ライバルは手放せない Chapter.I:愛ありすぎる結婚

入社して一ヶ月、礼儀、マナー、作法込みの研修を終えて、知り合ったばかりだけど苦労を分かち合った同期と別れると菜枝は、ようやく仕事先でもあるライクスホテル東京へ出社することになった。

ライクスホテルに入社した動機は人が喜ぶような結婚式のお手伝いをしたい、ただそれだけだった。他人が喜んでいる姿を見るのを菜枝は好きだったし、それの最上級が結婚式というものだと思っていた。勿論、望まない結婚式もあると知っているけど、それでも大半は本当に幸せそうな顔をしている。その幸せの手伝いをしたいからこそ、選んだ職業はブライダルコーディネーターでもあった。

元々、菜枝はそういう職業があることを知らず、ただ、大学でサークルが一緒だった三年先輩である嘉門がブライダルコーディネーターという職につき、時折、遊びに来ては聞かせてくれる話しは聞いているだけでも楽しかった。だから、就職を決めたのは嘉門のお陰ではあるけれども、まさかその嘉門と同じホテルに就職出来るとは思ってもいなかった。

ライクスホテルは海外にも幾つか系列ホテルがあり、正直、就職出来るとは思ってもいなかったけどダメ元で面接を申し込んだ。その中でもライクスホテル東京は毎年競争率も高く、とても難しいと聞いていただけに奇跡のように思える。特に菜枝のように、ホテルと縁の無い生活をしていた人間にとっては……。

「菜枝、久しぶりだな」

声を掛けてきたのは菜枝の大学時代の先輩でもある嘉門だ。大学で会う時に比べてやけにすっきりした髪型をした嘉門に思わず笑ってしまったのは、余りにも違いすぎるせいでもあった。

「なにを笑ってるんだよ」
「だって、別人すぎます先輩」
「仕事場だから当たり前だっての」
「そうかもしれませんけど」
「なに、嘉門知り合いなの?」

嘉門の後ろから来たのは菜枝と同じ制服を来た女性で、派手な顔立ちの美人だった。髪の長さは分からないけれども、後ろに纏めて団子にしてあるけど、逆にそれが美人度を上げている。

「んあ? あぁ、これうちの大学の後輩。サークルが一緒だったんだ」
「どんなサークルだったのよ」
「……マジックサークル」
「は? マジックって手品ってこと」

嘉門と菜枝の入っていたのはマジックサークルで、時折、老人ホームなど回ってマジックショーなどを行っていた。サークルの人数は少なくて、多い時でも八人くらいしかいなかった。でも、のんびりではあったけれども菜枝はそのサークルが好きだったし、マジックも子供の頃から人前ですることが好きだった。

基本的に人を驚かせたり、喜ばせたりすることが好きだったから菜枝にはとても向いていた。そして、先輩である嘉門も人を楽しませることには長けていた。

「そう、それ。まぁ、大した活動してないけど、サークルの数少ない可愛い後輩」
「はいはい、まぁ、いいわ。私は楠木悦子。これと同期、何かあれば聞いて頂戴。答えられることは答えるから」
「相変わらず冷たいな~」
「あんたに優しくしても意味ないでしょ。また、後で色々と説明するから」

菜枝には最後の言葉だけ言うと、颯爽と楠木は立ち去ってしまう。けど、その後ろ姿も格好良くて少し憧れる。

「ちょっと冷たい感じするかもしれないけど、あいつ、あれで面倒見はいいから何かあれば相談するといいぞ」
「はい、これからお世話になります」

ペコリと頭を下げれば、嘉門は笑顔を見せた。けれども次の瞬間には顔を曇らせると、声を潜める。

「一之瀬とやり合ったって?」
「やりあったっていうか……ムカつきます、あいつ」
「あいつって……まぁ、何て言うか、あれと同期なのは色々と諦めろ」

諦めろと言われても納得出来るものでも無く、菜枝はジトーッと嘉門を見れば少し考えた様子だった嘉門は、まぁ、いいかと言わんばかりに表情を崩す。

「一之瀬は特別なんだよ。だから、相手にするな。首飛ぶかもしれねーから」
「は? 何でそうなるんですか?」
「隠し子。あれ、オーナーの隠し子。ついでに、いずれあいつがこのホテルのオーナーになる」
「だって、名前違うじゃないですか」
「無駄口はそれくらいにして貰えませんか」

ヒヤリとするような声に思わず振り返れば、そこには無表情な顔をした噂の本人が腕を組んで立っていた。思わず嘉門を見上げたけれども、嘉門は慌てたように首を横に振る。どうやら、唐突に一之瀬は現れたらしい。

「話題に上がっていたので一応、遠慮したのですが、このままだといつまでも続きそうでしたので口を挟ませて貰いました」

無表情だったその顔に笑みが浮かんだけれども、どう見ても絶対零度のそれに菜枝も嘉門も思わず口を閉ざす。それでも年の功なのか、菜枝よりも嘉門の方が立ち直りが早かった。

「そ、それはどうも」
「いいえ。そろそろ時間になりますよ」

それだけ言うと一之瀬は菜枝と嘉門の横を抜けてブライダルセクション室へと向かってしまう。残された菜枝は嘉門と顔を合わせると、大きく息を吐き出した。

「ムカつきません?」
「言い方はあれだけど、今回はどう考えても俺たちの方が問題ありだろ。取り合えず行くか」

確かにこんな本人も通るような場所で噂話などしていた自分たちにも非はあるに違いない。でも、普通、あそこで開き直るか? 勿論、そんなのは人それぞれだから、これ以上考えても仕方ない。

既にセクション室へ入れば上司である福永も、そして同期である一之瀬も席についていて、菜枝と嘉門も自分の席へ座る。同期同士だからという配慮なのか、一之瀬の隣の席となった菜枝は無表情なまま座り手元にある資料を読む一之瀬の横顔を見つめる。確かにムカつく奴ではあるけど、あんな場所で噂話をしていたことは悪かったと思う。

「言いたいことがあるなら口で言え、ウザい」

本当にムカつく奴だと思う。でも、菜枝は文句を飲み込むと改めて一之瀬に対して口を開いた。

「先はごめん」
「何に対して謝ってる」
「だから、あんな場所で噂話をしてたのは軽卒だった。ごめん」
「あの場所は客からも目に入る。これ以上馬鹿と言われたく無いなら辞めておくべきだな」

本気で口にガムテームでも貼っておきたいくらいムカつく奴だと思う。でも、菜枝にとって問題はそこじゃない。

「客云々じゃなくて、その、噂話の内容についても悪かったって言ってるの」

不意に資料を読んでいた一之瀬の顔が上がり、菜枝へと視線を向けてくる。その表情は呆れたものだったけれども、長丸の細いタイプの眼鏡は、より一層一之瀬を冷たく見せている気がしないでもない。

「やっぱり馬鹿だな。別に本当のことだから気にしてない」

果たしてそういう問題なんだろうか。菜枝は問いつめたい気分になったけれども、呆れた目で見られてしまうとその気も失せた。

「いいの、私が謝りたかっただけだから」
「そう」

それだけ言うと、一之瀬は再び資料に視線を落としてしまい菜枝としてはこれ以上何かを言うことも出来ない。けれども、何かもやもやとして気分が落ち着かない。元々、言いたいことはその場で言うタイプでもあるから、胸の内に溜め込むようなことをしないことは菜枝自身知っている。それなのにモヤモヤするのは、一之瀬がムカつく以外にも、どこかこう……分からない。ただ、何かモヤモヤした気分で落ち着かない。

その間にブライダルセクション室部長である福永から改めて挨拶があり、新人として菜枝は一之瀬と共に紹介される。そして部署としては新人一人一人に対して誰かをつけるということは無く、全員で新人の面倒を見るということでそれぞれ先輩たちのいい所を吸収して欲しいと言われた。とは言え、何をどうすればいいかの説明はこれから福永からされるらしく、挨拶を終えると各自が席を立つ。

すぐ背後に座る嘉門が立ち去り間際、菜枝の頭をくしゃりと撫でると「頑張れ」と一声掛けて出て行った。そんなささやかな優しさが今の菜枝には嬉しかった。

セクション室の片隅にある会議室に促され、福永を前に一之瀬の隣に座ると、大まかな流れを説明される。最初の内はカスタマイズの利かないパックウエディングを担当することになるが、それも誰かが一緒についてくれることになるらしい。ただ、それは決まった誰かではなく、その時々でつく人間は変わるからその時ついた人によって意見が左右されることもあるということだった。最初に色々な人の意見を聞いて、自分がいいと思う所を吸収して欲しいと言われてるからそういう形になることは分かる。

「説明は終わりです。それでは現場に行きましょう」
「え? もう現場に立つんですか?」
「はい、いつまでもマニュアル読んでいるよりも、現場にいた方が数倍ためになりますから。今日のところ、一之瀬君は楠木さんについて接客、常盤さんは嘉門君について接客をして下さい。新たな提案をしたい時は、必ず先輩に一度相談してみること。想像だけで全てが賄える仕事ではありませんから、自分本位で解釈しないように気をつけて下さい」

一之瀬と二人で返事をして、幾つかの注意事項だけ聞いてすぐに現場へと向かわされた。ブライダル相談室にいる客は全部で九組、この不況の中では平日にも関わらず上々だと思うのは贔屓目も多分に入っていると思う。そしてどのカップルも本当に幸せそうで、見ているだけでホワホワとした嬉しい気分になってくる。

「今日は俺が菜枝につくって?」
「はい、宜しくご指導お願い致します」
「何畏まってんだか。……そうだな、今回の客はお前に担当して貰うか」
「は? いきなりですか!」

そんなことは全く菜枝自身予想していなくて、最初の一言目は思わず声が大きな声を上げてしまったけど、続く言葉はすぐにトーンを落とした。

「いきなりも何も、いずれは客がつくんだ。それなら簡単な方がいいだろ。今からつくお客様は金額の上限も決まってるし、本人たちの提案もはっきりしてる」

こういう客商売の時、一番困るのは相手に提案や夢が無いのが一番困ると聞いている。だとすれば、次の客は嘉門が言う通り、一番楽な客には違いない。

「やります」
「よし、それでこそ菜枝だ。なら行くぞ」

ラウンジカフェの裏にあるスタッフルームから出ると、嘉門と一緒に菜枝も一つのテーブルに立つ。

「お客様、大変お待たせしました。お部屋へご案内致します」
「どうぞこちらへ」

続けた言葉にちらりとこちらを見た嘉門は器用に肩眉を上げた。その一瞬見せた顔にはやるじゃんという意味を感じて、菜枝はふふんと少しだけ得意げに笑う。嘉門との付き合いは長くはないが、これでも中々にして濃い付き合いはしてきた方だ。阿吽の呼吸だって菜枝にとっては、ばっちり来いというものでもあった。

二人を部屋へ案内して、嘉門の横でパックの説明をある程度してから、ドレスなどの金額を決めて貰う。二人は幸せの絶頂期なのか、お互いに譲り合いながらも意見をぶつけ合うようなことはしない。時折、お互いの手や腕に触れ合い、確認しながらも、余り迷うことなくパック内容を埋めて行く。けれども、最終的にどうしても引き出物の内容を決めることは出来ず、一応、親の意見も取り入れたいということで二人は帰って行った。

「思ったよりもやるじゃん」
「それはもう、やる時はやりますよ。因みに今のに点数つけるとしたら何点くらいですか!」
「うーん……九十点はやってもいいな」

神妙に考え込む嘉門に対して菜枝はぶーたれる。正直、菜枝的には百点を貰えると思ったけど、現実は厳しい。

「残り十点の理由は?」
「提案が少ない。特にテーブルコーディネートには興味無さそうだったから、もっと提案しても良かったんじゃないのか? ウエディングなんて早々やるものじゃないんだ。出来るだけ自分が好きな物に囲まれた方が嬉しいだろ」
「うぅ、精進します」
「そうしろ、そうしろ。菜枝は客商売には向いてるからな」

ニシシと笑う嘉門に口を尖らせながら、菜枝は手元にあるファイルでテーブルコーディネートのページを開く。パックには幾つかのテーブルコーディネートが用意されてはいるけれども、メインにする花の色などは選べるようになっている。確かに今の客は、じゃあこれで、と今思うと適当に選んでいたようにも思える。パックだから確かに好みに外れるものもあるのかもしれないけれども、嘉門の言う通り反省点ではあった。

それ以降の客はある程度、カスタマイズが入ることから菜枝は担当させて貰えなかったけれども、嘉門の接客を見て得るものは多くあり満足な一日を過ごすことが出来た。

その日から一週間後、再び一番最初に菜枝が担当したカップルがやってきて、今日は他の先輩について貰っていたけれども、担当の客が飛び込みで来たらしく途中からは菜枝一人で担当することになった。とは言っても、大した問題が起きることも無く、残りだった引き出物と先日嘉門に甘いと言われたテーブルコーディネートを改めて説明して選んでもらうと菜枝は一旦コーヒーを取りに行くために席を外した。

ラウンジでバイトの人からコーヒーを二つ受け取ると、その足で部屋に戻る。ノックをしようと上げた手が思わず止まったのは、部屋の中から艶かしいまさに最中ですという声が聞こえてきたからだ。

……普通、するか、ここで。

耳をすまさなければ聞こえない程度だけれども、すっかり固まってしまった菜枝にノックをすることは出来ない。手を上げた状態で固まる菜枝が解凍されたのは、背後から掛けられた声だった。

「何してる」

思わずビクッと身体が震え、慌てて振り返ろうとした瞬間に手を支えられ、どうにかトレーからコーヒーが零れるのは辛うじて避けられる。

「い、一之瀬」
「こんな所で何して……あぁ、そういうことか」

静かな廊下だからこそ、一之瀬にも今の喘ぎ声が聞こえたに違いない。

「顔、赤いぞ」
「言われなくても分かってる」

俯いた菜枝の頭上から大きな溜息な音がして顔を上げる。

「今から、のんびりコーヒーを淹れ直してこい。それで、客には急な電話が入り遅れて申し訳ありませんでしたとでも言っておけばいい」
「だ、大丈夫かな?」
「大丈夫じゃなくてもシラを切り通せ。何か言われたら部長を呼べばいい」
「そ、そっか。うん、そうする」

正直、扉の向こうからは先程よりも切羽詰まった喘ぎ声が聞こえていて、菜枝としてはここにいること事態いたたまれない。

「あ、ありがとう」

もう言ってる菜枝自身、何がありがとうなのか分からないままトレーを持って踵を返す。聞こえる喘ぎ声に動揺したのか、足がもつれ転びそうになった所を背後から伸びてきた腕に助けられた。

「お前……やっぱり馬鹿だろう」
「ご、ごめん」

一之瀬の右腕は菜枝のウエストにしっかりと巻き付いていて、もう片方の手はしっかりと菜枝も持っていた筈のトレーを掴んでいた。トレーに多少コーヒーが零れてしまっていたけど、床には零れていないことにホッとしたのも束の間、自分のウエストに巻き付いた腕に内心悲鳴を上げた。

「そ、その、助けて貰ったことは感謝するけど、腕、離して貰える?」
「あぁ、すまない」

素直に一之瀬の腕は菜枝のウエストから離されると思ったけれども、更に引き寄せられて菜枝はパニックに陥る。

「な、なに……」
「浮かれたバカップルはこういうこともよくある。慣れておけ」

耳元に落とされた声と吐息すら感じる近い位置にある一之瀬の唇に、菜枝はもう首を竦めるしかない。確かに一之瀬が言うことはもっともかもしれないけど、何もこんな体制で忠告して貰う謂れは無い。これ以上何が起きるんだと怯える菜枝を、一之瀬はあっさり離すと菜枝にコーナーの乗ったトレーを差し出してきた。

「行け」
「い……言われなくても行くわよ!」

それでも中のカップルに聞こえない声量で怒鳴りつけると、菜枝はすぐに踵を返してラウンジカフェへと足を向ける。悔しいけど、絶対に顔が赤いに違いない自分に腹が立つ。しかもあの一之瀬に対して赤くなってる事実に菜枝としては、もの凄く納得がいかない。
いや、どう考えても、あんなことをされたら普通は赤くなるっていうの。

一人言い訳をしながら、持っていたトレーを一旦カフェに返してから菜枝はスタッフルームへと駆け込んだ。皆接客に出ているのかスタッフルームには誰もいなくて、菜枝はロッカーを開けて扉についている鏡で自分の顔を確認する。少しだけ落ち着いてきたのか赤みはかなりマシになっているけど、目元がまだ赤い。初日以来、一之瀬と言葉を交わす機会は余り無くて精々挨拶する程度だったけど、まさかあんなことをされると思ってもみなかった。

いや、待てよ、でも、助けられたのは確かな訳で……後でお礼言っておかないと。

そこまで思考が進むと、菜枝の立ち直りは早かった。確かに春爛漫のカップルがそういうことをするのに場所を選ばない人がいることは、経験の無い菜枝にだって分かっていた。深呼吸を繰り返して改めて落ち着いてから、スタッフルームを出るともう一度コーヒーを二つ頼み扉の前に立つ。もう一度扉の前で深呼吸してからノックをして扉を開けると、笑顔を張り付けた。

「お待たせして申し訳ございません。電話が入ってしまったもので」
「いいえ、全然気にしないで下さい」

答えた彼女は手にしていた口紅とコンパクトを鞄にしまうと、笑顔を向けてきた。その頬や目元は赤くて、先程の声まで頭に再生してしまうけど、菜枝は笑顔を崩す事は無かった。ようは、マジックをやってる時の緊張感を保てば、これくらいのことどうってことない。

「式までの日取り、まだ少し作業的なことが残っていますけれども、良い式にしましょうね」
「はい、お願いします」

頭を下げたカップルに、菜枝はホッと溜息を吐き出した。そう、お互いにあんなことは知られたく無い。もしかしたら、聞かせたいのかもしれないけど、菜枝としては聞きたいものじゃない。

「後は招待状の名簿ですが、そちらの方は直接か郵送、今ならメールでも受け付けられますけど、どうなさいますか?」
「そしたらメールでお願い出来ますか」
「分かりました。そしたら、名刺にメールアドレスも記載しておりますので、こちらの方へお願い出来ますか」

先日も渡してはあったものの、もう一枚名刺を取り出し差し出せば彼女が名刺を受け取った。それから少し式について話したり、仕事の愚痴を僅かばかり聞いたりして接客を終えた。最後にラウンジで笑顔でお見送りすると、そのまま昼食に入っていいと言われて再びスタッフルームへと戻る。

先程までいなかったスタッフルームには一之瀬だけがいて、丁度ネクタイを緩めている所だった。

「お疲れさま」
「あぁ、お疲れ」

相変わらず素っ気ない挨拶を返されたけど、今の菜枝には文句を言う気力すらなく椅子に座ると机にぐったりと突っ伏した。

「……あの、ありがとう、あんたのお陰で少し冷静になれた」
「それは良かったな」

顔も上げずに礼を言ったにも関わらず、一之瀬は気にした様子も無い。いつもであればこれまた、礼を言う態度じゃないとか言われてもおかしくないのに、一之瀬にしては珍しいことだった。けれども、菜枝としてもあの出来事を思えば顔を見てお礼を出来るまでには落ち着いてもいなかった。客の前では開き直りも出来たけど、ダメージは結構大きい。

「もう少し耐性つけとけ」

それがどういう意味の耐性なのか、言われなくたって菜枝にだって分かる。だからこそ、顔だけ一之瀬に向けて睨みつけたけど、一瞬視線の合った一之瀬は「馬鹿丸出し」と言うと部屋の片隅に置いてある弁当を手にすると机の上に置いた。

スタッフルームに置いてある机はスチール製のもので、恐らく過去に事務所で使われていた物だと思う。その証拠にあちらこちらに傷がある。そして、その傷だらけのスチール机は向かい合わせで四つ置かれ、それぞれにパイプ椅子が用意されている。スタッフ同士の打ち合わせは基本的に事務所で行うこともあり、スタッフルームは簡易休憩所でしかない。とは言っても、ロッカーまで備えつけられているスタッフルームは、少なくとも女性陣にとっては有り難みのある場所でもあった。

弁当は本日出勤しているコーディーネータの人数分あり、今日出ているのは全部で八名、一之瀬が一つ取ったけとで七個の弁当が残っていて、まだ、誰も昼食を取ってないことが分かる。

「馬鹿だから飯食わないと頭回らなくなるぞ」
「馬鹿馬鹿言うな!」
「あぁ、常盤さん?」
「何故疑問系?」
「馬鹿の名前を覚えるのに頭使うのは勿体なくて」
「本気でむかつく!」

斜め前に座る一之瀬が菜枝の分の弁当まで取ってくれる筈もなく、菜枝も椅子から立ち上がる。当たり前だけど一之瀬が弁当を取ってくれることは期待もしてなかったし、逆に一之瀬が自分の分まで取ってくれたりしたら、それこそ明日には雪が降るに違いない。弁当を手にした菜枝は、一之瀬と同じように斜め向かいの机に弁当をに乗せると勢い良く椅子に座る。けれども、余りにも勢いよく椅子に座りすぎたのか、グラリと傾いた次の瞬間には椅子ごと菜枝も床に倒れてしまう。

……これじゃあ、馬鹿と言われても言い返せない。

内心泣き言を零しながら更なる馬鹿攻撃に備えていれば、一之瀬からの言葉は無い。珍しいと思いながら身体を起こそうとした所で、テーブルの死角から腕が伸びてきて菜枝の肩を押さえる。

「い、い、一之瀬?」

肩を掴まれたかと思った瞬間に一之瀬の身体が菜枝の身体に覆いかぶさり、細い眼鏡を通して一之瀬が見下ろしてくる。真っすぐなその視線に菜枝の思考も固まる。はっきりいって一之瀬をこうして正面から見たことは無い。

「こういうことされて固まるだけか? 経験値の無さがよく分かる」
「うるさい! 経験値無くたってあんたに迷惑掛けてないでしょ」
「掛けただろ、つい先程」

冷静な口調で言われてしまうと菜枝に返す言葉はない。確かに助けられたのは記憶に新しいし、菜枝としては言い返せず悔しさに唇を噛むしかない。

「結婚にどんな夢持ってんのか知らないけど、結婚したって遊ぶ奴は遊ぶし、こういう場所でもちょっかい掛けてくる馬鹿はいる」

憎々しげに吐き出す一之瀬の声と表情に、しばらくぽかんと見上げていた菜枝だったけど、少しずつ思考が戻ってくるとポツリと零した。

「客に何かされたの?」
「……キスされた。お陰で気分は最悪だな」
「え? 人に散々講釈垂れておいて客にキスされたってありえないでしょ! 人のこと散々馬鹿馬鹿言うけど、あんただって仲間入りでしょ、それ」

言い過ぎた、と思った時には既に遅く、見下ろしてくる一之瀬の表情は能面のように無表情だった。

「あ、あの……」
「さぞやりやすいだろうな、お前みたいな馬鹿相手なら」
「な、何をかな~」

聞きたく無い、そう思っているにも関わらず口は先に動いていた。後悔は先に立たない、まさにその言葉を思い出して菜枝は背筋が冷える。

「セックス」
「ば、馬鹿じゃないの!」
「でもやれるだろ、実際」

肩を押さえつけていた一之瀬の手が離れると、その手はすぐに胸の上に置かれる。そして事もあろうに数回揉まれた。

「な、なっ!」
「口だけって本当に馬鹿だな」

大きな溜息つきでそれだけいうと、一之瀬は菜枝の上からどくとそのまま椅子に腰掛けて弁当の蓋を開けている。けれども、された菜枝としては黙っていられる筈も無い。

「あんた、嫌味だけじゃ飽き足らずセクハラまでする訳!」
「お前の馬鹿さ加減を教えてやっただけだ」
「そんなもんあんたに教えられる謂れは無いわー!」

怒鳴り散らした途端、スタッフルームの扉が開き、そこから顔を出したのは嘉門だった。

「菜枝、うるさい」
「だって、だって!」
「愚痴なら後で聞いてやる。今は大人しく飯食ってろ、な」

それだけ言うと嘉門は扉を閉めてしまい、再び一之瀬と菜枝だけの二人の空間が出来上がる。

絶対、こいつおかしい。っていうか、常識が色々足りないでしょ。つか、初めて胸を揉まれた相手がこいつかと思うと殺意だって芽生えるわ!

菜枝が睨みつけたところで一之瀬は全く気にしていないのか、既に弁当を食べ始めていてこちらに視線を向けることすらしない。これ以上何を言っても無駄だと踏んだ菜枝は、改めて椅子を直してから今度は慎重に座ると弁当の蓋を開ける。ホテルから支給される弁当は美味しい筈なのに、怒りと悔しさに震える菜枝にとって今日の弁当の味は全く分からなかった。先に弁当を食べ終えた一之瀬は、早々にスタッフルームを出て行ってしまい、まだ残る弁当と格闘していた菜枝はふと気付く。

一之瀬は客にキスされたと言っていた。正直、ざまーみろという気分だったけど、一瞬にして箸が止まる。

……もしかして、あれは八つ当たりだった、とか? まさねぇ、まさか……。

そう思うけれども、菜枝はしっかり食べ終えた弁当を横に避けてから再び机に突っ伏す。八つ当たりで胸まで揉まれたのだとしたら、余りにも自分は救われないんじゃないだろうか……。

「ありえない、ありえない! ありえなーい!!」

一人部屋で叫んでいれば、今度こそ顔を出すだけでは無く、部屋に入ってきた嘉門に手痛い拳骨を貰うことになった。

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