だ」
「無理じゃない、やる! もう、ここできちんと気持ち伝えておかないと絶対に後で後悔しますからね」
「うーん、俺、そういうキャラじゃないんだよな」
「でもやる! じゃあ、楠木さんに恋人が出来ても指銜えて見てるんですね。それで、いいんですね?」
不意に嘉門は椅子から立ち上がると、腰を曲げて膝に手をつくと長い溜息を吐き出した。
「菜枝に恋愛相談する日が来るなんてなー」
「ちょっと、それ私に失礼じゃないですか!」
「うんにゃ、違う。それだけお前さんが成長したってことだ」
そう言って顔を上げた嘉門はいつもより少し優しい顔をして菜枝の頭をいつものようにクシャリと撫でる。
「大人になってしまったんだねー」
「それ、酷くありません?」
「俺的に最高の褒め言葉」
「全然誉められた気がしません」
菜枝が唇を尖らせても、嘉門の手は菜枝の頭を撫でながら楽しそうに笑っている。でも、その笑顔はこの数日見ていたどの笑顔よりも晴れやかで、吹っ切れたんだと見てても分かる。
「頑張って告白して下さい」
「お前さんもな」
「わ、私は」
「そうなんだよなぁ、人のことはよく見えるんだよ。当事者になるとボロボロだけど」
「うー、理解したくないけど分かります」
それからお互いに視線を合わせると、どちらともなく笑い出す。
多分、楠木も嘉門のことを好きなんだとは思う。でも嘉門の言い分で付き合うことは出来ないに違いない。責任云々なんて言われて付き合うのは菜枝だって嫌だし、どうせなら相手に好きなって貰ってから付き合いたい。
言葉って大事だな、やっぱり。
そんなことを考えていると、不意に菜枝の携帯が鳴り出し慌てて電話に出ると、電話向こうの声は楠木だった。
「常盤、寝坊?」
「いえ、違います。もうホテルには居ます」
「早くしないと遅刻になるわよ」
「え?」
慌てて壁の時計を見れば、確かに始業時間五分前になっていて一瞬にして血の気が引く。
「今すぐ行きます!」
慌てて電話を切ると、菜枝が時計を見たことで嘉門も時間に気付いたらしい。
「先輩の馬鹿! 何も朝からこんな話ししなくても!」
「それだけ切羽詰まってたって分かれよ」
「分かりたくありません!」
嘉門に文句を言いつつも二人で走るようにして更衣室前に到着すると、丁度扉が開いて楠木が出てくるところだった。
「あら、嘉門と一緒だったの?」
「すぐそこで一緒になりました」
引き剥がしたいと楠木が思っているのであれば、これくらいの嘘は可愛いものだと思う。
「そう、早く着替えなさい」
「はい」
元気に返事をして更衣室に駆け込むと、扉の向こうで二人が何か話している声が微かに聞こえる。けれども、一言二言で会話は終わったのか、隣の更衣室の扉が閉まる音が聞こえてきた。
菜枝もそうだけど、割合と嘉門も思い立ったら今日、というタイプだからここからの行動は早いに違いない。着替えながらも、二人がどうなるのか人ごとながら気になってくる。焚き付けたという自覚があるから余計に気になるのかもしれない。
うーん、人のこと気にしてる場合じゃないんだけどね。
手早く着替えた菜枝は鏡で軽く化粧直しをすると、早々に事務所へと足を向けた。始業二分前、さすがに菜枝が一番最後だったけれども、いつもならここまで時間ギリギリであれば嫌味の一つでも飛んでくる一之瀬からは何も言われない。それを訝しく思いつつも、今日の業務が始まった。
* * *
昨日約束していたこともあって、仕事が終わってからメールをすれば、すぐに優からは折り返し電話が掛かってきた。
「菜枝、もう仕事終わり?」
「うん、終わったよ。優の方は?」
「丁度会社を出たところ。カフェで時間潰そうと思ってたけど、どこで待ち合わせする?」
「だったらカフェでもいいよ。どこの?」
「駅前のドーリア」
それは駅前のホテルに併設されたかなり規模の大きなカフェで、時折菜枝も利用することもある。ホテルとはいっても菜枝が勤めるライクスホテルに比べると随分規模は小さなもので、美味しいコーヒーを売りにしている。規模の大きさの違いからライクスホテルとは競合することも無い。駅前ということもあり、ホテルの人間も多く利用しているに違いない。
「分かった。直接そっちに行ってる」
「そうしてくれるといいな。前みたいに駅で待つと何があるか分からないし」
僅かに伝わってくる笑い含みの声は、恐らく駅前でナンパされて一之瀬に助けられた時のことを言ってるに違いない。
「あんなこと滅多に無いし」
「でも、最近、菜枝は可愛くなったから」
「かわ……優、色々言葉の選択間違えてると思う」
「そんなことないと思うよ。本人が気付いてないだけで。あ、ごめん、電話入ったから」
「分かった。じゃあ待ってる」
それだけ言って電話を切ると、菜枝は大きく溜息をついた。
優が壊れた……。そう思ってしまうのは、今まで菜枝に対して可愛いとかそういう言葉を一度だって言ったことが無いからだ。確かに優しいけど、嘘は言わない。いや、でも、待てよ。逆に考えれば今までは可愛く無かったってことか!そうか、それなら納得……いや、色々間違えてるって。
優はプロポーズをしてからというもの、何だか少しおかしい。昨日の一件だって、あんな風に一之瀬に食って掛かるのは変だと思う。いや、でも、好きになれば少しくらい変になるのが当たり前なのか?
考えれば考える程、考えはぐちゃぐちゃになってしまい、落ち着かない気分になってくる。そもそも、いきなり優が菜枝を好きだということ事態、菜枝にとっては天変地異くらいの勢いなのだから、根本が受け入れられないというのが大きい。しかも、菜枝が何度か玲子の話しを出した時にも優は否定しなかった。
それなのに……そうか、一之瀬が現れたからか。
でも、よくよく考えれば正直、二人して物好きだと思ってしまうのは本人として間違えているのだろうか。喜ぶべきところなのは確かだと思うし、全くもって迷惑と切り捨てる気は無い。ただ、どちらの相手も恋愛対象にするには微妙というか……。
優は昔から知りすぎていて、今更という気持ちもあるし、少なくとも幼なじみ以上の感情を持てそうに無い。一之瀬に関して言えば、とにかくあの嫌味さえ無ければ……無ければ、何なんだ。
何だか一つの結論に辿り着いてしまいそうになって、菜枝は慌てて思考を止める。とにかく、今は優のことが先決であって、一之瀬のことはどうでもいい。
そんなことを思いながらカフェへ入ると、空いている席へと案内される。ボックス席になっていて、通路挟んで隣こそ見えるけれども、前後とは高い衝立で仕切られているのが少しだけ落ち着く。窓の外こそ見えないけれども、その高い衝立に描かれている暖かみのあるほのぼのしたイラストを見るのは菜枝は好きでもあった。
余りにも可愛らしいイラストなので、カフェの店員に描いた人を訪ねたけれども、オーナーの知人で画家では無いということだけは聞いた。衝立に描かれたイラストはどれも同じものは無く、席によって全てが違う。コーヒーを一つ頼んでから、目の前に広がる夜の風景をぼんやりと眺める。
大きな月に向かう汽車は、どこか銀河鉄道の夜を彷彿とさせる。けれども大地にいるのは猫の親子で、汽車から手を振るのはうさぎの子供。子うさぎの流した涙が雨になり子うさぎのすぐ下にだけ雨を降らし、その風景もしっとりとした世界が広がっている。
この人のイラストを見ると、いつも菜枝はどこか泣きたい気分にさせられる。懐かしい何かを思い起こさせる、そんな風景ばかりが広がっている。
今度、お店の人にお願いして、全ての絵を見せて貰うのもいいかもしれない。そんな気持ちで出されたコーヒーを飲みながらイラストを眺めていると、しばらくして店員に案内された優が現れた。
「お待たせ」
「全然待ってないし」
「でも、空っぽだよ」
そう言って優が指差したのは空になったコーヒーカップで、菜枝としては苦笑するしかない。どうやらイラストを魚にコーヒーをいつの間にか飲みきっていたらしい。そんな会話をしている間にも優は向かいお席に腰掛けると、オーダーを取りに来たウエイターに優はコーヒーを二つ頼む。ここへ来たら菜枝がコーヒーしか飲まないことを優は知ってる。それだけ長い付き合いになる。
「それで、話しって何?」
「やっぱり結婚の話し、受けられない」
「どうして? 嫌いじゃないならいいじゃない」
「でもね、やっぱり結婚は好きな人としたいから」
「菜枝が僕を好きになる可能性は無い、ってこと?」
「無いとは言いきれないけど、でも、今は考えられない」
「やっぱり急ぎすぎたかな」
そう言って穏やかに笑う優は、断られたことを気にした様子も無くて菜枝としては内心首を傾げる。昔、菜枝が失恋した時にはかなりやさぐれたものだけど、基本的に人間の出来が違うんだろうか。そんなことを考えていたら、優に眉間を優しく小突かれた。
「眉間に皺寄りそうだよ。別にそこまで悩まなくても」
「だって、こっちは断るのに悶々としてたのに、優は全然気にしてないみたいなんだもん」
「まぁ、断られること前提だったし」
「はい? どうして?」
「まぁ、色々と。それにね、諦める気が無いからかな、今のところ」
諦める気が無いってことは……この状況は延々と続く訳で、菜枝としてはちょっと勘弁して欲しい。正直、優の気持ちを知った上でどう付き合っていけばいいのか菜枝には分からない。
「今すぐ諦めろ。往生際の悪い奴だ」
不意に背後から聞こえてきた声にギョッとして顔を向ければ、そこには何故か一之瀬が立っている。
「立ち聞きとは余り誉められるものではありませんけど」
「言っておくが後から来たのはお前たちの方だ。俺の方が先にそっちに居たんだからな」
そう言って一之瀬が指差す先は、丁度菜枝の後ろ、衝立の向こう側だったらしくさすがに菜枝も気付かなかった。
「だからって普通、人の話しに口出さないでしょ」
「菜枝が諦めて欲しそうだったからな」
「そんなこと言ってないもん」
「顔見れば分かるだろ」
確かに諦めてくれたらいいのにとは思った。思ったけど、それを一之瀬の口から言われるのは非常に納得が行かない。
「あのねぇ!」
「菜枝、まぁ、落ち着いて」
「ちょっと、どうしてそこで優が落ち着く訳?」
「でも、ここでヒートアップしても仕方ないでしょ。取り合えず、一回座ってコーヒーでも飲んで」
そこまで言われて、どうやら周りの注目を浴びてることに気付いて、菜枝は大人しく優の言われた通りに椅子へと腰掛ける。本来なら優が怒ってもおかしくない場面だと言うのに、当の優はやっぱり穏やかな顔で笑っていて何だか納得が行かない。第一、これで昨日と同じ轍を踏む真似はしたく無い。
「とにかく帰れ」
「菜枝、一応、菜枝の好きな人なんだから、もっと優しくしないと」
「……はい?」
「だって、菜枝、一之瀬さんのこと好きでしょ?」
「え? 優?」
少なくとも一之瀬が好きだと断言される謂れは無い筈だ。何をどう思って優がそんなことを言い出したのかさっぱり分からない。菜枝の問い掛けに答えることもなく、相変わらず優は穏やかに笑っていてもうどうしていいのか分からない。
ここは文句を言うべきなのか、それとも怒るべきなのか、いや、その前に否定か?
そんな言葉をぐるぐると巡らせている間に、不機嫌そうな一之瀬の声が落ちてきた。
「どういうつもりだ?」
「嫌がらせ。これくらいしても僕に罪は無いと思うけど? 後から来た人間に横から掠めとられた訳だし」
「そんなのはのんびりしてたお前が悪い」
「まぁ、そうとも言うかもね。でも、逆にのんびり自覚を待ってる君にも言えることだと思うけど。さてと、僕はもう行くよ。これ以上は無理みたいだし、お邪魔虫にもなりたくないから」
椅子から立ち上がった優は鞄を掴み、それから何かを思い出したように鞄を開けた。中から出した包装された包みを差し出されて菜枝は困惑する。
「誕生日、おめでとう」
「あ、忘れてた。ありがとう」
素直にそれを受け取ったけれども、菜枝が思ったよりも随分と重いものだった。既に優とのプレゼント交換は当たり前のことで、つい受け取ってしまったけど果たしてこの状況で受け取っていいものだったのか、今更ながら悩む。
「あのこれ」
「いいから貰っておいて。絶対に気に入ると思うから。それから、彼が嫌になったらいつでもおいで。慰めることくらいは出来るから。それから困ったことがあればいつでも連絡してね」
「立ち去るんじゃないのか?」
「これでも幼なじみですから。全く、本当に心狭いんだね」
そう言って肩を竦めて優は笑うと本当にそのまま背を向けてしまい、反対の手でひらひらと手を振って店を出て行ってしまう。残された菜枝としては非常に気まずい。
取り合えず、自覚って何だ。待つって何だ。
ぐるぐるしているところに名前を呼ばれて、思わず驚きで身体が震える。
「な、なに?」
「あいつに言われた意味、よく考えろ」
それだけ言うと、一之瀬は自分の伝票と菜枝のテーブルにあった伝票を持って立ち去ってしまう。残された菜枝としては一人呆然とするしかない。
というか、これは昨日の仕返しなのか? 昨日、あの二人を置いて帰った仕返しなのか?
そんな下らないことを考えてみるけど、絶対に違うだろと即座に否定する自分がいる。
ヤバい、どうしよう。凄い困ってるんだけど、私……。菜枝は一之瀬を好きだと優は言っていた。そして、一之瀬は菜枝に考えろと言う。
イヤだー、何かそれ凄く認めたく無い。だって、だって、あの一之瀬だよ? あんな奴好きになる物好きいるのか? とか思ってたのに自分か? 自分なのか?
何だか泣きたい気分で、残っていたコーヒーを一気飲みすると、菜枝はガックリと肩を落として店を出た。
優から貰ったのは本らしく、こういう贈り物は初めてのような気がする。家に帰ると現実逃避気味に優から貰った包みを開ければ、そこにはハードカバーのイラスト集が入っていた。そして表紙を飾るのは、菜枝が初めてドーリアで見たあの絵だった。何よりも驚いたのは表紙に書かれた名前が佐伯優となっていて驚きを隠せない。
確かに服飾デザインをやるまでは絵画をやっていたことは記憶にあるけど、まさかあの店のイラストを優が書いていたとは想像すらしていなかった。でも、知ってしまえばあの細やかさ、温かさは確かに優に似てる。恐らく、優だって今日の話しは予想がついていた筈だ。それでも菜枝には優しくて、それが凄く嬉しいと思ってしまうのは、ちょっと楠木が言うようにイヤな女なんだろうか。少なくとも相手には求められている感情とは違うだろうことは分かる。
パラパラとページを捲っていけば、菜枝の好きな世界がそこに広がっていて心がほわほわと温かくなってくる。やっぱり、この世界観が凄く好きかもしれない。でも、優が好きじゃないというのは中々理不尽な気がしないでもない。人を好きになるのと、世界観が好きってやっぱり別物なんだな。そう思いながらも最後までゆっくりと見ていれば、一番最後のページで手を止める。
「世界で一番大切な幼なじみに捧げる」
たった一言だったけど、途端に訳の分からない罪悪感に襲われる。どうしてそんなことを思ったのか分からない。でも、その言葉からも愛情が伝わってきて、ただ申し訳なく思った。一番近くにいて、何でも話せて、菜枝にとっても優は大切な人だ。だからその罪悪感は、菜枝が優の気持ちに気付けなかったことも大きかったのかもしれない。
もっと早くに気付いていたら、もっと違う道があったのかもしれない。けれども、時間はどんなに頑張っても巻き戻せるものじゃないし、それを知った所で菜枝が優を好きになったかなんて、実際にその時にならなければ分からない。
分かっていても、胸が痛くて涙で文字が滲んでくる。謝れば、優は笑って許してくれるに違いない。だからといって実際に謝るのは、菜枝の都合を押し付け過ぎなことだって分かる。自分の心なのにままならないものだと思いながら、菜枝は滲む涙を手の甲で拭った。

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