Chapter.IV:不幸な結婚 Act.2

書類を終えて更衣室に向かえば、更衣室前で一之瀬が立っていた。
「お疲れ様、今日はありがとう」
「別に」
「で、そんな所で何してる訳?」
「楠木さんを待ってる」
いつからこの二人はそんな仲良しになったんだ?
そんな疑問を持っていれば、丁度着替え終わった楠木が更衣室から出て来た。菜枝を見て、それから一之瀬を見てから楽しげに笑う。
「あら、逢い引き」
「馬鹿なこと言ってないで帰りますよ。家まで送ります」
「別にいいわよ。必要無いわ」
「まだ体調悪いですよね。面倒なので意地張らないで下さい」
ある意味、一之瀬はやっぱりグレートだ。先輩を先輩とも思わない態度に菜枝としては唖然とするしかない。けれども、楠木は全く気にした様子も無く肩を竦めて見せた。
「そういう行動してると誤解されるわよ」
「それが何か?」
「いつか後悔するわよ。まぁ、そこまで言うなら送って貰うわよ。常盤、お疲れ」
「はぁ、お疲れ様でした」
何だか二人の姿が見えなくなるまで呆然と見送ってしまい、複雑な心境で菜枝は更衣室へと入った。確かに複雑な心境だけど何が複雑なのかさっぱり分らないところが複雑だった。
楠木と一之瀬が思っていたよりも仲良しだったことなのか、それとも一之瀬が他人に対して気遣いを見せることだったのか、あとは一之瀬が楠木に対して優しくしていたから……。いや、待て、何かその思考はおかしいぞ。別に一之瀬が楠木に優しくても、それはそれで良いことだと思う。そう思ってる筈だけど……。
自分の分らなさに菜枝は首を傾げながらも着替えを済ますと、ホテルを出た。もやもやとした気分のまま駅前まで出ると、改札口で人待ち顔で立つ見慣れた姿があり思わず声を掛けた。
「優、どうしたの?」
「良かった。これ以上遅かったら今日は諦めようかと思ったんだ」
「私のこと待ってたの? それだったらホテルの方に顔を出すなり、メールしてくれたら良かったのに」
「前にホテルの前で待ってたら、この間菜枝と一緒にいた彼に注意されてね。メールしても良かったけど、仕事急かすのも悪いから。取り合えず、一緒に食事でもどう?」
一緒にいた彼と言うのは恐らく一之瀬のことに違いない。けれども、ホテル前にいたくらいで注意するとは大げさだと思う。これがホテル正面で待っているのでは問題もあるだろうけど、所詮、社員用の裏口。しかも優は出入りの業者だから知っている人間の方が多い。
「変なの。裏口なら問題無い気がするんだけどね」
「まぁ、一応僕も男だし、女性に怖がられても困るから」
そう言って笑う優はやっぱり優しげな笑顔で、果たしてこれを怖がる女性がいるのかと不思議に思う。
「でも、これからはメール頂戴。食事かぁ、それなら定食屋に行こう。たまにはごちそうする。いつもおごられてばっかりだし」
「うーん、定食屋ってところが菜枝の懐具合を示してるね」
「仕方ないでしょ。これから先、何があるか分らないから少しでも蓄えは作っておかないと」
実際、菜枝には両親の保険金も残されてはいるけれども、どうしても菜枝はそれに手をつける気にはなれなかった。唯一手をつけたのは大学に入学する際に借りただけだ。あくまで借りたのであって、使い込んだ訳では無い。勿論、後からアルバイトで穴埋めはしたし、今は元通りの額に戻っている。ただ、保険金に手をつけてしまうと、菜枝にとって両親との繋がりが無くなってしまうような気がしてどうしても手がつけられなかった。
「珍しいことなのでご馳走になります」
「宜しい」
偉そうにふんぞり返って菜枝が言えば、優は笑い、二人で並んで行き着けでもある定食屋で食事をした。一之瀬に連れ去られて以来、優とは会っていなかったけれども、優はそれについて触れることはしなかった。だから、菜枝としても普段通りに会話をして、ブライダルフェアの時に刈谷のドレスを融通して貰ったことも素直にお礼が言えた。
食事を終えた帰り道、駅までの間にある公園を通り過ぎようとした時に不意に優が足を止めた。
「ん? どうしたの?」
「菜枝、僕と結婚しない?」
「…………は?」
余りにも唐突な言葉に、さすがに間抜けな声しか菜枝も出て来ない。頭はフル回転で結婚の意味を探し出すけど、少なくとも菜枝にとって結婚の意味なんてものは一つしかない。
「えっと、優?」
「もうずっと考えていたんだけど、僕と結婚したら少しは楽になるんじゃないかと思って」
「でも、結婚って好きな人とするものだよ? 優は……」
それ以上、菜枝には言葉に出来なかったけど知ってる事実がある。少なくとも優は姉である玲子が好きだった筈だ。途端に困ったような笑みを浮かべた優は、手を伸ばしてくると背中に腕を回して抱きしめてくる。
「もう、何年も前から菜枝のことが好きになってるよ。ずっと傍にいてくれたから玲子のことは忘れられた。これからも傍にいて欲しい」
「待った! え? だっていつから好きって?」
優の肩に手を置いて引き剥がしつつも優を見上げれば、優は苦笑しながら菜枝を見下ろしてくる。
「大学に入った頃には、もう菜枝が好きだったよ。でも、いいと思ったんだ、このままでも」
「だったら」
「うん、彼が現れるまではね」
「彼?」
「キスマーク、彼がつけたんでしょ?」
途端に菜枝の顔に熱が集まり、一気に赤くなったのが自分でも分かる。そして、優が言う彼が誰を指し示しているのかようやく理解する。もしかしたら、菜枝が一之瀬と消えたあの日、優はこんなことを思いついたのかもしれない。
「あ、あれは」
「あれを見て、僕もそろそろ決心しないといけないと思ってさ」
「あの、でも私は」
「明日、納品するドレス見に来てよ。昼休みで構わないから」
「ゆ、優?」
「初めて菜枝に似合うドレス作ったから、菜枝に見て欲しいんだ」
不味い、何だか非常に不味い。畳み込まれるとどうしても優には昔から敵わない。でも、ここで流される訳にもいかない。
「ちょっと待って! 私、明日は休みだし、あの、私は優のこと」
「兄貴みたいに思ってるんでしょ? でも、彼とは恐らく結婚出来ないよ。菜枝、結婚するの昔からの夢だったでしょ」
「確かに夢だけど、それは好きな人とであって」
「なら僕のこと嫌い?」
「嫌いじゃない。でも、そういう意味で好きな訳じゃないし!」
「なら彼は?」
一之瀬が好き? いやいや、あれは同期であってそういう対象じゃない。少なくとも、一之瀬は忘れるって言ってたし、菜枝だって経験を積むだけにしちゃっただけで……。
「……違うもん」
「ふーん」
あ、やだな。これが出た時、絶対に優は何か考えてる。
「好きじゃないとは言わないんだ」
「す、好きじゃないし!」
「それなら結婚してもいいと思わない? 少なくとも寂しい思いだけはさせないよ」
それは中々にして心惹かれる申し出ではあるけど、さすがにそれを寂しさを埋めるために結婚するようなことはダメだと思う。結婚はずっと夢だった。結婚すれば幸せになれて、皆に祝って貰えて、好きな人とずっと一緒に――――。
不意に、今日朝一に担当した佐々木の顔が頭に過る。
結婚することは本当に幸せに直結するのか?
菜枝の心の中に落ちてきた黒い固まりのように、その言葉は菜枝をモヤモヤとした気分にさせる。ずっと夢見てた結婚だったけど、果たして菜枝はそれを手にすることが出来るのか分らない。当たり前だ、絶対的に幸せな結婚なんてものは世の中に数パーセントしか存在しないに違いない。けれども、大多数の人は幸せを大なり小なり感じるものだと思っていたけど、もしそうじゃないとしたら菜枝の結婚に対する根幹にも関わらる。
「菜枝?」
「ご、ごめん……何か、結婚が何だか分らなくなった」
「大丈夫? 顔色が」
「うん、平気。ちょっと今日会ったお客さんのこと思い出しちゃって。ごめん、優、今日は帰る」
「菜枝!」
引き止めるような声が背後から聞こえてきたけど、菜枝は優を置いてひたすら駅に向かって走り出していた。何だか結婚が目の前に迫ってきたら、急に怖くなった。優との結婚云々じゃなくて、結婚するということ事態が怖くなった。もしかして、結婚というのは好きな相手を縛るものだったのか。そう考えたら、菜枝にとって夢のような幸せはどこにあるのは途端に見失ってしまった。それが怖い。
電車に乗って家に帰ると携帯に優から「返事は急がないで待つから」と一言だけメールがあった。けれども、菜枝は返事をする気分にはなれず風呂に入ってしまうと、何をすることもなく布団の中へと落ち着いた。いつもなら、すぐに訪れる筈の眠りは中々訪れることなく、最後の意識にあったのはカーテンの隙間から入ってくる淡い朝焼けだった。
そんな状態だったから、菜枝としては完全に寝不足だった。携帯の鳴る音で目を覚ませば、枕元にある携帯を引き寄せると確認もせずに通話ボタンを押した。
「もしもし」
「菜枝か? お前、今起きたのか?」
「先輩、あれ、私、今日休みですよね」
「休みなのは分ってる。だから今日は絶対にホテルに近付くな」
「……寝ぼけてるのか先輩が言ってる意味が分りません」
「ニュース見ろ、ニュース! 忙しいから切るぞ」
それだけ言うと嘉門からの電話は切れてしまい、目を擦りながらも布団から起き出して菜枝はリモコンでテレビの電源を入れた。途端に画面に映るのはホテルの映像で、一気に眠気が覚めた。無理心中というテロップに酷く胸騒ぎがする。
不意に玄関のチャイムが鳴り、パジャマのままでノロノロと立ち上がると手近に置いてあったカーディガンだけ羽織って玄関先の扉を開けた。いかつい男の人が二人いて、いきなり警察手帳を突きつけられる。相手が何かを言うよりも先に、手の中にある携帯が鳴り出し目の前に立つ相手と、携帯を交互に見つめれば相手に「どうぞ」と言われて携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし」
「菜枝、家にいるのか?」
珍しく少し焦ったような声の一之瀬に、菜枝はどこか遠い思考でぼんやりと答える。
「あ……うん。何があったのかさっぱり分らなくて」
「警察来てるか?」
「目の前に」
「今お前の家に向かってる。何も言わなくていいから黙ってろ」
問い掛けるよりも先に電話は切れてしまい、切れた電話に視線を落としたまま途方に暮れる。
「すみませんが、お話しを少し聞かせて頂きたいのですが」
顔を上げれば険しい顔をした男の人が二人いて、更に菜枝は途方に暮れるしかない。黙ってろと言われても、警察相手に黙っていられるものなのか菜枝の方が知りたい。
「昨日、佐々木七海さんが無理心中を計り堤啓司さんが現在重体です。その事件についてお伺いしたいことがあるのですが」
「重体って、堤さんが?」
「はい、あなたは昨日、ホテルで二人と会話したとのことですが」
「結婚式を上げたいということでお話を伺いました」
「その時に何か聞きませんでしたか? 何でもいいので」
「何でもって言われても……」
二人と一対一で少し会話を交わしただけで、これといった事件に関わるような話しはしていない。ただ、個人的に菜枝は佐々木が怖いと思っただけで……。
不味い、凄く怖い。
「菜枝!」
聞き慣れたその声に足下へ落とした視線を上げれば、余程急いできたのか制服のままの一之瀬がこちらへ走ってくるのが見える。思わずホッとしてしまった菜枝に対して、一之瀬は何かを言うことは無くスッと菜枝と警察の間に入り込むと菜枝に背を向けた。
「お話しでしたら、ホテルで福永が伺います」
「ですが、常盤さんにも幾つか確認したい点がありまして」
「それでしたら、うちの福永も一緒に立ち会います。元々、福永の担当でしたから」
「そうは言われても、佐々木七海が常盤さんの名前を出しておりまして」
「でしたらホテルの方で伺います。菜枝、出られるか?」
「あ、うん、着替えてくる」
どこかおぼつかない足取りで部屋に入ると、一之瀬の手で扉が閉められた。部屋の中では先程つけたテレビが今聞いたばかりの情報を報道していて、頭がクラクラする。
二人に会ったのはつい昨日の話しで、その時には全然そんな雰囲気は無かった。ただ、お互いが好きで……いや、好きの度合いは菜枝から見ても佐々木の方がより大きかったように感じた。まるで全てを手に入れたいとでも言うような物言いに、菜枝としては怖くなった。
テレビを消して、いつものように私服に着替えると手早く化粧をして、昨日から置いたままのバッグを手に取ると再び玄関の扉を開けた。
「ではホテルの方へ行きましょう」
警察の一人に促されてアパートを出ると、菜枝は有無を言わせない勢いで一之瀬の車に乗せられた。助手席で座ったままでいると、運転席についた一之瀬が口を開いた。
「シートベルトしとけ」
言われるまで気付けなかった自分を情けなく思いながらも、慌ててシートベルトを締めると車はゆるやかない発進した。
「菜枝は聞かれたことだけ答えればいい。後は全て部長がどうにかする」
「でも」
「いいか、お前は何も言うな」
そう言われると負けず嫌いがつい発動するのは、もう仕様かもしれない。
「警察来てるのに何も言わない訳にもいかないでしょ」
ハンドルを握った一之瀬がちらりとこちらを見ると、口元に笑みを浮かべる。何で笑うんだと思っていれば、前を向いた一之瀬は先程まで感じていたピリピリとした空気が無くなっている。
「その方が菜枝らしい」
「悪かったわね。大人しいと薄気味悪くて」
「誰もそこまで言っていない」
「似たようなもんでしょ。取り合えず、佐々木さんと堤さんを巻き込んで無理心中しようとしたことまでは分かった。でも、その先が全然分らない」
途端に笑いを引っ込めた一之瀬は、少し間を置いてから話し出した。
「部長が言うには、奇妙な空気が流れていたそうだ。そして、ホテルを出て一時間後に無理心中」
「うぅ、結婚まで考えた二人なのに切ない」
「菜枝、それ本気で言ってるか?」
きつめのその声に菜枝としては素直に頷けなかった。いや、結婚まで考えていたのに無理心中というのは切ないと思う。ただ、それよりも、こうなるんじゃないかという予感がどこかにあったのかもしれない。佐々木の言動から堤に対して、どこか妄執めいた気持ちが見え隠れしていたから。
「結婚って、幸せになりたくてするんじゃないのかなぁ」
「打算や計算がある結婚もあるが、それは人それぞれだろ。菜枝がそう思うならそう思っておけばいい」
「でも」
「幸せの定義なんて人それぞれだ。菜枝の中に定義があるなら、別に揺らぐ必要は無い。菜枝の場合、元々幸せな結婚願望が強いなんだから、そのままでいろ。今の職場ではそれはプラスになる」
果たして本当にそうなのだろうか。佐々木は菜枝の名前を出したと言っていた。だとしたら、彼女のスイッチを自分は何か押してしまったのではないだろうかと心配になってくる。
「無駄な心配してるな。なるべくなった結果だ。菜枝に責任は無い」
「でも」
「結婚に対する思いなんて人それぞれだ。他人に惑わされるな」
昨日から佐々木との会話で菜枝は確かに惑わされているのかもしれない。そうでなければ、優ともあんな……。
「あ、しまった」
「今度は何だ」
菜枝としては、やっぱり結婚は幸せになりたいからしたいものだし、好きな相手としたい。それが菜枝にとって不変なものであるなら、優のプロポーズは受けるべきじゃない。
「失敗したぁ……あれじゃあお断りになってないし」
「だから何の話しだ」
「いや、うん、こっちのこと」
「お前……」
途端に一之瀬の周りの空気が苛立たしげに変化したことが分かる。だからといって、プロポーズされましたなんてプライベートなことを言える筈も無い。
「プライベートなことなので黙秘します」
「佐伯にプロポーズでもされたか?」
「な……何で知ってるの?」
途端に驚いた顔でこちらを見た一之瀬だったが、運転中ということもありすぐに前へと向き直る。
「冗談のつもりだったんだが……そうか。断るのか?」
「まぁ、結婚はしたいけど、優とはそういう関係じゃなかったし」
「そうか……結婚したいのか?」
「それはもう、一之瀬も言ってたけど、幸せな結婚願望強いからさ」
「それなら俺と結婚するか?」
余りにもサラリと言われて聞き流してあーはいはい、と返事をしそうになって息が詰まる。
「今、なんと?」
「菜枝が望むなら結婚くらいしてやるが、と言った」
「えーと、誰と誰が?」
「俺と菜枝」
「あ……あはははは。無い、無いからそれ」
思わず涙目になるくらい大笑いして溜息をつけば、運転席に座る一之瀬も同じタイミングで溜息をついた。
「ちょっと、バカにしてるでしょ」
「あぁ、馬鹿な奴だとは思ってる」
「何でよ、だって一之瀬、私のこと別に好きじゃないでしょ」
「好きじゃなければあんな大事に抱いたりしないがな」
何か、今、色々と聞き違えただろうか。幻想? 妄想? それとも、悩みすぎて脳にきた?
「ごめん、今、色々と聞き違えたみたい。えっと何?」
返ってきたのは言葉では無く盛大な溜息で、そのまま車はホテルの地下駐車場へと入っていく。菜枝としては聞き違えたらしき言葉を色々組み替えてみたりするけど、どうしてもそうとしか聞こえない。いやいや、でも、一之瀬がそんなこと言うとは思えないし、まさかねぇ……。
問い掛けようにも一之瀬は不機嫌そうだし、菜枝としては止まった車から素直に降りることしか出来ない。後から入ってきた警察の人たちと一緒にエレベーターに乗り込む時には、随分と自分を立て直していることに気付いて一之瀬に感謝したい気持ちになった。もし、あのまま菜枝一人だとしたら、ただ呆然としたまま警察から色々と話しを聞かれるままだったに違いない。車の中での会話も、基本的には菜枝のことを考えてくれた会話だったと今なら分かる。
あー、ムカつくけど、時々本気で腹も立つけど、こうして時々優しくされるから更にムカつく。だって、これじゃあ嫌な奴のカテゴリーに入れられそうにない。
そう思いつつ菜枝の気持ちは随分と前向きになっていて、事務所へと入れば警察の人と共に福永、そしてオーナーと共に会議室へと入ることになった。菜枝が直接聞かれたことは二、三で、他は全て福永が答えてくれた。どうやら、福永は菜枝と佐々木の会話、そして菜枝と堤の会話をずっと聞いていたらしい。
事情聴取は一時間程で終わり、制服の中で一人私服のまま菜枝は自分の机にぐったりと身を預けた。周りからの同情的な視線は感じていたけど、口を開くのも億劫な気分だった。別に疑われるような聞き方では無く、ドラマのように脅されるような口調も無く、普通に警察は紳士的な態度ではあったけど緊張感は並大抵のもじゃない。
「菜枝ー、大丈夫か?」
「多分、でも正直疲れました」
「お疲れ様でした、常盤さん」
その声にぐったり机になついていた身体を慌てて起こすと、声のする方向へと視線を向けた。
「いえ、何だかこちらこそすみませんでした。殆ど部長に押し付けるような形になってしまって」
「いえいえ、別に構わないですよ。私はそのために上にいるんですから、ああいう面倒ごとは幾らでも押し付けて下さい」
うわー、上司の鏡だよ。この人の部下で本当に良かったかもしれない。
穏やかに笑う福永をつい熱いまなざしで見つめていたところ、腕を引かれた。
「一之瀬?」
「今日は午後からにスライドしてるので、常盤を家まで送って行っていいですか?」
「別にいいよ。ここからなら帰れるから。それに仕事あるでしょ。もう大丈夫だから」
まるで見極めようとするかのように見ている一之瀬に、菜枝は苦笑するしかない。
「うん、本当に大丈夫だから仕事して。私は買い物でもして帰ることにするから」
「……分かった」
「それでは常盤、これにて帰ります」
敬礼なんてして見せて笑いを誘ってから、菜枝は一人事務所を後にした。
大丈夫、揺らがない。自分の中にきちんと大切なものは残ってるから。
そんな気持ちで菜枝はホテルから出ると、青い空を見上げて目を細めた。

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