うさぎは姿見の前に立つと、全身をチェックしてみる。いつものようなデニムでは無く、薄茶色のワンピースは何だかうさぎには似合わない気がするのは見慣れないせいかもしれない。その上に白いボレロを羽織れば、それなりに見栄えはするのか気になる所だけど、うさぎが持っているスカートはそう多く無い。選択肢は少なくて、これしかないという状況で小さく溜息をついた。
昨日、岡嶋から連絡があって結婚式場を見に行こうと誘われた。遠回しにもう少し待って欲しいということを伝えたけど、常に無い強引さで岡嶋は待ち合わせの時間を決めてしまい、うさぎはいまだ迷っていた。行くべきか、行かざるべきか、そもそもこの結婚自体、こんな気持ちであれば断った方がいいんじゃないかという気すらしていた。
岡嶋がうさぎに対してそういう感情が無いことは知っている。少なくとも大学で話し掛けてくる男子学生たちと比べたら、それはすぐに分かることでもあったし、梁瀬もそういうことを言っていた。だから、梶から逃げる為には適任者なのかもしれないけれども、ただ、逃げるという目的で結婚というものを軽く考えていいのかうさぎには分からずにいた。
それに岡嶋の芸能人としても立場も気にかかる。昨日、一昨日はうさぎの家にインタビューアーが数回訪ねてきて、最初に出たきりうさぎは居留守を使っている。正直こうなると身動きも取れず、梁瀬が心配して梁瀬から話しを聞いた美樹がうさぎの家に差し入れをいれてくれたのは昨日の夜のことだった。
岡嶋が芸能人であることは分かっていたけれども、ここまで大事になるとは思っていなかっただけにうさぎの腰が引けているというのもある。どうしようか鏡の前で悩んでいれば、またもやインターフォンが鳴る音が聞こえてきて、うさぎは思わず身を強張らせる。息をひそめるようにしていれば、外から聞こえて来たのは岡嶋の声だった。
「うさぎちゃん、用意出来た?」
「あ、はい」
慌てて玄関の扉を開ければ、そこにいたのは苦笑している岡嶋だった。
「ごめん、美樹ちゃんに聞いた。色々と凄かったみたいね」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃなかったでしょ。嘘つかない」
あっさりと見抜かれてしまってうさぎは小さく溜息をついた。
「どうして岡嶋さんにはすぐ嘘だってバレちゃうんですかね」
「付き合いの長さ、かな? さて、行こうか」
手を差し出されて、うさぎはその手に触れることをためらう。
「あの、岡嶋さん」
「うん、話しは車で聞くから、取り合えず出て来てくれると嬉しいかな」
そう言って岡嶋はちらりと視線を横へと向ける。うさぎも同じように視線を向ければ、そこにはカメラを構えた女性や男性がいて、すぐにそれが記者だと分かる。
「あの、でも」
「取り合えず、俺の顔立てると思って出て来てくれると助かるかも」
岡嶋に苦笑されつつ言われたら、うさぎもそこまで意固地になれる筈もなく、差し出された手を素直に掴んだ。岡嶋と手を繋ぐことに嫌悪は無い。どちらかというと、うさぎにとっては安心出来る手で、もしかしたら兄がいたらと想像させる優しいものでもあった。
玄関に用意しておいた茶色のリボン付きパンプスに足を入れると、岡嶋と共に外へと出た。
「ごめんね、少しの間だけ我慢して」
握られた手を離すことなくうさぎは玄関の扉を閉めて鍵を掛けると、その足でアパートの前に止めてある車の横に立つ。途中、何度か写真を撮られたことには気付いたけど、それに対して反応するようなことはしない。内心は落ち着かない気持ちと不安がない交ぜになっているにも関わらず、こういう時に表情が表に出ないというのは特だと内心苦笑する。
岡嶋が手早く助手席の扉を開けてくれて、うさぎは緊張しながら車へと乗り込んだ。余り人目に晒されるのは好きじゃなくて、車に乗り込んだ途端に溜息が零れた。運転席に回り込んだ岡嶋が車に乗り込んでくると、やっぱり苦笑しててすぐにペットボトルの紅茶を差し出された。
「ごめんね、変に注目集めちゃって」
「すみません、私こそ余りテレビを見ていなかったから色々と認識不足で」
「うーん、うさぎちゃん、大学が忙しかったからね。でも、認識して敬遠されるくらいなら、知らないままでいて欲しいかな」
芸能人になるということは、それだけ人目を集めたいのだとばかり思っていたけれども、岡嶋にとっては違うのだろうか。それを不思議に思いながら、素直にお礼を言ってペットボトルを受け取る。
「取り合えず、今日だけでいいから婚約者のふりをしていて貰えるかな。まぁ、結婚するんだから今日だけというのも変だけど、明日には事務所の方が押さえてくれる手筈になってるから、こうして記者がウロウロすることは無くなるよ」
「それは助かります。正直、出掛けられなくて困ってたりします」
「だよね、ごめんね」
「いえ、謝るのは私の方で……あの、本当に結婚するんですか?」
「ん? 俺だと不満?」
笑顔でうさぎの問い掛けとは違う意味を返されてしまい、慌てて首を横に振る。
「いえ、不満とかじゃなくて……いいのかなって思って。こういう理由で結婚って」
「いいんじゃないの。うさぎちゃんの夢を壊すようで悪いけど、誰もが好きな相手と結婚する訳じゃないから」
それは政略結婚のことを言っているのか、それとも他にも何か理由があったりするのか、うさぎには思いつかなかった。けれども、今の状況は自分の弱さが招いたことじゃないかと思うと、岡嶋に申し訳なく思う。
「あの、やっぱり」
「断らないでね。俺の立場本当に無くなっちゃうから」
そう言われてしまうとうさぎとしては頷いてしまった以上、何も言えなくなってしまう。何よりも、岡嶋の不利益を被ると聞けばやっぱりうさぎは口を出せない。
「正直、籍は入れなくてもいいかなとか思ってたんだけど、何かあった時にはやっぱり入っていた方がいいと思うから」
その何かが梶に関わることであるのはうさぎにも分かった。大学までやってきたのだから、いずれまた梶はやってくるかもしれない。けれども、その時に岡嶋が夫として立ちふさがるのであれば、梶は恐らくうさぎに近付くことはしないだろう。そこまで強引なことはしないとうさぎは思いたいし、願ってもいたけど、それを絶対と言いきるだけの自信は無い。
「一応、何カ所か回るつもりだけど、式場とドレスはうさぎちゃんが好きなのを決めていいから」
「そう言われても、余りそういうの興味が無くて」
「そっか、じゃあ俺が決めてもいい? こういうのってコスプレみたいで楽しそうじゃない?」
予想もしていなかった言葉が岡嶋の口から出て来て、思わずうさぎは飲みかけていた紅茶を噴き出しそうになる。
「お、岡嶋さん?」
「えー、だって、折角だから楽しまなきゃ損でしょ」
笑顔でちらりとこちらに視線を向けた岡嶋に、うさぎはつい笑ってしまう。確かに、こんなことは普通にあることでは無いし、普通の人であれば一生に一回しかないことだ。けれども、こんな状況であれば岡嶋の言う通り、楽しんだ者勝ちなのかもしれない。そう思えばうさぎの気持ちは少しだけ軽くなる。
会話をかわしながらも渋滞に巻き込まれることなく、岡嶋はホテルの地下駐車場へ車を入れた。
「お、岡嶋さん、ここは無理です」
「どうしたの?」
「確かに楽しむのはいいんですけれども、こんな高級なところ」
岡嶋が車を止めたホテルは都内でも高級と言われる一流ホテルで、ホテルなんて興味の無いうさぎですらその存在を知っている。普通に宿泊するだけでも十万近くするという話しも聞いたことがあって、それだけでうさぎには尻込みする理由としては十分だった。
「大丈夫、事務所からお金が出るから」
「でも」
「まぁ、必ずしもここで結婚式って訳じゃないから、取り合えず見に行こう」
運転席から車を降りた岡嶋はうさぎがシートベルトを外している間に助手席へと回り込み扉を開けてくれる。こういう所は本当に紳士だと思う。
「有難うございます」
「どういたしまして」
手を差し出されて素直にその手を掴みながらもうさぎの心境は複雑でもあった。今はいい、けれども、もし岡嶋にそれこそ結婚を考える相手が出来たら窮地に陥るのは岡嶋なんではないかと思うと、果たして楽しむだけで本当にいいのかと迷いが再び頭をもたげる。
手を繋いだまま鍵を閉めた岡嶋は、うさぎの隣に並んで地下からホテルへと入った。エレベーターに乗り込み三階へ到着すると、広いロビーがあり、そこには何人かの制服を着た女性や男性が立っていた。
「いらっしゃいませ、岡嶋様ですか」
「はい、今日は宜しくお願い致します」
軽く頭を下げる岡嶋に習ってうさぎも軽く頭を下げると、すぐに部屋へと案内される。十畳ほどの個室にはテーブルがあり、傍らには植物も置かれていて窮屈さは全く無い。そんな中で交わされる打ち合わせ内容は、驚きばかりで招待客の人数を岡嶋が口にした時には度肝を抜かれた。
「あ、あの、岡嶋さん」
「はい、落ち着いて深呼吸」
言われるままに深呼吸を繰り返して落ち着いたところ、担当の女性に優しく微笑まれてうさぎは立つ瀬が無い。
「まぁ、一応、こういう職業だから呼ばないといけないんだよね。面倒だけど付き合ってくれないかな」
そこで付き合えないとうさぎが言える筈もなく、黙って頷けば岡嶋は穏やかな笑みを浮かべた。実際、面倒なことに付き合わせてるのはうさぎの方で、別に岡嶋には結婚する理由なんてものは一つも無い。何度か口を開きかけたけれども、岡嶋の笑顔でかわされてしまい、そのまま打ち合わせは終わってしまう。
話しの流れからすると、どうもこの式場でやっぱり結婚式を上げることになりそうで、金額を聞いただけでもうさぎはクラクラした。担当者と共に部屋を出ると、ラウンジでコーヒーが用意されると言われて、出来るだけラウンジの端でうさぎは岡嶋と共に腰を落ち着けた。
「あの、今更ですけど、無しっていうのは無しですか?」
「今は無しかな。一応、建前的に結婚式だけは上げて欲しいと思ってるけど。それから先はうさぎちゃんがしたいようにしていいんだよ。籍を入れたく無いなら入れる必要も無いし。ただ、何かあった時の保険かな、籍は」
「あの、どういう意味で?」
「もし梶さんに強制的に連れて行かれても、家族ということで捜索願やらその他諸々出せる立場になるでしょ。それにね、そういう意味では芸能人って最強だから。テレビの影響力は怖いよー」
そう言って笑う岡嶋さんに、うさぎはもう何と言えばいいのか分からなくなる。こうして見ているだけでも岡嶋はどこか楽しそうで、だからこそ岡嶋に強く反対出来ないという側面もあった。そう、結婚話が上がってから岡嶋は本当に楽しそうに見える。その理由はうさぎに分からず、ただ困惑するばかりだ。
「あの、本当に迷惑じゃありませんか?」
「迷惑だったら最初から言ってないかなぁ。うさぎちゃんだから言うけど……実は次のドラマ、ホテルがメインなんだよね」
「ホテル、ですか?」
「そう、だから色々見学出来ていいかなーとか思っててさ」
相変わらず岡嶋の表情は楽しげで、いいのかなとうさぎまで釣られそうになってしまい、慌てて頭の中でストップを掛ける。
「本当にそれでいいんでしょうか?」
「いいんじゃないかな。少なくとも俺にはお得だし」
間違いなく気は使われている。そして、そういう気の使い方をする岡嶋をうさぎは嫌いじゃない。岡嶋を見上げれば、穏やかに笑いながらうさぎを見ていて、うさぎも少しだけ笑う。
「岡嶋さんにとって、少しでもお得があるならいいです」
本気でそう言えば、岡嶋の手がうさぎの頭を撫でてくれる。
いつか、この人に……いや、この人たちにどういう形であれ恩返しが出来たらいいと思う。一生かかってもいいから、何かを返したいと初めて思う。勿論、口にすれば岡嶋にも梁瀬にも、そして美樹にもいらないと即答されそうだけど、でもうさぎは何かをしたいとここまで強く思ったのは初めてのことだった。
「岡嶋様、少し宜しいでしょうか」
先程の担当者に呼ばれて岡嶋が席を外してしまうと、うさぎはのんびりとコーヒーに手をつけた。家で飲んでいるインスタントとは違い、やっぱりこうして豆からいれたものは美味しく感じる。
不意にテーブルに影が落ちてうさぎが顔を上げれば、そこに立っていたのは既に見慣れた顔だった。
「教授、どうしたんですか?」
「打ち合わせがあったんだよ。そしたら、お前さんの姿があそこから見えたから。何だ、こんな所に一人か?」
そう言って山口が指差したのはガラス向こうにある正面玄関のロビーで、確かにあそこからならうさぎの姿はよく見えたに違いない。
「違います、結婚式の打ち合わせです」
「それじゃあ岡嶋も一緒なのか? 花嫁一人にするなんて仕方ねーなー。暇なら一服に付き合え」
強引なのは相変わらずでうさぎが断ろうとしたところで、山口は小脇に抱えていた茶封筒の中から書類を一部取り出した。
「読みたいだろー、これ」
突きつけられたタイトルは、先日の学会で発表されたらしきレポートの一つで、うさぎが一番興味のあるレポートでもあった。
「見たいです」
「なら、一服付き合え。別にすぐそこまでだから」
そう言って指差した先は正面玄関脇に置いてある灰皿で、それはうさぎの目にもすぐに見つけられるものだった。うさぎは溜息をつきながらもバッグから紙片を取り出すと、ボールペンで岡嶋に伝言を書くと近くを通った従業員に岡嶋へ渡すように伝えてから席を立った。
「今日、貸してくれるということですよね」
「そりゃあ、読みてーなら」
「ぜひともお借りします」
そんな会話を交わしながらもうさぎは山口と共に階段を降り、ガラス張りのロビーから外に出る。蒸し暑さは相変わらずで、端にある灰皿に近付いた山口は手に持っていた茶封筒をうさぎに寄越すと、すぐに胸ポケットから煙草を取り出した。うさぎは素直に受け取り煙草を吸う山口に背を向けると茶封筒に手を入れた所で、背後から口元を押さえられる。今背後にいるのは山口以外にありえなくて、急速に遠くなる意識の中、車が横付けされるのが見えたのを最後に意識は途切れた。
* * *
手荷物しか無い梁瀬は飛行機から降りて一番最初に立ち寄ったのは飛行場内に入っているコンビニだった。その中から岡嶋が言っていた週刊誌を抜き取り、レジで清算するとアタッシュケースを小脇に抱えたままページを開いていく。目的のページは思ったよりも前にあり、白黒ではあるが写真まで載せられていた。
岡嶋、結婚までカウントダウン!
そんな見出しの踊る記事に梁瀬は力無く笑いながらもページに目を通せば、既に結婚前提として付き合っていて、彼女の両親への挨拶は済んでいると書かれている。実際、挨拶に行ったのかはどうかまでは聞いていないが、あいつなら卒なくこなすに違いない。
うさぎについては大学名と学部まで出てしまっているので、既に同じ大学の人間であれば気付いているに違いない。今が夏休みである意味よかったかもしれない、と梁瀬は胸を撫で下ろした。
岡嶋に聞いた話しでは今日、結婚式場の打ち合わせのためにノーブルホテルへ行くと言っていた。うさぎの心境を考えると複雑ではあったものの、途中、電車でも何度か繰り返し読んで頭の中へ記事の内容を叩き込んでから、梁瀬は週刊誌をアタッシュケースの中へとしまった。岡嶋に言われた通り、うさぎについて話し掛けろと言われていたから、梁瀬としてはこの週刊誌のことから梶に話しをふってみようと思っていた。
会社へ戻り、社長室の前に立ち止まるとノックを二回してから扉を開ける。
「只今戻りましたー」
どこか投げやりな挨拶をしつつ社長室へと入れば、梶が持っていた雑誌、正確に言えば梁瀬の鞄の中には入っている週刊誌を机の上に置くのが見えた。裏返しにしてはあるけど、見間違いでは無いと思う。梁瀬はそれに気付かなかったふりで鞄をソファの上に置くと、鞄の中から出張で得られた契約書を取り出すと梶の机の上に置いた。
「契約、無事取れましたよ」
「あぁ、そうか。ご苦労さん」
「あれ、その雑誌」
今気付いたと言わんばかりに梁瀬が言えば、梶は苦笑しながらも週刊誌を開いた。何度も見ていたのか、週刊誌には既に開き癖までついてて、一体どんな気持ちで梶がこれを見ていたのか梁瀬としては好奇心込みで気になる。
「ようやく結婚まで進んだんだな」
「ようやく?」
予想外の言葉に思わず梁瀬はそのまま問い掛けてしまえば、梶は微かに眉根を寄せた。
「付き合っていたんだろ? あの二人は」
「……は?」
少なくとも梁瀬の記憶には岡嶋とうさぎが付き合っていたという記憶は無い。いや、それどころか岡嶋もうさぎもお互いにそういう感情が無いことを知っている。だからこそ、梁瀬は梶の言葉に間の抜けた声しか出せずにいた。
「違うのか? それが上手く行かなくてうちを辞めたんだろ?」
誰か、誰かオレに救いの手をプリーズ……。
そんな梁瀬に救いの手などある筈も無く、がっくりと肩を落とす。
「ようやく結婚するのに、という言葉と、岡嶋と上手く行かなくてうちを辞めた、という繋がりがよく分かりませんけど」
「岡嶋が最初はその気がなくてふったけど、しばらくして付き合い出して結婚したということだろ?」
もしかして、自分たちは多大なる勘違いをしたまま年月を過ごしてしまったのだろうかと思えば、もう呆れを通り越して笑うしかない。
「いつからそう思っていたんですか」
「付き合った云々がいつからなのかは知らないが、彼女が岡嶋に惚れていたのはうちにいた頃からだろ」
「えーと、そんな事実全くありませんが一体どこ情報ですか、それ」
「昔、彼女の友達が、彼女は岡嶋を好きだと言っていただろ」
うさぎの友人と言えばあの二人だが、恐らく梶の元婚約者であれば名前で呼ぶだろうから、もう一人の友人のことだと梁瀬にも分かる。会ったのは一度だけで、顔は薄ぼんやりとしか思い出せないが明るい子だったことは記憶にある。
「すみません、オレはその会話を聞いていないのでコメント出来ません。えっと……どういう経緯でうさぎちゃんが辞めたか分かってます?」
「岡嶋にふられて思い出すのも辛いから、ということじゃなかったのか?」
「だったら、オレや岡嶋がいまだうさぎちゃんと付き合ってる訳ないと思いません?」
途端に梶は僅かに驚いた様子を見せたけれども、すぐに平静に戻ってしまう。こういうポーカーフェイスは梶の得意とするところで梁瀬としては面白く無い。いや、面白く無いのはこの会話の流れの方かもしれない。
「そうか、君たちは付き合いがあったのか。彼女は君たちとの付き合いも断ったものだと思っていた。だから、彼女と岡嶋の仲が修復したのであればと、先日彼女の大学に足を向けた。だが、手酷くふられた。私は何か思い違いをしているのか?」
えー、えー、そりゃあ、もう盛大に勘違いしています、と言いたいところだったけれども、梁瀬はどうにか言葉を飲み込むと梶の質問には答えずに再び口を開く。
「それで、よくうさぎちゃんが辞める時に大人しく殴られましたね」
「彼女にちょっかい掛けてた自覚はあったからな」
「……すみません、もう梶さんが言ってることがオレには理解出来ません」
梁瀬は理解の範疇を越えて、既に泣きたい気分になってきた。いや、出来ることなら会話を打ち切って部屋を出て行きたいくらいの気分に苛まれていた。
「だって、あの時だって期待させるくらいならって、だって、うさぎちゃんが岡嶋を好きだと思っててちょっかいかけてたってことですか?」
「そうだ。岡嶋相手に上手くいかなくてふさぎ込んでいると思っていたから、仕事の効率を考えればこちらに振り向けばいいと内心期待はしていた。優しくする自信はあったしな」
それは女子高生相手に大人としてどうなんだと、突っ込みどころは沢山あるけど、梁瀬は辛うじて文句を飲み込む。けれども、色々と予想しない言葉ばかりが飛び込んできて正直頭が痛い。
「すみません、言葉を正しくお願いします。あの時、期待させるくらいなら、気付かないふりをするしかなかったって言ってましたけど」
「岡嶋は彼女に対してその気がないと思っていたから、岡嶋への気持ちを期待させるくらいなら、岡嶋への気持ちを気付かないふりして彼女を私に振り向かせようとした」
全てを纏めれば、ようは岡嶋を好きになったうさぎがふさぎ込んでいたから、それくらいなら自分を好きになれば、優しくするし仕事の効率も上がって全てハッピーということか?
梶の自信も恐ろしいことだけど、それだけの自信を持てる場数を踏んでいることを梁瀬は知ってるから馬鹿には出来ない。そう、梶が恐ろしく女性に手慣れていることは間違いないし、梁瀬も分かっている。特定の恋人こそいないけれども、時折会社に掛かってくる女性からの電話でその関係だって知れる。勿論、それが仕事がらみであることは分かっているし、夜までお付き合いしているのかまでは知らない。
けれども、梶は女性をその気にさせる話術とエスコートは同じ男の梁瀬から見ても完璧だった。しかも容姿も揃ってとなれば、それはその気にならなない女性は少ないに違いない。
会社のためにうさぎを誑かすという考え方は、梶であれば持っていてもおかしくは無いに違いないし、それを疑う気にもなれない。正直、それくらい梶にはモラルが無い。時折、梁瀬としては眉根を寄せたい気分にもなるが、基本的に梶が動くのは会社のためだということは分かっている。
正しいかと問われると梁瀬に答えは無い。実際、梶がそうやって女性を間に挟んで仕事を取ってくる現実を梁瀬は幾つも見て来た。そうして梶のとってきた仕事をこなして給料を貰い食べている以上、文句を言える立場では無いことは分かってる。
恐らく五年前の梁瀬であれば梶を怒鳴りつけていたかもしれない。けれども、今、会社の主軸にいる梁瀬にとって梶を怒鳴りつける資格は無い。結局はそれを知っていて容認まではしてなくても黙認していたのだから、今更偉そうにモラルを振りかざすことも出来る筈も無い。
そう分かっていても、梶の考え方に賛同できるかというと梁瀬には出来そうにない。
いや、それ以前に梶がどうしてこのような誤解をしたのか、そちらの方が梁瀬にとっては痛すぎる。うさぎの友人と会ったというのは恐らく五年前にうさぎを連れて行ったあのパーティーに違いない。だとしたら、あの場で言われたのだろうか。あの頃には既にうさぎは梶を好きだったし、うさぎの友人がどうしてそういう誤解をしたのかは分からない。
それでも梁瀬としては言いたい。声を大にして言いたい。
頼むから、人の恋路に口を出すな!
梁瀬としては力一杯そう叫びたい気分だった。ただ、こうして梶と話している自分も十分に人の恋路に口を出している自覚があるだけに大きく溜息をついた。
それと同時に酷い罪悪感が身体中を襲う。もし、うさぎが辞める時に自分だけでも梶の話しをきちんと聞いていれば、うさぎはここまで悩む必要は無かったのではないか。少なくとも梶はうさぎの技術のみが欲しいということをうさぎが知れば、大分違っていたように思える。いや、今現在、うさぎはそう思っているのだから現実は皮肉な事にうさぎに真実を教えている。それでも、もっと早い段階で梶が勘違いしていることに気付けば、梶があんな行動を取ることは無かったに違いない。
そう、気付いていた。あの頃の梶はおかしいと思っていたにも関わらず、貴美の影に隠されてしまって気付けなかった。今考えれば梶の行動は分かりやすいものだったにも関わらず、それに気付けなかった自分もうさぎを追いつめた原因の一人であったのでは無いか。
そこまで考えれば梁瀬の顔は自然と苦々しげなものへと変化していく。誤解の原因は分かったし、誤解の内容も分かった。けれども、とても清々しい気分になれるものでは無い。
「あの時、うさぎちゃんが岡嶋を好きじゃないことを知っていたらどうしてました?」
「そんな仮定に意味はあるのか?」
言われてみれば、確かに意味なんてものは無い。ただ単にこの質問は自分の気持ちを軽くするためにした質問だったと気付いて梁瀬は口を噤む。
全てはタイミングが悪かったとしか言いようがないけれども、それでも自分は恐らく年長者としてうさぎに何らかの形で償わなければならないに違いない。そして、それは岡嶋も梶も同罪だろう。傷つけてきたのは、間違いなく自分たちなのだから————。
「とりあえず、梶さんがもの凄く鈍いことだけはよく分かりました」
梁瀬が今言えるのはここまでだった。当たり前だが、梁瀬の口からうさぎの気持ちを伝えることなど出来る筈も無いし、それは言うべきことじゃないことくらいは梁瀬にも分かる。
「人間、色々とフィルター掛かるとダメですね」
「どういう意味だ? お前は何を知ってる」
「色々と。少なくとも梶さんよりかは分かってると思います」
もう呆れを通り越して笑いたい気分になった梁瀬は、どこか投げやりに疲れた笑いを梶へと返す。
「因みにこれも仮定ですが、もし、うさぎちゃんが梶さんを好きになっていたらどうしていたんですか」
問い掛ければ、梶は少し悩んでから週刊誌に視線を一瞬だけ向けた。けれども、梶は溜息をつくと腕を組んで椅子の背凭れに深く腰掛けた。
「それこそ無意味な仮定だな。だが、彼女が望めば結婚くらいしただろう」
「そういうのって弄んでるっていいません?」
「ギブアンドテイクだろ。彼女には結婚という繋がりを、そして私は彼女の技術を」
「なら、本当に梶さんが求めるのはうさぎちゃんの技術だけだったんですか?」
「……何が言いたい」
まるではぐらかすかのような梶の言葉に、梁瀬は言葉に詰まる。実際、今それを聞き出してどうしたいのか梁瀬には分からない。分からないことに首を突っ込むべきじゃないと思い、梁瀬も誤魔化すようにソファに置いた鞄を手に取った。
「お前は本気で色々と分かってそうだな」
椅子から苛立たしげに立ち上がった梶の目は、底冷えする程に据わったもので梁瀬はその空気に一瞬にして逃げ出したい気分になる。
「オレは仕事に戻りまーす」
だめだ、これはきちんと岡嶋と話しでもして落ち着くしかない。既に梁瀬の頭は情報多可でオーバーワークになっていて、何かを考えることを脳が拒否している。それにこれ以上ここにいて余計なことを言いたくも無かった。
「梁瀬」
呼びかける梶の声を無視して扉に手をかけようとしたところで、携帯電話が鳴り響く。基本的に携帯に掛かってくる電話は重要なことも多く、梁瀬は一度立ち止まると携帯を取り出した。もう、このまま電話をするという名目で逃げてしまえ、という気分で通話ボタンを押して受話器を耳につけてから鞄を持った手で扉に手を掛ける。
「梁瀬か、こっちに戻ってるのか?」
途端に聞こえてきた岡嶋の声に梁瀬は少しだけ驚いた。岡嶋がこちらの状況に気を使うことなく用件を話し出すことは珍しい。戸惑いながらも思わず足を止めて携帯に気を取られてしまう。
「あぁ、今、会社にいる」
「うさぎちゃんが、消えた」
「何だよ、どういう意味だ、それ」
思わず語気が荒くなるのは、それだけ岡嶋の声が本気だったからだ。まさか、岡嶋が冗談で梁瀬にこんな電話を掛けてくるとも思えない。
「今日、結婚式場の打ち合わせでホテルに来てたんだけど、こつ然と消えた。警察に届けるべきか悩んでる」
「どれくらい経つんだ」
「十分くらい」
「それくらいなら」
「違うんだ、男と一緒に外へ出たらしいんだ」
基本的にうさぎは警戒心も強いし、迷惑を掛けることを嫌う。そのうさぎが岡嶋に断りも無く男と一緒に席を外すとも思えない。
すぐに思いつくのは、岡嶋にむらがるファンの女の子たちだった。一度、岡嶋と待ち合わせをした時に、梁瀬も酷い目にあったことがある。それ以来、岡嶋は気をつけている様子だったけれども、さすがにホテル内でのことまで警戒はしていなかったに違いない。
「お前のファンが嫌がらせにとかだったら、オレがお前を殴るぞ」
「それがうさぎちゃんの知り合いだったらしくて」
「梁瀬、何があった」
緊迫した空気に気付いたらしい梶に声を掛けられて、梁瀬はどう言うべきか僅かに躊躇する。けれども、悩んだのは数瞬のことで、すぐに口を開いた。
「うさぎちゃんが消えました」
「消えた? どういうことだ!」
途端に梶の口調が強くなり、梁瀬は何故かこんな時にも関わらずホッとした。恐らく、梶がいまだにうさぎの身を案じることに安心したのかもしれない。岡嶋経由で聞いた話しでは、うさぎは手酷くここには入らないと梶に伝えたと言っていたにも関わらず、そうして梶にとってうさぎは心配するだけの人間ではあるらしいことにホッとしたのかもしれない。
「詳しいことはまだ何も。警察に届けるべきか岡嶋も判断つかないらしくて」
「どこのホテルだ」
「ノーブルホテルです」
「行くぞ」
梶はすぐに椅子からジャケットを手にすると扉へ向かい歩き出す。慌てて梁瀬も携帯を片手に鞄を掴むと、電話向こうの岡嶋に声を掛ける。
「とりあえず、今から梶さんとそっちに行く」
「梶さんと?」
途端に声音が低くなった岡嶋に、梁瀬は慌てる。
「ちょっと色々誤解があるみたいで、あー、もう、色々複雑だから後で説明する。どこにいる」
「ホテルのラウンジにある喫茶室で待ってる」
「分かった」
納得行かないという声の岡嶋との会話を一旦終えるたところで梶が社長室の扉を開ける。扉を開けた目の前には、梶の秘書である国立とうさぎの友人と言っていた梶の元婚約者が立っていてさすがに驚く。
「貴弘さん、お話があって」
「すまない、話しは後で聞く。今立て込んでる」
そう言って梶は沙枝の横をすり抜けて廊下を歩き出す。冷たい仕打ちだとは思うけれども、確かに今は時間を無駄に出来ないことは梁瀬にも分かっていた。
「もしかして、うさぎちゃんのことですか?」
途端に梁瀬と梶の足も止まり、勢いよく振り返る。それと同時に困惑したような顔をした沙枝がそこに立っている。
「……何かあったんですか?」
「彼女が消えた。何か思い当たることがあるのか?」
「いえ別件ですけど……あ、でも、この間うさぎちゃんと会った時に、男の人に絡まれてました。何だか知り合いみたいだったんですけど、私が声を掛けた途端に逃げるように立ち去ってしまって」
梶がこちらへと振り向き、梁瀬は慌てて首を横に振る。少なくとも沙枝と会った話しは岡嶋経由で聞いていたけれども、男に絡まれたなんて話しは梁瀬も聞いていない。
「それはいつのことだ」
「三日前のことですけど……普通にスーツを着ていて、目は鋭い感じで、身長が多分梁瀬さんくらいだったと思うんですけれども」
その男の容貌は、梁瀬の中にある中で一人しか思いつかない。ただ、あの男がスーツを着ている姿というのは想像がつかない。
「髪は長かった?」
突然会話に入ってきた梁瀬に驚いた顔をしたものの、沙枝はすぐに気を取り直す。
「いいえ、短くて普通のサラリーマンでしたけど」
「ラストか?」
「えぇ、今だとそれくらいしか思いつかなくて。でも、あいつがスーツ着るとは思えないし」
「昼間であればサラリーマンの格好してた方がずっと目立たない。もうあいつだって三十は過ぎる。そんな男が昼間にスーツじゃない方が人目を引く。髪なら切ってしまえば特徴にはならない」
「でも、何で今更」
「今更も何も、あいつの興味はいつでも彼女だった。すまない、もう行く」
沙枝にそれだけ言うと、梶は歩き出してしまう。慌てて梁瀬もその背中を追いかけながらも振り返って「ありがとう、助かった」とお礼だけは伝えた。
梁瀬がエレベーターに乗り込んだところで、国立が慌ててた様子で追い掛けてきた。慌てた様子の国立に、梶は今日これからの予定を全てキャンセルすることを伝えると国立を置いてエレベーターへと乗り込んだ。まだ引き止めるような国立の声を聞きながらも、梁瀬は無情にもエレベータのボタンを押して扉を閉ざした。