事件の翌々日、岡嶋に食事へと誘われ個室のあるイタリアンのお店で美味しく食べて、そしていつものように話していた。けれども、メインの若鶏のディアボラを食べ終わったところで岡嶋が不意に黙り込む。
今日は会った時から、岡嶋はどこか落ち着かない感じで、うさぎはずっと気にはなっていた。ただ、うさぎから問い掛けるべきか、岡嶋が話し出すのを待つか、そう考えた時、後者を選んだうさぎは自分から切り出すことはしなかった。いつでも岡嶋は、隠し事をすることは無いし、問い掛ければ答えてくれる。けれども、うさぎが聞いてしまえばそれが岡嶋に対して強制になってしまう気がして余計に問い掛けることが出来ずにいた。
気にならない訳では無いけど、言いたくないのであれば言わなくてもいい、そういう選択肢を岡嶋相手には残したいと思っている。別にそれは気遣いとかではなく、うさぎの中にある自然な感情だった。けれども、何か覚悟が決まったらしく次にうさぎと視線が合った時、岡嶋の顔にいつもの笑みは無かった。
「まず、俺はうさぎちゃんに謝らないといけないことがあるんだ」
そう切り出されても、謝られるような内容がうさぎには思いつかずに首を傾げる。
「実はずっとうさぎちゃんの携帯をハッキングしてたんだ」
一瞬、言われている内容が分からず黙り込んでしまうけれども、ここ数日の展開を思い出してうさぎは苦笑する。
「それは仕方ないと思います。実際に色々ありましたし、岡嶋さんが心配していたことは分かってますから」
「うん、でも、こういうの本当はタブーでしょ? 分かっててやったから謝らないといけないと思ってね」
「それは本当に仕方ないと思ってます。もっと私がしっかりしていれば岡嶋さんもそんなことをしなかったと思います」
うさぎの言葉に岡嶋はいつもに比べてどこかぎこちなく笑うと、再び口を噤む。
その間にデザートが運ばれてきて、うさぎはスプーンを手に取ると三つ並ぶ小さなシャーベットの内、淡いグリーンのシャーベットを掬って口に入れる。途端にさっぱりとしたミントの香りが口の中に広がり、溶けてなくなる。それが夏らしくて、ようやく五年前から前に進めた実感が湧いてきて、少しだけ笑う。
それから、岡嶋へと向き直ると覚悟を決めて口を開いた。
「遠慮無く全部言って下さい。全部聞きます。守られるばかりじゃなくて、対等に話しがしたいんです」
ずっとうさぎの胸にわだかまっていた気持ちは、梶に告白したことで開き直りみたいなものが出来てしまった。隠し事が無くなったから、というのもうさぎにとっては大きかった。大学内で自分の手腕を偽るためだったとは言え、岡嶋や梁瀬に本当のことを言えずにいたのはうさぎには負担でもあったし、不安でもあったし、何よりも裏切りのようだと感じてもいた。その全てが無くなった今、うさぎは等身大の自分を知り、そして少しだけ前の自分よりも強くなったと思える。
「俺はね、うさぎちゃんを守るの、結構好きだったんだけどね」
「今の私は嫌いですか?」
強くなったとは言っても、やっぱり大切な人に嫌われるのは嫌で、つい窺うような口調で聞いてしまえば、そんなうさぎに岡嶋は楽しそうに笑う。
「全然、嫌いじゃないから困ってるかな」
一旦岡嶋は笑いを納めるとアイスコーヒーを口にしてから、改めてうさぎへと向き直る。その目が、何かを言い出す決意をしたことがうさぎにも窺えた。
「俺ね、来月から米国へ行く予定なんだ」
今までも岡嶋はロケなどで米国へ行ったりすることもあったし、そういう時にも軽く言われて後日うさぎにおみやげを渡すために会うのが常だった。けれども、こうして改めて口にするということは多分、今までとは違うんだと思う。何かを無くしそうな気がして、うさぎは岡嶋から視線を外すことが出来ない。
「いつ、帰って来るんですか?」
問い掛けた声は少し掠れていて、自分で思っているよりも緊張していたことにうさぎはその時になって気付く。けれども、うさぎのそんな声にも岡嶋の表情は変わらない。ただ、おだやかに微笑んでいるだけで、酷く胸騒ぎがする。
「分からない。早ければ一年、遅ければ何年も掛かると思う」
「どうして……」
うさぎにとって、岡嶋は大切な人で、この人がいたから自分は強くなれた自覚もある。何より、辛い時に梁瀬と共にうさぎを救ってくれた人だといっても過言じゃない。とても大切な人で、ずっと、いつまでも傍にいるんだとばかり思っていた。だから、その言葉はうさぎが思っていた以上にショックなものだった。
「実はうち、うさぎちゃんと同じ年の妹がいるんだよね。色々あって、もう十年近く眠ったままなんだ。その原因に俺も一枚噛んでたこともあって親と上手く行かなくなって家を出た。まぁ、元々親と上手く行っていた訳じゃなかったからそれが決め手になったというか」
困ったように笑う岡嶋だったけれども、うさぎにはその笑顔が痛々しく見える。人と深く付き合うことをしてこなかったうさぎは、こういう時に上手い言葉を見つけ出すことが出来ない。それがかなり悔しくて、スプーンを持つ手に少しだけ力が籠る。
「そういう自分が嫌になって別人になりたくて演劇の道に進み出した。やってみたら面白くて、でも、ずっと妹のことは気になっていた。妹はね、俺の先輩に酷いことされて自殺未遂を起こしたんだ。けれども、両親はそれを隠すように妹を海外の病院に入院させてしまって、俺にも会うことを禁じた。もうね、あの時は本当に両親に殺意芽生えてどうしようかと思ってた」
軽い口調で何でも無いことのように岡嶋は話すけど、そこまで気持ちが落ち着くまでどれだけ心を痛めたのかと思うと、うさぎの心も痛い。
「ただ、自分が原因の一つだと思うと、どうしても妹に会う気になれなくて今まで何度か海外にいってるにも関わらず会いに行ったことが無かったんだ。怖かったから、逃げたんだ」
多分、岡嶋にとってこれは凄く大事なことなんだとうさぎにも分かる。けれども、それを自分が聞いてしまっていいのかうさぎとしては判断に迷う。
「あの、無理に話さなくてもいいです。岡嶋さん、辛そうだから」
「でも、うさぎちゃんにはきちんと説明しておきたいから。俺ね、本当にうさぎちゃんのこと大事にしてたよ。守ってあげなくちゃ、ってさ。でも、最近のうさぎちゃん見てて、間違えたんだなーって思った」
何がどう間違えたのかうさぎには分からない。けれども、そんな気持ちが透けて見えてしまったのか、岡嶋は小さく苦笑した。
「一時期梶さんのことがあって、本当に壊れちゃうかと思ったんだ、妹みたいに。実際に妹みたいに可愛くて仕方なかったんだ。だから梶さんにも近づけないように、梁瀬にも極力梶さんの会話を避けて貰うように頼んで……でも、全部勘違いだって分かったら、あー、馬鹿だなーとか思ってさ」
「勘違い、ですか?」
「うん、色々とね。確かに梶さん、うさぎちゃんの腕にべた惚れだけど、きちんとうさぎちゃんのことも好きだよ、今は」
岡嶋の言うことだから信じたいけど、そうは言われてもうさぎにはすぐに信じることは出来そうにない。強くなったと思いたいけど、でも、やっぱり傷つくのは怖いし、その痛みも知ってる。だから人を信じることに臆病になっている自分がいることも分かってる。
「一昨日、うさぎちゃんが笑ってるのを見たら、あぁ、もう大丈夫なんだなって思った。俺が守らなくても自分で立って歩けるくらいに強くなったんだって」
「どうでしょう。確かに五年前に比べたら強くなったと思いたいですけど、自分では分かりません」
いや、そんなことは無い。自分でも分かるくらいに、今の自分は強くなっていると思うし、少なくともうさぎにとっては強くなったと思いたい。それでも、そんなことが口をついて出るのは、やっぱり岡嶋に傍にいて欲しいと思っているからに他ならない。
「大丈夫だよ。だって、うさぎちゃんを見てて、俺もそろそろ負けないように強くならないといけないって思ったんだから」
今までうさぎは他人に影響を受けることはあっても、他人に影響を与えるような人間だと思ったことは一度も無い。だからこそ、驚きで岡嶋を見つめてしまえば、優しく笑った岡嶋は手を伸ばしてきてうさぎの頭を撫でる。
「うさぎちゃんを守ることで、今更妹を守ってるつもりになってた。きちんと自分のしたことを見つめた時、間違いに気付いたんだ。今度こそきちんと妹を見守ろうと思う」
その言葉を聞いて、もう岡嶋の中で決心は固いのだとうさぎは知る。それを理解した途端、自分に止める術は無いんだと知り胸が酷く痛む。
「慕ってくれて本当に嬉しかった、ありがとう」
優しい声だったけど、優しければ優しいほどうさぎにとって大切なものを無くす気がして苦しくなる。自ら梶と離れたように、自分から離れて行く人もいる。それは仕方ないことだと分かっていても、うさぎは滲む涙を堪えることが出来なかった。
「うーん、やっぱりうさぎちゃんに泣かれるのが一番きついな」
「他に誰か泣いたんですか?」
涙声で問い掛ければ、岡嶋は悪戯っぽく笑ってから潜めた声で答えてくれる。
「梁瀬」
いつでも快活で明るい梁瀬が泣く姿が想像出来なくて、呆然と岡嶋を見つめれば、うさぎの目の前で岡嶋が憂いなく笑う。
「涙止まった?」
「……驚いて止まったみたいです」
「泣いてほしくないと思ってるけど、泣いてくれたのは嬉しいかな。うさぎちゃんは泣けないと思ってたから」
やっぱり付き合いの長さは伊達じゃない。うさぎが泣けなくなっていたことに、いつから岡嶋は気付いていたんだろう。どれだけ、岡嶋はうさぎのことを気にかけてくれていたのだろう。そう思ったら、堰を切ったように涙が出て来て目の前の岡嶋が慌てる。
「う、うさぎちゃん?」
「私……岡嶋さんのこと、本当に好きでした、実のお兄さんみたいに」
言葉に詰まりながらも、嗚咽の合間にどうにかそれだけを伝えれば、岡嶋は穏やかに笑って頭を撫でてくれる。その手が優しくて本当に好きだった。うさぎにとって苦しい時に一緒にいてくれた大切な人だった。
でも、一生会えない訳じゃない。いざとなれば、飛行機に乗れば会える距離にいるんだから自分から会いに行けばいい。そこまで考えると、うさぎは泣きながらも岡嶋に笑顔を向ける。
「絶対、会いに行きます」
「うん、俺からは多分こちらに来れないから、会いに来てくれるなら本当に嬉しい」
「約束します」
「うん」
うさぎは取り出したハンカチで涙を拭ってから、一旦席を立った。化粧室で見た自分の顔は、近年稀に見る泣き顔で、目元から鼻の頭から赤くなっていてそんな自分に少し笑ってしまう。
ずっと近くで見ていてくれた人だった。強くなるまでずっと。だからこそ、強くなった自分を見せて安心して見送りたい。悲しいとは思うけど、でも、それが全てでは無い。
軽く顔を洗って流れてしまった化粧を軽くて直ししてから席へと戻れば、岡嶋は誰かと電話をしていたのか丁度携帯を耳元から離すところだった。
「あー、デザート溶けちゃったね。ケーキでも頼もうか」
「いえ、いいですよ」
淡いグリーンと淡いピンク、そして白が混ざってマーブル色になった皿を見てうさぎは苦笑すると、すぐ横においてあるアイスティーに口をつけた。少し乾いた喉には冷えたアイスティーが心地いい。
断ったにも関わらず、岡嶋はケーキを一つだけ頼むと、笑顔を見せる。すぐにケーキは運ばれてきて、岡嶋は更に笑みを深めるとうさぎの前に置かれたケーキを指差す。
「うさぎちゃん、一つ約束」
「何ですか?」
「これ、絶対に完食すること」
どこか有無を言わせない強さがあって、ふと過去を思い出す。それはあの初めて湯豆腐を食べた時の強引さがあって、思わずうさぎは眉根を寄せる。一体、岡嶋が何を考えてそんなことを言い出したのか分からない。
「……それは、食べますけど」
「約束だよ」
そんな言葉と共に個室の扉が開く音がして、一昨日会ったばかりの顔が覗く。途端にうさぎの顔は強張ったけれども、岡嶋はそんなうさぎに苦笑しながらも席を立つ。
「諦めるんじゃなくて、色々と話してごらん。うさぎちゃんが思ってるよりも、人は優しいよ」
「岡嶋さん!」
「まぁ、俺みたいに優しくない人もいるけど。また連絡するから」
軽く手を挙げた岡嶋は二言、三言、入ってきた彼女たちと会話を交わすとあっさりとうさぎを置いて個室を出て行ってしまう。その変わりに、うさぎのいるテーブルの横に立った二人は困った顔でうさぎを見下ろしている。
「……座っていいから」
目の前のある二脚の椅子を指差せば、うさぎの目の前に二人は座るとそのまま黙り込んでしまう。
一昨日は、色々とあって大した会話もしないまま別れてしまった。でも、心配していたあの涙は本物だったから、うさぎは何も言わなかったし、言えなかった。
「まず、謝る、ごめん」
そう言って勢いよく頭を下げたのは利奈だった。昔よりも大人びた利奈は、相変わらずショートだったけど、襟足を伸ばしたことで昔よりも女性らしく見える。一昨日は余裕も無かったからきちんと見ていなかったけれども、それだけ年月が経っていることが分かる。
「別に謝らなくても」
「いいから聞いて。私、元々うさぎのそうやって諦めのいいところ嫌いだった」
嫌いという言葉は誰にでも痛い。けれども、痛みよりも正面切って嫌いと言われたことに驚いて利奈を見ていれば、頭を上げた利奈は真剣な顔でうさぎを見ている。
「うさぎの家がちょっと複雑で、寂しんだろうってのも知ってた。でも、あの頃、そういうのに踏み込まれたく無いと思ってたのも知ってたから言わなかった。言った途端に、無理ってすっぱり付き合いを切られそうなそんな感じだったから」
確かに昔の自分は寂しいことを認めたく無くて、諦めたふりをしていた。でも、それを利奈が知っていることに驚いた。気付いたら、すぐにでも口に出すのが利奈だと思っていたからその言葉は本当に意外だった。
「凄い許容範囲が狭いことも知ってたし、でも、うさぎが好きだから友達でいたかった。うさぎのきっぱりしてるところは私は好きだったし、格好いいとも思ってた」
何だかもう、ここまで言われると一体誰のことを言われているんだか分からなくなりそうなくらい、最後につけられた言葉はうさぎにとって似合わない言葉だった。格好いいという言葉が似合う程の自分とは思えず、ただ、呆然と利奈を見ていたけど我に返ると手元にあるアイスティーを口に含む。何だか、もう味も分からないくらい混乱している自分がいる。だからこそ、少しでも落ち着きたくて喉を潤す。
「大事な友達だから嫌われたく無いと思ってたけど、梶さんの件は色々と口を出しすぎて、あー、私ウザいな、って思って。あの時、沙枝の言葉を信じた訳じゃなくて、自分でそう思ってた時だったから普通にしなきゃって思ったんだけど、もう、そんなこと考え出したら普通が分からなくなっちゃって。そしたらうさぎはどんどん距離開け始めるし。でも、縋り付くような真似したら、うさぎ、絶対に軽蔑して余計に離れてくの分かってたからそんなことも出来なかった」
一気に話しすぎたのかむせる利奈に、うさぎは手をつけていなかった水を差し出せば、利奈は一気水を飲み干すとタンと音がするくらい勢いよくグラスを置くとすぐにうさぎへと視線を向ける。けれども、グラスを置いた利奈の手が微かに震えてることに気付くと、うさぎはもう利奈をはねのけるような言葉を言うことは出来なかった。
高校時代、利奈たちと上手く行かなかったのは時間だとばかり思ってた。けれども、自分が思っている以上に色々考えていたことが分かる。
果たして切り捨てたのはどちらかと言われたら、恐らくうさぎの方だったに違いない。自分の存在で誰かに影響を与えるなんで、考えたことも無かった。だから、うさぎの言動でまさか利奈がそんなことを考えてるとも思っていなかったし、うさぎ自身をそう思っている人がいることを考えることもしなかった。
それはもしかしたら、ある意味傲慢だったのかもしれない。知ろうとしていなかったのは、むしろうさぎの方だったのかもしれない。
「大学入ってから沙枝が落ち着いて、それからうさぎのことも色々聞いた。あの頃、沙枝だけじゃなくてうさぎも大変だったのに、何で無理してでも一緒にいなかったんだろうってずっと後悔してた。実は何回も実家の方にも行った。でも、ずっと留守で」
「うん、私が大学入ってからあの家、誰も住んでいないから」
両親の不仲はうさぎが高校卒業する頃にはピークを通り過ぎていて、高校三年の三学期にはどちらも家に寄り付くことは無くなっていた。けれども、責任だと言わんばかりに生活費はきちんと用意してくれていたから、うさぎは別段何かを両親に訴えるつもりも無かった。現時点で離婚も視野に入れている状態だし、うさぎにとって両親に対する期待は随分前から無いものだった。実際、うさぎが数度実家へ戻った時にも、家に帰って来たような形跡は無く、お互いに家では無い場所で生活基盤が出来上がっていることはうさぎにも薄々気付いていた。
「それも後から沙枝に聞いた。私、うさぎの家が複雑なのは分かってた。分かってたつもりだった。でも、家族がバラバラになることってあの頃全然想像出来なくて」
「分かってる。だって、沙枝も利奈も親と仲良しだし、そういう感覚が分からなくても仕方なかったと思う」
「だから、そうして諦めないでよ」
両親については諦めもついていたけれども、それとこれは別だ。こういうことは、どうしても自分の身に起こらないと中々理解されにくいことだと知っているし、うさぎも説明し難い。何よりも、回りに両親が不仲だという話しをあの頃は誰からも聞いたことが無かったから、すぐに自分の家がおかしいということには気付いた。
ただ、大学に入って高校時代に比べたらそこまで珍しい話しでは無いことにも徐々に理解した。恐らくあの高校、お嬢様学校だからこそ余り聞かない話しだっただけで、うさぎのような子供は思ったよりも沢山いることを今は知ってる。
「違うよ、諦めてるんじゃなくて……あの頃は、分からなくても仕方なかったって本当に思ってるから」
その言葉で納得してくれたのか、利奈の表情からは読み取れなかったけれども、利奈は小さく溜息をついた。
「大学行って自分の家とは違う家庭があるって知って、凄い驚いた。あの頃、本当に狭い世界にいたんだなって実感した」
その気持ちはうさぎにも分からなく無い。学生時代、学校とネット、その三つだけしかにしかうさぎの居場所は無いんだと思っていた。でも、そうじゃないと教えてくれたのは、ネットで出会ったあの三人だった。怖いことも、辛いことも沢山あったけれども、あの人たちと出会ってから、もっと違う世界もあるんだと知った。
「沙枝と相談してうさぎのアパート調べて貰って、行ったの、うさぎが住んでるアパートに」
「来たの?」
正直に頷く利奈に本当に驚いた。まさか、あんな高校時代のわずかな時間一緒にいたうさぎを、そこまで気にかけているとは思ってもいなかった。もう過去のことだと割り切って、思い出すことも無いのだとばかり思っていた。
「そしたらうさぎ、岡嶋さんと梁瀬さんの三人で一緒にいて、滅多に笑わないうさぎが笑ってたりして……私ね、正直、岡嶋さんと梁瀬さんに嫉妬した」
「……逆、じゃなくて?」
「違う、二人に嫉妬した。だって、うさぎ滅多に笑ったりしなかったのに、あの二人と一緒だったら笑うんだと思ったら凄い悔しかった。それに高校で私たちとは繋がりが消えたのに、あの二人とは繋がったままなのも凄く腹も立った!」
五年経ってもう見た目も大人なのに、利奈の言い分はまるで高校時代と変わらなくてつい笑ってしまえば、途端に唇を尖らしている。
「どうして笑うのよ」
「だって、余りにも変わらないから」
「うん、変わらない。根本的な所は変わってない。だから、もう一度、最初から友達してみない?」
そう言った利奈の目は真剣で、うさぎは溜息をついた。こんなに正面切って言われたら断れそうも無い。何よりも、悪かったのは利奈だけじゃないと今なら分かる。確かにあの頃は色々あったけど、でも、勝手に諦めて繋がりを一方的に断った自分も悪かったのだとうさぎは思う。
「分かったけど……でも」
そう言って沙枝へと視線を向ければ、ホッとした顔をしてうさぎを見ていた沙枝と視線が合う。
「沙枝はいいの?」
「え?」
「私、お願いされてもシステムセキュリティーには入らないよ」
はっきりと言えば、沙枝は微妙な笑みを浮かべると首を横に振った。
「いいの、それはもう」
「どういうこと?」
途端に沙枝は少しだけ俯くと、それから顔を上げた時には泣きそうな顔で笑っていた。
「貴弘さん、寒河江からの資金援助を受けていたんだけど、今年度いっぱいなの」
「でも、今となっては寒河江の資金援助が無くても潰れるほど体力無い会社じゃないと思うけど」
途端に沙枝の笑みは泣きそうなものに変化して、徐々にその表情が曇って行く。こういう感情露わなところ、沙枝は全然変わってなくて分かりやすい。でも、それが沙枝らしいとうさぎが思えるところでもあった。
「うん、私、そういうこと詳しく知らなくて、資金援助の延長をお爺様にお願いしようと思って寒河江の家に行ったの。丁度貴弘さんとお爺様が話していて、うさぎちゃんが入れば資金援助の延長も考えなくもないみたいなこと言っていたから、慌ててうさぎちゃんのところにいって……本当に馬鹿だよね」
「うん、馬鹿だね」
お嬢様な沙枝らしい考え方だとは思う。けれども、呆れを隠すことなくそれだけ言えば、途端に沙枝は唇を尖らせた。
「酷い! でも、同じ事貴弘さんにも言われた。遠回しだったけど余計なことするなとも言われた」
「まぁ、対会社のことだしそれは仕方ないと思うけど」
使える者は親でも使え的な所がある人ではあるけど、梁瀬から聞いてる話しでは寒河江との繋がりを切りたがっているようなことも聞いている。むしろ資金延長については、梶には最初から受ける気が無かったようにも思える。さすがにそうでも思わないと、告白されたタイミング的にもうさぎとしてはへこみそうだ。
「そう言ってた。去年辺りから寒河江の跡継ぎ候補が上がりだして、その中に貴弘さんの名前も上がってたから、あの会社に何かあれば貴弘さんが不利になると思ったの」
跡継ぎ候補の話しはさすがに初耳で、うさぎとしては驚きを隠せない。ただ、果たして梶は寒河江の跡継ぎを望むかと思えば、望まない気もした。梶にとって大切なのはシステムセキュリティーという貴美の残した会社であって、むやみやたらと何でも手に入れたがるタイプには思えない。
「でも、この間、電話で跡継ぎの件を貴弘さんがすっぱり断ってるのを聞いた時、何か分かった。貴弘さんはもう、寒河江との関係を切りたいと思ってるんだなって」
さすがに沙枝の心情を考えるとそうだよとは言えず、うさぎは口を噤む。沙枝の気持ちがまだ梶にあるのであれば、それがどれだけ酷なことか分からない訳でも無い。ただ、その話しを聞いてホッとした自分もいて、そんな自分を少しだけ嫌だとは思った。
「でも、梶さんが跡継ぎ候補に残ってるとは正直意外だったかな。だって、血族では無いでしょ」
「そういうの、お爺様余り気にしない人だから。実力があれば誰でもって感じで、まだ貴弘さんのことも諦めて無いみたいだし」
「あー、人のお爺さんに言うのも何だけど、実は結構面倒な人だよね、沙枝のお爺さん」
「……否定出来ないかも。そう! 私、うさぎちゃんに言わないといけないことがあるの!」
いきなり勢いよく身を乗り出してきた沙枝は、途端に顔を赤くする。余りの変わり身の早さと、その勢いにうさぎとしては若干腰が引ける。
「な、何?」
「あの、私、今その……」
「ほら、頑張れ、自分で言うんでしょ」
からかい混じりの利奈の声で少しだけ利奈を睨んだ沙枝だったけれども、すぐにうさぎへと視線を向けてくる。
「今、お付き合いしてる人がいるの!」
その言葉にうさぎは、やっぱり人を信じるのは難しいと思った。寒河江との繋がりが切れることを梶が望んでいた、イコール沙枝との繋がりも切れるだろうことを望んだ自分に与えられた罰なのかもしれない。そんなことまでうさぎの頭を駆け巡り、一気に気分が下降したのが自分でも分かった。
「やっぱりそうなんだ」
「やっぱり? え? うさぎちゃん誤解してる! 確かに貴弘さんには色々相談に乗って貰ったけどお付き合いしてるのは貴弘さんじゃないから!」
沙枝の予想もしなかった言葉に、呆然として、それから自分の早とちりに気付いて顔が赤くなってくる。感情の起伏が激しすぎて、うさぎは出来るだけ平静を装うように再びアイスティーに口をつけた。氷が解けて薄くなったアイスティーは美味しいものでは無かったけれども、少しだけうさぎを冷静にしてくれる。
「……従兄弟の並木さんって言うんだけど、並木さんはうさぎちゃんのこと知ってたみたいだけど、うさぎちゃん知らない?」
「ごめん、知らない。でも、私、名前売って歩いた記憶は無いんだけど」
「でも、並木さん、うさぎちゃんのこと自分の会社に誘ったって」
「そう言われても……」
正直、うさぎには幾つものオファーがあったこともあって、一々社長の名前まで覚えていない。大手企業であれば分かるけど、中小企業になれば名前が朧げなところも幾つかあって自信も無い。
「あ、そうよ、秘書の加賀谷さんがうさぎちゃんに宜しくって」
「宜しくって……え? あの会社の社長と付き合ってる訳?」
「うん、そうだよ」
確かに今回の一件は名前の上がった加賀谷からの情報でうさぎは助けられている。けれども、加賀谷の社長というのは貴美の死を望んだ人間で、うさぎとしては余りお近づきになりたい人種では無い。後から梁瀬経由で聞いた話しでは、当時、寒河江の跡継ぎ候補になっていたのは貴美だったこともあり、一族内では不満も上がっていたと聞いた。そして並木という男は沙枝の従兄弟だというのだから、うさぎとしては困惑するしかない。
寒河江にとって沙枝は可愛い孫であり、その孫に近付いた目的を考えれば……そこまで思考がいきついた時、目の前にいる沙枝が心配そうな顔で自分を見ていることに気付く。
「何か変?」
「変って言うか……」
実は脅されましたと沙枝に伝えるべきかうさぎとしては迷うところだ。けれども、梶も知っているのであれば何かしら沙枝には忠告しているに違いない。正直、並木のような男が沙枝の近くにいるのは歓迎は出来ないけど……。
歓迎出来ない?
……そうか、もう許してたのか。
不意に思い浮かんだ言葉に、うさぎは既に沙枝を許していることに気付く。そうでなければ歓迎するもしないもあったものではない。
そして、岡嶋の言葉を不意に思い出す。確かに岡嶋が言う通り、人は優しいのかもしれない。そして、話しをすることはとても大切なことだと知る。今までどれだけ人の話しを聞いてきたのか思い返して、うさぎは少しだけ反省する。話しをしないと相手のことは分からない。岡嶋とは沢山の話しをしてきたから、それだけ岡嶋はうさぎのことを知っていたに違いない。
だとしたら、自分は何をするべきか……。
「沙枝、一つだけ忠告。並木さん、結構いい性格してるよ。ついでに言うと少し気をつけた方がいいかもしれない」
「え? どういうこと?」
困惑を露わにおろおろする沙枝に、うさぎは上手く言葉を探せない。ただ、沙枝の恋人である並木という男がうさぎの思うような人間で無ければいいと心から思う。実際に貴美の死を望む言葉は並木という男の口から聞いた訳では無い。だからこそ、少ない可能性に賭けたいという気持ちもあったし、何よりも並木という男を判断するにはうさぎの手元には情報が足りない。勘違いや思い違いで嬉しそうな沙枝の顔を曇らすようなこともしたくなかった。
「私からは何も言わない。詳しいことを知りたかったら梶さんから聞いて。本当に不味いと思ったら梶さんが忠告入れてくれる筈だし」
「どうして、教えてよー」
うさぎがそんなことを考えてるとは露知らず、沙枝の顔は明るい。出来ることなら並木という男が沙枝に本気であることを願うばかりだった。
「ごめん、余り良い印象じゃないから私が話すと色々誤解を招きそうというか……」
いや、脅されていたのは事実だから誤解も何も無い。ただうさぎが言うとストレートすぎて、沙枝を傷つける可能性もあり口を噤む。
「うさぎちゃーん」
「沙枝、梶さんに聞けばいいじゃない」
うさぎの口ぶりに利奈は何か感じるところがあったのか、それなりに強い口調で沙枝を止めてくれる。けれども、どこか納得いってないのかやっぱり口を尖らせている。その仕草はあの頃と変わってなくて、少し微笑ましい気分にさせられる。
「でも……余り貴弘さんに会ってるとうさぎちゃんに悪いし」
「え、何で? 別に悪くも無いでしょ」
少なくともうさぎは沙枝と梶が会うことを一度も悪いなんて思ったことは無い。それに沙枝に恋人がいると知った今、現金なことに前に比べたら沙枝と梶が会うと聞いても前ほど感情が逆撫でされることは無い。むしろ並木のことが気になっているだけに、ぜひとも梶からは話しを聞いて欲しいとすら思う。
「だって、うさぎちゃん、まだ梶さんのこと」
そこまで言われて、ようやく沙枝がうさぎに気遣ってのことだと分かってうさぎとしては苦笑するしかない。
「今ちょっと考え中。信用してない人のこと好きってどうなんだろうと思って」
「うさぎちゃん、梶さんのこと信用してないの?」
「まぁ、色々あったからね。だから、ちょっと落ち着いて自分の気持ちを見つめ直したいというか。もう、本当にバタバタしてたから色々とまだ混乱してる部分もあって少し落ち着きたい気分なんだ」
気持ちを知られた、そして告白された。それは動かしようの無い事実だけど、うさぎとしては自分の気持ちが揺らぐ。梶に対しては、もしかしたら求められているのはうさぎ自身ではなくうさぎの持っている技術、という意識が強すぎてどうしても今は考えられない。酷い言い方かもしれないけど、告白したのはやっぱりうさぎの技術を知って欲しいと思ったからじゃないかという穿った考えが頭を過る。
「これから大学卒業するまでに就職先も考えないといけないし、全てはそれから考えるって感じかな」
「でも、本当にうさぎちゃん、システムセキュリティーに入らないの?」
「あそこには梶さんがいるから」
「えー、好きな人がいるのに入らないって、よく分からない」
確かに梶と普通の状態で、ただ好きなだけだったらここまで頑なにシステムセキュリティーという会社を避けるようなことはしなかったに違いない。けれども、今はまだ気持ちが落ち着かないこともあって上手く説明出来るだけの自信もうさぎには無かった。
「うん、今は分からなくていいよ。でも、きちんと落ち着いたら説明するから」
「本当に?」
そう言い募る沙枝の目が真剣で、うさぎは笑いながら頷いた。
崩れてしまった信頼は何も梶とだけでは無い。きつく突っぱねたうさぎに沙枝や利奈もこうして再び歩み寄ってくれたのだから、うさぎとしてもその信頼を取り戻すだけの努力はしないといけないと今なら思える。
それからようやく落ち着いて三人でケーキやお茶をして夕方には二人と別れた。
アパートに戻ればポストの中に小さな紙袋が入っていて、恐る恐る取り出して中を覗き込む。中にはプレゼントと思われる包装紙に包まれた何かと、その上にメッセージカードが乗せられていた。それを見て、ようやくうさぎは今日が自分の誕生日だったことを思い出す。
毎年であれば梁瀬や岡嶋から声が掛かり一緒に食事をすることが多かった。プレゼントを用意しようとした二人を全力で止めたのは、正直、誕生日をもう何年も祝われたことのない照れもあった。八月の終わり、それは学生の頃から夏休みの最中で、友人が少ないうさぎは誰かからプレゼントを受け取ることもしてこなかった。親も九月になって思い出すありさまで、そういう時は多めにお小遣いをくれる程度だったから、食事を一緒にして「おめでとう」という声を掛けられるだけでもかなり照れくさかった。
でも、そうして祝われることを嬉しいと思ったのは確かなことで、少しだけ温かい気持ちになりながらうさぎは紙袋の中にあるメッセージカードを開く。落ち着いた筆記体で書かれた文字がそこにあり、ハッピーバースデーと書かれた下に、T.Kというイニシャルがありうさぎは苦笑する。
梶と誕生日について話したことは一度も無い。けれども、梶がうさぎの誕生日を知っているという事実は、思っていたよりもくすぐったく、嬉しいものだった。
「でも、それとこれとは別よね、やっぱり」
そう言いつつ、うさぎは小さく溜息をつくと紙袋を持って自分の家の中へと入った。いつものように化粧を落としてから携帯を取り出し、まず最初に岡嶋へ「有難うございました」と一言だけメールを入れた。色々説明しても良かったけれども、また連絡をくれると言った岡嶋は恐らく向こうに行くまでに一度や二度は会う機会があるに違いない。だから、今一番伝えたいこと、伝えるべきことだけをメールに入れた。
そして、次に携帯の中から梶のアドレスを探すと、うさぎはしばらく悩んでから同じく一言だけメールを入れた。
「明日会社に伺います」
梶がそのメールに何を期待するかは分からない。けれども、うさぎは梶を喜ばせる気は全く無くて、一体どんな顔をするのか想像して少しだけ笑った。
* * *
夕方からは打ち合わせに出るけれども、それ以外の時間であれば社に居る旨を伝えてあった彼女は、昼過ぎに国立に案内されて作業場へとやってきた。丁度梁瀬と一緒にいたこともあり、滅多に現れることのない彼女を見て先に声を掛けたのは梁瀬の方だった。
「あれ、うさぎちゃん、どうしたの?」
「今日は梶さんに用事があるんです」
そう言って私のデスク前に立った彼女は鞄の中から見覚えのある紙袋を取り出すと机の上に置いた。
「お返しします」
「気に入らなかったか?」
「いえ、開けてないので。それ以前に、梶さんにそういう物を貰う立場でもありませんから」
そう言って笑顔を浮かべる彼女に、一瞬見惚れたが、はいそうですかと引き下がる訳にもいかない。
「だが誕生日なら貰ってもおかしくは無いだろ」
「誕生日にプレゼント受付て無いんです」
思わず梁瀬を見れば、まさにやってしまったという顔をして額を押さえて同情混じりの視線を投げて来る。ということは、恐らく本当に誕生日プレゼントというものを受け付けていないに違いない。
「それなら食事でも」
「一人二千円以内でしたらお付き合いします」
唐突に具体的な金額を出されてしまい、梶は即座に女性が喜びそうな場所をピックアップしてみるけれども、知っている範囲内では二千円で食べられるところなんてものは全く思いつかない。それが表情に出ていたのか、彼女は微かにどこか楽しげに笑う。元々表情に現れないと思っていたのだが、彼女はどこまでも人の気持ちを読み取るのが早い。
「思いつかないみたいですし、また今度にして下さい。私も今日はこれから大学へ行かないといけないので、これで失礼します」
一礼すると、止める間もなく部屋を出て行ってしまい、梶は浮かしかけた腰を渋々と再び椅子へと下ろした。
「うーん、梶さん完敗ですね」
「お前たちは彼女にプレゼントを渡したりしないのか?」
「最初に上げた時に微妙な反応だったので、岡嶋と相談の上やらない方向で。後で聞いたら、誕生日は中学生以来プレゼントを貰ったことが無いから恥ずかしいのと、お返しが大変だって言うので、数年は美樹も入れて四人で食事だけにしてます」
確かにそういうことであれば、思惑含みの梶のプレゼントなど彼女は受け取らないに違いない。だが、こうして正面切って突き返されたのは初めてのことで、梶としては困惑するしかない。
「なら二千円は何だ」
「それも似たような理由ですよ。うさぎちゃん真面目だから、お返しとか考えちゃうみたいで、まだ学生でしょ? だから妥協案で二千円。そこまでがうさぎちゃんが素直にご馳走になってくれる額」
彼女の生真面目さは確かに梶も知っていた。けれども、梁瀬たちの間でもここまできっちりと取り決めされているとは予想もしていなかった。
「……そういうことは早く教えておけ」
「だって、まさか梶さんがそういう手に出るとは思ってなかったですから。っていうか、もしかしていきなり指輪とか上げたんじゃないでしょうね」
「そこまで馬鹿じゃない。イヤリングだ。女性なら大抵喜ぶと思ったんだが」
ぼやく梶の横で梁瀬は何やら紙に書き付けていて、聞いているのか聞いていないのか俯いた顔は影になり何も読み取ることは出来ない。
「まぁ、物以前の問題だと思いますよ。少なくとも、うさぎちゃんが貴金属を貰って喜ぶとは余り思えませんけど。はい、これどうぞ」
「何だ、これは」
梁瀬は書き付けたばかりのメモ用紙を差し出して来て、梶は納得行かない顔をしたままそれを受け取る。
「この近辺で二千円以内でコース料理が食べられる店ですよ。感謝して下さいよ。さて、俺は午後から打ち合わせなんでそろそろ行きますね」
言いたいことを言った梁瀬は、一枚の紙切れを残して作業場を出て行ってしまう。手の中に残る紙を見れば、幾つかの店名だけが並べられていて、梶は溜息をつくとその店を調べるためにパソコンへと向き直った。
* * *
結局、岡嶋との婚約話題よりも週刊誌には一斉に岡嶋の引退宣言が大きく取り扱われて、うさぎのところに記者が来ることもなく、うさぎとしては意外な気がしていた。恐らく岡嶋が手を回してくれたのだろうことは予想がついたけれども、そういうことが出来るだけの力を持った人なのだと知ると、岡嶋という人に対して驚きを隠せない。
とは言っても、学部まで一時期載ってしまったこともあり、全く面識の無い女子から何回か聞かれたけれども知人程度の付き合いしかないと伝えておいた。もし、外で会っている時に見られたりしたら余計面倒なことになるだろから、知らないふりをすることは出来なかった。両親にも岡嶋から報告をしてくれたらしく、どういう理由をつけたのか珍しく二人して慰めるような電話を掛けてきて、うさぎとしては複雑な心境だった。
けれども、実際うさぎとしては山口がいなくなったことの方が大変で、他の教授との繋がりが無かったことも災いしてあちらこちらに単位について駆け回ることとなった。ラストと山口の件は記事になるようなことは無かったけれども、大学側からは諸事情で退職したという説明だけは受けた。単位についても、大学側の手落ちということで多少優遇は受けたものの、注意して中の中くらいの成績維持を維持していたうさぎには結構厳しいことになった。
そんな中で助けてくれたのは梶から事情を聞いたという名取という教授だった。教授の口添えもあって、どうにか留年せずに済みそうな結果になったことに胸を撫で下ろした時には、既に九月末に差し掛かろうとしていた。
そんな慌ただしい生活の中で、岡嶋が九月末、快晴の日に米国へと旅立っていった。飛行場まで見送りに行ったけれども、その時に見せた満面ともいえる笑顔がうさぎには印象的だった。いつでも笑っている印象のある岡嶋だけど、その日に見た笑顔は今までにないくらい晴れ晴れとしたもので何かふっきれたのだとうさぎにも分かった。そして、うさぎよりも梁瀬は号泣していて、そんな梁瀬を岡嶋はからかい、美樹が慰めているという様子は微笑ましいものがあった。うさぎなんかよりもずっと、梁瀬と岡嶋の付き合いは長かったのだから、喪失感はかなりのものに違いない。
十月になると、大学に出て来る人間は少なくなり、回りの風景も夏から秋へとすっかり移行していて、青々とした街路樹の葉は色を変えている。そんな中、梁瀬や名取と相談してうさぎは進路を決めた。最初は大変かもしれないけれども、恐らくやりがいは大きなものだろうし、何より今のうさぎにとって新たに来ている会社からオファーを全て断ることが出来るというのが最大の魅力でもあった。梶に伝えた時には唖然とされ、遠回しにシステムセキュリティーに入れるとこを諦めない事を言ってはいたけれども、それ以来口にする回数が減ったことからも無理強いはするつもりは無いらしい。
既に看護大学に通っている利奈は、資格試験を受けて合格しないと話しにならないと言ってはいたものの、不合格になるということは考えいない様子だった。そして沙枝は、大学卒業と同時に実家から出ることにしたらしい。両親や寒河江に並木との付き合いを反対されたこともあるが、沙枝自身、自分に足りないものが何なのかきちんと見極めたいということで寒河江系列では無い会社に内定を貰ったらしい。
沙枝たちとは月に二、三回、梁瀬たちとは月に一回の割合で食事をしたりお茶をしたりしている。けれども梶との食事は誕生日以来、誘われても断っている。大体週に一度、週末に誘われることが多いけれども、断れば梶は無理強いをする事も無い。
岡嶋が米国に旅だって二週間程は食事の誘いが無く、何かあったのかと思い梁瀬に聞けば、旅立つ前日に岡嶋に渾身の一発を頂いたらしく、人様の前に顔を出せる状況では無かったんだと笑いながら教えてくれた。実際、見てはいなかったけれども、梁瀬の口ぶりからも相当腫れたらしく、外回り仕事も随分押し付けられたと不服そうではあった。
慌ただしいけれども、どこかゆっくりとした時間の流れる中で、足を止めて空を見上げる。そこには抜けるような雲一つ無い秋空が広がっていて、うさぎの視線はその鮮やかな青から逸らせなくなる。どれだけの時間そうやってぼんやりと空を眺めていたのか分からないけれども、背後からクラクションが鳴らされてそちらへと視線を向ければ、車から梶がこちらを見ていて少し足早に車へと近付く。
「何をしてる」
「空眺めてました」
途端に梶は微かに笑みを浮かべると、先程うさぎがしていたように空を眺める。
「抜けるような青だな」
「えぇ、綺麗な青ですよね」
「そうだな」
そのままお互いに空を眺めたまま黙り込む。けれども、その沈黙に気詰まりすることは無い。昔から梶と居る時にこういうことがあったことを思い出してうさぎの口元には自然と笑みが浮かぶ。
不意に空を見上げていた梶かこちらへと視線を向けた。
「私はこれで仕事上がりなんだが、一緒に食事でもどうだ? 出来たら今日は断らないで貰えると嬉しい」
「何かあるんですか?」
「……私の誕生日なんでな」
言われた意味を考えて、思わずうさぎは声を出して笑ってしまう。元々、誕生日なんて気にするようなタイプでは無かったから、恐らくうさぎを誘うための苦肉の策だったに違いない。もしかしたら、梁瀬辺りの入れ知恵という可能性も無くも無い。
「分かりました。でも、それなら私がごちそうしますよ」
「学生に奢らせる訳にはいかないだろ。ただ、一緒にいたいと望んだのは私の方だからな」
時折零す梶の言葉には、本人意識しないままにうさぎの心臓を直撃している言葉も多くあるけれども、本人が意識していないだけにたちが悪い。そう言われて嬉しく無い訳では無いけれども、今はまだ素直に梶への気持ちを露わにするだけの覚悟がうさぎには無い。梶本人も意識してのものではないから、気付かないふりをしてうさぎは流すしかない。
「ご馳走させて下さい。じゃないといきません」
流してはいても、顔が赤くなっていないか、声は平静か、自分自身を確認しながらもうさぎがそれだけ言えば、梶は苦笑すると車のロックを外した。
「乗って貰えるか?」
「誕生日ですしね」
「相変わらず手厳しいな」
そう言って笑う梶の表情に一瞬目を奪われかけ、うさぎに我に返ると慌てて助手席側に回って席に座る。
「会社の立ち上げは順調か?」
「然程やることも多くないですし、既に信頼出来そうな会計事務所も確保してあるので、あとは卒業を待つだけです」
「卒業を待たずに開業しても構わないのじゃないのか?」
開業するだけであれば、それこそ明日からでも稼働することは可能に違いない。学生起業ともなれば話題性もあるし注目も集められるけれども、うさぎにはまだ知りたいことも沢山あり今開業するつもりは全く無かった。
「既に予約が入っていて、大学に行く時間が無くなりそうです」
「既に仕事があるのか?」
「まぁ、大学の教授から幾つか」
途端に梶は溜息をつくと、不満そうな顔を見せる。こういう顔を見せてくれるようになったのはここ一ヶ月くらいのことだった。
「仕事が無くてうちに入ればいいと思ったんだがな」
「だから、何度でも言いますけど無理です」
「うちからの仕事も受けて貰えるのか?」
どうにかして繋がりを持とうとする梶に、さすがのうさぎとしても呆れてしまう。
「梶さんのところは優秀なスタッフ抱えてるから外注を必要としてないじゃないですか」
それは梶も自覚しているのかそれ以上言い募るようなことはしない。一層のこと、梶のことだから子会社化しようと目論んでいるんではないかと穿った見方もしてみたけれども、想像でしかないことを考えても仕方ないので思考途中で投げ出した。今は出来るだけナーバスになるようなことは考えたく無い。
「……何かあれば言うといい」
「有難うございます」
梶の気遣いだとは分かっていたけれども、うさぎはそれに甘えるつもりは無かった。それでも、本気でどうにもならなくなったら意地を張らずに梶に言うつもりではあった。
この数年でうさぎは、一人で抱え込めば抱え込むだけ、回りに迷惑を掛けることもあるんだと学んだ。仕事について梶に甘えるつもりは無かったけれども、再びラストが接触してくるようなことがあった場合、今度は素直に言うつもりでいた。
「会社を持つにあたって、気をつけないといけないことはありますか?」
時折、こうして梶と合った時には起業にあたって色々と聞けるようになったのは最近のことだった。元々、梁瀬や名取には口止めしていたこともあって、梶に起業することを伝えたのがつい最近だったからという事情もあった。
「契約書はしっかり交わして口約束はしない。約束を反故しない。それから、人の繋がりは大切にすること」
「顧客を紹介して貰えるからですか?」
「そういう意味合いもあるが、どこで味方に繋がるか分からないからな」
「梶さんにとっての梁瀬さんとか?」
「そういうことだ。いずれ君にも片腕というものが出来るかもしれない。面白い気分では無いがな」
そう言って苦笑する梶にうさぎとしても苦笑するしかない。梶のような大人が嫉妬などするとは思えなかったけれども、どうやら大人だからと言ってそういう感情が無くなる訳でも無いらしい。
実際、うさぎも既に二十歳を過ぎたけれども、自分のどこが大人かと言われたら自覚が無いだけに難しい。うさぎとしては日々成長をしているとは思いたいけれども、大人としての区切りがどこにあるのか見出すことは出来ない。それは、幾つになっても同じなのかもしれない。二十歳になったからといって大人になったという実感は湧かなかったし、仕事をすれば大人になるのかと思ったけれども、どうやらそういうものでは無いらしい。
ただ、社会に出れば責任という重圧が掛かる。それは学生時代と違うことだけは十分に理解していた。
「梶さんは、時々子供みたいですよね」
ミラー越しに視線が合うと梶が器用に片眉を上げた。
「一応大人のつもりだから君に恋人になって欲しいと言っているんだが?」
「信用度低いまま付き合うと、上手く行かなくなると思いますよ」
「……努力しよう」
渋面を隠そうともしない梶につい声を上げて笑ってしまえば、梶の手が伸びてきて軽く頭を小突かれた。
この空気は嫌いじゃない。むしろ————。
車内から窓の外を見上げれば、やっぱり抜けるような青が広がっていた。