会社を稼働させてから、うさぎは思っていたよりも仕事には困らなかった。
事務所を持つことは資金的に難しくは無かったけれども、出来るだけ経費削除の方向でいたうさぎに意見を伝えてきたのは梶と梁瀬だった。フリーランスで仕事をするのでなければ、事務所という形態は取っておいた方がいいというので、今住んでいるアパートの近くに事務所を設けた。寂れつつあった商店街のど真ん中、ということもあって家賃は格安で若い人が頑張るなら、と更に大家さんはまけてくれた。
そこでうさぎがまず取り組んだのは、商店街のサイトを作ることだった。ただ、デザインは壊滅的なので海外に行った岡嶋にも手伝って貰いどうにか形にした。うさぎにとってその商店街には意外にも目玉になる店舗が二つほどあったのが功を奏した。美味しいけれども近所でしか知られていない穴場的なケーキショップと、商店街の外れにあるガーデニングショップは、どちらも地元の人が経営していた。サイトに取り上げさせて欲しいということを伝えたけれども、どちらも最初はかなり渋られてしまい、うさぎは半年以上掛けて何度も足を運んだ。その間に教授から頼まれていた仕事も引き受け、どちらも精力的にこなしていた。
最初に折れてくれたのはガーデニングショップの店長だった。地元復興の力になるのであれば、という言葉でうさぎはそれを約束した。商店街ではそれなりに横繋がりがあるのか、しばらくするとケーキショップの店長からも許可を取り付け、ようやくうさぎは商店街のサイトを稼働させた。
どういう情報を乗せれば人目を引くのか、興味を持って貰えるのか、それはうさぎの得意とするところでもあった。ネットから徐々に反響を呼び、一年もすれば商店街の空き店舗は埋まり、商店街の人たちから自分の店のサイトを作って欲しいという依頼が幾つか入り、相場よりもかなり安い値段で引き受けて、その全てを商店街のサイトへと載せた。そんなうさぎを岡嶋は、手は空いてるからと海外からでもデザインについて色々と相談にのってくれた。
各店舗の紹介写真は、商店街にある写真屋で頼み、少しずつではあるけれども商店街には活気が戻りつつあった。そんな中で、商店街の人から管理システムみたいな物を作れないかという依頼もあり、むしろ得意分野でもあったうさぎはそこから徐々に手を広げて行った。商店街で依頼してくれた人たちが紹介してくれたりして、徐々に仕事は増えてきた。
けれども、何せうさぎ一人で動いているので手が足りない。最初の頃は事務仕事を美樹が手伝ってくれたりもしたけれども、妊娠したことによってうさぎは手伝いを断った。時折、梁瀬や梶も顔を出し、誰か入れるべきだと苦言を述べてはいたけれども、うさぎにはそんなあても無く気付けば厳しい状況のまま卒業してから二年近くが過ぎていた。うさぎ自身愛想のいいほうでは無いけれども、それでも、商店街の人たちは恩を感じてくれているらしく、夜遅くまで残っていると食事などを届けてくれることも少なく無かった。
その日も、うさぎはパソコンの前に座りながら一つのファイルを眺めていた。この三ヶ月で引き受けた仕事を見ていたけれども、大きく溜息をついた。仕事は安定しつつあり、正直、仕事に困ることは無い。けれども、一人で動かしている会社なので、やはり梶や梁瀬が言うように事務員を入れないと回らなくなりつつある現実をヒシヒシとうさぎは感じていた。とにかくどうしても書類仕事が滞りがちで、一層派遣会社に頼むことすら頭を過る。
この二年はうさぎが忙しいこともあって、梶や梁瀬、そして沙枝たちと食事を取りに行くことはしていなかった。けれども、それぞれが事務所に立ち寄ってくれて、色々差し入れをしてくれてその時に色々な話しをしたりはしていた。利奈は看護士ということもあり忙しく二ヶ月に一度顔を出せばいいくらであったけれども、会えば楽しく話しをした。
沙枝も時折遊びに来ていたけれども、さすがに並木と別れる前後二ヶ月程は顔を見せなかった。けれども、吹っ切った沙枝はどこかさっぱりとした顔をしていて、色々と世間知らずだったとうさぎに笑っていた。どういう経緯だったのか分からないけれども、並木のことを知って沙枝の方から振ったらしい。好きだけど一緒にいられない辛さはうさぎにも覚えがあるから、その時ばかりは一緒に食事に出て沙枝の愚痴も聞いたりもした。
少し物思いに耽っている間に夜十一時を回ってしまい、うさぎは小さく溜息をついた。溜息をついたところで仕事は終わる筈もなく再びパソコンに向かいかけたところで、不意に事務所のドアをノックされてそちらへ顔を向ければ、その扉から顔を出したのは梶だった。
「やはり、君はまだ居たのか」
「もう少ししたら帰ろうと思っていました」
事務所に入ってきた梶は手にしていた弁当らしき袋を出入り口に置いてあるカウンターに置くと、その足でうさぎの近くへと歩み寄る。そして手を伸ばすとすっかり伸びてしまったうさぎの前髪を掻き上げた。突然の接触に驚いて身を引こうとすれば、梶の反対の手に腕を掴まれる。
「うさぎのような目になってるな」
「だ、大丈夫です」
「少し休憩しよう、話しもある」
いつもよりも近い位置にいる梶に慌てて頷いた。けれども、梶はどちらの手を離すこともせずうさぎを見ていて、うさぎも視線の合った梶から目を逸らすことが出来ない。ただ、心臓が激しく高鳴っていて、緊張感で指先すら動かせない。
あれ以来、何度か梶に食事へ誘われたが一緒に行くことはしていない。けれども、逆にこうして梶が訪ねてきたりして前に比べたらその距離は近くなっている。時折サラリと告白めいたことは言われるけれども、うさぎはまだきちんと答えていない。
好きなことに変わりは無い。そして、梶を信頼もしている。
けれども、こういう空気になることは稀で、うさぎは逃げ出したい気分になっていた。不意に梶の唇が動く。
「キス、したいんだが」
「む、無理です」
「でもしたい」
前髪を上げていた掌がゆっくりと降りてきてうさぎの頬をなぞる。途端にうさぎは全身に鳥肌が立つような感覚を覚え、微かに身じろぐ。けれども、梶が引く気配は無く、うさぎとしてはどうしていいか分からない。
「君は私を聖人君子か何かだと勘違いしているだろう」
「そんなこと、ありません」
うさぎの声はうわずっていて、それは梶も分かっている筈なのにやはり引く気配が無い。その間にも、梶の手はうさぎの頬を包むように広げられていて、長い梶の指が耳朶に触れた瞬間に、身体がビクリと震え一気に顔に熱が集まるのが分かる。
激しい羞恥心にうさぎは慌てて梶から逃げるように椅子を回転させると梶に背を向けてから両手で頬を押さえる。もう、どうしていいのか分からないくらい心臓はうるさいし、触れられていた頬は熱い。絶対に赤いだろう顔を見られたく無くて、うさぎは梶の方を向くことが出来ずにいた。うさぎにとって、こういう空気は知らないもので、どうしていいのか分からない。
「あ、あの」
声は掛けたものの、うさぎも一体自分が何を言いたいのか分からない。逃げるようにパソコンデスクに手をつき立ち上がったところで、背後から梶に抱きしめられてうさぎの思考回路はショートしたみたいに真っ白になった。
「余り安心した顔してるな」
耳元で落とされた低い声は、いつもよりも更に低く、どこか艶めいた響きがありうさぎは首を竦める。元々、この人の声に弱いだけに、こうして耳元に囁きを落とされたらうさぎにとっては余りにも刺激が強すぎる。
「私は岡嶋の立場になるつもりは無いぞ」
言いたいことはうさぎにも何となく分かる。でも、岡嶋と梶では全然違う。むしろ岡嶋の方が一緒にいる分には安心するし、少なくとも岡嶋相手にここまでドキドキしたりしない。
そう言いたいところだけど、耳元で長い溜息を零されてそのまま肩に梶の額があてられるのが分かる。
「……焦るつもりは無いんだがな」
どこか悄然とした声が聞こえてきて、うさぎとしては何かを言いたいけど言葉が出て来ない。昔に比べて言える言葉は増えた筈なのに、こういう時には何を言うべきか経験が無いから言える言葉なんて見つかる筈もない。うさぎが逡巡している間に、梶の腕はゆっくりとうさぎから離れ、梶自身も出入り口へと向かうとカウンターに置いてある袋を手にした。
「あ、あの」
「食事にしよう。弁当買って来た」
「あ……有難うございます」
言いたいことはお礼では無かった筈だけど、どうにかそれだけ言えばこちらを振り返った梶が微かに笑う。
「少し休め、そして今日は終わりにして帰れ」
「でも、まだ仕事が」
「気持ちは分からなくもないがな」
疲れてはいるけど、やりがいも見出してるから楽しくもある。それは、梶にも分かることらしく、苦笑しつつも弁当の入ったビニール袋を軽く上げられ、うさぎもパソコン前からお情け程度に用意した応接セットへと移動する。壁際にある冷蔵庫からペットボトルのお茶を二本渡せば、その間に梶はビニール袋から弁当を二つ取り出し用意をしてくれる。二人で向かい合わせに腰掛けるとうさぎは「いただきます」と声を掛けてから弁当に手をつけた。
先まであんなことをしていたにも関わらず、梶は平然としていてうさぎばかりが焦っている気がする。経験の差と言われたら仕方ないことかもしれないけど、一人空回りさせられている気分になってくる。
梶の気持ちは知ってるし、二年もこうして顔を合わせていたら信用だってもう取り戻してる。それでも、今、梶に答えることが出来ないのは仕事の忙しさもあったからだった。仕事ばかりしている梶に文句を言えた昔が少しだけ懐かしい。
こうして実際に仕事をしてみると、どうしても私生活が後回しになるし、自分の気持ちも後回しになる。今こうして仕事をしていると、昔の梶の態度が分からなくも無い。ただ、何をしても、という気概はうさぎには持てなかったが……。
先程のこともあり、微妙に話し掛けることも出来ずにいれば、不意に思い出したように梶がうさぎへと視線を向けてきた。
「三日後にここへ手伝いが一人来る」
「手伝い、ですか? それは梶さんの関係者ということですか?」
「少なくともうちの社員じゃない。もし使えるような給料払って使ってやってくれ」
「でも」
「間違いなく君の負担は減る筈だ」
他人がここへ入るというのは、うさぎにとって気詰まりでもあった。それこそ慣れ親しんだ人たちであれば余り考えずに済むけれども、見知らぬ他人の手伝いであれば余り必要としていない。第一、自分の下に誰かがついたとして、それを扱えるだけの度量も無い。
「増えるかもしれませんよ」
そう言ったうさぎに梶はうさぎを凝視してから、口の端を上げた。
「それは無いな」
どこか意地の悪さを感じさせる梶の笑みにうさぎは少しだけ反論したい気分になってくる。
「分からないですよ」
「それなら賭けをしよう。君の負担が減るようだったら私と一日付き合う。もし負担が増えるようであれば、私はまた一年待つことにしよう」
何を待つと梶は言わなかったけれども、言葉にされないことで逃げ道を用意された気がする。こうして時折見せる梶の優しさに、もっと好きにさせられてるのが少し腹立たしい。恋愛は勝ち負けじゃないけど、自分ばかりがどんどん好きになっているような気がする。うさぎはそんなことを考えながらも微かに笑う。
「いいですよ。受けて立ちます」
少なくとも、うさぎの負担が減るのであれば一日くらい梶に付き合うのも悪くは無い。いや、悪く無いどころかむしろ嬉しいくらいだけど、それを表に出すようなことはしない。
「よし、決まりだな。取り合えず、今日はこれを食べたらもう帰れ」
「帰れって、一応私の会社なんですけど」
「顔色が悪い。今日は早く帰って睡眠をきちんと取れ。何をするにも身体あってのことだ」
そう言われてしまうとうさぎの方が分が悪い。納得した訳では無かったけれども、素直に頷けば梶が穏やかな笑みを浮かべた。途端に先程の梶に抱きしめられたことまで思い出してしまって、無駄に顔が赤くなってきてしまい慌てて弁当へと視線を落とす。
時折仕事の話しをしたり、美樹が妊娠してからの梁瀬のお父さんっぷりなどを聞いて笑いながら食事を終えると、結局その日は梶の車で家まで送って貰った。
そして、それから三日後、うさぎは酷く落ち着かない気分で事務所にいた。梶からは昼頃に到着すると言われていたけれども、どうにも朝から落ち着かなくて仕事が捗らず途方に暮れる。やっぱり、きちんと断るべきだったかもしれない。そんなことを考えだした途端、事務所の扉がノックされうさぎは思わず身体がビクリと竦む。
どうにか返事をすれば、扉が開きそこから現れたのは久しぶりに見た、忘れられない人だった。
「岡嶋さん! え? どうしてここに?」
「うーん、ここで雇って貰おうかなーと思って」
「え、でも。いつこっちに戻って来たんですか?」
「今日朝一の飛行機で」
岡嶋に会ったのは大学卒業間際にいった旅行の時以来で、もう二年ぶりになる。
「三ヶ月前に妹が肺炎で亡くなってね。一応喪に服していた時に梁瀬と梶さんから泣きの電話があった。うさぎちゃんが仕事全然休まないって」
「そんなことは」
「あるでしょ?」
笑顔で問い掛けられたらうさぎとしては嘘をつく訳にもいかず言葉に詰まる。二年ぶりに会ったというのに、岡嶋の空気は変わらずそのブランクを感じない。
「取り合えず、一ヶ月手伝わせてよ。給料はいらないから。それで使えるようなら給料考えて」
「そ、そんな、岡嶋さん使うなんて出来ませんよ!」
「お手伝い」
「でも」
「正直、ちょっと手持ち無沙汰なんだよね。今までずっと妹についているだけだったから。何かしてた方が気も紛れるし」
そう言われてしまうとうさぎとしては断れない。むしろ、岡嶋であるなら確かにうさぎとしては助かりもする。何よりも岡嶋であれば一緒にいても安心が出来る。
「もし、嫌だったら言って下さい」
「苦言はするよ。でも嫌になるとは思えないかな。密かに楽しみだったりもするし、うさぎちゃんの仕事ぶり」
仕事ぶりと言ってもまだ社会人になって二年目のうさぎとしては恥ずかしいばかりだ。少なくとも人に自慢出来るほどの仕事をこなせている訳では無い。
「色々と至らないところは多々あると思うんですが、お願いします」
「お願いされましょう」
岡嶋の軽口に笑えば、早速とばかりに岡嶋はトランクケースを壁際に寄せると、うさぎ用のデスクに座ると傍らに置いてあるファイルを捲っていく。
「取り合えず、ファイリングしていくけどいい?」
「え? だって今日ついたばかりですよね?」
「そうだけど、さすがにこれだけ手の回ってない惨状を見ると、このまま帰るには忍びないかな。それに夕方には梁瀬も梶さんもこっちに来るでしょ」
確かにうさぎが普段使っているのはパソコンデスクということもあり、普通の事務机の上はまさにこの惨状と言われても仕方ないくらい書類が積まれている。
「ファイルはどこにあるの?」
「えっと……そこに」
そう言ってうさぎが指差した先には大きなダンボールが封も開けずに置いてあり、さすがに岡嶋が溜息をついた。
「凄く忙しいっていう話しはよく分かった。取り合えず書類仕事を全部片付けたら、そっちの仕事で手伝えそうなことがあったら手伝うから」
机の上に五十センチには積み上がってる書類の山を手に取ると小分けしていく。それを横目で確認しながら、これは梶にやられたという気分で小さく笑う。まさか、岡嶋が日本に戻ってきて、しかもここにいることが信じられない。岡嶋の細やかさは知っているし、間違いなくうさぎとって負担は減るに違いない。
一度昼食をはさみ、休憩を取りつつも夜になる頃には机の上にあった書類は半分ほどファイリングされ、きっちりと書棚に納められていた。うさぎも久しぶりにあれもこれも、ということもなくただプログラムを組むことだけに集中出来たこともあって中々の進捗状況だった。
そして岡嶋が言ったように九時を回る頃には、梶と梁瀬も現れて久しぶりに四人で食事を取った。梶の車で家まで送られ、帰り際にはしっかりと週末に付き合うことを約束させられた。
* * *
一緒に食事をすることはあっても、昼から梶と出掛けることは今まで一度も無かったこともあり、うさぎは鏡の前で服をあてては首を横に振るという作業を朝一から繰り返していた。最近はスーツしか着ていなかったこともあり、私服に袖を通すのは久しぶりのことだった。それだけ土日返上で仕事をしていたのかと思うと、周りに心配されるのも仕方ないと思えた。
どうせ昼からであれば午前中は事務所に出ようとしたうさぎを止めたのは、意外なことに岡嶋だった。昨日、帰り際にうさぎは事務所の鍵を強制的に岡嶋に取り上げられて、にこやかに言われた。
「しっかり休憩してこないと鍵、一生返さないから」
そう言った時の岡嶋の表情は笑っていたけど、その目が笑っていなかったことにうさぎは言葉も無かった。
午前中はどうしても外せないと梶は言うので、また今度にすればいいと伝えたけれども、どうしても今日がいいと梶は頑なに譲らなかった。ここで次に延ばせば、その次がいつ来るか分からないというのが梶の理由だったが、確かに既にうさぎは昨日に比べて今日、そして今日に比べて明日の方が間違いなく逃げの体勢に入るだろうことは自覚してもいた。だからあながち梶の言い分は間違えてはいないのだと思う。
結局、色々考えたけれども、ワンピースだと気合いが入りすぎている気がしてぴったりめのロング丈のセーターにブーツカットのパンツを合わせる。どこへ行くかは聞いていないけれども、これにスプリングコートを合わせればそこまでおかしな格好では無い筈だとうさぎは納得すると、普段使っているバッグの中身を今日持つバッグへと詰め替えて行く。
朝からそわそわと落ち着かない気分で家の中をうろうろしているけれどもやることがある訳でも無い。けれども、座っていられなくてもう何度目かになる洗面所へ向かうと、鏡の前で化粧のチェックをしてしまう。大丈夫、寝不足のくまはきちんと隠れてるし、口紅も派手じゃない。けれども、普段に比べて少しだけ気合いの入った顔がそこにあって、うさぎはやっぱり普段通りの化粧にしようか迷う。化粧ポーチを片手に悩んでいると、家のチャイムが鳴り慌てて腕時計を見たけれどもまだ十一時を少し過ぎたところだった。
今日、梶と出掛けることはうさぎの友人たちは知っているから、その人たちでは無いことは分かる。そして梶との約束は十二時だったから、それにはまだ早すぎる。セールスなのだろうと当たりをつけて玄関を開ければ、ジャケットは着ているものの少しラフな格好をした梶がそこに立っていた。
「すまない、少し早いと思ったんだが……電話をすれば良かったな」
まるで今気付いたと言わんばかりの梶にうさぎはつい笑ってしまえば、梶が照れくさそうに笑う。こういう顔もするんだとつい見つめてしまえば、途端にその笑いを梶は引っ込めてしまい少しだけもったいない気がした。
「出られるか?」
「あ、はい」
短く返事をしてからバッグを手にすると、スプリングコートを手にして玄関でお気に入りのパンプスを履いて外に出た。今日は随分と暖かいらしく、どこからともなく花の香りがする。梶の車に乗り込むと、車の窓は開け放たれていて酷く珍しく感じる。
いつもならしない緊張をしているせいか、どこかぎこちない会話をしながら到着したのはうさぎのお気に入りのカフェだった。近くの駐車場に車を入れると、梶と一緒に昼食を取る。いつもと変わらない筈なのに、何かが違ってうさぎも落ち着かない。けれども、落ち着かないのはうさぎだけでは無いらしく、そのことにうさぎは何故かホッとした。
軽く食事を取った後、カフェから出れば店先に梅の花が咲いていることに気付く。もう、春になるんだと、うさぎはどこか感慨深い思いで白い梅の花を見上げる。
「手を繋いでもいいか?」
「え?」
唐突な申し出にうさぎは困惑していれば、梶はうさぎの返事を聞くことなくうさぎの手を握りしめると歩き出してしまう。梶の手は大きくて、うさぎとは全く違うがっしりとしたものだった。掌は温かくて、握る指先には少し力が入っていて、どこかその指先に離さないという意思が見え隠れする。
手を繋ぐなんて、今時の中学生でもするか分からない。それでもうさぎの顔には徐々に熱が集まり、もう梶の顔を見上げる事も出来ない。恐らく顔は赤いだろうし、とても見られたものじゃないに違いない。
手を繋ぐなんて行為は大の大人がするような行為じゃないと思う。でも、恐らく梶は全くそういう経験が無いことを知って、うさぎに合わせてくれているのだと思う。それは確かに優しさでもあったけれども、既に大人になった今では余計に恥ずかしい。
「あの、車は?」
少し上ずった声で問い掛ければ、隣を歩く梶がうさぎを見下ろしてから微かに笑う。恐らく、うさぎが予想している以上に顔が赤いのかもしれない。すでに恥ずかしさに逃げ出したいくらいなのに、更に梶の手に力が籠る。
「少し歩こう」
穏やかな声で言われてうさぎは辛うじて頷いたものの、もう気持ちとしては倒れそうだった。心臓が、いや、身体中がドキドキしてて、梶と繋いだ手からこのドキドキが伝わってしまうのでは無いかと思うと、繋いでいる手を離したくなってしまう。けれども、梶の手はそれを許すような雰囲気ではなく、梶と並んで歩く。
最初に好きになった時、ずっと年上の大人の人だと思っていた。勿論、今でもうさぎにとっては大人の男の人だという認識はあるけれども、あの頃よりも年の差が余り気にならないのはうさぎの年齢が上がったせいかもしれない。
梶を最初に好きになったのは大きな背中だった。それから次に好きになったのはキーボードの上を自在に走る指。そして、緻密な技術に裏付けられた自信と、たまに見せる笑顔がうさぎにとっての好きの始まりだった。
うさぎが好きである指が今、うさぎの手に触れていると思うと居たたまれない気持ちになってくる。手を握られたことで既にいっぱいいっぱいなうさぎは、会話を交わすこともなく梶の隣を歩く。
歩いて十分程経った頃、石造りの門の前に立つ。近くにあることは知っていたけれども、うさぎはここへ一度も来たことが無かった。梶は迷う事無く入場券を買うと、一度離した手を再び繋いで中へと入る。都内に存在する数少ない庭園に緑は多く、作り込まれた庭には趣きもありうさぎは感嘆の溜息を零した。
「何だか意外です」
「何がだ」
「梶さんがこういう場所に来ることが」
隣で笑う気配があって思わず見上げれば、想像もしていなかった穏やかな視線とかちあい、うさぎは慌てて目を逸らした。何だか今日は、見た事も無い梶とばかり鉢合わせていて、本当に落ち着かない。
「君は好きだろ」
「確かに嫌いじゃないですけど……」
むしろうさぎはこういう自然を感じられる場所は好きだけど、梶がこういう場所を好むとは余り思えない。それでも、春を感じる淡い緑や、花々を見ているとうさぎの気持ちが徐々に解れていくのが分かる。
最近、こうして自然を感じたのはいつだったか、思い出そうとしても思い出せなくて内心苦笑する。それだけ自分に余裕が無かったということかもしれない。そして、梶はそれに気付いてここへ連れて来たのかと思うと、もう赤い顔は隠せそうにない。
梁瀬や岡嶋は散々梶のことを鈍いとか言っていたけど、うさぎにとっては余りそう感じたことは無い。
ちらりと梶を見上げれば、不意に梶がこちらを見下ろす。
「私が忙しかった時期、君が足を止める方法を教えてくれた。疲れた時には立ち止まってもいいんだと教えられた気がした」
「別にそんなこと」
「私には必要なことだったらしい。だから君には感謝してる」
そんなことを言われても、うさぎに思い当たることは無く、お礼を言われても困る。けれども、梶は答えを待っている様子でも無いので、そのままうさぎは口を噤んだ。
ゆっくりと庭園を歩き、時折足を止めては花について梶と話しをしたりする。梅の花とたわむれているメジロを見た時には、ついうさぎは携帯カメラを起動させてしまった。最初こそ緊張していたけれども、歩いている内に徐々に普段の自分に戻って行くのが分かる。梶から感じていた緊張感も鳴りを潜め、穏やかな空気の中で仕事以外の話しをするのは楽しくもあった。
のんびり歩いていたこともあったのか、気付けば日差しは長い影を作り夕暮れ一歩手前になっていた。少し名残惜しい気分で庭園を後にすると、再び梶の車に乗り三十分ほど走ると駐車場に車を止める。人通りの多い中で梶は花屋に入ると花束を一つお願いして作って貰っている。そして出来上がった花束を見て、それからうさぎに視線を合わせると苦笑した。
「何ですか」
「いや、一層君の分も作って貰うべきだったと、自分の気の利かなさに笑っただけだ」
「別にいりません。それに今貰っても困ります」
正直、やけに大きな花束は自分に渡されるんではないかとヒヤヒヤしていたうさぎにとって、梶の言葉は有難くもあり、少しだけ残念でもあった。大きな花束を持った梶というのはかなり人目を集める。元々顔立ちが良いこともあり、うさぎとしては横を歩くのに躊躇してしまい、徐々に一歩後ろを歩くようになってしまうと梶はふと足を止めて振り返った。
「どうした」
「いえ、別に」
「何でもない訳では無いだろ」
そう言って再び手を繋ぐと一緒に歩き出す。人目が苦手なうさぎとしてはもう俯いて歩く事しか出来ないけど、梶は全く気にした様子もなく歩いている。けれども、数分もすると足を止めて看板を確認している。思わずうさぎも視線を向ければ、その建物が劇場だと知る。
「行くぞ」
そう言ってうさぎは手を引かれたまま中へ入ると、予想していた以上の人が詰めかけていて驚く。梶を見るなり一人の男の人が駆け寄ってきて、親しげに梶へと声を掛けた。
「梶さん、凄い役に立つ新人を有難うございます。端役予定だったんですけど、格上げですよ、あいつ」
「新人……そうか」
梶は意味ありげにそれだけ言うと喉で笑う。まさか、と思いついたのは一人だけだったけれども、岡嶋は今うさぎのところで手伝いをしていてそういうことはしていない筈だ。
「約束通り、きちんと開けてありますよ。こちらからどうぞ」
男の人に促されるままに梶と二人で階段を上ると、二人掛けのボックス席へと通された。椅子に座っても舞台はよく見える位置で、一階席はほぼ埋まり席の後ろでは立ち見の客までいる様子で驚いた。
「梶さん、もしかして」
「始まるぞ」
その声に重なるように劇場のブザーが鳴り、照明が暗くなると舞台の明かりがまばゆいほど灯る。
そして始まった舞台は一人の女の生涯を描くものだった。何人もの男と出会い、そして別れる女に救いはあるのか、そして見つけた運命の男は女と宿命の相手で、女を憎む男との恋愛模様が描かれる。話しに引き込まれる中で、うさぎの目は舞台に上がる一人の青年役に目が引きつけられる。確かに舞台用のメイクをしてはいるけど、見慣れたその顔を間違える筈も無い。彼が出て来た途端に客席から僅かながら悲鳴の上がる声が聞こえた。
いつもの柔らかさは影を潜め、残忍さを隠そうともしない男はナイフを持って運命の男に近付く。少なくとも、うさぎが知っている岡嶋の姿では無かった。
話しは進み運命の男はナイフの男に刺されて死んでしまうと、女は発狂する。演技だと分かっていても、女の苦しみが伝わって来てうさぎは掌を握りしめた。そして幕が下りた時、うさぎは生気を吸い取られたような気分で座っていた。
映画も舞台もそれほど見ることはないうさぎにとって、話しに入り込んだことで疲れてしまった、というのが正直なところでもあった。でも、確かにその舞台は面白くて、うさぎは長い溜息を零した。
岡嶋が劇団にいたことは知っていたし、二度三度見に行ったこともある。けれども、岡嶋がやる役はいつも優しげで、綺麗所の役回りが多く、こうした汚れ役みたいなものをしているのは初めて見た。そして、普段とは違う面を見てとにかく驚いた。
「うちの社の人間に身内がいて、私に融資を持ちかけてきた。かれこれこの劇団とは三年程の付き合いになる。だが、今週頭に端役の人間が事故にあったらしく、先程の男がぼやいていてな。だから岡嶋を紹介した」
「でも、全然端役って感じじゃ」
「だから言っていただろ、格上げだって」
「確かに言ってましたけど」
まさかこういうことだとは予想もしていなかった。劇場に連れて来られた時点で岡嶋の影は確かにうさぎの頭にもちらついてはいたものの、まさかこのような形で岡嶋が再び舞台に立つ日が来るとは思ってもいなかった。
「あとはあいつにやる気があれば、自分でどうにかするだろう」
「私としては困りそうですけど」
「どうだろうな。岡嶋自身は芸能界への復帰はもう無理だと言っていた。舞台で収入を得るというのは想像以上に難しいものだ。だとすればあいつも働かないと食べてはいけない。その点、君のところであれば融通も利くし、お互いに利点も多いのでは無いか?」
もしかして、この人はそういうことも含めてうさぎのことを岡嶋に話したのだろうか。ただ岡嶋にうさぎの状況を零しただけとはとても思えない。こういう先のことまで考えている梶には、どうしてもうさぎについていけない時がある。それは経験の差なのかもしれない。
「何だかちょっと悔しいです」
「何だが」
「梶さんがずっと上に見えて」
途端に梶さんは面白そうに笑うけど、うさぎにしてみれば笑いどころじゃない。いつでもこの人に負けたく無いと思ってはいた。けれども、梶は常にうさぎの二歩も三歩も先にいてその距離が縮まることは無い。
「行くぞ」
おかしそうに笑みを浮かべたまま梶は立ち上がると、うさぎへと手を差し出してくる。うさぎは少しだけ迷い小さく溜息をつくとその手をとって立ち上がった。楽屋にでも向かうかと思ったけれども、梶は出入り口に立つ案内してくれた男に花束を押し付けて「岡嶋に渡せ」とだけ言うと劇場を後にした。
「岡嶋に会いたかったか?」
しばらく歩いてから問い掛けられて、うさぎは少しだけ悩む。
「折角でしたから感想くらいは言いたかったです」
「すまないな、今日は誰にも邪魔されたくなかったんだ。感想だけなら明日言ってやれ」
それがどういう意味か理解した途端、うさぎは梶と握っていた手が酷く熱くなった気がする。
すぐ近くのホテルで食事を取り、昼間歩いた庭園や岡嶋の舞台について会話を交わす。お互いによく笑い、美味しく食事を取ることが出来た。そして再び車に乗り込むと、梶はきちんとうさぎの家の前まで送ってくれた。
車を降りると同じように運転席から降りてきた梶にうさぎは頭を下げてお礼を言った。少しは払うと言ったけれども、こうなることを予想して賭けをしたのは自分だからと梶は頑なに受け取らなかった。
「ごちそうさまでした。とても楽しい一日でした」
「そうか」
どこかホッとした様子を見せた梶にうさぎはついつい笑ってしまい、やはりいつものように軽く頭を小突かれる。既に夜十時を回っている日曜日の住宅街は目につく人影が無い。そんな中で梶がふとその笑みを曇らせた。
「どうかしましたか?」
「岡嶋も言っていたが、私も君のためにならないことをしているかもしれないと思ってな」
そう言われてもうさぎとしては思い当たる節が無い。あるとすれば、それこそうさぎの許可無く岡嶋を事務所に呼び寄せたことだろうか。けれども、それはうさぎとしては助かっているからためになっていない訳ではない。
「どういうことですか?」
「甘やかしているんでないかと思って困ってるということだ。岡嶋を呼んだのは忙しい君には良かれと思ったけれども、もしかしたら、本当は君自身が動かなければ糧にはならなかったのではないかと今更ながら悩んでいる」
確かにそういう見方をすれば、うさぎのためになっていないとも言えなくはない。それならうさぎは自分で誰かを事務所に入れたかというと、恐らく誰も入れないまま潰れていたに違いない。だから、その件については素直に梶に感謝もしている。
ただ、それを自分で言うにはどうかという疑問も残る。逆を返せば甘えすぎていないか、ということでうさぎとしても心境は複雑でもあった。
考えている間に、梶は長い溜息をつくとうさぎと視線を合わせる。その顔は真剣なもので、思わずうさぎもどこか緊張した気持ちで梶を見上げる。
「これからも余計なお世話だと思われても、何かあれば手も口も出す。押し付けがましいのは分かっているが、こういう遣り方しか俺は知らない」
あぁ、この人はこういう人なんだとどこか納得した気持ちもあった。そしてうさぎに対して初めて俺といった梶が、何だか等身大に見えた瞬間でもあった。時折感情が高ぶったり、貴美の前で俺と言っていた梶だったけれども、大抵の場合私という言葉を使っていて少しだけ、本当に少しだけ気になっていたのは確かだった。だからそれが嬉しくあり、それと同時に心がいっぱいになって何かが溢れてくる気がした。
「正直、もっと自分は器用だと思っていたけど、こういうことには盲目になるらしい」
そう言って笑う梶の顔はうさぎにとって泣きたくなるくらい優しい笑顔で、心が悲鳴を上げている。大切にされてることはもう知ってる。
「君が好きだ」
喉の奥から何かが飛び出しそうで、それを堪えたらぼろりと涙腺が決壊した。
ずっと好きだった。時折揺らぐこともあったけど、どうしてもこの人しか好きになれなかった。今となっては何故この人のことをこんなに好きなのかうさぎにも分からない。けれども、やっぱり好きだ————。
「私も好きです」
ゆっくりと梶の手が伸びてきて、うさぎの好きな梶の長い綺麗な指がうさぎの涙を拭う。
この人を好きになって辛いことも沢山あった。けれども、それが涙で全部昇華されてしまうような感覚にふわふわと心もとなくなってくる。
梶の腕がうさぎを抱き寄せて、その腕に包み込まれるとうさぎは小さく安堵の溜息を零す。見上げた梶の表情は普段よりも穏やかなもので、近付く梶の顔にうさぎはゆっくりと目を閉じた。人生初めてのキスは、少しだけ涙の味がした。
* * *
四月になり年度が変わり事務所を開けてから三年目に突入したものの、何かが変化したかというとこれといって代わり映えはしない。先月、ようやく梶と恋人になったものの、梶は新入社員を迎え入れるための準備に、そしてうさぎは溜まった仕事をこなすのに忙しくて食事をするだけの付き合いが続いている。いずれそういうことや、結婚も考えなくてはいけないことは分かっているけれども、今という時にうさぎは満足していた。
今日岡嶋は昼過ぎから出社することになっている。結局、そのまま劇団に入った岡嶋だったけれども、基本的に大きな劇団では無いということもあり自腹部分も大きく、うさぎの事務所で契約社員という形で仕事を続けてくれることになった。
朝一から一仕事を終えたうさぎは、猫の額ほどしかない事務所のベランダに出ると大きく伸び上がる。ベランダの下を覗き込めば、道に沿って植えられた桜の木は淡いピンクで彩られていて、つい目を奪われる。
どれだけぼんやりしていたのかうさぎには分からない。けれども、名前を呼ばれて下を覗き込めば、岡嶋だけではなく、何故か梶や梁瀬の姿もあり桜色の間からその顔が見え隠れする。穏やかな春の日差しの中で、うさぎは三人に手を振った。見上げた三人がそれぞれ笑顔をうさぎに向けてくれる。
大切な人たちがすぐそこにいて、笑顔を向けてくれる。
それは、うさぎにとって至福の時でもあった————。
The End.