菜枝の前には冷ややかな顔をした男が一人、そして優しげな男が一人、並べると対照的な男が二人並んで座っている。名刺を交わし、穏やかに仕事の話しをしているけど、何故か菜枝には割り込むことの出来ない何かがあって、菜枝はひたすら目の前に並ぶ料理を口に運ぶしかない。何だか目の前には見えない壁があって、触るな危険という張り紙まで見える気がするのは気のせいだろうか。
そんなことを考えながらも、先程きたばかりのシーザーサラダを小皿に取ると、それを再び口に運ぶ。最初にビールでお疲れ様と乾杯はしたものの、余り飲めない菜枝は結局その一杯も半分程しか飲んでいない。
それに比べて、目の前に座る二人はパカパカとジョッキを空けては次々と頼んでいる。また、それが顔色一つ変わらないからちょっと怖い。絶対に頑丈な肝臓を持っているに違いない。
そんな場違いなことを考えていれば、不意に二人の視線がこちらへと集まり心の声が聞こえたのかとヒヤリとする。
「それで、菜枝としてはどう思うかな」
「えっと、何が?」
「お前は話しも聞いていなかったのか」
「いや、まぁ、食べるのに夢中で」
途端に一之瀬はわざとらしく大きな溜息をつくと呆れたような視線を投げてくる。
「色気よりも食い気か」
「べ、別にそういう訳じゃなくて!」
言いたいことは色々あるけど、二人の雰囲気が怖くて何も聞こえない猿を実行していましたとは言えない。
「食い気でいいよ、もう」
どこか投げやりな気分で言えば、優はクスクスと楽しそうに笑っている。笑われるつもりは無かっただけに、微妙な気分になる。
「ウエディングドレスの話しだよ。妊婦さんがドレスを着たら、一番気になるのはどこかなって話し」
「それはやっぱりお腹じゃないかな。お腹が目立つことでドレスのラインが崩れるのが気になるんじゃないかな。あとは、お腹への負担。赤ちゃんがいる訳だから、あまり窮屈なものはやっぱり式の間中、気になるもんじゃないかな」
「あぁ、そういう考えもあったね。そうなるとお腹周りがぴったりしすぎるものは余り良く無いかもしれないね」
「でも、ドレスってやっぱりぴったりめの方が綺麗なんだよねー」
「うーん、実際に男の僕だと分からないから、社内で妊婦さんのいる家族に協力して貰うのが一番かな」
何だかこの話しの方向だと、いつの間にか作る方向に進んでいる気がしないでもない。
「作るの?」
「マタニティのノウハウが無いから試しに一着だけ。それがあった方がオーナーを説得しやすいって一之瀬さんは言うから」
「そっか、うん、出来たら嬉しいな。そしたら担当のお客さんに着せてあげられるし」
「サイズ変更がきくような形に出来るだけするよ。でも、可愛らしく」
「うん、ありがと!」
「どう致しまして。ついでに、菜枝のドレスも見て欲しいんだけど」
思わず口をつけたビールを派手に噴き出しそうになり、おもいっきり咽せてしまう。
「ゆ、優、だから、その」
「まぁ、見るだけ見てよ。折角作ったから」
「でもね」
「それは一応牽制、のつもりか?」
不意に口を挟んだ一之瀬だったけれども、その言葉がいつも以上に冷たい声音で思わずそちらへと顔を向ける。声と違わず不機嫌そうな表情で優を見ていて、それを見た優はやっぱり穏やかに笑っている。
「いやだな、そんなつもり全くありませんよ。僕が一之瀬さんに牽制するだけの何かあると?」
「これのこと以外ありえないだろ」
そう言って一之瀬が指差すのは菜枝で、指差された菜枝としてはギョッとする。
「ちょっ、一之瀬!」
「一之瀬さんはストレートですねぇ。まぁ、牽制というよりも先制攻撃かな」
「俺の方が先手だったと思うが?」
「あぁ、あれ。お陰さまで思い切ることが出来ましたよ」
「でも、いささか遅かったようですね」
「そうでしょうか? まだ巻き返しが利く範囲だと僕は思ってますけど」
寒い……凍えて死にそうだ。一体、何だって言うんだ、この二人は。
幾ら菜枝が鈍くても、さすがにこの言いざまを聞いていれば、何を言っているのか分からないほど間抜けじゃない。
「っていうか、本人置いて勝手に話しを進めるな!」
ガンッとテーブルを声と共に拳で叩けば、店のざわめきさえもピタリと止まる。
や、やりすぎた……。
そう思っていると、背後の扉をおもむろに開けた優が開ける。
「お騒がせしてすみませーん」
その声と共に再び喧噪が徐々に戻り出し、菜枝としては大きく溜息をつくしかない。
「お前、短気すぎ」
「うるさい、短気にさせてるのは誰だ」
「俺だけじゃないな」
「そーかい、でもその中にあんたも含まれてるだろ!」
「ほら、菜枝落ち着いて」
「落ち着いていられるかー!」
勢いよく椅子から立ち上がると、菜枝はそのままバッグを引っ掴むと扉を大きく開けた。
「もう、あんたたちとは食事しない。ご飯が美味しくなくなる!」
それだけ言うと背後で名前を呼ぶ二人を置いて店を出た。
訳が分からないなんてもんじゃない。一体、何がどうあって、こんなことになっているのか誰か説明して欲しいくらいだ。親友だと思ってた優と、同期のライバルだと思っていた一之瀬が、何がどう転がって菜枝を好きだというのかさっぱり分からない。
わぁー、私、モテモテ~。なんて喜べたのは学生時代までで、今となってはただひたすら困惑するだけだ。
何なんだ、あいつらは!
そんな気分で歩いていれば、女性の声で名前を呼ばれて足を止める。振り返れば、こちらへ軽く手を挙げる楠木の姿があって菜枝は駆け寄った。
「楠木さん、先輩と出掛けたんじゃないんですか?」
「置いてきた。うだうだ男らしく無いこと言うから面倒で」
「丁度いいです。呑みましょう!」
「常盤、酒弱いじゃない」
「もの凄く飲みたい気分なんです」
少しの間悩んだ様子を見せた楠木だったけれども、ニッコリと綺麗な笑顔を浮かべた。
「よし、私も飲みたい気分だし、一緒に飲みに行きましょう」
「賛成!」
嘉門を挟まずに楠木とどこかへ行くのは初めてだったけれども、先まで気まずさを考えたら全く気にならなかった。楠木の行きつけの店に連れて行かれると、そこは静かなバーだった。余り飲めない菜枝としては、こういう場所に訪れるのは初めてのことで、少し緊張気味に店へと足を踏み入れた。
マスターと楠木が軽く挨拶を交わし、一番奥のカウンターの端へ腰掛ける。足の長い椅子は楠木にはよく似合うけど、菜枝にはどうにも背伸びしているような感じで似合わない気がする。椅子ばかりでなく、バーという場所自体に菜枝は浮いてる気がしないでも無い。
「お飲物は何になさいますか?」
「バーボンロックで。この子には甘めのアルコール少ないカクテルでも」
「好きな果物とかありますか?」
マスターが菜枝へと問い掛けてきて、菜枝は少し悩んでから「ベリー系なら何でも」と無難に答えておいた。少なくともお酒でベリー系なら菜枝にとって外れは無い。カクテルというものを飲んだことが無いから、何とも言えないけれども、楠木の言い方で少なくともアルコールを取り慣れていないことは十分に知られていると思えた。
マスターが立ち去ると、楠木がこちらへと視線を向けてきた。
「で、先約のあった常盤はあんな場所で何してた訳?」
「まぁ、色々あったんで店を飛び出して来ちゃいました」
「それって恋人?」
「いえ、絶対に違います」
やけに力説してしまい、楠木は困惑げに菜枝を見ていたけど小さく溜息をついた。
「じゃあ、やっぱり本命は一之瀬?」
「だからどうしてそこで一之瀬が出てくるんですか」
大声を出しそうになって、それでも堪えたのは菜枝としては誉めてほしいくらいだった。けれども、そんな菜枝に楠木は艶やかに笑うと、菜枝の額を人差し指で突ついた。
「な、何ですか」
「あいつの気持ち分かってるんでしょ」
「うー……多分」
「それとも他に揺れる男がいる訳?」
揺れてる訳じゃない。じゃないけど、確かに優にはプロポーズまでされている訳で、答えていないということは揺れてるってことなんだろうか。
「うーん」
「きちんと考えて、付き合う気が無いなら振っておきなさい。そのままでいいやなんて思ってると、キープしてる嫌な女になるわよ」
「キープ、ですか?」
「そうでしょ? 思わせぶりなふりして付き合う気がないなら」
「でも、このままでいたいと思うのはやっぱりダメなんですかね?」
「嫌な女になりたいなら止めないわよ」
菜枝としても嫌な女になりたい訳じゃない。ただ、優にも断らないといけないとは思っているけど、今の関係が崩れるのが怖いだけだ。でも、それは菜枝の一方的な思いであって、優に関係あることじゃない。
「何だか、楠木さんが凄く格好良く見えます」
「格好良かったら、ここで常盤と飲んでたりしないんだけどね」
マスターの手によって目の前に置かれたのはカクテルグラスに氷の入った赤い透明なお酒だ。少なくとも、菜枝が今まで飲んでいたサワーなんかとは訳が違う。
「うわー、綺麗な色」
「こちらはカルーアクランベリーになります」
説明だけしたマスターはそのまま菜枝たちの前から立ち去ってしまい、菜枝は細い足を恐る恐る持つとグラスに口をつけた。
「うわー、美味しい。凄い、こんな美味しいお酒あったんだ」
「常盤、あんた今まで何を飲んでたのよ」
呆れたような楠木の声に、菜枝は今まで飲んできた酒の種類を並べてみる。
「ビールとか、サワーとか、そういうのしか飲んだこと無いですけど」
「酒飲みになれとは言わないけど、酒屋で売ってるカクテルくらいは試しておきなさい。じゃないと、男を喜ばせるだけよ」
「え? 別に喜ばれるのは良いんじゃないんですか?」
「……そうね、常盤くらい可愛げある方がいいかもね」
そのまま楠木は長い溜息を落とすと、グラスに口をつけた。何だか物憂げな表情は、いつもキリっとした感じの楠木ばかりを見ていた菜枝には見慣れないものがある。余りにもマジマジと見すぎたのか、こちらを向いた楠木が少しだけ笑う。
「まぁ、色々あるわよね。で、常盤としてはどっちが本命?」
「本命も何も、どっちもそういうつもりないですし」
「本当に?」
さも意外という顔をする楠木に、菜枝としては納得が行かない。それではまるで……。
「楠木さんは私が誰を好きだと思ってるんですか?」
「言ってもいいの?」
逆に問い掛けられてしまうと菜枝としても言葉に詰まる。楽しそうにこちらを見る楠木の顔を見ていたら、菜枝は自然と答えていた。
「言わないでいいです」
「そうね、そういうことは自分で気付くべきだわ」
気付くべきということは、菜枝は何かを見落としているのかもしれない。ただ、それが何だかは分からないけど、楠木には見えているのかもしれない。
それからは、女同士の話しで少しだけ盛り上がり、三杯目を飲んだところで菜枝の意識は朦朧としてきた。カウンターになつくと、ひんやりとしていて気持ちがいい。
「全く、たった三杯しか飲めない癖に私に付き合おうなんて百年早い」
遠くで楠木の声を聞きながら、ふわふわと笑みを浮かべる。
「でも、すごーく楽しいですよ」
「でしょうね。まぁ、見てて私も楽しかったから良しとしておくわ」
「それなら凄く嬉しいです」
「はぁ……お迎え呼ぶから少し待ってなさい」
楠木は席を立ち、マスターに何かを言ってから店を一度出て行った。恐らく電話でも掛けに行ったに違いない。お迎えとなれば、恐らく先輩辺りだろうか。だとしたら、明日、それこそ何か奢らないといけない。
「じゃあ、宜しくね」
酷く遠くで楠木の声が聞こえて重い瞼をどうにか開ければ、菜枝が知っている視界とは全く違う。もっと高い場所で、ゆらゆら揺れている。背負われているのだと気付いて、菜枝はヘラリと笑う。
おんぶなんてして貰ったのは、子供の頃以来かもしれない。視界はゆらゆら揺れて、心がほわほわする。広い背中は男の人だと分かるけど、恐らく先輩に違いない。少しだけ甘えたい気分で、前に回る腕でキュッと力を入れると、一瞬、その足が止まる。けれども、何も言うことなく再び歩き出して、菜枝はふにゃりと笑った。
何だか嬉しい。暑いのに、この温かさ嬉しい。
ゆらゆら揺れる視界の中で、瞼は再び重くなり思考は朧げになっていく。意識の最後に聞こえた溜息は、誰かのものに酷く似ていた 。
* * *
遠くで耳慣れないアラームの音が聞こえて、徐々に意識が覚醒していく。隣で動く気配があり、アラームが止まるところで菜枝はぼんやりと目を開けた。目の前にいるのは見慣れた顔だけど、眼鏡が無いし、髪の毛も逆立っていない。
「起きたのか」
「一之瀬?」
寝ぼけながら隣にいる男に確認するように言えば、途端に不機嫌そうな顔を見せる。
「他に誰がいる」
その声はどう聞いても間違いなく一之瀬で、不意に意識は覚醒した。
「え? あれ?」
思わず慌てて自分が服を着ているのか確認してしまった菜枝に罪は無いと思いたい。しっかりと服は着ていて、ストッキングすら楠木と飲んだ時と変わらず、そのままベッドに寝ていたらしい。その事に安堵して溜息をつけば、隣からも菜枝よりも大きな溜息が聞こえてきて、ぎこちなくそちらへと顔を向ける。当たり前だけど、起きてすぐにそんな動作をされたのであれば、幾ら一之瀬が面白い筈が無い。
「寝てる女襲う程飢えてはいない」
「ご、ごめん……いや、でも、ここどこ?」
「俺の家だ。昨日、菜枝が潰れたから楠木さんが俺の家に泊めろと電話入れてきたんだ」
「あ、昨日のおんぶ……」
あの広い背中が嬉しかったことは微かに記憶にある。てっきり先輩だとばかり思っていたけど、まさか……。
「気付いたなら起きろ。この馬鹿」
「ご、ごめん! だって、あれ先輩だと思って」
「何故そこで嘉門さんが出てくる」
「いや、楠木さんが迎えを呼ぶとか言ってたから、そういうので呼び出されるなら先輩だとばっかり思ってて」
「今はそれは無いな。もっと落ち着けばありえるかもしれないが」
何だか微妙に気になる言い回しに思えて菜枝は首を傾げる。落ち着くも何も、あの二人の間に何かあったのか、そしてその言い方だと一之瀬は何か知ってるように思える。
「そういえば、一之瀬と楠木さん、仲良しだよね」
「仲良し……どうしてそうガキくさい……少なくとも俺と楠木さんは仲良しでは無いな」
「でも、よく話してるし、この間も文句も言わずにフォローしてたじゃん」
「お前と嘉門さんを引き剥がす共同ラインを張っただけだ」
「はいー? 何だそれは」
「放っておくと、いつまでもベタベタしてるからな」
「ちょっとベタベタって人聞きの悪い。先輩後輩なんだから仲が良いのは当たり前じゃない」
「それだと俺が困る」
あ、ヤバい。多分、今は踏みたく無い話題を踏んでしまった。
そう思っても時は戻らない。ベッドから逃げ出そうとしたところで、一之瀬の手が顔の横についてしまい逃げ場を一瞬で失う。
「あ、あのさ、ほら、そろそろ」
「菜枝が好きだ」
「困るから無理!」
「嫌いとは言わないんだな」
「嫌いじゃない! だから困る!」
「お前、やっぱり馬鹿だな。そう言われて引く男がどれだけいると思ってる」
ヤバい、ヤバい、超絶にヤバい。
ゆっくりと近付いてくる一之瀬の顔は相変わらず好みだけど、菜枝は慌てて腕を一之瀬の胸について突っ張る。
「そう言われても本心だから仕方ないじゃない!」
「だから馬鹿なんだ」
突っ張っていた両手をベッドへ縫い付けられると、そのまま一之瀬の顔が一気に近付き菜枝は目を閉じた。唇に触れる感触が、前よりもやけにリアルで一気に顔が赤くなるのが分かる。舌先が何度も唇の上をなぞり、背筋からゾクゾクと何かが這い上がってくる。いつの間にか掴まれていた手は頭上で拘束されていて、片方の手は菜枝の顎を掴むと何度も唇を重ねる。
逃げられないまま、ただ追いつめられるような気持ちでいたけれども、そんな菜枝を救ったのは目覚ましのアラームだった。不機嫌そうに唇を離した一之瀬は目覚ましを叩き付けるように止めると、菜枝へと視線を合わせる。その目が真剣で、思わず菜枝はコクリと唾を飲み込んだ。
「少しの間結論は待ってやる。でも、俺の前で隙を見せるな。抱くぞ」
「抱くって……」
「この間みたいに優しくしてやるって言ってるんだが?」
そう言って笑う一之瀬の顔は凶悪なもので、あわあわと菜枝はベッドから飛び出した。
「絶対に隙なんて見せない」
「そうしてくれ。俺も犯罪者にはなりたくない」
「あんたに理性は無いのか!」
「そんなもの、とうの昔にゴミ箱へ捨てた」
「それは最低すぎでしょ」
「そうかもな」
シレッと答えた一之瀬に菜枝が唖然としている間に、ベッドから降りた一之瀬はあっさりと菜枝の横を抜けてリビングへと移動してしまう。我に返った菜枝は、慌てて一之瀬の後を追い掛けてリビングに出れば、そこにはコンビニの袋が置いてあり一之瀬がビニールを逆さまにすると、中からパンやらコーヒー、紅茶まで出て来た。
「好きなのを食べろ。俺は風呂に入る」
「でも、出勤時間!」
「時計を見てから喋れ、馬鹿」
それだけ言い残して一之瀬はリビングから出て行ってしまい、菜枝が壁にある時計を確認すれば、まだ六時を回ったところだった。恐らく、一之瀬は菜枝が家に帰る時間まで考慮して目覚ましをセットしてくれていたらしい。
色々と言ってはいたけれども、実際、酔っぱらって寝こけた菜枝をおんぶしてまで家に連れて来てくれて、ベッドに寝かせてくれた。しかも、手を出す訳でも無く、こうして起こしてくれたのだから感謝すべきであって文句を言える立場では無いことは確かだった。
「くっそー、嫌な奴だと思うのに、益々嫌いカテゴリーに入れられないじゃないか」
ブツブツ一人文句を言いながらも、テーブルの上に置かれたとても二人分とは思えないパンの中から二つ選び、これまたとても二人分とは思えない量の飲み物の中から紅茶を選んだ。
こうして菜枝に選択肢を与えてくれる優しさがあるというところも全くもって困る。口を開けば嫌な奴なのに、行動の一つ一つを見たら優しさがあって、だからこそ嫌いになれない。菜枝は選んだパンの袋を開けると大きく口を開けて齧りついた。
甘いメロンパンは絶対に一之瀬の趣味じゃないだろうから片付けてやる。ついでにクリームパンもだ。
そんな気分で菜枝は紅茶とパンを片付けたところで一之瀬が風呂から出て来た。相変わらずのバスローブ姿に、菜枝としては視線のやり場に困りながらも食べ終えたパンのゴミを片付けると、ソファに置いてあったバッグを掴む。
「取り合えず、この恩はいずれ返すから」
「車で送る」
「いい、そこまでして貰ったら、本気で恩を返せなくなりそうだから。本当にありがとう!」
それだけ言うと、菜枝は一之瀬の家を後にした。
家に戻って風呂に入っても恐らく時間は余る。きちんと昨日は食事を取っていなかっただけに、一之瀬の気遣いは本当に有難いものだった。果たしてどんな形で恩を返すべきなのか、それを考えると菜枝としては頭の痛いことではあったけれども、嫌な気分では無い。
けれども、不意に楠木の言葉が蘇る。
嫌な女になりたくなければ————。
それはもう、勿論なりたくなんて無いし、なるつもりもない。だから、きちんと自分の気持ちは見極める。
とにかく優には断りを入れる。それだけを決意して菜枝は手に持っていたバッグを握りしめた。