翌朝、仕事場へ向かえばどこかよそよそしい空気が流れていて、突き刺さるような視線と共に迎えられて気分が悪い。一体何が起きているのか分からず営業部へ向かおうとすれば、まるで先日と同じように千里に強引に捕まえられて会議室へと連れ込まれた。
「千里、今日はちょっと忙しいんだけど」
「板橋課長と同棲してるって本当?」
そう言って千里に差し出されたのはA4のコピー用紙だった。それはファックスで送られてきたらしくガタガタの字が並べられていた。
『新橋芹香と板橋和臣は同棲している』
大きな角張った字で書かれたその紙に、一瞬にして頬が強張る。
「ねぇ、芹香。プライベートに踏み込まれたくないみたいだったから余り触れなかったけど、もしかして何か困ったことになってる? 私は相談するには頼りない?」
千里の顔はいつものおちゃらけた様子はなく真剣そのもので、まっすぐに自分を見詰めている。けれども、どうしていいか分からず固まっている私に対して千里は言葉を続ける。
「私、今日お茶当番だったから早めに来たんだけど、全部署にこのファックス流れてるみたいなの。何かして欲しいことある?」
そう言われても思いつくことなんてなくて、ただ首を横に振るしかない。どうしてこんなファックスが流れたのか、どうにもよく分からない。
「芹香、しっかりして。動揺してるのは分かるけど、よく考えて」
「……他の社員、どうしてる?」
「ひやかし半分、嫉妬半分、ってことろ。女子社員からはかなりの確立で反感買ってる。ほら、ついこの間のこともあったばかりだから。男性社員は、落ち込んでる人間も多いよ。芹香、気付いてないみたいだったけど人気あるから」
そう言われても口にされたことが無いから俄かに信じがたい。そして、やっぱり頭が痛いのは女子社員の反応だ。
「それと、板橋課長、このファックスの件で本社に呼ばれたみたい」
本社に呼ばれたというのは果たして親に呼び出されたのか、それとも課長という立場で呼ばれたのか分からない。けれども、余り良い話しではないように思える。
「仕事、無理そうだったら今日は病欠取った方がいいかも」
「仕事はやる。今日も営業回らないといけないし、休んでいられる状況じゃないから」
「針の筵だけど」
「……本当のことだから文句も言えない。でも、一応オフレコにしておいてくれると助かる」
神妙な顔をしていた千里だったけれども、しばらくすると笑顔を浮かべた。
「勿論、それはオフレコにする。だって、初めて芹香がプライベートの話ししてくれたんだし。けど、本当に大丈夫なの」
「休めるもんなら休みたい心境ではあるんだけど、本当に仕事がちょっと拙いことになってて……」
そこまで言った時に、不意に田端の顔が浮かぶ。もしかして、板橋の車に乗った後、田端は後をつけてきたのだろうか。慌ててファックスを手にして送信時間を確認すれば、昨日の深夜に送られてきていることが分かる。後を追いかけて、2人で部屋に入るのを確認してこの紙を全部署にファックスしたのかと思うと、背筋がゾクリとした。
恐怖で鳥肌まで立ち、長袖の上から片方の手でさする。
「話せる? 少し吐き出した方が楽になるかもよ。仕事上のことであれば少しは協力できるかもしれないし」
どうしよう、言うべきなんだろうか。千里の口の堅さは信用しているけど、余り深い付き合いをするのは学生時代を思い出し引いている自分もいる。でも、確かに千里だけでも味方になってくれたら、気持ち的にも随分楽になるかもしれない。
「芹香、無理に言わなくてもいいから。ただ、どうしても助けて欲しい時には声掛けて。ここ最近、芹香の周りバタバタしてるから心配だし」
「うん、ありがとう。本当にどうにもならなくなったら最後に千里を頼ると思う」
「うーん、せめてその1歩手前で相談してくれると、こっちにも出来ることがあると思うんだけどなー」
「分かった、じゃあ1歩手前になった時には話す」
苦笑気味にそれだけ言えば、女の子らしい千里にとても似合う笑顔を見せる。その笑顔に癒される自分がいる。
「仕事、大変かもしれないけど頑張れ」
「うん、頑張る」
「でも、頑張りすぎちゃダメだからね。どうも芹香は頑張りすぎるところがあるから」
そう言われても自覚がないから曖昧に笑うしかない。好きだから仕事を頑張るけれども、頑張りすぎてることがあるんだろうか。
「無理してるように見える」
「たまにね。でも、頑張るだけの結果を芹香は出してると思う」
「ありがとう」
素直に言ったお礼の言葉に重なるように始業開始十分前のチャイムの音にこの間のように慌てて会議室を飛び出した。
「新橋さん」
会議室を出た途端に前橋が駆け寄ってきて、隣に立つ千里へと視線を向ける。
「あの」
「ファックスの件なら今聞いた。……どうしたものかしらね」
「このタイミング、やっぱりシロタ工業なんじゃ……」
「シロタ工業? つい最近聞いた名前なんだけど」
千里の言葉に、思い切り前橋と共に詰め寄ってしまう。
「何があったの」
「えっと、ちょっと待って、つい最近なんだけど……あぁ、そうだ、うちの事務の子がシロタ工業の人にナンパされたとか言ってて、1日付き合ったけど会社のことばかり聞くからその日にバイバイしたって」
「その相手、誰だったか聞いておいてくれる」
「オッケー、後で内線入れる」
それだけ言うと、階の違う千里は慌てて走って行ってしまった。残された自分たちもここでぼんやりしている訳にもいかず、5課へ戻ればやはりここでも微妙な空気が流れているのが分かった。嫌な空気だとは思ったけれども、気持ちを仕事に切り替えると自席に座り、手早く昨日まとめたファイルを取り出す。
「前橋君、今日は全部の顧客を回るから。時期分の契約取れるところはかたっぱしから取って行くからね」
「分かりました。もう出ますか」
「新橋、ちょっといいか」
話し掛けてきたのは入社したばかりにの時に研修でついていた先輩で、前橋がつくまで色々と教えてくれた佐々木だった。
「このファックス、送ってきたのってもしかしてシロタ工業の奴か?」
「いえ、分かりません」
「このタイミングだし、昨日からの嫌がらせを考えれば、どう考えてもそうだろうよ」
佐々木との会話を回りの人間が面白半分に聞き耳立てているのは分かる。けれども、殊更聞かせるように佐々木はわざとらしく溜息をついた。
「面倒なことになったな。まぁ、営業なんてライバル社から見たら恨み買いまくりだし仕方無いけどな。今回ばかりは巻き込まれた課長は災難だっただろうけど」
「それは……」
巻き込まれたというよりかは、事実なだけに何とも言えない顔をしていれば佐々木は気にした様子もなく言葉を続ける。
「夜は戻れないだろうから、今日の接待にはついてけって言われてる。情けない顔してないで、頑張れや。課長も気にするなって言ってたしさ」
どうやら佐々木には板橋から直接連絡があったらしい。そして、佐々木との会話をしている間にも、周りの空気が少しずつ変わっていくのが分かる。恐らく佐々木は周りに聞かせるようにわざわざこの場でこんな会話をしたのかもしれない。そうだった、この人はいつでもこういう分からないようなフォローをしてくれる頼れる人だったと思い出す。
あぁ、フォローされたんだと分かって佐々木に頭を下げる。
「有難うございます」
「別に何の。お前さんの先輩ってことには変わりないんだ。何かあったら聞きにこいや」
「はい、分かりました」
どちらかというと強面の佐々木は周りから敬遠されがちだが、かなり細やかな気配りの出来る先輩でもある。そして、自分は前橋が部下についてから、しばらく佐々木と会話を交わした記憶が無かったことに気付く。それだけ自分は部下が出来たことで気を張っていたのかもしれない。
「行くんだろ。とっとと行ってこい。それから前橋、お前も新橋に迷惑掛けるんじゃねーぞ。血気盛んになるのはいいが、それだけじゃ纏まるもんも纏まらねーぞ」
「肝に銘じておきます」
「ちぇっ、可愛くねー奴」
「可愛く思われたくないですよ。男なんですから」
「バーカ、後輩ってのはどうやったって可愛いもんなんだよ。そういう生意気な口きいててもな。そういう所がまだまだだな」
豪快に笑うと佐々木はそのまま自分の席へと戻ってしまう。言われた前橋は面白く無さそうな顔をしていたけれども、気持ちを切り替えるとこちらへと視線を向ける。
「もう行きますか」
「着替えてくるわ。夜までに全部回りきるわよ。車で待ってて、すぐに行くわ」
「分かりました」
前橋は笑顔でそれだけ言うと5課を出て行ってしまう。そして私はロッカールームで着替えると、すぐに前橋の待つ車に乗り込んだ。
近場から回るということで最初に行った会社は、やはりシロタ工業から契約の話しを持ちかけられたらしく微妙に契約には後ろ向きだったけれども、新たに作成した契約書を提出すればあっさりと契約をして貰えた。けれども、その後に回ったところは断りはしないものの、保留という形にされてしまい余り芳しい結果では無かった。
途中、昼食を挟みながらも軽口叩く暇も無く前橋と営業先を回り、結果8件中、4件契約、4件は保留と散々な結果だった。そして、先日電話で断りを入れてきたリョウヨウはどうにか契約して貰えることになった。やはり電話一本よりも、直接顔を見て話しをすれば長い付き合いであればあるほど、それなりの情もあるから切り難いものだ。
幾ら仕事と感情を割り切っても、人間なのだから情に訴えることも可能だ。勿論、それに向く相手、向かない相手がいるのは当たり前のことだし、胸を張れる遣り方ではないかもしれない。それでも、営業というのはそういうこずるさも必要だし、そういう駆け引きが面白いところもある。
今回のような崖っぷち営業は2度としたくはないけど……。
そんなことを考えながら、昼から交代した前橋の運転する車で移動する。
「これから接待ですね」
「疲れた?」
「いえ、芹香さんの格好良さを改めて感じました」
「仕事中」
それでも前よりもささくれた気分ではなく、どこか楽しい気持ちで言えば前橋はあっさりと謝ってきた。そして謝る前橋もどこか楽しげに見える。
「それにしても惨敗だわ。5割、5割じゃ話しにならないわね」
「でも、随分こっち寄りの会社もあったじゃないですか」
「あてにならないわよ。そういう相手は大抵、直接会うとそちらにフラフラするんだから、契約取れるまではしばらく日参しないと」
それはそれで頭の痛い話しだ。通常の発注業務にプラスして4件の営業先周り、しかも契約したからには契約書類だってわんさか出てくるのだからとてものんびりとは言えない。
「僕も手伝いますから」
「当たり前でしょ、ガンガン手伝わせてやる!」
少しからかいまじりに言えば、前橋は「怖いな~」などと言いながら笑っている。やさぐれてもいい筈なのに、車内はどこか穏やかな空気が流れていた。もし、自分1人でいたら、それこそハンドルなんて叩き壊さんばかりの勢いで運転していたに違いない。
「さて、もう1戦やるわよ」
「気合入ってますねぇ」
「当たり前でしょ。こうなったら絶対に契約とってやる。あのエロタヌキ親父」
つい本音も漏れてしまい、慌てて口を閉ざしたけど隣りで運転する前橋はすっかりツボにはまったのか喉で笑う。先輩としての失言に咳払いなんてしてみるけど、前橋の笑いは止まることを知らない。
「前橋君、笑いすぎ」
「くくっ……でも、エロ親父だと新橋さんが気付いている様子で安心しましたよ」
「当たり前でしょ。あんな舐めるように見られたら女なら気持ち悪くて誰でも気付くわよ」
「もし、僕がそういう目でみたとしても気付きます?」
さすがにその問い掛けに言葉が詰まり、車内に微かに緊張した空気が流れる。けれども、先に口を開いたのは前橋だった。
「……と、仕事中でした。失言です、すみません」
そうやって素直に謝られてしまうと文句も言えない。別に前橋の持つ感情を忘れていた訳じゃない。けれども、ちょっと戦友めいた感情もあり軽口を叩き過ぎたかもしれない。
板橋にしろ、前橋にしろ、決して嫌いでは無いのだ。出来ることなら今のままが1番いいと思っているくらいだけど、いずれにしろこの状況が長続きするとは思えない。
まだ数日のことなのに2人という居心地の良さに慣らされつつある自分に気付いてしまい、何とも言えない気分になる。出来ることなら、この状況のままがいいというのは自分1人の我儘でしかない。分かっているけれども、居心地の良さを手放したくないと思っている自分の曖昧さが少し嫌だった。
それからは当り障りのない会話を交わしながら社へ戻れば、既に17時を過ぎていた。まだ板橋は本社から戻っていない様子で、自席に鞄を置いた所で佐々木が声を掛けてきた。
「戻ったか。そろそろ出るぞ。まぁ、コーヒー1杯飲むくらいの時間はあるがな」
「じゃあ、すいません。1杯飲んでから」
断ってからコーヒーサーバから焦げた味がするだろうコーヒーを紙コップにいれると、椅子に座れば佐々木が椅子に座りながら移動してきた。
「どうだった」
「惨敗です。5割しか取れませんでした」
「ということは4件は契約取ったんだな。これだけ邪魔入って5割なら十分だろ。残り半分はそれとも完全に断られたのか?」
「いえ、一応4件とも保留ですけれども」
「なら、上等だ。あとの4件はゆっくり詰めていけ。まだ契約期限はあるんだからな。焦りすぎると顧客にも恋人にも嫌われるぞ」
からかうような佐々木の声に黙り込むしかない。佐々木と話していると、どうも新人だった頃に逆戻りするような気がしてしまう。それは佐々木の緊張感の無さからきてるものだとは分かって居ても、どうにも影響力が大きい気がしないでもない。
「何だか、新橋さんがどうして強気営業なのか分かった気がします」
「お、何だ前橋」
「絶対に佐々木さんの影響が大きいですよね」
「それは俺に傍若無人だと言いたいのか?」
「そこまで言いませんよ。ただ、ちょっと佐々木さんに憧れますね」
「おう、どんどん憧れろ。俺は格好いい男だからな」
「前言撤回させて貰います」
軽口の叩きあいに笑っていれば、内線が掛かってきて2人に背を向けると受話器を取った。
「はい、新橋です」
「芹香、千里だけど相手の男の名前分かった。田端、田端清司。お得情報になる?」
「凄いなってる。千里ありがとう」
「どう致しまして。今度ランチね」
「了解。ありがとう、助かった」
短い会話で電話を切って振り返れば、2人がこちらを見ていた。
「三上さんですか? 例の件」
「どんぴしゃ。探り入れてたの田端みたいよ」
「田端ってのは例のシロタ工業のか?」
佐々木の問い掛けに言うべきかどうしようか悩んでいたけど、横から口を挟んだのは前橋だ。
「もしかしたらご本人来るかもしれないんですから、説明しておいた方がいいと思うんですけど」
「でも、普通、ライバル会社の接待の席に現れるってありえない気がするんだけど」
「分からないじゃないですか。その場でオロオロするくらいなら言うべきだと思いますけど」
プライベートなことも絡むから、仕事上に持ち出すのは違う気もして口も重くなる。けれども、佐々木は立ち上がると鞄を掴んで「行くぞ」と声を掛けてきた。前橋と顔を見合わせ、それからそれぞれ鞄を持ち5課に残る人たちに
「お疲れ様でした」と声を掛けてから部屋を出た。
廊下を歩き出したところで佐々木は足を止めることなく、前を向いたまま声を掛けてきた。
「早く話せ。俺は待てるほど気が長くない。お前が言わんのなら前橋から聞くぞ」
多分、この人なら実際に前橋から聞くに違いない。可能性を考えるとありえない気がしながらも、田端との再開、出会い、それから田端への疑惑を伝えれば佐々木は押し黙る。話している間に会社を出ていて、会社の前でタクシーへ乗り込むと本日の接待場所である鈴之屋へと向かう。
「でも、来ますかね。田端氏。正直、僕もそこまでは出来ないんじゃないかと思ってるんですけど」
「課長は自信持ってたぞ。そ知らぬふりして来るってな。まぁ、課長が何に確信持ってるかは俺にも分からんが、あの人が来るって言うなら来るんじゃねーのか」
だとすれば、一体どういう言い訳をしながら他社の接待に乗り込んでくるのだろうか。あぁ、可能性があるとすれば、担当者に呼び出されたからという理由であれば乗り込んでくるかもしれない。でもそのためには、かなりの癒着が必要な訳で……だとすれば嫌な組み合わせだ。
「おい前橋、お前客相手に殴りかかったりするんじゃネーぞ」
「ライバル社なら?」
「やめとけ、揚げ足取られたくなかったら遣り返すんじゃネーぞ。向こうに証拠握らす真似すんな。こっちが証拠握ってやれ」
「……佐々木さん、余り前橋に変なこと教えないで下さい」
徐々に微妙な方向へ流れていく会話に口を挟めば、全く気にした様子もなく佐々木は笑う。この人の大雑把だけどこの人の豪快さは嫌いじゃないし、むしろ好感すら持っている。でも、後輩にそういう話しをするのであれば、もう少し営業に慣れてからにして欲しい。
「佐々木さん……結構黒いですね」
「バーカ、営業なんて白いままで出来る訳ネーだろ。徐々に覚えていけよ。まぁ、これ以上色々言うと新橋に怒られそうだから止めとくが」
チラリとこちらを見た佐々木の表情は楽しげなもので、そんな佐々木にただ溜息をつくしかない。
そんな会話を交わしている間に鈴之屋へと到着し、門の前でタクシーを下ろして貰う。和懐石をメインとした鈴之屋の木扉を開けて中へ入れば、涼しげに笹の葉が揺れて緑を楽しませてくれる。笹に両側に従えて石畳を歩いていけば、入り口には旅館のような両開きの扉が開放されており、その前には店の女将が立っていた。
「いらっしゃいませ。新橋さまでいらっしゃいますね」
「はい、今日は宜しくお願い致します」
「楽しんで行かれて下さいませ。芸者をお呼びになるかもとのお話しでしたが、どうなさいますか?」
「一応、予約だけは押さえておいて下さい。もし20時になっても声を掛けなかった場合にはキャンセルをお願い致します」
「分かりました。お部屋はこちらになります」
女将に促されながら後ろを歩いていくと、足元に転がる白い石がジャリジャリと音を立てる。全室個室となっている鈴之屋は接待によく使うし、上の人間はここを商談に使うこともあるらしい。所々、個室では障子越しに灯りが灯り、ささやかな会話が漏れ聞こえるけれども内容までは分からない。
しばらく歩けば屋根が無くなり、外の離れになっている1室へと案内され木扉を開く。音もなく開いた木扉から足を踏み入れると、十畳ほどの和室には席が6つ用意されていて、床の間には生け花が華やかに飾られている。何よりも驚いたのが、入り口とは反対側は庭になっており、小さな日本庭園になっていた。
「あの、確かに個室をお願いはしましたが、ここまでの個室は」
「後から板橋様の方からご連絡を頂きまして、こちらの間をご用意するように言付かっておりましたが」
「じゃあ、いいさ。お姉さん、他にもここに客が来る筈だから宜しく頼むわ。それまで料理も結構だから」
「畏まりました。それでは失礼致します」
落ち着いた笑みを浮かべた女将は深々と頭を下げると、最後に木扉を閉めて出て行ってしまう。いつまでもそこに立っていても仕方無いので、気後れしながらも靴を脱いで座敷へと上がる。畳の香りと木の香りが部屋の中にはあるけれども、どうにも緊張感ばかりが高まっていく。
「こんないい席、経費で落ちるんですかね」
佐々木へと問い かけたけれども、問われた佐々木は方を竦めて見せるだけで壁際に鞄を置くと座布団に腰掛けてしまう。前橋はこういう場に来たことがないからなのか、ウロウロと落ち着きが無い。そういう自分も離れには1度しか来た事がないだけに、落ち着かない気分ではある。
「まぁ、お前ら座れ。緊張するなとは言わネーけど、落ち着く努力はしろ」
何ともバツが悪くて鞄から書類を取り出すと壁際に寄せてから自分も座布団へと腰掛ける。そのまま誰も口を開くことなく時間は過ぎ去り、ノックの音で勢いよく扉へと顔を向けた。
ゆっくりと扉が開き、セキノーの担当者とそれからその後ろには田端がいた。驚きはあるもののそれを表面に出すことはなく立ち上がると、恭しく頭を下げた。
「本日はお時間を取って頂き真に有難うございます」
「まぁ、楽しませてくれよ。何だ、佐々木も一緒か」
「おや、私が一緒では何か不都合がございますか? この度の部下の失態は上司である私の問題でもありますし、同席をお許し頂けませんでしょうか」
鮮やかな変わり身に毎度のことながら舌を巻く思いだが、佐々木は営業スマイルで担当者へ近付くと鞄を受け取り、スーツのジャケットを脱がしていく。今回、担当が自分ということもあり、佐々木は一番末席に座っていることから一番近い佐々木がその役を買って出たのだろうことはすぐに分かった。
田端の方は気にした様子も無く、壁際に鞄を置くと自らジャケットを脱ぎハンガーへとつるしている。先日からのバタバタを考えると怒鳴りつけたい気分だったが、そんなことを表面に出すことなく営業スマイルで当り障りのない挨拶をすれば、向こうからもこれまた見事な笑みで挨拶をされてしまう。どこか勝ち誇ったその顔に蹴りでも食らわせたいところだけど、そんなことをすればどうなるか分かっているだけに営業スマイルのまま膝に乗せた掌を握り締めた。
「本日はどうしてシロタ工業の田端さんもご一緒なんでしょうか」
あくまで田端にではなく担当者へ問い掛ければ、担当者は面白そうなことを思いついたような顔で笑う。でも、その笑みはどこか下卑たもので一層視界から抹消してしまいたい気分にもなる。
「どうせここで契約の話しをするつもりだろうから、こいつも連れて来ただけだ。うちとしては、安ければどっちと契約を結んでも構わんからな。それよりもまずは飯だ。飯食ってから仕事の話しはしようじゃないか」
そんな担当者の言葉で書類を自分と前橋の間に下ろした所で、飲み物が運ばれてきた。着物を着た2人の女性たちが目の前にビールと日本酒を用意し、注ぎながら並べていく。次いで料理が運ばれてきて、奇妙な空気のまま食事は始まった。
仕事の話しは後だと言った担当者は、仕事のグチから始まって、最近出来たパブの話し、それからそれぞれに恋人の話しを振って来る。勿論、こういう時に下手なことを言うとうるさいタイプなのは分かっていたので、曖昧にその質問をかわすとビールに口をつける。担当者は人払いすることもせず、だからといって酌を要求することもなく、素直に料理を楽しんでいるように見える。ただ、時折自分を見る目に嫌な成分を交じっているのも感じてはいたが、それは全て見て見ぬふりを決め込み最近のニュースやらの話題も軽く振っておく。
元々担当者が相当なゴルフ好きなことは知っていたから、ゴルフの話題は欠かせない。けれども、実際に自分はゴルフをやったことが無く、もっぱらゴルフの話題の相手は佐々木だったので、その間に美味しく料理は頂いた。そんな自分を結構図太い神経をしていると思いつつ、田端へと視線を向ければ丁度こちらを見ている田端と目が合う。
途端に田端の口元には薄く笑みが浮ぶ。その冷ややかな笑みに、思わずグラスを持っていた手が止まる。
短い付き合いではあったけれども、田端の冷ややかなその笑みは見たことも無いものでその空気に飲まれそうになった所で田端はこちらから視線を外した。
課長の言う恨まれてるは案外外れていなかったのかもしれない。少なくとも、田端の視線は好意的とはとても言えるものでは無かった。奇妙ながらも和やかに食事を終えると、担当者はここでようやく人払いをすると室内には5人だけが残されて沈黙が落ちる。
「さてと、酒も入って気分が良くなったところで仕事の話しでもしようか」
その言葉にすっかり酒以外片付けられたテーブルに書類を置くと、同じように田畑も書類をテーブルの上に置いた。
「で、うちとしては安い方との契約をしたいところだが……まぁ、何か他につけてくれる、というのであれば金額ばかりに目を向けるつもりは無い。なぁ、新橋さん」
そう言って担当者はグラスのビールを一気に飲み干してしまい、顔は笑顔のまま担当者に近付くと瓶ビールを担当者のグラスに傾ける。
「安芸さんは何をお望みなんでしょうか?」
「君なら分かるでしょ」
担当者である安芸の手が伸びてきて、正座する膝に触れる。途端に前橋の空気が変わったのが見えて、動こうとする前橋を睨みつけてその行動を止める。佐々木の方は口を出すつもりは無いのか、それとも自分がどうするのか見極めるつもりなのか、動く様子も無い。
「きちんと口にして下さらないと分かりませんわ」
殊更女性らしく口元に手をあててクスクスと笑えば、安芸の手は更にスカートの裾に向かって手を滑らせる。
「それはずるいですよ、安芸さん。僕に勝ち目が無いじゃないですか。僕の身体じゃ安芸さんには喜んで貰えませんし」
「君のところは値段の交渉だな。ただ、新橋さんが私に一晩付き合うというのであれば、君との契約はご破算だが」
「うーん、痛いところをついてきますねぇ。じゃあ、この契約から単価3%引きでどうでしょう」
テーブルの上を滑らすようにして田端は安芸の前へと契約書を開いたけれども、安芸はちらりと見ただけで再びこちらを向いた。
「新橋さん、もし、君が今夜1晩付き合ってくれるというのなら、うちとしてはエーツーさんと2年契約を結んでもいいと思っているんだよ」
1年4期として1期契約をメインとしている自分にとって、2年契約というのは喉から手が出るほど欲しいものでもあった。けれども、その為に身体を使う、という方法は天秤に掛けるまでもない。何せ2年契約なんてものは存在せず、もし安芸が部署を変わってしまえばただの口約束に過ぎない。
「安芸さん、それは出来ない相談というものですよ」
「でも、芹香ちゃん、恋人いなくて身体が寂しいんじゃないの」
……このタコ親父、本当に殴り飛ばしたい。
そんな気持ちながらも笑顔で一旦身体を引くと、契約書を引き寄せて安芸の前へと開いておく。
酔っ払いエロ親父を相手にしなければいけないことは何度もあった。最初こそカルチャーショックで泣いたりしたこともあったけれども、たかがセクハラ、割り切ってしまえば踏み込ませない位置というのも経験で覚えた。
「うちもこの金額であれば、セキノーさんのお目に止まると思いこの額にしたんですけれども」
「うーん、芹香ちゃんが今晩付き合ってくれるなら、前の金額でもいいと思うけど」
「安芸さん、うちは論外ですか。まぁ、新橋さん相手じゃ確かに敵わないでしょうけど、少しは契約書を見て下さいよ」
「芹香ちゃんがダメって言うなら考えるから」
「じゃあ、うちの負けじゃないですから。新橋さんならお付き合いするに決まってますし」
……なっ! 何を言い出すんだ、こいつは。
一瞬だけ笑顔が消え去り、冷ややかな視線を田端に向ければ、田端は勝ち誇ったような顔をこちらへ向けた。
「だってそうでしょ? 学生時代、あれだけ遊んでいたんだから。安芸さん相手なら足開くくらい何ともないでしょ」
田端の言葉でその場の空気が一瞬にして凍ったのが分かる。そして、言われた私自身も、余りの言葉に言い返そうにも言葉に詰まる。
誰もが身動き取れずにいれば、扉をノックする音がしてそちらに目を向ければ、そこに現れたのは板橋ともう一人。
「楽しくやっているか」
にこやかに入ってきたのは、安芸の上の上司、直属の上司よりも更に上である北村部長が現れたのだから更に場は凍る。そんな中でもいち早く動いたのは佐々木だった。
「えぇ、勿論楽しくお話しさせて頂いてますよ」
立ち上がった佐々木に釣られたように慌てて安芸が立ち上がり上座を譲れば、遠慮することなく北村がそこへ腰掛けた。さすがにこの展開は考えてもいなくて呆然としていれば、目の前に座る北村は穏やかな年相応の皺を寄せながら微笑んでくる。
「驚かせてしまったかな」
「すいません、正直、驚いてしまって。ごぶさたしています、エーツーの新橋です。こちらが部下の前橋になります」
「初めてお目に掛かります。前橋と申します」
すっかり空気に飲まれていたらしい前橋は慌てて名刺入れから名刺を取り出すと、北村の席まで回り込んでから名刺を差し出した。
「そうか、あの新橋さんにも部下が出来ましたか」
「はい、お陰様で頑張らせて頂いております」
北村に初めて会ったのはかれこれ四年前に遡る。佐々木に連れられセキノーへ挨拶をしにいった時にも柔和な笑みを浮かべる穏やかな紳士だったことを覚えている。それからは担当者に会うばかりで偶然セキノー内で年に1回会うか会わないか、というくらいにしか顔を合わせていない。それでも、顔を覚えられているのは嬉しいことでもあった。
「今回は継続契約をするかどうか、ということだったが」
そう言って北村は田端へと視線を向けると、田端も名刺を取り出し北村へと差し出した。
「シロタ工業の田端と申します」
営業スマイルで北村に名刺を渡す田端は先ほどとはまるで別人のように見える。佐々木の横へ腰を落ち着けた板橋をちらりと見れば、途端に目が合い微笑まれてしまう。その笑みがいつもよりも優しい穏やかなもので、何だか居心地悪い気がして視線を北村へと移す。
「ところで安芸君」
北村はてっきり契約の話しに入るのかと思えば、安芸へと視線を向ける。隣りに座る安芸は途端にビクリと身体を揺らし「な、何でしょう」とどこか不安げな顔を見せる。
安芸のそんな落ち着きのない顔は始めてみた。いつでも不遜で態度の大きな安芸ではあるが、上司ともなれば媚びへつらう性格らしい。それだけでも、身近にいてほしくないタイプの人間だ。
「私はね、常々セクシャルハラスメントというのを許せるタイプでは無くてね」
余りにもタイミングの良すぎる話しに北村を凝視してしまえば、視線に気付いた北村はこちらをちらりと見ると申し訳無さそうな顔を見せる。柔和でどこか上に立つ人間のオーラを纏った北村には余り似合わない顔でもあった。それと同時に、北村は私が安芸にセクハラされていることを知っていたらしいことに気付いた。
「社内の女子社員からもクレームが出ているし、何故君の担当者は新橋君以外女性がいないのか説明して貰おうか」
「そ、それはたまたまた営業担当者が男ばかりだったというだけで」
情けないほどオロオロしながらハンカチを取り出した安芸は、額に光る汗を拭っている。
「ほぉ、だが、最初は女性も半数はいた筈だが」
「いえ、だからそれはたまたま」
「それなら、社内から上がっている女子社員へのセクハラ疑惑はどう説明する」
「セクハラなんて、私がすると思いますか」
「実際にしていたではありませんか。新橋さんに」
どうやら、この場はどこからか見られていたらしい。ということは、仕組んだのは板橋に違いないと視線を向ければ、板橋は頑なにこちらを見ようとはしない。視界の端では前橋は自分よりも更に鋭い視線で板橋を睨むようにして見ていたけれども、そちらへも視線を合わせようとしない。
真っ直ぐ、安芸だけを見ていて、その顔にいつもの穏やかな笑みは無い。無表情とも言えるその目は眼鏡の越しでも強いもので、視線だけで射抜かれそうな空気さえ孕んでいた。
「それは、その……ぜ、全部、こいつが悪いんだ! こいつが、新橋さんならすぐに出来るとか言いやがるから!」
唾を飛ばす勢いで顔を真っ赤にしながら田端を指差す安芸は、どう見ても滑稽だった。そして、指差された田端は安芸を見るなり、無表情だった顔に営業スマイルを浮かべる。
「私がそんなこと言う訳が無いじゃないですか」
その言葉に動いたのは動いたのは前橋だった。立ち上がろうとしかけた前橋だったが、隣りに座る佐々木にネクタイを掴まれ佐々木を睨みつける。けれども、佐々木は鋭い目で前橋を睨みつけると、立ち上がり掛けた前橋が座り直した。その表情からも怒り心頭だということは分かったけれども、佐々木は前橋の腕を掴み離すことはしない。
「どうも商談のお話しをする雰囲気ではありませんので、今日はこちらも失礼させて頂きます。北村部長、改めて契約の件で会社へとお伺いさせて頂きたいと思います」
「必要はないよ。君の言葉も聞いていたのでね。私は他人を安易に貶める言動をする人間と付き合う気はないのでね」
強い北村の視線に物怖じすることなく田端は笑みを浮べと、少しだけ肩を竦めて見せる。
「それは残念です。失礼致します」
それでも礼儀正しく田端は一礼すると立ち上がり、部屋から出て行った。
鮮やかな引き際と、あの笑みに薄ら寒さすら覚える。恐らく、安芸が言うように田端はそそのかすようなことを言ったに違いない。先ほど私言ったような言葉と同じような意味を持った言葉を安芸に……。
一体、自分はどれほどあの男に恨まれているのか、考えると背筋が寒くなってくる。
「新橋さん、今回も君のところで継続契約させて貰えるかね」
穏やかな、けれども申し訳無さそうな北村の声に気持ちを切り替えると、笑みを浮かべて北村を見る。営業スマイルじゃない、本当に自然な笑みが浮んでいた。
「勿論、ご要望がある限りこちらとしては契約して頂けたら嬉しい限りです」
「そうか……すまなかったな、うちの部下が」
「いえ、北村部長に謝って貰う訳にはいきませんよ。何せ契約して頂けるんですから」
「しかし……私は今から君に酷いことを言う」
「何でしょう」
「このことは他言無用にして欲しい」
別に今となってはどうでも良かった。いや、どうでもいいというのは違う。北村が本気で頭を下げる姿を見たら些細なことのように思えてきてしまったのだ。柔和なおじさんという印象の北村だが、セキノー内では実力者と聞く。そんな北村が本当に申し訳なさそうに頭をさげる姿を見てるのが少し辛かった。
部下の失態は上司の失態。部下である自分としては、北村の姿は明日の板橋の姿かと思うとそれ以上責める気にはなれなかった。
「顔を上げて下さい。勿論、ここでのことを他言するつもりはありません。うちとしてもセキノーさんは大切なお客様なんですから」
「だが、客だからといって許されないことだとは分かっている。そこに漬け込んでいる自覚があるだけに、自分でも本当に嫌なお願いをしていると思う」
「大丈夫です、分かってますから。だから顔を上げて下さい」
部下の失態に言い訳することなく頭を下げる北村は潔く、不快に感じることは無かった。もし、安芸を責めることなく言われたのであれば、恐らく自分だって納得はしなかった。けれども、部下を格下とも言える自分たちの前で叱責してくれたことだけで、自分には十分に思えた。ゆっくりと顔を上げた北村に、笑顔が崩れることは無い。
「大丈夫ですから」
「本当にすまない。安芸は明日から謹慎処分にし、おってどのような処分にするのか決めることになる。処分が決まった時には新橋さんにもきちんと報告させて貰おうと思う」
別に今更報告なんてどうでもいいように思えた。けれども、心底申し訳無さそうな北村に対して短くはいと答えたところで、板橋がようやく口を開いた。
「北村部長、契約は後日ということで我々はこれで失礼しようと思います」
「あぁ、そうしてくれ。本当に申し訳なかった」
「私への謝罪は必要ありません。新橋も納得している様子ですので、今日はこれで失礼致します」
板橋が立ち上がり頭を下げるのに習い、私達も頭を下げるとそのまま荷物を片付けて個室の外へと出た。生温かい風が吹き抜け、扉を閉めると同時に風は止んだ。無言のまま鈴之屋を後にすると、そこから少し歩いたところで唐突に前橋が板橋の胸倉を掴む。
「あんたどういうつもりだ! 芹香さんをおとりにしたのか!」
それに対して板橋は何も言うことなく、前橋の手を振り解くこともしない。そんな2人に対して割って入るべきか、どうするべきか判断に悩んでいる間に2人の間に佐々木が割って入り前橋の手を板橋の胸倉から強引に外させる。
「どうして、あの場であんたは黙って覗き見るようなこと出来たんだよ! もっと早く来てれば」
「落ち着け前橋。そりゃあ課長だって出てきたかったに決まってるだろ。もっともおとりなんて真似、新橋さんにさせたくなかったのは課長だって同じさ」
「はっ、おとりかよ」
「そうだ。課長は頼まれてたんだよ。北村部長に」
沈黙が落ち、周りの喧騒はやけに耳に遠い。けれども、その場で誰も口を開くことは無い。ただ重い沈黙がその場を支配しているように感じる。
「だからって、芹香さんをおとりにするような真似どうして出来るんですか!」
「ガキ」
前橋の激昂する声に静かに被せたのは佐々木だった。
「何だって!」
「ガキだからガキって言ったんだ。それを言うならお前だって同じ穴の狢だ。だったら、あの時どうして安芸を殴り飛ばさなかった。少しでも考えなかったのか、安芸が客だからとか」
「それは……」
言葉尻を窄めた前橋はそれ以上言うことなく、持っていた鞄を振り上げると近くの電柱を殴り飛ばす。その行動だけで前橋が本気で怒っていることは分かる。
そして板橋は、自分を見ると泣きそうな顔で笑う。その笑みは何故か酷く心に痛い。
「すまなかった、新橋さん。田端のことを北村部長の耳に入れておこうとしたら、逆に安芸のことを頼まれた。君をおとりにするようなことをしてしまって本当に申し訳なかったよ。けれども、あの人には私も恩があって断れなかった。君に殴られても文句は言えない」
多分、本当は嫌だったんだと思う。板橋は他人を楯にして何かをすることを嫌う。それは上司と部下として付き合った何年かで知っている。だから、本当にこんなことを引き受けるのは嫌だったに違いない。
さすがに田端の言葉には度肝を抜かれたが、セクハラくらいと思っていた自分にとっては板橋にそんな顔をさせるは申し訳なかった。
「君にこういうことをさせて私は上司として失格だと分かっている。本当に申し訳無かった」
聞いている方が辛くなるような声で、ただ頭を下げる板橋のつむじを見下ろすしかない。ここで大丈夫と言って板橋が納得するとも思えない。潔い人だから、それこそ責任を取って辞職してしまうくらいやってしまいそうな気がする。
時々不敵だし、人を混乱させるようなことを言うし、強引だけど、嫌いじゃない。何より5課にこの人がいなくなるのは困る。
「課長、顔を上げてくれませんか」
私の言葉にも板橋は顔を上げることをしない。けれども、今の私にはこんな方法しか思いつかなかった。
「顔を上げて下さい。殴れませんから」
「おい」
慌てたのは佐々木だったけれども、板橋は顔を上げると神妙な顔で自分を見下ろす。ゆっくりと手を伸ばして銀縁の眼鏡を板橋の顔から外すと折り畳み鞄へ引っ掛けると、手を振り上げてから板橋の頬を叩く。
手加減はしなかった。全く腹が立ってない訳では無かったから。
派手な音が辺りに響き、通行人がこちらを向くのは見えたけれども自分を見下ろす板橋にニッコリと笑みを浮かべる。
「気が済みました、どうぞ」
鞄に引っ掛けてあった眼鏡を差し出せば、板橋はどこか呆然とした顔をして眼鏡を受け取る。夜目にも板橋の頬は赤くなっていて、明日には脹れるかもしれない。けれども、今、これしか選択肢が浮ばなかったんだから仕方が無い。
「くっ……くくくっ、やっぱりお前いいわ」
場違いにも笑い出したのは佐々木で、すぐ近くで前橋も板橋も呆然と佐々木を見ている。
「まぁ、新橋がいいと言ってるんだからこれでいいんじゃないですか。まぁ、もっとも痴話喧嘩をしたいなら家に帰ってやれって話しですけど。さて、俺はもう用も無いし帰りますよ」
「いや、送って行きますよ」
我に返り慌てたように板橋が声を掛けたけど、佐々木はまだ笑いが収まらないのか肩を震わせながら背を向けて歩き出す。
「いやですよー。俺、馬に蹴られる趣味無いっすから。前橋、それ以上課長責めるなよ。お前の不甲斐なさが浮き上がるだけだから。んじゃ、お疲れさまっしたー」
笑い交じりの佐々木にお疲れ様でしたと声を掛ければ、振り返ることなく軽く手を上げて佐々木は帰ってしまった。板橋を見ればやはりどこか納得行かなそうな顔で自分を見下ろしている。
「怒ってますよ。でも、それは黙ってたことに怒ってるだけで、おとりにされたこと事態は怒ってません。これでセキノーのセクハラ親父がいなくなると思えばバンバンザイですから」
「けれども」
「私がいいと言ってるんですからいいんです」
手を腰にあてて偉そうに言えば、しばし表情を無くしていた板橋にようやく笑みが戻る。その笑みは苦笑ではあったけれども、いつもの板橋に見える。
「それから前橋、あんたはよく耐えた」
そう言って、数歩離れたところにいる板橋に近付くと背伸びして頭を撫でてやる。
「……子供っすか」
「別に、誉めてるだけよ。お陰でセキノーとの契約は取れそうだし」
「芹香さん、契約の為にあのエロ親父に手篭めにされるつもりだったんですか」
どこか気落ちした前橋の言葉につい噴き出してしまう。
「て、手篭めって、随分古い言葉使うのね。でもされるつもりなんて無かったわよ。ずっと心の底でエロジジーで叫んでたくらいだし、想像だけで十回は飛び蹴りしてたわ」
笑顔で言い切れば前橋はどこか情けない顔をして自分を見下ろしている。
「さて、帰りますか。課長、乗せてって下さい」
いつもよりも少しテンション高く板橋に声を掛ければ、穏やかな笑みを浮かべた板橋と視線が合う。
「はい、分かりました」
その返事を聞き、板橋の後ろについていくように歩き出す。横にはまだどこか納得行かない顔をした前橋もいる。
「ところで、課長は佐々木さんにこの関係伝えたんですか」
「えぇ、発端が発端だったので、彼にだけは説明しました。口は堅いから安心して下さい」
「まぁ、それは信用してます」
佐々木はがさつそうに見えてあれで案外口は堅い。それは自分だって知っているし、自分よりも付き合いの長い板橋ならよく分かっているに違いない。
全ての謎が解けてしまえば、どこか清々しい気分で道を歩く。夜風は火照った頬に気持ちがいい。時折すれ違う人たちは、どこかで酒が入っているのか顔の赤い人たちが多い。時折目に痛いくらいの派手な看板があったり、シックな扉があったりするけどそれらを視界に入れながら歩いていく。
街灯に照らされながら3人で歩く。何となくそれがいいと思った。夢であると分かってはいるけど、こうして3人でいつまでも歩いていられたらいいと漠然と思った。