Chapter.III:嘘まみれの結婚 Act.2

翌日、タートルネックの袖無しに短いベストを会わせてホテルに到着した菜枝は、更衣室前で待ち伏せするかのように立つ一之瀬と顔を合わせることになった。そしてその手にはしっかりと菜枝のバッグがあり、菜枝は大股で近付くと「おはよう」と噛み付かんばかりの挨拶をしてその手からバッグを奪い取った。
「お前、昨日、どうやって帰った」
「歩いて帰ったわよ!」
実際には優にお金を借りて帰った訳だけど、それを言うのも癪でそれだけ言い捨てると菜枝はすぐさま更衣室の中へと入った。全く反省した様子も無かった一之瀬に本気でムカつく。
あれは何様だ! お坊ちゃんなら何しても許されるのか! あぁ!?
怒りに任せて着替えてとっとと着替えてしまうと、菜枝はいつもよりも大股で廊下を歩く。背後から迫り来る足音に、また一之瀬かと思い勢いよく振り返れば、背後から来たのは嘉門だった。
「どうした」
「何がですか」
「怒ってるように見えるけど」
「えぇ、えぇ、怒ってますよ、もの凄く」
「また一之瀬か」
呆れたような嘉門の声に、菜枝は思い切り嘉門を睨みつける。
「また一之瀬、えぇ、そうですよ、また一之瀬です! 本気でありえないですよ、あいつ」
「今度は何だー」
どこか投げやりに聞かれて菜枝は口を開きかけたけれども、その口を閉ざすことになる。当たり前だ、ベッドに押し倒された挙げ句、キスマークつけられましたなんて死んでも言えない。しかも、相手が相手だけに絶対に言いたく無い。
「どした?」
「……ガーッ! マジでムカつく!!」
「お、おい、菜枝?」
吠える菜枝に嘉門は慌てた様子を見せたが、菜枝が睨みあげれば嘉門は肩を竦めて見せた。
「まぁ、少し大人になってお前が譲歩してやれ」
「大人、大人ですか! 何なら先輩にも同じ事しましょうか?」
そう言った途端に、嘉門の顔が真剣なものになる。足を止めたかと思うと、いきなり菜枝の肩を掴み、急停止を余儀なくされた菜枝としてはかなり驚かされた。
「な、何ですか」
「何かされたのか?」
「……されてません」
いや、実際には十分なほど嫌がらせはされた。けれども言える筈が無い。
「それなら同じ事、俺にすればいいだろ」
「無理です! すみません、言葉の綾です!」
「ということは、俺に出来ないようなことをされた、と」
「いや、そっちも言葉の綾というか……」
まさかそんな言葉尻を取られると思ってもいなかっただけに、菜枝としてはかなりピンチに立たされてしまう。心配されてることは分かるけど、言えないものは言えないのだからどうしようも無い。あわわ、あわわとしている菜枝に神様は微笑んでくれた。
「そこにいられると邪魔なんですけど」
その声で嘉門の手が肩から離れる。けれども、神は神でも現れたのは邪神だったらしい。
「お前、菜枝に何したんだ」
少し尖った嘉門の声にも、一之瀬は全く動じた様子は無い。
「特に何も」
端的に答えると、菜枝に視線を向けてくる。思わず臨戦態勢に入った菜枝に、一之瀬は営業スマイルを浮かべた。
「昨晩は楽しかったですよ、常盤さん」
そんな問題発言を残して一之瀬は立ち去ってしまい、社員通路に残されたのは嘉門と菜枝の二人だけになる。
「昨晩……昨晩って、お前、まさか一之瀬と」
「何も無い! 決して先輩が想像するようなことは何も無い!」
実際に何も無かった訳では無いけれども、嘉門は間違いなくその先まで想像してるだろうことが分かるだけに力一杯否定する。途端に嘉門の表情がホッとしたものになったけれども、疑いの眼差しはそのままだった。
「一体、一之瀬と何してたんだ」
「……残業、かな」
「残業、へー、残業かー」
胡散臭そうな眼差しで見られて菜枝としてはヘラリと笑ってごまかしに入る。
「報告書、上がるの遅かったんですよ。だから」
「それで、昨晩っていうのはどういうことだ?」
「だから、それは」
「あんたたち、邪魔よ」
唐突に掛けられた声に二人揃ってそちらを向けば、楠木が立っている。更衣室から事務所までの通路は案外狭い。二人で立ち止まって話していれば邪魔になるのは確かだった。
「すみません」
「まったく、嘉門も一々口うるさいこと言わないの。常盤だって子供じゃないんだから、そういうことがあってもおかしくないでしょ。例え相手があの一之瀬でも」
「全くありませんから」
楠木の言葉を遮るように菜枝が言えば、意外そうな顔で楠木は菜枝を見ている。一体、何だというのかさっぱり菜枝には分からない。
「何ですか、その顔は……」
「うーん、見当違いかしら。まぁ、いいわ。ほら、とにかくここにいると邪魔なんだから」
まるで楠木に追い立てられるように事務所へと向かうと、まだ半数くらいのスタッフしか来ていなかった。視界に入れるのも面白く無い気分で一之瀬の隣である自分の席に座ると、菜枝は手早く未記入の報告書をファイルに挟む。昨日のようなヘマをして残業なんて真似はもう二度とごめんだっただけに、スタッフルームへ報告書を持ち込むためのファイルだった。
「菜枝」
唐突に名前を呼ばれてもの凄く嫌そうな顔になった菜枝に罪は無いと思いたい。
「私、あんたに名前呼ばれる覚え無いんだけど」
「別にいいだろ。色々あった仲だし」
数人しかいなかった事務所が一瞬にして静まり返ったような気がする。
「あんたと何かあってたまるか!」
「じゃあ、無かったのか?」
「ぐっ……」
無いと言い切れる筈も無く言葉に詰まれば、一之瀬はニヤリと笑う。その笑いがまた癪に障る。
「あんたねぇ」
「嘘は言ってないと思うが」
「あー、そうですか! だったらあんたがしでかした行為を全員に言ってやればいいでしょ!」
「ほぉ、言ってもいいのか?」
楽しげな様子を見せる一之瀬に「言えばいいじゃない」と怒鳴りつけようとしたところで、背後から何かで頭を叩かれた。振り返ればそこに立っているのは楠木で、手には薄手のファイルが握られている。
「常盤、あんた本当に頭に血が上るの早いわね。少し落ち着きなさい。それから一之瀬、からかうのは構わないけど、程々にしなさい。職場の空気が悪くなるし、
聞いてるだけでも気分悪いから。注目度上げたいだけなら、他の方法考えて頂戴」
ピシャリと言った楠木に、一之瀬の笑みが消える。思わず菜枝としては、そんな楠木に格好よさまで見えてパチパチと拍手までしてしまい、一之瀬に睨まれた。けれども、原因は一之瀬であって菜枝じゃないだけに、フイと顔を背けると自分の机に戻ってしまった楠木に駆け寄る。
「有難うございました。あー、せいせいした」
ざわめきを取り戻した室内にしては小声で楠木に声を掛ければ、楠木が呆れたように菜枝を見る。
「あんたも、遊ばれてばっかりいないで少しは反撃方法考えなさいよ。先も言ったけど痴話喧嘩したいなら、外でしてよ、外で」
「痴話喧嘩って、全然そういうのじゃないんですけど」
「それよりも、あそこで顔色無くしてる馬鹿フォローしておきなさいよ。今日だって書き入れ時なんだから」
そう言って楠木を指差す方向へ菜枝も視線を向ければ、そこには呆然とした様子の嘉門がいる。
「あんたの保護者、色々誤解してるわよ、きっと」
その声を既に背中で聞きながら菜枝は嘉門へと近付くと、声を掛けた。
「先輩?」
「菜枝……まさか、まさかと思うが」
「本当に何もありませんから。あれはあいつの嫌がらせです」
菜枝の隣は一之瀬で、菜枝の後ろに嘉門の席があるのだから、この声は一之瀬に筒抜けになっていることは分かっていた。菜枝としては当てこすりの意味もあったが、その背中が振り返ることは無い。
「でも、言い淀んだだろ」
「少なくとも先輩が思ってるようなことはありませんから。っていうか何想像してたんですか、先輩」
からかうように菜枝が言えば、途端に嘉門は視線を彷徨わせる。
「い、いや、俺はだな」
「まぁ、心配してくれて有難うございます」
それだけ言えば、まだ納得はしていない様子ではあったけど、嘉門は菜枝の頭をいつものようにくしゃりと撫でる。
「何かあったら言えよ。きちんと聞いてやるから」
「はい、何かあった時には絶対」
その言葉で嘉門も納得したのかようやく笑みを浮かべたところで福永が部屋に入ってきて、慌てて菜枝は自分の席へと戻る。回りを見れば、既に全員が揃っていて福永の挨拶で今日の仕事が始まった。
いつものように予約確認があり、その中に美華子の名前があったことに菜枝は驚いた。昨日の今日で、もしかして彼に打ち明けたのだろうか。だとしたら、美華子にしては随分頑張ったに違いない。
朝一に入っている美華子の予約、それから二つの予約を貰った菜枝はホクホクした気分でファイルを手に事務所を出た。事務所からラウンジのスタッフルームまでの間、菜枝は一人一枚ずつ渡された予約表を確認しながら階段を上る。
「菜枝、歩きながらは止めとけ」
「平気ですよー、慣れてますから」
その瞬間、不意に足を踏み外してズルリと足下が無くなった。
「菜枝!」
ヤバいと思った時には、目の前には驚いた顔をした嘉門が手を伸ばしている。次に来る衝撃に思わず目を瞑れば、予想していたよりも軽い衝撃に恐る恐る目を開く。
背後から支える腕を頭上から落ちてくる溜息に勢いよく振り返れば、そこにいたのは一之瀬だった。片手で菜枝を支え、もう片方の手は手すりを掴んでいて、状況から見ても落ちて来た菜枝を支えてくれたことは確かだった。
「一之瀬!」
驚きつつも素直にお礼を言うべく口を開こうとすれば、菜枝よりも一之瀬の口の方が先に動く。
「お前、本当に馬鹿だろ」
確かにお礼を言おうとしていた、していたけど、こう馬鹿馬鹿言われるとどうしても突っかかりたくなる。
「あんたねぇ」
「菜枝! 大丈夫か!」
言い返そうとした所で、怒鳴るような声で再び前を向けば、顔色を変えた嘉門がそこにいる。
「あ、大丈夫みたいです」
かなり腹が立っていた気がするのに、嘉門の心配を露わにした表情を見たら急速にその気持ちは萎えてしまった。書類を読んでいて階段を踏み外すなんて馬鹿と言われても仕方ない。第一、嘉門は先に注意をしていたのだから、助けてくれた一之瀬に突っかかるのはもってのほかに違いない。再び振り返って目が合った一之瀬は呆れた顔を隠そうともしなかったけど、菜枝はそんな一之瀬にに口を開いた。
「ありがとう」
「どう致しまして」
もっと突っかかられると思ったけれども、一之瀬はあっさりと菜枝を離すと階段を上り始めてしまい、菜枝としては拍子抜けする気分だった。
「菜枝、本当に大丈夫か?」
「や、もう、本当に大丈夫です」
「お前、余り心配かけることすんな」
「うー、本当にすみません」
心配顔から本気で怒り顔へと変化している嘉門に、菜枝はもう素直に謝ることしか出来ない。確かに今回菜枝一人が落ちただけなら自業自得だったに違いない。
背後にいたのが一之瀬だったから良かったものの、他の女性スタッフだったらさながら地獄絵図になっていたに違いない。それを想像したら、とても嘉門相手とはいえ軽口を叩く気分にはなれなかった。
「一之瀬にも後でもう一度お礼言え」
「はーい」
「伸ばすな!」
「はい!」
そんな遣り取りをしていれば、背後から軽くファイルで頭を叩かれて振り返る。後ろに立っていたのは呆れた顔をした楠木で、指先で追い払うような仕草をされてしまう。
「早く行きなさい。ったく、危なっかしいんだから」
「うぅ、すみません」
「謝るのはあと、あと。もう、早く行って頂戴」
そう言われたら菜枝としてもそこに留まっている訳にもいかず、今度は書類に目を奪われることなくきちんと階段を上った。既にスタッフルームからラウンジに出ているスタッフも多く、菜枝も慌ててスタッフルームにファイルを置くと一応ロッカーについてる鏡で自分の顔を確認する。
階段を落ちた瞬間、もう本気でヤバいと思った。今頃になって心臓がバクバク激しくなりだし、菜枝は落ちる瞬間を思い出して身震いする。でも、まさか一之瀬に助けられることになるとは想像もしてなかった。むしろあいつなら落ちて来た菜枝を避けるくらいのことはするんじゃないか……。
そこまで考えた時、自分の中の考えを打ち消した。
いや、一之瀬はそういうことはしないか。もの凄く、もーの凄く腹の立つ言動は多いけど、それでも、本気で困っている時に手を貸さずに見捨てるような奴じゃないことは短い付き合いながらに知ってる。嘉門の言う通りお礼はするべきだと思うけど……昨日の状況を考えると素直にお礼を言うのも微妙な気分で、鏡に映る菜枝の表情は渋面になっていた。
「おい、いつまで百面相してる」
扉からの声に慌てて顔を上げれば、そこには相変わらず無愛想な顔をした一之瀬が立っていた。
「部長が呼んでる」
そう言って親指で背後を指差す一之瀬に、菜枝は慌ててロッカーから必要なファイルを取り出してから扉をへと向かう。そして一之瀬の前で足を止めると、迷いは消して頭を下げた。
「先はありがとう」
「今晩、家で待ってる」
それだけ言うと一之瀬は踵を返してしまい、菜枝は一之瀬の言葉を脳内で繰り返す。
今晩、家で待ってる……とは、一体何事? いや、お礼に家へ来いってことか? それはまさか……いやいやいや、幾ら一之瀬でもお礼に身体を差し出せとか、そんなことは言わない……よね?
自答自問してみるけど、答えは見つからないまま菜枝はその場に硬直してしまう。
「常盤さん?」
思考の坩堝にはまっていた菜枝は、福永に声を掛けられるとようやく解凍し、弾かれたように顔を上げる。
「あ、すみません! えっと」
「既に名越様がお待ちですよ」
そう言って昨日と同じ窓際に座る美華子と、菜枝たちよりも五歳程年上の男性が並んで座っているのが見えて、慌てて足を向けようとしたところでもう一度名前を呼ばれて足を止め振り返る。
「軽口は程々に」
笑顔で言われて、菜枝は昨日の失敗を思い出して真面目な顔で返事をすれば、更に福永は笑みを深くする。
「笑顔でお願いしますね」
「はい、分りました」
言われるままにいつもの笑顔を取り戻した菜枝は、その足で美華子たちのテーブルにつくと挨拶をして美華子の彼とも名刺を交わす。田所直己と書かれた名刺の肩書きには大手企業の副社長と書かれていて、確かに美華子が言う通り玉の輿には違いない。きっりと着込まれた高そうなスーツと、綺麗に整えられた髪はそれだけで品の良さは感じられる。穏やかな表情こそしているものの、どこかその空気は一之瀬と似通っているように菜枝には感じられた。
美華子も昨日のような軽口を叩くことは無く、菜枝も結婚式について軽く説明してから色々と要望を聞き出していく。
「招待客は恐らく千人規模になると思うのですが、大丈夫でしょうか」
それは少なくとも菜枝の担当した中ではかなりの大規模になる。いや、それ所か、千人規模となれば一年に一回あるかないかというかなり大きな規模に違いない。
「それは大丈夫です。披露宴については着席であれば千人、立食であれば三千人までは可能ですから」
「着席だと千人ですか……分りました、千人まで絞り込みたいと思います」
副社長という立場で千人規模とか、さすがに菜枝も聞いたことが無い。これが社長というのであればまだ理解出来るけど……あぁ、玉の輿ということは、まさに社長の息子という立場なのかもしれない。だとしたら、自分の付き合いだけで人を呼べる立場でも無い筈だ。
本当に凄い広い物を見つけてきたものだという気分で美華子を見れば、美華子は酷く曖昧な表情を浮かべるだけだった。
もしかして……。
不意に携帯が鳴り出し、田所が「失礼」と言って席を外すと菜枝はすぐに美華子に小声で名前を呼ぶ。
「あんた、もしかして言ってないの?」
「……何かタイミング悪くて」
「バカ、タイミング悪いとかそういう問題じゃないでしょ、ここまできたら」
「でも……確かに嘘ついてた私が悪いんだけど、嫌われたく無いし」
気持ちは確かに分らなくは無い。昨日の美華子の話しからしても、恐らく美華子は一生に一度くらいの勢いで田所に本気なのは分ってる。ただ、美華子の嘘は可愛いものでは無いし、状況的に嘘を突き通せるものでも無い。
「両親の顔合わせとかどうしたのよ」
「まだしてないの。結婚式を決めてから驚かせたいって言って、無理矢理納得させてる」
「ちょっと、本気でヤバいじゃん、それ。っていうか、もう少し話しが進んだら絶対にバレるよ。それだったら絶対に自分の口から言った方がいいって」
「何が自分の口から言った方がいいんですか?」
穏やかな声に美華子と共に菜枝も顔を上げれば、そこには穏やかな笑みを浮かべた田所がいて菜枝は引きつらないように気をつけながらも笑みを浮かべた。
「ささやかな女同士の内緒話です。お電話終わりましたか?」
「えぇ、丁度父からでしたので確認したら、父からもここだったら問題無いと言われたので予約をしたいと思っているのですが」
「田所さん! もっと他も見て回るんじゃ」
慌てた様子を見せる美華子にも田所は笑みを浮かべたままで動じる様子も無い。
「どうせなら美華子さんもお友達がいるところの方がいいんじゃありませんか?」
「確かにそれはそうですけど」
尻窄みになる美華子の言葉にも田所の笑顔は崩れることは無い。菜枝はそんな田所に少しだけ引っかかりを覚えたけれども、ここで菜枝まで美華子に付き合っていたら美華子の嘘がバレてしまうに違いない。勿論、菜枝から田所に教えることも可能ではあったけど、こういうことは出来るだけ本人の、美華子の口から話した方が絶対にいい。だからこそ、微妙な反応をする美華子にあえて声は掛けずに田所へと視線を移す。
「予約を行うのは本日でも可能ですよ。どれくらい先をお望みになられますか?」
「そうだな、半年くらい後の方が色々な方に挨拶に回れて丁度いいのですが」
菜枝は手元のファイルを開き、半年先の予約表を取り出すとその紙を田所へと向けた。
「半年先であれば、このバツがついている以外でしたらどちらでも予約可能ですが」
「それでしたら、日曜日の大安の日に」
「分りました。お名前は田所様のお名前で予約という形で宜しいですか?」
「えぇ、お願い致します」
予約用紙を取り出しボールペンと共に田所へと差し出せば、田所が空欄を埋めて行く。その間に菜枝はカフェでコーヒーを用意して貰っていると、福永が近付いてきた。
「お話はどうですか?」
「今予約して頂いています。一応、現時点で千人規模になると言ってますが」
「にしては浮かない顔ですね」
こういう時、福永は人の表情を読むのが早い。いや、もしかしたら菜枝が分りやすい表情をしているのかもしれない。
「本日予約は頂けるのですけど、その……キャンセルの可能性もあるので」
「大丈夫ですよ、大きな結婚式ほどキャンセルの確率は高くなるものですから」
それは福永なりの気休めだったのか、本当のことなのかは分らない。けれども、少しだけ菜枝としては心が軽くなるのが分る。
「そう言って貰えると助かります」
「お友達ですし、結婚出来るといいですね」
「本当に」
つい、しみじみと言ってしまい、福永が意外そうな顔をしているのを見て菜枝はごまかすように笑みを浮かべた。
「最後の締め、行ってきます」
「はい、頑張って下さい」
誤摩化されてくれたとは思わないけど、出来たばかりのコーヒーを二つもって席へ戻れば、二人は楽しそうに談笑していた。その空気は菜枝が予想していたよりも、ずっと親密さがあり、お互いを大切にしていることは伝わってくる。だとしたら、やっぱり美華子はいつまでも嘘をついているべきじゃないと思う。
「お待たせしました」
声を掛けて二人の前にコーヒーを置くと、福永からは書き終えた書類とボールペンを受け取る。項目全てをチェックして幾つかの質問をして書類を纏めると「あとはごゆっくりお寛ぎになって下さい」という言葉を最後に席を立った。
規模が大きかったこともあって、意外と美華子たちと話していた時間は長くなってしまい、既に時間はお昼になろうとする頃だった。席を立った菜枝はその足で纏めたファイルをロッカーに片付けようと思いスタッフルームに足を向けたところ、背後から名前を呼ばれて立ち止まる。
「菜枝」
そこには泣きそうな顔をした美華子がいて、菜枝は大きく溜息をついた。
「美華子、一ヶ月だけ待ってあげる。でも、それ以上美華子が言えないなら私が言うから。私だって結婚詐欺の片棒は嫌だからね」
「結婚詐欺!?」
「美華子は嘘をついてるだけと思ってるみたいだけど、下手したら本当に結婚詐欺一歩手前よ。きちんと話した方がいい」
言いすぎたかとも思ったけれども、さすがに美華子も幾分顔色を悪くしつつも頷いた。そんな美華子の頭を軽く撫でると、菜枝は笑みを浮かべた。
「好きなら頑張れ」
「……分かった。絶対に言う。そしたら菜枝にもきちんと報告する」
「うん、連絡待ってる。もしだったら携帯も番号変わってないから」
「うん、うん」
小さく何度も頷いた美華子は泣きそうな顔をしていたけど、菜枝が出来るのはここまでだった。
「ほら、そんな顔してたら田所さん心配するよ」
「ありがとう、菜枝」
「別に私は何もしてませーん」
「もう、すぐそうやって茶化すんだから」
顔を上げた美華子は、今日一番の笑顔だった。恐らく、美華子は近い内に田所に真実を告げるに違いない。もしダメだったとしても、自棄酒くらいは菜枝にだって付き合える。
相手がそれなりの相手であればあるほど、家柄に拘りを持つことは多いし、それでダメになるカップルも数多くいる。実際に式場の予約をしても別れてしまうカップルだって珍しくも無い。美華子たちがどういう形になるか分からないけれども、菜枝は出来るだけ応援したいとは思う。そのためには、美華子はついてる嘘をきちんと田所に伝えなければ諸手を上げて応援は出来ない。
「仕事頑張ってね」
笑顔を向ける美華子に、菜枝は小さく手を振ると今度こそスタッフルームに入りファイルを片付けた。その日は結局美華子から連絡は無く、ブライダルフェア中ということもあって仕事に書類に追われた菜枝は、一之瀬を上手く捕まえることが出来ないまま終業を迎えた。
既に事務所内に一之瀬の姿は無く、ホテルを出た菜枝はそこで足を止めた。もう、一層聞こえなかったことにして帰ってしまおうかと思ったけれども、助けられた恩は確かにある訳で……困った。
途方に暮れて空を見上げていれば、正面から誰か歩いてくるのが見える。近付く人影は徐々に大きくなると、それは既に菜枝のよく見知った人でもあった。
「どうしたの、優」
「一緒に食事でもどうかと思って」
穏やかに笑う優に、菜枝としては複雑な心境だった。昨日、間違いなくキスマークは見られている訳だし、普通に視線を合わせることが出来ない。しかも、恐らく一之瀬は家で待ってる筈だし……。
「菜枝?」
「悪いがこいつは今日、先約ありだ」
不意に背後から聞こえた声に振り返るよりも先に、肩を抱かれてもの凄く驚く。今更この声を聞き違える筈も無い。
「一之瀬!」
「遅い、いつまで待たせる気だ」
「別に待っててなんて頼んでないけど!」
「そうだな……とにかく今晩はこちらが先約だ」
喉で笑いながらも一之瀬は優に向かって言葉を紡ぐ。
「菜枝」
咎めるような響きだったけれども、菜枝としては待ち伏せされていたのでは逃げ道も無い。確かに一之瀬の言うように先約なのは動かしようが無い。
「ごめん、優。また今度一緒に食べよう」
その間にも一之瀬はグイグイと肩を掴み歩いて行こうとする。徐々に離れる優に最後に「ごめん!」と謝りつつも微動だにしない優へと声を掛けた。かなり強引に優と引き離された菜枝は、しばらく歩いていてから肩をから前に回る手を叩き落とした。
「あんたに肩を組まれる覚えは無い」
「ほぉ、命の恩人に大した仕打ちだな」
「あ、あれは不可抗力というか! ……助かりました、有難うございます」
不可抗力ではあったけど助けられたのは確かなことで、強く出られないのが今の菜枝としては痛手だった。けれども、一之瀬は全く気にした様子も無く、クツクツと笑うと今度は手を繋ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて引き抜こうとするけど、思いのほか強く握られた手が離れることは無い。
「こうでもしないと逃げそうだからな」
「誰が今更逃げるか!」
売り言葉に買い言葉、後悔しても時すでに遅し。そう思ったのはニヤリと一之瀬が口の端を上げたのを見てからだった。
「いいだろう」
そう言って一之瀬は握りしめていた手を離すと、先へと歩き出してしまう。やってしまったと思った所で時が戻る訳でも無い。だからといってここで逃げ出すのは負けた気がして、菜枝は気が乗らないまま一之瀬の家へと足を踏み入れた。
一之瀬は家に入るなりジャケットを脱ぐとソファへと投げ出しクーラーのスイッチを入れた。途端に部屋の中の籠っていた空気が動きだし、菜枝はもうやけくそな気分で通されたリビングのソファへと腰掛けた。
「何か食べるか?」
「何かある訳?」
問い掛ければ一之瀬はリビングの書棚にあるファイルを引っ張り出すと菜枝へと差し出してきた。首を傾げながらもファイルを開けば、クリアーポケットの中には出前用のメニューがきっちりと差し込まれていて、つい笑ってしまう。変に几帳面な奴だと思っていたけれども、こんな所に几帳面さが現れているのがおかしすぎる。
「何笑ってる」
「いや、あんたって変なところでマメだと思ってさ。普通、ここまできっちりしないと思うけど。うちなんてファイルボックスにバサッと入れてあるだけだけど。っていうか、新しいメニューになったら入れ替える訳?」
「当たり前だろ」
そうか、当たり前なのか。そう思った途端に笑いが止まらなくなる。このやけに広い部屋で一之瀬が一人、出前のちらしをファイリングしている姿はさぞ面白いに違いない。ある意味、哀愁漂っている筈だ。
「何がおかしい」
「いや、あんたの意外性が笑えるというか。一之瀬ならこういう物は即ゴミ箱だと思ってた」
「食べないと生きていけないからな」
呆れたような顔を一之瀬は隠しもしないけど、笑いのツボに入った菜枝にとってはもうどうでもいい。けれども、ふとその笑いが引っ込む。
「一人暮らしだよね。自分で料理とかは?」
「しないな」
「じゃあ、いつもご飯は出前とか外食な訳?」
「当たり前だ」
「うわー、不健康そう」
途端に一之瀬の表情が不機嫌そうな顔へと変化すると、ある一カ所を指し示す。
「健康管理くらいしている」
そう言われて指差された方へと視線を向ければ、リビングとキッチンの間にある細いカウンターの上には何十種類にもなる栄養剤が置かれていて、菜枝はもう開いた口が塞がらない。果たしてそれは健康管理と言えるのか、栄養剤なんてものを一度たりとも手にしたことの無い菜枝には分からない。ただ、思ったことは自然と口から飛び出した。
「健康おたく」
「おたくでは無いな」
「いや、あの量は十分におたくでしょ!」
そう言って菜枝は山のようにある栄養剤を指差せば、一之瀬はムッとした顔を隠しもしない。それは珍しいことでもあったけれども、その時の菜枝には気付けない。
「うわーバカだよねー、健康ってきちんと食べて、きちんと寝てれば基本的に害したりしないって。それって体調崩すほど偏った食生活してるってことでしょ?」
「……悪かったな」
「いや、別に。バカだなと思うけど私には関係無いし。あ、奢ってくれるの?」
「……今、もの凄く奢りたく無い気分だが」
「じゃあ帰る」
素直にファイルを閉じてソファから立ち上がれば大きな溜息をつかれた。呆れ含みの表情ではあったけれども、その口元は微妙に笑っている。
「なによ」
「奢ってやる。好きなの選べ」
「よし! じゃあお寿司」
「お前には遠慮ってものは無いのか」
「無い。っていうか、あんたに対する遠慮なんてこれくらいしか無い」
断言しながら菜枝は親指と人差し指で五ミリほどの隙間を作れば、更に呆れた溜息が落ちてきたけど菜枝としては知ったことでは無い。元々強引に連れて来られた訳だし、幾ら助けられたといって今までの言動から考えればイーブンな気がしないでも無い。
「クッ……お前みたいな遠慮の無い女は見た事無いな」
「あんたに遠慮してどうすんのよ」
「それもそうだな。お前に遠慮されても気持ち悪い」
逆に言い返されると菜枝としては頬が引きつる気分だったが、この状況では正にお互い様状態で菜枝は唇を尖らせた。
「……何かムカつくけど、奢られる」
「奢りましょう」
営業スマイルを浮かべる一之瀬に舌を出しつつも再びソファに腰掛けると、菜枝は手にしたままのファイルを開いた。ファイルにはきちんとインデックスシールまで貼ってあり、笑いをどうにか噛み殺しながらも寿司と手書きでそっけなく書かれたページを捲る。
「お寿司なんて久しぶり~」
「それは良かったな。奢ってはやる。けど待たされるのは嫌いだから一分以内に決めろ」
「えー、こんなにあるのに?」
途端に呆れた溜息をつかれて、手元のファイルを取り上げた一之瀬はすぐ近くにある電話の子機に手を伸ばす。
「ちょっと一之瀬!」
文句を言っている間にも一之瀬の手は手元の電話を操作すると耳に当ててしまう。
「注文お願いしたんですけど、はい……特上寿司三人前で……はい……電話番号は――――」
一分も待たない内に注文をした一之瀬に文句を言いたいところだけど、菜枝の耳は特上寿司という言葉で文句を全て飲み込んだ。菜枝としては千円前後の寿司を頼もうとしていただけに、特上となればお値段三倍、ネタも違う。例え食い意地がはってると言われても、そんな寿司は菜枝にとって一年に一回食べられるか食べられないかという貴重なものだ。しかも、お値段を見れば、しっかり三倍どころかそれ以上の値段で、菜枝は思わず唾を飲み込む。菜枝にとってはそのお値段で休日二日は余裕で食べて行ける。
……有無を言わせず特上寿司を奢るってありなのか? いや、普通に考えて無いだろ。
しかも、今回ここへ呼ばれたのはあくまで菜枝がお礼しなければいけない立場であって、少なくとも菜枝がご馳走されるというのは、はっきり言っておかしな状況だということに気付く。
確かに遠慮がいる相手では無いけれども、これはさすがに不味いというか……。
「どうした?」
「えっと……やっぱり帰ろうかな、とか?」
「さすがに一人で三人前は食べられないんだが」
「いや、まぁ、そうだろうけど……」
途端に沈黙が落ちてしまい、菜枝もソファに座り落ち着かない気分であちらこちらを見回す。そういう雰囲気なんて全く無かったのに、菜枝一人が意識した途端に空気が微妙になった気がするのは気のせいなのか、一之瀬の表情が変わらないだけに菜枝には判断がつけられない。ただ、ソファの正面に一之瀬が座ると、菜枝は更に落ち着かなくなってきた。
「菜枝」
呼ばれた声に思わず首を竦めてしまったのかは何故か分からない。ただ、酷く一之瀬を警戒していることだけは分かる。昨日の今日といえば当たり前だけど、家に入ってからそのことを思い出すことも無かったから、どこか安心していた部分もある。
「なに?」
「ホテル前に来てたのうちの子会社にいるドレスデザインの佐伯だな」
唐突ともいえる質問に、一瞬呆気にとられたけれども菜枝は一之瀬の問い掛けに頷きで返した。突然、何でそんな質問をされるんだかよく分からない。
「あいつとの付き合いは長いのか?」
「まぁ、長いって言えば長いかな、幼なじみだし。どうしてそんなこと聞く訳?」
「単なる興味だ」
「まさか一之瀬が他人に興味があるなんて思わなかった」
途端に一之瀬が器用に片眉を上げた。どこか不服そうな顔に、菜枝は地雷を踏んだかと警戒したけど、別段怒った様子は無い。
「興味が無い、ということは無いな。今日、お前が朝一相手してた相手にも興味はある。男の方、セクサスの副社長だったな」
「あれ? 知ってるの?」
「あぁ、顔を見かけたことがある。お前の友達だって? これで売上上がるな」
一之瀬は面白くなさそうに言うけど、菜枝としては複雑な心境だ。近い内に美華子が自分の口から言わなければ、菜枝としても黙ってはいられない。けれども、それは二人の仲が終わる確率が高くなるに違いない。
「うーん、どうだろう……あのさ、ちょっとした身分違いだけど、こういう場合って身上調査って入るのかなぁ」
「一人息子となれば、親が勝手に調査するだろ。少なくとも、少しでも気になる点があるなら本人も調査するだろうな。そうでなければ、立場的に足下掬われる可能性もある」
「やっぱりそっか」
美華子と別れた後、少しだけ引っ掛かってた部分でもあったけど、やっぱり相手が大企業の御曹司となれば調査くらい入る訳だ。菜枝には遠い世界のことだけど……いや、目の前にいたか。
「そう考えるとあんたも大変よね。足、掬われる側だし」
途端に一之瀬は視線を合わせたかと思うと、口の端を上げてもの凄く嫌な笑みを浮かべる。
「この俺が足下掬われる? ありえないな」
「……私はあんたがそうして悠然としている間に足下掬われてるのを見て、高笑いしたい気分だわ」
「一生高笑いすることは無いな」
「あんたってそういう奴よね」
呆れた目で菜枝は一之瀬を見たけれども、一之瀬は不敵に笑うばかりで全く人の忠告を聞く気はないらしい。
そんな話しをしている間に寿司の出前は到着し、それからも珍しく諍うこともなく今担当の客の話しをしたり、今のホテルの難点などをお互いに話していく。お互いに意見を否定したりすることはあっても、それは議論上の問題であっていつものようなからかいになることは無い。一之瀬の言い方は相変わらず突き放すようなものではあったけれども、菜枝さえ突っかからなければきちんと会話にもなった。菜枝としては考えてもいなかったことを一之瀬に教えて貰ったりして、それなりに有意義な食事時間でもあった。そして食べたお寿司は最高に美味しかった。それはもう悔しい程に————。

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