Act.23:ダウト 疑惑

落ち着いたうさぎと一緒にいようと思ったけれども、家に帰って色々考えたいというので岡嶋はうさぎの家まで送ってから携帯を取り出した。恐らく連絡を待っているだろう梁瀬に電話すれば、海外出張中で駆けつけられなかった梁瀬はワンコールもしない内に電話に出る。電話に出た途端、一言目から梁瀬は噛みつかんばかりの勢いだった。

「どうだった!」
「ちょっと遅かった。梶さんと会って再びシステムセキュリティーに誘われたらしい」
「あの人……仕事は出来る人なのになぁ」

呆れた響きを持つ梁瀬の言葉に、岡嶋としては苦笑するしかない。梁瀬から聞いている話しでは、確かに梶は仕事が出来るらしく、全く違う仕事についている岡嶋にすら梶の名前は時折聞こえることがある。けれども、人の気持ちに疎いのはどうにかならないものだろうか。

ただ、岡嶋としては一つ気になることがある。何故このタイミングなのだろうか。確かに早い学生であればこの時期に就職を決めることも少なくは無い。うさぎの技術力を考えれば早く動きたいと思うのも分かるが、だったらもっと早くてもいい筈だ。実際に、うさぎは既に何社からかオファーを受けていると話しをしていた。

「なぁ、今でもお前にとってうさぎちゃんの技術って凄い物だと思うか?」
「少なくとも下手な新人取るくらいなら、うさぎちゃんが欲しいとは思うくらいの技術を持ってるよ」
「それなら、お前が人事の立場だったら、強引なことをしてもうさぎちゃんの腕が欲しいと思うか?」

その問い掛けに受話器の向こうから一つ唸る声が聞こえてから、そのまま沈黙が落ちる。岡嶋は歩きながらもひたすら梁瀬からの答えを待っていたが、梁瀬の答えは余り実のあるものでは無かった。

「分からない、かな」
「微妙な答えだね」
「だって仕方ないだろ。実際、今のうさぎちゃんに何が出来るのか分からないんだから」

言われてみれば確かにそうだ。岡嶋自身も今のうさぎが何を出来るのか既に分からない。分かっているのは余りネットに繋いでいないことくらいで、それ以上のことは余り聞いていない。ただ、大学の講義の関係で色々なプログラムだけは組んでいることを聞き及んではいるけれども、それも果たしてどれくらいの実力なのかまでは聞いていない。

「なら、梶さんはどうやってそれを計ってるんだ?」
「あ……あの大学、梶さんの母校だよ」

それは初耳だった。確かに梶に出会った時には、すでに社会人だったこともあり、態々出身大学なんて聞く必要も無かったことも大きい。第一、岡嶋にとって出身大学なんてものには興味も引かれなかった。

「ということは、馴染みの教授がいる可能性があるか」

だとすれば、今のうさぎの実力を分かった上でシステムセキュリティーに誘っているのかもしれない。第一、繋がりが無ければ忙しい梶が講演なんてものはしないに違いない。ただ、やはり何故この時期だったのか気に掛かる。

「梁瀬が出張中だったから、か」

もし梁瀬が日本にいる時であれば、うさぎに接触するようなことがあれば梁瀬が黙っていないだろうことは幾ら梶でも分かるだろう。だとしたら、梁瀬が日本にいない今を狙ったとしたら、時期としてはおかしなことは無い。

「は? 何のことだよ」
「いや、何でこの時期だったのかと思ってさ。梁瀬にバレたくなくて今の時期に入れたのかと思って。企業オファーにしてはかなり後手に回ってるだろ」
「でも、オレなら先月も出張あったぞ、ロンドンに二週間。お前もロケでいなかったから言ってなかったけど」
「それなら余計おかしいだろ。その時でも良かった筈だし」

梶の思惑がよく読めない。ただ、もしかしたら、という理由が先程から頭の片隅にチラついている。

「確かにうさぎちゃんも既に何社かオファー貰ってるようなこと言ってたから、遅いって言えば遅いかもな。そんで、お前、一体何が気になってるんだよ」

今、岡嶋が一番気になっているのは何故、このタイミングなのかということだけだ。企業オファーとしては後手に回っていることを考えても、もしかして、今システムセキュリティーに何かあって今更うさぎが必要になったということなのだろうか。いや、だったら梁瀬が知らない筈は無いし、もし技術が高いからシステムセキュリティーに、ということであればやはり遠回しながらも梁瀬にも声が掛かるに違いない。

だとしたら、やはりこれは梶の単独行動なのか。それなら梶の真意はどこにあるのか、岡嶋にはそこが気になる。そしてタイミングの理由としては、もしかしたらこれかという理由を梁瀬に打ち明けた。

「ちょっとドジって、週刊誌にうさぎちゃんと一緒にいるところをすっぱ抜かれた」
「お前……あの子一般人なんだから巻き込むなよ!」

呆れたような梁瀬の声に、岡嶋としても反省するしかない。つい、うさぎの前では芸能人という顔を外してしまうこともあって、岡嶋自身も無防備になってしまうところがある。けれども、芸能人という顔をしたままだと、うさぎはすぐにその空気を読み取って、どこかよそよそしくなってしまうからという理由もある。失敗したと反省はしているが、そういう側面もあるだけに岡嶋としては苦く思うしかない。けれども、まだ甘いという自覚もあったから梁瀬の呆れはきちんと受け止め、電話向こうには見えないだろうけれども岡嶋は小さく頷いた。

それともう一つ、思いつきとはいえども梁瀬には報告しておくべきことがあった。

「ついでに結婚の申込もした」

途端に電話向こうからの声が途切れて、一瞬、電波状態が悪くなったのかと思ったが、どうやら違ったらしい。

「……はーっ!?」

受話器から聞こえる大音量に思わず耳を離せば、まだ梁瀬は叫んでる。驚きは理解出来る。だからといって、少々大げさすぎやしないかと顔を顰めたけれども、受話器の向こうでまだ飽きもせず梁瀬は叫んでいて小さく溜息をついた。

「何で、何で結婚とかなってるんだよ! え? 相手うさぎちゃんだよな! 何で、どうして!!」
「うるさいよ、聞こえてるから音量落としてくれない。携帯のスピーカー強度を試されてる気になるから」
「悪い、でも、結婚って、え? 結婚って何?」

混乱ぶりが分かるその声に、岡嶋は苦笑するしかない。

「結婚は結婚だろ、お前だって美樹ちゃんとしてるだろ」
「そういう問題じゃないだろ! ふざけるな!」

梁瀬の怒鳴り声にさすがに岡嶋もからかいすぎたと分かり、素直に謝ると小さく溜息をついた。

「初めてうさぎちゃんから助けてって言われてさ、守る方法は無いかと思った時に思いついた結論がそれしか無かった」
「お前、一応腐っても芸能人だよ? 自分の立場分かってる?」

訝しむような梁瀬の声に岡嶋は軽く笑う。週刊誌にスッパ抜かれたばかりなのだからそんなことは自覚している。それでも、岡嶋にとってうさぎの存在は大切なもので、最近は自分でも過保護になりすぎではないかという自覚もあった。

「分かってるけど、もう見たく無いんだよね。あの子の泣けない姿」
「それはオレだってそうだけど……そんな選択していいのか? 好きでもないのに」

その辺りについては、正直梁瀬と違って岡嶋には余りモラルは無い。別に必要であれば好きでなくても結婚くらいできるし、政略結婚だって場合によっては構わないと思っている。ただ、流されるままにというのは岡嶋の中でも絶対にごめんだが、今回の件についてはこれはこれでありだと思っている。それに結婚したからといって相手に一生縛られる訳でもない。結婚には離婚という選択もあるのだから、そこまで必死になる程のことでもない気がする。

「お互いにそれは分かってるよ。うさぎちゃんにも説明したから。まぁ、その話しは置いておいて」
「置いとけるかー!」

叫ぶ梁瀬に再び受話器を離すと、もう岡嶋としては笑ってしまうしかない。普段はかなり適当な言動をすることもある梁瀬だけど、こういう所のモラルは生真面目で岡嶋が好感を持っている所でもある。だからこそ、梁瀬との付き合いは続いていると言ってもおかしくない。

「いや、うん、まぁ、気持ちは分かるけど置いておいてよ。話しが先に進まないから」

穏やかな声でそれだけ言えば、電話向こうで黙り込む気配は伝わってきた。恐らく憮然とした顔でいるだろう梁瀬をあっさり想像できてしまって、つい、苦笑しつつも受話器に向かって再び口を開く。

「とにかく、最初に戻るけど、どうして今の時期かと思ったんだよ」
「……お前がスッパ抜かれたことが関係あるかもしれないってことか?」

さすが付き合いの長さは伊達じゃない。基本的にお互いの思考の先読みは手慣れたもので、すぐに気付いた梁瀬に岡嶋の口元は自然と緩む。

「タイミングがね」
「何で熱愛報道で梶さんが動くんだよ。まさか今頃になってうさぎちゃんに気があるとか言い出すんじゃないだろうな」
「まぁ、正解。あると思う?」

実際に岡嶋が考えているのはうさぎに気があるのか、というだけでは無いけれども、それも考えの一つにはあるから肯定する。とにかく、あの記事に触発されたからこのタイミングでは無いのか、というのが岡嶋の考えでもあった。

「オレはあの人じゃねーから分かんねーよ。でも、可能性としては無いとは言わねーけど……でもなー、そこまで馬鹿だとは思いたく無いんだよなぁ」

どこか疲れたような声の梁瀬に、岡嶋としては同情を禁じ得ない。少なくとも梶は梁瀬の上司であり、梁瀬の会社の社長でもある。その社長様が馬鹿だという事実は認めたく無いだろうし、優秀さが分かっているからこそ馬鹿なのかと思えばやりきれないに違いない。

「恋愛方面には疎いとか?」
「あの顔で疎いとかあるかよ」

吐き捨てるような梁瀬の声に岡嶋は小さく笑う。梶の付き添いで何度かパーティへ足を運んだことのある梁瀬だけに、梶がそれなりに女性に対する行動が如才ないことは知っているのだろう。何度かそのような話しを岡嶋自身も梁瀬の口から聞いてはいた。

「女の影は?」
「……無いな。っていうか、そんな時間あの人にねーだろ。あそこまで行けば絶対に仕事が恋人だね」

梶のプライベートに梁瀬はもう二度と近付かないと言っていた。それでも梶の秘書的立場にいる梁瀬であれば、嫌でもプライベートは見えてくるらしい。

「梁瀬はいつこっちに戻ってくるって言ってたっけ?」
「明後日には戻るけど、何させる気だよ」

質問だらけだったこともあり、梁瀬は岡嶋が何かを考えていることは分かっているらしい。しかも、聞かれたのが自分の帰国日なのだから予想するのは簡単だ。

「簡単、梶さんにうさぎちゃんの話題振ってみてよ。それこそ何で大学に行ったのかとか」
「それは怒れ、ってことか?」
「いや、別に怒らなくてもいいから色々と聞き出してみてよ」
「分かった。でも期待するなよ、途中でブチ切れてる可能性もあるから」

憮然とした声に、梁瀬が多少なりとも梶の行動に納得していないことが岡嶋にも分かる。それはそうだろう、まるで梁瀬が居ない時を狙ったかのようにうさぎへと近付いたのだから梁瀬が怒るのも無理は無い。梁瀬にとっても、岡嶋にとっても、いまだうさぎは可愛い妹分であることには変わらない。岡嶋に助けを求めるくらいにうさぎが怯えているとなれば、やはり梁瀬も落ち着いてはいられないらしい。

「あはは、まぁ、それはそれでいいけどね」

それから少しだけ近況を話してから電話を切った岡嶋は、その足で自分の所属するプロダクションへ向かうために大通りでタクシーを拾う。

恐らく、あれだけ人目のある場所だったから、うさぎと抱き合っていたのは既に知られているに違いない。だからこそ、岡嶋はそれを使わない手は無いと思っていた。早い週刊誌であれば、それこそ梁瀬が帰ってくる頃と丁度タイミングが合うかもしれない。

もし、梁瀬が思っている通り、梶が今更うさぎにということであれば、岡嶋はどうするべきか考えて額を押さえた。正直、うさぎは今でも梶のことを好きでいる。それならそれで、二人が結婚すればいいとは思うけれども、うさぎに対してのこれまでの所業を考えると素直に祝福はし難いものがある。それでも、うさぎが笑顔を浮かべるのであれば、岡嶋は納得行かなくても祝福するに違いない。

ただ、梶を祝福するにはさすがに岡嶋としても気持ちの納まりがつきそうにない。殴れば気が済むのかというと、やはりそれだけでは腹の納まりはつかなさそうで、そんな自分に苦笑する。これでは、まるで娘の父親のようではないかと思いつつ、岡嶋は気を取り直して到着したタクシーから降りる。

しばらく身の回りが騒がしくなることを覚悟しながら、岡嶋は自分の所属するプロダクションへの扉を開けた。

* * *

夜になり落ち着いてくると、うさぎは惰性で食事の用意をして食事を取る。まだご飯が食べられるから大丈夫だと、おかしな安堵感を得ると食器を片付けながら笑ってしまう。五年も会っていなかったのに、悔しいぐらいまだ梶のことを好きなことをうさぎはたったあれだけの時間に自覚させられた。伴う痛みには慣れたと思ったけれども、目の前に現れたらやっぱり傷口はまだ全然癒えてないことも分かってしまい、うさぎはもう途方に暮れたい気分になる。そして、唐突な岡嶋の結婚宣言にも驚かされて、今日一日でうさぎの感情はまるでジェットコースターのようだと思うと再び笑いが零れた。

そんな中で家の電話が鳴り出し、うさぎは途端に顔を顰めた。携帯を持っていることもあって家の電話に掛けてくるのは、両親かセールスくらいだったが、この時間であればセールスということはありえないだろう。最近、親から掛かってきた電話は、母親からの離婚相談だった。正直そういう話しは聞きたい気分ではなくて、一層無視してしまおうかと思ったけど、親であれば何度でも掛けてくる。分かっているからこそ、うさぎは渋々ながら電話を取った。

「もしもし」
「あの……久しぶり」

それはとても懐かしい声で、もう聞く事は無いと思っていた声でもあった。

「沙枝、だよね」
「うん、私。今大丈夫かな」
「それは全然平気。どうかしたの?」

問い掛ければ少し間があってから、様子を伺うような声が聞こえてきた。

「突然で悪いと思うけど、その、明日会えないかな」

確か沙枝は都内の女子大に通っていると高校時代の担任から聞いた記憶がある。その沙枝が今頃、何の用件かと思ったけれども、うさぎは今日の出来事を思い出しすぐに用件を思いつく。

恐らく梶のことについてに違いない。そうでなければ、疎遠になって久しい沙枝がこうして電話を掛けてくるとは思えない。

「大丈夫、もう前期試験もレポート類も終わってるから」

それからは特別にこれといった話しもせず、待ち合わせの場所を決めて電話を切った。

梶と沙枝の婚約話が立ち消えになったことは沙枝の口から聞いて知っている。けれども、今更梶について色々聞かれたとしてもうさぎに答えられることは無い。少なくともバイトを辞めたことは言ってあるから、うさぎと梶に交流が無いことは沙枝だって知っている筈だ。

沙枝も相変わらず梶のことが好きなんだろうか。それを考えるとやっぱり胸は痛んで、うさぎは極力考えないように風呂へ入るとその日は早めに眠ってしまった。

そして翌日、沙枝との待ち合わせ場所に足を向けると、うさぎに気付いた様子の無い沙枝に声を掛けた。

「沙枝、久しぶり」
「え? うさぎちゃん」
「そうだよ」
「凄い、びっくりしちゃった。うさぎちゃん、可愛くなった」
「努力してるから」

いかにも女の子同士という感じで服装や髪型の話しになり、うさぎは予想していたよりも楽しく感じることに少しだけホッとした。近くにあるカフェに腰を落ち着けると、しばらくはお互いの近況を語り合う。けれども、近況とは言えどもお互いに離れていた時間があるからこそ、細かいことまで伝え合える筈もなく、話しが止まるとお互いの間に奇妙な沈黙が落ちた。

「あのね、私、まずうさぎちゃんに謝らないといけないの」
「別に高校の時のことだったらもういいから」
「でも、酷いことしたから、うさぎちゃんに。梶さんのこともそうだったけど、利奈ちゃんのことも」
「利奈のこと?」

いきなり出て来た利奈の名前に、うさぎは困惑するしかない。一体、何がどうあって利奈のことに繋がるのかうさぎには分からない。

「夏休みが終わってから、私だけじゃなくて利奈ちゃんともギクシャクしちゃったでしょ。あれ、私が酷いこと言ったからなの」

俯いた沙枝の表情は見えなくて、うさぎは自分の顔が徐々に強張るのが分かる。

「……一体、何を言ったの?」
「うさぎちゃんが利奈のことうざったいって言ってたって」

突然の言葉にもう唖然とするしかなく、うさぎは続ける言葉も無い。まさに言葉も無いというのはこういうことなのかと体感した。

「本当にごめん。でも、あの時、梶さんまでうさぎちゃんに取られて、利奈ちゃんまでと思ったら、黙ってられなくて。謝って済む問題じゃないけど、本当にごめんなさい」

頭を下げる沙枝を見ていたけれども、うさぎの口から出て来たのは溜息だった。

「もういいよ。過去のことだし」
「でも」
「もういい。だって沙枝の言葉を聞いて利奈は信じた訳でしょ? 私に対して利奈の信用が無かったてことが全てだと思う。だから沙枝が謝る必要は無いから」
「あの、でも」
「あの時、沙枝の心境考えれば仕方なかったんだろうし、謝らないで」

沙枝としては言いたいことが色々とあるのは分かる。けれども、うさぎはそれ以上、何も聞きたく無くて全ての言葉を遮ると最後に沙枝は言葉を無くす。

「因みに先に言っておくと、梶さんとは何も無いから」
「うさぎちゃん!」

立ち上がったうさぎの腕を掴む沙枝に、どんな視線を向けていいのか分からない。困惑とは違い、何だろう、怒りとも違う……あぁ、呆れだと分かった途端、うさぎにとって沙枝は既に友人では無く、知人なのだと知った。

「まだ、梶さんのこと好き?」

それこそ知人になった沙枝に答える義務なんて無い。

「何でそんなこと聞くの?」
「もし、出来たら梶さんの会社に入って欲しいの」

想像もしていなかった言葉に一瞬呆気に取られたが、沙枝の言葉の真意を探る。もしかして、梶は沙枝を使ってまで自分をシステムセキュリティーに入れたいと思っているのだろうか。必要とされるのは確かに嬉しい。けれども、こんな遣り方であれば絶対に認めることは出来そうにない。

「……悪いけど、どうあってもあそこに入る気はないから」
「お願い、うさぎちゃん!」

声は聞こえてきたけど、うさぎはそれに答えることなくカフェを後にした。先程まで感じなかった夏の日差しはジリジリと暑く、蝉の声がまとわりつくように感じて顔を顰める。やっぱり、夏は嫌いかもしれない。そんなことを思いながらうさぎは駅まで歩いていると、不意に腕を掴まれて勢いよく振り返る。そして、うさぎの腕を掴む人物を見上げて思わず目を見張る。

「何でここに」
「いつもそれだね。別にここにいても問題無いでしょ」

そう言って笑うラストは五年前に会った時よりもきっちりとした格好をしていた。スーツを着て長かった髪は短く切られ、両サイドの短い髪はきっちりとサイドに撫で付けられ、一介のサラリーマンにしか見えない。もし町中ですれ違ってもラストと気付かないだろうし、実際、今腕を掴まれるまで全く気付かなかった。

「何故、今になって」
「まぁ、色々と用意もあったし、今じゃないと間に合わないでしょ。君に結婚されてからだと色々な意味で手を出しにくくなるし」

何故そんなことを知っているのか気になりはするけど、今のうさぎはラストと会話をする気分では無い。むしろ、鬱々とした気分の時にするラストとの会話は、常にうさぎに危機感を与える。もしかしたら、ラストについていけばもっと楽な気持ちになれるんじゃないかと誘惑含みだからなのだ、ということはうさぎにも気付いてはいた。

「悪いけどお断りします」

もう、何度も顔を合わせているのだから、ラストの言いたいことなんて言われなくても分かってる。それは相手も同じらしく、多少強く言ったくらいで引いたりしない。

「でも、今、ここにいるの嫌だと思ってるでしょ」
「嫌でも何でも、私の居場所はここですから」

本当に?

その疑問は即座に叩き潰した。ラスト相手に弱味は見せられないし、気弱な発言を曝け出すつもりもない。そんなことをすれば、間違いなく足下を掬われる。

「楽しい生活送れるよ、一緒に来たら」
「今、十分に楽しいですから」
「うさぎちゃん!」

少し遠い場所から聞こえたその声に、ラストと共に顔を向ければ、先程出て来たカフェから沙枝が走ってくるのが見える。それを見た途端、ラストはうさぎの手を離した。

「寒河江の孫か。面倒になる前に消えることにする。また今度」

うさぎが思っているよりもずっと気楽な雰囲気で手まで振ったラストは、すぐに人波に消えてまぎれてしまう。その間にも沙枝はうさぎに近付いてきて、不安そうな顔で見上げてくる。

「今の、誰?」
「知人」
「でも、うさぎちゃん嫌がってたから」
「うん、助かった。だからありがとう。でも、今は話しを聞く気分じゃないから」

沙枝が出て来てくれて本当に良かったと思うし、助かったというのはうさぎの本音だった。けれども、続く言葉も本音で、その言葉で沙枝の顔が強張ったのが分かる。怒っているのとはやはり違って、ただ、もうこれ以上会話を交わそうという気分になれない。ただ、それだけだった。

「もう駄目?」

沙枝が前のように戻りたいという気持ちを持っていることは見上げてくるその目からも分かる。けれども、うさぎは緩く首を横に振った。

「駄目。今の私、友達作る気全く無いから。だから駄目」
「でも、うさぎちゃんなら友達沢山いるでしょ」
「いないよ。もうね、そういう友達とかに期待するのやめたから。別にそれは沙枝や利奈のせいじゃない。自分自身の問題。でも、それで同情されたくないし、もう本当にいいって感じなの」

驚いた顔でうさぎを見上げていた沙枝だったけれども、徐々にその顔が泣きそうなものに変化していく。酷いことを突きつけているという気持ちもうさぎにはあった。けれども、今これ以上沙枝と向き合おうという気持ちにはなれなかった。

「でも、岡嶋さんとは」
「あの人は別、特別なの。友達とかそういう枠じゃないから」
「梁瀬さんも?」
「そう、特別……調べたの?」

思わず沙枝を見れば、途端に沙枝が視線を逸らす。寒河江の孫という立場である沙枝なら、うさぎのことを調べるくらい雑作ないことに違いない。あれから五年経つにも関わらず付き合いがあることを知っているということは、それ以外に方法は無い。

「どういう関係だか知りたかったの。うさぎちゃんが幸せならそれでいいからって」
「幸せだよ。だからもう、何もしないで」

まるでこれでは五年前の再来だ。そんなことを何度も繰り返したく無い。あの時の痛みはまだ胸の中に残っているし、うさぎは決して強くなった訳じゃない。ただ、弱い心を守るために、うさぎは人を近づけないという防御を取っただけに他ならない。だから踏み込まれたら、やっぱり痛い。

「うさぎちゃん、変わったね」
「沙枝も変わったでしょ。もうあの頃には戻れないの。沙枝にも分かってるでしょ、それは」
「分かってる……でも、一つだけ答えて。それに答えてくれたら、もう何も言わないから」

そんな遣り取りを数年前、沙枝とは違う人としたことを思い出してうさぎは内心苦笑する。その言葉が出てくる時は、かなり切羽詰まっている時だとうさぎは身を以て知っている。だから、つい仏心を出したのがいけなかった。

「一つだけね」
「梶さんのこと、まだ好き?」

この期に及んで、沙枝が一体何を言わせたいのかうさぎには分からない。けれども、見上げてくるその目が真剣でうさぎは大きく溜息をついた。けれども答えると言った手前黙り込むことも出来ず、嫌そうな雰囲気を隠そうともせずに口を開いた。

「好き。これで満足? もう、行くから」

それだけ言うと、うさぎは今度こそ駅に向かって歩き出した。もう沙枝が追い掛けてくることもなく、改札を抜けたところで途端に足が重くなった気がした。

沙枝と会う、ただそれだけのことで何故こんなに疲れているのか分からない。いや、恐らく沙枝の言動に疲れたことは分かってはいる。ただ、友人だった沙枝に疲れを感じる自分を認めたく無かっただけだ。けれども、今更梶について聞いてくる沙枝に、うさぎとしては信じられない気持ちもあった。

何か、疲れたな……。

そんな気持ちで電車に乗り込み、閉まる扉に凭れ掛かる。そしてもう一度溜息を吐き出すと、目を瞑る。高校の頃、沙枝と利奈、そしてうさぎの三人ではしゃいでいたあの時はもう遠い昔の想い出にすぎない。今更、何かが動くとは思えずうさぎは小さく息を吐き出した。
結局うさぎはそのまま家に帰ることはせず、一度大学に寄ると山口の所へ立ち寄った。ノックをして山口の返事を聞いてから扉を開ければ、そこには先客がいて部屋に入るのをためらう。

「すみません、資料をお借りしたかったんですけれども」
「あぁ、丁度いい。ほら、来たぞ」

山口の前で椅子に座る男が振り返り、その目が合った途端にうさぎは思わず一歩後ずさる。先日、山口から聞いた加賀谷誠二がそこに座っていた。

「お久しぶりです」

ほがらかとは程遠い、無表情な顔で加賀谷から声を掛けられてうさぎも頭を下げた。

「お久しぶりです」

ここへ立ち寄ったのは失敗したかもしれない、そう思ったのはうさぎの気のせいではないに違いない。山口は来たぞと言っていた、ということはうさぎと加賀谷をいずれ引き合わせるつもりであった筈だ。

「そんな所に立ってないで入れー」
「資料を借りに来ただけですし」
「入らないと貸さないぞ」

強引なのはいつものことで、うさぎは嫌々ながらも部屋の中に入ると扉を閉めた。その足で加賀谷とは視線を合わさず山口の前に立つと声を掛けた。

「先日あった学会の資料をお借りしようと思ったのですが」

一週間程前、山口は学会の発表会に参加するためにここを離れていた。発表する方では無かったから手伝いなどはしなかったけど、学会で配られる資料はうさぎにとっても有益な情報も多く、それに目を通すのは楽しみでもあった。レポート類が終わってからと思っていたけれども、本気でタイミングを間違えたかもしれない。

「んー、その資料なー。どこに置いたかなぁ」

こちらを向いていた山口は銜え煙草のまま背を向けると、すぐ後ろにある机の上をバサバサと漁っているのが見える。いつ見ても山口の机の上は整理されているとは言い難い。その中から資料を見つけたのか、紙ファイルに閉じられたものを掴み出すと、こちらへ振り返るなりにんまりと笑う。

「ここ座れ」

そう言って山口が指差したのは加賀谷の横にある空いた椅子で、山口の表情からもそこへ座らないと資料は渡さないと読み取れるふざけたものだった。どちらにしても、ここで逃げたところでいずれ山口に引き合わされることは目に見えていたから、うさぎは溜息をついて椅子に座る。

加賀谷の会社の社長は寒河江の一族、ひいては沙枝の血族ということだったけれども、詳しい立ち位置は知らない。どうやら、今日は寒河江一族に縁のある日らしい、とうさぎは諦めの境地で山口に手を差し出した。

「貸して下さい」
「逃げない?」
「もう諦めつきましたから」

楽しそうに笑いながら山口はうさぎの手にファイルを乗せると、うさぎはそのファイルを膝の上に置いてから、改めて加賀谷へと向き直る。

「それで、何の用件でしょうか」
「あなたをうちの会社に入れろと社長命令で参りました。一応、反対はしたんですけれどもね」

そう言って苦笑するところを見ると、うさぎが頷くとは思ってもいないらしい。当たり前と言えば当たり前の話しだ。山口から加賀谷は社長命令で脅迫したと聞いているのだから、そんな掌返しにうさぎが乗る筈も無い。

「お断り致します」
「そうでしょうね。まぁ、聞く前から分かってはいたのですが、一応、聞いたという建前が私も欲しかったので」
「それでいいんですか?」

思わず問い掛けてしまい、うさぎはそんな自分の問い掛けに慌てて口を噤む。敵に塩を送るとまでは言わないでも、うさぎとしては好意的で無いのだから、ここで質問をするべきでは無い。

「まぁ、本来なら良く無いでしょうけど、無理なのは分かっていましたから。それにこれにも止められましたし」

そう言って加賀谷が指差したのは山口で、当の山口は何も聞いてませんとばかりに机に向かって何やら書類を書いている。聞こえていない筈は無いけれども、今はこの話しに立ち入るつもりはないという意思表示なのかもしれない。思ったよりも常識人だったらしいことにうさぎとしては些か驚きだった。山口であれば、こういう話こそ楽しげに混ぜっ返すと思っていたけど、少なくともうさぎが思っているよりも生真面目な面もあるのかもしれない。

「そうですか」
「私が言うべきことではありませんが、色々と身の回りには気をつけた方が宜しいですよ」

忠告めいた言葉を言った加賀谷は椅子から立ち上がり、うさぎから視線を外す。

「ご忠告有難うございます」
「いえ、どう致しまして。山口、私はこれで失礼します」
「おう、また遊びに来いよ」
「来年には辞めるくせによく言いますよ。それでは失礼します」

部屋の扉前で律儀に一礼した加賀谷は、そのままあっさりと扉の向こうへと消えて行った。加賀谷の言葉は、一体、どういう意味での忠告だったのかうさぎには分からない。何せこの数日だけでも色々ありすぎて、何に気をつけるべきなのかうさぎにも分からない。

それよりも、加賀谷が言っていた最後の言葉が気になり山口へと視線を向ける。

「教授、ここを辞めるんですか?」
「んあ? あぁ、他にやりたいことが出来たからなぁ。だからお前さん、助手しない? って言ってるんだが」
「研究所を持つんですか?」

教授の中ではスポンサーを見つけて研究所を持つ人も少なくは無い。だからこその質問だったけれども、山口はあっさりと肩を竦めて見せた。

「そういう面倒なのはやだな。ああいうのは特に面倒なんだよ」
「だったら何を?」
「秘密」

そう言ってにんまり笑う山口は、恐らくそれ以上口を割らないに違いないことは短い付き合いながらうさぎも知っている。資料は借りたし、加賀谷も帰ったのであれば、もうここに用事は無い。だから溜息をついてうさぎも椅子から立ち上がったところで声を掛けられた。

「お前さん、結婚するのか?」
「耳が早いですね」

もう、今更山口が情報通だったところでうさぎに驚きは無い。グレーだと知っているくらいなのだから、結婚話くらいはあっさり入手出来るに違いないとうさぎには思えた。

「そりゃあ、お前、正門前で派手にプロポーズかましてたら誰だって知ってるだろ。しかも、相手があの人気俳優の岡嶋ときた。女共がギャーギャー言ってたぞ。おっ、そういやついでに男連中も騒いでたか」
「岡嶋さん、人気あるみたいですし」
「お前さん、馬鹿……ではないなぁ、致命的に鈍いのか、わざと避けてるのかどっちだ?」

山口の言いたいことが分からず眉根を寄せれば、銜えていた煙草を消したかと思うと、すぐさま煙草を銜えて火を点ける。

「確かにあの容姿だから女子供にゃ受けるに違いないが、どう見ても岡嶋が男連中に受ける訳ないだろ。男連中が騒いでたのはお前さんだ、お前さん」

指差されてうさぎはさらに顔を顰める。大学内で定期的に声を掛けてくる男子生徒はいたけれども、うさぎは極力、講義や研究に関わる人間以外と話すことはしていない。そういう付き合いは今はしたくなかったこともあったし、元々幼少時の出来事、そしてラストとの出来事があって、男嫌いは更に加速している気がする。

「後者です。気付いてない訳ではありませんから」
「ふーん、男嫌いの噂は本当か」
「そう受け取って貰って構わないですよ」
「でも、岡嶋は特別、と」
「何か問題ありますか?」

プライベートに関わる問題まで発展してきて、うさぎは徐々に面白く無い気分になっていた。正直、自分のプライベートを他人に曝け出す気は全く無い。今、それをするのはあの二人だけで、うさぎにはそれ以上必要無い。

「就職する気はない、と?」
「……さぁ」

曖昧な答えになったのは、うさぎ自身、本当に岡嶋が結婚する意思があるのか分からなかったこともあるし、本当にうさぎが結婚するという実感も無かったからだった。

「お前さん、家庭で大人しくしてられる性格じゃないぞ」
「私は穏やかな生活を望んでいるんですけどね」
「こういう騒ぎは控えろって言ったのになー」

ぼやくような山口の声は、既に独り言のようで答えを求めていない気がした。だからこそうさぎは「失礼します」と声を掛けると山口の部屋を出ると扉を閉めた。扉を閉めるまでの間、山口はそれ以上何かを言ってくることは無かった。

借りた資料を両手で抱えながら廊下を足早に歩く。

うさぎはただ穏やかな日々が欲しかった。近くに必要としてくれる誰かがいて、それだけでいいと思っていた。だから、大学にいるこの三年と少しの間、本当に穏やかな気持ちで過ごすことが出来た。けれども、動き出した何かがあって、学生である残りわずかな時間、生活は穏やかとはいかない予感があった。

家に帰りすぐに借りた資料を開く気にもなれず、いつものように化粧を落としたうさぎは留守電のランプがついているのに気付き再生ボタンを押した。二件あった留守電は父と母、それぞれからのもので、結婚に浮かれた様子の母の声と、認めないとばかりの憮然とした父の声が入っていてうさぎはその対極とも言える反応に思わず笑ってしまう。

どうやら岡嶋は既に動いているらしく、両親に挨拶だけは済ませたらしい。岡嶋がうさぎの両親について覚えていたことにも驚いたけれども、予想よりも早い動きにうさぎは困惑もしていた。

本当に自分は好きでもない相手と結婚していいのだろうか。その不安は岡嶋に結婚しようと言われて頷いた時からうさぎの中にあった。でも、岡嶋が言うように、岡嶋と結婚して専業主婦という肩書きになれば、梶が接触してくることは無くなるに違いない。

ただ、うさぎはずっと喉に小骨が引っかかったように考えていることがある。自分が弱いことは知っている。けれども、そうやって一生守られるだけの生活をしていいのだろうか。それは、岡嶋の結婚を受け入れてからずっとうさぎの中にしこりのように残っている気持ちでもあり、その答えをうさぎは探せずにいた。

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