安全圏の彼と彼 第7章

朝目覚めれば、既に板橋の姿はなく前橋がリビングで寛いでいた。

「おはよう、芹香さん」
「おはよう、早いね今日は」
「早くもなりますよ、ライバルいないんですから」

そう言って朝から爽やかな笑みを見せる前橋に苦笑しつつ、身支度を整えてから前橋の淹れてくれたコーヒーを口にする。昨日は帰ってきてから多少話しはしたものの、板橋はすぐに仕事があるということで部屋に篭り、自分も余り口にしないお酒を飲んでいたこともあって早めに部屋へ戻った。

本当なら板橋にお礼の一つでも言いたいところだったけれども、帰るなり部屋に入ってしまった板橋に何も言うことは出来なかった。いや、言う隙なら何度もあった。けれども、今まで余り見なかった穏やかさを配した空気を纏っていて話し掛けることが出来なかった、というのが正解だ。

車の中までは確かにいつもの板橋だったように思える。けれども、車内で掛かってきた電話を取ってから板橋の雰囲気は少しおかしかった。

「それにしても、課長、こんな早くからどうしたんですかね」

前橋がそう言うのも頷けるくらい、板橋が出て行ったのは早かった。元々眠りが浅い前橋はリビングからする音で起きたらしい。その時には板橋は既にスーツ姿で、それからすぐに家を出て行ったと言う。時計はまだ六時半くらいだったと言うから、仕事というにはかなり早めに思える。

「やっぱり、上にバレちゃったから色々拙いんですかね」

言われて思い出したのは、社内にばら撒かれたファックスのことだった。そう、つい今の今まで忘れていたけど、解決していない問題は多い。

「で、こんな時だったら、前の僕だったら速攻芹香さんを口説いてたんですけどね」

どこか溜息交じりの声を聞き流しそうになって、慌てて前橋を見ればこちらを見ていた前橋は少し口元を歪めた。それは笑おうとして失敗したようにも見える。

「正直言うと、課長が正々堂々すぎてさすがに抜け駆けするのが悪いというか」

押しの強い前橋の発言にしてはかなり意外に思えた。かなり間抜けな顔をしていたのか、そんな自分を見ると前橋は笑みを深くした。

「芹香さんが色々な顔を見せてくれるから、それだけで楽しいというのもあるんですよ。今までセックス無しでこうして楽しいと思える恋愛経験無いんで」

前にも言っていたけれど、前橋の恋愛感覚はどこかおかしいように思えた。けれども、それがここにきて正常に戻ってきつつあるというのであれば、それはそれで良いことのような気がしないでもない。

「でも、したいことはしたいんですよ」

どこか真剣み漂うその視線に、自分の方から視線を逸らす。
正直、朝から見るにはその視線は怖い。自分の中に確固たる好きが無い内は余り見たくなかった。好意を無下にしたい訳じゃなく、ただ、勢いに流されるままになるのが嫌だった。この同居ですら流されて始まったのだから、ここまできたらきちんと自分の気持ちに向き合って前橋にも板橋にも答えたい。
けれども、視線だけで唇の感触やら、身体に触れられた時の感触まで思い出してしまって失敗した。

「わ、私は別にしたくないから」

慌ててコーヒーを一気に飲み干すと椅子から立ち上がり逃げるようにして部屋の扉を開ける。
そろそろ出勤の時間は近付いている。逃げた訳じゃなくて鞄を取りに行くだけだと自分自身に言い訳しながらも扉の前で振り返ると、こちらを見ていた前橋と視線が合う。

「けど、この生活は楽しいと思いつつあるから」

照れは存分にあったから、つい怒ってるような口調になってしまったけど、驚いた顔をした前橋は次の瞬間に笑み崩れる。

「そう思ってくれてるなら良かったです」

いつもよりも明らかに破顔一笑した前橋の笑みに一瞬だけ視線を奪われ、それに気付いた時には部屋に駆け込んだ。心臓は明らかに早鐘を打っていて、前橋を意識してしまった自分がいる。絶対に赤いだろう顔を両手で押さえると、小さく溜息をついた。
こんな朝からとびきりの笑顔なんて見せないで欲しい。心臓に悪すぎる。こんな半端な状態になるつもりなんて全然無かったのに、どうしてくれよう。絶対に恋なんてしないって、仕事に生きるんだって思ってたのに、本気でどうしてくれよう。

そんなことを考えながら時計を見れば、すでに家を出なければならない時間で一旦コンパクトで赤くなっていないか確認してから鞄を掴んで部屋を出る。

「もう、出ないと危ないですよ」
「先に行ってても良かったのに」
「たまには一緒に出勤させて下さい」

笑顔の前橋に再びドキッとさせられながらも2人で家を出た。2人で並んで歩きながら、仕事の話しや下らない話しに飛びながらも前橋は先ほどのような危うい発言をすることは無い。そんなことに安心しながら、昨日から考えていたことを前橋に伝える。

「実はさ、3人で暮らしてること千里にだけ言おうかと思って」
「いいんじゃないんですか。三上さん、心配してましたよ。芹香さんのこと」
「大丈夫かなぁ」

既に板橋と同居していることは知られている。けれども、3人で暮らしていると聞けば千里はどう思うだろう。それを考えるとどうしても口が重くなる。

「いいと思いますよ。芹香さんのことだから僕達には言えないグチの一つや二つもあるでしょうし、そういうことを聞いてくれる相手だって必要だと思いますよ」
「じゃあ、前橋にはいるの」
「まぁ、それなりに。むしろ課長の方もそういう意味では心配ですけどね」

こうして一緒に暮らしていても、板橋の生活というのは余り見えてこない。そういう意味では前橋の方がオープンだから聞きやすいし、些細な会話からも色々なことが掴むことが出来る。
まだ、自分は社内での板橋と、それから時折覗かせる強引な板橋しか知らない。故意に隠されているのか、元々の性格なのかどちらか分からないけど、どうにも掴みあぐねているところはある。

「まぁ、課長のことは置いておいても、芹香さんは三上さんに言うのもいいと思いますよ。僕なんて同居話し出た時なんかグチりまくりでしたし」
「グチってたの?」
「それはもう盛大に。だって、普通に考えたっておかしいじゃないですか、ライバルと同居なんて」

肩を竦める前橋はどこか冗談めかした口調で、今ここそれについて深く触れるつもりは無いらしい。だから、前橋の言葉に素直に笑ってしまえば、前橋も爽やかな笑みを浮かべる。前よりも更に楽しそうなその笑みに気付いてしまえば心拍数が徐々に早くもなる。

「おっはよー」

そんな中で背後から肩を叩かれて飛び上がらんばかりに驚きながら振り返れば、目を丸くした千里がいる。

「ど、どうしたの? 私、そんなに驚かすようなことした?」
「別に、ちょっと。あのさ、千里、今晩暇?」

動揺しながらも切り出せば、千里がにんまりと笑う。

「ようやく白状する気になったか」
「白状って人聞きの悪い。でも、似たようなもんね。話せるなら話ししたいんだけど」
「勿論オッケーよ。聞きたい、彼とのデートを断ってでも聞きたい」

目を輝かせて見上げてくる千里に苦笑しながらも、少し低い位置にある千里の額を軽く突付く。

「別に彼とのデートを断るほどの話しじゃないわよ」
「いや、絶対に今日芹香の話しを聞いておかないと後悔する気がする。というか、芹香の気が変わりそうだから、絶対に聞いてやる」

意気込む千里に、つい笑ってしまえば千里は頬を膨らませて睨みつけてくる。でも、小柄で可愛い顔立ちをした千里にはそんな表情もよく似合っていて、つい頭を撫でてしまう。

「じゃあ、今晩、どこかで食事でもしよう」
「うん、分かった」

丁度社内に足を踏み入れたところで、千里とは別れた。
そのまま前橋と2人で5課へ入れば、それぞれが声を掛けてきて答えるように挨拶をする。自席につく瞬間、目に付いたのは板橋の席だった。早朝から出た割には板橋が会社に立ち寄った形跡は無く、机の上は綺麗に片付けられて書類1枚無い状態だった。だとしたら、あんなに早くから一体どこへ行ったのだろう。そんなことを頭の片隅で考えながらもサイドにある引き出しを開いて書類を手に取る。

まだ、やることは山積みだ。今日だって営業周りしないといけないし、昨日契約取った分の書類も片付けないといけない。大きなファイルを手に身体を起こした途端、グラリと視界が回ったように感じて引き出しに手をつく。

「新橋さん?」

隣りに座る前橋から声を掛けられて、ゆっくりと身体を起こせば別段何も起こらない。体調が悪いのか、考えてみたけれども体調の悪さは感じない。

「少し顔色が悪いみたいですけど、大丈夫ですか?」

元々、朝が余り得意な訳では無い。寝起きは悪くないが、起きてからエンジンが掛かるまで少し時間が必要なだけだ。今日はいつもより少し起きるのが遅かったから、まだ身体にエンジンが掛かりきっていないのかもしれない。そう結論付けると心配そうな顔をする前橋に大丈夫と答えてから、ファイルの中から幾つもの書類を取り出すと前橋に差し出す。

「これ、昨日の契約書だから金額合わせて全部報告書に書き起こして貰える。午後からはまた営業周りに出るから出来るところまでで構わないわ」
「分かりました」

素直に書類を受け取った前橋はすぐにパソコンを立ち上げると、既に仕事モードに入っているらしくジャケットを脱いでいる。自分も今日営業周りする上で、分かりやすい書類を作るためにパソコンを立ち上げたところで背後から名前を呼ばれて振り返る。そこにいたのは、5課の事務をする例の2人組だった。

「ちょっとお話ししたいことがあるんですけど」

とても下手に出てはいるけど、言いたいことは分かってる。正直、そういう話しをしている時間が勿体無いと思わなくも無かったけれども、引き伸ばしたところでどうなる問題でもない。溜息をついて立ち上がれば、前橋が伺うように自分を見上げてくる。

「いいわよ。どちらで?」
「ここではちょっと。あの、始業までに終わらせますから会議室にお願いできませんか」
「分かったわ」

渋々ではあったけれども開いたばかりのファイルを閉じると、女子社員たちの後ろをついていく。向かった先はよく千里に引き摺りこまれた会議室で、奇しくも前橋にも引きずり込まれたことのある会議室でもあり、少しだけ苦笑しながらも2人の後ろについて入る。中には2人だけでは無く、数名の女子社員がいて内心大きな溜息をつくしかない。

「で、話しって何かしら」
「しらばっくれないでよ。このファックスのことに決まってるでしょ!」

激昂したような声で机に叩きつけたのは、例の板橋との同棲のことが書いてあるファックスでもう笑うしかない。板橋に人気があるこは分かっていたし、こういうことが起きるんじゃないかという予想はしていた。でも、相手にするには面倒くさくて殊更大きな溜息をついて見せる。

「だから何? 同棲してようと、してなかろうと関係無いと思うんだけど」
「はぁ? 関係無い? 無く訳ないじゃない。つい数日前までは全く関係ありませんって顔してたのにどういうつもり!」

本当にこういうゴタゴタは面倒くさい。構ってられないというのが正直な気持ちだったし、目の前の人間に本当のことを言うつもりは無い。だから背を向けた途端、もの凄い勢いで腕を掴まれ引っ張られる。
そして世界がぐにゃりと歪んだ。

「ちょっ! 何! ヤダ! キャーッ!」

絶対に聞いていればうるさい筈の声が酷く遠くに聞こえて、歪んだ視界はそのままフェードアウトした。

* * *

目を開ければぼんやりとした視界の中、出入り口から漏れてくる光でかろうじて部屋の中が見える。

「芹香さん、目が覚めました?」

問い掛けてくる声はどこか遠くて、頷いたつもりだけど伝わったのかよく分からない。

「水飲みます?」

頷いてみたけど、腕一つ上げるのも重くて身体中がダルい。前橋は困ったようにしばらく自分を見下ろしていたけど、手にしていたペットボトルを口に含むと、その顔が徐々に近付いてきて自然と目を閉じる。冷たい唇が重なって、ゆっくりと水分が喉に落ちてくるのをホッとした気分で全て飲み込んだ。

「芹香さん、可愛い」
「ずるいですね、前橋君」

思い頭を声のする方に向ければ、そちらには板橋がいて穏やかに笑っている。

「もっと飲みます?」

問い掛けられて頷けば、今度は板橋が水を口に含んで唇が重なる。冷たい水が落ちてきて飲み込んだけど、もっと欲しくて触れたままの唇に舌を伸ばせば、ゆっくりと冷たい舌がからみあう。それが気持ちよくて唇を重ねたまま、甘えたような声が漏れる。まるで自分の声じゃない音と水音に、夢うつつのまま口内をいたずらに刺激する気持ち良さを甘受してしまう。

「ん……ふっ……んん……」

キスは気持ちい。重い腕をゆっくりと伸ばして板橋の首の後ろへと回せば、口付けは更に深くなり縋るように力を込める。キスの気持ち良さに溺れていると、耳元にフッと息を吹きかけられて身体がビクリと振るえた。

ゆっくりと名残惜しげに唇が離れ、前橋へと顔を向ければ少し熱を帯びた前橋と視線が絡まる。近付いてくる唇に再び目を閉じれば、ゆっくりと唇を舌がなぞり時折甘く噛まれる。
それが気持ちよくて小さく吐息が漏れる。ゆっくりと入り込んできた舌が絡まり、時折強く吸われると頭の後ろがジンと痺れる。

「前橋君、病人相手なんですから手加減して下さいよ」

病人というのは自分のことなのか、遠くに聞える声にぼんやりと考えながらも徐々に上がる息の合間に手を伸ばして前橋に縋る。現実ではこんなことはありえない。だって、家の中ではそういうことをしない約束だったから。だとしたら自分は欲求不満なのか。

「んんっ……うぅん……」

漏れる声だって自分のものじゃないみたいだし、多分夢。だから、唇が離れて前橋の指がゆっくりと唇をすべらすのをぼんやりと眺める。

「芹香さん、色っぽい」
「熱が無ければ食べてしまいたいくらいですね」

こんな夢を見るということは、自分はこの二人に食べられてもいいとか思ってるんだろうか。そこまでの覚悟は無い気がするけど、所詮夢だし。

「もう少し眠るといいですよ」

伸びてきた手が瞼の上に重なり視界を遮る。まだ、凄く眠い。だから――――。
意識は徐々に沈みこんで、もう目を開けることは出来なかった。

* * *

次に目を開けた時には視界ははっきりしていて、多少ダルさはあったけど頭痛は無い。やけに布団が重く感じて少しだけ身体を起こせば、左側に前橋、右側には板橋がベッドに突っ伏して寝ていた。それは奇しくも夢で見た時と同じ配置で、夢の内容を思い出して苦笑いながらも頬が熱くなってくるのが分かる。
一体、どんな夢みてるんだか。内心で突っ込みを入れながらも小さく溜息をついた。

ひんやりとした感触で額に手を当てれば、熱さまシートが張られていて少しだけ笑ってしまう。壁に掛かる時計を見れば五時を少し回ったところで、カーテンの隙間から入る日差しが朝だと知らせている。夏だから然程の寒さは無いけれども、それでも、ここで寝るよりベッドで眠った方が二人にとって疲れも取れるに違いない。二人の肩に手を伸ばし、両手で二人の身体を揺さぶる。

「起きて」

そんなに大きな声じゃなかったけれども、先に起きたのは前橋だった。むくりと起き上がると大きく伸びをしてから口を開くよりも先に手を伸ばしてきて額にあてる。

「まだ少し熱っぽいですね。何か飲みます?」
「ん、今は大丈夫。寝るなら自分のベッドで寝た方が疲れ取れるよ」
「まぁ、そうですけど、心配でしたから。どこか痛いとかあります?」
「無いから大丈夫」

答えている間にも前橋の手が伸びてきて額に張ってある冷えぴたシートを剥がしていく。

「新しいの張りますから」
「別にそれくらい自分でやるから」
「僕がやりたいんです」

強く言われてしまうと意地になるのもおかしな気がして、それ以上は何も言わない。前橋は箱から新たなシートを取り出すとセロファンを剥がして、ゆっくりと私の額に張ってくれる。そして立ち上がり、もう一度伸びをすると椅子にあった私のひざ掛けを掴み、ベッドを回り込んで板橋の肩に掛けた。

「課長は起こさないでおいて下さい。口止めされてたんですけど、昨日、本当は真夜中に出かけてるんですよ。今日も帰ってきたの多分三時過ぎでしたから、そのまま寝かせておいて下さい」
「でも、ここで寝るより」
「心配だから近くにいたい気持ちも分かって下さい。特に自分がいない時に芹香さんが倒れたから余計に心配なんですよ」

言いたいことは分からなくは無いけど、疲れてるんであれば殊更ベッドで横になった方が疲れが取れるに違いない。けれども、前橋は「お休みなさい」という言葉と共に部屋を出て行ってしまい眠る板橋を見て途方に暮れる。

再び自分はこのまま寝てしまっていいのだろうか。見下ろした板橋は眼鏡を掛けたままで、鼻の辺りが少し赤くなっている。起こさないようにゆっくりと眼鏡を外すと、サイドテーブルの上に置いた。サイドテーブルの上には冷えぴたシートにペットボトルの水とグラス、そして熱さましの薬と体温計が所狭しと置かれていた。板橋は帰るのが遅かったと言っていたから前橋が用意したものなんだろう。

自分がどうやって帰ってきたのか、あの囲まれた状態からどうやって運び出されたのか全く覚えていない。後で前橋に確認しないといけない。もし、前橋に家まで送られたんだとしたら、月曜日からは更に騒動になっているのかと思うと頭が痛い問題でもあった。

眼鏡を外した板橋は全く起きる様子も無く、すっかりと寝入っている。大抵、眼鏡を外せば子供っぽくなったり、柔らかな印象になったりするのに、板橋の場合は違う。眼鏡を外すとより鋭い印象が強くなる。多分、この印象を隠すために営業中は眼鏡を掛けているのかもしれない。

骨ばった顎のライン、すっと伸びる鼻、閉じられた目、それぞれにパーツが整っていて他の女の子たちが騒ぐのも無理ない話しだ。絶対に好きにならないという自信があったのに、つい一週間前の自分に笑いたくなってしまう。笑いと同時に欠伸が零れて、自分もベッドに横になる。

これでまた無理して体調を崩せば二人の迷惑になる。分かっているからこそ、ゆっくりと目を閉じれば、すぐに眠りは訪れた。

* * *

次に目が覚めた時にはやけに頭はすっきりしていて、身体を起こせばそこに板橋の姿は無かった。けれども、扉の向こうから二人の話し声だけは聞えてきていて、寝ぼけた目を擦りベッドから立ち上がる。
姿見に映る自分がパジャマを着ていることに納得したけど、少し引っ掛かる。これ、誰が着替えさせたのか、考えれば一人しか思い当たらず赤面する思いだった。額に張られたシートを剥がしゴミ箱に入れ、複雑な思いで扉を開ければ二人の視線がこちらへと向く。そして自分を見た途端に二人してホッとした顔を見せるから何とも居心地が悪い気分になる。

「気分はどうですか?」
「うん、もう大丈夫」
「本当ですか?」

問い掛けながらもソファから立ち上がった前橋は、すぐ目の前に立つとおでこに手をあてた。

「熱は下がってるみたいですね」
「ご飯は食べられそうですか?」

その声に板橋へと視線を向ければ、立ち上がった板橋は土曜日だというのにスーツを身につけていた。

「仕事ですか?」
「えぇ、今日はちょっと」

口を濁してしまい、それ以上は言わないところみると自分たちには言えない上の仕事ということなんだと分かる。だから、それには触れずににいれば、前橋に腕を捕まれソファへと強引に座るように促される。
何だか奇妙な風景だと思う。パジャマの私に、スーツの板橋、そしてラフな格好をした前橋。どうにも揃っていない格好に自分一人パジャマというのが少し恥ずかしくて立ち上がろうとした。けれども、再び前橋に強引に肩を捕まれて座ることになる。

「課長が作ってくれたんで、ちょっと待ってて下さい。用意しますから」
「それくらい自分で」
「病人は大人しくしてて下さい」

腰に手をあてて偉そうに言われてしまい、少しだけ笑うと「はーい」と間の抜けた返事をする。けれども、そんな返事にも前橋は納得したのかキッチンへと向かってしまう。
そして目の前に座る板橋を見れば、相変わらず新聞を片手にトーストを齧っている。けれども、視線に気付いたのかすぐに新聞をテーブルの上に置いてしまった。

「どうかされましたか」
「色々と聞きたいことはあるんですけど……例のファックスの件、大丈夫ですか? その上というか、親族の方とか」
「まぁ、大丈夫とは言い難いですが、今のところ大丈夫ですよ。詳しいお話しはまた明日の夜にでもしましょう」

そう言われてしまうと自分としては気になっていてもそれ以上は聞けない。どちらかというと、強引に話しを切られてしまった気がしないでもない。ただ、明日話すということであれば、明日の夜にゆっくり話しくらいできるに違いない。

「芹香さんは、今日はまだ横になっていて下さいよ」

目の前にコーヒーと皿が置かれ、そこにはできたてのカリカリベーコンとほどよく半熟のスクランブルエッグが盛られている。傍らにはプチトマトまであって色合いもよく、空腹に気付かされる。

「さてと、私はそろそろ行って来ることにします」

前橋が朝食を用意したタイミングで新聞を畳むと、テーブルの上に置いた。傍らに置いてあった鞄を持ち、スーツのジャケットを腕に掛けるとテーブルを回り込んでくる。

「それでは行って来ますね」

顔が近付いてきて、驚きで目を瞑れば頬に触れる感触とわざとなのかチュッなんて音までする。

「な、何を!」
「唇だと殴られそうなんで頬にしてみました。では、行ってきます」

そのまま板橋は出て行ってしまい、それ以上文句を言える筈もなく黙り込むしかない。

「何か、課長性格変わりましたねぇ」

そんな感想を漏らしたのは前橋で、もうそんな言葉にも何を返していいのか分からない。第一殴るって、いや、確かにあの時はそうするべきだと思ったから殴ったけど……そういえば、顔、あれから腫れなかったんだろうか。昨日、眼鏡外した時にはもう分からなくなっていたけど、どうなんだろう。

「うーん、謝っておくべきなのか悩むとこだわ」
「え? 謝るんですか? キスされたのに?」
「いや、違うわよ。この間叩いたこと」
「あー……」

前橋は苦笑しながら言葉尻を無くし、板橋の座っていた場所へと腰を落ち着ける。

「……いいと思いますよ。多分、謝罪を必要とは思ってないでしょうし、正直、芹香さんに助けられたというか、まぁ、それは僕もなんですけど」

前橋らしくなく曖昧な言い方に視線を向けたけど、逆に前橋はついと視線を逸らしてしまう。一体、自分は何を助けたのかよく分からない。曖昧なのは好きじゃないけど、隠したそうにしているものを暴いてまで知りたいという気持ちは無い。だからこそいただきますと挨拶をしてから、前橋が並べてくれた朝食に手をつける。

「そうだ、昨日は前橋が運んでくれたの?」
「昨日? 運んだと言えば運びましたけど、着替えとか小物とか揃えてくれたのは三上さんです」
「どういうこと?」

状況がよく分からずに問い掛ければ、前橋が簡単に説明してくれる。対外的に前橋が送ると問題だから、千里が送ってくれることになったらしい。けれども、丁度営業に出る予定だからと前橋が車でついでに送ってくれた、ということらしい。

「ありがとね。後で千里にお礼言っておかなくちゃ」
「そうして下さい。それから、僕が反省してますとも伝えておいて下さい」
「何それ」

問い掛けたけど前橋は内緒ですと言って答えてはくれない。一体、千里と前橋の間で何の会話が交わされたのかは分からない。

「後で電話した時に伝えておく」
「お願いします」

笑顔でそれだけ言った前橋は一旦ソファから立ち上がるとカップを持ってキッチンへと行ってしまう。恐らくコーヒーを入れにいったのだろう。その背中を見ていたら、昨日の夢を思い出してしまって強引に視線を逸らすとカップを手に取った。
きちんとブレンドされたコーヒーはどうやら板橋が淹れたものらしく、いつもと味は変わらない。甘やかされてると思いつつ、居心地の良さを感じてしまう。

何か返さないと、そう思うけれども、多分、一番のお返しはきちんとどちらかを選ぶことだと分かってる。それが苦しいのは、自分で思っていたよりも二人が好きだからかもしれない。認めたくないけど……。

「何難しい顔してるんですか? あ、もしかして、仕事のことですか?」
「そうだ、昨日営業先回った?」
「回りましたよ。芹香さんが来てくれたら契約するってところが一件ありました。心配してましたよ、林さん」

その名前だけでどこの会社だか分かり、ホッとしてしまう。

「そこで面白い話しが聞けました」
「何聞いたの?」

問い掛けたけど前橋は首を横に振ってそれについては答えない。

「とにかく芹香さんは今日はベッドで横になってて下さい。まだ微熱気味なんですから。それに食べたら薬を飲んで下さい」
「何か前橋、ちょっと丸くなった?」

こうして前まで二人でいたらとてもじゃないけど、こうしてのんびりしていられなかった気がする。けれども、再びソファに腰掛けた前橋にはどこか余裕が見えて、少し前まであった必死さが余り見えない。

「言っていいんですか?」

少し意地の悪い笑みを浮かべる前橋に、身構えてしまい慌てて首を横に振る。

「言わなくていい」
「じゃあ、いいません。ほら、もう少し頑張って食べちゃって下さい」

言われるままに皿に乗せられたクロワッサンに手を伸ばしたところで、ふとその手が止まる。

「あれ、トーストじゃないの?」

確か先まで板橋はトーストを食べていた記憶がある。でも、目の前には少し温かいクロワッサンで、どう見ても食パンじゃない。

「これは課長が芹香さんのために買ってきたんですよ。もし風邪だったらトーストだと食べるのに厳しいだろうって。しっかり雑炊の用意もしてましたよ。もし調子悪かったらそっちを食べて貰おうと思ってたみたいですよ」
「別にそこまでしなくても」
「したいんですよ、僕も課長も。だから勝手にさせておいて下さい。ほら、早く食べる」

急かされるように口にクロワッサンを運ぶとバターの香りが口の中に広がる。外側はパリッと音がしそうなほど固めなのに、中は柔らかくて凄く美味しい。一体どこで買ったものなのか、できることなら後で聞きたい気がする。
その後は会話もなく並べられた食事を食べ終えると、最後にコーヒーを飲んだ。皿を重ねてカップを乗せたところで、まとめてそれを横から奪われた。

「自分でそれくらいはする」
「いいから、いいから」

どこか機嫌良さそうに皿を持った前橋はそのままキッチンに行くと、皿を洗い出す。

「別に平気よ」
「いいんです。今日はお休み。芹香さんは何もしない日。もしこれで倒れたりしたら今度こそ救急車を呼びますよ」

そう言われると昨日の今日では自信は無い。元々、倒れるまで自覚があった訳じゃないだけにそれ以上言い募ることは出来ず、渋々前橋から離れると洗面所で歯を磨く。正面にある鏡を見れば、顔色はまだいまいちで寝ろと言われるのも分かる気がする。

歯磨きを終えるとまだ皿を拭いている前橋に一声掛けてから、そのまま部屋へ戻ると薬を飲んでからベッドへ横になる。横になるだけでも身体が休まることは知っているけど、さすがに昨日の昼から寝ているだけあって眠気は余り無い。ぼんやりとカーテンの隙間から見える日差しを眺めていれば、遠慮がちなノックの音が響く。

「どうぞ」
「入ってもいいですか?」

顔だけ覗かせた前橋に少しだけ笑うと「どうぞ」と答えれば、前橋の手にはソファに置いてあったクッションと文庫本がある。

「居座るつもり?」
「心配してるんです。近くにいるのに急変して分からないのが嫌なんです」

前橋の言葉で、前に恋人を亡くしたという話しをしたことを思い出し小さく溜息をついた。

「大人しくしてるなら」
「子供じゃないんですから大人しくしてますよ」

拗ねた顔をした前橋にクスクスと笑うと、前橋はベッドの横にクッションを置いて腰を落ち着けるとこちらを覗き込む。

「寝てください。眠くなくても目を瞑っていたらいずれ眠れますから」

それだけ言うと、前橋は開いた文庫本に目を落とす。
防音窓がついた部屋に外からの喧騒は聞えない。言われるままに目を閉じれば、もう何も見えない。部屋の中は静かで時折前橋の本を捲る音だけが聞える。先まで全然眠気なんて無かった筈なのにまだ眠れそうで自分の体調がまた戻っていないことが分かる。他人がいる部屋なんて絶対に落ち着かないと思ってた。けれども、ゆっくりと思考は落ちていって眠りについた。

* * *

カチャリという扉の開く音でぼんやりと思考を浮き上がらせると、目を開けて扉へと視線を向けた。扉から顔を出したのは板橋で、口を開こうとした瞬間に板橋は口元に人差し指をあてた。そして視線だけ動かして、ベッドの下へと視線を向ける。

つられるようにして身体を起こしてベッドの下を見れば、そこにはクッションを枕にして眠っている前橋がいた。読んでる最中に寝てしまったらしく、本は開いた状態でうつ伏せにさせてあり、人差し指だけが開いた部分に挟まれてる。眠った顔は思っていたよりも子供っぽくてつい噴き出してしまえば、改めて板橋が「シーッ」と小さな声を掛けてきて、指先でこちらへ来いと呼んでいる。

もうすっかり寝すぎていたこともあり、自分が被っていた布団を前橋に掛けるとそのままリビングへ出ると扉を閉めた。

「具合はどうですか?」
「もう大丈夫です」
「顔色も随分良くなりましたね。ケーキを買ってきたんですけれども食べますか?」
「……頂きます」

正直、先食べたばかりだというのにお腹が空いている。ちょっと恥ずかしいと思いながら時計を見れば、既に夕方の十六時を回っていて驚くほど寝ていたことに気付く。それはお腹も空くだろう、と納得すると板橋が差し出すケーキの箱を受け取った。

キッチンに行けばケーキ皿とフォークを三組渡され、素直にそれをリビングへと運ぶとケーキの箱を開けた。受け取った時から大きな箱だとは思っていたけれども、中には色鮮やかなケーキが十個入っていた。どう考えても三人で食べるには多すぎる量に、慌てて板橋へ視線を向けたけど、視線の合った板橋は穏やかに笑う。

「芹香と前橋君の好みが分からなかったので、あるもの全種類買ってきてしまいました」
「別にそこまでしなくても」
「楽しかったですよ。誰かのために買い物をするのは」

笑みを深くした板橋にそれ以上言えることは無く、小さく溜息をつくと苦笑する。

「二人揃って甘やかしすぎです」
「気苦労かけてますからね。自分が原因の一旦を担ってると思えば甘くもなりますよ」

どうやら前橋に聞いたのか先日の騒動はしっかりと板橋の耳に入っていたらしい。上手く立ち回れなかった自分に、逆にそう言われてしまうと申し訳なくなってしまう。
確かに最初こそ反対していたけど、今はこの空気を楽しんでいる自分がいる。それが分かっているだけに、もう板橋や前橋のせいとは言い切れない。

「別に和臣さんに責任ある訳じゃないですよ。だから余り気にしないで下さい」
「おや、そういうことを言うと付け込みますよ」
「前橋と同じこと言わないで下さい」

返した言葉に板橋は楽しそうに笑うとティーポットとティーカップを持ってテーブルの上に置いた。この家にそんな洒落た物まであるとは思っていなかっただけに、少し驚いてしまう

「和臣さんは何にしますか?」
「芹香から先に選んで下さい」
「買ってきた人優先です」

少しだけ強めに言えば、やっぱり板橋は笑いながら薄い板チョコの間にチョコムースが挟まれていて二段になっている。形からしても綺麗なケーキをどうにか崩さないようにつかみ皿の上に乗せると、自分もケーキを選ぶ。色々あるけれども、しばらく悩んでからフルーツの沢山乗っているタルトを皿の上に乗せた。ポットから紅茶がカップに注がれて、ダージリンの香りが辺りを漂い始める。

紅茶にケーキ、もしかしたら板橋は割合と食事にこだわりがあるタイプなのかもしれない。料理が上手いのも納得できるものがある。板橋の手から紅茶を受け取り、逆に板橋にケーキの乗った皿を差し出したところで背後の扉が開いた。

「ずるいですよ、二人でお茶して」
「大丈夫ですよ、板橋君の分もありますから」

楽しそうに笑う板橋の横へ前橋は座ると、箱の中を覗き込んだ。

「うわー、凄い美味しそうですね」
「えぇ、好きなのを選んで下さい」

二人の会話を聞きながら立ち上がった私は、キッチンからもう一セットティーカップとソーサーを取り出しテーブルに置いた。そのカップに板橋がポットから紅茶を注ぐと、おやつの時間には少し遅いティータイムになる。

「課長、今帰ってきたんですか」
「えぇ、そうですよ。携帯電話というのはこういう時には面倒なものですね」

しみじみという風情で言う板橋に前橋と二人でつい笑ってしまう。確かに休日の呼び出しほど面白いものじゃない。それが仕事関係となれば更に面白くない気分にさせられるのは自分にも理解出来る。。
板橋は締めていたネクタイを弛めると、カップに手を伸ばして紅茶に口をつけた。

「いただきます」

声を掛ければ板橋の口元が綻ぶ。その笑みが本当に穏やかなものでドキッとする。そんな笑みで見られたらこっちの方が照れそうになってしまい、慌ててケーキに視線を落とすとフォークを手に取る。口に入れるとフルーツの酸味や中に入っていたムースの甘味がバランスよく広がってもの凄く美味しい。

「うわぁ、これ美味しいですね。どこで買ってきたんですか?」

前橋が食べたのはカップに入ったシンプルなムースに見える。

「駅向こうにある少し有名なケーキ屋ですよ。二人に満足して貰えるなら買った甲斐もありますよ」

穏やかに笑う板橋は本当に楽しげで、ついつられてこっちも口元に笑みが浮かんでしまう。それからケーキを食べ終えるまで会社近くのあの店は美味しいとか、あの店は値段よりも余り美味しくないとか、食べ物の話しに終始した。

「あぁ、仕事の話しで申し訳ないんですが、例のセクハラした安芸氏、自主退職扱いになったそうです。北村部長から芹香に謝りの言葉を頂きました」

正直、いきすぎたセクハラだったし処分されて当然だと思うけれども、退職させられたとなれば余り素直に喜ぶことは出来ない。あの年になると再就職もかなり辛いに違いない。家庭もあると聞いていただけに、何とも後味の悪いことになっている気がする。

「それからシロタ工業の田端氏ですが、そちらも昨日付けで退職されたそうです」
「田端さんが? 自主退職したんですか?」
「まぁ、表向きは」

穏やかな笑みを浮かべているけど、どこか楽しそうにも見える板橋に恐る恐る聞いてみる。

「もしかして、何かしたんですか?」

いや、あくまで他社のことなんだから板橋がどうこう出来る問題では無いと思う。思うけれども、時折、この人の奥深さが怖い。

「聞きたいですか?」

営業スマイルになった板橋にそれ以上聞くことなんて出来ない。

「イエ、ケッコウデス」

棒読みでそれだけ答えれば板橋はその方がいいかもしれません、と言って再び紅茶に口をつけた。時折、そういう空恐ろしさを見せるところが板橋の怖いところだ。それにしても、変なところで板橋と前橋は似ている。聞き方とかもそうだし、時折人を置いて分かり合っているところとか、妙に二人が似ていると思うことがある。
また、ここ最近、前橋が余裕を見せるようになってから、更に似ているような気がしてならない。

「課長、月曜日からは五課出勤ですか? 正直、決済書類が溜まっていて佐々木さんがボヤいてました」
「えぇ、午前中は五課に行きます。午後からはまた出ですけれども」
「それは良かったです。正直、月曜日に出てこなかったらどうしようかと思ってたんですよ。何故か部長とかまで五課に来たりしてたんで」
「そうですか。さて、今晩の夕食はどうしましょうか。何かリクエストありますか?」

問い掛ける板橋の眼差しは私を見て、それから前橋へと向けられる。

「はい、和食、和食食べたいです」
「和食ですか。煮物とかそういう物でいいんですか?」
「勿論、そういうのがいいです」

物凄く嬉しそうに言う前橋がどこか子供みたいで、少し笑ってしまう。料理が出来ない前橋にとって、こうしてリクエストを聞いて貰えるのは嬉しいことなのかもしれない。

「それなら私が作りましょうか?」

更に喜んだ顔を見せた前橋だったけれども、次の瞬間には苦笑に変化させると首を横に振った。

「ダメです。芹香さん、まだ病み上がりなんだから日曜日まではゆっくりしてて貰わないと」
「でも、もう全然平気だし」
「平気なな人なら、あんなに眠りませんよ。僕が手伝うんで芹香さんは休んでいて下さい」
「休んでいてと言われても、これ以上休んでたら身体鈍っちゃう」
「前橋君も手伝ってくれることですし、芹香はゆっくり休んでいて下さい。まだ無理しない方がいいですよ」

二人に揃って言われてしまうと、それ以上押し切ることも出来ない。渋々カップをテーブルに置くとソファの背凭れに勢いよくもたれる。

「芹香さん?」
「もう飽きた。ジッとしてるの」

自分でも子供みたいな言い草だと思ったけれども、二人は虚を付かれたような顔をして、すぐに笑い出す。笑われるとは分かっていたから怒ったりしないけど、ちょっと悔しい。

「芹香さん、お風呂入ってきたらどうですか? 少しのんびり、でものぼせない程度に」
「そうですよ。その間に私たちは買い物に行ってきます」

どうやら二人で買い物に行くつもりらしく、そうなると風呂に入るという選択はありかもしれない。しかも二人がいないなら慌てることなくのんびりと浸かれるし、素直に頷くとソファから立ち上がった。

「そうさせてもらう」
「はい、そうして下さい」

立ち上がりついでに三人分のお皿を下げると、手早く洗ってしまう。笑顔で見送ってくれる二人を背に一旦部屋へ戻ると、着替えを用意する。もう夕方だし外に出掛けることは無い。だとすれば、もう具合が悪い訳でもないからパジャマじゃなくて部屋着で全く構わないだろう。そう結論付けると、クローゼットの中からデニムとシンプルなカットソーを取り出すと、下着も用意してから部屋の扉を開けた。部屋から出れば、リビングには前橋一人しかいなくてその前橋に声を掛けられた。

「芹香さん、手、出してください」

言われるままに素直に手を出せば、手の中に入浴剤が落ちてきた。

「ゆっくり浸かって下さい。でも、風邪惹かないで下さいよ」
「うん、ありがとう」

素直に入浴剤のお礼を言ったところで、奥の部屋から私服に着替えた板橋が出てきまず驚いた。何が驚いたって、いつものような落ち着いた服装じゃなくて、デニムにハイネックカットソー、それに上から着たジャケットはベルトとかついていてイメージが余りにも違う。何よりも驚いたのがいつも後ろに流している髪を降ろして眼鏡を掛けていない。もうそれだけで別人のようで、もし外で声を掛けられたら絶対に板橋とは分からない自信がある。

「あ、固まった」

前橋の笑い含みのその声で我に返ると、改めて板橋を上から下まで眺めてからその顔を見上げた。

「だって、見慣れない格好だったら普通驚くに決まってるじゃない。買い物行くだけですよね」
「えぇ、でも、また社内の人間に見られたら面倒ですから、一応変装です。どうですか?」

どうですかとか聞かれても困る。だって、本当に驚いた。確かに風呂上りに髪を下ろしてる姿は見たことあるけど、でも、そういうのとは全然違う。スーツ姿が紳士とすれば、この格好はワイルド系だ。確かにこれなら前橋と歩いていても違和感は無いに違いないけれども……。

「違う意味で大変そうですけど」
「やっぱり芹香さんもそう思う?」
「うん、買い物一つでも二人揃ってたら声掛けられそう」

まだ呆然とした口調で言えば、屈み込んだ板橋が同じ視線の高さまで降りてくると少しだけ笑う。いつもとは違う紳士めいた穏やかな笑みじゃなくて、少し意地の悪い笑みにどんどん心臓が早くなっていく。

「な、何でしょう」
「惚れたりしません?」
「……行って来て下さい」

かろうじてそれだけ言うと、慌てて洗面所へ逃げ込むと扉を閉めた。確かに板橋の言い分は分かる。けど、あれは反則だ。しかも惚れるって、あの顔で言われたら本当に困る。思わず、頷いてしまいそうな自分がいた。
鏡を見れば顔はこれでもかというくらい赤くなっていて、詰めていた息を吐き出した。やっぱり、板橋という人間は心臓に悪い。前橋とは違う方向に心臓に悪すぎる。こんなにドキドキさせられたら、絶対早死にしそうだ。扉を軽くノックする音がしてビクッと身体が震える。

「そろそろ行ってきます」
「気をつけてね」

前橋に答えた自分の声は震えていなかったか、考えてみたけどもう思い出せない。そのまま扉の向こうで足音が遠くなり聞えなくなった。
大きく溜息を吐き出すと風呂へ入り、前橋から貰った入浴剤を入れる。ふわりとバラの香りが風呂に広がり、それだけで頬が緩む。時間を掛けて髪と身体を洗い、ゆっくりと湯船に浸かると自然と溜息が零れた。淡いピンク色のお湯につかり、バラの香りを身体いっぱいに吸い込み手足を伸ばすととても気持ちがいい。

うーん、どうしたもんかな。ここで暮らし始めて一週間、徐々に惹かれている自分がいて、この状況を楽しんでいる自分もいる。怖いくらい居心地の悪さは感じないし、二人はある一定ライン以上踏み込んでくることもない。けれども、付き合いが更に深くなり、もっと二人が踏み込んでくるのであれば自分はどうするんだろう。許容するのか拒否するのか、自分でも分からないのが困る。

多分、好きだと思うけど、二人とも好きという現実はありえないのは分かってる。他人から聞けば、絶対にありえないと思うのに、それなのに自分のこの半端さが分からなくて不安になる。自分のことなのに、自分のことが分からないってどうしようもない。

この状況は居心地良すぎて、無意識に選ばないようにしているのかもしれない。それが一番しっくりする気がする。最初こそ強引だったけど、結局は私の答えを待ってくれている二人に、どうすればいいのか分からずに口元までお湯の中へと沈み込む。息を吐き出してブクブクと泡立たせてみたけど、気持ちが決まることもない。あの二人にはこういう自分の半端な状態を知っているのか、考えてみるけどそれは二人にしか分からないことだ。

風呂の上に斜めに取り付けられた窓を見上げれば、夕暮れから夜へ変化するグラデーションが作られていてそれは綺麗なものだった。

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