安全圏の彼と彼 番外編 第2章

たかが遊びの延長と考えていたのに、思っていたよりも彼女にはまっている自分に嗤ってしまう。ただ、本気かと問われたら答えは否で、板橋という強力なライバルが出て来たからだけに違いない。まさか、あそこでそういう言動をされるとは思ってもいなかった。

何が良かった、だ――――。

ただ彼女をからかって楽しんでいるだけなのに、何かが面白く無い。板橋が出て来たから煽っただけなのに、何故こんなに苛立つのか自分でもよく分からない。それでも、面白く無さの一部を担うものは分かってる。別に確信があった訳じゃないから、ただ単純に煽っただけの話しだ。
だけど、逆に煽り返された。それが面白く無い。

今頃、会議室でどんな話し合いが二人の間でなされているのか考えるだけでも、面白く無い気分にさせられる。自分でも支離滅裂だと分かっていたけれども、気持ちは収まらずに五課へ入れば近くの席にいる佐々木と視線が合った。

「おや、ご機嫌斜め」

そんな佐々木に笑顔を向けて「そんなことありませんよ」と答える。この顔のお陰で大抵は笑顔一つで騙されてくれる人間は多い。けれども、佐々木は肩を竦めただけでそれ以上何も言うことなく机へと向き直ってしまう。正直、この人といい板橋といい、つかみ所が無くて苦手意識があることは否めない。

それでもこれ以上話しかけてこないことをいいことに、自席に座ると机に広げたままだった書類を片付けるべくボールペンを手に取った。そんなところに頭上から何かが落ちて来て、マジマジとそれを見れば菓子パン二つだと分かる。慌てて振り返れば、ニヤニヤと笑いながら佐々木が背後に立っていた。

「昼、まだだろ。それ食え」
「お腹空いてませんからいいですよ」
「まぁ、そういうなって」
「でも、新橋さんも戻って来てお昼取るとは思えませんし」
「新橋はいいの。どうせ製造部との打ち合わせで菓子くらい食うんだから。お前、腹減ってるから機嫌だって悪くなるんだよ。あの新橋に扱き使われてよくやってるよ、お前さん」

それだけ言い残すと、落とされた菓子パンを引き取ることなく佐々木は煙草を持って課内を出て行ってしまう。恐らく喫煙所にでも行ったのだろう。実際、余り腹は減っていない。それでも、今日は事務作業の遅れから彼女が遅くなることは分かっていたから、無理矢理菓子パンを腹に詰め込むとコーヒーで流し込んで片付けてから財布から取り出した小銭を佐々木の机の上に置いておいた。こんなことで借りを作るなんて冗談じゃない、そんな気分で再び椅子に座りかけたところで昼休みだった為に閉まっていた五課の扉が開き彼女が課内へ入って来た。

慌てて駆け寄れば、出て行く時には持っていなかったファイルを持っている。これもきちんと持って行きなさいと言われて、頭に疑問符ばかりが浮かぶ。けれども、それは会議室に行っていた言い訳だと分かると腹立たしさが蘇りつい彼女を見下ろす。一瞬彼女の表情が強張ったのが分かり、慌てていつもの笑みをとってつけるとすっかり忘れていたと謝ってしまう。

実際、ここで騒動を起こすのは得策じゃないことは、周りの興味津々とも言える視線で分かる。それ以上会話は無く、彼女が椅子に座ったところで声を掛け、更に会議室へ誘いかけたけれども彼女がそれに乗ってくるようなことはしなかった。再び強引に連れ出すことも考えたけれども、もし、ここで強引に動けば早かれ遅かれ板橋の耳にも入るに違いない。

実際に彼女は忙しかったらしく、慌ただしくパソコンでメール画面を出しキーボードの上で指を走らせているのが目に映る。あれだけあからさまに邪魔をされていたのだから、確かに今日の分の仕事が随分と詰まっているに違いない。昼食終了のチャイムが鳴り、それでもしばらくメールを打っていた彼女だったが、ようやくメールが終わったのか今度は椅子から立ち上がると手早くファイルを幾つかまとめると小脇に抱えた。

「製造部との打ち合わせに行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」

物わかりのいい部下の顔をして笑顔で彼女を見送ると、机に広げただけの書類を片付けるためにペンを手に取った。別に然程手のかかる書類じゃないから三十分もあれば終わると目算をつけると、椅子から立ち上がり新橋の机の上に置いてある自分でも出来そうな書類を幾つか抜き出すと、椅子に座り直し仕事をするためにボールペンを手にした。

電卓を叩きながらも考えているのは今晩のことで、このまま引くつもりは全く無かった。恐らく今日は彼女が残業になることは分かっているし、自分も一緒に残業するつもりでいた。とにかく手伝うにしても仕事をある程度まで進めないことには帰れないのだから、彼女のいない空間で仕事にのめり込む。

終業のチャイムで我に返ると一息ついて、大きく伸び上がる。デスクワークは嫌いではないが、さすがに根を詰めたかもしれない。基本的に残業は余りしないようにしていたけれども、今回ばかりは彼女のために残業をするべきだろう。

板橋に負けたく無いのであれば……。

あの人が彼女を好きだというのであれば、よりこのゲームみたいな恋愛は楽しいものになるに違いない。恋愛なんてものは、相手を落とすまでのゲームであってそれ以上に続くことは何も無い。続くものがあるとすれば、何かしら相手から得るものがあるからこそだと思う。
だから、この恋愛だって自分が彼女を落としてしまえば、恐らく飽きてしまうことは目に見えていた。板橋から彼女を奪う、そして板橋のあの笑顔が崩れる瞬間を想像すると楽しくて仕方なかった。

そう、ただそれだけのこと……。

扉の開く音で入り口へと目を向ければ、丁度彼女が会議から戻ってきたところだった。すぐに声を掛けて彼女を待つ言い訳でもある書類を見せれば、案の定、彼女からは課長決裁で構わないと言われた。けれども、忘れたふりをしてみたけれども彼女もふりだと分かっているらしく呆れた目で見られた。

椅子に腰掛けた彼女が手渡した書類に判子を押したのを確認すると、彼女が手にするよりも先に書類へと手を伸ばす。そして近付いたその距離で耳元に「逃がしませんよ」と囁けば、勢い良く振り返り自分を見上げる彼女へニッコリと笑みを浮かべた。何かを言いかけたけれども、一旦口を噤むとすぐに仕事の顔へ彼女は戻り課長のチェックを貰うように指示してくる。

それに頷きながらも逆に残業の有無を問いかければ、あっさりと残業すること、けれども自分には帰れという。手伝いも申し出たけど、どちらかと言えば完璧主義な彼女は手伝うことを良しとしなかった。遠ざける言い訳にも見えたけれども、実際に書類を見た限りでは、結局彼女の指示を仰がないと進められないものも多く、二度手間になるのは分かった。そして、彼女自身、部下が残業するのは余り良しと思っていない節もあり、担当がある訳でもない自分が残業する理由はもう無かった。

取り合えず、今は一旦引くしかないだろう。だからこそ、持っていた書類を課長の未決済箱に入れると「お疲れ様でした」と声を掛けて五課を後にした。すれ違う人に挨拶をしながら会社を後にしたけど、ここで家に帰るつもりは無かった。昼間のこともあったし、ここで時間を開ければ彼女との距離が開くことは分かっていたし、これ以上警戒心を強められるよりもここで距離を詰めておくのが先決でもあったから彼女が出てくるのを待つつもりで近くにあるカフェに足を向けた。

* * *

仕事に熱中した彼女は一区切りついたのか、顔を上げて辺りを見回してからこちらへと顔を向けた。視線が合ったので微笑みながら「終わりましたか?」と唇を動かせば、どうやら内容を理解してくれたらしく一つ頷いてくれた。

何だかこういう遣り取りは少しばかりくすぐったいものがある。けれども、気持ちは穏やかなもので、机に広げていた書類をファイルなどに纏めて片付け始める。時計を見れば二十時を回っていて、どうやら二十時半に予約していた店には間に合いそうだと思いながら引き出しの中へとファイルを片付けた。

彼女の行動を伺いながら鞄を手にすると、パソコンの電源を落とした彼女の背後に立ち声を掛けた。声を掛けられた彼女は驚いた顔をして、それから辺りを伺うように視線を走らせる。それだけで、彼女が回りの目を気にしていることが分かり、そういう立場にさせてしまっていることに申し訳なく思う。

けれども、全く引くつもりは無かったが……。

「新橋さんも上がりですか?」
「えぇ」
「そうですか。セキエーの件なのですが」

出任せの言葉に、彼女は机の引き出しを開けて書類を確認しようとするのをやんわりと止めると更に言葉を続ける。

「私も帰るので下につくまでの間に少し話しを聞かせて下さい」
「はい、分かりました」

すっかり仕事モードに入っている彼女に内心苦笑しながらも、二人揃って五課を後にした。エレベーターまでの距離を歩いていると、おもむろに声を掛けてきたのは彼女だった。

「すみません、セキエーの件って何ですか?」

案の定、口からの出任せを真に受けていたらしい彼女に思わず声に出さずとも笑ってしまう。

「あれは口から出任せです」

つい楽しくて彼女を見ていたけれども、彼女は困惑げに自分を見上げてくる。

「どうかしましたか?」
「いえ……何だか出任せって課長に似合わないというか、意外というか」
「そうですか? これでも結構嘘つきですよ。友人にはいい性格してるとも言われますし」

いい性格と評してくれたのは佐々木の他に、学生時代の友人たちにも言われたことがある。年を重ねればそれなりに狡くもなるし、自分を偽ることにも狡猾になる。大人になるということはそういうものだと思っていたにも関わらず、今横に立つ彼女は何に対しても真っすぐだ。仕事に対しても、彼女自身に対しても真っすぐだからこそ惹かれた。伺うような視線で相変わらず見上げてくる彼女の視線を感じながらもエレベーター前でボタンを押せば、僅かながら機械の稼働音が耳に届く。

「どうかしましたか?」
「課長のそれはポーカーフェイスなんですか?」

それが何に対してなのか分からないほど鈍くもないし、自覚もあるからあえて聞き返すことはしない。 誰からも穏やかと評される笑みを身につけたのはいつだったか、もう既に思い出すこともできない。父親に連れられてあちらこちらに顔を出す頃には、既にこの笑みは自分の防御壁でもあった気がする。

「まぁ、営業にはある程度必要でしょう」
「確かにそうですけど、社内でも必要なんですか?」

問いかけてくる声に感情は籠っていなかったけれども、表情がそれを裏切ってどこか不服そうにも見えた。チラリとそんな彼女を見つつも、開いたエレベーターに二人して乗り込む。
感情としては、まいったな、というのが第一声で、第二声は拗ねたその顔も可愛いなというもので、思いついたその言葉に笑いを飲み込む。彼女の真っすぐなところはとても好感の持てるところだけれども、こうして裏も無く踏み込まれると正直困る。やはり彼女の前で格好いいとまではいかなくとも、好感の持てる人間ではありたい。だから、すぐ裏にある狡猾な部分は見せたく無いからこそ困る。

「正直、私の立場から行って社内でこそ必要なんですよ」
「……課長だから、ですか?」
「まぁ、それもあります。それ以外にも色々と」

この会社で穏やかに笑っていることで一番得られるものは、穏やかな拒絶だった。次から次へと湧いてくる女性たちには穏やかな態度で躱すか、きつく二度と近付かないくらいに拒絶するか、どちらかにしなければ後を絶たない。それこそ手酷く拒絶することも厭わなかったが、それをしていれば仕事に支障を来すことは目に見えていたから前者を取っただけの話しでもあった。けれども、そのお陰で彼女に好感を持たすことが出来たのであれば自分としては上々でもあった。

「大変ですね、でも、私と一緒に食事となると気が休まらないんじゃないですか?」
「いいえ、慣れました。たまにどちらが自分か分からなくなる時がありますよ」

狡猾なまでの自分と、穏やかな自分、どちらが本当の自分が分からなくなる時がある。けれども、あくまで狡猾でなければこれ以上の昇進はいくら親の会社だからといって望めるものでもない。実際、そういう環境を求めたのは自分だから自業自得ではあるが、親の七光りと後ろ指を差されるくらいであれば悪いものでもない。

自分は自分自身に納得しているけれども、彼女は果たして彼女自身に納得しているのだろうか。基本的に仕事をしている時の彼女はいつでも完璧を目指していて、年を追うごとにハードルを自分で上げているように見える。それはそれで悪く無いとは思うが、プライベートの彼女との落差を彼女自身は感じてはいないのだろうか。

「そういう新橋さんも疲れそうですよ」

さらりと零れたのは本音で、彼女の答えを聞くよりも先にエレベーターを降りた。 もしかしたら前橋がいるのではないか、という予想は外れていて薄暗くなったロビーは警備員以外無人だった。
それでも彼女と共にビルを出たところで足が止まる。問い掛けられて答えるよりも先に彼女の名前を呼ぶ前橋の声が響き、少し離れたところから本人が笑顔で駆け寄ってくる。

本気でも無さそうなのによくやる……そう思いつつも前橋と彼女が話している姿を見ていたけれども、彼女は前橋を冷たくあしらうと早く行こうと促してくる。

前橋の行為の源は自分への当てつけと、彼女を落とすゲーム感覚なのだろう。それこそ、手に入れたら前橋にとって彼女は必要ないものになるに違いない。そうでなければ、ここまで強引に事を進めることは出来ないに違いない。気持ちが膨らみすぎて暴走するということは確かにあるだろうけれども、大抵の場合、相手に嫌われることが怖いから強引に事を進めることは出来ないものだ。

けれども、前橋は違う。それは、もしこの恋愛がダメになっても構わないという感情が見え隠れしている。
前橋の執着がもっと本気になれば面倒ではあるが、この状況であれば彼女の虫除けにはなるかもしれない。彼女の気持ちが近くにいることでどう変化するかは気にならない訳では無かったが、恐らく彼女も前橋の気持ちをいずれ見抜くに違いない。彼女がそれに気付き、尚かつ前橋が本気になる前に彼女を自分に惚れさせれば問題は無い。

恐らくゲーム感覚から抜け出せない限り、前橋が自分の感情に気付くことはありえない。だとすれば、それを利用させて貰うだけだ。
じゃれている二人だったけれども、前橋の表情が徐々に余裕無くなり彼女の腕を掴んだところで声を掛けた。

「折角ですから三人で行きましょうか、食事」

その言葉に彼女だけでなく、前橋も驚いた顔で自分を見ている。面倒を背負い込む趣味は余り無いが、虫除け程度に働いてくれるのであればそれで構わない。

「勿論、ご馳走しますよ」

笑顔でそれを言えば、困惑するような顔を見せる前橋に、まだまだガキだと思いつつ内心ほくそ笑んでしまう。利用出来るものであれば、利用する。小狡い自分の狡猾さに果たして前橋は気付くだろうか。

「行きましょう」

それだけ言うと駐車場へ向かって歩き出せば、背後に彼女だけでなく前橋のついてくる気配もきちんとある。困惑露わにしている前橋ではなく、ただ驚いている彼女に声を掛ける。

「新橋さん、今日はフレンチとイタリアン、どちらが好みですか?」
「じゃあ、イタリアンで」
「分かりました。前橋君、申し訳ない。今回は新橋さんと先に約束していたから、彼女の好み優先で構わないかい?」

別段本気で申し訳ないと思っていた訳じゃない。ただ、彼女の手前下手に出てみれば、前橋はやはり困惑から抜け出せずにいるらしい。

「それは全然構わないですけど」

続く言葉を飲み込んだのは分かったけれども、あえて問い掛けるようなことはせずに車の後部座席を開けた。一緒に後部座席へと乗り込もうとした前橋を助手席に座らせると、自分も運転席へ納まり車を走らせる。しばらく無言だった車内で最初に口を開いたのは、隣に座る前橋だった。

「課長、どうして僕まで誘ったんですか?」
「気紛れ、ですかね。正直、あそこで揉めると私も立場的に見て見ぬふりとはいきませんし」

そんなものは建前であったけれども、前橋はその言葉で納得しているように見える。だとしたら、思っていたよりも前橋という男は扱いやすいかもしれない。けれども、次の瞬間、ミラー越しに鋭い視線で睨みつけられた。

「課長、僕はあなたの考えてることが分かりません」
「分かられたら困りますよ」

確かに前橋からしたら訳が分からないだろう。だが、今分かられても面倒になるだけなので、訳が分からないままでいて貰う方がこちらとしては都合がいい。

「そこまで私は単純な性格でもありませんよ」
「そうみたいですね」

睨みつける視線の鋭さは変わらず、答えた声はどこか投げやりにも聞こえた。
冷え冷えとした会話をかわしている最中、彼女は既に現実逃避気味に外を眺めていて会話に加わることはしない。前橋を誘ったことで彼女を不快にさせたら申し訳ないとも思ったけれども、彼女の顔に不快さは見られない。自分がいることで安心して貰えたのだとしたら嬉しいところだけど、彼女の表情からそれを読み取ることが出来なかった。

時折足を運ぶ馴染みのレストランへ到着すると、一名追加を伝えればロビーへと通される。若干緊張気味な彼女に比べて、前橋は意外なほど落ち着いている所を見るとこういう場所には来慣れてるのかもしれない。

コーヒーが運ばれてきて、彼女の緊張が少し解れるとホッとしてしまう。けれども、次の瞬間、コーヒーに口をつけた彼女はふんわりと柔らかい笑みを浮かべた。彼女の笑みを見ることはあるけれども、ここまで優しげな温かい笑みを見たのは初めてのことでもあった。
目が吸い寄せられるかのように離せない自分に気付いたのか、前橋は彼女の名前を呼ぶ。我に返ったように笑みを消した彼女に前橋は拗ねた顔で一言落とした。

「課長の前でそういう顔をしないで下さい」
「何よ。私がどういう顔しようと勝手じゃない」

どこか姉弟のようなやりとりについ笑ってしまえば、二人に注目されてしまいどうにか笑いを納める努力をしてみる。

「いや、まるで前橋君が子供みたいだったので、つい」

姉弟みたいだと辛うじて飲み込んだのは、そういう方向性を前橋に与えないためでもあった。恐らく、彼女は甘えられることに弱い。だからこそ出来るだけ前橋の姉という役割をさせたくなかったのは、ささやかな嫉妬だったのかもしれない。

係の者がタイミングよく現れて部屋へ通されると、やはり彼女は落ち着かなくなってきたのか辺りを見回している。恐らく和食の店であれば接待でも使うことがあるから慣れていたのだろうけど、今更店を変えることも出来ない。
前橋の彼女を連れてきてどうするつもりだったんだ、という言葉にさらりと嫌みを返しながら笑みを崩すことはしない。不意に前橋の目が真剣な色に変化すると、自分を見据える。

「だから僕も誘ったんですか?」

さて、どう答えたものだろうか。そう考えたは一瞬の間、けれどもそんな一瞬の間で打算も働く。本気で無いのであれば、虫除けには丁度いい。前橋の目当てが身体だけであるなら、殊更構わない。
だから、一つの賭けに出た。ガラス越しでは無く、眼鏡を外して真っすぐに前橋を見据える。

「私は基本的に仕事以外では筋を通すタイプなんですよ」

笑顔でそれだけ言えば、前橋が息を飲むのが分かった。たかが笑顔、けれども、それの使い所を間違えたことは一度たりとも無い。自分の笑顔の有効性は自分が一番よく分かっていた。

「……意味が分かりません」

強張り上ずった前橋の声に、殊更笑みを深くしながら前橋から視線を外すことはしない。

「どうやら本気らしいので、こちらも目の前で宣言だけはしておこうかと思いまして」

前橋が本気だとは思っていない。ただ、本気になる可能性はあると思っている。そして、今、前橋は彼女に本気で惚れていると自分が思っていることを植え付けることだけは忘れない。

「やっぱり、そうだと思ったんですよ」

途端にどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた前橋に、自分の笑みを崩すことはしない。これで、前橋は自分が本気で彼女を好きなことは確実に伝わったに違いない。
あとは彼女の選択次第で、これ以上下手な賭けに出る必要は無い。ただ、最初から彼女の選択するだろう答えは予想していた。だからこそ、下手な賭けをすることになるだろう、と。
彼女を呼べば、怯えたように顔を上げたけど、若干その表情は強張ってもいた。

「私と付き合って頂けませんか?」
「………………はい?」

全く予想していませんでした、と言わんばかりの返答は、穏やかな笑いを誘ってくれる。

「癒されますね、その反応」
「はぁ」

どうにも理解していない様子の彼女に、もう一度説明するべく声を掛ける。

「恋人になりませんか、と言っているんですが」
「えっと……誰と?」
「新橋さんと」
「誰が?」
「私と」

微妙な間があり、そのまま固まってしまったらしい彼女の表情は会社で見せるそれとは違い笑いを誘われる。

「あの……」
「本当に会社とプライベート、全然違いますね。まぁ、どちらも可愛いですけれども」

最初は確かに綺麗な子だと思っていた。仕事をしている時にはしっかりした面ばかりが表立って目立つけれども、少し仕事から離れてしまえば年頃の女性で友人たちと話している時の彼女は可愛らしいし、何より新人の頃に覗き見た佐々木とのやり取りは本当に可愛らしかった。あれから数年経つにも関わらず、こういう動揺あらわになっている時は、あの頃のように彼女の素の部分が出ていて本当に可愛らしいと思う。

冗談だと問い掛けてくる彼女に本気だと伝えたのに、彼女は無理だと即答してきた。元々、予想していたから傷つくようなことは無い。嫌われてはいない様子だけど、どうにも前橋と同じ立場に置かれてしまうと微妙な気持ちになる。

彼女は私とも前橋とも付き合えないと言い、やはり無謀な賭けに出るしかないらしい自分に内心溜息をついた。勿論、それを表に出すようなことはせず、穏やかな笑みを張り付けて彼女に言った。

「それなら、一緒に住みましょう」

その言葉に唖然としたのは彼女だけではなく、前橋も同様だった。

「あの、誰が一緒に?」
「私と新橋さんと前橋君の三人で暮らそうと言っています」
「……ありえないです」
「いえ、ありますよ。ねぇ、前橋君」

彼女から前橋へと視線を向ければ、少し考えた様子を見せた前橋はすぐに笑顔を向けてきた。

「そうですね。そしたら僕も満足出来そうですし、会社で余計なこと言わないで芹香さんに迷惑掛けることも無いでしょうし」

恐らくこの提案は前橋にとっても悪い話しでは無い筈だ。ただ、彼がこのまま変わらないのであれば、自分は勝てるだろうと思えた。そこが一番の賭けでもあるが――――。

それでも、前橋を番犬にしておくには目の届かない自分にとってかなり有益でもあった。前橋が彼女に本気では無く、自分に対する競争心だけであれば、一緒に暮らすことで押さえられることもある。手に入れることの最終目標が身体だけであるなら、一緒に暮らすことを盾に取り彼女に対して無理に事に及ばないことを約束させればいい。生殺しだろうと何だろうと、自分が知ったことではない。

彼女は完全にパニックになってしまったのか、運ばれて来た料理をただ黙々と口に運んでいる。そんな小動物みたいな仕草も可愛いと思えるのだから、自分も本当にいい性格をしているのかもしれない。
食事を終え三人で車に乗り込み彼女を最初に送ると、車内には前橋と自分の二人だけになった。

coming soon…
 

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