梁瀬が運転する車の中で、梶がひたすら無言だったのは数年ぶりに聞いたラストと彼女の繋がりを考えていたからだった。沙枝は彼女とラストが会ったと言っていた。特徴から言ってもラストに違いないだろうし、沙枝が嘘をつく理由も無い。梁瀬が知らなかったところを見ると、彼女は今までにもそうやってラストからの接触を受けていたにも関わらず誰にも伝えていなかったのだろうか。それとも逆に五年ぶりの再会だったのだろうか。
基本的に他の誰でもいいが、ラストだけには彼女を渡すことは出来ない。あの男が彼女にさせたいことは、彼女にとってはマイナスにしかならないことだし、恐らく犯罪に絡むことも多い筈だ。そして、彼女を巻き込むことに微塵も悪いとは思っていないに違いない。
だが、そう言う意味では、彼女を会社に繋ぎ止めようとした自分も立場的には同じかもしれない。他人に指摘されるまでもなく、子供相手に大人げないことをしたものだと自分でも思う。
他の誰でもいい、か……よくは無いな。少なくとも彼女には幸せになって欲しいと思えるくらいの接触は今まであったのだから……。
そんなことを考えていると、ふと頭を過ったのは、岡嶋から電話が掛かってくる前の梁瀬との会話だった。
「そういえば、先の会話はどういう意味だ」
「何がですか」
「岡嶋と彼女は付き合っていたのでは無いのか?」
それについて梁瀬はすぐに答えることはせず、ちらりと梶に視線を向けてきてから溜息をついた。
「そうですね、毛先ほどもお付き合いなんてしてませんし、そういう関係になったことはありませんよ」
梶に対する梁瀬の言動は、うさぎがシステムセキュリティーを辞めて以来、一貫して突き放すような話し方だった。そして、今は更に突き放されている気がするのは気のせいではないだろう。
「結婚するんだろ」
「えぇ、色々な勘違いの上に成り立って」
「勘違いで結婚するものか」
結婚をするにあたって色々な形があることは分かっているが、少なくとも梶が生きてきた中で勘違いで結婚などという奇妙な話しは聞いたことが無い。
「実際、このままだとしますよ、あの二人。まぁ、梶さんには関係無いんでしょうけど」
言葉だけ聞けば何でも無いことのようだが、梁瀬の口調はかなり刺々しい。梶から見ても苛立っているのは一目瞭然だった。
「それにしても普通、会社のためでも女子高生落とそうと思います? 犯罪ですよ、犯罪。オレ的にはありえませんね」
先程から口調が大分砕けていることからも虫の居所が悪いことも梶には分かる。彼女がいなくなったことに起因するのかとも思ったけれども、言葉の端々からそうでは無いことは読み取れる。
「あの時は、喉から手が出る程あの技術が欲しかったからな」
「会社のためですからね。会社のためという理由だったら何でも許されると思っています? 人として最低ですよ。まぁ、今更でしょうけど」
「そんな気も無いのに、か」
「じゃあ、あったんですか?」
「さぁな、昔すぎて覚えていない」
覚えてないと言えば嘘になる。あの年頃特有の、少し脆く、そして彼女の大人びた透明度の高い感性に魅力が無かったかというと、それは嘘だ。だが、それが梁瀬が言うようなその気があったのかというと、それは少し違うように感じる。少なくとも、梶はあの頃のうさぎの世界を同じ高さで覗いてみたいと思っていたことは確かだった。
正直、あれから五年、今、彼女の技術に五年程前の魅力を感じるかと言えば、答えはノーだ。あの時、彼女があの年頃だったこと、あの年代だからこそ梶は伸びしろを期待していたからこそ欲しいと思った。だが、既に五年、彼女はネットに触れていないらしいことは教授たちの話しからは聞いて知っている。少なくとも、彼女の目指しているところは梶の会社とは違うところにある。
けれども、岡嶋との付き合いを知った時、梶は確かに今であれば彼女を会社に引き入れられると思った。梁瀬は岡嶋と彼女はそういう関係ではないと言っていたが、彼女と岡嶋の仲が修復したのであれば、また昔のように戻れると思っていた。けれども、実際には昔の彼女からは想像出来ないくらい手酷い拒絶を受けた。自分の思考も現実も酷くちぐはぐで、更に岡嶋や梁瀬が彼女といまだ付き合いがあることに困惑するしかない。
何かが間違えているのは梶にも分かる。けれども、そのキーを握っているのは恐らく隣にいるこの男に違いない。
「私は何を勘違いしている」
「それに関してはオレはノーコメントですよ。少なくともオレの口からは言えません」
「なら、何故勘違いのまま岡嶋と彼女は結婚しようとする」
長い溜息が静かな車内に落ちた。一瞬こちらを見た梁瀬は不機嫌さを隠さない鋭い視線を向けてきた。
「あんたの存在」
一言だけ落ちた低い声に梶は思わず眉根を寄せる。けれども、次の瞬間梁瀬は勢いよく腕を振り上げたかと思うと思い切りハンドルを殴りつけた。しっかりと反対の手でハンドルを握っていたのか、車が蛇行することはなかったが梁瀬は口を開くと勢いよく言葉を吐き出した。
「あー、もう、確かにオレも岡嶋も反省しなきゃならなねーけど、一番反省すべきはあんただ! あんた!」
まさに吐き捨てるようにそれだけ言うと、梁瀬はむっつりとした顔でそのまま口を噤んでしまう。引き結ばれた唇はもう何も言うまいとしているようにも見えて、梶はそれ以上質問を重ねることを諦めた。
一体、自分の何がいけなかったか、考えてみるけれどもどうにも分からない。だが、全てを分かっている様子の梁瀬が梶が悪いというのだから、原因は梶にあるだろうことは分かる。そうは言われても、梶が知った新事実は彼女と岡嶋は付き合ったことが無い、勘違いで結婚しようとしているくらいのもので…………いや、反省するのは自分?
勘違いしているのは自分で、反省するべきも自分となれば、根本的なところを自分は誤解しているのかもしれない。彼女が辞めた理由も岡嶋と付き合っていたからでは無く、尚かつ彼女の好きな人が岡嶋では無いのだとしたら……まさか。
「彼女が好きだったのは、私か?」
「今だけはあんたを上司なんて思えないから言ってやる。今頃気付いても遅いんだよ、バーカ」
冷めた目で子供みたいな言いざまに、梶としてはつい苦笑してしまう。けれども、梁瀬らしいとも思う。
「遅いのか?」
「どうせあんたにその気なんて無いんだろ。だったら、もうそのまま気付かないふりしてろよ。あんたのせいで、うさぎちゃんは友達も無くすし散々だよ。それに自分たちも一枚噛んだのかと思うと、本気で胸くそ悪い」
吐き捨てるような梁瀬の口調からも、本気で腹が立って仕方ないらしい。けれども、友達も無くすというのは梶には関係無い気がしないでも無い。
「友達って沙枝さんたちか。けれども、先程彼女を心配して」
「音信不通だよ。この間会ったって言ってたのも卒業して以来だったらしい」
それは初耳だった。この数年の間に沙枝と会うことはあったけれども、一度たりともそんな話しは聞いてもいなかった。勿論、梶も聞いたりしなかったから、まさかそんなことになっているとは思いもしなかった。
「……悪いことをしたようだな」
「そう思うなら今回の件が終わってから二度とあの子に会うな! あんただって拒絶されただろ!」
確かに梶は梁瀬がいない間に、麻紀に調査依頼をしてまで彼女と会った。あの頃よりも女性らしくなったと麻紀に聞いていたにも関わらず、彼女に会った時、息を飲むほど驚いたのは確かだった。そして梁瀬の言う通り手酷く拒絶された後、彼女に対して自分は何をしようとしたのか。岡嶋とのことを確認して、一体どうしようと思ったのか――――。
「昔、君が言ったように私は彼女に逃げられたんだな」
「当たり前だ、あんたの仕打ちを考えれば。馬っ鹿じゃねーの」
「そうだな、馬鹿だったかもしれない」
全てが勘違いの上に成り立っていたとはいえ、彼女には本当に辛い思いをさせたに違いない。少なくとも高校生相手にやっていいことでは無かったと今なら分かる。けれども、あの時は貴美の穴埋めをするために必死になりすぎていて、周りを見るだけの余裕が無かった。
沙枝とも上手く行かなくなったのは、恐らく沙枝と梶が婚約をしていたことが発端なのだろう。それにも関わらず、彼女を落とそうと躍起になっていた自分は、彼女の目にどう映っていたのだろう。
梶の言葉に梁瀬はそれ以上何かを言うことも無く、梶もそれ以上何も梁瀬には言えなかった。けれども、今度彼女に会った時にはきちんと詫びなければならない。その為にも彼女にはどうしても会わなければならず、掌を握りしめた。
何としても取り戻す――――。
話しは全てそれからだ――――。
決意を新たにした梶は目の前にそびえ立つホテルを挑むように睨みつけた。
梁瀬はかなり乱暴に地下駐車場へ車を入れると、すぐに運転席から飛び降りてエレベーターへと向かう。それを追って梶もエレベーターへと向かったが、エレベーターを待つのももどかしく、エレベーター横にある非常階段の扉を開けた。背後からは梁瀬が間をあけず走る足音が聞こえる。
「岡嶋はどこにいる」
「一階ロビーの喫茶室」
地下二階から一気に一階まで上がると、扉を開けてロビーにでればすぐ目の前が喫茶室だった。足早に中へ入れば岡嶋は一番奥の窓際に座っていたが、こちらを気にしていたのか、立ち上がると軽く手を上げる。梁瀬と共に岡嶋へ近付くと話しを聞く為に椅子へ腰を下ろした。途中、ウエイトレスが注文を取りに来たので岡嶋の目の前には既に用意されていたこともあり、二つのコーヒーを頼むと改めて岡嶋と向き合う。
「それで、どういう状況だ」
「細かいことはまだ全然。ただ、一緒に出て行ったのを見ていた係の人がいたので話しは聞けました」
「男と一緒だと言っていたラストか?」
「ラスト? 何故ここでラストの名前が?」
訝しむ岡嶋に説明したのは先に口を開いた梁瀬だった。
「丁度会社を出てる時に梶さんの元婚約者がきて、この間ラストらしき男にうさぎちゃんが絡まれてるのを見たって」
「いや……特徴を聞いたけど少なくともラストじゃないと思う。年代は四十代前半、目がたれ目で、サラリーマンでは無い感じだったって。でも、知り合いだったのは間違いない。席を外すのにメモまで係の人間に渡してあったくらいだから」
そう行って岡嶋が差し出してきたのはメモ用紙には「知人に会ったので外に出ています。正面玄関を出た喫煙所にいます」と簡単に書かれたものだった。
「うさぎちゃんに四十になる知り合いなんているか?」
「少なくとも俺は聞いたことが無い」
けれども、梶の脳裏に一人だけ四十代になる男が思い浮かんだ。そして、その男は彼女とも面識がある。
「……いる、ただ、サラリーマンでは無い感じだと言われると少し違うが」
「誰ですか、それ」
「お前も会っただろ、加賀谷だ」
言われて梁瀬はしばらく考えている様子だったが、ようやくその名前に思い当たったらしく顔を上げる。
「何であいつが今頃!」
「それが分かれば苦労は無い」
梶はすぐに携帯を取り出すと、電話帳の中から加賀谷の番号を見つけ通話ボタンを押した。名刺に書かれていた番号を一応念のためと思って入れてあったのが幸いした。これで繋がらないようであれば、うさぎを連れ去ったのは加賀谷の可能性が高い。
「加賀谷の会社から、うさぎちゃんにオファーがあったって言ってました。寒河江関係だからその場で断ったって言ってましたけど」
だとすれば、彼女を手に入れるために加賀谷が動いたのだろうか。だが、そこまでするほどあの会社がうさぎに執着しているとは考え難い。しばらくすると呼び出し音が途切れ、受話器から訝しむような声が聞こえた。
「はい、どちら様ですか」
「システムセキュリティーの梶だ」
途端に受話器の向こうで息を飲む音が聞こえた。それは果たして彼女を捕えたからなのか、ただ、梶の名前に対してなのかそれだけでは判断がつかない。
「一体、こちらへ何の用件でしょう」
けれども、次に聞こえてきた加賀谷の声は先程の動揺など微塵も感じさせない落ち着いたものだった。社長秘書などしていれば、それこそ動揺を隠すことなど安易なことでもあるに違いない。
「桜庭うさぎが消えた。心当たりは無いか」
「そう言われましても、うちはもう彼女から手を引いてます。はっきりとお断りされたので」
動揺を隠すくらい平然とするものだと思ったが、返ってきた声は困惑含みで、それは本当に知らないと言わんばかりのものだった。
「だが、四十代というとお前くらいしか心当たりが無い」
「四十代、ですか?」
微妙に声音が変化したのが分かる。思い当たる人間が加賀谷にはいるのだろうか。
「誰かいるのか」
「私の友人が彼女の大学の教授をしていまして、私と同年代です。でも、まさか……いや、ありうるのか」
自答自問している加賀谷に構うことなく梶は質問を投げつける。
「名前は」
「山口、山口徹、山口県の山口に徹するでとおるです。もしかしたら、彼ならあり得るかもしれませんね」
電話向こうの声に堅さは無く、どこか諦めたような響きすらあった。
「どういう意味だ?」
「彼はハングリーな人間で、色々なことを試さずにはいられないタイプの人間です。今回、人工知能の使い道について揉めて、来年からの教授職を下ろされたそうです」
「それがどう彼女に関係すると?」
「私が見た範囲では、彼女は唯一山口と対等に話せる人間です。彼女のことを話す山口はいつになく機嫌が良かった。自分の楽しみの為に他人を巻き込むくらいどうとも思わないタイプの男です」
それは聞いているだけでも嫌な符号だった。もし、山口という男が自分の楽しみのために彼女を巻き込んだとしたら、それはとても看過出来るものでは無い。
「そいつの家はどこだ」
「いつも大学で会っていたので現住所は分かりません。一応、連絡先だけはお知らせします」
そう言って加賀谷は一つの電話番号を教えてくれたので、簡単な礼をした後梶は電話を切った。
酷く胸騒ぎがする。すぐに言われた電話番号に掛けてみたけれども、現在は使われていませんというアナウンスが流れるばかりで繋がる気配は無い。様子を窺う二人に梶は説明すると、電話をしている間にきたコーヒーに口をつけることは無く椅子から立ち上がった。
「どこへ」
「社に戻る。山口について調べる」
「自分の楽しみのために他人を巻き込んでも構わない人間が二人。仲間という可能性は考えられませんか?」
岡嶋の考えに一つ頷きを返すと、梶はレジに五千円札を置くとそのまま足早に先程と同じように昇って来た階段を駆け下りる。背後から「お客様!」という声は聞こえたけれども、振り返ることはしない。
「梁瀬、パソコンは?」
「持ってます」
「車ですぐに調べろ」
「分かりました」
梁瀬は後部座席に乗り込むなり鞄を掴むと、パソコンを取りだし電源を入れている。助手席へと乗り込もうとする岡嶋に、梶は視線を向けると声を掛けた。
「岡嶋、お前はここに残れ。芸能人ともなれば顔が割れてて動きにくいだろ」
「いやだなー、今更仲間はずれにしないで下さいよ。それに婚約者がいなくなってここで呆然としてる方が問題ありでしょ」
「好きで結婚する訳でも無いのに問題ありか?」
途端に岡嶋の顔から笑顔がするりと抜け落ちた。
「どういう意味ですか?」
「色々聞いた。とにかくここにいろ」
「梁瀬どういうこと?」
「あー、もう、今話し掛けるな!」
話し掛けた岡嶋も話し掛けられた梁瀬も苛立った様子で、どうにも収拾がつきそうに無い。梶は溜息をつくと幾分投げやりな気分で岡嶋に声を掛けた。
「もういい、早く乗れ」
正直、こんな所で言い争いしている時間は無い。それに対して岡嶋はそれ以上何も言うことなく助手席へと乗り込み、梶はすぐに車のアクセルを踏んだ。
「山口徹、医療ネットワークに人工知能をプログラムした第一人者。そこから名前が上がって今の教授職についたみたいです。他にも色々講演やったり、学会に発表したりもしてるみたいだけど、賛否両論ってところですね。うさぎちゃんが取ってる人工神経学の教授らしい」
「あぁ、それならうさぎちゃんから聞いたことがある。つかみ所の無いふざけた人らしいけど、技術が高くて勉強になるって言ってた。その男が山口であれば、うさぎちゃんが何の警戒心もなくついていく理由も分かりますね」
「だよなー、じゃなきゃ、うさぎちゃんがホイホイついていくとは思えないもんな。ラスト相手だったらすぐ傍に岡嶋いるからついていかないだろうし」
「そう思ってくれているといいんだけどね」
そう言って肩をすくめる岡嶋の言葉には幾分引っかかりを覚えたが、今はそれを追求する気分でも無い。手持ち無沙汰なのか、岡嶋は携帯をいじってうさぎに電話を掛けているのが運転席からも分かる。
「岡嶋、運転代われ。私は大学の教授連中に山口について訪ねてみる」
「分かりました」
返事を聞くや否や、梶は多少強引に路肩へ車を止めると運転席を降りた。同じように助手席を降りた岡嶋と交代すると、助手席へ収まるなり携帯を取り出し繋ぎのある教授に電話を入れる。
昔なじみの教授は山口をよく思っていないらしく、頼んでもいないことまで話し出す。それを軌道修正しながら聞いて行くと、どうやらモラルに反することを実験しようとして大学を追い出されたらしい。その内容についてはしばらく口を噤んではぐらかしていたが、人の命が掛かっていると脅せば口止めをしてから話し始めた。
「ウイルスだ、コンピューターウイルスに人工知能を入れたら、どのような発展を遂げるかというものだ」
聞いた途端に、山口、ラスト、そして彼女の繋がりが見えた気がした。それから山口の住所、家の電話番号を聞き出し適当なお礼と、口外しない旨を伝えてから梶は電話を切った。付き合いの長い教授に対しては失礼な態度ではあるが、後日挨拶をすれば恐らくあの教授であれば笑顔で許してくれるだろう。少なくとも人の命が掛かっていると言ってあるのだから、説明すれば分かってくれるに違いない。
「どうですか? 分かりましたか?」
「あぁ、山口が研究しようとしたのはコンピューターウイルスだ。そこに人工知能を埋め込みたかったらしいが、それに反対されて大学を追われることになったらしい」
「ならうさぎちゃんは」
「間違いなく、それをプログラムするために連れて行かれたとみて間違いないだろう」
ネットには繋いでいないが、プログラムは組んでいたと聞く。ただ、それがどれくらいのレベルなのかはよく分からないが、理由として思い当たるのはそれくらいしか無い。
「梁瀬、今から言う住所に山口は現存するのか確認しろ。それから銀行口座の差し押さえ」
「無茶言わないで下さいよ! 社用パソコンでもハッキング向きの物じゃないんですから」
「だったら社に戻ったらすぐに差し押さえしておけ」
「覚えておきます」
即座に答えた梁瀬に小さく頷き、梶は先程聞いた山口の家に電話をしてみたが、やはりそちらも現在使われていませんとアナウンスされて落ち着かない気分で電話を切った。
「これからどうしますか?」
「取り合えず、三人の居場所を特定しないことにはどうにもならない。だから一度社に戻ってからだ」
岡嶋の問い掛けに梶が答えれば、それ以降車内に沈黙が落ち、梁瀬がキーを叩く音だけが車内に響く。そんな中で口を開いたのは運転している岡嶋だった。
「梁瀬にどこまで聞きました」
途端に後部座席でキーを叩いていた音も止まる。
「彼女が私を好きだったということまでは分かった」
「直接言った訳じゃねーかんな」
すぐに梁瀬の怒ったような声が聞こえてきて、それに対して岡嶋は大きく溜息をついた。
「で、うさぎちゃんに対してどうするつもりで?」
「謝罪する」
今の梶なら高校生のうさぎにあるまじき行為だったという自覚はある。ただ、謝って済む問題では無いかもしれないが、知ってしまった以上素知らぬふりはもう出来ない。
「それだけだったら二度と会わないで下さい。謝罪したら梶さんはそれはもう楽になるでしょうね」
「どういう意味だ」
確かに謝罪を受け入れられても彼女を傷つけた事実は変わらない。けれども、岡嶋のニュアンスはそれだけでは無いように感じる。
「腹立たしいことに、あの子はまだあなたのことが好きなんですよ」
「……まさか、あれから五年も経つ」
思わず運転席に座る岡嶋へと視線を向ければ、常に無く無表情になっている岡嶋の顔から感情を読み取ることは出来ない。
「だから腹が立つんですよ。こんな軽薄な男なんて忘れたらいいのに」
「お前は、彼女が好きなのか?」
問い掛けた途端、岡嶋に鋭い視線で睨まれた。元々温厚な顔をしているだけに、その睨みには人を圧倒するだけの強さがあった。運転していることもあって、それは一瞬のことだったが、梶は確かにその一瞬、岡嶋の視線に威圧された。
「えぇ、好きですよ。妹みたいに」
「妹? それなのに結婚か?」
「えぇ、あなたから守る正当な権利が欲しかったんで。もっとも、うさぎちゃんに迷いはあるみたいですけど」
意思のはっきりしている彼女みたいなタイプでも、さすがに結婚ともなれば迷いもするだろう。
「普通はそうだろ」
「普通じゃないあなたがそれを言います?」
逆に問い掛けられると梶としては黙るしかない。梁瀬との話しを岡嶋にした訳でも無いのに、どこかあの会話を聞いていたような口ぶりの岡嶋に眉根を寄せる。恐らく梁瀬が言っているのは沙枝と婚約していた時のことを言っているのだろうことに気付き、梶は小さく溜息をついた。
「お前にも分かるだろ」
「さぁ……で、改めて聞きますけど、あなたはうさぎちゃんをどう思ってます?」
それに対して、梶は答えを持っていなかった。いや、持っていないというよりかは、答えが分からないというのが正しい。
「梶さん、社長室であの記事読んだ時、何考えました? あの記事、折り目がつくくらい何度も読んでましたよね」
背後からの声に振り返れば、梁瀬はパソコンに視線を落としたままで梶の方は見ていない。
「ホッとした」
「何で」
「彼女が幸せになるなら、と」
何故か追いつめられている気分になるのは二対一だからなのか、それとも自分自身にどこか負い目があるからなのか、梶としては複雑な心境だった。
けれども、先程から考えていて分かったことが一つある。彼女と大学で会ったあの時、梶は確かに言おうとした。岡嶋との仲が修復したのであれば、うちに来ればいい、と。けれども、技術としては梶は必要としていない。それにも関わらず、梶はうさぎを手元に置いておきたいと思った。その真意は……彼女に興味があるからに他ならない。
だがそれが愛だの恋だのという話しになると途端に難しくなる。そういう感情を持ったのは、果たしてどれほど昔のことか……学生時代まで遡らないと記憶が無いことに梶は一人苦笑した。
ずっと貴美と一緒に走り続けていた。そして貴美がいなくなってからは会社を、貴美が残したシステムセキュリティーを守るためだけに走っていた。だから、自分には全くそういう感情が無くなったとばかり思っていたがそういう訳では無かったらしい。
分からない、というのは感情が全く無いこととは違う。
「子供だと思っていたんだがな」
溜息と一緒に零した言葉に岡嶋の冷たい言葉が返ってくる。
「きちんとうさぎちゃんは女性ですよ。もう、女の子じゃない」
「あぁ、会ったから分かってる」
「で、結論は?」
「時間を作って彼女にきちんと答えを返す。それから先は彼女次第だ」
彼女が自分を好きだというのであれば、謝罪と共にその答えも用意しなければならないだろう。知ってしまったからには無視することは出来ない。
「どういう答えか俺たちは聞けないと?」
「当たり前だ、何でお前らに先に言わないといけないんだ。第一、今はそれを考えてる時間が無い」
結論が出てしまえば、梶にとって悩むべきことはもうそこではない。とにかく連れ去られた彼女を助け出すことが第一になる。
「岡嶋、あれからハッキングは?」
「してませんよ、貴美さんにも言われてましたから」
まぁ、芸能人である岡嶋であればその判断は妥当だろう。正直、岡嶋に問い掛けはしたものの梶は最初から余り期待もしていなかった。
「そうか。梁瀬、戻ったら銀行の差し押さえをしてから山口の使っていた携帯の利用履歴漁れ」
「了解、梶さんは?」
「彼女の携帯のGPSがどこで切れたか確認する。それからあいつらの逃亡先だ。彼女を連れているなら国内にいるだろ。彼女はパスポートも無いだろうし」
あっさりと梶の言葉を遮ったのは運転している岡嶋だ。
「ありますよ。先月、学会の手伝いで米国に行ったのでおみやげ貰いましたから」
「あ、そういえばチョコとクッキー貰った」
その発言だけで、彼らの間にそれなりの付き合いがあることは分かる。そして、本当に自分だけが蚊帳の外に置かれていたのだと知る。
「なら、海外逃亡もありか。岡嶋、空港のカメラハッキングするからカメラでそれらし人間がいるか探せ。私は山口とラストの渡航歴と周辺繋がりを探る。それから都内各所にあるNシステムで追跡調査をする」
「さすがにそれは無謀でしょ」
そんな答えを返して来たのは後ろに座る梁瀬で、振り返れば唖然とした顔をしている。けれども、それに対して梶は軽く両手を上げる。
「調べるのは私じゃない、プログラムだ」
「これから組むつもりですか?」
「二人の写真はあるんだ。骨格だけ読み取り合致するものだけはじき出していくようにすればいい」
「あんた、本当に無茶苦茶な人ですよね」
呆れたような梁瀬に梶は不敵に笑い返す。恐らく、彼女でも同じ手を考えるに違いないと梶は確信している。いや、少なくともこのアイデアは、彼女と話していた時に彼女の言った言葉が元だ。
「彼女ほどじゃないさ」
「だから会社に必要と?」
「それとこれとは話しが別だ。だが、いまでもあのアイデアが湧き出るのだとしたら会社としては欲しいところだ」
「……呆れて物が言えないってこのことだと俺は今、猛烈に痛感してますけど」
呆れた口調を隠そうともせずに運転する岡嶋が言うのを聞いて、梶は何も言うことはしなかった。
数分もすれば社へ到着し、エレベーターが開いた途端に泣きついてきたのは秘書の国立だった。
「社長、あちらこちらでウイルスが発生している様子で、社員から動揺の声が上がってます」
「うちのシステムでか?」
「はい、そうです」
足早に梶は社長室のパソコンを立ち上げれば、立ち上げている最中に電源が落ちる。再び自動的に電源が入ったかと思えば、既にエラー画面が表示されていて、そこには「The rabbit was captured」という文字が表示されていて梶はその画面を睨みつける。
「先手を取られたか。恐らくラストの仕業だな、これは」
「うさぎを捕まえましたって、ふざけんなよ!」
画面に向かって怒鳴りつける梁瀬の肩を掴むと、力任せに自分へと向けさせる。
「お前は今から社内対応にあたれ」
「でも」
「このウイルスが外部に漏れたら不味い。社内の人間がそんなへまやらかすとは思えないが、もし、他にもあいつらがどこかに仕掛けていたとしたら、社員の中にもうちから漏れたと危惧する奴も出てくる筈だ」
「でも、俺は」
「いいよ、梁瀬がやる予定だった携帯利用履歴は俺が調べる」
どこか諦め含みの表情で言い出す岡嶋に梁瀬は困惑しているし、梶としても思わず眉根を寄せる。
「でも、お前」
「してなかった訳じゃなかったんだ。それくらいはしてた」
「一体何のため」
目的も無く、岡嶋がそんな危ない橋を渡るとは思えない。少なくとも、そういう計算の出来ない男では無い。
「もし、梶さんから連絡が来た時のために」
「お前、それは……」
続く言葉を梁瀬は飲み込んだけれども、名指しされた梶としてもさすがに顔を顰めたくなるような理由だった。確かに梶の存在は彼女にとってマイナス要因だったに違いないし、今現在梶はそれを理解している。けれども、それは果たしてプライバシーを無視してまですることだろうか。確かに自分たちはハッキングを行うが、友人知人については原則としてハッキングを行わないのは暗黙の了承だ。それは岡嶋にだって分かっている筈だ。
けれども、今はそれにどうこう言っていられる事態でもない。
「それについては、また後だ。梁瀬、そっちは頼んだぞ」
「了解」
「岡嶋はこっちだ」
梁瀬をそこに置いたまま社長室を岡嶋と共に出ると、作業場である部屋に入る。常時稼働しているパソコン上の全てにうさぎは捕まえましたの文字が踊っていて、目障りなこともあり稼働していたパソコンの電源を落とした。
「遣り方は分かるな」
「大丈夫です」
「それならこのパソコンを使え」
梶が指差したのはノートパソコンだったけれども、岡嶋は文句を言うこともなくそこへ座りパソコンの電源を入れた。このパソコンは基本的にハッキング用のもので、社内ネットワークには繋がっていない。
岡嶋をそのままに梶はいつも自分が使っている机に座ると、引き出しの中からノートパソコンを取り出すと電源を入れてから一旦立ち上がり、社内ネットワークへ繋がるケーブルを引き抜いた。その足で書棚にあるファイルの中からラストの顔写真を取り出すと、スキャナーで読み取り、山口の写真はネット上から引っ張ってきた。
一旦パソコンへ向き直り大学のシステムへ潜り込み山口の使っている口座を確認すると、手早く銀行のシステムに潜り込んで口座差し押さえの処理をしてしまう。数千万単位の残高から見ても、恐らくこれがメインバンクに違いない。
それから改めて、警察でも使っている骨格測定ソフトで二人の画像を読み込ませて骨格のみを抜き出して行く。そこまで終えると、小さく溜息をついてから集中に入る。
彼女と話していた時に既に頭の中に仕様書は出来上がっていた。だから、それをプログラムに形を変えるだけだ。梶の十本の指がキーボードの上を走り、画面にはプログラム言語が次々と表示されていく。視線はモニターに釘付けのまま、一気にプログラムを組み上げてしまうと、ノートパソコンをネットに繋げる。
それから警察のネットワークをハッキングしてからNシステムの中に作ったばかりのプログラムを流し込んだ。勿論、ダミーファイルを作ることも忘れずに実行すれば、すぐにプログラムがNシステムから送られてくる情報の解析を始める。ヒットすれば音が鳴るように設定したからこれで問題は無い筈だった。
「梶さん、出ました」
岡嶋の声に一旦立ち上がると岡嶋の使っているパソコンを覗き込む。そこに表示されているのは電話番号一覧で、どうやら山口のらしい携帯は頻繁に電話での遣り取りがあったようだった。そして番号はまちまちで、踊らされているのか、本命があるのか判断がつかない。
「この番号全て、持ち主情報をピックアップしろ」
「分かりました」
確かに岡嶋は自己申告していた通り、ハッキングは続けていたに違いない。そうでなければ、こうしてデータを引き出すことは難しい。五年でネットワーク回りは革命的に進化している。それに対応出来るということは、それだけ岡嶋もネットに触れていたということの証明でもあった。
そんな岡嶋の手腕を惜しいと思ってしまう自分は、自分が思っていたよりも欲深いのかもしれない。けれども、既に芸能界という道を見つけた岡嶋にそれを伝えることはしない。
続いて梶は片隅に置かれている一年程前まで使っていた型落ちのノートパソコンを手にすると、電源を入れてネットに繋ぎすぐに山口やラストの渡航歴を調べに入る。けれども、どちらもあちらこちらに行っているらしく、これといって重なる渡航歴は無い。
だとすれば、繋ぎを取ったのはどちらが先だったのだろう。聞いた話しだけで判断するには心もとないが、それでもどちらもタチの悪さは変わらない気がする。
「梶さん、ピックアップしましたけど、半分は飛ばしの携帯ですね」
そう言って岡嶋が持ってきたのは電話番号をプリントアウトしたもので、一覧には蛍光ペンでラインが引かれている。
「これが全部飛ばしの携帯か?」
「えぇ、それでこっちは海外に電話している分です」
「ということはやはり逃亡先は海外か? だとしたら成田か。いや、羽田も国際便は数少ないがあるか」
不意にNシステムに潜り込ませていたプログラムから警告音が鳴り出し、梶は慌ててそちらへと視線を向ければ一枚の写真が画面に大きく映し出された。運転席に座るのはラスト、助手席には山口の姿が映っていて梶はすぐに画面を閉じるとキーを打つ。
「今千葉の一般道を通った」
「高速は使ってないってことですか?」
「あぁ、何故だか分からないがそういうことらしい」
一体どのような意図があって二人が一般道を利用しているのかは分からない。もしかしたら、出発飛行機の時間合わせの為かもしれない。
「Nシステムで写真が撮れることを知らないとか?」
「それはないだろ。Nシステムで顔写真が撮られることは今や常識で誰もが知ってる。それをネットに精通するラストが知らない筈も無い。岡嶋、お前成田に行けるか?」
ハッキングを行うのであれば、正直ここを動きたく無いところだった。ノートパソコンを持ち込む手段もあるが、ハッキング用のソフトを入れているパソコンを何らしかあって警察に押収されてしまえば面倒なことになる。実際に、飛行場へ向かったとしてもどこに二人がいるのか確認しなければならないし、いざとなれば飛行機の出発を遅らせるためにハッキングを必要とする可能性もある。そうなると選択肢は無く、ハッキング出来る梶が残り、岡嶋を成田に向かわせることしか出来ない。
「いえ、梶さんが行って下さい」
「お前にはハッキング出来ないだろ」
「腐っても芸能人なんで成田なんて人の多いところで暴れたら問題になりますよ。そうでなくてもラストや山口も絡んでいるなら尚更、うさぎちゃんを記者連中の餌食にするつもりはありませんし」
恐らく、足枷さえなければ自ら成田に向かいたいに違いない。けれども、それを我慢するのもうさぎのためかと思うと、梶は自然と溜息が漏れた。
「彼女はお前にとって何だ」
そんな問答をしている場合では無いと分かっているのに、梶の口からつい飛び出した質問だった。けれども、岡嶋は苦笑しつつも僅かに迷いを見せてから口を開く。
「失った家族、ってところでしょうか」
岡嶋の家には両親が健在で失ってはいない。だとすれば、気持ちの問題なのだろう。
「俺、間違えた方向にうさぎちゃんを溺愛しちゃってる自覚はあるんで、今は何も言わないで下さい。とにかく空港のカメラに繋いで下さい。ここから携帯に指示出します」
「……分かった」
正直、ここにハッキング要員がいないことは手痛いことだったが、今更何かを言っても岡嶋が動くとは思えない。だから梶は渡航歴を調べていたパソコンで空港の監視カメラに繋ぐと、すぐに椅子から立ち上がった。
「あっちのパソコンの警告音がなったら、ここを押してどこのシステムに引っかかったのか確認しろ。あいつらが成田から離れるようなら連絡を入れろ」
「分かりました」
返事を聞くよりも先に内線電話を取ると、警備部に連絡して非常召集を掛けて成田へと向かわせる。そして梶も机の上に置いてある車の鍵を掴むと扉に向かって足早に歩き出す。
「気をつけて下さい」
背中で受けたその声に短く「あぁ」と答えると、扉を開けてその部屋を出た。エレベーターに乗り込み、すぐに駐車場階へのボタンと、一階下のボタンを押す。すぐに階下へ到着し、扉が開いた途端に梁瀬の怒号が飛んでいるのが聞こえて、安心して梶は扉を閉めた。
恐らくここは梁瀬に任せておけば、あいつのことだからどうにかするに違いない。別段深く考えることもなくそう思った自分に梶は小さく苦笑する。五年という月日は、梶が自覚しないままに梁瀬との信頼関係を作り上げていたらしい。
そんなことを考えつつも地下駐車場に到着すると、すぐさま車に乗り込みエンジンをかけるとギアをドライブにいれてアクセルを踏む。駐車場内では些か乱暴な運転だと自覚しながらもビルを出て車を常よりスピードに乗せて走らせた。