安全圏の彼と彼 番外編 第1章

仕事が嫌いかと問われたら、嫌いでは無いと素直に答えられる。やればやっただけの結果はきちんと生まれるものだから、自分というものを積み上げていくには仕事というものは面白くもあった。だから、会社に行くことは苦痛ということも無く、月曜日になり会社へ顔を出すと朝一の会議へ向かう。
他の課との擦り合わせ会議を終えて自分の仕事場でもある五課へ向かったのは昼前のことだった。エレベーターを降りた途端、正面の椅子に腰掛けていた部下の佐々木が席を立つ。

「課長、ちょっと不味いことになってますよ」

部下の中でも信頼出来る位置にいる佐々木の言葉は、聞くだけの意味がある。社長の息子という自分の立場にも謙ることなく言葉を交わせる数少ない部下の一人でもあった。

「何かありましたか?」
「課長と前橋とデートしたと噂立って新橋の立場がピンチ、と言えば心当たりあります?」

佐々木に言われて思いつくのは、先日土曜日に新橋とスーツを買いに行ったと時のことであるのは間違いない。けれども、予想外だったのは前橋とのデートという言葉で思わず眉根を寄せる。

「前橋君、ですか?」
「えぇ、課長と前橋の二人ですよ。そのために新橋が二股掛けてるという噂が真しやかに女性社員の間で流れてます。お陰で課の空気最悪ですよ。本人に改善を求めたい所なんですが」

正直、自分とのことは噂になっても構わないとすら思ってもいた。けれども、意外な伏兵に落ち着かない気分になる。

「それで、空気最悪とはどういう状況ですか?」
「うちの事務員が新橋の仕事をことごとく邪魔してる状況です。そろそろ新橋も切れますよ、あれ」
「分かりました。善処しましょう」
「そうして下さい」

二人並んで話しながら五課へ向かえば、開け放たれた扉からは女性社員と彼女の声が聞こえてきて足早に部屋へ入るところで彼女の声が響き渡る。

「今日あなたたち二人にされたこと、全て言いましょうか」

足を踏み入れた五課は彼女たちに視線が集まり、奇妙に静まり返っていた。基本的に彼女は仕事に対して真剣で、真面目だからこそ気持ちは分からなくは無い。けれども、それ以上口にしてしまえば今後禍根を残すことは目に見えていた。
だからこそ、彼女を諌めるような口調でそれくらいにして下さいと告げれば、彼女はすぐに冷静になったらしく頭を下げて来た。そういう部分は彼女らしく、好意の持てる部分でもあった。

原因は分かっている。けれども、改めてそれを口にしたのは、既にこの状況ではある程度周りにも説明しないと納得しない状況になっているからでもあった。

「原因は何ですか?」
「彼女たちは私が板橋課長や前橋君と付き合っていると誤解しています」

端的、かつ分かりやすい説明に内心苦笑するしかない。一層の事、自分のことだけ誤解されていればいいのに、そう思わずにはいられないがわざとらしくも恍けたふりで新橋へ質問を投げる。

「付き合ってる……んですか、私たちは?」

強張っていた新橋の顔は、一瞬にして困惑したような表情へと変化する。もしかしたら、呆れているのかもしれない。それでも、きちんとした返答をするのは彼女の真面目さ故かもしれない。

「恋人になった記憶はありませんが」
「えぇ、そうですよね。前橋君とは付き合ってるんですか?」

彼のモーションはかなり露骨なものであったけれども、金曜日の時点で彼女が相手にしている様子は無かった。この週末になにか変化があったのだとすれば、自分としても落ち着いてはいられない。けれども、彼女答えはあくまで端的なものだった。

「いいえ、恋人になった記憶はありません」

答えてから新橋の視線が鋭く前橋へと向けられ、アイコンタクトを受けた前橋は苦笑しつつも肩を竦めて見せる。

「えぇ、付き合っていません」

けれども、アイコンタクトを交わすだけの何かが二人の間にあったのは見て取れた。

「だって、土曜日に課長と」

会話に加わったのは女性事務員の一人で、視線を向ければその顔は酷く慌てているように見える。

「えぇ、偶然お会いしたのでお互い一人だったこともあり、お茶をしましたが、それが何か問題ありますか?」

実際にはお茶以外にもスーツを選んだりして貰った訳だが、ここで問題を更に大きくするような発言はしない。

「な、なら、前橋君は!」

途端に彼女たちは前橋へと視線を向けると、前橋はとまどったような顔を作る。そう、まさに作っていることはすぐに分かった。

「僕は分からない書類があったので休日には申し訳ないと思ってたんですが前橋さんにお願いして教えて頂きました」

その言葉を聞いて、実際に彼女が前橋と会っていたことを知る。そして、前橋が言うような理由じゃないこともすぐに分かった。

それなら一体、二人は何をしていたのか。気にならない訳では無いけれども、ここでそれを詮索する立場に自分はいない。けれども、前橋へと視線を向けていれば、その視線がこちらへと向けられる。その目は酷く冷たいもので、前橋が面白く思っていないことはすぐに分かった。それを冷静に受け止めれば、すぐに視線は反らされてしまう。
その間にも事務の二人は納得したのか、新橋に謝っている。心がざわめかない訳では無かったけれども、新橋に頭を下げられれば既に仮面のようになっている笑みを顔へ貼付けた。

「問題は解決しましたか?」
「えぇ、多分」

笑顔で答える彼女に同等の笑みを更に浮かべると仕事へ戻るように促せば、ようやく課内にざわめきが戻り始める。それ以上彼女と会話することなく自席へと戻れば、何やら顔を近づけて彼女と前橋が会話を交わしているのが見える。前橋と書類を交わしているところを見る限り、彼女は落ち着いているらしい。そのことに安堵しながら、未決箱に入っている書類を取り出し確認していく。

別段悪いことをしたつもりは全く無いが、迷惑の一端を担っているだろうことは分かっている。駄目押しに昼食に誘おうかと思案しながらも、目の前にある書類を片付けている内に昼休みのチャイムが流れる。途端に課内にざわめきが戻る中、彼女と前橋が席を立つ様子が見えた。それは酷く慌ただしいもので、前橋の強引さで人目も引いている。

若いな……そんなことを思いながら、引き出しから分厚いキングファイルを一部取り出すと何もなかったかのように自分も椅子から立ち上がった。
だが、前橋の行動は意外でもあった。正直そこまで彼女に本気になっているとは思っていなかったけれども、どうにも風向きが怪しくなってきているらしい。

大抵、内緒話しをするのであれば第八会議室と決まっている。案の定第八会議室前には女性社員が数名固まり、中の様子を伺っているのが見える。全くもって、野次馬根性というものは逞しいものだと思いつつもその一団に近付けば、蜘蛛の子を散らすように立ち去ってしまう。
軽く握った拳でノックをすれば、余り待たされずに扉が開く。出て来た前橋は笑顔ではあったものの、その目が笑っていない。だからこそ、いつもと変わらぬ笑みを浮かべると普通に声を掛けた。

揉めていないという彼女に、何かあれば相談して下さいとだけ伝えれば、少し困ったような顔で自分を見ている彼女がいる。仕事の事に関してであればすぐにでも相談してきたのかもしれない。けれども、ことプライベートに関して彼女は誰かに相談することはしないに違いない。
自己完結という言葉は善し悪しはあるものの、基本的に彼女の自己完結は自己解決に近いものがある。だから、その辺りの線引きについては信用している部分はある。

不意にすぐ横を前橋が通ったかと思えば、彼女の腕を掴み強引に唇を重ねた。驚いて目を見開いている彼女に対して、前橋はどこか余裕ありげにこちらを見ると口の端を軽く引き上げた。
前橋が自分の気持ちを知っているかは計り知れない。ただ、自分すら巻き込んで楽しんでいることはその表情からも伺えた。彼女に強引とも言える手段に出たことは腹立たしさもある。けれども、こちらが一歩を踏み出すよりも先に彼女の平手打ちが前橋を襲った。

「どういうつもりよ!」

彼女のその言葉だけで、前橋との関係は伺えた。けれども、全く気にした様子もない前橋はこちらへと振り返ると、叩かれた頬も赤いままいかにも営業用スマイルを浮かべてみせる。ただ、その目は酷く挑戦的なものだったが、こちらも表情を変える訳にもいかない。
元々多少のことで表情が崩れるような平坦な人生を歩んできた訳でもないから、その笑顔に笑顔で返す。見た目の爽やかさほど前橋という男は爽やかな男では無いのかもしれない。

ここにきて、初めて自分の中に焦りのようなものを感じているのに気付く。前橋も本気で彼女を手に入れようとしているようには見えない。けれども、彼女はどうだろうか————。

「強引なのは嫌われる元ですよ」
「大丈夫ですよ、芹香さん、こういうの嫌いじゃありませんから」

含みを持たせた言葉に、理性で感情を押さえ込み笑みを崩すことはしない。どこか仄暗いそんな会話を彼女が一刀両断してしまう。

「普通に考えたら嫌に決まってるでしょ」

かなり怒っている様子で、彼女は前橋を睨みつけているのが視界の端に映るけれども、前橋の視線は自分から離れることない。こちらの感情の波を見ているのか、神経を逆撫でする理由を見つけようとしているのか、食えない男だと思える。

「嫌だそうですよ」

だからこそ、殊更笑顔で端的に言えば、前橋は一瞬口を開きかけたけれども、そのまま閉ざして言葉は無い。ただ、前橋から反らした途端に見せた表情は、もう笑顔では無く、さも面白く無いという類いのものでもあった。二人の関係がただの上司と部下という関係で無いことは、この数分で十分すぎる程分かった。
だとしたら、この週末に二人の間で何かがあったのだろう。出来る限り穏やかなに、けれども前橋には分かるように口を開いた。

「君たちは恋人同士なんですか?」

視線を向けた前橋はチラリとこちらを見たけれども答える気は無いらしい。そのまま視線を彼女へと向ければ、冷静な顔で「違います」と即答された。だとすれば、確かに恋人では無いのだろう。彼女には気付かれないように、けれども前橋には分かるように、穏やかすぎる笑みを浮かべると言葉に毒を混ぜた。
「そうですか。それは安心しました」

その言葉で前橋があからさまに反応して顔を上げると、一瞬、本当に一瞬困惑げな顔を見せる。それは年相応にも見えて、内心笑ってしまう。恐らく、自分はこういう内輪もめ的なものに参戦すると思われていなかったのだろう。あれだけ煽ったのだから、それ相応の相手はして貰おうではないか、そんな気分で更に笑みを浮かべた。
途端に鋭い視線で睨まれて、こちらが思っているよりも前橋が彼女に本気だということは知れた。

「前橋君、社内でこういう行為は辞めて下さいね。でないと、私としても上に報告しなければなりませんから」

努めて笑顔でそれだけ言うと、会議室の扉を開けた。廊下にはやはり女子社員がいたけれども、前橋は口を開きかけて噤むと、それから彼女を見てからそのまま会議室を素直に出て行った。脅迫じみた言葉だと思ったが、恐らく前橋には自分の本気が分かっただろう。今はそれでいい、彼女に伝えるつもりは全く無いのだから。

そのまま彼女へと視線を向ければ、すでに閉じた扉を悲しげに見ていて自分の心も痛む。彼女の気持ちがどこへ向いているのかは分からないが、それでも、彼女が普通の部下よりも前橋のことを気にしていることだけは分かり微かに嫉妬めいた感情が芽生える。

けれども、彼女は何かを振り切ったかのようにその表情を消すと、こちらへ向き直り頭を下げた。謝る彼女に対して笑みを崩すことなく、前橋の移動を仄めかす。一層のこと、彼女が善しと言えば本気で移動させることも考えていたけれども、やはり彼女は善しとはしなかった。

どのような感情を彼女は前橋に抱いているのか分からない、けれども、ここで薮をつついて蛇を出すような真似はしたくなかった。勿論、感情以前に物事を途中で投げ出すようなことをしない彼女のことは分かっている。けれども、自分にとって前橋を彼女の部下に据えたことは失敗だったように思えて、内心舌打ちするしかない。

結局、誰かに惚れるということは、それだけ色々なものが許容できなくなるということなのかもしれない。

帰りに送ると言ったけれども、彼女は丁重に断ってきたけれども、その顔に不安が無い訳でもなかった。だから、勝手に待っていることを自分の中で決めてしまうと、持って来たファイルを彼女へと差し出し、プレゼンの相談をしていたという言い訳を作ってしまう。それを聞いた彼女は最初こそ唖然としていたけれども、すぐに余り見ることの無い楽しそうな笑みを浮かべた。

恐らく、ここに前橋、そして自分と彼女がいたということが女子社員に知れると、どういうことになるのか一応理解もしている。親の七光り有難く、女性社員からの人気は自分でも分かっている。言い訳が立つと言ってお礼を言う彼女に、不意に思いついたことを口にした。

「一つ、お願いしてもいいですか?」
「お願い、ですか?」

不思議そうな顔で見上げてくる彼女に、他人から見たら穏やかに見えるという笑みを浮かべると今晩食事をしたいという提案をした。少しの間悩んでいるそぶりを見せた彼女だったけれども、すぐに腹は決まったのか「分かりました」という返事を笑顔でしてくれる。

正直、断れることは微塵も感じていなかったし、言い方は悪いが恩を売ったそのすぐ後に彼女が断れる性格でないことも分かっている。佐々木辺りに言わせると「本当にいい性格」らしいが、仕事以外に活用しても別に然程悪いことでもないに違いない。

彼女の残業に快く了承したのは、それだけ人目に触れないこともあったし、佐々木が言ってきたくらいだから余程仕事の進み具合がよく無かったことは伺えた。取り急ぎでは無いものの、自分にもやることは幾らでもある。彼女と約束を取り付けて会議室を出ると、彼女と別れて第一会議室へと向かう。

一人課内へ戻る彼女の姿が見えなくなってから、携帯を取り出すと佐々木へと端的にメールを送った。前橋と彼女に何かがあるようであれば、間に入って欲しいというものだったが、このメールで聡い佐々木には自分の気持ちが知れてしまったかもしれない。けれども、それ以上に彼女のことが気になったのだから仕方ない。

会議室に入る前に佐々木からは返信があり「了解」という短い言葉に苦く笑った。

Post navigation