ライバルは手放せない Chapter.II:新郎のいない結婚

仕事に慣れてきた七月頭、四月から六月までの売上が発表され悔しいことに一之瀬と菜枝の差は三倍ほど違うことが露わになる。実質、研修があったことを含めて二ヶ月しかなかったにも関わらず一之瀬は上位につけていた。けれども、菜枝は下から数えた方が早い程度の売上しかなく、視線の合った一之瀬に鼻で嗤われカチンと来るけど、結果がこうであれば食って掛かることも出来ない。悔しさで掌を握りしめるけど、どうなるものでもない。

福永部長からのこれからも頑張るようにというお達しの元解散した中、菜枝は売上表を食い入るように見ていた。はっきりいって先輩たちに負けるのは仕方ない。けれども、一之瀬に負けるのは何だか屈辱だった。

「お前、本当に負けず嫌いだよなぁ」
「だって、悔しいじゃないですか」

背後から話しかけてきた嘉門に答えながら、菜枝の視線は売上表から離れない。あの嫌味大魔王にこの数ヶ月でどれだけ苦渋を舐めさせられたか思い出すだけでも腹立たしい。同じくらい仕事をしていたと思っていけど、売上的には全然敵わない。

「うーん、まぁ、仕方ないんじゃねーの、あれは。一応、そういう所でお勉強もしてるし」
「は? そういう所って?」

思わず菜枝は勢い良く振り返れば、嘉門は肩を竦めて見せる。

「ようはブライダルの専門学校。あいつ大学出てそういう所行ってからここに就職してるんだよ。だから、菜枝が敵わなくても仕方ないというか……実際、うちの連中だって新人に抜かれてヤバそうな奴結構いるぞ。一応、お前だって下位ながらも最下位では無いし」
「……全然慰められてない気がするんですけど」
「新人で最下位じゃないって褒めてるだろ。基本的に最初一ヶ月は研修で仕事してなかったんだし」
「でもあいつは」
「あー、もう、お前のそういうところ可愛いよなー、本当に」

グリグリと嘉門に頭を撫でられて、菜枝は身体を反らしながら嘉門の手から逃げる。

「先輩、頭ぐちゃぐちゃになっちゃいます!」
「もう帰るだけだからいいだろ。それに菜枝、確かに売上も大切だけど、お前の顧客数悪く無い数字だと俺は思うぞ」
「でも」

食って掛かる菜枝に嘉門は苦笑すると、菜枝の額にデコピンを仕掛けてくる。逃げる間もなく食らった菜枝は、痛む額を押さえながら嘉門を見上げる。

「別に売上だけが全てじゃないさ。客商売なんだし、客がどれだけ満足するかにもよると俺は思うぞ。まぁ、一応商売だし、最低ラインの売上はキープしないとヤバいけどな」
「うー、でも悔しい」
「分かった、分かった、お兄さんが奢ってあげよう」
「焼き肉!」
「ラーメンだ、馬鹿」

そんな遣り取りをしながら嘉門と共に更衣室へと足を向けた。着替えて更衣室から出れば、バッドタイミングで男子更衣室から一之瀬が出て来て菜枝は思わず睨みつける。

「不細工顔になってるぞ」
「放っとけ」
「客商売だ、一応見れる顔にはしておいた方がいいぞ」
「本気でムカつく! つーか、次は絶対に追いついてやる!」

一瞬、唖然とした顔を見せた一之瀬だったけれども、次の瞬間には喉で笑う。その態度がこれまたムカつく。

「ちょっと!」
「お前、馬鹿だと思ってたけど、本当に馬鹿だな。あの売上で俺に追いつけると?」
「が、頑張れば何とか」
「基本的に結婚式一つ一つに対する売上が違いすぎるんだ。あくまでコーディネーターは客商売であり、金をどれだけ引き出すかが勝負だ。それが分からない内は追いつくなんて無理だな」

それだけ言うと、一之瀬はそのまま背を向けて廊下を歩き出す。制服とは違いスーツを着た一之瀬の背中に、ムカつきを隠すことなく菜枝は怒鳴りつけた。

「挨拶くらいしてけ! 馬鹿一之瀬!」

途端に歩いていた足を止めると、一之瀬はゆっくりと振り返る。無表情だった顔に、ゆっくりと営業用の笑みが張り付く。

「ごきげんよう、常盤さん」

な、何がごきげんようだ! 本気でムカつく。

けれども、一之瀬はこちらの返事を待つことなく廊下の角を曲がって消えた。ただ一人残された菜枝としてはその場で地団駄を踏むしかない。

「……お前、何してるの?」
「一之瀬が……一之瀬がもんの凄くムカつく!」
「だから落ち着け。つーか、お前のその反応こそが一之瀬にからかわれる原因だろ」
「でも、ムカつくものはムカつくし」

どうしてああ言動が嫌味たらしいのか、むしろ菜枝の方が問いつめたい気分だ。確かに自分の態度もどうかと思うけど、それを言うならあいつの態度だって問題ありだっての。

「あー、もう、分かったから行くぞ、ほら」
「……チャーシューつけて下さい」
「はいはい」
「餃子とおつまみメンマも」
「調子乗り過ぎだ、馬鹿」

軽く頭を小突かれて菜枝は笑うと、嘉門と共に職場であるライクスホテルを後にした。

翌日、ブライダルセクションでは嵐が吹き荒れた。

「俺はあなたに教わることは何も無いと思いますが」

菜枝の耳に聞こえてきたのは一之瀬のそんな声だった。制服に着替えた菜枝は事務所に入るなり、どこか凍り付いた空気にそれ以上足を踏み入れることを躊躇った。

「お前、新人のくせに」
「その新人に売上で勝てない人間に何か言えるんですか?」
「っ! 新人は新人らしくしてろよな!」
「くくっ、新人らしくってのは常盤みたいに馬鹿になれと? ご冗談でしょう」

よりによって、何故こんな場所で菜枝の名前を出すのかと怒鳴りつけるために足を踏み出そうとしたところで、背後から肩を掴まれ振り返る。そこにいたのはブライダルセクションの部長である福永で、見上げた菜枝に穏やかな笑みを浮かべてから部屋の中へ入るなり手を叩いて全ての視線を集めてしまう。

「朝から何を揉めてるんですか」

誰もが黙り込む中で、一之瀬が溜息を一つ零すと口を開いた。

「今日自分につく人間を変更して欲しいとお願いしただけです」
「それはどういう理由ですか?」
「溝口さんからは得るものがない、ということですが」

ムカつく奴だと思ったし、本当に嫌味満載の嫌な奴だと思ってたけど、ここまで馬鹿だとは思いもしなかった。基本的に会社なんてものは年功序列か、そうでなくても先輩を敬っておけば失敗は無い。それは馬鹿と言われる菜枝にだって分かる。なのに態々自分の立場を悪くするような言動をするなんて、そっちの方が菜枝の方には馬鹿らしいと思えた。

それにコーディネーターをしている先輩たちは、それぞれ良い所はある。それを吸収するのを菜枝は悪いとは思えない。でも、一之瀬からしたらそれすら全て吸収した、ということなんだろうか。

「そうですか……それなら一之瀬君は今日一日ラウンジのカフェに入って下さい。丁度アルバイトが休んで困っていたので」

福永の言葉に部屋の空気が一瞬にして微妙なものになったのは、そこにいた全ての人間の困惑に包まれたからに違いない。実際、聞いた菜枝ですら聞き間違いかと思ったくらいだった。

「君は外からお客様がどういう顔をしているのか、そして、自分に足りないものは何かよく考えて下さい。さて、今日の打ち合わせを始めます」
「納得出来ません。どうしてそういうことになるんですか!」
「確かに個々の売上も必要ではりますが、チームワークという言葉が分からないのであればここにあなた君の居場所は必要ありません」

どうしますか、と問い掛ける福永の視線に一之瀬は拳を握りしめると「ラウンジカフェに入ります」と言って事務所を出て行ってしまう。途端に緊張の糸が解けたのか、あちこちから溜息が零れた。

「溝口君、新人の言うことです。余り気にしないで下さい」
「は、はい。こちらこそ感情的になってしまって申し訳ありません」
「いいですよ、そういうこともありますから」

穏やかな福永の声から始まり、今日の予約の確認を行い、それぞれの担当顧客の確認、それから新規予約顧客の担当をある程度決めるとそれぞれ事務所から出て行く。菜枝が事務所から出て行くタイミングで隣を歩いていたのは今日もきっちり髪をアップに纏めた楠木だった。

「凄い心臓持った新人ね」
「馬鹿なだけだと思いますけど」
「そうね、馬鹿だと思うわ。まぁ、新人の内は粋がりたい気持ちも分からなくは無いけどね」

そういうものなのだろうか。粋がりたいという気持ちが菜枝には理解出来ず首を傾げれば、隣を歩く楠木に頭を撫でられる。

「あんたはそのままでいなさい。それが常盤の持ち味だと思うから」
「私の持ち味って何ですかね?」
「客に親身よ。少なくとも私よりもずっと」
「えー、それは無いですよ。だって、楠木さんのプランって痒い所にも手が届く感じじゃないですか」

何度か楠木と一緒に組ませて貰ったけど、とにかく視点のつけかたが細やかで少なくとも菜枝もそうなりたいと思うものの、簡単に真似出来そうにないと感じるものだった。けれども、そんな菜枝に楠木は笑みを浮かべると軽く肩を叩き、ラウンジで既に待っている客に向かって歩き出してしまう。

どこか思わせぶりな楠木に再び首を傾げていたところで、福永に声を掛けられる。

「常盤さん、少しこちらに」

促された先はスタッフルームで、入る直前に見えた一之瀬は憮然とした顔でカフェで用意を始めていた。中に入ると福永はすぐにファイルを手渡してくる。

「少し特殊なお客様なのですが、常盤さん、担当してみませんか?」

そう言って渡されたファイルには花嫁の名前は書かれていたけど、花婿の名前は無記入となっていた。

「結婚式ですよね? 何で男性の名前が無いんですか?」
「急な事故でお亡くなりになったそうです。けれども、どうしても結婚式が上げたいとのことで。一応、結婚式自体はパックをご希望なので難しくは無いと思うのですが、どうしますか?」

相手がいない結婚式というは、果たしてどういう気分なんだろう。それが間違えていると思う程では無いけど、余り正しいとも思えない。

「正直なところ言ってもいいですか?」
「えぇ、どうぞ」
「はっきりいって、亡くなった相手に縋るようで私自身、こういう結婚式に賛成出来ません。区切りをつける意味であればいいですけど、多分そうじゃないと思いますし……もし、この結婚式がキャンセルになっても構わないということであれば引き受けますけど、それでは困るということであれば正直引き受けたくありません」

言い過ぎたかと思いつつ伺うように福永を見上げれば、福永は穏やかに笑っている。むしろ、どこかホッとした様子にも見えた。

「常盤さんらしい答えですね。そうですね、今回は君の思う通りにやってみて下さい。けれども、きちんとお客様からお話を聞くこと忘れずに」
「分かりました。何かあったら相談させて頂いても宜しいですか?」
「勿論です。私だけではなく、色々な人に相談してみて下さい」
「はい。じゃあ、頑張ります」
「既にラウンジでお待ちです」

福永の笑顔に背を押されるようにして、菜枝は受け取ったファイルを閉じるとそれを小脇に抱えるとラウンジに出た。ラウンジの窓際、一人で座っていたからその人はすぐに見つけることが出来た。カフェの横を通りすぎようとした所で名前を呼ばれ振り返れば、カウンターの中から一之瀬がこちらを見ている。

「なに?」
「へまるなよ」

どうやら先の福永との会話を聞いていたらしい。

「多分、大丈夫ですよーだ」
「……ガキ、しかも何が多分だ」
「あのねぇ」

一歩足をカウンターに向けた瞬間、襟首を掴まれて後ろへと引かれる。体勢が崩れたけど転ぶようなことは無く、振り返ったところにはもの凄く笑顔の楠木がいた。

「いつまで戯れてる気かしら?」
「す、すみません、すぐに行きます」
「一之瀬も常盤が気になるのは分かるけど、仕事中にちょっかいかけない」

既に背を向けてしまったので一之瀬がどんな顔をしているかは分からない。ラウンジに流れている音楽は然程大きな音では無いのに、一之瀬の声は聞こえなかった。

机に到着すると、まず最初に菜枝は名刺を取り出し彼女へと差し出した。

「常盤と申します。今回、ブライダル担当をさせて頂きます」
「随分若い方ね」

心配そうな顔をされるのはもう慣れた。だからとびきりの笑顔で菜枝はいつもの言葉を繋げる。

「結婚の経験はありませんけど、結婚式に対する夢は沢山あります。なので一緒に考えたいと思っています。至らない部分につきましてはきちんと上の人間とも相談の上で、色々な結婚式をご呈示させて頂きたいと思っています」

一之瀬に言わせると馬鹿みたいニコニコしてと言うけれど、菜枝にとって笑顔は一つの武器でもあった。最初こそ唖然と女性、刈谷は見上げていたけど、次の瞬間には噴き出した。そして、そのまま笑いへと変化させると「お手並み拝見させて貰うわ」と前の席を勧めてくれた。

「結婚式に夢って言ってたわね。どんな夢があるのかしら」

刈谷の毛先を巻いた長い髪がサラリと肩から落ち、真っすぐに菜枝を見る。まるで試されているようだと思ったけど、菜枝は笑顔を崩すことはしない。

「そうですね、やっぱり一番はウエディングドレスです。純白のウエディングドレス、絶対にあれは着たいです。まぁ、お恥ずかしい話し、相手もまだいないんすけど」
「大丈夫よ、まだ若いんだから」

客に慰められてどうする、と思いはするけど刈谷の目は先程よりも優しいものに変化している。

「刈谷様はどういう結婚式をお望みですか?」
「そうね……本当は彼がいてくれたら一番だけど、でも、余り立会人はいらないの。ただ、彼との繋がりが欲しいから。福永さん、でしたっけ? お話しは聞いてるかしら」
「事故で亡くなったとは聞いています」

話し役と聞き役が上手く入れ替わったことに菜枝は内心安堵してもいた。結婚式を提示するにも、相手の話しを上手く聞き出さないことには始まらない。

「あの人ね、馬鹿なのよ。電話で喧嘩しちゃって、私が怒ったもんだから慌てて家に来る最中に事故に巻き込まれてね」

どこか遠い目をして話す刈谷は、菜枝からみても寂しげだった。理由も理由だけに聞いてる菜枝の心も痛む。相手の気持ちに引き摺られるなんて一之瀬に言わせると馬鹿のすることとらしいけど、でも、痛いものは痛いんだから仕方ない。

「婚約指輪も結婚指輪も貰ってたの。でも、籍は結婚式を上げてからって彼が言うのよね。籍はもう入れられないけど、結婚式は上げたいじゃない。やっぱり幾つになっても私にとっては結婚式は夢よ」

そう言って笑う刈谷はとても寂しげなところも相まってとても綺麗だった。

「それなら凄く綺麗になって彼に見せつけましょう」
「彼はもういないのよ」
「馬鹿らしいって言うかもしれませんけどね、私はいると思ってるんですよ、大切な人は近くに」

途端に刈谷は訝しげな表情になり眉根を寄せる。当たり前だ、いきなりこんな話しをすれば大抵の人であれば引くに違いない。実際、菜枝だって唐突にこんな話しをされたら絶対に引く。

でも、刈谷に対しては取っ掛かりになるという自信もどこかにあった。

「幽霊?」
「になるんですかね? そこまで考えたことは無いんですけど、自分を見ていてくれると思ったら強くなれる気がしません?」
「あなたも……誰か大切な人を亡くしたの?」
「両親を五年程前に亡くしました」

穏やかに、懐かしむ気持ちで話せばテーブルの上に乗せていた刈谷の手がキュッと握られるのが分かった。

「泣いた?」
「それが、困ったことに一年くらい涙一つ出ませんでした。現実受け入れるのに時間が掛かってしまいました」
「そう……それを聞いて少しホッとしたわ」
「泣けませんか?」
「泣いたら負けな気がして」
「分かります!」

力説しながらも震える刈谷の掌を握りしめる。他人から見たら馬鹿みたいかもしれない。でも、テーブルの上で握りしめた手の震えを菜枝は止めたいと思った。直情的で考えるよりも身体が先に動いた。

「他人に可哀想って言われると余計に泣けないんですよ」
「分かるわ。婚約者が亡くなるなんてついてないとか、可哀想とか……それなら彼のために泣いてとか思ったりして」
「凄い分かります。自分を可哀想って言う前に志半ばで倒れた両親のために涙一つくらい流してくれって思いましたよ」

それは奇妙な連帯感だったかもしれない。けれども、ここにきて始めて刈谷は穏やかな笑みを浮かべた。

「……誰もいなくていいから、心に残る式にしたいの」
「しましょうよ。いいじゃないですか、自分に気持ちがいい式上等! そう思います」
「そうよね、彼と揉める心配だって無いし」

そう言って軽い声で笑う刈谷に菜枝も穏やかな気持ちで笑う。

まだ絶対こうだという感覚ではないけど、彼女は彼との最後の思い出が欲しいんだと思えた。そして、彼の為の手向けの結婚式なんだと。

そういうことであれば、菜枝としても俄然やる気が出るところだ。

「刈谷様だったら、マーメードドレス似合うでしょうね」
「いいわよね、私あのフワフワヒラヒラしたドレスは着たくなかったの。式は絶対に教会式」
「うちだとチャペル二つありますけど、どうされます? 海の見えるガラス張りの教会と、森というか林程度ですけど自然の中の教会」
「やっぱり、そこはガラス張りに心惹かれるわね」

菜枝はここに来て始めてテーブルの上に置いたままだったファイルを開くと、中からパンフレットを一部取り出すと差し出すよりも先に口を開いた。

「あの、どうしてこのホテルで挙式を考えたんですか?」
「意地悪でごめんなさい。先に謝っておくわ」

何が意地悪なのか、説明もされずに謝られたら菜枝としても困る。

「どういうことでしょう」
「実はね、田所さんの紹介なの」
「あ、先月式を上げられた」

田所夫妻は先月菜枝が担当して結婚式を上げた始めての夫婦だった。いざ結婚式といっても実際に式場の日付を予約してから式を上げるまでには日数が掛かることも多い。特に披露宴までここライクスホテルでやるとなれば、半年前からの予約が必要になることも少なくは無い。

「えぇ、あなたのことをとても褒めていたわ。だから、ちょっと意地悪な気持ちもあったの」
「えっと……まだ意地悪な気分ですか?」
「全然。何だか意地を張ってる自分が馬鹿らしくなってきたわ。誰も分かってくれないなんて」
「それは良かったです」

つい満面の笑顔で言ってしまえば、そんな菜枝を見て刈谷は笑う。

「意地悪されてたのに?」
「全然意地悪じゃありませんでしたよ。もっと露骨に嫌がらせされることもありますし……と、話しすぎました。今のは聞かなかったことにして下さい」

気が緩むと喋りすぎるのは菜枝の欠点でもあった。けれども、そんな菜枝にも刈谷は笑うと菜枝に向かって手を差し出してきた。

「パンフレット、まだ見たことが無かったの。きちんと見せて貰えるかしら」
「勿論です、どうぞ」

菜枝がパンフレットを差し出せば、受け取った刈谷はゆっくりとページを捲り始めた。それを確認してから菜枝は一旦席を立つと、カフェに向かい憮然としている一之瀬に紅茶を一つ頼む。

「客の気持ち掴むのは上手いな」
「ほぉ、あんたでも褒めることあるんだ」
「馬鹿だとは思ってるけどな」
「ちょっと、どういう意味よ」
「金にならない結婚式になりそうだと思ってな」

そう言った一之瀬の手元にはファイルが開いていて、先程菜枝が福永から貰ったものと同じファイルがそこにある。

「本人が納得してくれるのが一番だから別に赤字じゃなければ問題無し。っていうか、あんたの話し聞いてると本当に強欲って感じ」
「強欲、結構じゃないか」

話しながらも一之瀬の手は動いていて、既に茶葉の入ったティーポットにお湯を注いでいる。

色々と言いたいことはあるけど、ここで刈谷について色々と言うのはさすがに気が引けた。結婚式なんて人それぞれなんだから、本人たちに納得行くものであればそれが最上だと思う。お金を掛ければ必ずしも良い式という訳じゃない。

「一之瀬ってやっぱり馬鹿かも」

トレーを受け取りながら菜枝はそれだけ言えば、一之瀬が不快そうな顔を見せる。

「お前にだけは言われたく無い」
「言うと思った」

一之瀬は睨みつけていたけど、菜枝はそれを気にすることも無く背を向けて刈谷のいるテーブルへ視線を向ける。遠目に見ても、刈谷は真剣にパンフレットを見ているらしく、時折ページを戻ってみてはまた捲ったりしている。

「部屋に案内しないのか?」
「うーん、まだいいの」
「まだ?」
「そう、まだ」

一之瀬から差し出された小さなトレーには、紅茶の入ったティーカップにスプーンと砂糖、そして三分砂時計が置かれている。素直にお礼を言ってカウンターを離れた菜枝は、刈谷のいるテーブルに戻るとトレーを置いた。

「お茶にしませんか?」
「あら、紅茶。何だか優雅ね」
「えぇ、ここだと風景もいいですし、のんびりお茶しながらお話してもいいかと思いまして」
「そういえば、話しを詰める時には部屋に通されるって聞いたけど」
「二人で入ったら気詰まりしそうじゃありません? それに部屋には窓も無いですし」
「それならこっちの方が景色もいいし、いいかもしれないわね」

穏やかに笑う刈谷に菜枝も笑みを返すと、刈谷の見ていたページを覗き込む。そのページに写るのはホテル内にあるガラス張りの教会に敷かれたバージンロードの上で、ウエディングドレスを着たモデルがこちらを振り返る写真だった。扉から写されたその写真の中にいるモデルは、まるで新郎が来たかのように幸せそうな笑みを浮かべている。

「このドレス、気になりますか?」
「ドレスというより……この写真を見ていたら、結婚式をやりたい訳じゃないのかしらと思って」
「どういうことですか?」
「どう言えばいいのかしら、多分、タイミングを待ってるだけかもしれない」

刈谷の言葉は抽象的なものではあったけれども、菜枝には言いたいことが分かる気がした。恐らく、刈谷はただ亡くなった彼に手向けを送るタイミングを探しているのかもしれない。菜枝の両親が亡くなった時に、そうだったように……。

他人からしたら、墓前に行けば事は済むと言われるかもしれないけど、気持ちが落ち着いていないと墓前に行くのは怖い。だって、墓前に立てば、もうその人がこの世にいないことを突きつけられるから。でも、もうこの世にいないことは理解しているけど感情が割り切れなくて、大切な人を忍ぶことも出来ない。

だから何かのタイミングで、一度でも大切な人に気持ちを手向けられたら何かが変われるような気がした。そして、菜枝は実際にそのタイミングで両親が亡くなったことを受け入れ、今こうして自分の足で立つ事が出来る。

「ドレスを着て、教会に立って……自分が一番綺麗な姿で彼を……」

言葉を濁して窓の外へと視線を向けた刈谷の横顔を菜枝は眺める。寂しそうに見える横顔だけど、タイミングが合えば、この表情は変わるのだろうか。果たして、その手伝いを菜枝がするこは出来るだろうか。そう考えた瞬間、菜枝は思わず口を開いていた。

「神父さん、必要ですか?」

問い掛ける菜枝に、刈谷は首を横に振った。

「だって、誓う言葉が無いわ」

神父の前で誓うのは永遠の愛。彼のいない刈谷にとって、神父すら必要としていない。それは、刈谷が既に彼がいない現実を受け入れている、という事実でもあった。

「刈谷様は今回、どれくらいの予算を考えていらっしゃいますか?」
「ここだと高めだから三十万くらいは考えてるけど……正直言って、安ければ安いほど助かるの」

その言葉に菜枝はさりげなく机に開いたままのファイルに視線を落とせば、刈谷の職業は事務の派遣社員となっていた。だとしたら、三十万というのはかなりの大きな金額に違いない。タイミングを掴むためだけに払う額にしては、それは大きな金額に菜枝は思える。

挙式は必要としていないという刈谷の言葉を信じていいのであれば……。

「写真はどうします?」
「……一枚くらいなら」

けれども、余り乗り気では無い様子も見て取れて、それも考えながら菜枝はファイルの横に置いてあった電卓を掴むと、勢いよく数字を打っていく。ヘアメイクと貸衣装、それから教会の方は……いや、時期さえ合えば……。そんなことを考えながら電卓を打っていると、その手を止めるなり椅子から立ち上がった。

「すみません、私だけでは判断出来ないので少し上司と相談してきても宜しいですか?」
「えぇ、構わないけど」

刈谷は困惑げな表情を浮かべていたけど、菜枝はラウンジを見ている福永に駆け寄る。

「どうかしましたか?」
「あの刈谷様にプランを提示したいのですが、部長の了承を得たいので」
「聞きますよ、どうぞ」

穏やかな笑みと共に言葉を返されて、菜枝は先程思いついたプランと共に手にしていた電卓を差し出す。しばらく悩んだ様子を見せた福永だったけれども、菜枝の手元にある電卓から数万円マイナスにする。思わず福永を見上げた菜枝だったけれども、福永は穏やかな笑みを浮かべたままだ。

「あの、このマイナス分は?」
「刈谷様の時期が合えば一時間くらいでしたら、という前提条件つきではりますけど」

それは奇しくも菜枝が考えていたことと同じものではあったけれども、正直、通るとは思ってもいなかった。

「あの、大丈夫ですか?」
「何かあれば私が責任を取りますよ。そのための部長なんですから。それに、そろそろ刈谷様がお待ちですよ」

福永の声に振り返れば、困惑も露わにした刈谷がこちらを見ていて、慌てて福永に頭を下げてからテーブルへ戻る。菜枝は先程まで座っていた刈谷の向かいでは無く、隣の椅子へと腰を下ろした。

「少し内緒話をしても宜しいですか?」
「構わないわ」

隣に座っているにも関わらず、更に椅子を寄せてから菜枝は声を潜めた。

「ドレス、ヘアメイク、写真一枚でこのお値段で可能ですけど、どうですか?」
「え? まさか……」

刈谷は驚いた顔で菜枝と電卓を往復すると、最後に菜枝に視線を合わせた。

「ただ、一つ条件があるんですよ。実はうちで来週からブライダルフェアをやるんですけど、その時であれば一時間程度ならドレスを無料でという話しを上司に取り付けて貰えることになりました」
「まさか、本当に?」

不安そうな顔をする刈谷に菜枝は満面の笑みで頷けば、刈谷の唇からは長い溜息が零れ落ちた。

「信じられない……でも、本当にいいのかしら」
「大丈夫です。ただ、時期的な問題もあるんですけど大丈夫ですか?」
「えぇ、それは大丈夫よ。むしろ早いなら早い方がいいけど……でも、常盤さんが怒られてしまうのではないの?」

売上としたら正直言って、ホテルのレストランでコース料理を食べた方が高くつくかもしれない。けれども、福永がオッケーを出したのだから何も問題は無い。

「大丈夫です。きちんと上司に約束も取り付けてありますから。刈谷様は今日、これからお時間ございますか?」
「大丈夫よ」
「でしたら、衣装室に行ってドレスを見てみませんか? 正直、来週となるとドレスもある程度決めておいた方がいいですし」
「そういうことであれば、ぜひとも」

ようやく笑顔を見せた刈谷に、菜枝はホッとした気分になる。一旦席を立ち福永に衣装室への連絡を入れて貰うと、菜枝は刈谷と共に衣装室へと向かった。

正直、刈谷が来たのが今日で良かったと思う。仏滅は結婚式をするには余り人気が無い。しかも他のホテルと違い、ライクスホテルでは仏滅割引ということは全くしていない。平日であれば三組も四組も結婚するカップルがいるけど、今日結婚式を上げるカップルは一組しかいなくて、それも夜であるからこの時間であれば衣装室も然程混んでいなことは菜枝にも分かっている。そうでなければ、あそこは戦場で予約もなく人を連れて行けば、末代まで祟られそうなくらい忙しい部署でもあった。

刈谷と一緒に衣装室の前まで来ると、意外な人物に菜枝の足は止まる。

「優、どうしてここに?」
「菜枝、お客様の前だよ」

優しい落ち着いた声でたしなめられて慌てて口を噤めば、一緒にいる刈谷に笑われてしまう。

「申し訳ありません」
「別に構わないわ。ホテルの方?」
「いえ、ドレスの外注業者の者で」
「恋人?」

その問い掛けに菜枝は慌てて首を横に振りかけてから「違います」と言葉で否定する。

刈谷と話している間に優は既に衣装室の奥へとドレスを抱えて入っていってしまったらしい。菜枝は入り口でノートに記帳すると、刈谷と共にドレスの海へと飛び込んだ。所狭しと並ぶ白いドレスやカラードレスはいつ見ても圧巻だった。

「じゃあ、お友達?」

どこか楽しげに問い掛けてくる刈谷に、菜枝の顔にも自然と笑みが浮かぶ。

「幼なじみなんです」
「いいわね。中々その年になっても続く幼なじみはいないわ」

刈谷と菜枝はそんな話しをしながらドレスを見ていくけど、そこにはウィンドウショッピングのような空気が流れ始めていた。幾つかのドレスをあてて見ては、あれこれ意見を交換している内に、一番奥で刈谷が足を止めた。刈谷が見ているのはハンガーに掛けられていないマーメードドレスだった。

パール掛かった布地に袖は無く、胸元に大きな切り替えがある。そしてそこからウエストに向かって絞られてから膝丈ほどまでほっそりとしていて、そこから裾に向かって広がっていくシンプルなものだった。裾には刺繍が施されていて、後ろへ長く伸びるトレーンは同じように刺繍があしらわれているけど、そこはパールの輝きでまた違った色合いを見せている。

「これ、素敵だわ」

長身でウエストラインのはっきりした刈谷なら、飾り気が少ないラインのはっきり出るこのドレスは確かに似合うに違いない。

「先程のお客様ですか」

奥の扉からハンガーを片手に優が現れたけど、刈谷の目はドレスに釘付けだった。ことドレスのことになれば菜枝よりも優の独断場でもあった。

「お客様でしたらお直し無しでこのサイズが着れると思いますけど、試着してみますか?」
「してみたいわ」
「それならこちらへどうぞ」

優は試着室にドレスと刈谷を促すと試着室のカーテンを閉めた。

こうして優と顔を合わせるのは入社式の前々日に食事をして以来だった。

「もう、顧客を持っているんだね」
「少しずつだけどね。今のドレス、優がデザインしたやつでしょ」

その言葉に優は穏やかに笑う。

「よく分かったね」
「だって玲子さんによく似合いそうだもん」

それに対して優からの返事は無かった。

玲子は優の十二歳上の姉で、優が十二の時に交通事故で亡くなっている。姉御肌で世話好きな玲子の後を菜枝と優はよく追いかけて歩いていた。そんな玲子に優が恋愛感情を持っていることを菜枝は知っていた。結婚式直前に亡くなった玲子のために、優はこれからも玲子に似合うドレスを作り続けていくに違いない。

「もう少ししたらお客様に声を掛けて差し上げて。後ろのチャックが上げられないと思うから」
「うん、ありがとう」

お礼を言えば穏やかな笑みで返され、優はそのまま他のドレスを片付けるために菜枝の横から立ち去ってしまう。

菜枝は試着室にいる刈谷に声を掛けると、やはり背中のチャックが締まらなかったらしく菜枝が一番上まで上げた。そして改めてドレス姿の刈谷を見ると、菜枝は思わず溜息を零した。予想していたよりも、ずっと刈谷に似合うドレスだと思う。

「おかしくない?」
「凄い似合ってます。正直、羨ましいくらい」

残念ながら菜枝としてもマーメードドレスは憧れのドレスではあるけど、いかんせん菜枝に似合うものではないことくらいは分かる。せめてもう少し身長があればいいけど、マーメードラインのドレスはやはり長身の人がよく似合う。

先程刈谷の前で失敗してしまったこともあり、改めて優を名字で呼んだ。

「佐伯さん、今お客様が着ているドレスはいつから品出し予定ですか」
「一応、来週あるブライダルフェアから出そうと思っていますけど、何かありますか」
「申し訳ありませんが、来週、一時間だけお借りできませんか」
「部長の許可があれば構わないですよ。時間とか後ほど分かりましたら連絡を頂けますか」

優の言葉に了承の返事をしてから、刈谷の着てるドレスを優にも見て貰う。まるであつらえたかのように刈谷の身体にはぴったりと合っていて、身体のラインと共に背中から流れるトレーンへのラインは本当に綺麗なものだった。

「凄い……よく似合ってます」
「本当かしら?」
「嘘なんて言いませんよ。ちょっと溜息が出ました」

どこかうっとりした気持ちで菜枝が素直な気持ちを吐き出せば、刈谷は明るい笑顔で笑う。

「何だか、ドレスを着ただけなのに少し前向きな気分いなってきたわ。このドレスで背筋が伸びるというか」
「えぇ、ぜひとも背筋を伸ばして着て頂きたいドレスでもあります。お客様にはよくお似合いですよ」
「お世辞でも嬉しいわ。ありがとう」

優の言葉にも刈谷は穏やかに笑うと、鏡に映る自分を見つめている。

多分、大丈夫……。

そんな気持ちで菜枝は刈谷のドレス姿を見ると、自然と笑みが浮かんだ。

* * *

結局、報告書に時間を取られてホテルを出たのは二十二時を回っていた。事務所に残っている人間も少なく、菜枝は更衣室で着替えを済ませると早々にホテルを後にした。そのタイミングで鞄の中に入れてあった携帯が鳴り出し、菜枝は一旦足を止めると携帯電話を開いて通話ボタンを押した。

「もしもし」

聞こえてきた声は昼間聞いた優の声で、菜枝は再び歩き出す。

「昼間はお疲れ様、助かりました」

いつもよりも手丁寧に優に言えば、途端に電話向こうからはクスクスと笑い声が聞こえる。多分、菜枝らしくない言葉に笑っているのだろうと思うと、少しだけ面白く無い。

「何で笑うのよ」
「僕相手にも畏まった物言いをするから、ちょっとおかしくてね」
「どうせ私には遠慮がありませんよーだ」

いつもの調子で電話に言えば、やっぱり返ってくるのは小さな笑い声だった。もうこうした兄と妹みたいな関係は十年を越えてしまい、遠慮も何もあったものじゃない。

「で、何か用事でもあったの?」
「用事が無いと掛けちゃいけない?」
「別にそういう訳じゃないけど……し、仕事ならきちんとしてるからね!」

もしかして今日の仕事の様子に不安を持って電話を掛けてきたのかと思い、先回りして言ってみたけど優からはあっさり「違うよ」と返ってきた。いつでも穏やかな声で話す優は、その表情も柔らかなものでいつも淡い笑顔を浮かべている印象がある。

「仕事は終わったの?」
「うん、今帰るところ」
「そう、それなら一緒に食事でもどうかな」
「おごりなら」

はっきりとそれだけ言えば、優は笑いながらも分かったと言って駅前で待ち合わせることにした。

ライクスホテルは駅から近いこともあり、菜枝の方が駅に到着するのが早かった。空を見上げれば灰色の雲が徐々に星を消していくのが分かる。

傘、持ってないから雨に降られると困るなぁ……。

そんなことを考えながら、ぼんやりと空を見上げていると声を掛けられた。

「あの」
「はい」

まだ仕事から抜けてなかったみたいで、つい条件反射で笑顔で振り返れば見覚えの無い男の人がそこにいる。

「ずっとここで待ってるよね。もしよかったら、これから一緒に食事でもどうかな」
「もう終わりましたから」

出来るだけ素っ気なく答えたけど、男は隣に立ち次から次へと話し掛けてくる。

「もうどうせ来ないよ」
「放っといて下さい」
「俺、車だから家まで送るよ。ほら、雨降りそうだし」
「必要ありません」

端的に答えているのに、男は引く気配が無くて徐々にイライラしてくる。自分でもかなり短気なことは自覚してるけど、大概この男もしつこすぎる。しかも、更に腹が立つのはこの状況を回りの人間が見てみぬ振りで通り過ぎて行くこと。

確かに面倒に巻き込まれたく無い気持ちは分からなくないけど、普通こういう時は……。

「あのねぇ!」

プツンと切れた勢いで男の方へ向き直ると睨みつける。けれども、そのタイミングで背後から声を掛けられた。

「常盤、そいつ誰だ」

聞き慣れた声に勢いを削がれて振り返れば、そこに立っているのは天敵一之瀬だった。

「何であんたがここにいるのよ」
「お前が来いって言ったんだろ」

呆れたような口調とその表情にクエッションマークが浮かぶ。もしかして、寝ぼけて優と電話していたつもりで一之瀬と電話していたとか? とか、そんなことを考えてみたけど、当たり前だがそんな事実は無い。

「悪いけど彼女連れなんで」

一之瀬の手が伸びてきて腕を引かれると、男はその場を立ち去ってしまう。

「えっと……私、あんたと約束してたっけ?」
「お前、本当に馬鹿だな。何で俺がお前と約束なんかしないといけない」

ということは、たまたま一之瀬は通りがかっただけだったんだろう。それで、菜枝を見て一応助けてくれた、と……。

「馬鹿って言われるのはムカつくけど、助かった。ありがとう!」

素直に礼を言う態度では無かったけど、それでもお礼を言えば一之瀬はようやく掴んでいた腕を離した。

「お前がここで揉め事を起こせば、ホテルに迷惑掛かるからな」

「そこかい! まぁ、いいや、助かったのは事実だし。ところでこれからどこか出掛ける訳?」
「お前には関係無い」
「そりゃあそうよね。愚問だったわ」
「それよりも、お前こそ……」
「菜枝!」

その声に一之瀬と共に振り返れば、優が慌てて走り寄って来るのが見える。不意に隣で空気が動く気配がしてそちらへと顔を向ければ、そこに立っていた筈の一之瀬が改札に向かう後ろ姿が見える。

「一之瀬!」

名前を呼べば不機嫌そうに振り返ったけど、その仏頂面にもう一度笑顔でお礼を言えば、それに対して一之瀬は何か反応を返すでもなく背を向けると人並みに消えた。元々、反応なんて返ってくるという期待は無かったから、菜枝としては一之瀬が振り返っただけで上出来だった。

「菜枝、今の誰?」

小走りに駆け寄って来た優は隣に立つと、一之瀬が消えた方向に視線を向ける。

「同僚。ムカつく奴だけど、まぁ、今は助けられたかな」
「助けられたって、何かあったの?」
「ナンパ男に絡まれた」
「ごめん、僕が遅くなったから」
「仕事だから仕方ないでしょ。さてと、どこに食べに行こうか」

隣に立つ優に視線を向ければ、やっぱり穏やかに笑みを浮かべた優がそこにいる。穏やかで感情に荒れることのない優の近くにいるのは安心出来る。そんな優に笑みを浮かべながらも、ゆっくりと歩き出した。

* * *

翌週からブライダルフェアが始まると、ブラダルセクションは全員が出勤となり事務所はいつもの静けさなど欠片も無い。

「菜枝、刈谷様来たわよ!」

楠木に声を掛けられて菜枝は手元で揃えていたパンフレットを一度机に置くと、目の前で一緒にパンフレットをまとめていた一之瀬に声を掛ける。

「ごめん、ちょっと一時間ほど行ってくる」

呆れたような溜息を返されたけど、文句は言われなかったから「あと宜しく」と声を掛けて菜枝は事務所を飛び出した。菜枝は最初に刈谷をまだ朝一で空いてるメイク室にへと促す。

「少し緊張してて余り眠れなかったの。化粧のノリ悪そうよね」
「大丈夫です、うちのメイクさん優秀ですよ。私の二日酔いの顔色の悪さだってカバーしてくれるくらいですから」
「二日酔いって……まさか今日」
「いや、大丈夫です。その、ここへ入ってきたばかりの時に歓迎会して貰った時にちょっと」

照れくささに笑いながら言えば、刈谷はこの間見た時もさらに明るい顔で笑う。

「人を選ばないと引かれるわよ」
「やっぱりそうですよね、気をつけます」

失敗したという顔をすればされに刈谷は笑い、菜枝から見てもその顔に緊張は見えない。

「ドレス着て教会に移動する時、介添さんに頼むって言っていたけど常盤さんではダメなのかしら」
「私ですか? それは構わないんですけれども……介添としては私、結構ガサツなんで、どうだろう。衣装室の人間に聞いてからお返事させて貰っても宜しいですか」
「勿論よ、無理を言ってるのは私なんだから」
「あの、私でいいんですか?」
「あら、私は常盤さんがいいの」

そう言われたら菜枝としても悪い気はしなくて満面の笑顔になってしまう。こういう仕事をしている以上、誰かに必要とされることは嬉しと思える。

「もの凄く嬉しいです」
「あら、大げさね」

そう言って笑う刈谷は、先週までとは全く別人のようによく笑う。恐らく、この一週間で気持ちもかなり落ち着いて来たのかもしれない。

衣装室へ到着すると、早速掛かりの人間に刈谷は連れて行かれてしまい、衣装部の部長に声を掛ける。

「どうしました、常盤さん」

いかにもきつそうな眼鏡を掛けたキリリとした衣装部の女性部長が菜枝は苦手だった。

「あの、刈谷様の介添なんですけれども、私にやらせて貰えませんか?」
「……裾踏まない、写真を撮る時に馬鹿笑いさせない、ドレスの乱れはすぐに直す。分かった?」
「は、はい。有難うございます」

慌ててペコリと頭を下げた菜枝の頭上に溜息が落ちて来た。

「本当は嫌なのよ。あなたガサツだから」
「はい、自覚してます」
「なら直しなさい、すぐ! 今すぐ!」
「き、気をつけます!」
「分かればいいわ」

それだけ言うと、他にも仕事があるのか部長は今日介添予定だった女性に声を掛けると、奥の部屋へと入って行ってしまった。そして、介添予定だった女性が菜枝の隣に立つと、穏やかに笑う。菜枝の母親と同じくらいの年代の女性は、衣装室でも人気の介添さんだと嘉門から聞いたことがある。

「部長、ああは言っていたけど、今日は最初から常盤さんを介添につける予定だったのよ」
「うちの部長が何か言ったんですかね?」
「違うわよ、多分、そうなるだろうって」

何がどうなってそうなると部長が思っていたのかよく分からない。

「実際、常盤さん担当の介添になること私もあるけど、あなたが担当するカップルは皆幸せそうな顔をして結婚式に挑むわ」
「別にそれは私が担当とか関係無いですよ。だって、結婚式ですよ? 幸せそうな顔してるものじゃないですか」
「それがそうでもないのよ。あら、刈谷様、もう出来たみたいよ」

さすがに空いているだけあって、上がりも早いらしく菜枝もメイクさんに呼ばれて顔を出せば鏡に映る刈谷は髪をアップにまとめ、しっかりとアイラインが引かれた目元はすっきりしていて格好よく見える。

「うわー、あのドレスに絶対に似合う」
「でしょ! 刈谷様の場合、下地が本当に綺麗だし、何よりもあのドレスに絶対に似合うように仕上げるって気合い入れてたんだから。だって、あのドレス、やっぱり女の憧れよね~」

そう言ってうっとりするメイクさんは外注さんで、ホテルの人間では無い。けれども、部長の一睨みで顔を引き締めると、鏡の中で視線が合った途端に舌を出して笑う。それを見ていた刈谷も笑い、鏡越しにお互いの笑いが伝染していく。

「さてと、次は着付けですね。刈谷様、こちらへどうぞ」

メイク担当の彼女が刈谷を促せば、メイク用の椅子から降りた刈谷はそのままカーテン向こうの着替え室に、先程の介添さんと一緒に消えていった。

正直、菜枝としてはやることがなく、少し手持ち無沙汰でもあった。試着程度であれえば然程時間が掛からないけれども、本格的に着ようとすればそれなりに時間も掛かる。

「常盤さん、内線」

その声に受付にある内線電話を受け取ると受話器を耳に当てた。

「菜枝? お前さんにご指名の客。そっちどれくらい掛かる?」
「まだこれから教会に行くから三十分以上掛かると思いますけど、誰かの紹介ですか?」
「うんにゃ、お前の友達だと。ここで結婚式上げたいからってご指名。名越さん、知ってるか」

言われた名前にすぐに思い至らず、菜枝は少し首を傾げていたけど、嘉門にフルネームを言われてようやく相手が誰だか分かる。

「あぁ、美華子! それならお茶でも飲ませて待たせておいて下さい」
「おいおい……」
「大丈夫です。適当に式場パンフレットと引出物パンフレット渡しておけば勝手に時間潰しますから」
「常盤さん」

名前を呼ばれて顔を上げれば、丁度カーテン向こうから刈谷が出てくるところだった。ウエディング用の少し濃いめの化粧をして、マーメードドレスを着た刈谷はまさに息をのむくらいに綺麗で、どこか気品も漂っている。

「すご……」

予想外の出来事に思わず呟けば、受話器からは「菜枝」と名前を呼ばれて我に返る。

「あ、取り合えず、そういうことで宜しくお願いします」

それだけ言うと菜枝は先輩相手にも関わらず一方的に受話器を置くと、すぐに刈谷へと駆け寄った。

「凄いです。本当に綺麗です」
「ふふ、お世辞でも嬉しいわ」
「だからお世辞なんて言いません。絶対にパンフレットのモデルさんに負けてません!」

力説する菜枝に刈谷は更に笑みを深くするとゆっくりと一歩を踏み出す。ハイヒールで更に背の高くなった刈谷を眺めて菜枝は溜息をついた。

「やっぱり、女の夢です」
「そうよね。やっぱり浮かれてるわよ、私も」
「それは凄く良い事です」

神妙な顔でそれを言えば、刈谷が殊更笑う。

「常盤さん、お客さんを笑わせない」

ピシャリと部長からの小言が飛び、菜枝は首を竦めると「すみません」と素直に謝る。基本的に花嫁さんは化粧が崩れるから大笑いさせてはいけないことになっている。反省しながらも、改めて刈谷を見上げる。

「行きましょうか」
「えぇ」

ホテルの誘導係の男性に案内されながら、刈谷と共に菜枝は教会へと向かう。男性の手によって開かれた扉の先には、日差しきらめく教会があり、菜枝は目を細める。

「私、あの人とここを歩きたかったの」

ポツリと零した声は、もう寂しさを感じない。ヴァージンロードに足を踏み出した刈谷は、振り返ると菜枝に笑顔を向けた。

「ありがとう、常盤さん」
「私は何もしてませんよ。決めたのは刈谷様ですから」
「でも、選択肢を用意してくれたのはあなたよ。それにこの穏やかな気持ちをくれたのも」

菜枝のしたことに比べたら褒め言葉を貰い過ぎな気がしないでもないけど、そう言って貰えるなら菜枝としても嬉しい。

「あの人は見ててくれるかしら」
「勿論です。だって大切な人なんですから」
「そうね」

笑みを深めた刈谷の顔は本当に綺麗で、菜枝は満面の笑みを刈谷の笑顔に返した。

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