安全圏の彼と彼 第1章

「新橋さん、また新しい眼鏡買ったんですね」

受け取った書類に目を落としていれば、穏やかな口調で目の前の上司に声をかけられて顔を上げる。

「はい、私にとっての戦闘必需品ですから。有能に見えません?」
「新橋さんは眼鏡が無くても優秀に見えますよ」

これが他の人から出た言葉ならたとえ上司といえども、持っている書類で殴り飛ばすくらいのことはしたかもしれない。けど、この人は別。
上司である板橋はいつも三つボタンの上品なスーツをサラリと着こなす紳士風情で甘い言葉も板につく穏やかな顔をしている。出てくる言葉もいつも穏やかなもので、こうして他人が言えば歯の浮くような言葉も、この人ならと誰もが納得するに違いない。

実際に同僚女子からの受けは良く、また見た目も穏やかながら整った顔をしていて営業先での受けもいい。課長自ら叩き出す営業成績は課内の誰もが抜かせずにいる。

「課長、褒め過ぎです」
「似合うものは似合うと言うのは営業的にも正しいことだと私は思うけれどもね」

思ったよりも自分の口調がきつかったのか、課長は少しだけ苦笑うと手にしていた書類を差し出してきた。

「あ、すいません」
「いいえ、気になさらずに。新橋さんは既に戦闘準備完了だということは分かっていますから」

菩薩のような笑顔にホッとしながら差し出された書類を受け取ると小脇に抱える。

「これだけの数値資料があれば、コースイさんも納得すると思いますよ。前橋君も今回は連れて行くとのことですが」
「はい、現場周りが一番の勉強になると思うのでそのつもりです」
「頑張って下さい」

その言葉に一礼して振り返ると、こちらの様子を伺っている彼と視線が合った。

「前橋くん、行くよ!」
「はい!」

勢いよく返事をした前橋は、待っていましたとばかりに椅子から立ち上がる。前橋の横を通り過ぎ、すぐ隣にある自分の机から黒く地味な書類鞄を手にすると歩きながら書類一式を鞄にしまう。

「行ってきます」

気合いの乗った声に社内に残っている数名が「行ってらっしゃい」と声を掛けてくれる。その声に続き、前橋の穏やかな「行ってきます」という声が背後から聞こえる。
カツカツとヒールを鳴らしながら歩けるこの廊下は密かに好きだったりする。営業用のスーツを着て、背筋を伸ばしてハイヒールを響かせると、それだけで出来る女になった気分になれる。勿論、気分だけなんて間の抜けた真似はしたくないから、営業に行く時は常に臨戦態勢だ。

「新橋さんは、歩くの早いですよね」

背後から声を掛けてくる前橋に「そう?」とだけ答えるけど、もう後ろを振り返るような真似はしない。
エレベーターのボタンを押せば、すでに到着していたらしく扉が開き、誰もいないエレベーターに2人で乗り込む。

「それに、人間ここまで変わるんだと驚きました」
「前橋君、それは褒めてるのかしら、けなしてるのかしら」
「けなしてるなんてとんでもないです! 褒めてるに決まってるじゃないですか。でも、そこまでする必要あるんですか?」

前橋がそう問いかけてくるのも無理は無い。普段、社内にいる時には胸の開いたシャツに短いスカート、大きめのベルトに髪はポニーテールという非戦闘状態。
でも、営業となればきちっとした上下のスーツにスカートは膝下10cm、髪だってきちんとまとめて結い上げるし、化粧だって眉尻を上げるしきっちりした印象を崩さない。何よりも銀淵の細い伊達眼鏡は絶対に必需品だ。

「まぁ、女には色々あるのよ。さて、今日は前橋君に営業第一線に立って貰うからね」
「やっぱり僕がやるんですか?」
「当たり前でしょ。そのためにノウハウ叩き込んだんだから。第一、今回は私よりも前橋君向きの仕事よ。担当者は女性なんだから、前橋君なら笑顔も武器になるわよ」

エレベーターが軽やかなベルの音を立てて到着を知らせる。扉が開きロビーに足を踏み出すと、そのまま正面玄関へと真っ直ぐ進む。
基本的に勝算の無い戦い方はしない。今回は彼が担当者に会って説明する方が話しは早い筈だ。

やり手な担当者であれば顔営業なんてもんは通用しないだろうけど、今日の担当者なら間違いなく契約を取り付けることは出来るだろう。
何よりも、製造に頼み込んで希望価格まで下げて貰ったのだからここで食いつかなければ、この価格のままコースイではなくセキノーへ持って行くだけだ。
今回の案件はどちらに転んでも痛くはないが、前橋を育てるという意味合いでは、コースイで決まってくれるのが一番良い。

「何を言われても笑顔よ。多少のセクハラは流しなさい」
「え? セクハラあるんですか?」
「別にとって食われることは無いわよ。口だけよ、口だけ。枕営業しろなんて言わないわよ。私だって鬼じゃないんだから」
「えぇ、言われたら困ります」

必死さが伺えるその口調に少しだけ笑うと空調の効いていた室内から太陽の下へ一歩を踏み出す。
秋とは言われてもまだまだ暑い。伸ばした背筋で前を見ながら声を掛けた。

「初戦、勝利を上げなさい」
「……頑張ります」

少し緊張含みの声に引き締めていた筈の口元が少しだけ緩んだ。


* * *


「それでは、新人前橋君の初契約に乾杯!」

始まった飲み会の席でウーロン茶をノリのままに掲げれば、嬉しそうな顔を隠そうともしない前橋がビールを軽く当ててきた。

「これもひとえに新橋さんのお陰です。本当に有難うございました」
「私は何もしてないわよ。これからも頑張りなさい」

営業眼鏡を外した顔で微笑めば「おぉ、姉御からお褒めの言葉が!」などと周りに囃し立てられて「やかましい!」と怒鳴り返す。
何が悲しくて女子校、女子大に続き職場でまで姉御やら、お姉様と呼ばれなくちゃいけないんだか。
折角のいい気分が台無しだと思いながらもウーロン茶を口に含む。それでも冷たいウーロン茶が喉に落ちて行く感覚は気持ちよく、何よりも面倒ながらも初めて持った部下が勝利を納めたことは素直に嬉しいし気分も良い。

「でも、あれ、本来なら新橋さんの営業売上になったんじゃないんですか?」
「別に1つや2つ無くてもノルマはこなせるから問題無いわ。正直、初めての部下ということで多少のお目こぼしもあるし気にする必要は全く無いわよ。胸張って気分よく飲みなさい。ほら、向こうで呼んでるわよ」

同僚に呼ばれて隣の席から新橋が立ち上がれば、すぐに隣には板橋が腰を落ち着けた。

「新橋さん、今回はお疲れさまでした」
「いえ、私は大したことをしていません。前橋君が頑張ったんですよ」
「いえいえ、新橋さんは結果を出しているんですから謙遜する必要はありませんよ。何よりも今月のノルマも上げてますし、よく頑張ってくれました」

言われて気分が悪い言葉じゃない。必要以上に褒められると腰の座りが悪いけど、結果をストレートに褒められるのは嬉しいことだ。

「有難うございます。素直に褒められておきます」
「そうして下さい。おや、相変わらずウーロン茶ですか?」

グラスを覗き込んだ板橋に気づかれてしまい小さく笑う。

「飲めない訳では無いんですけど、余り美味しくなくて。接待ならおつきあいもするんですけど、こういう場で無理するつもりは全く無いんで」
「えぇ、新橋さんは見た目よりも堅実ですから」
「見た目よりもは余計です」

少し怒った顔を作ってみせれば、板橋は穏やかに笑みを見せる。

「それは申し訳ない」
同僚たちが喜ぶだろうその笑みにこちらも笑み返したところで「芹香」と名前を呼ばれて振り返る。
こっちを見ている同僚たちの笑顔は完璧だが、その目が笑っていない。さしずめ独り占めするな、ってところなんだろう。

徐々に出来上がってくる飲み会の空気を楽しみながら、課長の板橋に軽く会釈をすると同僚たちのテーブルへと足を向けた。
基本的に飲み会に最後まで残るこおとは稀だけど、同僚たちとの会話で盛り上がってしまい時間はあっという間に流れた。
程よく酔った同僚たちは面白おかしい営業失敗談などを並べ立て、自分の失敗談も話しよく笑った時間でもあった。

「芹香は二次会行かないの?」

同期の一人である三上千里に声を掛けられ肩を竦める。

「もう帰るわよ。あんたたちについていくのが大変で大変で」

言い終わる前に肘で小突かれてまた笑いあう。
店を出れば辺り一帯似たような酔っぱらいばかりがふらつく光景を眺めていれば、店から殊更騒がしい一団が出て来た。真ん中で肩を貸して貰いながらフラフラと歩いているのは前橋らしく、飲み過ぎなのは一目瞭然だった。

「あらら、契約一番乗りした前橋君は同僚に潰されたみたいね」
「全く学生のノリね、あれは」

多少呆れ混じりに呟けば、隣に立つ千里がニヤリと笑う。

「折角だし、前橋君をお家までお持ち帰りなんてどう?」

とんでもないその発言に「はぁ?」とらしくもなく言葉を返せば他の同僚たちもからかい混じりに会話へと混ざる。

「いいじゃん、新橋に前橋、お似合いよ、お似合い」

新橋、前橋、ときたならここは板橋課長の名前だって入るんじゃないんだろうか、という部分に突っ込みを入れるべきなんだろうか。

「勝手に人をまとめないように」
「だってぇ、芹香が片付けば私たちだって安心だし」
「人を勝手に片付けるな。第一、あんたたちの目的は誰なのよ」
「それは勿論、板橋課長に決まってるじゃない」

口を揃える同僚たちに、それは競争率が高そうな話しだわと感心してしまうしかない。

「別にあんたたちが板橋課長に気があろうと私には全く関係無いことでしょ」
「関係大ありに決まってるじゃない。板橋課長ってば何かあれば芹香を気にかけてるし」

いやいやいや、別に私ばかりという訳じゃない。基本的に板橋という人は、人に気遣うことに余念がない。

「それなら芹香が誰かと纏まれば心配ないじゃない」
「こらこら、私の好みは丸無視か。第一、私が前橋君と出来上がったとしても、しっかり板橋課長もつまみ食いするかもしれないじゃない」
「まぁ、でも、前もってみんなが狙ってると分かっていたら芹香は手を出すようなタイプじゃないでしょ」

分かる前から手を出すつもりなんて全く無い。
少なくとも職場でそういう関係になりたいとも思わないし、何よりも自分はそれ以前の問題だ。経験も無いのに手を出すも何もあったもんじゃない。
どうにもこの顔と身体で色々と誤解を招いているのは分かるけど、一々誤解を解くのはもう疲れたからそれについては何も言わない。

「まぁ、もめ事は勘弁だしね」
「でしょ。ついでに物は試し。荒井君! こっち、こっち!」

千里の部下である荒井は、丁度前橋を肩に担いでいる一人で、彼は前橋を担いだままこちらへと歩いてきた。

「どうかしました?」
「どうせ二次会行くんでしょ。前橋君は芹香に任せなさい」
「ちょっと!」
「どうせ二次会行かないんでしょ? この中で二次会に行かないの芹香だけだし」
「こんなの運べないわよ」
「大丈夫、タクシーは捕まえてあげるから」

言うが早いか通りがかったタクシーを止めた千里は、荒井を指示して前橋をタクシーに乗せると肩を押す。

「部下の面倒を見るのは上司の役目」
「仕事中でもないのに?」
「仕事の飲み会でしょ。送るだけなんだから頼むわよ。家の前に放り投げて帰ればいいんだから。じゃあ、任せたわよ!」
「ちょ、ちょっと!」

千里は荒井を引き摺るようにしてそそくさと離れてしまい、残された自分としてはタクシーに乗り込むしかない。
タクシーに乗るとまず前橋の肩を揺する。

「起きて、前橋君」

ゆさぶり起こそうとするけれども、前橋の反応は薄くすっかり眠りに落ちているらしい。そんな彼をそのままこの場に投げ捨てて行きたい衝動にも駆られたけれども、そこまで人間捨てていない。
まぁ、前橋君なら大丈夫か。
そんな気持ちで運転手に自宅近くの住所を告げると窓ガラス越しに前橋の横顔を眺める。目を閉じれば柔らかな印象の残る顔立ちは更に幼くなり、まだまだ学生という雰囲気が残る。

前橋の同期の中では一番線も細く、男臭さは余り無い。だからこそ、自分は前橋と上手く上司部下という立場を全う出来ているに違いない。
男嫌いではないが、免疫が無いだけに男の押しの強さは未だに苦手意識が残る。だからこそ、営業に行く時にも完全武装が必要だし、気合いも必要になる。
その点、前橋に関して言えば、この顔立ちからも、穏やかな物腰からも苦手意識が先立つことはない。

まぁ、他の男なら絶対に自宅に泊めようなんて思わないわね。

その思いを、翌日後悔する羽目になるなどと自分は全く知らずにいた。


* * *


マンションの前に到着して運転手にお金を払うと、もう一度無駄だと分かりながら前橋の名前を呼ぶ。けれども相変わらず反応は無く、運転手に手伝って貰いながら肩に担ぐとお礼を言ってタクシーを見送った。運転手は家まで手伝うと言ってはくれたけど、そこまで手伝って貰うには気も引けたし、警戒心もあった。
テールライトを見送ると、改めて自分よりも上背のある前橋に肩を貸しながらゆっくりと歩き出す。耳元にあたる前橋の寝息はくすぐったくて、立ち止まっては歩き出すということを繰り返しながらもどうにかマンションの入り口でートロックを開けるとロビーに入る。

これだけ男の人と密着するのは初めてのことで意識するなと思っていても、自然と顔が赤くなるのは止められない。気恥ずかしいのと、重いとで、何度も放り出そうとしたけれども、理性がそれを押し止める。
どうにかエレベーターに乗り込み自室のある8階のボタンを押したところで耳に掛かる寝息が止まる。

「ん……新橋さん」
「起きた? 起きたなら」

続く言葉はぐらりと揺れた衝撃と、続く衝撃に飲み込まれた。
肩を貸していた筈の前橋に手首を掴まれ、エレベーターという狭い箱の中で壁に押し付けられる。一瞬のことに身動き取れない間に影が落ちてきて焦点が合わないくらい近くに前橋の顔がある。

言葉を紡ぐよりも先に前橋の唇によって唇を塞がれ息も止まる。状況を理解するよりも先に前橋の舌が口内に入り込み、歯列を割る。口内で自由に動き回る舌は舌に絡み付き、慌てて逃げ出そうにも身動きも取れず、息もつけない。
自分よりも高い温度で絡まる舌先にどうすればいいのかも分からず、だからといって舌を噛む勇気もなくただされるがままに任せるしかない。舌先で上顎を撫でられると背筋がゾクリとして、指先を握りしめる。

こんな感覚は知らない――――。
それなのに口内を自由に這い回る舌に肌は粟立ち、膝頭が震える。

「んっ……」

鼻から抜ける自分の甘い声に最初は気づけなかった。

「や…め……んんぅ…」

キスの合間に溢れた声が自分のものだと認識した途端、そんな自分の声に驚いて身を震わせるとあっさりと唇は離れた。
自分よりも長身な前橋を見上げれば、その唇は照明を反射して濡れていた。
次の瞬間に再び近づいてきた唇に身を強張らせていれば、近づいてきた顔はそのまま肩に埋められ、背中に腕を回される。

「ま、前橋君?」

自分の声がおかしい程に上擦っているいるのが分かるけど、どうにも動揺を隠しきれない。
次の瞬間、彼の身体から力が抜けると完全に凭れ掛かってきて慌てて力の入らない膝を叱咤して辛うじて踏みとどまる。

次に聞こえてきたのは前橋の寝息と、ポーンという間の抜けたエレベーターの到着音。
それと同時に扉が開いたけれども、すぐにその場を動くことは出来ずにいた。
まるで全力疾走した後のように鼓動が早い。何よりも、先程の自分の声が信じられず呆然としていれば、微かな音を立てて閉まろうとする扉で我に返る。慌てて手を伸ばして開くボタンを押してから前橋の脇に手を入れると、再び肩に担ぎ直す。

とにかく自分の家に今は帰りたかった。

鞄から鍵を取り出すと、震える指先でどうにか鍵を開け、扉の中へと入る。暗いながらもそこは見慣れた我が家で、玄関先で担いでいる前橋をどうにか下ろす。
靴を脱いで一目散にキッチンへ向かうと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して半分ほどを一気に飲み干した。
何が起きたのか冷静になりたかったけど、よく冷えた水は顔の火照りも、やけに早い鼓動も落ち着かせてはくれない。

「落ち着け、落ち着け」

呪文のように唱えてみたところで、身の上に起きたことを思い返せば動揺しか沸き起こらない。それでも、何度も水を口へと運んでいる内に状況は理解できてきた。
ただ、混乱が収まった訳では無かったが……。


* * *


前橋の上に毛布を掛けるまでに冷静さを取り戻した私は、とにかく前橋の靴を脱がすといつも通りに洗面所へと入る。
とにかく今は前橋は寝ているのだから、追い出しようもない。だとしたら、自分もいつものように行動を起こすだけのことだ。

しっかりとメイクを落としすっぴんに戻ると、結んでいた髪をおろし鏡の中にいる自分と見つめ合う。冷静になったつもりだったけど、まだ顔は赤いし、心臓だってまだ激しく脈打ってる。
別にファーストキスなんて大事にしていた訳じゃない。ただ、ファーストキスがディープキスというのはどういう了見だ、と思うくらいは許して欲しい。

夢が無くても、せめて順序くらいは踏んで欲しい。しかも、相手だって選ばせて欲しいものだ。
部下とそんなことをすれば、自分が冷静を保っていられるのか自信なんて全く無い。
だとすれば、酔っぱらいのしたこと。忘れてくれることを祈るしかない。ついでに自分だって寝て忘れてしまえばいい。

着ていた薄手のコートや服を全て脱ぎ捨てると風呂場に入るなり熱いシャワーを頭から浴びた。リンスをつけた髪をシャワーで洗い流している最中、ひんやりとした風が身体を撫でる。
不審に思いうつむいたままの状態で薄く目を開ければ、視界に入ったのは見慣れた床と自分の足。そして、自分よりも大きな足に慌てて顔を上げる。

目に映るのは映画やドラマでしか見たことのない男の胸板。そこからゆっくりと顔を上げていけば、自分を見下ろす視線と重なる。

「前橋、君…どうして、ここに?」

言葉に詰まりながらも掠れる声でそれだけ言うと一歩後ずさる。けれども、狭い風呂場で逃げ場は無く背に冷たい壁がすぐにあたる。
下半身や胸元を隠してみるけど、タオル1つ持っていない自分にとってこの状況は恐怖でしかない。逃げ場が無いにも関わらず、ゆっくりと無表情に近づいてきた前橋は、手を伸ばしてきて身を強張らせる。

けれどもその手は長い髪を一房手にするとゆっくりと髪の毛に口づけた。滑らかな顔のライン、そして少し癖のある髪がふわりと揺れる。
そのまま前橋の視線が自分を見上げた途端、心臓が一際大きく痛いくらいに脈打った。

「芹香さん」

いつもと変わらぬ柔らかい声。けれども、いつもとは全く違うその空気に喉がカラカラに乾いて声にならない。

「気持ちいいことしましょう」

いつもと変わらない声で、いつもとは全く違う響きを持つ言葉。先のキスを思い出して顔に熱が集まるのが分かる。

「きちんと優しくしますから」

前橋の両手が伸びてきて背後の壁に手をつくと、もうそこに逃げ場は無い。

「わ、私は」

掠れた声から余裕の無さがにじみ出てる。けれども、前橋は穏やかに笑うばかりだ。

「好きです。正直、一目惚れでした」
「わ、たしは、好きな人とじゃないと、しないわよ」
「でも、先のキスは気持ち良かったでしょ?」

言われて先程のキスを思い出し、背筋がゾクリと震えた。
その間にも前橋の顔が近づき、唇を重ねる。顔を背けようとしたところで、後頭部に回された手がそれを許さない。
下唇を甘噛みされ、舌を絡められると身体から力が抜ける。もう片方の手はゆっくりと腰を撫で、角度を変えて何度もキスされる内に肌が粟立つ。
やめて欲しいのに、気持ちいいと感じる自分もいて、どうしていいのか分からなくなる。ただ、徐々に思考を奪うように激しいキスを与えられ、身体からはどんどん力が抜けていく。

「んんっ…ふっ……」

風呂場の中で自分の声が反響し、しかも角度を変える度に水音も響き、ねっとりした甘さで聴覚を犯す。ぼやけた思考になるまで、口内を弄られ、舌先を甘噛みされ、翻弄させられてから舌が唇をなぞり、最後に下唇を甘噛みしてから離れた。
途端に溢れた自分の吐息すら甘い。

「も……やめ……んん」

離れた唇はすぐに首筋を伝い、舌先が甘い疼きを残していく。
ゆっくりと降りてきた舌先は胸の頂点を何度も嘗め上げられて、時折軽く歯を立てられるとそれだけで身体が跳ねる。

「やっ…あ、あぁ、んんっ…」

甘い自分の声は羞恥心を掻き立てられて耳を塞ぎたくなる。けれども嘗め上げられるたび、背後にある壁に爪を立てることしかできない。身体の奥がキュッとしめつけられるように感覚に目を開けていられず、ギュッと目を瞑った。
腰をやんわりと撫でていた手が離れると、降り注いでいたシャワーが突然止む。

何が起きたのか確かめようと恐る恐る目を開ければ、自分とは違う幅広な胸板が視界に入りクラリとした。自分とは縁遠い世界に紛れ込んでしまった感覚に思考がついていかず、ぼんやりと前橋の顔を見上げた。

「芹香さんのやらし声、もっと聞きたいからシャワーの音は邪魔ですからね」

その言葉で下半身が熱くなったのが分かる。
ゆっくりと足の間へと伸びてくる指を他人事のように眺めていたけど、指先が触れた瞬間、身体中がショートする。

「やっ……!」

逃げ出そうにも背後には壁があり下がることは出来ない。その間にも足の間に伸びた指で撫でられると腰が跳ねる。それと同時に下半身から水音が響き、羞恥心で顔が熱くなる。

「芹香さん、濡れてる」
「いや、言わないで」
「……やっぱり可愛い」

言われたことのない言葉を耳にすると同時に、再び口づけられた。
逃げ出したいと思っているのに、熱を帯びたソコを指先で撫で上げられると動けなくなる。

「や…ん……やめ、あぁ……っ」

熱くておかしくなりそうな感覚をどうにかしてほしくて、目の前にある腕にすがりついた。けれども、指先は動きを止めることもなくくちゅくちゅと音をたてて思考を苛む。

「いや……こ…なの…いや…なの…」

いやだと思ってる。それなのに、どんどん身体は思考を裏切り火照るし熱くなっていく。
何よりもこの先、自分がどうなってしまうのか考えると知らないから怖い。

「本当に芹香さん、可愛いですよ。苛めたくなるくらい」

耳元で囁かれると同時に指の動きが変わり、電気が走るような感覚に小さく悲鳴を上げた。

「いや、そこ、いやなの、あぁっ、んんっ」

身体が跳ね上がるのが止められない。膝頭がガクガク震えて立っているのがやっとなのに、前橋の指はどんどん責め立ててくる。
腕にすがりついて前橋の肩に顔を埋めながら、言葉にならない甘い声ばかりが唇から出て行く。

「こわ…い、んんっ」
「大丈夫だからもっと気持ちよくなって下さい」
「やっ…もう、変になる!」
「もっとやらしい芹香さんを見せて」

空いている手が顎を掴むと、くいっと顔を上げさせられる。前橋の視線はいつもの穏やかさはなく、獰猛に自分を見下ろしている。
その視線にゾクリとした。

「や…んあ、そ…な、目で…見ない…あぁぁぁっ!」

気が狂いそうな何かに押し流されて声を上げると、そのまま視界は白く焼けた。崩れ落ちる身体をほどよく筋肉のついた腕が支えてくれる。荒い息のままにぼんやりとした思考で見上げれば、穏やかに笑う前橋と視線が重なる。

「やっぱり可愛いですね、芹香さんは」

ぼんやりとした思考でその言葉を聞いていたけれども、自分とはかけ離れたその言葉に違和感を覚える。少なくとも、可愛いなどと言われたことは一度も無い。それとも、こういうことをする時には口にする社交辞令的なものなんだろうか。

分からずにいれば、前橋は頬に軽いキスをすると再びシャワーが降り注いでくる。火照った身体に冷たいシャワーは気持ちがいい。少し待てば流れ落ちてくる水も徐々に温かくなり、前橋の腕に支えられたままシャワーを浴びる。
軽くシャワーで流された後、動けないままの私を前橋は軽々とお姫様抱っこで浴室を出た。バスタオルに包まれ寝室へ運ばれると優しくベッドへ下ろされた。それと同時に唇へ軽いキスを落とされ、見上げた前橋は苦笑を浮かべた。

「そういう二面性に男って弱いって分かってやってます?」

二面性とはどういうことなのか分からずにいれば、表情から悟ったのか前橋は小さく笑った。

「昼の顔と夜の顔。僕は夜の芹香さんの方が好きですよ。何よりもその表情にそそられますし、可愛いし」
「可愛いって言われたくない」

ぼそりとした呟きに前橋は意外そうな顔で見下ろしてくる。
だって、当たり前だ。可愛いなんて似合わない。
格好イイとは言われても、昔から自分が可愛いと思ったこともないし言われたこともない。何よりも自分の中に可愛い部分があるということは素直に認めがたい。

「じゃあ、これから嫌って言うほど言ってあげます。そしたら段々それが普通になって、嫌なんて思わなくなりますから」

爽やかに笑う前橋の表情に先程までの獰猛さはもうどこにもない。その表情にホッとしたのも束の間、前橋の口元に意地の悪い笑みが浮かぶ。

「それに僕無しじゃいられないくらいエッチな身体にしてあげますから」

サラリと言われた言葉の意味を理解できず、頭の中で何度も反芻する。
そして意味を理解出来た途端にもの凄い勢いで顔が赤くなったのが自分でも分かった。

「二度としないわよ! こんなこと!」
「今度はもっと凄いことしましょうね。もっと、もっと気持ちよくなれますから」
「もうしない! 絶対しない! っていうか酔ってないなら出て行きなさい」
「あぁ、折角可愛い芹香さんだったのに。でも、今日は帰ります。可愛い芹香さんも、エッチな芹香さんも見れましたから」
「出てけーっ!!」

手近にある枕を投げつければ、余裕で受け止めた前橋はベッドの橋に枕を置くと寝室を出て行った。
濡れた髪もそのままに布団に潜り込めば、しばらくした後に玄関の扉が閉まる音が聞こえた。

誰だ、あれを穏やかで草食系と言った奴は。草食系っていうのはもっとこう、ああいうことはしない筈……多分、恐らく。

自信が無いのは男と付き合いが無いんだから仕方ない。
けど、あれは違う。絶対に草食系なんかじゃない。
枕を涙で濡らすことは無かったけれども、酒の力を借りてでも忘れてしまい夜になった。

Post navigation