安全圏の彼と彼 エピローグ

朝九時、休日ということもありのんびりと目覚めれば、機嫌の良さそうな和臣が迎えてくれる。まだ寝ぼけてて掠れた声で挨拶すれば、いつもと変わらぬ穏やかないい声で挨拶を返される。

「まだ半分寝てますね」
「誰のせいだと……」
「私のせいだけですか?」

少し意地の悪い顔で自分を見る和臣には余裕があり、言われた私は返す言葉もなくただ口をパクパクするしかない。確かに昨晩は自分にも落ち度があった。けど、そうなったのは間違いなく和臣のせいで、自分ばかりのせいでは無い筈だ。けれども余裕の表情でコーヒーを飲む和臣を一睨みしてみたけれども、何でも無いと言わんばかりに笑みを浮かべるだけだ。

一緒に暮らし始めて三年、まだ結婚はしていない。けれども、今はそれで良かった。

二年前、私は本社への栄転となり、今は数名の部下を持つ立場になった。和臣さんは相変わらずあそこにいて、今も課長という立場にいる。
色々と変化したものはある。恋人同士ということを隠すことはしなくなった。自分と和臣が暮らしていることを殆どの人間が知っている状況は、自分で思っていたよりも悪くない環境だった。その間に千里は結婚し退職したし、佐々木は課長になった。随分も周りも変わったし、私の環境も変わった。

和臣の家族とはもう何度か一緒に食事をしているけど、結婚はあと一年待って貰っている。自分の仕事的に、あと一年すれば部下も育ち手を離せる。和臣も家族も分かってくれていて、ようやく最近になって結婚情報誌に目を通すようになった。
何よりも変わったのは和臣で、時折意地悪になったことだった。

「芹香を一瞬にして機嫌よくするものがあるんですが」
「機嫌悪いままだったら今日は一緒に出掛けません」
「自信ありますよ」

差し出されたのは一通の手紙。私と板橋の名前が連名で書かれていて、それは少しだけ予感があった。受け取り裏を返せばそこには懐かしい名前があって、少しだけ心が痛んだ。けれども、あの時のような痛みとは違うもので、じわりと過去の古傷が痛む、そんな感じだった。

封の切られた封筒は既に和臣は目を通したらしく、数枚入れられた手紙を取り出すと丁寧に広げた。お久しぶりですという挨拶から始まり、今は本当に好きなった彼女と同棲していて結婚を考えていると書かれていた。前橋の過去を全て受け止めてくれる彼女を愛していて、結婚式へ招待することへのお願いが書かれていた。文面からも幸せそうな様子が伺えて、じんわりと涙が浮かんでくる。
別れは確かに悲しいものだったけれども、今、ようやく本当に良かったと心から思える。

「ホッとしましたか?」

和臣の問い掛けに頷くことで答えたのは、声を出したら涙が零れそうだったからだ。

「私もホッとしました。あの選択が本当に正しかったのか、私はずっと自答自問を繰り返していました」

まさか、和臣までそんなことを考えていたとは思わなくて、驚きを隠すことなく顔を向ければ苦笑されてしまう。

「私はそこまで出来た人間じゃありませんよ。賭けでもあったんです。三人で暮らすことによって、誰も報われないという結果もあったんですから。でも、良かったです。芹香を手放すことなく、前橋君も幸せになれたんですから」
「手放す覚悟があったんですか?」
「ありませんよ、刺し違えても手に入れるつもりでしたから。でも、正直、今だから言いますけれども、本気になり始めた前橋君に一番焦っていたのは私ですよ」

余りにも意外すぎて少しだけ笑ってしまえば、和臣は少しだけ拗ねたような表情を見せる。こうして素直な表情を取り繕うことなく見せてくれるようになたのはいるからだったのか、もう今となっては思い出せない。

「和臣さんでも、図り違えることあるんですね」
「当たり前です。人の心ほど移ろいやすいものはありませんから。前橋君の結婚式を見るのは辛いですか?」

問い掛けられた意図がよく分からない。だから素直な気持ちを吐露してみる。

「少し前であれば痛む心もありましたけど、今はむしろ嬉しいと思ってます。この返答で満足ですか?」
「えぇ、とても満足です。芹香が前橋君にまだ心を残していたらどうしようかと思っていましたから。こちらからも招待状を送りましょうか」
「彼女さん、嫌な気分にならないですかね」
「全て知ってると書いてありましたし、大丈夫じゃないでしょうか。一応、前橋君に確認してからにしましょう」

前橋のいた部屋はいまだ何も置かれていない。別にお互い口にしたことは無かったけれども、物置としても使えなかった。けれども、もう必要無いのかもしれない。私たちにも前橋にも……。

「さて、前橋君の結婚式も気になりますが、まず自分の結婚式です。私としてはそろそろ芹香の両親にご挨拶をしたいのですが」
「う、うちはまだいいから」
「初めてのご挨拶が結婚式を挙げますでは親御さんも納得されないでしょう」
「反対してません。だから安心して下さい」
「そういう訳には行きません、来週末にはご挨拶に伺いますよ。私の両親からも急かされているんです、芹香さんの御両親にお会いして挨拶をしたいと」
「そんなの必要ありませんから。それに、無理、無理です」
「覚悟して下さい」

ニッコリと笑顔で断言されてしまえばもう逃げ道は無い。別に結婚することが嫌な訳ではない。ただ、年に二度ほどしか連絡を取らない両親の前で恋人を紹介するには酷く恥ずかしい気がした。恋人がいて結婚を考えていることはもう伝えてある。だから必要無いと言っているけど、和臣はもう聞くつもりがないらしい。
ソファの傍らにあるマガジンラックから結婚情報誌を取り出すと、ペラペラとページを捲る。

「新婚旅行はどこにしましょうか。やはり海外ですよね。南海岸とかどうです? それともスイスとかあちらの方へしますか」
「……任せます」
「任せていいんですか?」

口の端に意地の悪い笑みを浮かべる和臣に慌てて首を横に振ると、一緒に雑誌を覗き込む。

「芹香」

名前を呼ばれて顔を上げれば、伸ばした指先に顎を捕まれチュッと音をたてて唇にキスをされる。こういう不意打ちに弱くて慌てて身を引けば、和臣は穏やかに笑う。

「幸せにします。結婚して貰えますか?」

改めてプロポーズをされたのは初めてのことで、差し出された手に自分の手を重ねる。小さくはいと返事をしたけれども、和臣の耳には届いていたらしく穏やかな笑みを更に深くするとその手を引かれて和臣の腕の中で抱き締められる。幸せだと感じる自分に自然と笑みは零れて、徐々に近付く和臣の顔に目を閉じた。

The End.

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