安全圏の彼と彼 第8章

結局、土曜日は二人に食事を用意して貰い、とりとめのない話しをしてからそれぞれが眠りについた。
朝起きれば、いつものように前橋はソファへ腰掛けて新聞を片手にコーヒーを飲んでいる。挨拶をすれば笑顔で挨拶が返ってきて、そんな状況になれつつある自分に苦笑しながらもカップからコーヒーを入れた。
基本的に土日だろうと前日遅くない限りは通常通り起きることにしている。特に今日は昨日ゆっくりしていたこともあって、自分でも思っていたよりも早く目が覚めてしまった。

「今日はどうしましょうか」

穏やかな顔で聞く板橋に、どうしたいか考えてみる。しばらく考えた後に出た結論は変哲の無いものだった。

「家にいます。また明日から激務ですし、念のため休むことにします」

まだ全ての契約を取った訳じゃない。金曜日休んだことで前橋一人営業先を回らせてしまったのは、自分の体調管理不足だったのは否めない。前橋が一人でどんな営業をしたのかは分からないが、林さんから言葉を引き出したのであればそれなりの営業をしたんだとは分かる。だからといって、部下である前橋に任せきりという訳にもいかない。幾ら昨日まで甘やかされていたとしても、仕事は別物だ。

「まぁ、それもありでしょう。でしたら、今日は三人でのんびりすることにしましょうか」
「え、別に和臣さんたちは出掛けても」
「芹香一人置いて遊びに行ってもつまらないですよ。私も前橋君も」

そういう言われ方をされるとどう返していいのか分からない。照れくささを誤魔化すようにコーヒーに口をつけると、窓の外へと視線を向ける。
空は快晴で雲一つなく、お出掛け日和に思えただけに少しだけ勿体無く思う。けれども、ここで無茶するほど馬鹿にもなれず、今日やるべきことを思い浮かべる。

とにかく、洗濯と掃除は早々にしてしまいたい。幾ら乾燥機があるとはいっても、三人別々に洗濯しているから時間は三倍掛かる。だとしたら、手の空いている内に自分からやってしまうべきかもしれない。飲みかけのコーヒーを置くと、一旦自室へ戻り、パジャマやシーツなどを全て持つと洗面所へ向かい洗濯機の中へと放り込んだ。全自動だから洗剤を入れたら後は洗濯機が乾燥まで全てやってくれる。

僅かながらの満足感を得ると、再びリビングのソファへと座り込んだ。静かなリビングで電子音が響き、落ち着いた動作で板橋が携帯に出る。込み入った話しだったのか、板橋はすぐに部屋へと戻ってしまいリビングに一人残されると小さく溜息をついた。

ここで三人で住むのは最初から三ヶ月と提示されていた。この一週間でこれだけ濃い生活をしてたら、残り三ヶ月近くで自分はどう変化するのか、考えるとおかしいような怖いような微妙な気分になってくる。板橋が読みかけで置いていった新聞を手に取ると、のんびりと新聞の文字を追う。けれども一分もしない内に板橋は部屋から出てくると、申し訳なさそうな顔で視線を向けてきた。

「どうかしましたか?」
「仕事が入ってしまったので、私はこれから出掛けます」

その言葉を聞いて残念だと思ってしまった自分の感情に、どんな表情をすればいいのか分からなくなってしまいごまかすように手にしていた新聞を畳む。

「遅くなりそうですか?」
「どうでしょう、相手次第という所です。兄に呼び出されてしまったので、帰り時間は分かりません。分かり次第電話を入れます」
「もしかして、例のファックスの件だったりします?」

それはずっと気になっていたことで、前に聞いた時には誤魔化されてしまった。けれども、板橋は何も言わないからずっと引き摺ったままでいる。

「まぁ、それもありますけど、芹香は気にする必要ありませんよ」
「そう言われても気になります」
「……悪いようにはなりませんから」

そう言って穏やかな笑いに板橋は全ての感情を隠してしまい、それ以上聞けなくなってしまう。別に聞いても怒ったりしないことは分かっているけれども、板橋の笑顔は時折、踏み込ませたくない場合にも有効に使われることを知ってる。だからこそ聞けなくなってしまう。

「本当に気にしないで下さい。私は着替えてきます」

それだけ言い残した板橋は部屋へ戻ってしまうと、再びリビングには静けさが戻る。
明かされないことにモヤモヤした気持ちになるのは、自分が関わっていることだからなのか、純粋な興味なのか自分のことなのに分からない。恐らく板橋が悪いようにはならないというのであれば、悪くはならないのだろうけど、大丈夫とは言わなかった。果たしてそれは、本当に大丈夫なんだろうかと不安も込み上げてくる。

ぬるくなり残り少なくなったコーヒーを流し込むと、板橋のカップと一緒にシンクへと片付けてしまい洗い出す。流れるお湯でカップを二つ洗ってしまってから、今日のパンが無いことに気付く。さすがに朝から昨日のケーキを食べる気にはなれず、部屋へ戻り財布を用意してリビングへ戻ってきたところで板橋も丁度スーツに着替えて出てきた。

「どうしました?」
「朝食用のパンが無かったので買い出しに行こうかと思って」
「そうですか、それなら下までご一緒させて下さい」

勿論、断る理由もなく部屋を後にした。エレベーターの中で兄弟仲は悪くないことを聞き安心したところで扉が開き、マンションの外へと出る。お酒も入るかもしれないから電車で行くという板橋とコンビニ近くまで歩いていたところで、不意に抱き締められて身体が強張る。人目につかないところで不意打ちされることはあっても、外で周りに人がいる中でされるのは初めてのことで動揺を隠せない。

「和臣さん?」

問い掛けに答えることは無く、板橋の身体が凭れ掛かってきた時何が起きたのか分からず慌てて腕を回す。けれども、自分よりも大きな身体を支えることは出来ず、そのまま道路に座り込んでしまう。

「和臣さん」

問い掛けても返事は無く、座ったことにより板橋の後ろに立つ人間の姿が見えて息を飲む。

「何で、ここに……」

出てきた声が奇妙に掠れていたのは、田端の手に握られていた血に濡れたナイフが目に入ったからだった。

「くく、どっちでも良かったんだ。死ねばいい……。お前ら纏めて死ねばいい」

振り上げられたナイフに目を瞑れば、衝撃は無い。ただ、瞼を閉じていても分かる影があり、恐る恐る目を開ければ背を向けて腕にナイフを刺されながらも自分を庇う板橋の姿がそこにある。周りから悲鳴が上がる音は聞こえたけど、現実感の伴わないただの音にしか聞こえない。目の前には自分を庇うようにして座り込みながらも田端と対峙する板橋がいる。

どうしていいか分からない内に、目と鼻の先にある交番から警察官が出てきて田端を取り押さえる。道路に座り込んだ板橋の周りには血だまりが広がるのに、振り返ったその顔はいつもと変わらず穏やかな笑みを浮かべていて、何が現実か分からなくなってくる。

「怪我は、無い?」
「ありません」
「そう……」

そこで板橋の身体から糸が切れたように凭れ掛かってくる。生温かい感触に掌を見れば赤く染まっていて、悲鳴を上げる。自分の声なのに、それはどこか遠くから聞こえてくる気がして、それから分からなくなった。

* * *

頬を叩かれて意識が戻った時、目の前にいたのは佐々木だった。

「俺が誰だか分かるか」
「佐々木、さん」
「よし」

どこかホッとした顔をした佐々木の後ろで、珍しく前橋が泣きそうな顔で自分を見ている。まだ白く霞んだ意識の中で、どうして佐々木と前橋がいるのか分からない。

「これから事情聴取がある。答えられるか?」

事情聴取という言葉を聞いて、何が起きたのか脳内でリアルに再現されて身体の震えが押さえられない。

「和臣さん……課長は……どうなりました」
「大丈夫だ。まだ手術中だが、幸い急所は外れてる。病院にいるから安心しろ」
「でも、沢山血が出て」
「大丈夫だ。あの人幸運な人なんだぞ。お前らは知らんかもしれんがな、絶対無理と言われてた契約を酒の席で取ってきたり、競馬は感で当てるし」

言っている佐々木の顔こそ笑っているものの、その顔色は青白い。そして背後に立つ前橋も顔色を無くしていて、状況は余り芳しくないことが分かる。
どうしてこんなことになっているのか分からない。ただ呆然と佐々木を見上げていたら、視界が徐々に滲んでいく。
あの時、板橋はもう問題無いと言っていたのに、どうして田端は現れたんだろう。どうして、ナイフを持っていたんだろう。何で板橋は刺されたんだろう。考えたら考えただけ分からなくなっていく。

「芹香さん」

ゆっくりと延びてきた腕が優しく何度も名前を呼んで抱き締める。

怖い――――。
分からないことが怖い――――。
無くしてしまうかもしれないことが怖い――――。

恐怖心で身体が震えて、涙が出てくるのに指先一つ動かすことも出来ない。そして、抱き締めるその腕も震えていることに気付く。

「大丈夫だから。大丈夫だから壊れないで、お願いだから」

囁くような言葉が耳へ流れ込んでくるけど、どうしていいのか分からない。
だって、もしかしたら、自分のせいで板橋は刺されたかもしれなくて――――。

そう思った瞬間、恐怖は更に大きくなった。自分のせいで板橋を無くしたら、自分はもう立ち直れないに違いない。命の重さなんて考えたことは無かったけれども、こうして零れ落ちる怖さは今なら分かる。

「一緒に、住んだり、しなければ」

連ねた言葉は声になっているのか、自分でもよく分からない。でも、抱き締めていた腕に力が篭る。

「違うから、それは違う。もしそうだとしたら僕のせいだから。芹香さんのせいじゃないから」
「でも」
「大丈夫、あの人は絶対に大丈夫だから」

どうしていいか分からず、縋るように指先だけで掴めるものを掴む。

「大丈夫、絶対にあの人は芹香さんを置いていくようなことはしないから」

ボロボロと零れ落ちる涙で視界は滲み、何も映さない。目も鼻も頭も痛いのに、考えることが止められない。怖いから逃げたいのに、考えたくないのに、あそこで一緒に出かけたりしなければ板橋が刺されることは無かったと思うと、どうしていいか分からなくなる。

「我慢すんな、泣いとけ」

佐々木のその言葉に堰を切ったように口から嗚咽が零れる。ここがどこか分からない。僅かな震動の後、背中に温もりを感じて子供のようにただ泣いた。恐怖と自責と、色々なものを内包したままただ泣くことしか出来なかった。
それでも、ずっと泣いていれば泣きすぎて頭がぼんやりしてくると嗚咽は止まる。ただ、今は何も考えたくなかった。

「今日はもうお帰り下さい」

静かな声が耳に届いたけど、顔を上げる気にはなれず意味を考えることなく右から左へとその声は流れていく。佐々木と誰かが話している声は聞こえるけど、その意味を理解することは無い。しばらくすると立ち去る足音が聞こえて、背中の温もりが消える。

「送ってく、車まで歩けるか」

まるで遠くから佐々木の声が聞こえてくるけど、どうしていいか分からない。けれども、抱き締めていた腕に力が篭り、耳元に声が落ちてくる。

「芹香さん、帰りましょう」
「どこ……に」
「僕たちの家に。あの人が帰ってくるのを待ってないと」
「でも」
「一緒に待ちましょう」

前橋の声は震えていた。けれども、抱き締めた腕から力が抜けるとゆっくりとその温もりが離れていく。ぼんやりと前橋を見上げれば、手を差し出される。前橋の掌は自分と同じように震えていたけれども、その手を伸ばすと強い力で引き寄せられて身体を支えられる。今、自分一人の力で歩くことは出来ず、前橋に支えられて外に出ると佐々木の車へと乗せられた。

「大丈夫か」

運転する佐々木の言葉は果たして誰に掛けられたものだったのか分からない。けれども、すぐ隣りで肩を抱く前橋は力強く大丈夫ですと答えている。
果たして、本当に大丈夫なんだろうか。何が大丈夫なのかもうよく分からない。嗚咽は止まったけれども、相変わらず涙は止まらず、もう拭う気にもなれない。頭はガンガン痛むし、何も考えたくない。
しばらくすると前橋の車は止まり、二人に支えられるようにして部屋へ戻ると玄関に座り込んだ。

「俺は帰るぞ。何かあれば携帯に連絡寄越せ」
「分かりました」

頭上で会話が交わされているけど、もう何も聞きたくない気分だった。

「芹香さん、靴脱がせますよ」

前橋は優しい声で靴を脱がすと強引に立たせてリビングへと移動する。もう、まるで自分の身体じゃないみたいだった。リビングの真ん中で前橋はゆっくりと下ろして座らせてくれたけど、言葉が出てこない。
物音一つしない部屋の中で扉の開閉音がして、しばらくすると背中にぬくもりを感じる。前に回ってきた腕が優しく身体を拘束する。

「何も考えなくていいから、今は眠って。大丈夫だから」

何も考えたくない。だから、意識は自然と離れていった。

* * *

朝起きて、リビングへ向かえば必ず板橋が笑顔で出迎えてくれる。板橋の淹れたコーヒーを飲んでいる内に前橋も起きてきて、三人で朝食を取る。まだ一週間しか経ってないのに、それは当たり前の風景で穏やかな記憶だった。

他愛のない話しをして笑い、時には拗ねて見せたり、多少の遠慮はあったけど毎日が楽しくて――――。

電子音で目を開けば、包み込まれるぬくもりに小さく吐息を漏らす。

「目が覚めましたか」

すぐ近くから聞こえる前橋に声に頷けば、ゆっくりと回されていた拘束が解かれた。途端にひんやりとした空気が身体に纏わりついて小さく身震いする。

「コーヒー淹れます。少し待ってて下さい」

穏やかともいえる前橋の声を聞いて、ゆっくりと顔を上げれば立ち上がった前橋は声と変わらず穏やかな笑みで自分を見ていた。

「芹香さん、酷い顔してますよ。顔を洗ってきたらどうですか」

言いながら前橋は床に落ちた毛布を拾うと、ゆっくりとした動作で畳んでいく。頭が酷く痛むけど、どうにか立ち上がり洗面所へ向かう。鏡に映る自分の顔は人様に見せられないほど不細工で、冷たい水を出すと何度も何度も顔を洗った。冷たさに皮膚の感覚が無くなるくらい洗っていると、肩を叩かれてその肩にタオルが乗せられる。

「ありがとう」
「どういたしまして」

穏やかな声にどこかホッとしながらタオルで顔を拭くと、先より爪の先ほどマシになった顔をした自分がいる。でも、目は赤いし脹れてるし、鼻の頭もまだ赤くて人前に出られるような顔をしてない。そんな顔でも笑ってみれば、きちんと笑えていて泣きたくなってくる。

頭はまだ痛いし最悪だし、空元気と分かって居てもただ笑ってみた。振り切るように鏡の前から離れてリビングに戻ると、部屋にはコーヒーの香りが漂っている。それはいつもと同じ朝のようで、違う朝。いつもそこにいる人がいない朝は、随分と自分に与える影響が大きかったことを知って鉛を飲み込んだ気分にさせられる。

「芹香さん、朝ご飯食べられそうですか?」
「少しなら」
「おじや作ったんですけど食べます?」
「勿論食べます」

笑顔を作って前橋に答えれば、前橋からも笑顔が返って来た。空元気でも出せる気力がある内は、まだまだ元気。だからこそ、前橋がお皿に入れてくれたおじやを両手に持って朝一番の定位置になってるソファのあるテーブルへ置いた。前橋の持ってきたスプーンですくって食べれば、シンプルな塩味に野菜が沢山入っていてそれは美味しかった。

「なんだ料理作れるじゃない」
「これと卵料理しか作れないんです」

威張るように胸を張る前橋に声を立てて笑う。お互い空元気なのは分かっているけど、でも、今はそうやって自分を保つしかなかった。それは多分、前橋も同じだと思う。

「そうそう、佐々木さんから連絡あって今日は休めって」
「そっか、今日月曜日だった」
「仕事命の芹香さんが仕事忘れるのって珍しいですよね」
「うーん、初めてかもしれない」

核心に触れるのが怖くて、だから避けている。前橋はどう思ってるのか分からないけど、多分、私が付き合わせてる。それを心苦しく思いはするけど、今はまだどうしても核心に踏み出せない。
他愛のない会話、どこか上滑りしてると感じながらも前橋との食事を終えたところで家のチャイムが鳴った。皿を洗おうとしていた前橋と、片付けようと皿を持ったままの私で顔を見合わせる。

少なくとも、この家に訪れる人を自分たちは知らない。けれども無視する訳にもいかず、女の自分が出て問題になるのも困るから前橋にインターフォンへと出て貰う。

「はい、え、ちょっ、はい、え」

答えになっているのかなっていないのか、よく分からないまま珍しく慌てた様子の前橋を見ていれば、前橋が口を開く前に今度は携帯が鳴り出す。お互いの携帯はテーブルの上にあり、着信は前橋の携帯だった。

「芹香さん、すいません、玄関お願いします」
「え、出て大丈夫なの?」
「大丈夫です。はい、前橋です」

会話を始めてしまった前橋にそれ以上何も言うことが出来ず、再び鳴り出したチャイムに玄関へと向かった。静かだった部屋がいきなり慌しく動き出し、腑に落ちないまま玄関の鍵を開けた途端に抱き締められて動けなくなる。

「すみません、心配かけて」

耳に聞こえる声はこの家になくてはならない存在で、途端に落ち着いていた筈の涙が流れ出す。いつもとは違う、消毒薬の匂いに包まれながらその身体にゆっくりと腕を回す。そこにいるのは確かに板橋で、間違えようもない。

「刑事さんから聞きました。ずっと泣いてたって。怖がらせてしまってすみません」

そう、もうずっと怖かった。いなくなるんじゃないかって本当に怖かった。三人でいるのが当たり前だったのに板橋の名前を出すことすら怖かった。
でも、出てくるのは嗚咽ばかりで自分でもどうなってるんだか分からない。そんな自分の背中を板橋の手が優しく、まるで子供をあやすようにトントンと一定のリズムを刻む。

「すみません……私が……」
「違うんです。芹香のせいじゃないんです。だから、どうしても説明したくて」
「説明したいところ非常に申し訳ないですが、課長に佐々木さんから電話です。病院、大騒ぎになってるらしいんですけれども」

少し冷ややかとも言える声に慌てて振り返れば、呆れた顔をした前橋が携帯電話を差し出してきた。腰に回された腕を解くことなく板橋は携帯を受け取ると、すぐさま耳にあてた。

「板橋です」
「ふざけんなよ。確かに上司だが俺は言わせて貰うぞ。他人に迷惑掛けるんじゃねーよ。今すぐ病院にもどりやがれ!」

耳に当てて無くても聞こえてくる佐々木さんの怒鳴り声に、板橋は受話器から耳を離しながらもいつものようにあははと笑っている。

「すみません。もう少ししたら戻りますから」
「病院側があちこちに電話掛け捲ってますよ」
「こちらから連絡を入れておきます。ご迷惑をお掛けしました」
「絶対、迷惑掛けたなんて思ってないくせに、出任せ言わんで下さい。とにかく俺は伝えましたから」
「はいはい、分かりました」

笑いながら板橋は答えるとそのまま電話を切った。いや、もしかしたら佐々木から切られたのかもしれない。

「課長、とにかく入って下さい。まだ安静にしないといけないんじゃないんですか」
「えぇ、まぁ、そうなんですけれども」

そう言いつつも顔は飄々とした笑顔で、痛いのかどうなのかその表情からは読み取れない。けれども、まだ早いこの時間に額から流れる汗を見るとかなりやせ我慢をしているのかもしれない。

「救急車呼びます」
「いいですから。後で前橋君に送って貰います」
「でも、手術したんですよね」
「大したことありませんから」
「ありますよ、全部で十針以上縫えば」

会話に冷ややかさを落とすのはやはり前橋で、玄関先まで出てくると板橋に肩を貸してリビングのソファへと座らせた。

「いいですか、そこで大人しく横になって下さい。寝てても話しは出来ますよね」

そこで初めて気付いた。前橋が冷ややかなのは呆れているんじゃなくて、怒っているんだということに。
前橋の言葉に板橋は苦笑すると、それでも反論はせずに前橋の手を借りながらゆっくりとソファへと横になった。

「あはは、心配掛けましたねぇ」
「僕は絶対あなたは死なないと思ってましたけれども」
「冷たいですねぇ、そう思いません、芹香」

こういうタイミングで話しを振られても非常に困るだけで、曖昧に笑うしかない。何だか色々驚きすぎて涙だって止まってしまった。

「まず芹香には謝らないといけませんね。心配掛けて本当にすみませんでした」
「僕には無しですか」
「前橋君にも心配掛けて本当にすみませんでした」

苦笑しながらも前橋にも謝れば、怒った様子を崩すことなく板橋の正面にあるソファへ勢いよく腰を下ろす。

「僕も芹香さんも心配したんです。しかるべき説明はあってもおかしくないと思うんですが」
「田端の件でしたら簡単です。私が祖父に言って田端を首にして貰いました。まさか、あんな形で仕返しに出るとは思いもしなかったので迂闊でした」
「和臣さんの祖父って、うちの会長ですよね。そんな権限あるんですか?」
「シロタ工業の会長とうちの会長が旧友なんですよ。私もこの件があるまで知らなかったんですけれども。そんな訳で口添えを頼みましたよ。お互いにメリットが無いということで。シロタ工業の会長はすぐに動いたらしく、退職させたんでしょうね。十分会社の不利益になりますから」
「そうやってすぐに会長頼りなことを課長はするんですか」

あくまでも前橋の口調は冷たいもので、板橋の口調との落差が激しい。そして、冷たく話し掛けられているにも関わらず、板橋の笑顔が崩れることは無い。

「こんなことをしたのは初めてですよ。一応、今の地位には自分の実力でいるつもりですけれども」
「……分かってますよ、そんなこと」

ぼそりと言った前橋の口調は先ほどまでとは違い、どこか拗ねた響きを持っていてつい笑ってしまえば前橋に睨まれた。慌てて笑いを引っ込めると、携帯を手にとり板橋へと差し出した。あれだけ朝起きてからぼんやりしていたのに、もう冷静になりつつある自分がいる。

「何ですか?」
「病院に電話して下さい。親御さんも心配されてるでしょうし、病院の方たちも心配されてるでしょうから」

多分、笑顔だったと思う。少し驚いた顔をした板橋だったけれども、次の瞬間には苦笑をしていたからそう思いたい。何を言う訳でもなく携帯を受け取った板橋は、素直に電話を受け取るとまず一〇四へ電話を掛けて電話番号を調べてから病院へと電話を掛ける。こういう変に冷静なところは板橋らしいと言えば板橋らしい。

電話向こうから時折怒鳴り声が聞こえてくるけれども、何を言ってるかまでは聞き取れない。けれども板橋は何度もすみませんを連呼していて、前橋と視線を合わせると二人してつい笑ってしまう。しばらく何か押し問答を続けていたけれども、ようやく電話を切った板橋は大きく溜息をついた。

「全く大袈裟な」
「いえ、大袈裟じゃないと思いますけど。課長、脇腹に見えるの血じゃありませんか。すぐに病院に戻った方が」
「今はいいから、話しをさせて下さい」
「でも、話しは後で聞きますから和臣さんは病院へ戻って下さい。心配で眠れなくなりそうです」

大袈裟な言い方だと自覚していたけど、途端に板橋の顔から笑いが抜け落ちる。

「すみません」

本当に反省したようなその声に、その反応に驚いてしまう。まさか自分の一言で、こんなに態度を変えられるとは思ってもいなかった。好かれていることに胡座をかくような真似は余りしたくなかったけれども、場合が場合だけに大きな態度に出てみることにした。

「謝られても心配すぎて困ります。今すぐ病院へ戻って下さい。話しは和臣さんが回復してからきちんと聞きます。待ってるので、きちんと治してから病院を出てきて下さい」
「逃げませんか?」

もう、逃げられる筈もない。既に自分の気持ちに気付いてしまったのに、逃げようも無い。今逃げたら後悔するのは目に見えてる。

「逃げません。待ってます」
「決まりですね、行きますよ。芹香さんはここで待ってて貰えますか」

いつの間にかソファから立ち上がった前橋の手には板橋の車の鍵が握られていて、板橋は気だるげに二つ返事をしている。
何だかそれは奇妙な光景でもあった。けれども、気負い無い空気がそこにはあって、前よりもお互いが近くなっていることが分かる。

「分かった。何かしておくことある?」
「特にないです。暇でしたら床を拭いておいて貰えたら助かりますけど……」

そう言った前橋の視線を追えば、所々に血が数滴ずつ落ちていて、慌てて板橋へと視線を向ける。
「全然大丈夫なんかじゃないです! 早く病院に戻って下さい」
「別にこれくらいの血」
「大丈夫じゃありませんから早く病院に戻りましょう。何ならお姫様抱っこでもしましょうか?」

口の端に笑みを浮かべた前橋は意地の悪い顔で板橋を見下ろし、板橋は素直に両手を上げて降参のポーズを取る。

「前橋君、すみませんが肩を貸して下さい」
「最初から素直にそうして下さい」

両手を差し出す板橋の手を掴んだ前橋はゆっくりと板橋の身体を起こすと立ち上がった板橋に肩を貸す。そんな二人の背中を見ながら玄関先まで出ると行って来ますと言って二人は出て行った。しばらくの間、お互いに文句を言う声は聞こえてきたけど、二人の姿がエレベーターの中へ消えるともう声は聞こえない。

無事だった喜びを味わうよりも先に驚かされてしまって、そんな状況に笑いながら部屋の中へと戻る。とにかく、今やるべきことは前橋に頼まれた通り雑巾を用意することで、その足で洗面所へと向かった。安心という実感が始めてここへきて湧いてきて、流れる涙を手の甲で拭った。

* * *

板橋の傷はやはり無理をしたことで開いたらしく、退院は一ヶ月先へと延ばされた。私と前橋は火曜日からは普通に出社したが、周りから何か言われることは無かった。対外的に、私の名前は出ていなかったし、板橋が怪我したことに注目されてしまったことからファックスの件なんてものもあやふやなまま流れてしまったらしい。

あれから二度だけお見舞いには行った。ただし、佐々木や前橋と一緒だったがそれでも板橋は喜んでくれた。板橋の気持ちも自分の気持ちも分かっていたし、恐らく板橋も分かっていたらしく、無理に見舞いに来いと言われることは無かった。

そうでなくても、板橋の人気は社内でも高く、ひっきりなしに見舞い客が訪れている状況だから下手に尋ねることが出来なかったということもある。
営業先は余計な横槍も無くなり、最終的には全ての会社と契約が結ぶことができ、更に営業先が顧客を紹介してくれたことで売上は五割増という結果になり、その日ばかりは前橋と祝杯をあげた。

板橋のいない二人での生活は違和感こそあったものの、居心地が悪いものでは無かった。そして、あと三日で板橋が退院するという時に前橋が切り出してきた。

「芹香さん、僕は謝らないといけないことがあります」

いつものように笑みを浮かべることもなく、ただ真剣に自分を見る前橋に自分も言わなければならないことがあることは気付いていた。自分が誰を好きなのか、もう分かっている。分かっているのに引き伸ばしてしまったのは、自分の甘えでもあった。とにかく居心地が良かったのだ。そして、板橋が退院すればまた三人で住めるならと夢だと分かっていても願っていた部分があった。

「私も言わないといけないことが」
「まず、僕の話しを先に聞いて貰えませんか」

強い口調ではないけれども、どこか張り詰めた空気を感じて頷くことしか出来ない。テーブルに置かれたカップには前橋の淹れてくれたコーヒーが入っていて、まだ湯気が立っている。

「僕には姉が一人いました」

前橋から家族の話しが出ることは余り無かった。サラリと触れることはあってもこうして暮らしていて、家族から電話が掛かってくることも無い。だから少し不思議には思っていた。

「僕は子供の頃から人一倍執着心が強いタイプで、気に入ったものは全て手に入れないと気がすまないタイプでした。その中で一際気に入っていたのは姉の奈央でした」

その名前には聞き覚えがあった。確か二番目の彼女と言っていたけど、まさか――。

「実の姉が恋人だったことがあるんです。両親には内緒で付き合っていたんですが、奈央が妊娠したことでお互いに噛み合わなくなっていました。多分、奈央も壊れかけてた。そんな時に奈央と二人で事故に合い、両親に妊娠していたことが知られ、奈央の手帳から僕と付き合っていたことが両親にバレたんです」

それは、考えてもいない衝撃的な告白でもあった。前橋が彼女に執着していることは知っていた。けれども、それが実の姉で、妊娠までしていたなんて考えもしなかった。

「両親には半殺しにされかけました。今でも両親とは縁を切っていて連絡を取っていません。奈央は頭も良くて、器量も良くて、美人で、両親からしたら目に入れても痛くないくらい可愛い子供だったんです。そんな奈央を僕が……でも、お互いに欲しいと思った気持ちは本気だったし、愛し合っていたと信じたいです」

何となく前橋の気持ちは分かる気がした。奈央さんというのがどういう人だったのかは分からない。ただ、事故があった日に脆くなった前橋は、確かに奈央さんを愛していたのだと思う。そうでなければ、いつでも飄々とした前橋があそこまで弱るとは思えなかった。

「それからはもう、本当に滅茶苦茶でした。両親に縁を切られてからはヒモみたいな生活をしてどうにか大学を卒業して会社に入社しました。そこで芹香さんと会った」

俯いていた前橋は真っ直ぐに自分を見る。そう、この視線にグラついたこともあった。けれども、今なら違うと分かる。前橋の目はいつでも、真っ直ぐに救いを求めるような目をしていた。だから突き放すことが出来なかったんだと……。

「芹香さんは……奈央と似てるんです。顔形は全く違うんですけど、本質的なところで。真っ直ぐで何に対しても手を抜かない。自分を誤魔化さない、人を正面から見る。だから、どうしても芹香さんのことが欲しくなった。また、昔みたいに戻れるんじゃないかと思って」

誰かの身代わりだったことにショックじゃないと言えば嘘になる。けれども、そう思わないと生きてく糧が無かった前橋にはどうしても欲しいものが必要だったに違いない。心から欲しいものの代用として、ただ必要だった。けれども自分は前橋が言うような清廉潔白な人間なんかじゃない。自分を誤魔化してこの生活を続けようとしたのは、自分だったのだから胸が痛む。

「どんなことをしても手に入れたかったし、課長から同居の話しを持ちかけられた時には心底ラッキーと思っていました。これで芹香さんを手に入れられると思って。でも、簡単なことじゃありませんでした。課長のガードが思っていたよりも堅くて」

どこか苦笑めいた笑いに、どう答えていいのか分からない。自分のことを話す前橋は、あの時のように懺悔しているようにも見える。

「僕の感情なんて課長にはお見通しだった。でも、三人で生活していく内に何だか楽しくなってきて、多少の嫉妬はあったけど、もうこのままでもいいかなと思っていたんです。でも、芹香さんが倒れた日、課長の本気を突きつけられて怖くなった」

課長の本気と言われても想像ができない。一旦言葉を切った前橋は少し遠くを見るようにして視線を逸らしてから、ゆっくりとこちらを向いた。

「あの人ね、僕に断言したんですよ。芹香さんが例え壊れたとしても手に入れる、そんな自分と本気で戦うつもりはあるのかって」

普段の板橋からは想像できない言葉だが、あの空気を変えた素の板橋であれば安易に想像がつく。恐らく、話した時は前橋に対して冷ややかな目を向けていたに違いない。
3人での楽しい生活を板橋は許してくれない。板橋にだって嫉妬心もあれば独占欲だってある。それをもう知っている。

「僕にはそこまでの覚悟はありません。しかも芹香さんが奈央のように壊れるようなことになれば、僕自身も壊れてしまう。だから怖くなった。そして、気付きました。僕自身、芹香さんを奈央の代わりにしようとしてたことに。それまで自分のことに気付けなかった自分は本当に馬鹿でした」

そこまで言った前橋は肘を膝の上に乗せると両手を組んで額を当てる。その姿はまるで本当に自分へと懺悔しているようで、見ているのが辛い。

「でもね、そこで引いてしまった僕はもう負けてるんです、課長に。でも、奈央の変わりにしようとしていることに気付いたら、課長に返す言葉なんてありませんでした。でも……」

顔を上げた前橋は視線を合わせることなくソファの背凭れに身体を預けると天井を向いて大きく伸び上がる。

「よく考えたら課長が芹香さんを傷つける訳無いんですよね。だって、いつでも課長は芹香さんのことを優しく傷つけないようにずっと守ってるんですから。けれども、そんな課長に芹香さんはもう心惹かれてた」

ゆっくりと自分に視線を向けた前橋は泣き笑いのような顔になっている。

「だから、諦めることにしたんです。最初こそ確かに奈央の変わりだったけど、少しずつ本気で芹香さんを好きになっていたんです。でも、幸せになって欲しいと思ったんです、心から……」

どんな言葉が引き金だったのか分からない。けれども、涙が溢れて止まらなくなる。

「芹香さん、課長のこと、好きですよね」

確認するような前橋の言葉に、ゆっくりと頷いた。今更誤魔化すことなんて出来ないし、したくもない。ここまで曝け出した前橋のためにも、しっかりと頷くとどこかホッとしたような顔を前橋は見せる。

「泣かないで下さいよ。芹香さんに泣かれると本当に困るんですよ」

立ち上がった前橋はすぐ隣りに座ると、笑いながらハンカチで涙を拭ってくれる。けれども、今はその優しさが痛い。自分の心が痛いというよりも、前橋の心の痛みが伝染してくるような気がした。

「……退職願を出しました。今月末で会社を辞めます」

今月末、それは奇しくも板橋の退院日でもあった。

「なんで」

涙声で問い掛ければ、どこか寂しげな表情で前橋は笑う。

「けじめをつけたかったんです。芹香さんも課長も誰も悪くない、ただ、僕がけじめをつけたかったんです。奈央から離れることに」

別に辞める必要なんて無い、そう言いたいけれども自分の立場で言える言葉じゃない。けじめをつけたいのは奈央さんのことだけじゃないと分かるだけに、何も言えなかった。ただ涙が流れて、そんな選択をさせてしまった自分の不甲斐なさを感じる。

「芹香さん、最後に一つだけお願いがあるんです」

涙を拭われて、ゆっくりといわれた言葉に顔を上げればすぐ近くに前橋の顔がある。

「最後に一回だけ、芹香さんからキスしてくれませんか」

痛みを耐えるような真剣な眼差しに、また涙が零れる。自分よりもずっと前橋は辛かったに違いない。自分の内面を見るのは辛いことだと、今なら分かる。そして、これが別れのキスになるだろうことも……。
恋人にはなれなかったけれども、確かに自分も前橋のことを好きだった。だから目を閉じて、ゆっくりと前橋の唇に自分の唇を重ねた。

触れるだけの別れのキスは涙の味がした――――。

* * *

板橋の退院日、二人して会社を休み家で料理本やらパソコンを見ながらご馳走を作った。あれから前橋は普段通りによく笑い、家族のように接してくる。そして、自分も前橋を弟のように扱う。

「芹香さん、次、何入れるんですか?」
「次、牛乳。そっちの軽量カップに入ってる」
「了解」

初めて作る料理もあって失敗もあったけど、とにかく笑いながら料理を作った。昼過ぎに板橋が帰って来て、三人で乾杯して板橋の退院を祝う。板橋は入院中の出来事を面白おかしく話し、前橋は仕事中にした失敗を報告したり、今日の料理の失敗を曝露したり、とにかく三人でよく笑ってよく食べた。

けれども、楽しい時間というのは流れるのも早い。前橋の携帯からアラームが鳴り、不意に沈黙が落ちる。

「さて、僕はそろそろ行くことにします」

立ち上がった前橋は笑顔なのに、泣きそうになってる自分がいる。

「あーもう、芹香さん、泣かないで下さい。本当に僕、芹香さんの涙に弱いんですよ」
「泣いてません」

どうにか涙を耐えると、二人揃って声を上げて笑う。そんな二人に対して唇を尖らせると、更に笑いを誘ったらしく何も言えなくなる。
リビングの片隅に置いてあった鞄を手に取ると、前橋はこちらへと振り返った。

「本当に楽しかったです、ここでの生活」

しみじみとしたその言葉でやっぱり涙が出てきた。
そう、本当に楽しかった。板橋がいない間、何度も前橋の存在に助けられた。寂しいと思うのは仕方無いけれども、前橋を止めることは出来ない。
この数日で前橋の荷物は運び出されていて、別々の部屋に住む自分は今日まで気付きもしなかった。恐らく、早く返って来た時に徐々に荷物をまとめて送り出していたのだろう。だから前橋の手にあるのはスーツケースが一つだけだった。

「課長、色々とお世話になりました。僕はあなたが上司で本当に良かったです。そして、ここに住まわせて貰ったことに心から感謝してます」
「落ち着いたら手紙の一つでもくれたら嬉しいですね」
「はい、お約束します。芹香さん、あー、だから泣かないで下さいって」

そう言われても涙は止められない。後から後から出てきて、自分でもどうしていいか分からない。

「ごめん、本当は笑っていたかったけど無理」

しゃくり上げながらどうにか言ったけど、目の前にいる前橋から視線を逸らすことはしない。

「うん、芹香さん、幸せになってね」
「前橋も絶対幸せになってね」
「今なら少し信じられますよ、自分を。二人のお陰です。芹香さんを好きになって本当に良かったです。本当に……」

前橋の目も少し赤いし、目尻に涙が溜まっているのが分かる。
でも、今生の別れじゃない。いつかまた、笑顔で会える日が来ると願いたい。差し出された手を握り締めると、強い力で握り締められる。けれども、その手はゆっくりと離れて前橋は最後に深々と一礼すると背を向けた。
もう、前橋がここへ戻ることは無い。涙でぼやける視界で最後まで前橋の背中を見つめていたけど、その背中が振り返ることはなく扉は閉まった。

「もう、大丈夫ですよ、彼は」

ゆっくりと背後から回された腕に抱き締められホッとするのに、胸は痛かった。

「少し妬いてますけど、今日だけは我慢します」

回された腕に力が篭り、その腕に縋りつくようにして泣いた。別れを惜しんで。そして前橋の幸せを願って。他人から見たら偽善と言われるかもしれないけど、それでも良かった。ただ、願わずにはいられなかった――――。

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