Chapter.IV:不幸な結婚 Act.1

一週間の間にブライダルフェアは終え、仕事上、これいといった問題も無く終わったことに菜枝としてはホッとした気分になっていた。実際に美華子の挙式を含めブライダルの予約も何件か貰ったし、あと一、二回打ち合わせをすればブライダル予約を貰えそうな顧客も数組いる。それは菜枝にとって快挙とも言えるべきことでもあった。
ただ、問題は一つ残っている訳で……。
「お先に失礼します」
いつもと変わらぬ声で隣から声を掛けられて菜枝は慌てて顔を上げる。途端に一之瀬とばっちり目が合ってしまって、一人情けないくらい慌てふためく。
「あ、うん、お疲れ様」
言いながらも目が泳いでしまい、菜枝としてはどうにも落ち着かない。けれども、そんな菜枝を気にした様子も無く、一之瀬はいつもと変わらない。
「あぁ、お疲れ様」
菜枝の言葉に返すようにそれだけ言うと、一之瀬は事務所から出て行ってしまう。一之瀬があれだけ普通なのだから菜枝としても普通にするべきだと思うのに、どうにも上手く行かない。どうしてもあの時の一之瀬がちらついて、挙動不審になってしまうのがいけない。
小さく唸りながらも、菜枝は手元にある書類へと書き込んでいると背後から椅子を転がしながら菜枝の隣に嘉門が落ち着く。
「あのさぁ、お前ら、一体どうなってる訳?」
「ど、どうって? 何が?」
「菜枝と一之瀬」
「いや、別に何も無いというか……どうなんでしょう?」
「見てる方が微妙な気分になるぞ。こうモヤモヤとした気分になるというか」
「それはあんただけよ。常盤、書類終わった?」
会話に混ざったのは楠木で、慌てて菜枝は書類を指差す。
「あとこれが終われば」
「よし、じゃあ、今日は飲みに行くわよ」
「はい?」
「色々聞いてみたいじゃない。ほら、嘉門も書類上げなさいよ」
菜枝が口を挟む間も無くポンポンと話しは進んでしまい、菜枝も慌てて書類を終えると三人でホテルを後にした。すぐ近くにある個室居酒屋に腰を落ち着けると、三人してビールでお疲れ様と声を掛け合い、しばらくの間はホテルについて愚痴やこういう困った客がいた、などという当たり障りの無い会話が進む。
けれども、菜枝が三杯目のビールに口をつけた辺りから話しが徐々に怪しげな方向へと向かい出す。
「あー、それにしても、あんたと一之瀬がやっちゃうとは思わなかったわよ」
勢いよく飲みかけだったビールを噴き出してしまい、言った楠木はケラケラと笑いながらおしぼりを投げてくる。
「あ、あ、あの」
「別にいいわよ、もうバレバレだから。初めての経験にオロオロしてるのは見物だったわよー」
仕事は出来る人だと思う。でも、こんな明け透けな人だっただろうか。
半分魂が抜けたような気分で楠木の後ろを見れば、ジョッキやらカクテルグラスやら大量にあって、もうすでに出来上がっているのだろうことは知れた。酔っぱらいを笑顔で誤摩化すほど難しいことは無い。
「取り合えず、拭け」
そう言って嘉門もおしぼりを差し出してきて、菜枝はテーブルの上を渋々拭き始める。すでに一通り食事も片付けてしまい、テーブルの上にあったのはそれぞれの酒と、枝豆、お新香程度のつまみしか無かったから被害は無い。
落ち着け、落ち着け、そんな言葉を念仏のように唱えながらテーブルを拭くと、片隅におしぼりの山を作った。
「まぁ、でも、お前らぎこちなさすぎ。もっぱらぎこちないのは菜枝の方だけか」
「そうそう、一之瀬なんてからかってもサラリと躱しちゃって可愛く無いったらないの」
「何を言ったんですか!」
「常盤のこと頂いちゃったのって」
や……やーめーてーくーれー!!
心の叫びは楠木に届くこともなく、ケラケラと相変わらず楠木は笑っている。
「そしたら、あいつ、さぁ、だって。さぁ、って何よってねぇ」
「時折、お前の度胸の良さが俺には怖いよ。お前、よくオーナーの息子に」
「あら、だってあそこにいるのはあくまで私たちの同僚。オーナーの息子なんて今は関係無いでしょ」
「だからってなぁ……で、ずっと気になってたんだけど、菜枝は一之瀬と付き合ってるのか?」
嘉門の問い掛けに菜枝としては言葉に詰まる。少なくとも恋人になったという記憶は全くもって無いし、菜枝だってそんなつもりは無い。ただ、そうただ、エッチしたというだけの仲であって、別にそれは興味のあった菜枝が一之瀬を利用したにすぎなくて……。
「……違います」
微妙に後ろめたい思いでそれだけ言えば、隣に座る嘉門が眉根を寄せる。
「菜枝、そういうのよく無いぞ」
「あらあら、そんな説教、あんたがする訳? 入社した頃には適当に同僚食っちゃった男が?」
「ば、馬鹿! そんな昔の話し!」
慌てる嘉門を見ていると、どうやら楠木の話しは嘘という訳では無い。確かに学生時代から当たりの良さもあって嘉門の周りには、結構女性が多くいたことを知っているだけにそれを否定するだけの材料も無い。
「先輩、そうだったんですか?」
「昔の話しだ、昔の!」
「あはは、あんたが焦ってる姿見るのは楽しいわ」
「お前、それを菜枝に暴露するために飲みに連れて来たのか!」
若干怒り含みの嘉門に対して楠木は笑いを納めると、菜枝へと視線を合わせてきた。先程の笑いとは裏腹にその視線は真剣で、思わず菜枝の笑いも引っ込んでしまう。
「別に職場恋愛しようと文句は言わないわよ、好きにしなさい。でも、業務に支障をきたさない努力をしなさい」
「支障、きたしてますか?」
「きたしてるに決まってるじゃない。あんたが一之瀬避けまくってるから、最近はおかしな空気が流れつつあるわよ。元々一之瀬って浮いてる所があったけど、あんたがいたからどうにかなってた部分もあるし」
「そ、それはあいつの自業自得というか」
「だったら、周りに迷惑掛けてる自覚は無いってこと?」
さすがにそれは菜枝としても頷けない。昨日、書類が終わらず居残りになった時、これといって忙しそうでもない様子だった福永が残っていたのは、一之瀬が珍しく残っていたからに違いない。ここ数日、嘉門が一之瀬に話し掛けている様子を見かけることが多かったのは、一人浮きつつある一之瀬に嘉門が気を使った証拠に違いない。
そう、色々と菜枝だって見ていたけど、見て見ぬふりをしてきた。だからこそ、菜枝は首を横に振れば嘉門が横からいつものように頭を撫でる。
「まぁ、当人たちの問題だから口は出せんが、フォローくらいはしてやる。でも、そうか、付き合ってないのか」
どこか安堵したような嘉門の口調に、菜枝は首を傾げたけど楠木は再び楽しそうに笑っている。
「あんた、そんなに気になるなら常盤の相手、あんたがしてやれば良かったじゃない」
「く、楠木さん?」
今、菜枝としてはもの凄く恐ろしいことを聞いた気がする。そして、それは隣に座る嘉門も同じだったらしく、頭を撫でていた手がすっかり止まっている。
「お前、とんでもないこと言うな! 菜枝は俺にとって妹も同然だっての。手なんか出せるか!」
「で……ですよねー。いや、私もさすがに先輩相手だと無理ですよー、あはは」
笑ってみたけど、何だかダメージを食らった気がする。
それは、嘉門にとって女に見えないということでは無いのかと思うと菜枝としては些か複雑な心境だった。隣に座る嘉門へと視線を向ければ、嘉門も微妙な顔をしていてお互いに大きく溜息を吐き出した。
「別に菜枝を女として見てないって訳じゃないからな」
「大丈夫です、私も先輩を男として見てないって訳じゃないですし」
何だろう、この微妙な慰め合い。
そんなことを思いながらも、菜枝は再び大きく溜息をついた。
「でも、どうすればいいんですかねー。もう、一之瀬にどう対応すればいいのか分からないっていうか」
「あら、告白でもされた訳?」
「いえ、全然。ただ、何て言うか変に照れくさいというか……」
「あら、思ったよりも純情乙女発言でお姉さん困っちゃう」
「純情乙女って……」
少なくとも菜枝とこれほど似つかわしく無い言葉は無いに違いない。けれども、菜枝としては本気で困ってもいた。この状況のままいつまでも停滞している訳にはいかない。少なくとも二人しかいない同期なのだから、今まで通りくらいまでには戻りたい。
「開き直りなさい。っていうか、常盤が開き直らないと一之瀬はどうしようもないと思うわよ。実際、あの無表情の下でジレジレしてるんでしょうし」
「ジレジレしてるか? だって、一之瀬だぞ!」
「してるに決まってるでしょ。あれだけ露骨に避けられたら一之瀬だって面白くないと思うわよ、実際に。それに一之瀬が切れる前に常盤が対処する方が丸く収まるわよ」
「一之瀬が切れるってありですか?」
「そりゃあ、あるでしょ。人間なんだから」
そうか、確かにあれでも人間だ。菜枝にとっては訳の分からない相手でも、確かに人間であることは間違いない。感情だってあるし、面白く無ければそりゃあ切れるに違いない。
「まぁ、でも切れる云々は置いておいても、俺も一之瀬とは早めに和解というか、普通に接するようにした方がいいとは思うな。ちょっと、あいつ風当たりがきつくなってきてる」
「そうなんですか?」
「まぁ、今まで菜枝が一緒だったこともあったから周りも多めに見てたけど、ほら、前に溝口に対して一之瀬が使えないみたいなこと言っちまっただろ。あれ以来、他の連中は一之瀬のことを面白く思ってないからな」
「いや、あれは一之瀬が悪いと思いますよ」
「悪いっていうか、あれは何だ、あと二年もすれば一之瀬の中でも若気の至りとか、穴掘って埋めたい過去入りするとは思うけどな」
「まぁ、そうでしょうね。一之瀬って性格悪い、口悪いって感じだけど、少なくとも馬鹿ではないと思うから来年辺りには過去の発言振り返って反省くらいはするかもしれないわね」
あの発言が悪く無いとフォローする二人の心境がよく分らない。けれども、どこか二人は納得している様子で菜枝だけが置き去りにされた格好になる。
「まぁ、一之瀬の立場を考えるなら、常盤は普通通りにしなさい。じゃないと近い内に問題勃発するわよ」
「普通、ですか……普通でどうだっただろう」
「一之瀬に負けん気バリバリ。それこそ常盤って感じよ」
「うぅ、頑張ってみます」
結局、そのまま飲み会はスライドした馬鹿話に終止し、居酒屋を出た楠木はまだ飲み足りないと言って嘉門を連れて街中へと消えていってしまった。余り飲めない菜枝としても、その日は少し飲み過ぎの状態で電車に揺られながら眠気と戦いつつ家へと帰った。
負けん気バリバリか……多分、明日から大丈夫だと思う。いや、大丈夫にして見せる。
変な気合いを入れながら、敷いた布団に大分すると着替えることもせずに眠りに落ちた。
翌朝いつものようにホテルへ出勤すれば、入り口の所でバッタリと一之瀬と出くわしてしまう。平常心、平常心、そんなことを心に唱えながら菜枝は一之瀬に声を掛けた。
「おはよう」
振り返った一之瀬は珍しく微かに驚いた顔を見せたものの、すぐにその表情をいつもと変わらぬ微かに口の端を上げた嫌味な笑みへと変化させる。
「おはよう。どういう風の吹き回しだ」
「復活宣言! もう気にしないっていう意思表示をしてみた」
「……思ったよりも早かったな」
その言葉からも一之瀬としては、もっと膠着状態が続くと思われていたらしいと知る。元々、一之瀬は気にしないと言っていたのだから、菜枝だけが一方的に気にしているだけの話しであって、周りに迷惑を掛けている現状ではこれ以上引き摺ることなんて出来ない。
無心になれ。
そう言い聞かせながらも、菜枝は笑みを浮かべた。
「いつまでもグダグダしてられないし、仕事は忙しいし」
「まぁ、そうだな。お前は忙しそうだ。書類書くのが遅いから」
「うるさい、どうせ書くの遅いですよ」
書類書きが慣れてきたと言っても、まだまだ菜枝のスピードでは周りの人間に追いつかない。そんな軽口にイーッと子供のようにして見せれば、呆れたような視線を投げられたけど、それと同時に菜枝は一之瀬を追い越してホテルへ向かう。
「ガキだな」
言われるとは思ったけど既に背を向けた菜枝には一之瀬がどんな顔をしているのかは分らない。ただ、前のように軽口を叩けたことにホッとしつつも、少しだけ嬉しいと思える自分がいる。駆け足でホテルの裏口から入ると、更衣室に入るなり額を押さえて座り込んでいる楠木の姿があった。
「おはようございます」
遠慮がちに声を掛ければ、楠木が鬱蒼とした顔を上げた。
「何か、顔色悪いですよ?」
「……二日酔い。あれから五軒ほど嘉門と梯子したから」
嘉門は確かに今日休日だからいいだろうけど、これでは楠木だって辛いに違いない。菜枝はロッカーの中からポーチを取り出すと、中に入ってる胃腸薬を取り出して楠木に差し出した。
「二日酔いにも利くと思うんですけど」
「ありがとう、飲んでおくわ」
そう言って礼を言う楠木だったけど、その表情は青いを通り越えて既に白い。菜枝はその足で自販機に向かうと、ミネラルウォーターを買い再び更衣室へと戻り楠木にそれも手渡す。
「これで飲んで下さい」
「こういう細やかさはちょっと見習いたいわね」
「細やかですか? 微妙に言われ慣れない言葉で落ち着かないんですけど」
「分らないならいいわよ。あんたはそのままでいなさい」
謎めいた言葉を残して薬を飲み干すと、二つ並べた椅子の上に横になった。
「悪いけど、時間になったら起こして」
「分りました」
そんな会話を最後に楠木からすぐに寝息が聞こえ始める。元々、楠木は出勤してくるのが早いこともあり、まだ始業までは時間がある。少し悩んでから菜枝は一旦着替えてしまうと、ロッカーにある予備のタオルを冷やして楠木の額に置いた。
楠木がお酒が好きな事、そしてかなりお酒に強いことは何度か一緒したことがあるから菜枝も知っている。けれども、こうして翌日に響くような飲み方をしたのは初めて見た気がする。
近くの椅子に腰掛けて、菜枝も時間ギリギリまで更衣室にいることを決めた時、ロッカーに入れたままの携帯が振動している音がして慌てて手に取ると廊下に出てから通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あー、嘉門だけど……楠木の様子、大丈夫か?」
「二日酔いで来てます。顔色とか悪いんですけど、昨日、そんなに飲んだんですか?」
「まぁ、な」
やけに言い淀む様子が気になって菜枝が口を開こうとする前に、電話向こうの嘉門は早口に捲し立てる。
「とにかく、今日、あいつ調子悪いと思うからフォロー頼むわ。それじゃあ」
それだけ言うと電話は切れてしまい、菜枝は小さくその場で「逃げた」と呟いた。
多分、何かはあったんだと思う。ただ、その何かは菜枝が立ち入れることじゃないことは二人の様子からも分かる。けれども、楠木のフォローをしろと言われても、菜枝が出来ることなんてそう多く無い。
「先輩もせめて頼む人間選べばいいのに」
「どうかしたのか?」
問い掛けられてそちらへと顔を向ければ、訝しげな顔をした一之瀬が立っている。一之瀬も着替え終えてもう事務所へ向かうつもりらしい。ただ、問い掛けられても菜枝としてもどう答えていいのか分からず、曖昧に笑うしかない。
「あー、いや、うん、多分何でもない」
「本当に?」
「うーん、多分?」
途端に一之瀬は大きな溜息を吐き出すと、呆れたような顔を向けてくる。
「お前の多分は当てにならない。何があった」
「あんたにゃ、言葉を選ぶ選択肢は無いのか!」
「お前相手に遠回しな言い方が通じないから分かりやすく言ってるんだろう。それで、何があったんだ」
「……楠木さんがちょっと具合悪いみたいで、先輩にフォローを頼まれた」
途端に一之瀬は訝しむような顔を向けてきて、菜枝にはその意味が分らない。
「なによ」
「楠木さんと嘉門さんはそういう関係なのか?」
「は? そういう関係って?」
「恋人同士なのか、って聞いてる」
一瞬、言われたことが理解出来ず、それでもどうにか理解した途端に菜枝は本気で驚いた。
「えーっ! それは無いでしょ! あれ? もしかして、え? 多分、違うと思うけど……ごめん、分らない」
恐らく多分に挙動不審だったに違いない菜枝に、一之瀬はやっぱり呆れた顔をするばかりでその表情を変えることはしない。
「お前に聞いた俺が馬鹿だった」
「だって、知らないし、そういうこと聞いてないし」
「だが、そうでもないと普通、頼んだりしないんじゃないのか?」
「でも昨日は二人で遅くまで飲んでたみたいだったから」
「飲んでたって……具合悪いのは二日酔いか?」
しまったと思った時には遅く、菜枝は慌てて口を閉ざしたけど更に呆れた視線を投げてくる一之瀬に菜枝としては何も言えない。
「菜枝も一緒に飲んでたのか?」
「一件目まで。だから、それ以降は知らない。あの、他の人には言わないでよね」
それに対しての返事は無かったけれども、溜息だけが返ってきてそれが了承の合図だと分かってしまうのは、それなりの付き合いになるからかもしれない。
「菜枝は自分の仕事をしろ。フォローは俺がしとく」
「でも、頼まれたのは私だし」
「人のフォローが出来るほど余裕ある状況か?」
そう言われると菜枝としてはグッと言葉に詰まる。実際、慣れてきたとは言えども、まだ仕事に追い立てられる状況で自分のことで手一杯なのは確かだった。けれども、一之瀬が他人のフォローするというのは少し意外でもあった。
「本当にしてくれるの?」
「……一応、世話になってるからな。あの人には」
「え? そうなの?」
余りにも意外な言葉につい聞き返してしまったけど、一之瀬はそれに答えることはせずに視線を逸らした。
「具合が悪いってことにしておけ」
それだけ言い残すと一之瀬は背を向けてしまい、菜枝はその背中をほけーと眺めるしかない。
いや、意外だ。もの凄く意外だ。あいつにも恩を感じる瞬間があったのか。
そんな失礼なことを考えながらも再び更衣室に入ると、先程座っていた椅子に腰掛ける。それにしても一之瀬は妙なことを言っていた気がする。楠木と嘉門が付き合ってるというのはありなのだろうか。いや、もしそうであれば、嘉門なら教えてくれそうなものだけど菜枝にはそんな記憶が無い。
でも一之瀬が言う通り、そういう仲でも無ければ嘉門は他人に頼んだりしないんじゃないかとも思える。それこそ、嘉門は自己管理には結構うるさい方だから、二日酔いなんかであれば自業自得の一言で終わりな気がする。その嘉門がフォローを頼むと言ってくるのであれば……いや、先走りは不味いか。
思い込みに走りそうな思考を慌てて打ち消すと、菜枝は眠っている楠木を見下ろす。まだ顔色が悪く目を覚ます気配の無い楠木を心配しながらも、次々に入ってくる人たちに静かにして貰うようにお願いすると時間ギリギリになって菜枝は楠木を起こした。菜枝と二人だけになった更衣室で目覚めた楠木は、顔色こそ悪いけどもういつもの楠木のように見えた。
「ごめん、寝すぎた。何時になった?」
「始業五分前です」
「じゃあ、そろそろ行かないと。ありがとね、常盤」
「あの、まだ顔色悪いですけど」
「大丈夫、化粧で幾らでも誤摩化し利くから。常盤は先に行ってて」
追い出されるかのように背中を押されると菜枝としても扉に向かうしかない。確かに新人の菜枝が行くには時間もギリギリになっていて、これ以上ここにいることは出来ない。
「あの、無理しないで下さいね」
「大丈夫よ。時間までには行くから」
そう言って笑った楠木の顔はいつの笑顔で、菜枝は少しだけホッとしながら事務所へと向かった。それでも落ち着かない気分で席に着けば、すぐに隣に座る一之瀬が椅子を寄せてきた。
「楠木さんは?」
「化粧直してから来るって」
「そう」
短くそれだけ言うと、一之瀬はすぐに手元にある書類へ視線を落としてしまう。菜枝も今日の予約表を眺めながらも、つい心配で扉の方を見てしまうけど始業一分前には楠木はいつもと変わらない表情で現れて席についた。確かに化粧で隠されてはいるけど、顔色の悪さまでは隠しきれていない気がする。ふと隣を見れば、一之瀬も楠木の方を見ていて一応心配しているらしい様子に菜枝としては少しだけ安堵した。
正直、一之瀬は他人を全く気にしないタイプなのかと思っていたけど、どうやらそうじゃないらしいことを知ったからかもしれない。
そうなんだよね、別に冷たい訳じゃないんだよ。ただ、口が悪いだけで。
菜枝は一人納得している間にも福永の挨拶から始まり、今日の業務が始まった。今日は菜枝がブライダルフェアでゲットした予約客が一組、それからどういう繋がりか分らないけど美華子の紹介で来る予約客が一組入っている。事務所を出る時にさりげなく楠木に近付こうとすれば、菜枝よりも早く一之瀬が近付いて行った。どうやら、言葉に嘘は無かったらしく、本当にフォローするつもりはあるらしい。
どうするか迷ったけれども、一之瀬に言われた通り、菜枝に他人を気にするだけの余裕は確かに無い。だったら、一之瀬に任せるべきじゃないかという思いと、出来る限りのことをするべきじゃないかという思いが複雑に絡み合う。でも、ここで菜枝がフォローすることによって菜枝に失点があれば、恐らく楠木は気にするに違いない。それを表に出すようなことはしないだろうけど、それでも気にするのが楠木という人なのだともう知ってる。
だとすれば、菜枝に出来ることは失点しないように努力しながらも楠木を気遣う、という消極的な案しか選択出来なかった。それに一之瀬であれば、自分の仕事に支障を来すような真似はしないに違いない。
でも、何だかモヤモヤするのは一之瀬に対するライバル心なのか?いやいや、出来ることは認めてるんだから今更だけど、やっぱり悔しい気持ちが無い訳でも無い。早く誰に迷惑掛けるでもなく一人前の仕事が出来るようになりたい。それは菜枝の目標でもあり、通過点でもあった。
スタッフルームに入ると既に楠木の姿は無く、もう接客についているらしい。菜枝としても既に待っているお客さんがいるから、ファイルを片手にそちらへと向かう。
今日、一番の顧客は美華子からの紹介という佐々木さんと、堤さんだった。いつものように挨拶を交わし席についたけど、この二人がまた微妙な空気で不思議な気分だった。何と言うか、喧嘩中なのかというくらい二人で話すことが無い。お互いにどちらが何を決めるというのは決まっているらしく、こちらの質問に答えるのは早いけれども、お互いの間に会話は無い。不思議に思いながらも、菜枝としては終止笑みを浮かべて接客するしかない。
佐々木さんの方がトイレに立つと、途端に堤が菜枝へと苦笑を向けてきた。
「ごめんな、空気が悪くて」
「いえ、それは構わないんですけれども、どうかされたんですか?」
「実は、彼女が今になって結婚したくないって言い出してさ」
「それなのに式場の予約を?」
「もう両親への挨拶は済ましてるし、正直、俺もどうして彼女が怒ってるのか分らなくてさ。まぁ、ここへ来てくれるだけでも別れるつもりは無いんだってことは分かるけど……名越に利いたら、常盤さんに任せれば彼女から色々聞き出してくれるって聞いて、正直、藁にも縋る思いでここへ来たんだよね」
また、美華子め、難題を……。
少しだけ心の中で恨みがましい気持ちをぶつけて見るけど、紹介してくれた美華子に文句を言う筋合いは菜枝には無い。ただ、果たして佐々木の気持ちを解して話しを聞ける状況に持って行くには、少し厄介な気がしないでも無い。
「心当たりは無いんですか?」
「それが全く思いつかなくて困ってるんだ。両親とも楽しそうに話してたし」
手元にあるファイルをちらりと確認すれば、佐々木も堤も菜枝と一歳違いで気は楽でもあった。ただ、年が近いということはそれだけ顧客側からすれば不安になる材料でもある。
「取り合えず、話しはしてみますから一度、適当に理由をつけて席を外して貰ってもいいですか?」
「え? 理由聞いて貰えるの?」
「聞けるかどうかは分りませんけど、もしかしたら女性同士の方が話し易いこともありますし」
「うわー、有難う! もう本当に困ってたんだよ。取りつく島も無くて」
それはそれで、少し情けない気もしないでも無かったけど、佐々木の気持ちは確かに聞いてみたくもあった。こうして式場へ足を運ぶのであれば、それなりに結婚はしたいと思っているに違いない。そうでなければ、二人揃って結婚式場には来ないに違いない。
化粧室から戻ってくる彼女の姿が視界に入り、菜枝はそれまでの会話を遮り引き出物ページを堤へと差し出した。
「こちらのプランも他のお客様には好評です」
にっこり笑顔を浮かべて背後へチラリと視線を向ければ堤も気付いたのか、すぐに手元のページへと視線を落とした。
「あぁ、そうなんですか」
「お待たせしました」
堤の声に被るように佐々木が戻ってきて、椅子へと腰掛ける。きっちりと纏められた髪は、どこか楠木と印象が被る。
「七海、ちょっと俺、席外すから。社に連絡しないといけなから」
「あっそ。会社なら仕方ないじゃない。行って来たら」
素っ気ない物言いからも、佐々木はどことなく怒っているのが分かる。もしかしたら、堤が席を外す理由を分っているのかもしれない。理知的な顔立ちからも、かなりしっかりした女性だと思えて、菜枝としても一筋縄じゃいかない予感がしないでも無い。けれども、堤が席を立った途端、佐々木は小さく声を立てて笑い出す。
「佐々木様?」
「あの人に頼まれたでしょ。私が不機嫌な訳を聞いて欲しいって」
「いえ、そんなこと」
「いつもそうなの。性格だから仕方ないとは思ってるんだけどね。私、いつも頼りない男ばかり好きになるから」
そう言って笑う佐々木の目は優しげなもので、とても嫌いな男について話しているようには見えない。
「彼ね、結婚したら私に仕事を辞めて欲しいって言うの。もう、本当に事も無げに。でもね、彼の給料だけじゃ食べて行けないって現実に気付いてないのよ」
そ、それは、本当に結婚相手として選んでいいのだろうか……。
つい菜枝としては本音が頭を過るが、客の前でそんな顔を出来る筈も無い。
「いつまでも世間知らずの甘ちゃんだけど、頭にくるほど好きなのよねぇ、あんな男が本気で」
長い溜息を零す佐々木に菜枝は乾いた笑いしか返せない。正直、菜枝としては辞めた方がいいんじゃないですか、この結婚、という言葉が喉まで出掛かってどうにか飲み込んだくらいだ。さすがに社員としてここにいる以上、そんなことを口に出来る筈も無い。
「結婚、されたいんですよね?」
「したいわよ。彼を繋ぎ止めておけるなら。でも、私、仕事が生き甲斐だったから辞めるつもりも無いのよ。私短大出だから今の仕事について三年になるんだけど、ようやく今年昇進したばかりだから仕事が面白くてね。しかも、彼がそんな状態だから仕事を辞めるのも怖くて」
「その気持ちは分ります」
つい佐々木の意見に賛同してしまってから菜枝は我に返り、口元を押さえる。けれども、そんな菜枝に佐々木はクスクスと楽しげに笑う。
「結婚って終着点って気がするけど、私、幸せになれると思う?」
それは酷く漠然とした質問でもあった。少なくとも菜枝にとって結婚は終着点ではなく、再出発だと思っているからその時点で考え方の違いもある。
「幸せの定義が難しいので、私では何とも言えません。ただ、幸せって待っていれば降ってくるものでは無いと思います。それなりに努力をしないと得られないのかな、とか思ってます」
「じゃあ、結婚後も要努力?」
「相手に好きでいて貰える努力は必要になると思います」
ただ、果たして他人任せ、現実の見えない相手と結婚して幸せかというと菜枝には答えられない。結婚することによって変わる人もいれば、全く変わらない人もいる。良いように変化すればそれは幸せなことだけど、悪い方向へ変化する人間もいることを菜枝は知ってる。少なくとも、結婚というものは安心出来る鎖では無いのは確かだと思う。
「私は彼が好きだけど、彼は同じくらい私を好きじゃないと思うの。だから、仕事を辞めてなんて簡単に言えるんだわ」
何だか上辺だけ聞いてると仕事を辞めろと言われたのが原因と取れるけど、根深いものがありそうで菜枝としては踏み込むのにためらう。他人の恋愛に時折口を出すことはするけど、深入りしたい訳じゃない。これ以上は無理、そんなラインがもう目前に迫っているように感じて菜枝は言葉に詰まる。
「お客様、少し失礼致します。常盤さん、少し宜しいですか」
背後から掛けられた声に思わず安堵の息を漏らしそうになったのを辛うじて飲み込み席を立つ。福永に連れられて壁際へと移動すると、菜枝は少しだけ泣きたい気分になった。自分が思っていたよりも追いつめられていたのかもしれない。
「常盤さん、私たちの仕事は恋愛相談ではありません。言っている意味、分りますね?」
福永の優しい声に癒される日がくるとは思いもしなかった。そして、言っている意味も分かる。だからこそ一つ頷けば、福永が小さく溜息をついた。
「あてられましたか?」
福永は何にとは言わなかった。けれども、絡み付くような呪詛のような言葉が今でも身体にまとわりつくような感覚に小さく身震いする。佐々木の言葉にはどこか毒が含まれているようで、じわじわと菜枝を追いつめるような空気があった。本人にそのつもりがあるのかは分からないけど、追いつめられる感覚がどうしても抜けない。
「常盤さんの持ち味なので悪いとは言いません。けれども、あのお客様は駄目です。担当は私が変わります」
「でも」
「人には向き、不向きがあります。誰かに向かないお客様には他の担当がつく。チームとしては当たり前のことです」
そう言われると菜枝には言い返すことが出来ない。顧客が減ることは菜枝としては余り気にしない。ただ、一度話してしまった顧客を最後まで見届けることが出来ないのが辛い。
けれども、このまま佐々木たちについていれば、菜枝自身も引き摺られそうな気がしないでもない。何かが怖かった。ただ、それがよく分らない。
「いいですね? それに先日のブライダルフェアで予約された田端様がいらしてます。常盤さんはあちらを担当して下さい」
有無を言わせぬ強さがあって、菜枝は小さく返事をすることしか出来なかった。
「少しスタッフルームで休憩して、笑顔を取り戻してから田端様のところへ行って下さい」
「分りました」
辛うじてそれだけ返すと、菜枝は福永に言われた通りスタッフルームへと向かう。途中、楠木が接客している様子が見えたけど、少なくとも具合が悪いようには見えない。楠木の隣には一之瀬が控えていて、本当に一之瀬がフォローしているんだとぼんやり思いながらスタッフルームへ続く扉を開けた。
中へ入った途端、菜枝の口から出て来たのは大きな溜息だった。結婚が必ずしも幸せへの階段じゃないことを知ってる。けれども、少しでも幸せになれるように手助けになればいいと思っていたけど、そういうことじゃないと初めて突きつけられた気がした。
あの二人は本当に結婚していいのだろうか。そう思うけれども、それに対して菜枝は口を出す立場にない。それなら知り合いでもある美華子に一言伝えておくべきじゃないか。そんな思いでロッカーを開けた所で、スタッフルームの扉が開く。思わずそちらへと視線を向ければ、一之瀬がそこに立っていた。
「どうした?」
「えっと……」
吐き出したい気持ちはあったけれども、ただでさえ楠木のフォローに回っている一之瀬にこれ以上負担を掛けることなど出来る筈も無く、菜枝はいつものように笑ってみせる。
「お腹空いたかも」
途端に一之瀬の表情が呆れたものになり、その足でロッカーを開けると黄色い箱を菜枝に向かって投げてきた。思わずそれを受け取り視線を落とせば、そこには栄養食としてコンビニでも売られているお菓子のような食品だった。
「それでも食べておけ。少しは腹持ちするだろ」
実際にお腹が空いていた訳じゃない。けれども、その優しさが嬉しくて菜枝は笑顔を浮かべた。
「ありがと」
「どう致しまして」
いつものように無表情でそれだけ言うと、一之瀬はすぐにスタッフルームを出て行ってしまう。少し悩んでパッケージを開けて、一本だけ口に入れるとパサパサとした食感とチーズの香りが口に広がる。
よし、これを食べて気持ちを切り替えて田端さんには笑顔で会わないと。
佐々木と堤のことは気にならないことは無い。けれども、福永がああ言った以上、菜枝に再び担当として戻して貰える確率は低い。だったら、新たな顧客に対して菜枝は接客する義務がある。
これでもかという勢いで一本を食べきると、壁際にある紙コップで給茶器からお茶を注ぐと一気に飲み干した。最後に口臭スプレーを口の中に入れると、ミントが広がって気持ちもどこかすっきりした気分になる。気合いを入れ直した菜枝は、その足でスタッフルームを出るとブライダルフェアで熱々っぷりと披露してくれた田端たちに足を向けた。

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