ライバルは手放せない プロローグ

確かに寝坊したのは自分が悪い。けど、電車が遅延したのは私のせいじゃないし、パンプスのヒールが側溝にはまったのは私が悪い……のか?

黒いリクルートスーツを着た菜枝は、靴を片方脱いだ状態で腹立たしげにヒールのはまったパンプスを睨みつけていた。

入社祝いにパンプスをくれた友人である優は、確かに前もって履いておいた方がいいとは言っていた。けど、勿体なくて履けなかったんだから仕方ないじゃない。

頭にきながらも菜枝は屈み込んでパンプスを引っ張ってみるけど、ムカつくくらい動かない。しかも、こんな朝から女性が困ってるというのに、誰も助けてくれないって薄情すぎない?

そんなことを思っていたけど、どうにも本格的に抜けそうにないパンプスに諦めの溜息をついた。

入社式早々遅れるのはさすがに勘弁願いたい。なら、片方のパンプスだけ履いて行けば、ただの怪しい人にしかならない。時間は九時、こんな時間から靴屋なんて開いてなくて菜枝はもう、どうにでもなれという気分で空を見上げた。悔しいくらい雲一つ無い青空で、涙まで浮かんできそうになる。

とにかく、連絡もせずに遅れる訳にもいかないから、菜枝は鞄から携帯を取り出した。一応念のためと思って携帯に番号を登録してきて本当に良かったかもしれない。電話帳を探すべくボタンを押していれば、背後から声が掛かる。

「どうかしましたか?」

振り返れば、そこには優しい笑みを浮かべた男の人が立っていて、菜枝の言葉を待っている。恐らく、視線が合っているから間違いなく菜枝のリアクション待ちだと思う。けれども、彼はすぐに視線を落とすと側溝にはまったパンプスを見てすぐに納得した様子だった。

「少し待ってて下さい」

それだけ言うと、彼は手が汚れるのも構わずパンプスと溝の間に手を入れると、ゆっくりと側溝の蓋を持ち上げる。

「早く取って下さい」

言われるままに菜枝は慌ててパンプスを取り出すと、彼はゆっくりと蓋を下ろした。それから菜枝の持っているパンプスを見ると、少し困ったような顔をしている。

「大分傷がありますけど、履けないことはないと思います。どうしますか?」

問い掛けられても、今の菜枝に選択肢なんてものは無い。

「大丈夫です、履いて行きます」
「そうですか」

短く答えた彼は菜枝の手からパンプスを取ると、屈み込んで菜枝の足下へと置いた。

「手をお貸ししましょうか?」
「い、いえ、大丈夫です」

少なくとも、菜枝の年近い友人にここまで紳士みたいな男はいない。というか、さらりと手を貸すなんて言葉が出てくる辺り、菜枝にとってはまるで別世界の住人のようにすら思える。

「あの、有難うございます」
「いいえ、それでは失礼します」

そう言って彼は立ち去ってしまい、思わず呆然とその後ろ姿を見送ってしまった菜枝は、我に返った途端慌てて走り出す。二の舞にならないように歩道の真ん中を走っていると、すぐに彼の後ろ姿を見つけることが出来た。後ろから見ても逆立てた黒髪は、はっきり言ってかなり目立つ。すれ違い様に「有難うございました」ともう一度お礼を言うと、菜枝はそのまま彼を追い越しひたすら走り続け今日から職場になるライクスホテルへと駆け込んだ。

まだ何名かリクルートスーツに着られた顔があり、間に合ったと菜枝は溜息をつくとロビーから奥へ進み会議室となっている場所へ足を踏み入れた。そこには三十名ほどの新入社員がいて、それぞれが名札をつけている。入り口で名前を言って菜枝も名札を貰うと、胸元につけてから指定された椅子へと腰掛けた。まだ菜枝の前も横も人がいなくて、菜枝の席は一番後ろだったこともあり、ポツンと一人座る羽目になる。

どこかのんびりとした空気が流れていて、菜枝は間に合わないと思っていただけに首を傾げながら壁に掛かる時計を見れば、集合時間の十五分前だった。

「ん……?」

腕時計を見れば既に九時になっていて、菜枝は少し考えた後に一週間ほど前、自分で腕時計を進めていたことを思い出す。

ギャー、だとすれば、先の人にきちんとお礼を言うべきだった!

そう思ったところで後の祭り、今更ここを出て行く勇気もなくガックリと肩を落とした。刻一刻と時間が過ぎる中、徐々に回りに人が集まり出す。一応挨拶は交わしたものの、基本的に両隣の人間は同じ系列の大阪や九州のホテルに配属になるらしく、どうやら話しを聞いたところ縦並びの列が同じ系列ホテルの同期ということらしい。

けれども、菜枝の前には一つしか椅子が無く、どうやら同期の人間というのは菜枝にとって一人しかいないらしい。

いい人でありますように。

そんなことを願っていれば、背後から菜枝の横を抜けて前に座る男の人がいる。後ろから見ても目立つその髪型を忘れる筈もなく、菜枝は思わず前に座る男の肩を勢いよく掴んだ。

「あの、先は有難うございました!」

振り返った男は一瞬目を見張り、それから大きな大きな溜息を吐き出した。

「あんた、ここの従業員だったのか」
「そう、先は本当に助かっちゃった」
「あんた馬鹿だろ」

……聞き違いか?

そう思ったけれども、前に座り振り返る男の目は冷たく、呆れた顔を隠そうともしない。

「慣れない靴を履いたりするからあんなことになるんだ。少しは靴慣らししてから履こうという知恵は無いのか?」

こいつは本当に先と同一人物なんだろうか。もしかして、そっくりさんで別人、まで考えてみたけど、確かに菜枝はこの顔の男に助けられている筈だ。

「二重人格?」
「営業用だ。馬鹿相手に営業する気はないから普通にしてるだけだ。一つ忠告してやる。スカートで屈み込む時には足を閉じろ。馬鹿に言っても無駄かもしれないがな」
「馬鹿馬鹿言わない、常盤菜枝って名前がきちんとあるんだから」
「常盤菜枝、ね。馬鹿の代名詞として覚えておいてやる」
「なっ……!」

思わず言い返そうとしたところで、社長がひな壇に上る姿を捉えて菜枝はグッと言葉を飲み込んだ。確かに口の悪い人間は菜枝も回りにもいたけど、ここまで最低な奴は出会ったことが無い。というか、どんだけ二重人格なんだ、この男は。

椅子に貼られた紙テープに書かれた名前には「一之瀬拓磨」とあり、その名前を悔しさ半分、憎らしさ半分で頭の中へと刻み込んだ。

 
 

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