営業先であるコースイから前橋と共に出た途端「新橋さん」と名前を呼ばれて立ち止まる。振り返れば、スーツ姿の男が立っていてこちらに駆け寄ってくるのが見える。割合と営業という職業柄、人の顔を覚えるのは得意としているけれども頭の中にある営業先人物一覧にこの顔は載っていない。だとすれば、もっと過去に出会った人間だろう。
「久しぶり。えっと、覚えてるかな? オレ、田端。ほら大学時代に山城の紹介で」
そこまで言われてようやく頭の片隅から、田端という名前を引っ張り出すことに成功した。けれども、それが誰か分かった途端、憂鬱な気分になってしまったことを顔には出さず笑みを浮かべた。
「お久しぶりです」
「最初、新橋さんだって分からなかったよ」
大丈夫です、私も全く分かりませんでしたから、内心そんな答えをしながらも営業スマイルを浮かべた。
「てっきり新橋さんは秘書とかそっちに行くと思っていたから営業してるなんて意外に思えて驚いたよ」
「そうですか?」
「だって、営業みたいな部署で売上争いするよりも、秘書とか事務とか、そういう穏やかな仕事をしていると思ったから」
確かに大学時代の自分を思い返せば、そう思われていても仕方ない。人当たりよく、出る杭にはならず、男を立てて、そういうある意味可愛げのある女ではあった。そんな自分が嫌いだったけど。
「エーツーの稼ぎ頭らしいけど、本当?」
「ご想像にお任せしますわ。まだ仕事中なので失礼します」
口調を崩すことなく、ニッコリと笑みを浮かべると背後に立つ前橋に視線を向けた。
「次、行くわよ」
言われた前橋は、胡散臭そうな視線を隠そうともせず田端を見つめている。
「前橋君」
名前を呼ばれてハッとしたのか、慌てて前橋がこちらへと視線を向けた。用件は終わりとばかりに歩き出そうとした所で、肩を捕まれて振り返る。てっきり前橋かと思っていたが、予想外にも肩を掴んだのは田端だった。
正直、この男に余りいい思い出は無い。いや、思い出を語るだけの付き合いというものが無い。
学生時代に友人だった山城の紹介で引き合わされたが、この男はその時点で二又を狙っていた馬鹿男だった。元々恋人を作ることに前向きでは無かったこともあり、友人からという付き合いだったのだが10日ほどで田端の恋人が大学まで乗り込んできた。泥棒猫やら、淫乱やら、散々貶した挙句、最後には田端自身がその恋人を大学から引き摺るように連れ帰った時には、もう田端という男と友人という地位すら望まなくなっていた。
田端から何度か連絡があったけれども、それに対して折り返し連絡するようなことは無かった。勿論、後日紹介者である山城は謝罪してきたが、どうやら田端に恋人がいることを知りながら紹介してきたらしく、馬鹿らしさに山城自身とも縁を切った。勿論、女ばかりの大学で周りの目もあるから、徐々に距離を置いた、というのが正しいかもしれない。
だから、自分に取って、田端という男は何ら興味が引かれる対象では無かった。
「何でしょう?」
あくまで営業スマイルで対応すれば、田端は掴んだ手を離すことなく空いた方の手で名刺入れから1枚名刺を取り出し差し出してきた。
「オレ、今ここにいるから」
渡されても正直困る。けれども、あくまで営業先であるコースイ前ということもあり、コースイの人間であるなら名刺は貰っておいた方がいいに違いない。だから受け取ったけれども、名刺にある社名を見た途端に不快さは倍増した。
シロタ工業 営業八課 課長 田端清司――――。
それは奇しくも今日の朝、板橋との会話に出てきたばかりの社名だった。
「コースイさんには今日は営業でいらっしゃったんですか?」
不快ではあるけど、敵情視察は常に営業として必要なものだ。けれども、意外なことに田端が口元に薄く笑みを乗せると小さく肩を竦めた。
「いや、ただの付き合い。オレはここの担当じゃない。入り口で待っていたんだけど、たまたま新橋さんの姿が見えたから声を掛けただけ」
いや、田端の言葉は嘘だ。少なくとも、大学時代の自分を知っている人間は、今の自分を一目で分かるとは思えない。会社にいる時ならまだしも、今は営業用にスーツも着用しているし、インパクトのある髪はアップにしてまとめてある。
何よりも、学生時代に比べて、営業用の化粧をしているのだから何年も会っていなかった田端が分かる筈は無い。
「そうですか」
「新橋さんは名刺、くれないのかな?」
「必要あるとは思えませんけれども? 少なくとも、私がどこの会社にいて、何をしているか分かっている様子ですから」
幾分、唖然という顔を見せた田端に、営業してる男が間抜け面晒すな、と言ってやりたい気分になる。少なくとも、幾ら驚いたとしても、外に出れば多少の驚きや怒りなんてものは笑顔で隠し通すものだと思っている。
「ず、随分、新橋さんは変わったね」
「社会人にもなれば当たり前だと思いますよ。学生ではありませんから」
「あのさ、もし、今度暇があれば」
会話にうんざりしていた所に携帯が鳴り出し、慌てて鞄の外ポケットから取り出し画面を見る。そこに表示されているのは前橋の名前で、田端との会話を遮るように通話ボタンを押した。受話器から聞えてくるのはガサガサという耳馴染みの無い音だが「はい、新橋です」と答え、何も言わない受話器に相槌を打ってみる。
「えぇ、そうですか。分かりました、すぐ戻ります」
携帯を手早く切ると前橋へと視線を向けた。
「すぐ社に戻るわ」
それから改めて田端へと視線を向けると口を開く。
「申し訳ありません。仕事中なので失礼します」
最後に笑顔で一礼することも忘れず、足早に田端の前から立ち去った。向かったのは来客用の駐車スペースで、鍵を開けて乗り込めば助手席に前橋も乗り込む。
「助かったわ、有難う」
「いえ、大したことしてません。けど、誰です、あれ」
前橋の問い掛けに手にしたままの名刺を隣の前橋に渡すと、手早く車のエンジンを掛けて車をスタートさせた。
「これ、今日課長が言ってた会社ですよねぇ。あ、いや、そうじゃなくて、知り合いですか?」
「大学時代の知人。いや、知人枠にも入らないくらい遠い人ね」
「何ですかそれ」
唇を尖らせて不満げな前橋が子供みたいで、少しだけ笑ってしまう。ルームミラーに映る田端の姿は徐々に小さくなり、そしてすぐ視界から消えた。
「知人の知人ってところよ。だから知人枠に入らないのよ」
「でも、随分親しそうに話し掛けてきましたけど」
「話すきっかけが欲しかった、って所じゃないかしら。今、うちがコースイとの契約持ってるから」
課長クラスの人間が、あんな場所にボーッと立ってるともは思えない。しかも、向こうは自分がエーツーに勤めていることを知っていた。恐らく、事前に自分のことを確認していたに違いない。
「昔の知人まで引っ張り出すことあるんですか?」
「時と場合により。けれども、同じ営業先で同じ商品扱う人間がやるのはタブーよ。あくまで持ちつ持たれつ」
別に知人ではなく別会社の人間でも、それなりに顔を合わせていれば情報交換をすることもある。お互いに欠品が出れば補充をお願いすることもあるし、紹介することだってある。けれども、まだ顔つなぎすらしていない信用すらない人間と情報交換するつもりは全く無い。している人間もいるのかもしれないけれども、自分はそこまで他人を信用は出来ない。
信用をするにはまず、会って、話して、それからだ。いきなり、あんな探りを入れてくるような遣り方は好きじゃない。いや、好きじゃないどころか、問答無用でお断りだ。
「仲良くしたそうな雰囲気ビシビシしてましたけど」
「そうね。こっちはお断りだわ。それに営業の課長があの話術じゃたかがしれるってものよ」
「確かに。けれども、昔の知人だから、とか」
「無いわね。少なくとも、営業先で営業の人間に会ったとしたら、例え友人だろうと、知人だろうと、弱味を見せるような真似はしないわ」
隣に座る前橋は大きく溜息をつくと、背凭れに身体を預けた。信号で止まり前橋を見れば、自分の顔をマジマジと見ている。
「何よ」
「仕事中の芹香さん、やっぱり怖~」
少しふざけたその物言いに、やっぱり営業スマイルを向ける。
「怖くて結構。嬉しい誉め言葉だわ。それよりも、次、セキノーに行くわよ。忘れた書類、無いでしょうね」
「ありませんよ。そんなヘマしたら嫌われそうですから」
「よく分かってるじゃない」
そんな軽口を叩きながら、車を営業先の1つであるセキノーへ向けた。けれども、セキノーの納品担当者から言われたのは予想していなかった言葉だった。
「うーん、正直、今、3期目はエーツーさんに頼もうか迷ってるんだよねぇ」
正直、セキノーは私にとっては大きな取引のある営業先の1つで、今までこうして渋られたことは無かっただけにかなり驚いた。当たり前だが、担当者と相対している前橋は驚くところの話しじゃない筈だ。それでも、顔に出さなかったのはさすがと言うべきなんだろうか。
「何かうちの商品に問題でもありましたか?」
「いやぁ、別に問題という訳じゃなくてね……」
そう言って担当者が自分を見るのが分かった。舐めるような視線というのは、まさにこのことを言うのかもしれない。
「おたくよりも、値段が安くていい物を納品してくれるところがあってさぁ。その他にも色々あってねぇ」
どうやら値段だけでは無く、接待をしろと遠回しに言っているらしい。心の中ではこのエロ親父と罵りながらも、営業スマイルを崩すことは無い。
「そうですか、今のままでは本日契約は頂けない、ということでしょうか」
「そうだねぇ、せめてもうちょっと値段下げるとか、誠意を見せてくれないとさぁ」
蹴り飛ばしたい、今すぐこの親父を蹴り飛ばしたい。営業をしていれば、こんなことは日常茶飯事だ。けれど、ここで怒れば自分の立場も不味くなるし、何よりも負け確定だ。
「分かりました。では明日、もう一度伺わせて貰っても宜しいでしょうか」
「それはもう、全然構わないよ。いい話し、待ってるから」
下卑た笑いを浮かべる担当者に、それでも笑顔を崩すことなく挨拶をすると応接室を出た。もし、自分1人であったなら、それこそ車に乗った途端に叫び出していたに違いない。
けれども、今はそれよりも先にやることがあった。
「ごめん、前橋でも今回は契約取れると思ったんだけど」
「いえ、勉強になりますよ。こういうこともあるんだって。ほら、性別違えば、僕だってありえることですし」
「そう言われると少し気が楽だわ」
それでも気持ちはかなり憂鬱で、ハンドルに腕を乗せると更にその上に自分の額を乗せた。
「ごめん、10秒。気持ち切り替えるから」
「……はい」
静かな車内の中で、頭はめまぐるしく動く。少なくとも、安定供給になっていたことで自分自身も安心しきっていた所もあったのは確かだった。気付くのが遅れたのは自分の情報収集不足に他ならない。
だからといって、このまま放っておく訳にはいかないくらいには自分の受け持ちの中でも大口の客先だ。だとすれば、自分が何をするべきか――――。
気持ちを切り替えると顔を上げて前橋へと笑みを浮かべる。
「社に戻るわ。課長にも相談しないとならないし、ついでにどこか横槍入れてきたのかも調べないと。まぁ、予想はつくけど」
「シロタ工業、ですか」
「現時点ではそれが一番可能性が高いわね。新規参入会社だし、よっぽどうちの売上が欲しいのかもしれないわ」
「売上、ですか」
トーンの落ちた前橋の声にチラリと視線を向けたけれども、前橋はそれ以上何も言うことなくただ前を見ている。だからこそ、自分も口を噤むと営業車のギアをドライブに入れた。大した渋滞にかかることもなく、足早に5課へと戻ると鞄を机に置くとすぐさま書類を手にしたまま前橋に声を掛けた。
「ちょっと製造部に行って打ち合わせしてくるわ」
「分かりました。僕は、課長に報告しておきます」
「頼んだわ」
前橋に報告を頼むと、その足で製造部に押しかけ、相手が示してきた金額について相談をする。製造部としても顔を渋らせたものの、大口契約ということもあり、今後の利益を考えてお互いの妥協ラインを探す。
結局、打ち合わせが終わったのは夕方といわれる時間だった。今日、書類以外の予定が無かったことにホッとしながらも5課へと戻れば、扉を潜った途端に板橋に呼ばれ机の前に立つ。
「はい、何でしょうか」
「前橋君から聞きました。随分足元を見られた様子ですね」
「いえ、私にも不備があり、申し訳ありませんでした」
「起きてしまったことは仕方がありません。向こうが接待を望むのであれば、接待の場くらいは設けましょう」
今まで年に数回接待の場を設けることはあったけれども、あそこまであからさまに接待を望まれたのは初めてのことだ。しかも、あの視線を考えるとうんざりとした気分になってくる。
「接待には私も一緒に行きます」
「そこまでは……大丈夫です」
「上司としてそれくらいは当然です。それからこの方」
そう言って板橋が差し出してきた名刺は、先ほど田端から貰ったばかりの名刺だった。そういえば、前橋に渡したまますっかり忘れていたが、どうやら前橋は名刺も板橋へ提出したらしい。
「シロタ工業に営業8課というのは確かにありましたが、田端という人間は所属していないそうです。その代わり、同一人物なのか、同姓同名なのか分かりませんが、田端清司という方は人事部にいるそうです」
「人事部? 人事部の人間が何故あんな場所に……」
「因みに、先ほどリョウヨウからも電話があり、次回契約はしないというお話しでした」
リョウヨウとの契約は大口ではないものの、細かい注文が幾つか入るので年間通すとそれなりの売上になる。どうしていきなりこんなことになっているのか、この状況でその話しが出るということは、シロタ工業が絡んでいるのは聞かなくても明白だ。リョウヨウは元々上司である佐々木が持っていた顧客で、それを佐々木から譲られる形でもう数年経つ自分の顧客だった。
ついてない……と済ませてしまっていいことなんだろうか。まるで自分の顧客ばかり狙って……狙ってる? まさか、だって、何のために?
「自分以外の担当顧客にシロタ工業は関わってるんですか?」
「いいえ、全く報告されていません。気付きましたか」
「はい、自分の顧客ばかり狙い撃ちされてる気が」
「えぇ、してると思います。恐らくこの方の指示で」
板橋は机の上に置かれたままになっている名刺を指先でトントンと軽く叩く。一体、田端は何を思って今さら自分の周りに現れたのか。腹いせされるような別れ方はした記憶は無い。別れるも何も、付き合ってもいなかったが……。
「プライベートなことで失礼ですが、お知り合いとのことですが」
「はい、学生時代の知人です。けれども、今日会うまで全く連絡を取りあうこともしてませんでした」
しばらく黙り込んだ板橋は、一定の間隔で指先で名刺を軽く叩いている。その無言の時間が重い。
「明日、鈴之屋に予約を入れておきます。こちらからは私と新橋さん、前橋君の3人で伺いましょう」
「はい、申し訳ありません」
「こういうこともあります。新橋さんは、他の顧客にすぐに連絡を取ってみて下さい。怪しいと思う顧客先には、明日にでも足を運んで下さい」
「分かりました」
それだけ答えて一礼して自席へ戻ると、心配そうな顔をした前橋がこちらを見ている。
「大丈夫よ、どうにかなるわ」
「……余り、無理しないで下さいね。何か手伝うことありますか?」
「助かる。これ、先製造と打ち合わせしたんだけど、ここの数字で計算しなおして、書類一式作り直してくれない」
前橋の返事を聞きながら、名刺ホルダーを開き顧客へ電話するために受話器を手にした。
* * *
フロア―からは1人、また1人といなくなり、気付けばフロア―には自分1人しかいなくなっていたことに気付いたのは既に22時を回ってからだった。あれから打ち合わせに取られた時間、電話を掛けた時間、その皺寄せは全て残業という形で跳ね返ってきた。手伝うという前橋は先に上がって貰い、明日回る営業先の契約書やらを全て金額を見直し手直ししていく。
もし、板橋が言うように自分の担当顧客にばかり田端が粉を掛けてるのだとしたら、明日の営業もかなり辛いことになるに違いない。だとしたら、前橋は連れていない方がいいのだろうか。
でも、早い段階でこういうことがありうる、ということはこれから先を考えると知った方がいいに違いない。
別に営業職なんだから頭を下げることにためらいなんてものは無い。ただ、あの田端の存在が非常に引っ掛かりを覚える。板橋は田端の指示で自分の担当顧客にばかり手を回していると言っていたけれども、果たして本当にそれは田端の指示なんだろうか。
だとしたら、何故、今さら自分に執着するような真似を始めたのか、はっきりと分からない。もうあれから5年近く経とうとしているだけに、記憶もかなりあやふやな部分もある。そう、5年も経つにも関わらず田端は自分のことを間違えることなく名前を呼んだ。だとすれば、事前に下調べくらいはされているに違いない。
女だから楽勝と思われているのであれば、本気で殺意が芽生えそうだ。ただ顧客を増やしたいだけなら、別に自分にスポットを当てずともいい話しだ。けれども、セキノー、コースイ、リョウヨウとくれば、幾ら鈍くても自分の担当が狙われてることくらい分かる。お陰で、今日は回りからも散々同情交じりの言葉を掛けられた。
プリンターの止まる音で椅子から立ち上がると、全ての書類を細かく分けてプリントアウトした書類全てに目を通してチェックする。それから自分のサイン欄を一気に埋めていた所で、ふと気付いた。
……もしかして、あの誓約書、こうして入れられていた?
大抵、書類を打ち出した時には書類チェックが全て終わってから、一気に自分のサインや判子を押す。もし、書類チェックが終わった段階で席を立ち、その間に誓約書が紛れていたら自分はそのまま名前を書いた筈だ。それ以外にあの誓約書にサインさせる方法なんて思いつかない。けれども、思いついてみれば何とも単純な話しで、薄暗いフロア―で一人小さく声を立てて笑ってしまうしかない。
板橋は食えない人だと思っていた。けれども、こういう子供のような手まで使う人だとは思いもしなかった。その意外性に笑いが止まらなくなる。
気分は鬱蒼としていた筈なのに、笑いが収まる頃にはどこか清々しい気分になっていて、紙コップに残っていた冷たいコーヒーを一気に飲み干した。帰り間際、コーヒーは板橋が置いていったものだった。
話し合った後、あれから板橋は何かを言うことは無かった。大丈夫とも、手伝うとも。それが今はとても嬉しく思えてくる。
止まっていた手を動かして全ての書類にサインを入れると、それぞれ会社別にクリアーファイルへと入れていく。
シロタ工業の提示してくるだろう低価格競争に乗るつもりはない。自社で扱っている製品には自信だって持っているし、そういう物だからこそ自分はここで営業という仕事をしていられる。
明日の営業周りは重責ではあったけれども、晴れやかな気分で机の上を全て片付けパソコンの電源を落とす。鞄や上着を手にすると、最後にフロア―の電気を消して5課の扉を閉めた。
会社の建物を出れば、駅までの距離は然程無い。しかも、同居したことによってここから3駅という距離になったのだから、この時間に帰るにしてもかなり楽だった。
喧騒の夜道をハイヒールを鳴らして歩き出したところで名前を呼ばれて振り返る。顔を見なくても声だけで、本日2度目の対面だと分かった。
「今から帰りかな」
「そうですけど、何か用事でもありますか」
「勿論、あったから待っていたんですけど。ここで話すのも何だし、食事でもどうかと思って」
確かに、きちんと話し合った方がいい気はする。一体何の目的で、目の前にいる田端は一体会社でどの位置にいる人間なのか。返事をしようとしたその瞬間、背後でクラクションが鳴らされて田端と共に振り返る。
「新橋さん、今帰りですか? もし宜しければ送って行きますが」
爽やかな、まさに営業スマイルで運転席の窓から顔を見せたのは板橋だった。確か板橋はもう2時間以上前に会社を出た筈だから、ここにいるのはおかしい。
「あ、あの……」
「乗ってください。色々とお話しもありますし」
「新橋さん、あれ、誰?」
まるで逃がさないといわんばかりに田端に腕を捕まれ、幾分強い口調で問い掛けられる。
「うちの上司です」
「佐々木さん? いや、板橋課長かな?」
田端の口から出てくる名前に驚き、警戒心と共に睨みつける。幾ら何でも、ここまで名前がスラスラ出てくるということは、随分と下調べされているということだ。正直、気分が悪い。
「手、離して下さい。私は課長に送って貰いますので」
「でも、色々と話したいことあるでしょ」
「確かにありますけど、今は結構です」
きちんと断っているにも関わらず、田端は手を離す気配も無い。しかも、引き摺るようにして板橋へ近付くと頭を下げた。
「すみません、今日は彼女と食事の約束をしているので」
「してないわよ」
「昔のよしみで」
「よしみという程のお付き合いはありませんが」
困ったような顔を作る田端に警戒心しか湧かず、捕まれている腕すら不愉快に思える。
「一体、どういうつもりで」
「新橋さん」
問い詰めようとしたところで諌めるような声で板橋に名前を呼ばれ、渋々と言葉を飲み込むと板橋へと視線を向ける。自分でも残業していた皺寄せの原因が田端にあると聞いているから、つい感情的になっていたと反省はある。けれども、どうにも収まりつかない感情が渦巻いていて気分が悪い。
「えーと、田端さんでしたよね。ここは上司である私の面目で引いて頂けませんか」
「ですが」
「嫌がる部下を見過ごすほど嫌な上司にはなりたくありませんし」
菩薩顔でサラリと嫌味をぶつける板橋に対して、田端の方は頬を引き攣らせている。あぁ、やっぱり菩薩課長と言われているけど、実際は違うんだと実感した一言でもあった。
「昔の知人なんですが」
「えぇ、でも昔なんですよね。今はうちの部下なんでその手、離してあげてくれませんか」
少し悩む素振りを見せた田端だったけれども、ゆっくりと掴んでいた腕は離れていく。
「新橋さん、家まで送りますから乗って下さい」
柔らかいけれども有無を言わせない響きを持つ声に促されるように、板橋の車をぐるりと回ると助手席に腰を落ち着けた。そんな私を確認してから板橋は運転席から降りると田端の前に立つ。
「いずれ、改めてご挨拶することになるとは思いますが、新橋の上司の板橋と申します」
そう言って板橋は田端に名刺を両手で差し出す。営業スマイルつきで、そこに不愉快になる要素は1つも無いのにも関わらず、田端は嫌そうな顔をして自分も名刺を取り出し名前を名乗り板橋と名刺交換をしている。
夜22時過ぎ、こんな場所で名刺交換をしているというのはおかしな話しだと思う。けれども、名刺を受け取った板橋はそれに視線を落とし、微かに笑ったように見えた。
「やはり人事部の方でしたか。何故、先ほどは新橋に営業の名刺を渡されたのですか」
「あそこには営業として行っていましたので」
「そうですか。また会うこともあるとは思いますが、今日はこのへんで失礼致します」
「いえ、こちらこそ失礼致します。お騒がせ致しました」
お互いに軽く頭を下げて、予想していたよりもすんなりと田端はこちらへと背を向けた。角を曲がるまで見送ると板橋はようやく車に乗り込み、受け取ったばかりの名刺をこちらへと差し出してきた。
「人事部課長、どうやらただの嫌がらせという訳ではないみたいですよ」
見下ろした名刺には、確かに人事部課長と書かれていてその下には田端の名前が書かれていた。けれども、人事部と言われて想像出来ることは1つしか思いつかない。
「……引き抜きですか?」
「どうでしょう。確かにそれも考えているでしょうけれども、それがメインとは思えませんね。ただ引き抜きたいだけであれば、顧客ごと持ってきてくれた方が引き抜く方にもメリットは大きいですから」
言われてみれば確かにそうだ。だとしたら、田端の目的は一体どこにあるのだろうか。どう考えても好意とは思えない。
「芹香」
少し甘さを含んだ声で名前を呼ばれて板橋へと顔を向ければ、いつもの笑みはそこに無く、街灯に光る眼鏡でその表情は見えない。
「営業に出る時は必ず前橋君を連れて行きなさい」
「上司命令ですか?」
その問い掛けに板橋は答えることなく車を走らせる。答えを諦めかけたその頃、板橋は思い出したかのように言葉を連ねる。
「そう受け取って貰って結構です。それから、明日の接待ですが、恐らく来ますよ、彼」
何がどうあってライバル社と一緒に接待を行うことになるのか、ちょっと想像がつかない。少なくとも今までの接待ではありえない状況に困惑するしかない。
「そんなことあるんですか?」
「えぇ、恐らく彼は来ますよ、担当者を丸め込んで。担当者は清水さんで変わってませんよね」
「はい、そのままです」
「でしたら明日は佐々木君も連れて行きましょう」
そこまでしなくても、そういう思いもあったけれども、それでも口を噤んだのは、田端が何を目的としているのか分からない故の慎重さなのだとは分かってもいた。歯痒い思いというのはこういうことを言うのかもしれない。自分の責任なのに周りに迷惑が飛び火する、こういうのが一番腹立たしいし、自分1人で責任を取れないのが辛い。
それでも、仕事を辞めたいと思わないのは、それ以上に自分がこの仕事を好きだからだ。分かっていても、感情の波は収まりそうにない。
「課長」
「和臣です」
言い直されてしまい、グッと言葉に詰まる。けれども、改めて名前を呼べば返事をしてくれる。今日みたいな日は1人じゃなくて良かったと思える。
「もの凄くイライラするんですけど、こういう時の逃避方法って何でしょう」
「そうですねぇ、よく言われるのはお酒を飲んだりするとは聞きますけれども」
「和臣さんは、どうします?」
「私はそうですねぇ、昔はゲームセンターに行ってもぐら叩きとか、パンチングマシーンとかやってストレス発散してましたよ」
思いがけないその言葉に、思わず吹き出してしまったけれども板橋は全く気にした様子はない。
「昔ですよ、昔」
穏やかな声でそうは言うけれども、想像するにも余りの似合わなさにどうしても笑いは収まるところを知らない。社内の女性から紳士で格好イイと言われている板橋が、もぐら叩き用のハンマーを持っているところを想像するだけでもおかしくて仕方ない。
「今……今はどうしてるんですか?」
笑いをかみ殺しながらどうにか言葉にすれば、板橋の口元に穏やかな笑みが浮かぶ。
「今ですか? 正直言うと、今はそれほどイライラしたりしないんですよ。特にあなたが5課へ来てからは」
「私、ですか?」
「えぇ、芹香を見ているとイライラが和らいでいくんですよ。好きという効力は凄いものですね」
一瞬にして笑いなんて引っ込んだし、顔が赤くなってくるのが分かる。暗い車内に感謝しながらも、板橋の言葉が頭の中をぐるぐると回っている。どうして、こんな恥ずかしいことをサラリと言えるのか、信じられない思いで俯くしかない。
「どうかしましたか?」
「和臣さんが営業向きだということがよく分かりました」
「おや、営業トークではありませんよ」
あっさりと言われてしまうと、もう何も言うことが出来なくなってしまう。言われて嬉しくない訳じゃないけれども、言われなれない言葉に恥ずかしさの方が先立ち顔すら上げられない。
「芹香は言葉にしないと分かって貰えそうにないので、これからはしつこいくらいに言葉にしていこうかと」
「む、無理です。そんな言葉ばかり聞いてたら気絶しそうです」
少し強張った声でそれだけ返せば、運転しながらも板橋はクスクスと楽しそうに笑っている。余裕あるその様子に、自分の余裕無さが一層恥ずかしくなってくる。
「その反応がまた私としては嬉しい限りですけれども」
楽しそうな声に何もいえないまま、車はマンションの駐車場へと滑り込み白線の枠内に車は止められた。赤い顔は今さら隠しようもないので、渋々車を降りれば板橋も手ぶらで車を降りる。
確か帰る時には鞄を持っていた筈なのに、手元には何も無い。
「そういえば、どうしてあそこにいたんですか?」
「私が帰る時に彼の姿を見かけたんですよ。前橋君から詳しいことを聞いていたのですぐ彼だと分かりました。一旦家に帰り、前橋君に確認してから車で迎えに行ったというのが真相です」
エレベーターの到着音と共に扉が開き、板橋と2人で乗り込む。
「まだ彼の目的は分かりませんが、気をつけて下さい。それから、上についたら彼との出会いを教えて貰えるともう少し色々と考えられるのですが、プライベートのことですし黙秘権を行使しても構いません」
「別に言っても問題無いことですし構わないです」
エレベーターが到着し、扉が開く直前に板橋がいつもよりも更に優しげな笑みを浮かべて自分を見下ろす。
「昔の恋人と言われたら、嫉妬で芹香を襲いかねないと思っていたのでそれを聞いて安心しました」
そう言って板橋はエレベーターを降りてしまったが、言われた自分は聞き捨てならない言葉を聞いたような気がする。
扉が閉まりかけて慌ててボタンを押してエレベーターを降りると、玄関チャイムを鳴らしている板橋の横に立つ。すぐに扉が開き、中から笑顔満面の前橋が顔を出す。
「課長、芹香さん、お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「た、ただいま」
まだ挨拶をすることが慣れなくて、それでもどうにか言葉にすると板橋、私、最後に前橋の順番でリビングへと足を踏み入れる。ダイニングテーブルの上には数多くの料理が並べられていて、思わず目を見張る。
「これ、どうしたの?」
「買ってきました。本当なら僕が作れるといいんですが、残念ながら料理の腕はまったくなんで」
「どうして?」
「だって、芹香さんお酒飲めないじゃないですか。そしたら、やっぱり次はやけ食いかなと思って課長と2人で相談してこうなりました」
あぁ、見破られているなぁ、と思いながら苦笑するしかない。確かにかなりイライラしていたし、腹も立っていた。けれども、こうして温かく迎えられてしまえばイライラなんてどこかへ消えてしまう。
「温めたばかりですから、早く食べましょう」
前橋に促され慌てて鞄だけを部屋に片付けると3人でダイニングの椅子に腰掛ける。他人が見たら嫌悪されそうな同居だけれども、少なくとも今の自分にはとても救いだった。
3人揃っていただきますという声で遅い夕食が始まる。
「芹香さん、いっぱい食べて下さい」
「うん、こうなったら沢山食べてやる!」
所狭しと並ぶ料理を小皿に取ると、空腹を訴えるお腹にどんどんと入れていく。和洋折衷色々並ぶ料理は色合いが綺麗で、飾りつけも手をつけるのに一瞬躊躇するくらいに素晴らしいものだった。そして、味はまたこれが繊細な味付けで、卵焼き1つにもだしがきいていてとろけるような柔らかさだった。
お互いに今日あった会社の出来事や、失敗談などを話し、夕飯は和やかなムードで終え、すっかり馴染んでいる自分に気付き少しだけばつが悪くなる。同居を反対していただけに、こんなに楽しくていいのだろうか、一体この楽しい時間はいつまで続くのか、そんなことを考えてしまった自分が少しだけ嫌になる。
3人で暮らすなんてことはずっと続けられることじゃない。恋愛感情が絡めば尚更、こんな時間は今だけなのだとわかる。最後に板橋が緑茶を入れてくれて、それを最後に夕食は終了した。
* * *
一旦スーツから部屋着に着替えるために部屋へ入ると、小さく溜息を零す。お腹もいっぱいになり、満足しながらも心の端で不安が残る。感情はぐちゃぐちゃに絡み合って今は分からないけれども、恐らくもっと時間が経てば明白になるに違いない。
だからこそ、気持ちを入れ替えて着替えてしまうと、洗顔料を片手に部屋を出る。
「コーヒー入りましたよ」
板橋の声に返事をしながらも洗面所で化粧を落とせば、鏡に映るのは素の自分だった。不安を振り切るように鏡に向かって笑顔を向けると、洗面所からリビングへと戻る。
既に前橋は帰ってきた段階でスウェットを着ていたけれども、私が着替えている間に板橋も着替えたらしく既にパジャマを着て2人でソファで寛いでいた。
「芹香さんのコーヒー、こっちにありますよ」
「ありがとう」
お礼を言って1人掛けのソファに腰を落ち着けると、白いシンプルなマグカップに手を伸ばす。両手でマグカップを包み込めば、ホットコーヒーの熱が掌にじんわりとした温かさを伝えてくる。
「寛いでいる所申し訳ないのですが、田端氏についてお話しを聞いても宜しいですか」
板橋の言葉で前橋も読んでいた雑誌を閉じると、ソファの横にあるマガジンラックの中へと雑誌をしまう。別に隠し立てするほどのことでもないから、ありのまま全てを伝えたところ予想以上に渋い顔をしている前橋と、口元に笑みの無い板橋がいる。
「別に好かれてるとも、恨まれてるとも思えないけれども、おかしい?」
「うーん、多分、芹香さんが思っている以上に恨まれてるかもしれませんよ、それ」
「同意します」
一体、この話しを聞いてどうして恨まれるという結論になるのか分からない。少なくとも、最初はこちらからお断りはしているものの、後のことは田端の自業自得といってもおかしな話しじゃない。
「また、随分たちの悪い男に目をつけられたみたいですね」
「ですよね。同じ男としてもちょっと勘弁みたいな感じですけど。見た目は普通だったのになぁ」
「そうでもありませんよ。先ほどは随分と纏わりついていましたから」
「……すいません、分からないのでもう少し説明して下さい」
2人だけで進んでいく話しについていけず、恥ずかしながらも口を開けば2人は顔を見合わせてからどこか考え込む素振りを見せる。
「可愛さ余って憎さ百倍」
「いや、どっちかっていうと他人のものはオレのもの、オレのものはオレのもって感じじゃないですか」
「……ごめん、それじゃ全然分からないから」
お互いがお互いに視線を合わせて、どこか苦々しげな表情になってしまう。私の理解が追いつかないことに、呆れているというか、困っているというか、2人はそんな顔をしている。
「えっとですね、恐らくですけど、結構自信家だったんじゃないですかね、田端氏」
「だから、自分から振るのはいいけれども、相手に振られるのは我慢ならないタイプだと思います。罵詈雑言浴びせた彼女というのも、ずっと見ていたんじゃないんですかね、田端氏の二股、三股を」
「でも、結局は自業自得でしょ」
「そういう相手というのは自業自得なんて言葉は辞書にありませんよ」
昔はそれほどでは無かったけれども、今日会った感じでは随分と強引に感じた。それだけ、相手に断られることが無かった、ということなのだろうか。確かに板橋や前橋ほど顔が整っているのなら分かるけど、田端にそこまでの魅了は感じないだけに不思議に思える。
「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス」
板橋の口から出た言葉で思いつくのは織田信長くらいしかない。けれども前橋はどこか納得した様子を見せたけれども、次の瞬間にはげんなりした顔を見せる。
「自分を好きにならないなら、徹底的に貶める。田端氏はそういうつもりかもしれませんね」
耳に心地のいい声にも関わらず物騒なその言葉は、板橋の口から言われると冗談じゃ済まない寒さを感じさせる。
けれども、そのフレーズはつい最近聞いたもので……。
「前橋と一緒じゃない」
「っっ! ぼ、僕も確かに似たようなことを言いましたけど、でも、嫌がらせして貶めるくらいなら、無理矢理にでも自分のものにしますから」
「ごめん、それ、どっちがいいか選択肢にされたら、私はどっちも選びたくない」
呆れたように言えば、それを聞いていた板橋は小さく笑っている。
「前橋君はまだまだ若いですねぇ。そんな強引にことを進めたら、好きになって貰えるものもなって貰えなくなりますよ」
「時には強引さも必要ですし。というか、あの時にもっときっぱりと田端氏を突き放しておくべきだったかもって反省してるくらいなんですけど」
「そういう感情は仕事とは別物と考えて下さいね。けれども、もし、予想通りだとしたら明日、田端氏はかなりえげつない手を使ってくると思われますよ」
営業は綺麗な仕事ばかりじゃないことは分かってる。けれども、えげつないと言われるほどの手腕というのは一体どういうものなのか想像がつかない。
「しばらくの間、田端氏と2人きりにはならない努力をして下さい。実力行使も貶めるための1つの手段ではありますから」
言葉は随分柔らかなものではあったけれども、その言葉で身体が強張るのが分かる。正直、田端がそこまでするとは思えなかったが、警告だけは聞き入れて板橋の言葉に頷いた。
「さて、お風呂沸いてますから芹香は先に入って下さい」
板橋に促されたけれども、さすがに1番風呂を貰うには気が引ける。だから後で構わないと言ったけれども、板橋はまだ前橋と話しがあるからということで、リビングを追い出されるように風呂に入る。
湯船に浸かって手足を伸ばしていると、徐々に瞼が重くなってきた。睡眠不足ではないけれども、状況の変化や仕事の疲れが溜まって睡眠を欲しているらしい。これ以上風呂に入っているのは危ないと判断すると、風呂を上がりまだ話している2人に断ってから自室に引き上げた。
疲れていたのか、色々考えないといけないことはあるはずなのに、思考はすぐに閉じてしまった。