安全圏の彼と彼 第2章

うーん、頭が痛い。

折角の休日だというのに目覚めは最悪で、気分すら重い。
昨日、結局眠れなくて実家から送られてきたままになっていたビールを2缶開けた。酔いはほどよく回って確かに眠りにはついた。
けれども、起きてみれば二日酔いだし、見た夢は最悪だしどうにも気分は冴えない。しかも忘れたい事実を夢の中で再び認識する羽目になっていて、朝だというのに最悪な気分だ。

いつでも格好イイ女でありたいと思っていた。特に仕事中はそうだし、可愛いなんて言われると甘やかされているようで気分がよくない。
自分で十分にひねくれた考え方だというのは自覚していたけど、それでも言われたくないと思っているんだから仕方ない。

それなのに!

何で会社の人間に、しかも部下なんかに可愛いなんて言われなくちゃいけない! 確かに言われてみれば、それはそれで悔しいけど少しだけ嬉しいとか思ったわよ。あげくの果てに最後まではしてないけどエッチなことしちゃったとか、本当に最悪じゃないの。
考えれば考えるほど憂鬱になる気分のままに溜息を吐き出すと、渋々ベッドから足を下ろす。気分は鬱蒼としているにも関わらずお腹が空くのも腹が立つ。

そんな思いを抱えながらもコーヒーメーカーをセットすると、冷凍庫から買い置きしてあるベーグルを電子レンジの中に入れた。カウンターキッチンにある唯一のカウンターチェアに腰掛けると頬杖をついて再び溜息をついた。

確かに前橋だから大丈夫だと安心していた部分は多分にある。けれども、誰があの前橋があんなことをすると想像するか。それどころか、そんなことをされたと言っても誰も信じないに違いない。
第一、そんなことをされたと他人に言えるような自分でも無いし、それについて他人からどうこう言われるのも我慢ならない。何よりも、他人にいいようにされたという事実を他人に知られたくない。悔しいけれど、前橋が誰かに言ったりしないことを祈るしかない状況がまた腹立たしい。

とにかく、いつまでもこんなことを引き摺るようなことはしたくない。二日酔いは最悪だし、夢見も悪かったけど、折角の休日、前橋のことなんて考えていたくもない。
別に最後までされた訳じゃないし、恐らく気まぐれに違いない。気にしたら負けだ。

そんな気持ちで勢いよく立ち上がると腕を伸ばして大きく伸び上がる。
部屋中にコーヒーの香りがして気持ちを切り替えるとお気に入りのマグカップにコーヒーを注ぎ、お気に入りのベーグルを皿に入れるとカウンターに並べる。先日作り置きしておいた野菜をチルドから取り出して皿に盛ると、それもカウンターに置いてからカウンターチェアに腰掛けた。のんびりとした朝食を採りながら、今日の予定を考えていく。

とにかく食材の買い物もしたいし、先日仕上がったと連絡のあったスーツだって取りに行かないといけない。
空は快晴。まずは掃除、洗濯をして出掛けることにしよう。
そう決めると、いまだ治まらない二日酔いで頭痛のする頭を軽く指先で押さえながら今日の予定を立ててしまう。

朝食後に洗濯機をセットすると手早く皿を洗い掃除機も掛けてしまう。快晴のベランダに洗濯ものを干す頃にはすでに12時を回っていた。
家で食べることも考えたけれども、折角だから外で昼食を採ってしまうことにして着替えとメイクを済ますと部屋を後にした。

電車に乗って2駅隣に出れば、そこは何でもそろう街でもある。荷物が増えてからだと面倒だから昼食を先に取ってしまうことにする。後でケーキ屋に寄ることを考えると昼食は軽めにしたい。
だからこそ、駅近くにあるカフェに入ろうとしたところで「新橋さん?」と声を掛けられて振り返った。
そこにいたのは板橋で、スーツ姿でない板橋が珍しく、挨拶しながらもつい不躾なほど見つめてしまう。

「どうかしましたか?」

視線に気づいた板橋に問いかけられて小さく頭を下げた。

「すいません。見慣れない姿でつい見てしまいました。お似合いですね、そのセーター」

薄手のセーターはブルーグレーで見るからに柔らかそうなもので、品良く見える。中に着ているシャツはグレーで、板橋の優しげな雰囲気と今の季節に似合うものだった。
何よりもいつもしているスクエアの眼鏡とは違い、今日の眼鏡は縁なしのもので、髪型も固められることなく下ろされていて普段よりも若く見える。

「有難うございます。新橋さんにそう言って貰えると嬉しいですよ。新橋さんはお世辞が苦手ですから」

社内で四年という付き合いは伊達じゃないらしい。すっかり見抜かれている自分の性格に苦笑すると「営業向きじゃなくてすいません」と謝るしかない。けれども、板橋はただ穏やかに笑いながらカフェの扉を開けた。

「どうぞ」
「有難うございます。課長は一人ですか?」
「えぇ、スーツを新調しようと思っていましたので。新橋さんは?」
「私も一人です。私は先日頼んだスーツを取りに来たんですよ」
「そうですか。それならご一緒させて頂いても宜しいですか?」

問い掛けに断る理由も無く、二つ返事をして窓際の席に二人で腰を下ろした。

「それにしても、こうして社外で会うのは珍しいですね」
「えぇ、社外で会社の人に会ったのは初めてです」

実際に社外で会社の人間に会ったのは初めてのことだ。確かに人間の多い場所だし、余程近くをすれ違わないことにはお互いに気づかないに違いない。
オーダーを取りにきたウエイターに私はグラタンとコーヒーを、板橋はサンドウィッチとコーヒーを頼むと再び向かい合った。

「新橋さんは会社でも休日でもあまり服装が変わらないんですね」
「そうですね。家だと大分怠けてるんですけど。そういう課長は随分印象が違うんですね。正直、驚きました」

店の前で声を掛けられた時、一瞬、誰だかすぐには分からなかった。
板橋は基本的にスーツを着ている姿しか見たことがないし、髪型にしても営業マンらしくカチリとサイドをまとめてある。何よりも印象を変えたのは縁なしの眼鏡だったに違いない。
元々柔らかい印象ではあるけれども、社内にいる時よりも上品さはそのままに、更に優しい雰囲気に見える。

「休日まで余り堅苦しい格好はしたくありませんよ。ところで、今日はこれから何か予定がありますか?」
「いえ、別にスーツを取りに行ってケーキでも食べて帰ろうかと思っていたくらいですけど」
「それでしたら、不躾なお願いで申し訳ないのですがスーツを選ぶのを手伝って貰えませんか? 自分で選ぶといつも同じようなスーツばかりになってしまって」

そう言って笑う前橋のスーツ姿はいつもグレーのものが多い。

「そういうのは彼女に選んでもらった方がいいんじゃないんですか?」

その問い掛けに板橋は少し困ったように笑う。

「いたらそうするんですけどね。恋人もいませんし、営業先で代わり映えがしないと言われて、実はちょっと困っていたりするんですよ。新橋さんならセンスも良さそうなのでお願いしようかと。勿論、お礼はさせて頂きますよ」

服を選ぶことは嫌いじゃない。むしろショッピングは好きだ。それに板橋のような顔立ちであればスーツを選ぶのも楽しいに違いない。何よりも、自分が選んだものを誰かに着て貰えるというのはちょっとした魅力でもある。

「いいですよ、お供させて頂きます」
「本当に助かります」

そう言って笑う板橋の顔は優しげなもので魅力的なものだ。ただ、自分の好みかと聞かれると違うものではあるが。
板橋課長に恋人がいないと聞いたら、千里喜ぶだろうな。
表情がコロコロと変わる、美人な同僚を思い浮かべると自然と笑みが浮かんだ。

普段であれば仕事の話しに花が咲くところだけど、板橋が気遣ったのか基本的に仕事の話しは出てくることなく、当たり障りのない話しをしながら昼食を終える。

* * *

「こんな感じですがどうですか?」

試着室から出てきた板橋の着ているスーツはブラウンで落ち着いた三点もの。ジャケットの合間から見えるベストに満足して自然と笑みが浮ぶ。

「凄いいいです」
「えぇ、とてもお似合いでございます、板橋様」
近くに立つ店員と共に声を掛ければ、板橋は柔らかい笑みを浮かべた。
「そうですか。それなら、先のグレーのストライプとこれを頂きましょう」
「え? 両方ともですか?」

思わず声にしてしまったのは、どちらも値の張りそうなものだったからだ。今板橋が着ているスーツは吊るしものだが、着た時のイメージを見るためのもので売り物ではない。
小さいながらも店構えも重厚なもので、入る時には躊躇したほどだった。そして極めつけはどこにも値段が掛かれていないのだから、一体幾らするのか想像もつかない。そんな店で2着もスーツを買う板橋に驚きを隠せない。

「えぇ、折角ですから」
「板橋様、2着で宜しいでしょうか?」
「お願いします」

板橋に確認を取った店員はにこやかに微笑みながら先ほどまで図っていたサイズ表に何やら記帳している。
そういえば、名前を名乗った訳でもないのに店員は先ほどから板橋の名前を呼んでいる。それは板橋がこの店の常連であることを示していて、遅れながらもそのことに気づいた。だとすれば、いつも板橋が着ているスーツがとても似合うのも納得だった。

オーダーメイドのスーツであれば、吊るしとは違い肩幅やら袖丈、着丈などが本人にフィットする。
それは、その人に合わせて仕立てられたものなのだから、色柄さえ合えば上品なものに仕上がるのも当たり前だ。

何か、同じ会社の人なのに全然違う世界の人みたい。
今までそんな人が回りにいなかったこともあり、考えれば考えるほど不思議な気分にさせられる。少なくとも、自分の周りにオーダーメイドの服を着るような人間はいない。

「疲れましたか?」

着替え終えた板橋に声を掛けられ、慌てて振り返ると首を横に振った。

「いえ、珍しい物を見せて頂いたので少し不思議な気分だったりします」
「あぁ、オーダーメイドの服ですか? 実はこの店は祖父の友人がやっているお店なんです。だから、私もそれなりのお値段で使わせて貰っているんですよ。私の給料でこの店には来れませんよ」

そうは言うけれども、先程この店に来るまでに乗せて貰った車は高級外車だったし、試着室の外に並べられた靴は高級ブランドのものだった。
確かに品のいい紳士になるにはそれなりに身なりにお金が掛かるだろうことは分かってはいるけど、でも、想像していたよりも高級品ばかりで気後れしつつある自分がいる。

「まぁ、祖父は孫可愛がりで甘やかされている部分は多々ありますね。一人の男としては情けないことですが」

笑ってはいるけど幾分翳るその笑みに慌てて口を開く。

「そればかりは仕方ありませんよ。ほら、良く言われるじゃないですが、我が子よりも孫の方が百倍可愛いとか。優しいお爺様なんですね」

正直、祖父や祖母を早くに亡くした自分には甘やかされた記憶なんてものはなく、普通の感覚はよく分からない。それでも回りから聞いている限りのフォローをすれば、課長は私の顔をジーッと見てから小さく溜息をついた。

「え? 何か不味いことでも?」

反応に慌てて上擦る声で問い掛ければ、課長は小さく頭を振った。

「いえ、新橋さんは悪いことは全くありませんよ。ただ、そこまで興味を持たれていないのかと思うと少し悲しいものがありますが」
「えっと……?」

一体どういうことなんだろうか。考えて見ても自分がおかしなことを言ったとは思えない。

「興味、ですか?」
「えぇ、同僚から聞いたりしていませんか? 私の祖父の話しを」

課長の祖父の話しなんて……いや、もしかして出ていたのかもしれないけど、自分は聞き流していたのかもいしれない。確かに他人の色恋に興味も無ければ、他人の家庭なんてものにはましてや興味はない。

「すいません」
「会長、うちの会社の現会長が祖父です」
「いっ!?」

驚きの余りらしくもない声を上げれば、その反応に目を丸くした板橋は次の瞬間に小さく声を漏らして笑い出した。

「え? え? じゃあ、今の社長が」
「私の父です」

いやいやいや、興味ないからって、それは余りにも興味無さすぎでしょ、私! 確かに社長の顔なんて年に1回しか拝まないけど、だからって、だからって……。
いやいや、待て待て。落ち着け、私。いや、無理だって。

続く言葉が見つからず金魚のように口をパクパクさせる私を見て、課長は殊更楽しそうに笑う。

でも板橋が人気ある訳も分かった気がする。
基本的に穏やかで微笑みを絶やさない課長が何故にそこまで人気あるのか不思議だった。どちらかと言えば、少し強引に引っ張っていってくれるタイプの方が好きそうな女子まで課長、課長言っていたけど、ようはバックボーンが結婚には大切、ってことなのか。納得して呆れもしたけど、結婚にお金は必要という言葉に反論するつもりもないから、他人から見たら自分も似たり寄ったりに違いない。

今いる営業課として10人くらいの規模ではあるけど、実際には自分がいる営業課は営業5課。会社としての規模は千人前後の会社だからそれなりの規模もある。その身内ともなれば、周りの期待もそれなりのものなのだろう。

「じゃあ、いずれ課長も社長ですか?」
「いや、兄がいるからそれはありません。因みに兄は専務です」

はぁ~、ともう大きな溜息しか出てこない。

確かに回りの人間関係に余り興味が無いとは言えども、興味無さすぎて泣けてきそうだ。ここまで無知だとさすがに失礼な気がしてならない。

「あの、すいません」
「ん? 何がですか?」
「色々と知らなくて申し訳ないというか」

暫しの無言が流れて、気恥ずかしさに顔を合わすことも出来ず次の言葉を待つ。

「まぁ、新橋さんらしいですが、もう少し興味を持って貰えると私としても嬉しいのですがね」

興味? 私としても嬉しい?
あぁ、そうか。課長にとっては身内の会社。それは興味が無いよりも社員であるんだから興味くらい持って欲しいに違いない。

「今後は気にしていきます」
「そうして下さい」

ようやく顔を上げて板橋を見上げれば、菩薩顔で笑う板橋と視線が合った。穏やかなその笑みにホッとしつつ自分も笑みを返した。
カード支払いを終えて店を出れば、すでに3時を回っていた。その店からすぐ近くにあるデパートで自分のスーツを受け取ると、隣りの紳士服売り場でネクタイを見ていた課長と合流する。

「お待たせしました。本当にすいません」
「いいえ、私が強引に待たせて貰ったんです。こちらこそ申し訳ありません」
「いえ、そんな」

慌てて首を横に振り否定すると、2人並んでデパートの中を歩き出した。少し歩いた所で課長が足を止めて手を差し出してきた。

「その荷物、私が持ちましょう」
「そんなのいいですよ」
「いえ、男女2人で連れ立って歩いているのに女性に荷物を持たせておくと周りの目が気になるものです」

課長の視線に促されて近くを見れば、少し年配の夫婦が妻の荷物を自然と持つ夫の姿がある。

「いえ、でも」
「肩身の狭い思いをするより、荷物持ちの方が気分いいですから」

それならと、渋々ながら課長に持ったばかりの紙袋を預けた。
女性としてここまで丁重に扱われたことがないだけにくすぐったい気分のままデパートと後にした。

* * *

「何だか申し訳ありませんでした。結局食事までご馳走になってしまって」

車を止めた板橋に改めて頭を下げれば、穏やかな笑みを浮かべた板橋は軽く頭を振った。

「いいえ、こちらこそ楽しい時間を過ごさせて頂きました」
「でも、折角の休日を1日潰してしまう結果になってしまって」
「別に構いませんよ。休日といっても持ち帰りの仕事をするか、読書するくらいしか楽しみがないので」

そう言われても、板橋ほどの紳士ぶりであれば周りの人間が放っておかない筈。社内でもあれだけもてるのだから、それ以外でも十分もてるに違いない。
そう思うと自分が休日を潰してしまったのは楽しいと言われても申し訳なかった。何よりも、こういう場で言われる楽しいは大抵社交辞令と相場は決まっている。

「こちらこそ楽しかったです。本当に有難うございました」
「本当に……」

小さな声が聞き取れず「はい?」と問い掛ければ、運転席に座る板橋はゆっくりと眼鏡を外して顔を覗き込んできた。悪戯に成功でもしたような顔と、普段とは違い強い視線に全身鳥肌が立った。

くっ……最後の最後でやられた。

正直、眼鏡をしている板橋の顔には興味すら無かったのに、眼鏡を外して真っ直ぐと自分を見つめる板橋の顔はストライクだった。途端に胸の鼓動が早くなり、身体全体が心臓にでもなったように感じた。

「本当に楽しめましたか?」
「は、はい」

返事はしたものの、その声が上擦ってしまう。

嫌だ、この人だけは好きになりたくない。

余りにも競争率の激しい人間を好きになるには自分には気力というものが足りない。だからといって片想いなんて疲れることはしたくない。聞いてるだけであれだけ疲れるものなんだから、自分がしたらどれだけ泣きを見るのか分かってる。何よりも本当の自分を知られて幻滅されるのが一番嫌だった。

「も、勿論です。ほら、あの、私の場合、お世辞が下手ですから」

カフェで言われたことをそのまま言えば、板橋の口の端が少し上がる。その笑みはいつもの穏やかなものではなく不穏さすら感じさせるものだった。でも、その笑みに見惚れた自分がいて、しばらく板橋から視線を逸らせずにいた。

「そうですね。それなら、また食事に誘ってもいいですか?」

いつもより少し低いその声に、背筋がゾクリとした。やばい、この人、反則だ。全然好みなんかじゃないと思ってた。それなのに、眼鏡外した顔とか、この声とか好みすぎる。

「新橋さん?」

いつものような柔らかい声じゃない。どちらかと言えば威圧的とも言えるその声をそれ以上聞きたいような聞きたくないような混乱のままに、内容も咀嚼せずに頷いた。

「そうですか。それならまた連絡させて貰います」

そう言った板橋の声は普段通りのもので、ハッと我に返り俯いていた顔を板橋へと向ける。けれども、その顔は会社で見るものと同じく菩薩顔で先程までの不穏さはない。

「あ、あの」
「本当に遅くまでお付き合いさせてしまいすいませんでした」
「いえ、あの、こちらこそ」

そこでニッコリと微笑まれてしまえば話しを続けることは出来ない。助手席の扉を開けると、荷物を手に車を降りた。

「ご馳走さまでした」

頭を下げればにこやかに微笑まれ、軽く手を上げてから板橋は車を発進させてしまった。混乱のままに板橋の車を見送り、狐に化かされたような気分でマンションに入った。

何が何だか自分でも混乱している。元々、自分の好みとしては押しの弱い男は余り好みじゃない。
自分が押しの強い女だと分かっているだけに、自分と対等に張り合えるだけの強さを持つ男が好みだ。

でも、まさかあの課長が……?
いやいや、それはない。
だって、菩薩様とか言われちゃってるような人だよ?

自答自問しながらも部屋へ戻ると、買ってきた紙袋をカウンターに乗せると電気をつけたばかりのキッチンへと入る。その足で冷蔵庫に向かうとミネラルウォーターを取り出し喉に流し込んだ。

――――そういえば、昨日も混乱しながら同じようなことをしていたな。

その途端、昨日浴室でされた出来事が感覚と共に蘇り、小さく息を飲んだ。前橋にしろ板橋にしろ、絶対に安全な男だとばかり思っていた。自分は何か見間違えているのか、それとも白昼夢でも見ているのか。そう思っては見るけど、昨日の前橋の指の感触も、先程みた板橋のどこか意地の悪い笑みも鮮明に思い出せる。

……何だか、やっぱり化かされてる気分だわ。

すっきりしないままソファに腰掛けると、持っていたペットボトルをサイドボードに置いた。一人暮らしということで部屋はリビングダイニングと寝室の二間しかない。どうせなら部屋を広く見せたいがためにリビングにはテーブルというものは置いていない。それでもテレビやDVDを見る時には水分を取ることもあるのでソファの横には小さなサイドボードだけ置いてある。
ペットボトルから滴り落ちる雫は、流れ落ちてサイドボードの上に徐々に広がっていく。

何か私、ちょっとヤバいかな。

日常とは掛け離れた週末に危機感を覚える。基本的に生活を乱されることは好きじゃない。けれども、この週末は色々とありすぎて頭がオーバーワーク気味だ。
問題をクリアーしていくことは嫌いではないが、こと恋愛やらセックスのことになると頭は働いてくれなくなる。それも当たり前の話しで、経験値が足りないのだから働きようもない。
周りでそういう話しが盛り上がる時、自分には関係無いとばかりに自然と流していたつけが今頃きたのだろうか。

大きく溜息を零したところで玄関のチャイムが鳴った。時計を見ればまだ九時を回ったところで、夜間指定していた宅配便でも届いたのかと慌てて玄関の扉を開けた。普段、家に来るのは宅配便くらいしかないのだから、それ以外の人物というのは全く予想すらしていなかった。

扉を開けてその爽やかな笑みを見た瞬間に扉を閉めたくなった。
というか閉めた。

けれどもあと少しというところで玄関の扉は閉まらず「どうして~」と泣きたい気分になりながら声を上げた。

「だって僕の足、挟んでますから」
「だったら抜けばいいじゃない」
「そしたら芹香さん、ドア閉めるでしょ」
「当たり前じゃない。それに名前で呼ばないでよね」
「えー、僕達あんなことやこんなこと」
「やーめーてー!」

思いの他大きな声で言われて、慌てて扉を開けると前橋の言葉に被せるように叫びながらその口を掌で塞いだ。

「ちょっと、どういうつもりよ!」

これ以上玄関前で騒がれては堪らないとばかりに玄関に引き入れると、前橋は抑えていた掌を強引に外した。

「どうもこうも、こうしないと入れてくれないでしょ? 芹香さんは」
「当たり前じゃない。何でたかが会社の部下を部屋に入れないといけないのよ!」
「ただの部下?」

一瞬、鼻で笑われた気がしたのは気のせいか。

「な、何よ。本当のことでしょ」
「芹香さん」

改めて名前を呼ばれて、ビクリと身体が震えた。それは恐怖だったのか、期待だったのか自分でも分からない。けれども、熱っぽく自分の名前を呼ばれて昨晩のことを思い出したのは確かだった。
慌てて一歩後ろに下がれば、逃がさないとばかりに手首を掴まれそのまま壁に押さえつけられた。

「ちょ、ちょっと!」

近付いてくるその距離に慌てて顔を背ければ、耳を舐められてゾクリと肌が粟立つ。

「ねぇ、昨日の可愛い芹香さん、もっと見せて」
「やめて、そんな所で話さないで。それにこの手を離しなさい」

強い口調のつもりだったけど、情けないことに語尾は震えていた。
目を合わすのが怖い。前橋は自分が知りたくない何かを突きつけてくる。だから怖い。

「芹香さんの手、震えてる。怖い?」
「そんなこと無いわよ」

負けず嫌いが顔を除かせてしまい、自分の失言に気がついた時にはもう遅い。

「ふーん、じゃあ、感じてるんだ。昨日のこと思い出して……」

艶含みのその声と、言われた内容に一気に身体中の体温が上がった。

「つっっ!!」

悔しいことに先程思い出して僅かながらも感じてしまったことを指摘されたように思えて反論の言葉が出てこない。
何が楽しいのか前橋は耳元でクスクスと楽しそうに笑う。その吐息が耳にあたってくすぐったい。勿論、くすぐったいだけじゃなくて、腰に重い痺れを残した。

「離して」
「ダメです。折角来たんですからお茶くらい淹れて下さい」
「お茶淹れたら帰るのね!!」

強い口調でそれだけ言えば、一瞬前橋の空気が固まり、次の瞬間には盛大に笑い出した。余りの笑いに前橋は押さえつけていた手も離し、お腹を抱えんばかりに笑っている。そんな前橋を不審に思いながらも、ゆっくりと移動して安全的な距離を取った。

「な、何よ」
「いや、芹香さんのそういう天然なところ好きだなぁと思って」

何がそんなに笑いのツボにはまったのか分からず訝しげな視線を投げれば、余程笑ったのか前橋は目尻を拭うと改めて視線を合わせた。

「芹香さん、よーく考えて下さいよ。これから襲いますという相手がお茶を飲んだだけで素直に帰ると思いますか?」

――――言われてみれば確かに無理がある。

「ていうか、襲いにきた訳?」
「まぁ、その予定でしたが、今日は笑わせて貰ったので予定変更して素直にお茶を淹れて貰って帰ります」

そう言って爽やかに笑う顔が曲者だと知っているだけについ訝しげに前橋を見てしまう。そんな私の視線に気づいたのか前橋は両手を上げて苦笑した。

「はい、今日は何もしません」
「本当に?」
「はい」

しばらく前橋を睨んでいたけど、その目に先程のような欲は見えず小さく溜息をついた。

「お茶、飲んだら帰ってよね」

溜息と共にそれだけ言うと前橋に背を向けてキッチンに向かった。そんな自分の背中に前橋の声が届く。

「余り可愛くないこと言うとまた襲いますよ」

不穏な発言に振り返れば、前橋が草食系バリバリな顔で笑う。
その顔で笑うな!
怒鳴りそうになる気持ちで急須とお茶の葉を取り出すと勢いよくシンクに置いた。

「全く、何で私なのよ。あなたなら幾らでも引く手数多でしょ!」

怒鳴りながらも急須に茶葉を淹れるとポットのお湯を注ぎ込む。勢い半分、怒り半分で淹れているから、全ての行動が荒いのは仕方無い。

「だって、僕芹香さんのこと好きですから」

照れもせずに言う前橋に言葉に、投げ遣りに「それはどうも」と心にもないお礼を言いつつ食器棚から出した湯のみにお茶を淹れた。
カウンターチェアに座りこちらの行動を見ている前橋を視界に淹れながら、淹れたてのお茶をカウンターに置いた。本当なら勢いよくドンと置きたい気分ではあったけど、そんなことで自分が火傷するのは馬鹿らしい。

「ちぇっ、仕事モードの芹香さんは口説き難いなぁ」
「口説くな。名前を呼ぶな」
「職場ではしませんよ」
「当たり前でしょ。仕事とプライベートも分けられない男なんて屑よ、屑!」

本心からそう思っている訳ではないが、欠片くらいはそう思っているから嘘ではない。けれども、勢いのままに言った言葉に前橋は困ったように笑う。

「きっついなー、芹香さん」
「何がよ」
「恋人のことが気になって気になって、仕事が手につかないことがある日だってあるでしょ~」
「無いわね」
「じゃあ、恋したことないんだ」
「べ、別に私だって恋くらい!」

そう、ちょっとした見得だった。本当は恋なんてしたことない。少なくとも周りで言うような胸がキュンとなるような恋とか、焦がれるような恋なんてものは知らない。

「……いつ?」

だから誤魔化すのに必死になっていた私は前橋の声音が変化していることに気付けなかった。

「そんなのあんたに言う必要ないでしょ」
「誰、それ」

手にしていた湯のみを置いた音に我に帰れば、前橋の目は挑むように自分を見つめていた。

「な、何よ。別にあんたに言う必要は――」
「いいよ、言わなくても。でも、誰か分かったら僕は言うよ。芹香は僕ともエッチをしました、って」
「そして今もこういう関係です、って」

立ち上がって一瞬にして距離を詰めた前橋は、一歩下がる暇もなく唇を重ねてきた。文句を言おうと口を開いた途端に舌が口内に入り込み、感じる上顎を舐め上げる。それだけで急速に体温が上がるのは、自分の身体がその感覚を覚えてしまったからだろう。

「や……め……んんっ」

より深く口付けられて、逃げる舌を絡めると強く吸われた。その感覚に背を震わせると、前橋の腕が背中に回り抱きしめられる。強く抱きしめられながら、息も継ぐ間もなく舌で口内を舐られる。徐々に足元が覚束ないものになり、膝がガクリと折れた。
そのタイミングで唇が離れると、ゆっくりと背に回されていた力が抜けて床へ崩れ落ちた。見上げれば、前橋が赤い舌で濡れた唇を舐めるのが見える。そしてその目は真っ直ぐに自分を見据えていた。その扇情的な姿に全身が更に熱くなる。

どうしよう。何かとても不味い気がする。こうして独占欲を丸出しにされると悪い気がしない。だからといって今は特定の恋人を作るつもりなんて更々無いし、年下の恋人なんて想定してない。

「私は前橋にそんなこと言われる立場では無い筈だけど?」

余裕なんてものは全然無いけど、いつものはったりで余裕ありげに問い掛ければ、前橋は片眉を上げた。

「色々なことしてるのに?」
「世の中にはセックスフレンドというものもあるわ」
「芹香さんには無理でしょ。だって、経験無いんだから」

図星を指されてカッと顔が赤くなるのが分かる。
何でそんなこと年下の男に、しかも部下に言われなくちゃいけないのか、考えるだけでイライラする。

「私に経験があろうと無かろうと、あんたには関係無いでしょ!」
「まぁまぁ、そんな怒らないで」
「普通は怒るでしょ! 警察に駆け込んでもいいくらいだわ!」
「でも、しないでしょ? 芹香さんは」

そうだ、前橋はそうしない自分を分かってる。警察でこんな状況を説明するなんてゴメンだ。何よりもそんなことを職場に知られるなんてもっとゴメンだ。

「……こんなことしても、私は好きにならないわよ」
「う~ん、そうなんですよね」

少し困ったような、でもどこか楽しげな笑みを浮かべた前橋は軽く肩を竦めて見せる。

「だから、キス以外のことはしません。この間みたいなことは芹香さんのオッケーが出るまで我慢します」
「キスも遠慮しなさいよ」
「それは無理ですよ。だって、芹香さんの唇が誘ってるんですから」
「誘ってないわよ!!」

何だかもう、異星人とでも会話してるような気がしてドッと疲れが押し寄せてきた。

「……ねぇ、前橋もてるでしょ」
「そうですねぇ、彼女を切らしたことが無いくらいには」
「だったら」
「僕、基本的に来る者拒まず、去る者追わずって感じなんです」

人の言葉を遮ってまで前橋は一体何を言うつもりなんだろうか。続く言葉を待っていれば、前橋はニッコリと営業している時のような他人向けの笑みを浮かべる。けれども、今はその作り笑顔が少し怖い。

「でも、自分から執着したものは飽きるまで手放すつもり全く無いんですよ。人でも、物でも」
「……飽きるまで相手しろ、と?」
「芹香さんなら飽きませんよ」

断言した。
飽きないって断言したわ。

途端に頭がグラグラしてくる。余りのありえなさと、傲慢さに。

「そんな保障、どこにも無いわよ」
「あります。だって、こんなに好きになったの芹香さんが始めてですから。一層、自分の家に閉じ込めておきたいくらい」

――――誰だ、こいつを草食系と称していた奴は。

断じて違う。
肉食系なんてもんじゃなくて、こいつは獰猛系だ。気を抜いたら一気に頭から食べられるに違いない。何よりも、そんな言葉を笑顔で言い切れる前橋という人間に恐怖すら覚える。

「逃げます? 逃げても、僕、地の果てまで追い駆けますよ。気に入ったものは手に入れる性質なので」
「……取り合えず、そうして手に入れたものの代表格は?」

「代表格ですか? 骨董市で見つけた瀬戸物がどうしても欲しかったんですけど、手持ちがなくて銀行に走ってる間に他の人間に買われてしまいました」
「で?」
「結局、買った人を追い駆けてロンドンの片田舎まで行きましたよ」
「は? ロンドン?」
「えぇ。何でも買った人は日本の方だったんですけど、その方は他の方に譲ってしまって、譲られた人は他の人間にどういてもと頼まれたらしいです。どうやらその方、社長さんだったらしく、会社に飾っておいたら海外からきた取引先の方が気に入ったとかで結局売ってしまったらしいです。で、その取引先の方は自分の母親にプレゼントしたらしく、そこまで行きましたよ」

「えっと……それは探偵にでも頼んだとか?」
「いいえ、自力で探しましたよ。だって、欲しいものは自分で手に入れないと面白くないじゃないですか」

果たしてそういうものなんだろうか。
物に執着のない自分には理解出来ない感覚だ。けれども、その執着心は怖いものがある。

「因みにその瀬戸物は今どこに?」
「勿論、自分の家に飾ってありますよ。当たり前じゃないですか。欲しくてしょうがない物だったんですから」

何だかもう、考え方の違いにクラクラする。
理解出来ない、というのが正しいのに違いない。頭の痛くなる思いに、指先でこめかみを軽く押さえる。

「……今までに手に入らなかったものは?」
「んー……2番目の恋人、かな」
「恋人だったら手に入ってるんじゃないの?」
「いえ、事故で死んでしまったので最終的には手に入っていませんよ」

事故で亡くなったのであれば、自分は酷い質問をしてしまったのかもしれない。

「ごめん。古傷抉るようなことを聞いて」

私の言葉を聞いて少し驚いた様子で目を丸くした前橋だったけれども、次の瞬間には今までに見た中で一番穏やかで優しい笑みを浮かべた。

「いえ、気にして貰えたことの方が嬉しかったですから。それに、どうしても手に入らないものに対しての諦めはこれでも結構早いんですよ。それについては気にしないで、他に質問ありますか?」

笑ってはいるけど、傷の深さなんて他人から見たら分かるものじゃない。だとすれば、これ以上恋人について触れない方がいいのだろうか。けれども、恋人なのに手に入っていないと断言する前橋の意図が分からない。ここは、きちんと確認だけでもしておいた方がいい気はする。
前橋の様子を伺いながらも、遠慮気味に口を開く。

「でも……亡くなったとしても恋人だったのよね? 十分手に入ってるじゃないの。それとも結婚まで求めてたの?」

自分が思っていたよりも前橋は気にした様子なく、笑みを浮かべたまま楽しそうに目を細めた。

「別に恋人になったからって、結婚したからって手に入った訳じゃないでしょ? 恋人や結婚程度ならいつでも離れちゃいますし」

やっぱり異星人かもしれない。自分には前橋の言ってることが理解出来ない。いや、意味は分かっても理解したくないだけなのかもしれない。

「どこまでいったら手に入ったことになるの?」
「恋人が別れを切り出せない状況になったら」

――――切り出せない状況になったら?

それは、俗に言う脅迫というものじゃないのだろうか。それは手に入ったといっていいものなのか。疑問が無くはないけれど、今は突っ込む気力すらない。

「……とにかく、今は恋人作る気もないし、誰かのものになる予定も無いわ。第一、私は私であって、誰かの所有物になるつもりは全く無いわよ」
「絶対そう言うと思いました」
「だったら諦めなさいよ」
「無理です。だって、そう言われたら余計に燃えるじゃないですか」

とても楽しそうに微笑む前橋を見て、うんざりした気分になる。
これはあれか、私は火に油を注ぐというやつなんだろうか。でも、実際に前橋のものになるなんて冗談じゃない。第一、閉じ込めておくとか、そんな奴と恐ろしくて付き合えるものじゃない。

「悪いけど、あんたの恋愛感に付き合えないわ」
「えぇ、分かってます。だからこれからは正攻法を踏もうと思って」
「は?」

間抜けとも言えるらしくもない声に前橋は更に笑みを深めた。

「デートして、キスして、エッチしてという過程を芹香さん相手なら踏むしかないかなと思って。だって、芹香さん、色々と免疫無さすぎて今までのようにはいきませんから」

免疫無さすぎという言葉にカチンとこない訳じゃなかったけど、冷静になれと何度も心で唱えながら口を開く。

「免疫あるなしに関わらず、普通にそれは当たり前のことでしょ」
「別に当たり前でもありませんよ。身体から始まる関係だってあるんですから。というか、僕はそういうやり方でしか彼女作ったことありませんし」

間抜けにもポカーンと口を開けるしかない。
もの凄く大口叩く割に、何だか前橋の言うことはおかしい。そのちぐはぐさにただただ間抜け面を晒すしかない。

「デート、したことないの?」
「いえ、相手が望めば勿論しますよ、デートくらい。でも、セックスの方が楽しいじゃないですか」

そうなのか?
そういうものなのか?

経験の無い私には反論する術も無い。けれども、私はセックスだけの恋人であれば一生欲しくない。色々なところを見て共感したり、普段とは違う顔を見たり見られたり、会話を楽しんだり、そういう恋人が欲しい。
……自分はお子様思考なんだろうか。
まぁ、胸キュンとか言ってる時点で終わってる気がしないでも無いけど。

「何だか納得してないみたいですね」
「まぁ、普通しないんじゃないの」
「普通の基準が分かりませんけど、芹香さんもセックスしたら分かりますよ」
「別に前橋とする必要も無いと思うけどね」

前橋の目がスーッと細く据わり、自分を見据える。その視線に唾を飲み込む。
自分でもこの年下の男に完全に気圧されてることが分かる。

「他の男としたら、僕、相手を殺しちゃうかもしれませんよ」

先程の明るい声とは一転、どこか機械めいた冷たい声音にゾクリとした。それは恐怖だったのか、先程感じたものと同類だったのか、今の自分には紙一重すぎて分からなかった。
そんな自分を置いて、前橋はゆっくりと笑みをつくると、固まって動けずにいる私に近付くと頬に口付けた。軽いチュッという音を立てて離れると近い位置で視線を合わせて笑みを浮かべる。

「デート、しましょう」
「……し、しないわよ」

たかが頬へのキス。それなのに、酷くドキドキしている自分がいる。
不味い。
本気で不味い。
これ以上は前橋という男に深入りしたくない。

「明日、僕駅前で待ってますから」
「行かないわよ」
「それでも待ってます」

それだけ言うと子供のような楽しそうな笑みを浮かべると、前橋はお茶を一気に飲み干してから背を向ける。その背にもう一度「行かないから」と投げ付けたけど、前橋は振り返ることもせずに部屋を出て行った。
前橋が帰った後、エネルギー切れを感じながらも風呂を洗いお湯を溜める。昨日もシャワーで済ませていたこともあって、風呂につかって少しのんびりしたかった。

昨晩からの怒涛の展開に自分自身がついていけてない。前橋の執着心にも驚いたが、板橋にも驚かされた。
突然、自分の身には何が起こったのだろうか。板橋には食事に誘われ、前橋にはデートに誘われ、何が何だかさっぱり分からない。
男に免疫が無かったこともあるが、他人に深入りすることは今までも余りなかった。だから、押し入られるとどう対処していいのか困る。

大抵の人間であれば、ある一定のラインから拒否すれば入ってこないのに、前橋のあの強引さは一体なんだろう。そして、菩薩と呼ばれるあの課長の突然変異は一体何だったのか。
もう、本気で訳が分からない。
とにかく恋人はいらないのだから、どちらもこれ以上踏み込まれたら困る。少なくとも、どちらも自分にとって恋人には不向きな人間だ。

――――いや、こうしてラインを引いてしまうから自分には恋人が出来ないのか?

シンデレラ願望は無いつもりだけど、どこかで自分に都合のいい恋人が自分を見つけてくれるんじゃないかと思っているところがあるのかもいしれない。基本、恋人を探すことは疲れることだから。
でも、疲れると思う時点で自分には恋人を必要としていない気がしないでもない。必要となれば、それなりの努力だってするに違いない。ということは、今は自分にとって恋人というものはやはり必要じゃないのかもしれない。欲しいとも思っていないのだから。特に前橋のような人一倍独占欲が強いのはごめんだ。

けど、ああして口に出されると嬉しかったのはあれでも可愛い部下だから、というところだろうか。じゃなければ、ただのストーカーでキモいばかりだ。いや、現時点で結構引いてはいるけどキモいまではいっていない。

ただ、非常に困ってはいる。

社内の人間とそういう関係にはなりたくない。こじれた時に、仕事に、職場の人間関係が拗れる原因にだってなる。今の仕事は面白いし、職場の空気も悪くない。だからこそ、今の時点で辞めるつもりもなければ、揉め事を起こしたいとも思わない。
だからこそ、前橋とは恋人という形になりたくないし、ましてや社内の誰かに好意を抱くような気持ちにはなりたくない。

でも……板橋のあの目は反則だ。

今思い出しても、身体中が総毛立つ。眼鏡越しであれば然程じゃないのに、眼鏡を外したら随分とイメージが違う。いや、もしかしたら、あれが板橋の素なのかもしれない。
自分と同じで眼鏡というのはある意味仕事のスイッチで、プライベートは菩薩とは程遠いということなのだろうか。あの真っ直ぐな強い視線に射抜かれた瞬間、本気で鳥肌が立った。恐らく、同じ職場の人間でなければ人生初の逆ナンくらいはしたかもしれない。

まぁ、実際に実行するには無理があるが……。でも、それくらいあの顔はストライクど真ん中だった。

浴槽の縁に腰掛けながらそんなことを考えていれば、いつの間にかお湯が溜まり温かい湯気に包まれていた。慌てて風呂場を出るとまずは玄関の鍵を閉め、それから着替えを用意してから風呂に入った。髪と身体を洗い、ゆっくりと風呂に浸かると自然と大きなため息が零れた。
自分は思っていたよりも疲れているのかもしれない。当たり前と言えば当たり前だ。昨日の夜から本当に今までの生活とは掛け離れた出来事ばかりだ。しかも、この場所で前橋と――――。

考えた途端、一瞬身震いして自分の身体を抱きしめた。
自分はここで一体何をされたのか。考えたくないのに、脳裏に昨晩の出来事は流れ出す。

前橋の自分よりも太い腕。見た目よりも厚い胸板。少し荒い呼吸音と、自分の名前を呼ぶ声。

勢いよく立ち上がると、水が跳ねるのも構わず脱衣所へと駆け込んだ。思い出したら、あの場所でのんびりなんて出来なかった。

くっそー、前橋めっ!!
人の安らかな時間を返しやがれ!

心の中で幾つ物悪態をつきながら濡れた身体をバスタオルで拭き、パジャマに着替える。腹立たしさもそのままにタオルで髪を拭いていれば、鏡に自分が映る。自分の目から見ても顔立ちは派手な方だと思う。また、この軽く掛かった天然パーマがいけない。少し濃い目の化粧をすれば、誰もが自分を水商売の女と間違えるに違いない。

この顔のお陰でどれだけ自分は損をしてきたことか。
それでも、前橋は自分をそういう風には見ていなかった。それが嬉しいと思ってしまうのは、嬉しいの基準が低すぎなんだろうか。

「だって、嬉しかったしさ……」

呟いたところで誰が答える訳でもない独り言を吐き出すと小さく溜息をつく。
いつまでも鏡の前でボーっとしている訳にもいかず、髪をドライヤーで乾かしてリビングへ戻れば、カウンターに置いてあった携帯のランプがメールの着信を知らせるために明滅している。冷蔵庫から新しいミネラルウォーターを取り出し一口飲んでから携帯を見れば、メールが2通きていた。1通は先日頼んでいた通販の発送お知らせ、もう1通は前橋からだった。

その名前を見た途端、眉根が寄る。少なくとも、プライベート用のこの携帯アドレスを前橋に教えた記憶も無ければ名前を登録した記憶も無い。
慌ててメールを開けば「13時に駅前で待ってます」とただ一言だけ書かれていた。
勝手に登録したことや、人のメルアドを盗み見したことに文句も言いたかったけれども、取り合えず一言だけ返信した。

「行かない」

たった四文字だけを打ち込むと、来たばかりのメルアドに返信した。
全く油断も隙も無い。恐らく、昨晩、風呂に入っている間にでもチェックしたに違いない。だとしたらあの性格だ、電話帳もしっかりチェックしただろう。
指先で操作して電話帳を開けば、そこに登録されている番号は5つ。会社と行き着けの病院、宅配会社、実家、そして新たに加わった前橋の番号の5つだけ。この電話番号を見て前橋はどう思ったのだろう。寂しい女と思われたのだろうか。だから落としやすい女だと思われたのであれば心外だ。

女子高、女子大ときて、女の子同士のお付き合いというものに疲れた自分は、卒業する際に携帯を親以外の誰にも言わずに変えた。あのべったりとした閉塞感が自分には気詰まりだった。
女同士の付き合いというのは面倒くさいことが多い。些細なことにライバル意識を燃やし、嫉妬や蔑み、僻みに妬み、あれほど面倒くさいことは無い。楽しく会話は出来ないものだろうかと思ったけど、女である以上、もうどうしようもないのかもしれない。

自分では反面教師にしてきたつもりだけど、途端に女同士の付き合いが面倒になってきて卒業と同時に全ての付き合いを切ってしまった。勿論、今の職場でも誘われたら飲みにはいくけれども、メルアド交換するほどまでは踏み込ませない。その点では空気を読める人間が多くて助かってはいる。
もしかしたら、自分は人間嫌いなのかと錯覚したこともあったが、基本的に人間付き合いというものにただ無気力なだけなのかもしれない、と最近気付いた。

とにかく面倒なことは避けたい。板橋にしろ、前橋にしろ、社内で女子社員の人気は高い。だとすれば、これ以上の深入りはやっぱり禁物だ。
だからこそ、携帯に前橋の番号を表示するとメモリーから消去すると携帯の電源ボタンを親指で押す。消えた画面に小さく溜息をつくとミネラルウォーターを手に寝室へと向かった。

* * *

朝一番、最初にしたことは外に干しっぱなしになっていた洗濯物をもう一度洗濯機に放り込むことから始まった。
どうにもこうにも、昨日は余りにも疲れすぎていて洗濯物を取り込むということを忘れていたらしい。しかも、夜半には雨が降ったらしく洗濯物はすっかり湿りどうにもならない。一層晴天のままであれば、多少目を瞑ってそのまま家に入れて片付けてしまうけれども、雨で濡れたものをクローゼットにしまう気にはなれない。
苦い顔のまま洗濯機に放り込みスイッチを押すと、キッチンへ戻りコーヒーメーカーを用意してスイッチを入れた。カウンターを背に寝起きのぼんやりした頭で凭れていれば、しばらくすると部屋中にコーヒーの香りが漂いはじめる。

朝のこの時間が一番好きだったりする。一番、一日の中で何も考えずにぼんやりとできる時間でもある。
朝食は昨日と同じ物を用意してお腹に収めると、まるで昨日と同じように掃除をして洗濯物を干す。けれども、外は生憎の雨で今日は風呂場に干すと乾燥スイッチを押した。少ない量だから、恐らく夕方までには余裕で乾くに違いない。

掃除も洗濯も終えてしまい、少し多めに作ってあったコーヒーを再び温めてからカップに入れてソファへと移動する。サイドボートにカップを置くとソファへ座り込み、片膝を立ててその上に自分の腕を置いてぼんやりと外を眺めた。
起きた時には小降りだった雨は本格的に降ってきたらしく、朝よりも雲は厚く暗い。こうして雨を眺めるのは嫌いじゃない。

コーヒーを飲みながらしばらくは窓の外を眺めていたけれども、それににも飽きて、一週間前から読みかけだった本をサイドボートの引き出しから取り出すとパラパラ捲る。期待値よりも面白くない小説は、目だけが文字を追っている感じで、頭に内容は余り入ってこない。それでも文字を目で追っていたけれども、結局は飽きて本を閉じた。
よほど詰まらなかったのか、淹れていたコーヒーはすでにカップになく、軽くカップを洗い流すとその中にティーパックのハーブティーを入れた。カモミールの香りを胸一杯に吸い込むと、少し悩んで食器棚に入っている籠からクッキーを取り出した。

基本的にお菓子を自分で買うことはしないが、実家から送られてくることはある。両親は和菓子党なので洋菓子は溜まるとこちらへと回ってくることが多い。恐らく実家の近所に住んでいる兄の響には自分のところへ来る3倍は回っているに違いない。正月に会った時には「消費するのが大変だ」とぼやいていたけれども、満更では無さそうだったので捨てるようなことはしていないのだろう。

そういえば、ここしばらく響とは顔を合わせていない。いつもであれば3ヶ月に1回くらいの割合で食事をしたりしていたけれども、今年に入ってからは仕事が忙しいこともあって連絡もおざなりだ。けれども、響からも連絡が入ってこないところを見ると、響自身も仕事が忙しいか、彼女相手に忙しいのかもしれない。

そういえば、響も中学時代から恋人がいなかった時期は無いんじゃないだろうか。大学時代は親に内緒で同棲していたことも知ってはいるが、結婚話は聞いていない。その彼女とも卒業と同時に別れているが、その時には既に新しい彼女がいたというのだから、前の彼女と新しい彼女、一時的に二股だったに違いない。

スポーツマンタイプの響は基本的によくもてた。昔からサッカーをしていた響は選手としてもそこそこの活躍をしている。小学生から大学まで、エースポジションではないものの、全国大会まで出場しているのだから腕はそれなりのものだろう。そして、全国大会まで行けば、そこそこの顔でもよくもてた。
兄ながら響の顔ならもてるのも理解出来る。顔は爽やか系だしサービス精神は旺盛で、貰った手紙もまめに返す。何よりも女の子には死ぬほど甘い。

ただ、紳士ではなかった。

まさに入れ食い状態だった兄の初体験は確か中学一年の時だったと聞いている。ただ、本人から聞いた訳じゃないので本当か嘘か分からない。あながち嘘と断定できないのが恐ろしいところだ。

そんな兄がいたからこそ、自分の恋愛思考が曲がってしまったんじゃないかと最近思うようになってきた。兄というのは恐ろしいもので、どうしても下は多かれ少なかれ影響を受ける。それは好きなものだったり、嫌いなものだったり色々あるけれども、寄り添うこともあれば反発することもある。結局、思考の中心がある時期までは上に習えになるのが恐ろしいことだ。

そして、私は兄を軽蔑した。でも、女の自分からしたら当たり前のことかもしれない。二股なんて掛けられる立場になることを考えれば気分のいいものじゃない。それなのに、響が別れ話で拗れたという話しは一度も聞いたことが無いので不思議だ。
もう30近い年になる筈だけど、両親に言われたりしていないのだろうか。久しぶりに電話でもしてみるか。
そう思い携帯に手を伸ばしたところで、電源の切れた携帯が目に映る。

そういえば、前橋は本当に待っているんだろうか。

時計を見れば既に約束の13時を回っている。外は相変わらず雨が降っていて、先程よりも強くなっているように見える。天気予報を見ていないから分からないが、今日はこのまま一日雨なのかもしれない。だとすれば、いつまで前橋は駅前で待っているんだろうか。
いや、この雨だから30分待って来なければいくら何でも諦めるだろう。

あの執着心で本当に――――?

反論する自分がいるけど、今はその考えを押し込める。
だって、これ以上の深入りは絶対に無理だ。止めた方がいい、と危険信号が自分の中でも光ってる。でも、風邪でもひいたら原因は自分にもあるんじゃないか。

そう思うとソファから立ち上がり、寝室に駆け込むと手早く着替える。こうして放っておけない性分を腹立たしく思いながらもデニムを穿くとニットに袖を通す。
とにかく行って、いなければ良し。いたらいたで、もう一度断って帰ってくればいい。
一方的な約束であっても、この雨の中分かっているのに待ちぼうけさせるのは心苦しい。

全く、やってくれる。悔しいことに自分の性格を前橋はよく分かっているらしい。ムカつき半分、イラだち半分。似たような感情に身を置きながら、簡単にメイクを済ませると、会社に行くよりも小振りな鞄に財布を突っ込んで家を出た。
雨が降ってるから走ったりはしないけど、足早に駅へと向かう。何人もの人を追い越しながら、腹立たしさは倍増だ。

駅まで10分の距離を歩くと、駅前に前橋はぼんやりと立っていた。いつものようにそこに笑みは無く、どこか近寄り難いオーラを出している。近くにいる女の子たちが声を掛けようか逡巡しているのが見えるけど、あのオーラで声が掛けられないらしい。

全く、何て顔してるんだか。

怒ってはいる。けど、どこも見てないその目を見てると放ってもおけない。だって、まるであれじゃあ捨てられた犬だ。気丈だけど、頼りない、でも、誰も寄せ付けようとしない。それを放っておける程、割り切れる人間でもない。
一層、割り切れたらよかったのに。そんな思いで前橋に近付けば、徐々に前橋の目に色が戻り、口元には嬉しそうに笑みを浮かべる。目尻を下げたその笑みに偽りはない。

「芹香さん!」
「もう、最悪」
「強引だったからですか?」
「違うわよ、私が」

怒っていた筈なのに、もう怒りはどこかへ霧散してる。そんな自分にも腹が立つ。

「来たわよ。じゃあ、帰るから」

それだけ言うと踵を返す。これで目的は達成したんだから文句を言われる筋合いはない。
そんな私の手を掴んだ前橋に文句を言おうと振り返る。けれども、その顔が……余りにも必死で言葉が出ない。

「すいません。無理に誘って」
「……本当よ」
「でも、どうしても会いたかったんです」
「……」
「どうしても……」

傘を差した私と、濡れる前橋。放っておける筈もなく傘を差し出せば、少し困惑した様子を見せる。
そんな顔は珍しい。

「いやなら何もしません。だから、今日だけは一緒にいて欲しいんです」
「別に私じゃなくてもいいでしょ」
「ダメです。芹香さんじゃないと……」

一体何があるんだか。でも、いつもよりも真剣なその眼差しに溜息をつくしかない。握りしめる手には力が入っていて痛いくらいだ。

「取り合えず、この手を離して。痛い」
「すいません」

珍しくしおらしい前橋を意外に思いながらその顔を見上げる。思ったよりも強い雨に、少し濡れた前橋の前髪を鞄から取り出したハンカチで拭ってあげる。

「全く、今日はどうしたいのよ」
「一緒に、一緒にいてくれるだけでいいです」
小さく溜息をついて少し濡れたハンカチをしまうと踵を返した。
「芹香さん」
「お茶。そこのカフェでお茶くらいなら付き合ってあげる」

途端に前橋の顔に笑みが浮ぶ。でも、その笑みはどこか寂しげで、いつものような強引さは見る影もない。

騙されてる――――?

そんな気持ちも浮んだけど、その時はその時だという気持ちで駅前にあるカフェへと歩き出した。すぐ後ろを前橋がついてくる気配はある。けれども、そこに会話は無い。
いつもならうるさいくらいに話し掛けてくるのに、大人しい前橋というのも居心地が悪い。けれども、今更自分の発言を翻す訳にもいかずカフェの扉をくぐる。

窓際に空いた席に腰を落ち着けると、向かい合わせに座った前橋を改めて見つめる。やっぱりどこかぼんやりと窓の外を眺めている前橋は、とても珍しい。

「で、こんな強引に付き合わされたんだから理由くらい聞かせないよ」

それには答えず、前橋はこちらを向くと少しだけ笑う。その笑みには翳りさえあって、本当にらしくない。
丁度来たウエイターに私はカフェラテ、前橋はコーヒーを頼むと再び沈黙が落ちる。周りの喧騒ばかりが耳に入る。けれども、今は少しそれに救われる。静かな空間でこの沈黙は少し重い。

「今日……死んだんです」

それが誰のことなんて聞かなくても分かる。恐らく、昨日言っていた2番目の恋人のことなんだろう。

「僕が運転していた車で」

その言葉はちょっとした衝撃だった。
身近で死んだ人を自分は知らない。両親も祖父母もまだ健在で、友人が亡くなったりしたこともない。だから、自分のすぐ近くで自分の大切な人が亡くなる衝撃というものを知らない。それでも、衝撃だった。
だとしたら、前橋はどうなんだろうか。

「いい。話さなくて」

ばつが悪くて、前橋から視線を逸らしながらそれだけ言えば、テーブルの上で組んでいた手に前橋の手が重なる。

「聞いてほしいんです。芹香さんに」

そう言われても、他人の生死に関わる話しは少し重い。何よりも前橋の元彼女の話しともなれば、余り耳障りのいい話しじゃない。

「言ったら古傷抉るわよ。自分で」
「懺悔……かもしれません」
「それは教会に行ってしなさい。私は神父じゃないわ」

冷たい物言いかもしれない。でも、懺悔なら殊更軽い気分で聞いていいものじゃない。それにどんな言葉が前橋の口から飛び出すのか、それを聞くのが怖いのもある。
亡くなったその日に、これだけ前橋が変化するのだから本人が思っている以上に引き摺ってるに違いない。自分にはそれを受け止めるだけのキャパがない。だって、ただ聞き流せばいいという類の話しじゃないことは自分にだって分かる。

「厳しいですね、芹香さんは」

苦笑する前橋に憮然とした顔をしてその顔を見据える。

「かもしれないわね」
「ただ、誰かに聞いて欲しいんです」
「だったら、私にコメントを求めないで。独り言なら聞いてあげる。相槌もうたない」
「……それでいいです」

自分はやっぱり甘いかもしれない。でも、このまま席を立つこともできない。だからといって、黙り込むこともできない。だったら、ただ聞くしかない。
でも、聞きたくない自分がいる。それでも、苦しんでいるらしい前橋の力になってやりたいと思ってしまうのは性分だ。損な性分だと自分でも思う。こんなことをして、余計に深入りする結果になることは目に見えてる。それでも、放っておけないのはジレンマだ。

会話の途切れたタイミングで、頼んだカフェラテとコーヒーが運ばれてきて、2人揃って口をつけた。カフェラテなのにも関わらず、それは口の中で酷く苦味を感じた。

「彼女……奈央とデートをしている時でした。車の中で口論になって、少し運転が乱暴だったのは自分でも分かってました」

その時、前橋の元カノがナオという名前だと初めて知った。前橋がどんな女性遍歴を持っているのかは知らない。興味なんて無かった筈だった。
それなのに、名前しか知らないナオさんがどんな女性だったのか勝手に想像している自分がいる。
前橋と付き合えるくらいの彼女だったとすれば、それなりに気も強かったに違いない。いや、もしかしたら逆に前橋の後を3歩下がって歩くようなタイプというのもありなのか。そんなことを考えていれば、前橋の声で思考が中断される。

「前を走ってるトラックが急ブレーキをかけて、慌てて僕もブレーキを掛けました。後ろを走ってるトラックはブレーキが間に合わず、避けようとしたらしいです。けれども、車間距離が余り無かったらしく、トラックとトラックに挟まれて……」

ニュースではそんな事故を見たことがある。でも、身近にあるもんじゃない。想像するだけで身震いして、軽く自分の両手で腕を擦る。

「何が起きたのか分かりませんでした。でも、気がついた時には車の半分、奈央が乗っていた部分はトラックのコンテナしか見えなくて、それから自分がどうしたのか、今でもよく覚えていません」

怖い。

それは純粋な恐怖だった。
息を飲むくらいには――――。

「奈央の両親には酷く詰られました。まぁ、仕方無いですよね。僕自身、奈央を殺したのは自分じゃないのかって何度も思いましたから」

あぁ、多分、前橋は自分で思っているよりも彼女のことが好きだったのかもしれない。ただ、そのことに気付いていないのか、気付いているけど目を背けているのか。
でも、それを指摘するのは私の役目じゃない。

「……辛い?」

声にするつもりは無かった。けれども、その声で弾かれたように前橋が俯きがちだった顔を上げる。真っ直ぐに自分を見ると、泣きそうな顔で笑う。

「正直、分かりません。でも、芹香さんといれば大丈夫じゃないかと思って」

私に安らぎを求められても困るし、残念ながらそういう効用は私には無い。けど、原始的な慰め方なら知ってる。
だから、小さなテーブルを挟んで座る前橋に手を伸ばすと、セットされていない揺れる髪にそっと触れるとポンポンと軽く叩いてやる。子供相手じゃないんだからと思わないでもない。でも、今思いつく慰めはこんなことしか出来ない。幾ら言葉を連ねても、前橋には届かないだろうから。
珍しく驚いた顔をした前橋は、それからまた泣きそうに笑う。

「だから、僕、芹香さんのこと諦められなくなるんですよ」
「それとこれとは話しは別。諦めなさい」
「無理です」

そう言って目を瞑ると前橋は口を噤んだ。今はそれでいいと思う。これ以上何か言われても答えられないし、私もこんなことしかしてあげられない。
上っ面の慰めなんて前橋も求めてないだろうし、弱ってる人間を放ってもおけない。多分、今はこの距離が適切。
しばらくすると前橋が目を開き、撫でていた頭から私も手を引く。

「芹香さん、そういう優しさが僕に付けこまれるんですよ」
「言われなくても分かってるわよ」

憮然としながらそれだけ答えると、すっかり冷めてしまったカフェラテを口にする。冷めたことで余計に苦味を感じたけど、先よりもマシに思えるのは前橋の表情が明るくなったからかもしれない。

「甘えすぎました、すいません」

軽く頭を下げる前橋に、つま先で軽く脛を蹴る。

「いっ!」

少し先の細いヒールだったからそれなりに痛かったらしく、顔をしかめた前橋だったけど、次の瞬間にはいつもと変わらぬ笑みを見せる。

「酷いですよー」
「らしくないことしないでよ。調子狂うから。それから名前呼ばない」
「最後は却下です。だって、僕、芹香さんの名前、好きですから。本人にとても似合ってると思いますし」
「あっそ、ありがとう」

軽く、本当に軽くお礼を言ったけど多分、顔は赤い。だって、一瞬にして顔が熱くなったのが自分でも分かったから。でも、それに対して前橋は何も言わずにコーヒーを飲んでいる。

そうだな。いつもこういう風なら前橋との付き合いも悪くない――――。

そう考えてはたと我に帰る。

いやいやいや、だから不味いって。既にこういう考えが前橋の思う壺だっていうの。

確かに重い荷物背負ってるとは思うけど、それとこれとは話しは別。そう、全くもって別。ここで甘い顔したら絶対に付け込まれる。何より、私は今、誰かを好きになったりしたくないんだから。

「芹香さん」
「名前呼ばない」
「好きです」

口にしたカフェラテを危うく噴きだすところだった。それでも、気管に入ってしまい大きくむせる。慌ててハンカチを取り出して口元を押さえて数度咳をすると、落ち着いてから前橋を見る。
その顔はどこか晴れ晴れとした様子で、楽しげに見える。

「あのねぇ、時と場所を考えなさいよ!」
「考えてますよ。だって、今しかないと思ったんですから」
「冗談でしょ? 何で今なのよ」
「だって、芹香さん。前より僕のこと好きになってるでしょ?」
「なってないわよ!」

確かに前より少しだけ気になってる。でも、それを認める訳にはいかない。

「えー、絶対なってますって」
「だからなってない!」

昼下がりのカフェで、禄でもない口論をしている間に雨はすっかり上がっていた。

* * *

家に帰ると、部屋の電気をつけると鞄を壁に掛けてソファに座り込んだ。
結局、前橋のペースに巻き込まれ、あれから映画を見て、夕食を一緒に取り家に帰ってきた。時計を見れば既に0時を回るところで、自分の不甲斐なさに頭を抱えたい気分だった。

どうして割り切れないかなぁ。

大きな溜息を零したけれども、理由は自分でも分かってる。あんな話しを聞いた後に放っておけるほど自分は薄情では無かった、ということだ。それはある意味長所でもあるけど、短所でもある。割り切らないといけない時に割り切れないのは、ただの優柔不断だ。

自己嫌悪に陥りながらも、重い腰を上げた所で留守電のランプが明滅しているのが見えて足を止めた。
再生ボタンを押せば、それは母からの電話で、元気なのか、いい人は見つけたのか、というお決まりの言葉だった。

えぇ、えぇ、あなたの娘はいい人は見つからないけど、きちんと男に好かれているらしいですよ。

少し投げ遣りにそんなことを思いながら着ていた服を脱いだ。
いつもならシャワーくらい疲れていても浴びるけど、余りの自己嫌悪にその気力すらない。服を脱いで脱衣籠に入れると、すぐにパジャマを着込んでしまう。シャワーなら明日の朝浴びればいい。

結局、帰り道に再び前橋とキスをした。

悔しいことに腰にくるキスだった。前橋が支えていなければ、自分はその場にへたりこんでいたに違いない。

あーあ、私って快楽に流されるタイプだったのかなぁ。

輪を掛ける自己嫌悪にもう溜息をつくしかない。しかも更に悔しいのが、まだ唇に前橋の感触が残っていて、身体がその先を求めていることだ。これ以上流されないように踏ん張ってるところにあのキスは卑怯じゃないか。
そう思っても、前橋からしたら妥当な流れに違いない。

落ちやすい女だと思われてるのかな。そう考えると更に落ち込んだ。
こういう日は寝るに限る。そんな思いで歯を磨き少しだけさっぱりするとベッドで横になる。
暗闇の中、天井をぼんやりと眺める。

前橋の遣り方は気に入らない。特にあの夜のエッチは限りなく許し難いものがある。けれども、あの強引さは自分が求めていたものだったんじゃないかと思うのは甘さなのか、前橋に流されているのか自分では分からない。
もし、前橋が年上で部下でなければ、自分はどこか納得してしまったかもしれない。基本的に仕事には前向きだし、人の気持ちを汲み上げるのが上手い。やや読まれすぎて腹が立つこともあるけど、存在を排除したいほど嫌いでもない。

タイプではないけど顔だって整っているとは思う。甘いマスクは恐らく万人受けするものだろうし、不快感が全くない。けれども、好きかと問われるとやっぱりノーだと思う。
ドキドキやハラハラはさせられるけど、少し種類が違う。
そういう意味合いでは板橋の方が不味い気がする。
いや、でも、前橋が時折見せる顔にも随分とドキッとさせられた。

……ん?
何か、色々と不味くないか?

選びたくないのに気になる男が2人。これはどう考えても不味い状況以外の何者でもない。
いやいやいや、疲れてるのよ。疲れてるから良いような気がするだけ。
金曜日の夜から今まで、余りにも色々ありすぎた。明日になれば仕事だって始まる。とにかく、こういう時には寝るに限る。

考えすぎて意識するのも嫌で、強引に思考をストップさせると目を瞑る。疲れていた心と身体は休息を求めていたのか、眠りはすぐに落ちてきた。

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