飛行場につくとロビーに入った途端、岡嶋から電話が入った。タイミング的に飛行場内のカメラで確認してから鳴らしたに違いない。ハッキングすればすぐに見つかるカメラも、実際にその場にいるとどこにあるのか分からないし、梶に視認できる場所には見当たらない。梶は電話に出るなり前置きも無しに尋ねた。
「三人は見つかったか?」
「います。アメリカン航空のラウンジの個室に入るところまではチェックしました」
「彼女の様子は?」
「フラフラしてましたけど自力で歩いているように見えました」
幾ら彼女でもラストたちについていくとは思えない。気を失った状態では飛行機に乗せられないことを考えても、脅迫されているか、フラフラしていたのであれば薬でも使われているのかもしれない。
「梶さん、警備部、成田に到着です」
唐突に受話器から梁瀬の声が少し遠いところから聞こえて眉根を寄せる。恐らくこちらの電話をスピーカーにしているのかもしれない。
「梁瀬、社内システムはどうなった」
社内システムを梁瀬に一任しただけに、岡嶋と同じ場所にいるには少し早すぎる気がする。
「ウイルス除去しましたけど……少し変ですよ、あれ」
「どういう意味だ」
梁瀬の困惑気味の声にすぐさま問い返せば、少し言い淀むような間があってから電話向こうから再び声が聞こえてきた。
「あっさり駆除されすぎというか、手応えが無さ過ぎるというか。一応、感染パソコン全て外部ネットワークに繋がらないようにして、社内ネットワークからは完全隔離しましたけど」
納得はしていない、という声だったが、今そこに梁瀬がいるのであれば梶としてはもう少し派手に動ける。
「それなら今はいい。梁瀬、アメリカン航空のネットワークにハッキングして彼女の搭乗手続きがされてるか確認しろ」
途端にカタカタとキーを叩く音が聞こえて来て、梁瀬が調べているのが分かる。すぐに梶の足はアメリカン航空のラウンジに向けて走り出す。
「梁瀬、警備部の連中もラウンジに向けろ」
「無茶言いますね、岡嶋、悪いけどその無線鳴らして」
会話を聞きながらも梶の足はラウンジに向いていたけれども、岡嶋の声で静止が入る。
「どうした?」
「ラウンジから出て関係者扉に消えました」
「カメラ追えるか?」
「梶さん! 携帯追尾されてるかもしれません!」
梁瀬の声でその可能性に気付くと一旦立ち止まる。
「今、梶さんの所に警備部が到着します。あ、空港警備の人間が警備隊に」
幾ら梶でもハッキングもせずにこの広い空港を一人で探しまわることは得策では無い。岡嶋に言われて辺りを見回せば、確かに警備部の連中は空港警備の人間に捕まっている。だとしたら、梶に取れる方法は一つしかない。
「一回電話切るぞ」
「え、梶さん?」
問い掛ける梁瀬の声は聞こえたけれども、梶はそのまま電話を切ると一つの番号に電話を掛けた。元はと言えば、あの老人が余計なことをしてくれたからこんな事態になっているのだから、その尻拭いくらいはしてもらわなければ困る。
「もしもし」
電話に出たのは寒河江の秘書だった。
「梶貴弘です。今時間はありますか?」
「只今、接客中でございます」
「今すぐ電話に出ろと伝えて下さい」
「は、はぁ」
保留音にイライラしつつも横目で警備部の連中が航空警備員に尋問されているのを確認する。格好が格好だけに、人目を引くのは致し方ない。けれども、現時点で武器等は携帯させていないから、問題になることは無いだろう。そこらへんは部隊長がしっかりしているから、連れて行かれても上手くやる筈だ。だが、出来ることなら連れて行かれるよりも前に先手を取りたい。
「何だ、いきなり」
保留音が切れたと同時に聞こえてきた老人の声に梶は間髪入れずに言葉を返す。
「桜庭うさぎがラストに攫われました。元を正せば原因はあなたにある。責任を取って頂きたい」
老人からの返事は無く、苛立ちながらも言葉を待っていれば長い溜息が受話器から聞こえてきた。
「沙枝と同じ用件か」
「沙枝さんが?」
「あぁ、今ここへ来ている。どうして欲しい」
沙枝と同じ望みであるのであれば、老人も重い腰を上げる気になるらしい。孫可愛さは相変わらずだと苦笑しつつ、梶は口を開く。
「成田でラストを匿う動きがあります。その者の洗い出しと、私に、いやうちの会社に行動の自由を確約して頂きたいので、その手配をお願いします」
「分かった、それくらいなら手配しよう」
沙枝に頼まれた手前、いつものように出し惜しみするつもりは無いらしいことに梶は安堵していた。時間の差し迫る中で老人の暇潰しに付き合う程酔狂になれなかったし、それだけの時間も今は惜しい。
「有難うございます」
「だが、お前の願いを聞いたのだ。今後の資金援助については打ち切るぞ」
「お爺様!」
背後から沙枝の声が聞こえたところを見ると、すぐ近くに沙枝もいるのだろう。
資金援助の話しは貴美が死んだあの時に、五年と言われていた。そのために梶は奔走したし、必要無いくらいまでシステムセキュリティーという会社を大きくもした。はりぼてではなく、内実ともに人材も確保したし、多少汚いと言われることもしてきた。どちらにしても、梶にとって既に寒河江からの資金援助は今年までと考えていたので、あれば助かるが、無ければ無いなりにシステムセキュリティーという会社は動かせる。
「構いません。もう、あなたの資金援助を必要とはしていませんから」
「じゃろうな。跡継ぎの件に関しては」
血の繋がらない梶に対して、寒河江が跡継ぎ候補として名前を上げたのは去年の今頃だった。不平不満ある中で、寒河江はそれを一括して怒鳴りつけたが、血縁者でも無い梶が寒河江を継ぐことへの反発はかなりなものだった。正直、くれてやる程度のものであれば貰ってやるが、面倒はごめんだ。今、梶にとって守るべきはシステムセキュリティーという会社であり、その中で働く社員であって、寒河江の面倒まで見ていられない。特に爆弾を抱えた厄介なだけでしかないものは梶に必要の無いものだった。
「お断りします。寒河江は私の手に余る大きさですから」
「そうか。空港については手配をしよう」
それだけ言うと老人から電話は一方的に切れてしまい、梶はすぐに警備部の連中に声を掛ける。航空警備員との間に入り、遣り取りをしている間に警備員の無線に何か入ったのだろう。身分証の提出を求められ、すぐに別室へと案内された。先程とは違い、随分と丁重な扱いになったことで寒河江がすぐに動いたことは分かった。梶は警備部の連中の最後尾を歩くと岡嶋へと電話を繋げる。
「もしもし」
「寒河江が動いた。すぐにラストたちの居所は分かる筈だ」
「手を借りたんですか?」
驚いた声で反応したのは背後にいるらしき梁瀬だった。寒河江の手を借りることを嫌っているのは身近にいた梁瀬は知っている。だが、今はそういうしがらみに捕われている場合ではない。
「あぁ、借りた。沙枝さんも同じ事を頼みに行っていたのが進展を早くしたな」
「彼女も……そうか、あれから寒河江に」
恐らく社で沙枝と会って、あの足で寒河江の元へ駆け込んだらしい。恋人のことで寒河江と上手く行っていないと聞いていたが、彼女自身も手段を選んでいられない状況だったに違いない。
「追跡されているかもしれないが、向こうが移動しているのであればその時間が取れないかもしれないので、一応、電話は繋げたままにしておく。声を掛ける時はタイミングを計れ」
それだけ言うと梶は胸のポケットにスピーカー状態にして携帯を入れた。寒河江の命令ともなれば、上役は血眼になってラストたちを匿った人間を探し出すだろうから、すぐにラストたちの場所は分かるに違いない。だが、ラストたちと対峙した時、何も無いままでは終わらないに違いない。追跡されている可能性はあるが、それでもこちらの会話が聞こえていれば、梁瀬のバックアップがあるのであれば何らしかの手を打てるに違いない。
別室に案内されるとすぐに空港全域の警備を担当する国土交通省の人間が現れて、すぐにラストたちの行方を追う話しはついた。警備部の連中が持っていた写真も渡し、空港全域に入っている警備会社と連携を取り、十分もしない内に場所は徐々に絞られて行く。広い空港内、自分たちが探すよりもずっと有益ではあったが、彼女のことがあるからそれも追って説明はした。
彼女がどういう状況なのか分からないからこそ、余り強引には動けない。徐々に範囲を狭める中で、不意に室内にある内線電話が鳴り響く。警備班長と紹介された男が電話を取ったが、会話を少し交わした後に受話器を梶へと差し出してきた。
「本ボシから連絡だ」
ラストか山口か、緊張しながらも梶は受話器を受け取ると耳にあてた。
「梶だ」
「まさか寒河江に連絡するとは思わなかったな。それはちょっとズルすぎるんじゃない?」
聞こえてきたのはラストの声で、余り面白くなさそうな声だった。けれども、その声に悲壮感は全く無く、余裕すら感じられて梶は眉根を寄せる。
「使えるものは親でも使うたちでな」
「あぁ、あんたはそういう男だった。今、第二会議室にいる。一人で来てよ」
「何故?」
問い掛けはしたものの、もしかしたらという理由は梶にも思いついた。恐らく、今ここでの権限を梶が握っていることをラストは既に悟っているのかもしれない。寒河江がバックについているとなれば、ここにいる役人くらい簡単に動かせることはラストにだって分かる筈だ。奴も無謀ではあるが馬鹿では無い。
「返して欲しいだろ、うさぎちゃん」
「あぁ、返して欲しいな」
白々しい会話を続けていれば、最後にラストの声がガラリと変化する。
「だったら一人で来い」
低い脅すような声でそれだけ言うと電話は切れた。梶はすぐに警備班長に声を掛け、ラストに言われた第二会議室の場所を教えて貰う。ついてくると言った人間に監視カメラをハッキングしてこちらの動向を窺っている可能性を伝え、梶は一人廊下を歩いていた。
「ラストから呼び出された。彼女を返して欲しければ一人で来いということだ。これから第二会議室へ向かう」
ならべく口を動かなさないようにしながらも胸元にある携帯に話し掛ければ、携帯からは岡嶋の了解という声が小さく響いた。胸ポケットに入っていることを考えれば、随分と大きな声で返事をしたに違いない岡嶋に苦笑しつつも何度目かの角を曲がる。
空港内は警備という観点からあちらこちら迷路のように入り組んでいて、幾つもの扉を開けて幾重にもなった長い廊下を歩く。どれほど歩いたのか、しばらくするとようやく第二会議室と書かれた扉の前に立った。けれども扉はノックするよりも早く内側から開けられ、そこから顔を出したのは何も考えていなさそうな男のへらりとした顔だった。
「あぁ、あんたが桜庭の本物の思い人かー」
途端に男の背後で何かが倒れる音がして、そちらへと視線を向ければ彼女が呆然とした様子で立っていた。余程勢いよく立ち上がったのか、彼女の座っていた椅子が倒れただけで彼女自身に何かが起きた訳ではないことを確認してから、再び目の前に立つ男へと視線を向ける。その顔は青ざめていて、見ている方が気の毒になる程その表情は愕然としたものだった。
「山口、だな」
「ご名答。とりあえず、入ったら」
まるで緊張感のない声に入り口に立ち尽くしていれば、彼女の近くに立っていたラストがうさぎに声を掛ける。
「うさぎちゃん、もう俺と一緒に行くって決めたもんな」
そう言って彼女の顔を覗き込み、彼女は一瞬梶を見てから、視線を逸らすと小さく頷いた。
「という訳で、別に拉致誘拐じゃないから」
「……脅迫してるんじゃないのか?」
つい低くなる声でラストへと問い掛ければ、ラストはとんでも無いという顔をして肩を竦めて見せる。
「そんなことしてないよ、俺、紳士だし」
「不法侵入した挙げ句、彼女を追いつめたお前のどこが紳士だ」
「おやおや、そういう意味では俺とあんた、同じ穴の狢でしょ。彼女を今まで追いつめてたのはだーれかなー」
ふざけた口調で言い放つラストに、梶としては気付いたばかりの事実に言い返す言葉が無い。うさぎの気持ちについて聞いた時には驚愕ものだったが、こうなるのであれば、あいつらから話しを聞いておいて正解だったかもしれない。少なくとも、ここで彼女の気持ちを聞いていたら自分がどれほど醜態を晒したのか考えるのもおぞましい。
「桜庭、本気か?」
ラストから彼女へと視線を向けると、彼女は何かを言いかけて口を開いたけれどもそのまま俯いてしまう。少なくとも、それはラストに心から同意しているようには見えない。
「脅迫されているのか?」
それに対しても彼女は勢いよく顔を上げたけれども、隣に立つラストが彼女の腕を掴むと、途端に身を竦ませた。
「うさぎちゃーん、分かってるよね」
そう言ってラストが取り出したのは携帯電話で、ストラップを持ってうさぎの前で揺らした途端、彼女がさらに身を強張らせる。
「まぁ、そんな訳で、桜庭も同意の上だから、あんたに止める権利は無いよー。あぁ、無理矢理止めたりすれば、逆に俺が訴え返しちゃうけど」
山口のからかい含みの顔と声に、神経を逆撫でされる気分になる。腸が煮えくり返るというのは正にこのことかもしれない。冷静になるために掌を握りしめてから、ゆっくりと開く。
「まぁ、そういうことで、俺たちはこれから雲の上へ」
ラストは天井を指差すと、彼女の肩に手を回した。密着する身体に、彼女が更に俯いてしまいその表情は見えない。けれども、身体の前で重ね合わせた両手が震えているのが見える。とても合意とは思えない仕草に思わずラストを睨みつける。
「一体、彼女を何で脅迫してる」
「いやだなー、もし脅迫してたとしても、そのネタを口にする馬鹿がどこにいる訳? まぁ、勝負するのも面白そうだけど、今はそういう時じゃないしなー」
言いながらもラストはストラップに指を掛けて器用に回しながらも、携帯をしまう気配は無い。彼女に対する先程の行動といい、恐らくそれがキーになっていることは分かるが、その先が読めない。
「まぁ、また今度遊んで貰うよ。今日はいいや。さて、行こうか」
ラストは彼女を促し梶の横をすり抜けようとする。その瞬間、反射的に梶は彼女の腕を握りしめた。
「君は本当にそれでいいのか?」
顔を上げた彼女と視線が合う。ゆっくりと唇が動いたけれども、そこ口から声が出ることは無い。恐怖のためなのか震える唇で何かを伝えて来ようとする気配は見えるけれども、そこから言葉にはならない。
「まさか、声が?」
それに対して答えたのは彼女ではなく、隣に立つラストだった。
「だって、色々うるさいんだもん。余計なこと言われても困るし」
「お前、人の事なんだと」
「今更人道が云々とか説教は無しにしてよ。もう、そんなもんとっくに捨ててるから」
そんな奴に彼女を渡してたまるか。思ったよりも身体が先に動いた。掴んでいた彼女の腕を無理矢理引き寄せると、倒れてくるその身体をきつく抱き寄せて腕の中に閉じ込める。
「お前にだけは渡さない」
「渡すも渡さないも、うさぎちゃんが来るって言ってるんだから問題無いでしょ。あんたの出る幕無しだから。ほら、行くよ」
そう言ってラストは再び携帯を揺らす。途端に腕の中の身体が強張り、抜け出そうともがく。けれども、腕の力を緩めることなく抱きしめたままラストを睨みつける。
「行かせない」
「まぁ、それならそれでいいけど」
そう言ってラストは改めて携帯を握り直すと彼女に向けて笑みを向けた。
「十待っててあげる。自分で選びなよ」
「その携帯に何がある」
「俺がそれを教えると思う?」
ニヤニヤと楽しそうに笑うラストが口を割るとは梶も考えてはいない。けれども、携帯で出来ることなんてそう幾つも想像がつくものでもない。
「メールでプログラムを起動する、か?」
途端に腕の中にいた彼女がビクリと震えラストよりも早く反応した。そんなうさぎの姿を見ていたにも関わらず、ラストは無表情で何も言わない。ただ、その顔から笑顔が消えたことは確かだった。
静かな空間に重い沈黙が落ちる。どれだけの間、ラストと睨み合っていたか分からない。
けれども、静寂は外からの物音で破られ、勢いよく扉が開かれる。途端になだれ込んでくる人波に、梶は彼女を腕に庇いながらも部屋の隅へと移動する。それから携帯を取り出せば、圏外の表示が出ていて小さく吐息を零した。会話を聞いていた梁瀬がどうやら動いてくれたらしい。
ラストを見れば、取り押さえられながらも携帯を床に投げつけるところだった。そして山口の方は抵抗する気もないらしく、飄々とした笑みを浮かべて両腕を拘束されている。
「だから言ったじゃん。遊び過ぎじゃないかって」
「あーあ、失敗した。カメラは気付いてたけど、会話まで筒抜けだと思わなかったんだよ。まぁ、また遊ぶからいいや」
そう言ってラストは彼女に視線を向ける。怯える彼女を抱きしめれば、ラストは口の端に笑みを浮かべた。
「またね、うさぎちゃん」
それだけ言うと、梶とは視線を合わせないまま警官に連れて行かれると、ようやく口からは溜息が零れた。
「怪我は無いか?」
問い掛けに首を横に振ると、抱きしめている梶の腕を軽く叩く。抱きしめていた腕を解放すれば、慌てた様子で自分のバッグから筆記用具を取り出し彼女の持つボールペンがメモ帳の上を滑る。けれども手が震えて上手く字が書けないらしく、何度も書いてはらしくもなく乱暴に書き潰している様子に、梶は彼女の肩を掴み一旦こちらへ向かせる。震える彼女の両手を一旦取ると、驚いた顔で自分を見上げてくる彼女と視線をかち合った。
「落ち着け、大丈夫だ。何かあってもどうにかする」
今まで自分のしてきたことを考えれば言えた義理ではないことは自覚しているが、それでも今の梶にはそれしか言葉が思いつかなかった。けれども、彼女は二度深呼吸をすると、改めて梶に視線を合わせて頷いた。握りしめた手を離せば、彼女はメモ帳を前に先程よりも震えの収まった手で字を綴る。
普段の彼女の字にしては乱雑なものではあったが、先程のように読めないものではない。そして、メモ帳に書かれた文字に思わず目を見開く。
「それは本当か?」
問い掛ければ、彼女は目を逸らすことなく頷く。だとすれば、ここでのんびりしている状況ではない。胸元に入れてあった携帯が鳴り出し、携帯を手に取れば既に電波は復活しているらしく、表示されている梁瀬の名前を確認してから電話に出た。
「うさぎちゃんは?」
「怪我は無い。ただ、話しは出来ない。それから、六時に成田のシステムに組み込まれたウイルスが動く」
「六時って、もうあと二時間無いですよ」
「あぁ、こちらもこれから動く。追って連絡入れる。そっちも何かあれば連絡入れろ」
すぐに分かりましたという梁瀬の声が聞こえたけれども、電話を切る気配は無く梶は再び口を開く。
「何がある」
「いえ、あの、うさぎちゃんに、無理しないでって伝えて貰えますか?」
「待ってろ」
それだけ言うと、手にしていた携帯をうさぎに差し出した。首を傾げながらも受け取った彼女は耳にあてると、聞こえてきた声にホッとした顔を見せた。不意に周囲に視線を巡らせた彼女は部屋の片隅にあるカメラに向かって小さく手を振った。恐らく、梁瀬か岡嶋から見ていることを言われたのだろう。
あれから五年、随分と彼女は強くなったように見える。それこそ五年前であれば、緊張感の解けた途端に倒れるなり、座り込むなりしていたに違いない。けれども、今はきちんと自分の足で立ち、梁瀬や岡嶋に気遣いすら見せている。五年の間でどれだけ変わったのか、梶には見えてこない。けれども、五年前に感じた独特の透明感は無くなることなく、根本は変化していないのだと分かる。
「君はここで待っていろ。警備部の人間が病院に送る」
これから空港内システムの洗い出しに入る。今の彼女に出来ることは数多くは無い。けれども、彼女は首を横に振ると梶の袖を掴んだ。昔とは違い、強い視線で見上げてくる彼女の意思はそれだけで伝わって来た。
「喉をそのまま放置しておくと話せなくなる可能性もある」
説明はしたけれども、彼女は首を横に振るばかりで梶の指示に従うつもりが無いことは読み取れる。だからこそ、梶は大きな溜息をつくと渋々口を開く。
「来るか?」
途端に彼女は頷くと、梶の腕を引く。早く行こうと言わんばかりの行動に、梶は部屋に入ってきたばかりの警備班長に空港管理責任者との繋ぎをつけて貰い、改めて人気の無い場所で寒河江にも連絡を入れる。
余り大々的にすることも出来ない理由を述べて、国土交通省の人間に繋ぎをつけて貰うと、しばらく小さな部屋で彼女と二人待たされることになった。恐らく五分程だっただろう、国土交通省の人間が出て来てシステムルームへと案内される。
お互いに他言無用という誓約書を交わしてから、一台のモニター前に座る。そして隣には彼女が座り、それを確認すると、自由に使用して構わないと確約を取り付けた備え付けの電話を手に取った。外線ボタンを押してから梁瀬たちのいる作業部屋直通の番号を押せば、一コールで梁瀬が電話に出た。
「もしもし」
「これから動く」
「何すればいいですか?」
「ファイル改変日時チェックをしてくれ。今システムを繋げる」
キーを叩けばモニターが淡く光り、文字列が表示されていく。少しするとそれは文字が止まり、手元にある操作仕様書を確認しながら文字を打ち込んでいく。
システム内を見れば、全部で七層に別れていて外部に繋げるのは二層と四層のみで、そこをシステムセキュリティーにのみ解放すると梁瀬に伝えてから一旦電話をスピーカーにしてから受話器を置いた。
「君はどこまで出来る」
問い掛けて彼女が答えられないことに気付いたが、彼女は先程使っていたメモ用紙を取り出すと指示を下さいと書き付ける。先程と違って、ボールペンを持つその手に震えは無い。
「一層、三層のチェックを」
頷くとうさぎはすぐにモニターに向き直るとキーを叩き出す。その手に迷いは無く、すぐに一層に入り込むと幾つかにファイルを分けて検索を掛けていく。それは五年前に見た時と変わらず、鮮やかなものでもあった。動いているシステムに負荷を掛けない気遣いなども、昔と変わらない。するりと入ってファイルを奪うグレーのやり口でもあった。
「私は五層に入る」
隣に座る彼女が小さく頷くのを視界の端に納めると、梶もすぐにキーを叩き出す。色々と手回ししている間に時間は刻一刻と過ぎ、既に五時を回っている。かなり急がないとならない事態だったが、予想以上に技術を失っていない彼女に驚きがあった。
梶が懇意にしている教授たちの前では、もしかしたらその技能を表立って主張していなかったのかもしれないと思えるくらい鮮やかな手並みだった。色々とこの五年間について聞きたいことはある。けれども、今はその時では無いから梶も口を噤む。
全七層の内、三十分程で彼女が担当していた一層、梁瀬が担当していた二層、そして梶が担当していた五層のチェックが終わる。
「私が六層、彼女は三層に」
「オレは四層のチェックは入ります」
目の前にある時計に時折視線を向ければ、時間は刻一刻と進んでいて、六時まで残り三十分を切っていた。それを気にしつつチェックを掛けていけば、不意に電話向こうから声が聞こえる。
「梶さん! 今日朝一で今チェック掛けてる四層、システム十八の中で書き換えられたファイルがあります。もしかしたらダミーかもしれませんが解析しますか?」
「あぁ、してくれ」
「続きは俺がチェックします」
岡嶋の声も聞こえてきてそれに返事をすると、不意に横に座る彼女の手元が止まる。
「どうした?」
一度梶を見上げた彼女だったが、すぐにモニターに視線を移すと指を指した。そこに表示されているのは幾つもの文字化けしたファイルで、梶の眉根が一気に寄る。
「どういうことだ?」
問い掛ければ彼女の細い指がキーを叩き画面上に文字が現れる。
『既にウイルスは動き始めてるかもしれません。システムのこの部分だけ切り離します』
「出来るか?」
『やってみます』
その文字を消してから彼女の指先が再びキーを叩きだす。システム内部にあるファイルを一つずつ確認しては、プログラムを書き換えていく腕は全く衰えていないどこから、逆に五年前よりも早くなっているようにも見える。システム五の中にある文字化けしたファイル以外を全て書き換えを行った彼女は、文字化けファイルのみを鮮やかな手つきで隔離してしまう。
彼女は再び梶へと視線を向けてからモニターに文字を打つ。
『これからプログラムの解析に入ります』
梶が頷けば打ち込んだ文字を再び消してから彼女の指がキーを叩きファイルの解析を始める。梶としてものんびりしている余裕は無く、六層のチェックを終えて最後に残された七層のチェックに入る。
果たして彼女が見つけた文字化けファイルは単なるバグなのか、それとも彼女が危惧するようにウイルスなのか現時点では判断がつかない。けれども、ファイルの解析作業をしていた彼女が再び手を止めると、画面に文字を打ち込んでいく。
『パソコン、一台用意して下さい』
「どうした?」
『念のため、完全隔離します』
「分かった」
『それから、一度ここにシステムを落としたら立ち上げまでにどれくらい掛かるか確認して下さい』
飛行場のシステムは大規模システムなので、一度落としてしまうとパソコンなんて目ではないくらい立ち上がりに時間が掛かる。それから確認作業をして復旧となれば、恐らく三十分、四十分では済む作業では無い。その間、飛行機の離発着は全て禁止され、恐らく空港がパニックになるだろうことは予想出来た。
梶は近くにいる人間に頼み空いているパソコンを一台用意して貰い、システムの立ち上げに掛かる時間を確認する。担当者が言うにはシステムの立ち上げには一時間半掛かるとのことで、それだけは困ると言われてしまう。けれども、それは梶にも重々に理解しているが、今はそれを説明するだけの時間すら惜しい。
担当者を置いて手にしたノートパソコンを彼女に渡せば、彼女はポケットの中から鍵を取り出した。けれども必要なのは鍵では無いらしく、黒いうさぎのキーホルダーを手にすると、中からパソコンに繋げる為の読み取り部分が出て来てくる。それを見て、梶は初めてそれがただのキーホルダーでは無く、キーホルダーを象ったデータの記憶媒体だと知る。今はそんな形の物まで普及しているのかと梶は小さく笑いつつ、手元の操作を怠ることはしない。
横に座る彼女は、すぐに記憶媒体であるメモリをパソコンに差し込んでからシステムとパソコンを用意されたケーブルで繋ぐと、そこでようやくパソコンの電源を入れた。すぐに稼働を始めたパソコンはメモリを読み取るために指紋認証を求めていて、やたらと可愛らしい黒いうさぎの腹に彼女は指をあてる。途端にロックか解除されてメモリの中身が見えてくると、そこには膨大なプログラムが入っていて思わず彼女の方へと目を奪われる。
「これは何のプログラムだ」
ちらりと梶を見上げた彼女は再びパソコンの画面に文字を打ち出す。
『ウイルス除去プログラム、ハッキングプログラム、防御壁プログラム、大きいプログラムはその三つです』
そのまま彼女は手慣れた動作でシステムとパソコンを繋げると、システム側を操作しようとした所で受話器から大きな声が響く。
「プログラムが稼働した!」
チラリと彼女は顔を上げて時計を確認するするのに釣られて、梶も時計を見れば時間は丁度六時になった所だった。途端に彼女の指はパソコンの方へ移り、キーボードの上を指が走り彼女が持ってきたメモリから一つのプログラムをシステム側にコピーする。そしてシステム側で彼女が作ったと思われるプログラムを実行すると彼女自身は大きく溜息をついた。
「何をした」
梶の目にもウイルス除去プログラムを実行したことは分かったけれども、それを作ったのはうさぎであって梶に詳しいことは分からない。こちらを見ることなく、彼女は画面に文字を打ち出す。
『七層はチェック終了ですか?』
「あぁ、それはギリギリだが終わった。おかしな所は無かった」
『それなら、梁瀬さんに詳しいことを確認して下さい』
質問に答えることなく打たれる文字からも、予断を許さない状況なのだと彼女は知っているようにも見える。
「梁瀬何があった」
「先のプログラム解析していたら急に動き出して、そしたら先までエラーの出てた社のパソコンが一気に稼働を始めました」
「外への接続は」
「今はこの回線のみです。ただ、外部セキュリティー用のサーバも止めてるのでもう苦情が出始めています」
こういう時、梁瀬の報告は余分な言葉が無く分かりやすいもので梶には重宝している。そして決断の早い梁瀬はすぐにセキュリティーサーバを止めたらしく、それも功を奏していた。もし、この段階でセキュリティーサーバが立ち上がっていたら何が起きたのか全く読めない。
「相手にはあと二時間は掛かると言っておけ」
果たして二時間で決着が着くものなのか梶にも分からない。だからと言って、問い合わせに対して無視することも出来ない。
不意に腕を引かれて彼女へと視線を落とせば、彼女がモニターを指差す。
『会社とは別回線を持つパソコンにウイルス除去ソフトを送ります』
その画面を見てから彼女の見れば、その目は落ち着いた静かな目だった。彼女のプログラムの中身を見ていない以上、彼女を信用するか否かという問題になってくる。けれども、その落ち着いた目を見ていたら梶はスピーカーに声を掛けていた。
「梁瀬、単独で外部ネットワークに繋がっているパソコンあるか」
「はい、今岡嶋が使ってるやつは単独です」
それを聞いていた彼女の指はすぐに動いていて、ハッキングソフトを立ち上げてすぐに岡嶋が使用しているパソコンを特定したらしい。すぐに彼女はプログラムを転送していて、それを見ている限り、ネットに触れていないとは梶には思えなかった。
『梁瀬さんに、実行するだけと伝えて下さい』
「梁瀬、岡嶋の使用中パソコンに彼女がプログラムを転送した。それを実行しろと」
『え、それだけ?』
困惑げな梁瀬の声に彼女の指が素早く動く。
『それだけです。それから終了画面が出たら、すぐにエラーの出ている次のパソコンに繋いで下さい。必ず一台ずつです』
その言葉も伝えれば梁瀬からは短く返事があり、電話向こうは再び沈黙が落ちる。
『すみませんが、管制塔システムを触る方にシステムが多少重くなることを伝えて下さい』
「重くなるのか?」
『プログラム自体がかなり重いのでどうしても重くなります。けれども、システムを止めるよりかはいいと思うので』
「分かった」
彼女に返事をして近くにいるシステム責任者にそれを伝えれば、近くにある受話器を持つと管制塔に連絡を取っているらしい。既に重くなっているのか、苦情を言われている様子だったが、責任者はそれを無理矢理押さえ込んでいるという口調だった。当たり前だが、システムがウイルス攻撃を受けているとは言える筈も無いし、システムを止めるなんて責任者に取っては正気の沙汰では無いに違いない。少なくとも外部に漏らせるような話しでも無いから強引に押さえ込むしか選択肢は無いのだろう。
彼女の手が止まったこともあり、梶は改めて彼女へと声を掛けた。
「除去プログラムは分かった。どういう仕様のものだ」
『元来のセキュリティーソフトに人工知能をプログラムして、常にウイルスに対応していくようにしました。ウイルスプログラムを教授が作ったのだとしたら有効だと思います』
「何故有効だと?」
『教授は人工知能とウイルスについての関連性もよく話しをしていて、分からないふりで聞いていました。どこまで本音だったのか分かりませんが、一応念のために対応プログラムを作っていました。ただ、教授の本音が嘘であれば有効では無い可能性が高いです』
「君は……大学で実力を隠したまま過ごしていたのか?」
『それしか身を守る方法が分からなかったので』
「だがネットには」
『別にネットでなくとも情報は入ります。むしろネットの情報は全てが曖昧で、実証されているものは少ないので信憑性に欠けるものが多いです。本格的に調べるのであれば、やっぱり紙ベースが一番確実だったので。それに色々試すのであれば、ネットに繋がなくてもネット環境を作ることは可能ですから』
梶の口から出て来たのはもはや感嘆の溜息だった。五年、たった五年の間に彼女は随分と成長したらしく、こちらを見上げる彼女の顔に目を細めた。どうにもならなくなって泣きついてくる彼女はもういない。今目の前にいるのは凛とした筋の通った一人の女性だった。
「まいったな……」
口から零れた言葉は梶が意識してでは無かった。
ずっと惹かれていた。彼女の技術と感性と、そして努力の上に成り立つ才能に。けれども、あの頃よりも更に磨き上げられたどこか鋭利さを思わせる才能に引きつけられる。
果たしてそれが梁瀬たちが言うような気持ちなのかは分からない。ただ、彼女を手放せない、手放したく無いことだけは梶にも分かる。
「これからやることは?」
『もう何もありません。後は結果を待つだけです。もしもの場合には飛行場一時閉鎖という状況にもなりえます』
確かに彼女がここにいれば、力強いものがある。けれども、このまま彼女の状態を放置しておく訳にもいかない。
「分かった。取り合えず、君は病院に行け」
『嫌です。最後まで結果を見ないとここを動くつもりはありません』
元々曖昧な言葉を使わなかったけれども、更に彼女の言葉には五年前に無かった強さが見え隠れする。大学で彼女に会った時にレポートを投げつけられた時にも感じたデジャブが梶を襲う。けれども、それはどこか心地よく思えて梶は内心苦笑するしかない。
「分かった。それなら全てが終わってから必ず病院には行くな?」
それに対して文字は無く、見上げてきた彼女は一つ頷いてみせた。
* * *
結局、彼女のプログラムが全てのウイルスを食い潰した後、プログラムは最後に自分を消去してシステム内からは消えた。梁瀬からの連絡では、全てでは無いけれども八割方ウイルスの除去が終了しているらしい。
そして、梶は病院の薄暗い待合室で彼女が診察室から出てくるのを待っていた。
「お待たせしました」
まだ少し声は掠れているものの、夜半を過ぎた辺りから彼女の声は回復してきつつあった。それでも梶は病院に連れて来たのだが、病院の診察では既に薬の影響が消え始めていてこのまま数時間もすれば元に戻るという話しだった。局部麻酔のようなもので、声帯近辺の筋肉が動かなくなっていた為に声が出なくなっていたのだと判明して梶としてはホッとしていた。
「家に戻るか? それとも一緒に社へ来るか?」
問い掛ければ、少し考えた素振りを見せた彼女は口を開く。
「取り合えず、コンビニに寄ってから会社へ」
「コンビニか? あぁ、食事か……すまない、気付かなくて」
「いえ、向こうで梁瀬さんと岡嶋さんが奮闘していると思うので」
恐らく彼女の言う通り、まだ八割とは言えども社内にあるパソコンは数多い。落ち着くのは明日になってからに違いない。それでも、サーバを先に復旧させた梁瀬の腕は確かなものでもあったし、正しい状況判断でもあった。
車内で話すことは余り無く、彼女もさすがに疲れていたのか助手席でうつらうつらと船を漕いでいる。時計を見れば既に朝の四時を回っていて、それも仕方ないことだと小さく苦笑する。それでもコンビニにつけば目を擦りつつも起きてきて、コンビニ内へと一緒に足を運ぶ。
「梁瀬さんたちと一緒に作業している人は誰かいるんですか?」
「いや、梁瀬と岡嶋と、あといるとしたら秘書の国立くらいだな」
「そうですか」
納得したのか彼女は買い物籠を持つと、その中へおにぎりやらパンをどんどんと入れていく。見れば十人分はありそうな食料を訝しく思いながらも、レジで遠慮する彼女の横で清算を終える。
外に出れば、丁度朝日が上る時間だったのか、まだ低い位置にある太陽光に直撃されて目を細める。小さなビニール袋を持つ彼女は、隣に立ち目を細めながらも太陽を眺めている。
「綺麗ですね」
その言葉にデジャヴを覚えたのは気のせいでは無い。彼女の見ている方向に視線を向ければ、背の高いビルの窓が朝日を反射してあちらこちらで煌めいている。ふと彼女へと視線を向ければ、穏やかな顔でその景色を眺めていて梶はその横顔に視線を引きつけられる。
そうあの時も、彼女がアルバイトのサインをしに来たあの日、梶はこうして彼女の横顔を眺めていた。あの頃と違って、もうあどけなさは無く、おちついた女性がそこにいる。けれども、彼女の感性は揺るぎなくそこにある。
「……あぁ、そうだな」
あの時と同じ言葉を返せば、不意にこちらを見上げた彼女が穏やかに微笑む。そんな笑顔を向けられたことは初めてのことで、梶は内心酷く驚いていた。こんな表情もするのかと思えば、知らなかった五年間という月日に初めて勿体ないことをしたという感情が生まれてくる。いつもどこか遠慮がちで、表立った表情を出すことをしなかった彼女は随分と強くなったのかもしれない。
「君の才能に惚れてる。今日改めてそう思った」
「有難うございます」
彼女の視線は再びビル群へと戻り、まるで梶に興味を無くしたかのように見えた。微かに覚えた胸の痛みに梶は苦笑するしかない。この感情は覚えている。はるか昔に感じた嫉妬という感情に違いない。ただ、自分は彼女の視線をこちらに向けていたいという子供のような感情が沸き上がったことに笑うしかない。
「うちに来る気は無いか」
「ありません」
「君の気持ちはもう分かっている。だから」
「好きです」
ぽつりと零れた声は聞き流してしまいそうな程に小さな声だった。殆ど呟きといってもいい言葉だったが、その言葉で梶の言葉も宙に浮く。
「だから、梶さんの会社には入れません」
「私も君を好きだ」
ようやく振り返った彼女の表情は泣きそうな笑顔だった。見ているだけでもその笑顔が胸に痛い。
「でも、梶さんが好きなのは私の技術であって、私じゃありませんよね」
「そんなことは無い。君のことを知りたいと思っている」
俯いた彼女はそのまま首を横に振る。髪がやわらかくふわりと揺れる。再び梶を見上げてくる彼女の表情は、やはり淡い笑みだった。
「すみません、私は梶さんの言葉が信用出来ません。だから、恋人にもなれませんし、会社に入ることも出来ません」
はっきりした彼女の拒絶に梶としては苦笑するかいない。実際に、自分は彼女に信用されるだけの何かをしてはいない。だから、この結末は当たり前でもあった。ただ、諦めるつもりは無いくらい彼女に既に惹かれている自分にもう気付いている。
「これからどうするつもりだ」
「分かりません。教授の言葉を真に受けて全てのオファーを断ってしまったので、これからゆっくり考えたいと思います」
「そうか」
その言葉を最後に会話は止まり、しばらくの間、上る太陽を二人でぼんやりと眺めていた。
こうしてゆったりとした時間を取ることは、梶には稀なことだった。いつでもひた走り、足を止めて振り返るようなことは一度もしてこなかった。けれども、彼女はこうして自分の足を止める方法を知っている。それは梶にとって癒しでもあった。
「そろそろ行くか」
その声に彼女は頷くと車へと乗り込む。同じように運転席へ乗り込んだところで彼女はおもむろに手を向けてきた。
「どうした」
「手を開いて下さい」
言われるままに手を開けば、そこに落とされたのは個別パックされたチョコレートだった。
「甘いもの、疲れてる時にいいですよ。嫌いではないですよね?」
問い掛けてくる彼女に、一度も甘いものが好きだと伝えたことなど無いのに見透かされていたことに驚いた。
「いつ知った」
「夕方になると、梶さんのコーヒー、砂糖多めでしたから」
そんなことまで見られていたのかと驚きを隠せずに彼女を見れば、穏やかに笑っていてどこか吹っ切れたような顔をしていた。
「ありがとう」
素直に礼を言って封を開けてからチョコレートを口に入れると、身体中に甘味が広がる気がした。
こうして鋭さを潜めた彼女は、昔に比べて随分柔らかくなった気がする。それは渡されたチョコレートにも現れている。もしかしたら、自分を好きだと言った彼女に梶はずっと緊張感を強いていたに違いない。けれども、今ここにいる彼女は自然体で、梶は苦笑しつつも社に戻るためにハンドルを握った。
これといった会話をしないまま社に到着すると、出迎えたのは梁瀬や岡嶋、国立だけでは無く、少し顔色の悪い沙枝と沙枝の友人の二人もいた。彼女を見るなり、二人は抱きついて泣き出し、そんな二人に彼女は苦笑していたけれども、嫌がっているようには見えなかった。
手にしていた大きな袋を梁瀬たちに渡せば、国立を含めた三人ですぐに食べ始める。彼女が十人分買ったにも関わらず、余程腹が減っていたのか梁瀬と岡嶋は三人分、そして国立も二人分をしっかりと食べていて、その食欲旺盛さに梶は呆れた。けれども、これだけの量を用意した彼女はこういうことになるだろうと見越していたのかもしれない。
どこか穏やかな空気の中で沙枝たち二人を宥めた彼女は、梁瀬に代わりパソコンに向かうと諸々をチェックし、梶もチェック項目を聞いて彼女を手伝う。そして全てのパソコンのチェックを終えると彼女は安堵の溜息を零した。
「全て終了です」
「ようやく終わった……」
うんざりという声音を隠さない梁瀬の声につい笑ってしまえば、笑い事じゃないと怒られ、どれだけ大変だったのか散々文句を言われた。
朝九時を回り社員が出てくるころになり沙枝とその友達は帰って行った。そして彼女と岡嶋も荷物を纏めると部屋を出て行き、国立は今日の段取りを組み直すためにバタバタと部屋を出て行った。残されたのは梶と梁瀬の二人だけで、そんな梁瀬に口を開く。
「疲れたな」
「本当にクタクタです。あー、でも仕事しないと」
「昼まで休んどけ。仮眠室空いてるぞ」
梁瀬はある程度社内に落ち着きが戻ったところで、社員を全員帰宅させたと言っていた。だとしたら、今日仮眠室を使っている人間は誰もいないに違いない。
「梶さんは?」
「謝罪行脚に出る」
「行脚! 確かに行脚ですね、戻りは明日になりそうですけど」
梁瀬の言う通り、一度外に出れば恐らく今日の帰りは深夜になるに違いない。セキュリティー会社にも関わらず、二時間近くもセキュリティーシステムを止めていたのだから、謝罪だけでは済まない可能性も高い。けれども、会社をやっていく為にはこちらの犯したミスで無くても謝罪に回らなければならないことは多々あることを梶はもう知っている。
「国立さん、悲壮な顔してましたよ」
「後日あいつにはフォロするさ」
「じゃあ、俺には?」
梁瀬に問われて、梶は食事でもご馳走してやるかと思ったが、恐らく梁瀬と岡嶋が何よりも気になっているだろうことを伝えることにした。梶は肩を竦めてから椅子の背凭れに身体を預け、それから目を閉じる。
「彼女に告白した」
「……は? え? 梶さん、うさぎちゃんのこと好きだったんですか!?」
慌てたような梁瀬の口調に、梶としては苦笑するしかない。何せ気付いたのかあの朝日を一緒に見た時だったのだから、自分もとんだ間抜けだと思う。梁瀬に鈍いと言われても、鈍さを自覚した梶にとっては今更ながら返す言葉も無い。
「今日になって気付いたがな」
「……えー、まぁ、色々言いたいことはあるんですが、その返事は?」
「振られた」
端的にそれだけ言えば、梁瀬が途端に慌てだしたのがその空気からも伝わって来る。
「え? だってうさぎちゃん、まだ」
「あぁ、好きだと告白された。だが私は信用出来ないから付き合えないそうだ」
それだけ言えば、納得したとばかりに溜息を返され、やはり梶としては苦笑するしかない。梁瀬から見ても、彼女からの信頼が無いのは当たり前というところなのだろう。
「それは自業自得だから仕方ないかと。それで?」
「信用を取り戻すしかないだろう。彼女が欲しいと思ったんだから」
それを口にするには幾分恥ずかしさもあったけれども、素直にそんな心情まで吐露したのは疲れていたせいもあるのかもしれない。どこかで弱気になっているという自覚は、多少なりとも梶にもあった。
「うわー、うさぎちゃんが嫌がる様子が目に浮かびますけど」
「嫌がられるか?」
「……嘘です」
そんな梁瀬の声に目を開ければ、どこか悪戯めいた笑みを浮かべていて梶は苦笑する。
「まぁ、影ながら応援してますよ、協力はしませんけど。あー、でも、岡嶋辺りが聞いたら……もう一度殴られる覚悟しておいて下さい」
梶との接触を監視するくらいうさぎに近付くことを嫌がっていたのだから、確かに岡嶋が聞けば激怒しそうな気がしないでもない。だが、岡嶋に言われたくらいで諦められるものなら、最初から手を伸ばそうとは思えない。
「それと、うさぎちゃんが本当に嫌がったらもう諦めて下さい。本当に色々と追いつめられていたんですから」
真剣な忠告めいた梁瀬の言葉に、梶は素直に頷いた。何も困らせたい訳では無いから、本気で嫌がられたら梶としても引くしかない。自分の気持ちを知る前であれば嫌がられようと手を伸ばしただろうけど、今はらしくもなく本気で拒否されることに恐怖に近い感情が芽生えている。その変化に戸惑いつつも、結局、それも自分なのだから受け入れることしか梶には出来ない。
「まぁ、でも、大丈夫なのかな」
「何がだ」
「うさぎちゃん、本当に楽しそうに笑っていたから。いつもどこか遠慮がちな笑いしか見た事無かったし、何かが吹っ切れたのかもしれませんね」
だとすれば、梶が見たあの笑顔は梁瀬たちにとって珍しいものだったに違いない。けれども、そんな些細なことに優越感を感じてしまった自分に笑うしかない。
「あぁ、でも、吹っ切ったの梶さんのことかもしれないですけど」
「さらりと恐ろしいことを言うな」
縁起でもない言葉に思わず梶は顔をしかめたけれども、梁瀬はからかい混じりの笑みを浮かべる。
「まぁ、その覚悟もしておいて下さい。さてと、俺は仮眠室に行ってきます。午後からなら謝罪行脚、お付き合いしますよ」
「あぁ、頼む。それから仮眠室に行く前にあいつらに喝入れてから行け」
そう言って床を指差せば、梁瀬は呆れたような顔になる。階下には既に社員が就業していて、昨日のことで浮き足立っていることは安易に予想出来た。
それは言わなくても梁瀬にも予想がついたらしく大きく溜息をついた。
「まだ使いますか、俺を」
「あいつらお前の方が怖いらしいからな」
「あんたが社内放置しすぎて俺が言うしかなかったから怯えられてるんですよ。ったく、責任取って下さいよね」
口調は文句たらたらという感じではあったけれども、然程嫌そうな顔をしていない梁瀬に梶は少しだけ笑う。
「考えておいてやる」
「期待しないで待ってます」
それだけ言うと梁瀬は部屋を出て行った。一人残った部屋で梶は大きく溜息をついた。
これから梁瀬にも言ったように謝罪に回らなければならないだろう。セキュリティー会社としてセキュリティーシステムを止めたことは、恐らく重大な過失と取られるに違いない。早く謝罪に出なければならないと思いつつも、身体は重く疲れてもいた。だからこそ立ち上がる気にもなれず、梶はしばしの休憩を取るべく目を閉じた。
それから三分後、秘書の国立に叩き起こされることも知らず————。