安全圏の彼と彼 第4章

カーテンの隙間から漏れる朝の光に、目を擦りながらも身体を起こす。時計を見ればいつもよりも30分ほど早い時間で、30分後に鳴り出すタイマーを止めた。
寝起きは決して悪くない。それでも、ベッドから降りる気分にはなれず、その場で膝を抱えると大きく溜息を吐き出した。今が夢か現実か、自分でもよく分からなくなる。昨日はそれくらい現実離れしていた。

あの後、食事をした筈だけど記憶は無いし、美味しそうな料理だったにも関わらず全く味を思い出せない。反芻してみると、それが現実だったのか、何だったのか更に分からなくなる。

――「あの、誰が一緒に」
――「私と新橋さんと前橋君の3人で暮らそうと言っています」
――「……ありえないです」
――「いえありますよ。ねぇ、前橋君」
――「そうですね。そしたら僕も満足出来そうですし、会社で余計なこと言わないで芹香さんに迷惑掛けることも無いでしょうし」

それに対して自分は何て答えたのか。いや、答えた記憶が無いということは、答えてすらいないのかもしれない。余りにも想像していなかった出来事に。

入社して何年もなるのに、こんなに仕事に行きたくないと思うのは初めてのことだった。それでも時間は進んでいく訳で、もう一度溜息をつくとベッドから降りた。ヒンヤリとした空気が足元にまとわりつき、小さく身震いすると布団の上に置いてあったカーディガンを着るとキッチンに向かう。

コーヒーメーカーをセットする。いつもならそれからサラダとベーコンエッグを用意して、パンを食べる。けれども、そのいつもと同じ行動を取る気になれず、ぼんやりとカウンターチェアに座り込んだ。部屋の中にコーヒーの香りが漂い始めたにも関わらず、意識がしっかりすればするほど混乱に陥るばかりだ。

板橋はあれから何と言ったのか。答えなかったのだから無理に話しを進めるようなことはしない筈だ。けれども、拭い去れない不安は何なのか。
からかわれたんだろうか、あの2人に……。

考えてみるけど、前橋はともかく、板橋は冗談を言うようなタイプじゃない。だとしたら、やっぱり夢だったんだろうか。そう思いたいけれども、目の端に映るソファには昨日脱ぎ捨てたままのスカートとブラウスが置かれている。それは自分が混乱のまま帰って来た証拠であり、頭を抱えた。何がどうあって板橋の頭には一緒に暮らすという選択が出来たのか分からない。
いや、そもそもどうして板橋と前橋の2人に告白されることになったのか。

……罰ゲーム? これは何かの罰ゲーム?

そんなことを考えて見たけど、幾ら悪乗りする5課の人間でも板橋まで駆り出してこんなバカなことをするとは思えない。
なら、一体、こんな急にどうしてこんなことになったのか。考えてみたところで分からない。いや、分かる筈もない。自分が何かをしたという記憶は全くもって無いのだから。

今まで会社に入って誰かに好かれたことは無い。これでも、大学時代は猫を被ってそれなりに可愛い子ぶって見せたりもしたものだ。しかも、見た目派手なこともあり、それなりに告白されるという場数は踏んだ。まぁ、誰かと付き合うことはしなかったけれども。

でも、仕事を始めてから猫かぶりは止めた。同期にはハキハキ言い過ぎて怖いと言われ、男からは敬遠された。基本的に仕事が面白いから、弱気な発言はしたことも無いし、目指せ格好イイ女だった。
何事も余裕を持って人間関係に煩わされることなく、仕事に打ち込むだけ。そう、それだけで良かった筈だ。それなのに……。

もう、溜息しか出てこない。それでもしばらく考え込んでいれば、携帯アラームが鳴り渋々立ち上がる。もう、ぼんやりしている時間は無い。

食欲の無いままカウンターチェアから立ち上がると、脱ぎ散らかしたままだった洋服を片付ける。それから既に出来上がっているコーヒーをカップに入れて一口飲むと、思考をすっきりさせるためにシャワーへと向かった。
鬱々と考えていても仕方ない。シャワーを浴びている間にそこまで気持ちを切り替えると、気持ちを仕事に向ける。とにかく、まだ火曜日で今日は幾つか会議が入っている。営業にも出なくちゃいけないし、何よりも前橋が自分の手を離れるまでに一ヶ月。それまでの間にせめて前橋の営業売上を用意してやらないといけない。

仕事は仕事。

気持ちを引き締めると、化粧をしていつものように髪を両サイドに纏める。長い癖のついた髪がバサリと音を立てて背中に当たるのを感じながら、こちらを見ている自分に気合を入れる。

大丈夫、多分、大丈夫――――。

自分にそう言い聞かせると、いつも食べている朝食も食べずにコーヒーを流し込んで会社へと出かける。けれども会社に出れば、驚くほど普通だった。そう、昨日の出来事は何だったんだと思えるくらいに。

「おはようございます」
「あ、おはよう」

女子社員の挨拶に幾分呆れながらも5課へ入れば、こちらも驚くほど普通だった。

「新橋さん、おはようございます」
「おはよう」

いつもの笑顔で挨拶する新橋に机から書類を取り出すと一式渡す。

「これ、目を通しておいて。数字は相談に乗るから。午後から営業に行くわ」
「分かりました。これ、確認お願いします」

逆に手渡されたのは今週中にと頼んであった、打ち込み書類一式だった。

「もう終わったの?」
「はい、終わりました。それで、ここの数値なんですが……」

そう言って近付く前橋から、柑橘系の香りがふわりと漂う。今まで気にしたことも無かったし、気付きもしなかったその香りに少しドキッとした。それは前橋にとてもよく似合う香りだと思う。

「新橋さん?」
「何でもない。続けて」

前橋の説明を聞きながらも、やけに近い距離にいる前橋を変に意識する自分がいる。こんなの自分らしくないと思うのに、書類を指差す前橋の骨ばった手から目が離せない。自分でも何でこんなに意識してるのかよく分からない。

「あの、大丈夫ですか?」
「何が」
「顔、赤いですよ」

指摘されて、更に顔が赤くなるのが分かる。

「何でもないわよ。今説明するからちょっと待ってて」

それだけ言うと、席に座りパソコンを立ち上げる。
何か変だ。意識しすぎてるのか自分の制御が上手く出来ない。

「新橋ー」

名前を呼ばれて扉へと顔を向ければ、同期の笹川がこちらを向いて小さく手招きしている。始業時間にはなっていないけれども、他の課に入るにはためらいがあるらしい。すぐに立ち上がり扉の外へ出れば、ひょろりとした笹川が1枚の紙を差し出してきた。

「何、これ」
「同期会。急なんだけど今日やろうと思って」

それはまた急な話しだ。

「ほら、3課の山崎が栄転決まっただろ。木曜日には向こうに引越すっていうから今日やろうってことになってさ」

ただの飲み会なら出る気は余り無かったけど、栄転祝いとなれば同期の人間と出ない訳にもいかない。

「いいわよ、行くわ。もしかしたら遅れるかもしれないけど」
「それならそこに俺の電話番号も書いてあるから、そっちに連絡貰える?」
「分かった。笹川が今回は幹事?」
「まぁ、俺くらいしか手が空いてないからなぁ」

そういって少しだけ笑い照れたように頭を掻く笹川に自然と笑みも零れる。

「頑張ってよ。手伝いはしないけど」
「相変わらず冷たいなぁ」

眉尻を下げて笑う笹川にやっぱり笑ってしまう。

「残念、私はそういう女です」

そんな下らない話しをしていれば、部屋から前橋が顔を出した。

「新橋さん、打ち合わせの内線来てます」
「分かった、今行く。じゃあ、また後で」

軽く挨拶を交わして部屋に戻ると席に座る。電話を見れば内線ランプは点いていない。訝しく思いながら前橋を見れば、しれっと視線を逸らされた。

「……どういうこと?」

自然と低くなる声に前橋はこちらを見ると、いつもの笑みを浮かべる。

「すみません。向こうの勘違いだったみたいです」

それだけ言うと、前橋は一番下の引き出しを開けると屈み込む。誰にも見えないその場所で、悪戯めいた笑みを浮かべた。

「僕、嫉妬深いんですよ」

そう言って見たげたその視線は無駄に色っぽかった。心臓がうるさいくらいに鳴り出し、慌てて前橋から視線を背ける。
途端に「新橋さん」と名前を呼ばれてそちらへと顔を向ければ、板橋がこちらを見ている。こんな落ち着かない気分で近付きたくないのに、嫌とは言えない状況で板橋の机の前に立つ。

「何でしょうか」
「今日のサエタ工業との打ち合わせ、私が変わりましょう」

突拍子もない板橋の言葉に眉根を寄せる。

「私……何かミスをしましたか?」
「いえ、違います。折角の同期会、サエタに行っていたらかなり遅れてしまうんじゃありませんか」
「別に遅れても構わないですよ。仕事優先ですから」
「それでも、折角の栄転なんですから同期として祝うべきではありませんか? 私の年になると同期も少なくなってしまって羨ましい限りです」

それは、これから何年後かの自分に同期が減っていくことを暗に言っているようだった。確かに定年まで務める人間はいるが、恐らく新入社員として入ってから8割方は転職したり、女子であれば寿退社という選択がある。自分より上になればなるほど、同期同士というのは数が少なくなっていく。当たり前の構図ではあるけれども、それは少しだけ感傷を引きずり出した。

「ですが」
「毎回でしたら困りますけど、今回は山崎君の栄転ということもありますしね。恐らく、今回参加しないと山崎君とはまた数年会わないことになりますよ」

確かに、ここから東京本社に栄転してしまえば顔を出すことも無くなるだろう。本社と顔を合わせるなんてことは滅多に無かった。それこそ本社にいる社長の視察に数名がついてくるくらいで、それ以外、本社からの来訪は無い。

「大丈夫です。前橋君にも一緒に行って貰います」
「でも、今回は」
「分かってますよ。きちんと彼にやって貰いますから」

確かに板橋は自分がサエタで前橋に契約を取らせたいことを分かっているらしい。けれども、あんなに水と油状態だった2人を行かせて大丈夫なんだろうか、というささやかな不安もある。それは表情に出ていたのか、板橋はいつもより優しげに少しだけ困ったように笑う。

「大丈夫ですよ。仕事は仕事ですから」

きっちりと言葉にさせてしまったことで申し訳ない気分になるのは、仕事を押し付ける形になるからなのか、自分の気持ちを読まれたからなのか、自分でも複雑な心境だった。

「たまにはゆっくりしてきて下さい」

そこまで言われてしまうと、これ以上押し切れる状況ではない。

「分かりました。有難うございます」
「どう致しまして」

穏やかな菩薩顔で笑う板橋に一礼すると自席へと戻る。そして、いつもと全く変わらない様子の板橋にホッとした自分がいる。
そうだ、あれはやっぱり夢だったに違いない。自分の妄想や、幻想、もしかしたら白昼夢だったのかもしれない。
そんな思いを胸に大きく息を吸い込むと1回だけ深呼吸する。何だかすっきりした気分で前橋を呼ぶと、パソコン画面に映った数値を指差して説明を始めた。

* * *

同期会は恐ろしいことに、同期全16名が揃った。そんな中で気を使わずにワイワイと騒ぎ、途中、先日の噂について女性陣から突っ込まれたり、そんな状況の中で同期会は終わった。最後には今回栄転する山崎は泣いていた様子だった。
栄転自体は嬉しい様子だったけれども、本社にいけばノルマが課せられる。それを嘆いているのも確かではあった。

栄転か――――。

正直、羨ましくないと言えば嘘になる。頑張っているからこそ会社に認めて貰いたいものだし、認められたという結果が欲しい。勿論、新入社員の頃に比べたら十万は軽く違う給与にはなったけれども、やはり栄転という誰にでも分かる結果が欲しいのかもしれない。自分でも複雑に思いながら、駅で同期たちと分かれるとのんびりと歩き出す。

会社から家まで2駅あるけれども、今日は少し歩きたい気分だった。街灯の下をぼんやり歩いていれば、大きな月が自分の長い影を作る。
自分は一体、どうしたいのだろう。時折、ぼんやりしていると方向性を見失う時がある。周りにいた人間をどんどん切って、仕事に打ち込んで、一体自分に何が残るんだろう。

仕事は嫌いじゃない。けれども、女である以上、どれだけ業績を上げても会社からは認めて貰えない。それが今は酷く辛かった。
のんびりと1時間掛けて家に辿り着くと、鞄から鍵を閉じ出し扉を開ける。いつものように玄関で靴を脱ぎながらふと違和感を覚える。

あれ、昨日のヒール、しまったっけ?

確か朝は慌ててたからいつもなら下駄箱にしまうヒールをしまい忘れていた気がする。勘違いかもしれない、そう思いつつ電気を点けてその場に固まった。

そこには、何も無かった。本当に何も無かった。玄関マットも、キッチンに置いてある調味料も、そしてお気に入りのカウンターテーブルも……。何も無い部屋を目に映しながらただ呆然と部屋を眺めていた。
そんな中、高らかに玄関チャイムが鳴り響き思わず身体がビクリと竦む。慌てて振り返り靴も脱がないまま扉を開ければ、そこには板橋が立っていた。

「あの、課長、どうしてここに? あ、いや、その、泥棒に入られたみたいで、警察に」
「泥棒、ですか? 何か盗まれたんですか?」
「全部です。部屋の中、全部」

言いながら血の気が引いてくる私に対して、板橋はあくまで菩薩顔だ。

「あれ? 私、言ってませんでしたっけ?」
「な、何をですか?」
「一緒に暮らしましょうって」

血の気が更に引いて、もうそのまま倒れてしまいそうになった。いや、確かにそう聞いた気がする。 けれども、会社にいる時に余りにも普通だったから夢か幻かと思っていたけど、どうやら違うらしい。

「あ、あの」
「さぁ、行きましょう」
「ちょっと、待って下さい。あの、どちらに?」
「勿論、新居ですよ。ほら、前橋君も待ってますから」

……誰か、この状況を私にも分かるように説明して下さい。

心の中で信じてもいない神様に祈ってみるけど、心身が足りないのか神様は答えてくれる筈もない。

「あの、いや、でも」
「さぁ、行きましょう」

菩薩顔とは裏腹に強引に腕を掴まれて外に出されると、何故か板橋が持っている鍵で扉を閉める。でも、確かに自分の手の中には鍵があって、本当に訳がわからない。人間、パニックになると本当にどうしていいのか分からなくなるものだと、この時初めて知った。

引き摺られるようにして来たばかりのマンションを出ると、促されるままに板橋の車へ乗せられた。無理矢理という訳では無かったけれども、混乱に拍車の掛かっていた自分は勧められるままにフラフラと板橋の車へと乗った。運転席へ座った板橋がなめらかに車を発進させると、もうただ混乱する頭を整理していくしかない。

「私の部屋、何で空っぽ」
「あぁ、大丈夫ですよ。荷物は新居の方に全て運びましたから」

混乱しながらも、答えてくれる板橋に質問を重ねていく。

「新居って」
「私と君と前橋君が住む家のことですよ」

確かに一緒に住もうと言われた記憶はある。けれども、どうして今日こんなことになっているのかさっぱり訳が分からない。しかも昨日の今日で、この手際の良さは一体何なんだか。

「あの、何で課長が鍵」
「君の家の鍵ですか? 私が借りましたよ、大家さんから。新橋さんが引越しするということで」
「だって、他人」
「おや、あのマンションが会社の借り上げている部屋だと忘れましたか?」
「あ……」

そう、社員寮が満員だったことで、少し家賃は上がるけれども、会社が契約しているマンションを入社時に借りた。下手に社員寮で人付き合いが出来ることを煩わしく思ったのも理由の一つではあった。そして、板橋の立場であれば大家さんからマンションの鍵を借りるのは問題無い行為に違いない。社長の息子ともなれば……。

「あの、私、返事してません。一緒に住むか」
「研修の時に言われませんでした。否定する時は強く、きっぱりと、と」

あぁ、確かに営業される立場として研修時に言われた記憶は確かにある。そして、営業する側としては曖昧な返事はイエスと取る方法もあると。
自分は驚きの余りあの時は無言になってしまった。多分、固まってしまって何も言わなかったに違いない。ただあの後の記憶が無いから定かではないが。それをイエスと取った板橋はこんな暴挙に……。

「ふ、不法侵入です」
「でも、君はノーと言いいませんでした」

確かに言っていない。けれども、こういう場合はもっときちんと話し合うべきなんじゃないのか。いや、話し合う以前に無茶苦茶な話しだと思う。

「ただの同居だと思ってくれて構いませんよ。一緒に住んだからといって、即何かしようとは思っていませんし」

その言葉を素直に信じていいものとは思えない。確かに板橋の言動は紳士的なものだったけど……。

「それとも、手出しした方が嬉しいですか?」
余りにもさらりと言われて聞き流してしまいそうになったその言葉で我に返ると慌てて首を横に振る。

「我ながら無理を言っているとは思いますよ。けれども、知って欲しかったんです。普段の私のことを」

信号で車を止めた板橋がこちらを向く。その目は真剣なもので、口元にはいつもの笑みは無い。心底ホッとしたのは、板橋が眼鏡を掛けていてくれたことだ。
たかがレンズ越しだけど、されどレンズ越し。眼鏡を外した板橋にこんなことを言われた日には、卒倒してるに違いない。

「何で、前橋も一緒に」
「言いいましたよね。仕事以外には筋を通すと」

確かに板橋がそう言っていたのは記憶にある。だからといって、普通には考えられないことだ。
信号が変わり車を発信させた板橋は小さく溜息をついた。そんな板橋は見たことなくて、つい見つめてしまう。板橋の横顔は憂いを帯び、笑みの無いその顔は色気があり目が離せない。

「前橋君が来るまでは、正直、君に告白することなど考えもしませんでした」

ハンドルを握る板橋の顔は落ち着いたもので、板橋の声だけが耳に届く。これは現実だと分かっていても、こうして板橋の車に乗り、板橋や前橋と一緒に住むということに現実味は無い。
そして、いつもなら最後まで人の話しを遮らず聞く板橋とは違い、被せるようにして言葉を紡ぐ板橋はまるで別人のように見える。でも、普段の板橋というのは会社で見せているほどのんびりでも、穏やかではないのかもしれない。

「まぁ、同居は3ヶ月の間だけです」
「え?」

予想していなかったことに板橋を見れば、チラリとこちらを見た板橋は軽く口の端を上げた。

「もっとしたかったですか?」
「そ、そういう訳じゃなくて……」

車は減速しマンションの地下駐車場へと入り、7番という番号の書かれた場所に止められる。板橋と共に車を降りると、エレベーターに乗り込み板橋はボタンを押した。

「あの、やっぱり同居はちょっと……」
やはり納得行かないものは行かない。しかも男2人に女1人の同居なんて、親兄弟でもない限り世間体を考えればありえない。それでも言葉を濁しながらも言い出せば板橋は営業向けの顔でニッコリと笑う。

「でも、契約書もありますし」
「はぁ!?」

契約書なんてものは書いた記憶は無い。そんな中で板橋は鞄の中から1枚の紙を取り出した。コピーされた紙には確かに自分の名前が書かれていて、書面を読めば3ヶ月の同居をするという誓約書になっていた。

「わ、私、こんなの書いていません」
「でも、それは君のサインじゃありませんか?」
「確かにそうですけど……」

記憶に無いだけに訝しげに書類を見ていたけど、やっぱりどう見ても自分の筆跡で首を傾げるしかない。一層のことこの紙を破いてしまおうかという気分にもなったけど、その紙がよく見ればコピーだということも分かる。
ぐるぐると考えている間にエレベーターは到着し、板橋に促されてエレベーターから出れば、その階に扉は1つしか無かった。恐らくこのマンションの上階は1部屋ずつしか用意されていないのだろう。板橋が玄関のチャイムを鳴らせば、しばらくして扉が開く。

「お帰りなさい」

元気にそして笑顔で出迎えたのは前橋だった。

「只今戻りました」

まるでずっと前からそこに暮らしていたような板橋と前橋の遣り取りにただ混乱するしかない。

「えっと、前橋はいつからここに?」
「今日からですよ。これから3ヶ月楽しみです。ほら、早く入って下さい」
「でも……」

困惑のまま玄関先で立っていれば、優しく背中を押された。

「どちらにしても、新橋さんの物は全てここにありますし入って下さい」

確かに自分が引越す現場を見ていた訳じゃない。本当にここに全ての物があるのか確認はしたかった。

「お、お邪魔します」

そう言って靴を脱いでいる最中に前橋がスリッパを用意してくれる。普段スリッパを使わないだけに違和感を覚えながらも、淡い緑色した縦じま模様のそれを穿いた。

短い廊下を3人で歩き、1番前を歩く前橋が扉を開ければすぐ左側はキッチン、そしてカウンタキッチンを挟んで奥はリビングダイニングになっていた。広さは20畳以上ありそうで、手前にダイニングテーブルがあり、奥には薄型テレビが壁に掛かり、その正面にはソファとテーブルが置かれていた。壁際には両サイドに2つずつ扉があり、この部屋自体、かなり広いものだと分かる。
呆然と見ていると板橋に肩を掴まれ、強引にダイニングの椅子に座らされる。

「あ、あの……」
「ルールを説明しておきましょう」

そう言って正面に板橋と前橋の2人が腰掛ける。やけに大きなテーブルに挟まれて、2人の顔を交互に見つめた。

「まず、ここでは顔を合わせた際にはきちんと挨拶をすること。異性交遊を行う場合、この家ではしないこと」

異性交遊……幾分古めかしい物言いだったけれども、板橋の口から出ると違和感が無い。

「それから、新橋さんが3ヶ月の内にどちらかを好きになった場合には、3ヶ月を待たずに同居を解除すること」
「もし、他に好きな人が出来た場合には?」
「3ヶ月は契約通りここで暮らして貰います」

どうやらあくまで2人の内のどちらか、という選択しか無いらしい。けれども、板橋はともかく手の早い前橋と一緒に暮らすというのは余りにも無謀じゃないだろうか。そんな思いで前橋を見れば、苦笑して両手を上げた。

「ここでは何もしません。じゃないと僕は追い出される立場なので。追い出されるより、芹香さんと一緒に暮らせる方が嬉しいですから」
「そうは言われても……」
「じゃあ、手を出した方が良いんですか?」

その問い掛けに慌てて首を横に振る。

「でしたらもう一つ約束してもいいです。会社で妙なこと言ったリしません」
「……迫ったりとか?」
「嫉妬して話しに口挟んだりとか、他人に見える場所で声掛けたりとか」

それは、ある意味願ってもいないことだけど、果たしてそんなことで男2人と暮らしてもいいものだろうか。

「まぁ、今更嫌だと言われても契約書もありますし」

板橋にそう言われて、すかり手の中で握り潰していた紙を慌ててテーブルの上に置く。

「あの、これ」
「新橋さんの直筆サインです。覚悟しましょう」

契約というのはどういうものか、契約書に書くサインというものがどういうものか自分でも分かってる。

「あの……クーリングオフは」
「残念ながら誓約書なのでありませんよ」

多分、2人に嵌められている気がしないでもない。本当に自分の身が安全なのかどうなのか神のみぞ知るってところだし、不安もある。それでも、大きく溜息を零すと「分かりました」と声を掛ける。

「本当に、本当に何もしないって約束して下さい。約束が守られなかった場合、即出て行きます」

途端に目の前に座る2人の口元に優しい、けれども会社で見せるそれとは違う笑みが浮ぶ。

「勿論、それはお約束しますよ。食事とかは勝手に取ることにしましょう。残業などもありますし」
「でも、日曜日くらいは一緒に食べられないですか? 折角一緒に暮らすんですし」
「それは私ではなく、新橋さんに聞いて下さい」

そう言って2人がこちらへと視線を向けてくる。 何だか、この2人に見つめられると落ち着かない気分になる。好みじゃないのに、ドキドキする。

「よ……用事が無ければ」

自分でも顔が赤くなってくるのが分かる。誓約書を楯に取られてるといえども、これは益々窮地に陥ってる。もう、面倒はごめんだと思ってるのに、遊んでる女とか思われたくないのに、これじゃあ、どう考えても遊び人と言われても言い返せない状況だ。

つい零れた溜息に目の前にいる2人がそれぞれ訝しげな表情をしている。でも、こんな状況になれば溜息の1つや2つ、普通の人であればつきたくだってなるに違いない。

「……何か、疲れました」
「そうですか? それじゃあ、部屋を案内します。こちらが風呂とか洗面所」

立ち上がった板橋はすぐ近くにある扉の1つを軽くノックした。そしてすぐ隣りに扉を再びノックした。

「こちらが新橋さんの部屋になります」
「それから、こっちが僕の部屋です」

洗面所の扉と反対側がどうやら前橋の部屋らしい。

「残りは私の部屋になります」

私の部屋の正面は板橋の部屋、ということらしい。リビングを挟んでいることにホッとしながらも、思い足取りで自室と言われた部屋を開ければ、そこだけで10畳は軽くあるだろう部屋にちょっとしたカルチャーショックを受ける。

いや、うん、これだけの広さがあれば、私の持ってる物は全て収まるに違いない。お気に入りのカウンターテーブルも壁際にきちんと置かれていたことに安堵する。

「あ、家賃! 家賃をどうすれば」

男2人と一緒ということを考えても、これだけの広さがあれば、前の家と大差が無い。そして、何よりもこの豪華マンションは3人で割っても幾らになるのか、考えるだけで頭痛がしそうだった。

「必要ありません。ここは私の持ち家ですから」

板橋にニッコリ微笑まれても、引き攣った笑みしか返せない。そう、もう世界が違いすぎて色々とついていけなくなってる自分がいる。

「そうでした、1つ言い忘れていましたが、一応お互いの部屋に入るのは禁止します。ただ、新橋さんが自ら招きいれた場合は別ですが」
「無いです」

きっぱりと言い切れば、板橋はやはり菩薩顔でニコニコと笑うばかりだ。
でも、もう分かってる。菩薩顔で笑うからといって、必ずしも思考が菩薩な訳じゃないことを。それはあの誓約書からだって分かるってものだ。いや、でも、あの誓約書はどうやって手に入れたものなのか。少なくとも自分の記憶には無い。

「……もう、今日は寝ます」
「そうですね、色々疲れたでしょうしお休みなさい」
「お休みなさい」

2人ににこやかに挨拶されて、疲れながらもルールを守るべく「お休みなさい」と疲れも隠さずに声を掛けて扉を閉めた。

* * *

目覚ましの音で身体を起こして、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。辺りを見回して、昨晩の怒涛の出来事を思い出し大きく溜息をついた。
昨晩ばかりじゃない。
ここ数日、毎日が怒涛の展開で自分自身がついていけていない。当たり前だ、ほんの1ヶ月前にはこうして男2人と同居することなんて想像すらしていなかった。

寝ぼけた頭のままベッドから降りると、そのままリビングへ続く扉を開けた。途端にコーヒーの芳しい香りが身体を包み、少しホッとした気分になる。

「おはようございます」

ソファに座る板橋に笑顔で挨拶されて自分も挨拶をする。既に板橋はスーツ姿でその手にはコーヒーカップが湯気を立てている。

「コーヒー淹れてありますよ」
「はい、ありがとうございます」

ぼやけた思考でお礼を言ってキッチンへ向かえば、キッチンの正面に大きな食器棚がある。その中には自分が使っていたマグカップもあり、使い慣れたそれを取り出すと、キッチンの片隅に電子レンジと並びコーヒーメーカーがある。たっぷりと量のあるコーヒーをマグカップに注ぐと、少し悩んだ後、板橋と直角に並ぶ一人がけのソファへ腰を降ろした。
ソファ前にあるテーブルの上には数社の新聞と経済新聞、全部で4種の新聞が並べられていた。

「課長、これ、全部読んでるんですか?」
「書いてあることは大差はありませんが、時折、一社だけが出し抜けに記事を上げる場合があるのでね」

新聞を手にした板橋はいつも会社で見せる穏やかな笑みを浮かべると、次の瞬間に苦笑を浮かべた。

「別にここでまで敬語じゃなくても構いませんよ」

そうは言われても板橋自身が敬語なのだから、はい、そうですかと頷けるものでもない。確かにこういうことになって仕事とプライベートの切り分けをどうするべきかと考えてはいたから、困っているのは確かだ。それでも、散々敬語で話していた相手に、一朝一夕で敬語無しで話せるとも思えない。

「……努力してみます」
「そうですね。そうして貰えると私は嬉しいですよ」

これが前橋相手であれば難しくない。けれども、上司である板橋相手だとやっぱり勝手が違う。手の中にあるマグカップに口をつければ、いつものコーヒーよりも酸味が広がる。

「モカですか?」
「えぇ。もし、もう少しローストしてある濃いコーヒーがお好みでしたらコーヒーメーカーの下の棚にあります。淹れましょうか?」
「いえ、これで十分です」
「すいません。朝は余りカフェインが強いものを飲むと胃にくるタイプなので。もし何でしたら新橋さんのコーヒーメーカーも出しておきますが」

何かの本で長時間ローストをしたものほどカフェインを含む率が高いと読んだ記憶がある。恐らく、寝起きではカフェインの強いものを板橋は受け付けないタイプなんだろう。

「いえ、大丈夫ですけど……その、私のキッチン用品というのはどこへあるんですか? 冷蔵庫なんかもあったと思うんですけど」
「あぁ、すいません、そちらは倉庫に預けさせて貰っています。前橋君や新橋さんの冷蔵庫を比べると私の冷蔵庫が一番大きかったので」

まぁ、売られた訳でなければ正直どうでもいい。ここを出る時に返して貰えるのであれば……。それは果たしていつのことだろう。

「そういえば」

板橋の言葉で思考を遮られ、そちらへと視線を向けた。そこには穏やかな笑顔に交じり少し困ったような顔をして自分を見る板橋がいる。

「ここでは課長という呼び方はやめて欲しいのですが。家に帰ってきてまで仕事をしなければならない気分になります」

確かに、それはそうかもしれない。

「じゃあ、何て呼べばいいですか?」
「名前で呼んで貰えると嬉しいのですが」

名前……板橋の名前を知らない訳じゃない。ただ、名前で呼ぶには少し、いや、かなり抵抗がある。

「……おみさん」
「聞えませんよ」
「和臣さん」
「はい、よく出来ました」

穏やかに笑う板橋は手を伸ばすと頭を撫でてくる。子供のような扱いに照れくさいし、気恥ずかしい。それでも頭を撫でる手は優しいもので、赤くなっただろう顔で俯くしかない。

「呼び捨てで構わないですよ」
「む、無理です。これで勘弁して下さい」

慌てて顔の前で両手を振ってこれ以上は無理だと伝えれば、板橋は楽しそうに、そしてどこか上品に小さな声で笑っている。
別に男の名前を呼ぶことに抵抗がある訳じゃない。実家に戻れば弟も兄もいる。けれども、上司である板橋を名前で呼ぶには酷く抵抗があった。
俯いたままの耳に低い、響きのいい声が入り込む。

「芹香」

低い、少し深みのある声が自分の名前を呼ぶ。途端に心臓の音が跳ね上がった。

「私もここではそう呼びますね」

嫌とは言えない。けど、この声で名前を呼ばれると何かが違う。果たして自分はこの声で毎日呼ばれて心臓が持つのだろうか、そんなことまで考えてしまう。
名前を呼ばれることが特別な訳じゃない。この、板橋の声が曲者だ。仕事であれば、この声を聞くと落ち着くというのに、名前を呼ばれるとこんなに落ち着かない気分にさせられると思いもしなかった。

絶対に赤いだろう顔を上げらずに口にコーヒーを含むと、テーブルに置いて立ち上がるとキッチンへと向かう。

「ダメですか?」
「……ダメじゃないです」

それだけ答えるとキッチンに逃げ込んだ。そこに扉が開く音が聞こえて前橋が部屋から出てきた。

「……はよーございまーす」

どこか間の抜けた響きに、自然と笑いが零れた。いつもよりも子供じみた前橋の声に視線を向ければ、余程眠いのか目を擦りながら大きく欠伸をしている。
出来る部下、それが前橋への周りからの総評だし、自分もそれには同意だ。けれども、そんな前橋が朝弱いというのはかなり意外だ。朝からあの明るいテンションで出てくるものだとばかり思っていたけれども、どうも違うらしい。

そんな前橋は洗面所に向かい掛けたにも関わらず、一旦足を止めて視線を合わせると、何故かそのままカウンターに肘をかけてこちらを見ている。

「なに?」
「芹香さんのパジャマ姿、拝んでるんです」

言われて初めて自分の格好に気付いた。板橋も前橋も既にしっかりとスーツを着ているにも関わらず、自分1人がパジャマのままという事実に物凄い勢いで恥ずかしくなる。
男2人との同居とは朝起きた時点で理解していた。していたにも関わらず、やはりどこか寝ぼけていたのかもしれない。

「き、着替えてくる!」

慌ててキッチンから駆け出せば「そのままでいいのに」という前橋の声と、板橋の「前橋君、そういうことは黙っている方がお得ですよ」とどこか楽しげな声が聞えてくる。

我ながら大失態だ。普段の生活なら着替える前に食事を取って、出る前に着替えるという習慣が既についている。だから、ついいつものようにリビングに出てしまったけど、これからは本当に気をつけないといけないらしい。
いや、でも、着替える前に顔くらいは洗いたい、むしろ昨日風呂に入らなかったからシャワーくらい浴びたい。だからといってこの格好で部屋を出るにはもう勘弁だ。少し悩んだ末に1年前に挫折したウォーキング用のスウェットを取り出すと、それを身に付けた。バサバサ纏まりの無い髪も一つに結うと、化粧道具持参で部屋を出た。

2人の視線が気にならないと言ったら嘘になるけど、そのまま無言で洗面所へと向かった。洗面所のラックには自分の家にあったバスタオルも置かれていて、それを手に服を着たまま風呂に入れば、風呂だけでも軽く6畳くらいはありそうな広さでクラクラする。

どれだけ広い家なのよ。

一人ごちながら風呂場で服を脱いでシャワーを浴びる。最初こそ少し冷たかったけれども、すぐにお湯になりかなりすっきりした気分になってくる。頭も身体も手早く洗いタオルで拭うと、湯気で湿気てしまった服を身につける。若干気持ち悪さはあったけど、部屋で着替えるまでの辛抱だ。

洗面所に出て一応風呂場の換気扇をセットしてから、大きな洗面台にある鏡で手早く化粧まで済ましてしまい、最後に髪を丁寧に結い上げた。本来であれば着替えてから化粧したいところだし、面倒でも姿見と化粧台を部屋に買うべきかもしれない。面倒な手順ではあるけど週末まではこの洗面所で我慢するしかない。

最後に口紅だけは残し、再びリビングを通って部屋に戻ると手早く着替えてから改めてリビングに顔を出した。2人はのんびりとソファでコーヒーを飲んでいる様子だったけど、そちらには行かずにキッチンへと立った。

「冷蔵庫、開けても大丈夫ですか?」

一応家主である板橋へと訊ねれば、板橋は笑顔で1つ頷いた。

「冷蔵庫には芹香の物しか入っていませんよ」

うぅ、やっぱり板橋に名前を呼ばれるのはくすぐったい。

そんなことを考えているのに、2人揃っての笑いが耳についてそちらへと視線を向ければ、2人とも苦笑しきりという感じだ。

「何ですか?」
「だって、芹香さん、すっかり仕事モードになっちゃったし」
「声の張りから違いますね」

確かに気持ちの切り替えはシャワー中にした。でも、そこまで自分は仕事とプライベートで違うんだろうか。そうは思いつつも聞くのも変な気がして話題を変える。

「2人の物はどこにあるんですか?」
「冷蔵庫はあったんですけど、私も前橋君も中身は空でしたので」

どうやら2人は自炊をしないタイプだったらしい。私との会話は途切れたけれども、何やら板橋と前橋で話しをしている。自分の物しかないとすれば遠慮はいらないとばかりに1人暮らしにはどう考えても大きな冷蔵庫を開ければ、冷凍庫にはパン、チルドには野菜、冷蔵には卵や肉などが入っていた。基本的に朝食を食べないと調子が上がらないタイプだと自分でも分かってる。冷凍庫から取り出したパンを数えてから2人へと声を掛けた。

「朝ご飯、食べますか?」
「はい、僕欲しいです!」

片手を上げる前橋に比べ、板橋は少し困ったような笑みで「私はいりません」と穏やかに答える。板橋は食事に気を使うタイプだと思っていただけに、少し意外に感じる。けれども無理強いすることなく、卵を2つ取り出すといつものようにトーストにサラダ、そして目玉焼きにベーコンを添えるとダイニングテーブルに並べる。

そうすると、食事すると言った前橋だけでなく、板橋もコーヒーと新聞を手にダイニングテーブルへと移って来た。前橋の「いただきます」という声につられて自分も挨拶をしてから朝食に手をつける。少し早めに起きて良かったかもしれない。もし普段通りに起きていたら、こんなにのんびりはしていられなかった筈だ。

「課長、何か面白い記事ありましたか?」

前橋の質問に板橋はいやな顔一つせず、営業的に知っておいたいい新型商品が出たとか、客先での会話の取っ掛かりに使えそうな記事を幾つか紹介してくれる。悔しいことに、さすがに纏めるのが上手いというか、話しが上手い。

「でも、うちと商品被るから営業先でシロタ工業とは会う確立高いですね」
「高いですね。営業というのは一種の縄張り争いみたいなものですから、負けない努力はして下さい」

気付けば仕事の話しになっていて、つい小さく笑ってしまう。でも、この空気は悪くない気がする。家に仕事を持ち込むのを嫌がる人もいるけど、こうして意見を交わせるのであれば持ち込みも嫌ではない。
けれども、不満を持つのも1人。

「僕も早く1人前になって、その話題に入りたいところです」

ぼやく前橋につい笑ってしまえば、板橋も楽しそうに笑っている。前橋が自分の手を離れるのはあと少し。これだけ飲み込みが早いのだから、営業として新人でもそれなりの数字を叩き出すに違いない。

「あぁ、1つ言い忘れていました。芹香にとって社内で信頼している人はいますか?」

唐突な質問に質問を投げたい所だけど、自分の中で思いついたのは千里1人しかいない。

「います、けど……何かありますか?」
「芹香が信頼しているのであれば、その方にはこの状況を説明しても構いませんよ」

構いませんと言われても、むやみやたらに話せる内容ではないし、他の人間の耳に入れば大問題だ。

「その意図は何ですか?」

問い掛ければ板橋は穏やかに笑う。でも、この穏やかな笑みが結構曲者なんだと最近気付いた。だって、全ての感情を包み隠してしまう。

「男では分からない何かがあった時に困るんじゃありませんか? 勿論、話さなくても構いませんよ。強制ではありませんから」

確かに男2人との同居というのは現時点でもかなり戸惑いがある。けれども、それを千里に言えるかと考えると別問題だ。確かに同期の中では自分にとって仲がいい存在ではあるが、千里にとってはそうではない。部署も違えば、休日に遊ぶような仲でもない。そう考えると、入社して数年経つのに自分がどれだけ人間付き合いを切り捨てたのかよく分かる。まぁ、自業自得だから仕方ないと自覚はある。

「分かりました」

言うとも、言わないとも伝えず、意図はわかったことを伝えてから「ごちそうさま」と声を掛けてから席を立った。食器を洗おうと袖を捲れば、板橋が空になったコーヒーカップを片手に流しの下にある引き出しを一つ開けた。

「こちらに入れておいて下さい」

立派な食洗器に驚きながらも、食べ終わった皿を軽く水洗いしてから食洗器へと入れた。一人暮らしの家に作り付けの食洗器……それはある意味カルチャーショックを受けたが、間取りを考えればどう見てもファミリータイプ向けの物件なのだから、これはこれでありなのだろう。そう納得しながらも洗面所で歯を磨き、部屋からいつもの鞄を掴むと玄関へと向かった。

「芹香さん?」
「今日にずらした分の書類上げとかないといけないから、もう出るわ」

昨日、板橋が変わってくれた営業の他にも、期限が残り少ない書類が幾つかある。本来であれば昨日やってしまうところだったけれども、同期会のために終えることが出来なかった。
基本的に残書類があるのは自分的に落ち着かない。挨拶と共に2人に見送られながら部屋を後にした。

が、しかし……玄関の扉が閉まるよりも早く、再び扉を開ける。驚いているのは家の中にいた2人だ。

「あの、駅、どこになります?」

昨日、車で移動したからここがどこだかよく分からない。2人はお互いに顔を見合わせてから、こちらを向いたかと思うと声を殺して笑いだした。

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