眩むような日差しの強さに、うさぎは目元に手をあてて抜けるような青空を見上げた。飛行機雲が一筋あって、夏らしい青空がそこには広がっていた。
あの非日常だった夏からもう五度目の夏になる。そして、夏になる度に思い出してうさぎは苦く笑う。
あれから色々と周りは慌ただしく変化した。夏休みが終わって沙枝の口から婚約を解消したことを聞いたけれども、高校生という移り変わりの早い時間の中で、夏休みの一ヶ月は長過ぎたのかもしれない。三年に上がるまで沙枝と利奈とはどこかぎくしゃくしたまま三年のクラス換えで別のクラスになり会えば挨拶する程度の仲になった。
そして大学に入ると、うさぎは念願だった一人暮らしを始めた。いつ誰が帰ってくるか分からない家で待っているよりも、最初から一人だと思えば期待もしないしずっと気楽だった。大学のレポート類があるから、パソコンは持っているしメールでの遣り取りも必要となればする。けれども、調べもの以外でうさぎがネットに繋ぐことはずっと減った。
岡嶋は大学を卒業と同時にプロダクションに所属し、その夏に出たドラマが当たり、今は結構テレビで見かける俳優になっていた。そんな岡嶋だけれども、時折ポツポツとメールをくれて一ヶ月に一度の割合で食事に行ったりもする。
梁瀬は大学卒業後、システムセキュリティーにそのまま入社した。そして驚いたことに、入社して三ヶ月後に美樹と本当に結婚した。上司として結婚式に梶を呼ばなければいけないからと相談を受け、うさぎは結婚式への出席は辞退させて貰った。後日、初めて会った美樹はとても優しい温かくパワフルな人で、梁瀬とはとてもよく似合っていた。時折、家に呼ばれて食事を一緒にさせて貰うこともあり、梁瀬とも付き合いは続いていた。
そして梶とはあの夏から全く連絡を取っていない。五年も経つのに、苦い思いはまだ心の奥底に沈んだままで、忘れることも捨てることも出来ずにいた。岡嶋や梁瀬も分かっているのか、同じ会社にいる筈の梁瀬の口からも梶の名前が出てくることはこの五年間、一度も無かった。けれども今や巨大企業となったシステムセキュリティーは、うさぎが目を通すような雑誌にも名前が出ていたりして業績は順調のようだった。ただ、どこに梶の写真が載っているか分からない雑誌を開くことはうさぎには出来ず、名前を見るだけで今だ苦い気持ちになった。
それでも五年という月日は傷ついていた心は徐々に癒してくれているように思えていた。そんな中で、うさぎはいまだラストから貰った連絡先を捨てられずにいた。岡嶋や梁瀬に言ったら怒られそうだけど、まだここという確たる場所をうさぎは見つけられずにいた。だからこそ、ラストからの連絡先を捨てられずにいるし、岡嶋や梁瀬にラストと会ったことを言えずにいた。
目に入れなければ梶のことは苦い初恋の想い出になるとばかり思っていたのに、求人募集にシステムセキュリティーの名前を見た時には、心臓が止まってしまいそうなほどの衝撃だった。別にシステム系の大学なのだから求人があってもおかしなことではないとうさぎにだって分かっている。けれども、理解しているのと感情は全くの別物だった。癒えつつあっても、直撃されたらまだ心は痛い。求人欄に書かれた社長の名前は梶のもので、フルネームを見た瞬間に視線を外した。
「うわ、すげーシステムセキュリティーからも求人きてるじゃん」
「去年も来てたらしいけど、先輩が言うにはうちからも何人も受けたけど全員撃沈したらしいぜ」
そんな声を耳にしながらも、うさぎは求人の張り出された掲示板から足早に離れると、人のいない静かなベンチに座ると掌で顔を覆う。涙は出てこない。けれども、胸の痛みをどうしていいか分からない。出会ってから梶と過ごした時間の何倍も経っているというのに、立ち直れない自分が情けなくもあり、そんな自分に笑いたくなってくる。
大学も四年に上がった頃から、教授を通して幾つかの企業から就職関連の話しが上がって来ている。その中で一番の大企業はルナスペースで、うさぎとしては苦笑するしかなかった。会社が会社なのでグレーとしての腕が買われていることは分かっていたけれども、もう、うさぎはハッカーとして何かをする気持ちにはなれないし、したいとも思えなかった。だから、一番最初に断ったのもルナスペースだった。
声を掛けてくる企業は、ある程度教授とも繋がりがあるらしく、レポートを見たとか、推薦されたとか、そんな理由が多かったけれども、幾つかの企業は何故うさぎに声を掛けてくるのか理解に苦しむところもあり、そういう所は恐らくグレーかシステムセキュリティー繋がりだろうと結論つけて、こちらについても既に断りを入れた。それでも幾つかのオファーが残り、卒業までの半年と少し、うさぎの就職先はほぼ確保されたといっても良かった。
そして今日は、割合と親しくさせて貰っている人工神経学の教授である山口から提出レポート用の資料を借りるために大学へと来ていた。山口は生真面目すぎだと嘯きながらも、事前に言ってあった資料は揃えてくれていて、うさぎは礼を言ってそれを借り受けた。
それから三日間、家の中に籠ってレポートを仕上げたうさぎは、借りていた資料を返すために山口の元を訪ねれば、途端に軽く口笛を吹かれて眉根を寄せる。まず、資料を借りたお礼をしてから、改めて楽しげにうさぎを見ている山口へと視線を向ける。
「先程の口笛はどういう意味ですか?」
「お前さん、顔広いなー」
そう言って投げられたのはどこにでも売ってるような週刊誌で、一体何かと思いつつ開かれたページを見ればそこに映っていたのはうさぎと岡嶋だった。一般人のうさぎの目元は隠されているけれども、これは見る人が見ればうさぎだと気付くに違いない。
「教授でもこういうもの読むんですね」
「読みますよー、人の不幸は蜜の味って言うでしょ。で、実際、彼との関係は?」
「昔からの友人でそれ以上でもそれ以下でもありません」
「えー、つまらないなぁ。それにしても顔広いねー。芸能人の岡嶋に、国宝の寒河江の爺さん、それに今や日本を代表するIT企業システムセキュリティーの梶」
出てくる名前に思わず勢いよく山口を見れば、その顔にはニヤニヤとしたいつもの笑みが浮かぶだけだ。
「岡嶋さんはともかく、他は知りませんよ」
「おやおやー、嘘はよくないよー」
いつでも人をおちょくるような話し方をする山口を、うさぎは余り好きでは無かった。けれども、他の教授のようにセクハラをするようなことも無く、下らない自慢話をすることも無い山口とは、色々なためになる話しを聞けることもあり親しくしていた。
「……何が言いたいんですか」
「んー、蛇の道は蛇って言うでしょ?」
人工神経学の教授をする山口は、近年の人工知能の立役者でもある。医療ネットワークに人工知能を組み込むことで医療ネットワークを爆発的に発展させたのはこの人がいたからだとうさぎだけでは無く、この教授の授業を選択している生徒であれば誰でも知っている。
ネットに上がる不平不満は、ある意味開発の基礎になることも多い。それを知るためにネットサーフする人間は多いし、恐らくこの教授もそうして意見を取り入れているのだろう。けれども、ネットワークに人工知能を組み込むということはそれだけネットサーフもしていれば、ネットワークにも精通しているに違いない。
うさぎがグレーとして活動していたのはもう五年以上前のことだ。山口は果たしてうさぎのことをどこで、いつ知ったのか。
「何を知ってるんですか?」
「あー、そういう怖い顔するなって。別に脅そうとかそういうつもりは全然無いから。実は俺の知り合いに加賀谷って奴がいてな。そいつから聞いたんだよ。まぁ、色々とな」
「加賀谷?」
そう言われてもうさぎにはピンとくる人物は思い当たらず、徐々に過去へと遡った時にその名前へと行き着く。
「加賀谷……誠二」
「ご名答! 大した記憶力だな」
パチパチと拍手をする山口にうさぎは身構えたところで、山口はテーブルの上に置いてある何かをうさぎに向かって放る。とっさに受け取った小さな物を確かめるようにうさぎが手を開けば、そこにあったのは飴玉だった。困惑しながら山口へと視線を向ければ山口はにんまりと笑顔を浮かべる。
「正解のご褒美。まぁ、誰かに言ったり、あいつと違って脅したりしないから気にすんな」
「気になります。それに教授が言っていなかったとしても、その加賀谷さんが言って回っているなら私的には非常に問題なんですけれども」
「まぁ、一時期ネットで時の人になったグレーだし? まぁ、座れば」
そう言って山口に椅子を差し出されると、グレーの名前まで出されたうさぎとしては座る以外の選択肢は無い。交代するかのように立ち上がった山口は部屋の片隅にあるコーヒーサーバーで二つのコーヒーを用意すると、その内の一つをうさぎへ差し出してきてうさぎとしては強張る手で受け取った。
「有難うございます」
「まぁ、そういう所は本当にいい子だよな、お前さん」
そう言って再び椅子に腰掛けた山口は、相変わらずヘラヘラと笑っていてうさぎとしては居心地が悪い。
「まぁ、あいつも俺以外に口外することは無いから一応安心しておけ。じゃないと、あいつ自身の首が飛ぶしな」
「社長秘書、だからですか?」
「そういうこと。あいつも命令でやらされていたことだから見逃してやってよ」
そんな軽く言われてもうさぎとしても困るし、既に加賀谷との接触は過去のことだだから見逃すも何もない。関わらないでいてくれるなら、それで構わないという気持ちでしかない。
「いつから知っていたんですか?」
「桜庭が入学してきた時から」
確かにこうして山口のところに足を向けるようになったのは、山口に声を掛けられて資料運びをした時に人工知能について質問したのがきっかけだった。
「だから私に雑用ばかり押し付けてたんですね」
「いや、お前と話してると面白いからってのもあるんだけど、まぁ、興味が無かったとは言わんな」
音を立ててコーヒーをすする山口は、今年で四十になると聞く。恐らくうさぎが会った加賀谷は五年前には三十半ばという記憶があり、同年代と思えば、繋がりがあっても不思議では無い。
ただ、このままここに自分が座っていていいのか、うさぎは判断に迷う。ハッキングをした為に五年前に十分痛い目には合ったし、癒えない傷も負った。これ以上は自分を守るためにも傷口を広げるような真似だけはしたくなかった。
「そんな桜庭に忠告を一つ」
不意に笑みを消した山口に、思わずうさぎもその空気に飲まれて動きを止める。
「もうハッカーとして動く気がないなら、今オファーのきてる企業は全部切れ」
「……どういうことですか?」
「どうもこうもないだろ。お前さんのハッカーとしての腕を求められてるんだよ」
それは今オファーのある企業全てがうさぎのことを知っているということなんだろうか。今年の四月になってから何件のオファーが来たか、それを考えただけでうさぎは嫌な汗が噴き出すような気がした。
「知られてる、ってことですか?」
「蛇の道は蛇って言っただろ。お前さんが思ってるよりも有名人だよ、お前さん。まぁ、これ以上の痛い腹探られたくなければ、こういうのは無しにしておけ」
そう言って山口が指先で軽く叩いたのは、先程うさぎが見せられた週刊誌だった。うさぎは小さく深呼吸して気持ちを落ち着けてから、改めて口を開いた。
「どうしてそんなことを言うんですか?」
「勿論、可愛い教え子だからなー、というのは建前。このままどこにも就職しないで俺の助手になってくれないかなー、というのが本音」
ニヤニヤと再び笑い出した山口の本気はどこにあるのか分からない。けれども、忠告は本気だったと分かるからうさぎは小さいマグカップに入れられたコーヒーを飲み干すと、椅子から立ち上がった。
「桜庭?」
問い掛けには答えず、流しで自分の使ったコップを洗うと棚にしまってから山口へと向き直る。
「ご忠告には感謝します。けれども、教授の助手だけは絶対に嫌です。失礼します」
その言葉に嘘は無く、うさぎは一礼すると山口の部屋を後にした。助手云々はともかく、色々な所に知られていることにうさぎとしてはどうするべきか考えなければならない。今のところ強引に出てくる企業は一社も無かったけれども、うさぎがグレーという事実を知られているとすればそれを盾に入社を脅してくる企業もあるかもしれない。それはうさぎの本意では無い。
自分が作りだしたグレーに怯えて過ごすような真似はうさぎだってしたくない。だとすれば一体何をするべきか————。
そんなことを考えながら歩いていれば、うさぎの持っていたバッグの中で携帯の呼び出し音楽が鳴る。その曲は五年前、梶の携帯から聞こえたワルツの音楽で、慌てて携帯を取り出すと画面を確認する。そこに表示されていたのは岡嶋の名前で、うさぎは慌てて通話ボタンを押すと耳にあてた。
「うさぎちゃん? ごめん、週刊誌の件、俺も今マネージャーから聞いたんだ。そっちに何かあった?」
「あったような、無かったような……とにかく大したことじゃないので今度会った時にでも話します。岡嶋さんもまだお仕事中じゃありませんか?」
大したことは十分にあったけれども、恐らく岡嶋の考えていることとは大分違うことくらいは予想がつく。伝えることは簡単だけど仕事中の岡嶋に電話口で伝えるようなことはしない。聞けば岡嶋が気ににすることは分かっているから、今度会った時でも構わないと思った。
何よりも、岡嶋とはまた近い内に会うに違いない。前回会ったのが半月程前だから、恐らくこの一、二週間以内には会うに違いない。その間に今あるオファーを断っておくことが出来たらベストに違いない。
「まぁ、そうだけど。それなら近い内にまた連絡入れるよ。今回の記事で何かあった場合は言って。文句なら幾らでも聞くから」
少しおどけた口調の岡嶋にうさぎは笑いを誘われつつも返事を返す。
「分かりました。お仕事頑張って下さい」
そんな会話で電話を切ると、うさぎは大きく溜息を吐き出した。
加賀谷と山口の件にも驚かされたけど、正直、岡嶋の件にも驚かされた。週刊誌に載るということに驚くよりも、岡嶋が週刊誌に追い掛けられるような立場になっていたことに気付いて驚いた。元々、うさぎは余りテレビを見ないこともあって、岡嶋の口から仕事内容は多少聞いていたけれどもそこまで有名人になっているとは思ってもいなかった。遠い人になったんだ、と思ったらうさぎの気持ちに北風が吹いた気がする。
あれから五年、五度目の夏が来る。それは感慨深くもあけど、まだ痛みを伴うことにうさぎは小さく苦笑する。
岡嶋からの電話の後、担当教授にレポートを提出してその足で大学を出たところ、懐かしい人がいて足を止める。こちらには気付いていない様子だったこともあり、悪戯心で背後から声を掛けた。
「麻紀さん」
うさぎの声で勢いよく振り返った麻紀は、驚いた顔をしてから艶やかな笑みを浮かべた。
「うさぎちゃん、久しぶりじゃない」
「麻紀さんもお久しぶりです。こんな場所でどうかされたんですか?」
「仕事に決まってるじゃない。何、私が今更大学に行くと思った?」
逆にからかうように言われてしまい、うさぎは反応に困る。けれども、そんなうさぎの態度にも麻紀は笑うと近くのカフェを指差した。
「お茶しない?」
「お仕事いいんですか?」
「いいのよ。もう終わってるから」
気軽な言葉にうさぎはホッとしつつ大学近くにあるカフェに二人で入った。沙枝と利奈の件があって以来、うさぎは友人を作ることを辞めた。大学内で研究や論文の関係で知人はそれなりにいるけれども、こうして気軽にカフェに入るような友人というのは一人もいない。最初から期待するくらいなら、期待するような状況を作らなければいい、というのはうさぎが出した結論でもあった。だからこそ、こうして麻紀とお茶を飲めるという状況は嬉しくもあった。
「大学はどう?」
「結構ハードです。正直、甘く見てました」
「でも、生き生きしてるって感じに見えるけど」
「大変ではあるんですけど、好きな事を勉強するのは楽しいです」
そんなうさぎの答えに麻紀は満足そうに頷く。この人の凄いところは、会ったのは五年前になるというのに全く外見が変わっていないことだと思う。
「麻紀さんは変わらないですね」
「そんなことないわ。ほら、爪とかもうよく見ると縦割れしてるし、顔に皺は寄るし最悪よ」
そうは言われても、うさぎにはそんなに変わってないように見える。
「うさぎちゃんは変わったわね。綺麗になった」
「麻紀さんに貰った口紅に似合うように努力しましたから」
「あら、言うようになったわね。でも、もうあの口紅はうさぎちゃんには子供っぽいくらいに綺麗になってるわ。それから、眼鏡は止めて正解よ」
大学に入ってから外見に気を使うようになったうさぎとしては、誉められると悪い気はしない。少しの間、お互いの近況などを話し、麻紀に電話が掛かってきたところでお茶の時間は終了した。わずか三十分ほどの会話だったけれども、うさぎにとっては楽しい一時でもあった。
家に帰るとうさぎが一番最初にすることは、化粧を落とすことだった。残念ながら今のうさぎには似合わなくなってしまったけど、今でも麻紀に貰った口紅は大切に取ってある。化粧ポーチの中を懐かしい気分で眺めてから、ふと鏡の中の自分を見る。麻紀と出会った頃とは全く違う自分がいて、不意に疑問が頭を過る。
高校時代の人間に何度か会う機会があったけれども、誰一人、一目でうさぎと分かる人間はいなかった。あれから眼鏡もコンタクトに変えて、背中まであった髪は肩につくかつかないか長さに切ったし、毛先はでパーマも掛けて明るい色にカラーもしている。顔立ちだって心持ちほっそりしたし、それによって目鼻立ちも随分変化した。
けれども、麻紀はすぐにうさぎだと分かったことに気付いて、胸の奥がざわめいた。うさぎが知っている人間で、麻紀と共通の知り合いは二人しかいない。その内の一人は既に他界していて、もう一人は五年間、一度も連絡を取っていない。
果たしてこれは偶然なのか。そこまで考えて、うさぎは考えることを拒否した。
そんなことはありえない。そう結論づけると、うさぎは鏡の前から移動すると、買って来た野菜類を冷蔵庫へしまう。相変わらず料理は好きでは無いけど、それでも時折訪ねる美樹に教えて貰ったりして多少レパートリーは増えた。
夕食の用意をするにはまだ早い時間ということもあり、うさぎは本棚から読みかけだった研究資料を取り出すとソファに座り視線を資料に落とす。けれども、穏やかだった生活の中でざわめきだした空気はうさぎにも感じていて、確信の無い予感があった。また、あの頃のような何かが来ると————。
そして、うさぎの予感は一週間もしない内に的中した。
うさぎが取っていた講義の一つで梶の講演が決定した。講演だけであれば別に出なければ問題も無かったが、それについてのレポート提出が義務づけられたからうさぎとしては笑ってる場合では無い。レポートを出さなければ厳しく減点をする講師なのは分かっているので、出ない訳にはいかない。
グレーのIDは大学を入る際に捨ててしまったし、実家で使っていたうさぎのIDも既に捨てた。一人暮らしをする際に新たなネット用のIDは作ったけれども、うさぎは必要最低限しかネットに繋ぐことはしない。けれども、梶ほどの人間であればうさぎの居場所などすぐにでも見つけられるだろう。
ただ、梶がここへ講演へ来るのは果たして狙ったものなのか、ただの運命のいたずらなのか、うさぎには分からなかった。それでも五年、それまで一度も連絡が無かったことを考えれば、恐らく偶然なのだろう。うさぎはそう思いたかった。岡嶋たちに言うべきか悩んだけれども、思い過ごしだと恥ずかしいこともあり、うさぎは二人に伝えることはしなかった。
大講堂の一番後ろに席を取ったうさぎから、梶の姿は小さく見えるだけだ。大企業の若き社長の講演ともなれば聴講者も半端ない人数に膨れ上がり、大講堂には多くの人が詰めかけた。けれども、これで梶からうさぎの姿を見つけることは困難に違いないと思えばうさぎは安堵することができた。梶の講演はかなり為になるもので、うさぎも興味深く、そして面白く聞けた。
そして一時間の講演が終わり、うさぎは岡嶋たちに連絡しなかったことを後悔したのは講演のすぐ後だった。講演が終わり、席を立とうとしたところで担当教授が三人の名前と時間を読み上げた。その中にはうさぎの名前もあり、部屋から出ようとしたうさぎは足を止める。
「前回出したレポートについて、名前を呼ばれた者は梶先生から個人指導を受けられます。必ず出席して下さい」
恐らく、それを聞いたうさぎの顔色は見る間に変化したに違いない。正直、梶と対面することにうさぎは酷く悩んだ。痛む胸を押さえながらも、もう五年も経ったのだからと自分に言い聞かせたけど、気持ちは怯む。うさぎは指定された時間に講義室前でしばらくの間、立ち尽くしていた。何度もノックをしようとしては出来ずに、手を上げては下ろすという動作を繰り返していた。それを何度繰り返したか分からなくなってきた頃、いきなりその扉は内側から開かれた。
あれから五年、それだけの年月は梶をより落ち着いた、そして年相応の顔へと変貌させていた。けれども、整ったその顔は崩れることも無く、一層深みを増したといってもいい。
「久しぶりだな」
掛けられた声にうさぎは何と言っていいのか分からず、ただ、呆然と梶を見上げる。けれども、梶は周りに視線をやってからうさぎの腕を掴むと部屋の中へ引き入れ、その扉を閉ざした。途端に、うさぎは息苦しくなったように感じる。
「座りなさい」
昔よりも鋭さの無くなった落ち着いた声だったけれども、威圧的な雰囲気は更に増したように感じた。うさぎは気圧されるような気持ちで、梶が引いた椅子に腰掛ける。
「君はこの方向へ進むことにしたのか」
そう言ってうさぎの前に出したのは、前回出した人工知能についてのレポートだった。実際、ネットから離れたところでうさぎがやりたいと思うべきものはプログラムやネットに関わるものばかりで、それ以外に出来るものが無かったということも大きかった。数ある専攻の中で人工知能の講義を取ったのは、ただ単に自分が知らない分野を知りたいと思ったからだ。
「レポートに目を通したが非常に良く出来ている。講師も君のことは褒めていた」
有難い言葉だというのに、うさぎにはどこか現実感の無い言葉でもあった。それからしばらく梶が自分を見ていることは分かっていたけど、どうしても視線を合わせることが出来ない。
「……来年卒業になるが、院に進むつもりか?」
「いえ、一応就職する予定です」
どうにか答えた声は自分でも分かるくらい緊張したものだった。けれども、梶はそれを気にした様子もなく淡々と言葉を紡ぐ。
「それならうちへ就職しないか。君ももう大人だ、過去のことはもう忘れてもいい時期————」
言葉を最後まで聞いてはいられなかった。うさぎは手元にあるレポートを梶へと投げつけると椅子から立ち上がる。
「ふざけないで下さい! 忘れる? そんな簡単に気持ちが変わると思ってるんですか! 例え就職難であってもあなたの会社にだけは入りません」
どうにか震える声でそれだけ言うと、逃げるようにして部屋を出ようとした。うさぎが辞めた後、岡嶋から梁瀬を含めた三人での遣り取りがあったことを聞いた。そして、その時に梶がうさぎの気持ちに気付いていたことも聞いていたし、知っていて知らないふりをされていたことが痛くもあり、腹立たしくもあった。今は言葉を投げつけたからなのか、腹立たしさよりも痛みの方が先行していて、うさぎはこれ以上梶と顔を合わせていたくなかった。
あれから梶のことで泣いたことは無い。それなのに、うさぎは久しぶりに泣きたい気分になった。
扉に手を掛けたところで背後から腕を掴まれて、強引に振り向かされる。逃げられないように両腕を掴まれ扉を背後にして梶と向かい合う。座っている時には気にならなかったけど、立てば身長差もあり真剣な顔で見下ろしてくる梶が怖いと思った。
「君は、岡嶋と————」
背中にあたる扉の向こう側からノックの音が聞こえて、思わずビクリと身体が竦む。それは梶も同じだったのか、うさぎの腕を掴む両手が微かに震えたのがうさぎにも伝わった。
「入っても宜しいでしょうか」
その声に梶の手が緩み、うさぎは慌てて掴まれた手を振りほどき、梶に背中を向けると扉を開けて廊下へと飛び出した。廊下で待っていたのは同じ講義を取っている人だということは分かったけれども、呆然としているその横をすり抜けてうさぎは廊下を走る。恐らく、おかしいと思われたに違いないけど、今のうさぎはそれ所じゃない。とにかく、今すぐ、この場から逃げ出したかった。
廊下をただひた走り、荷物も持たずに大学から飛び出せば、門を出てすぐの所で岡嶋と鉢合わせする。余程急いで来たのか、その額には汗が浮かんでいる。
「うさぎちゃん! 梁瀬から連絡があって梶さんがここへ来てるって」
「もう嫌です、助けて下さい!」
何もかもが苦しくて仕方ない。五年経って忘れられない自分も、期待しそうになる自分も、変わらない梶も全てが嫌だった。感情が爆発したかのようにどうしていいか分からず、目の前にいる岡嶋に近付くとその胸元のシャツを握りしめた。甘えているのは分かっていたけれども、今は苦しくて壊れそうな自分を誰かに助けて欲しかった。
ゆっくりと岡嶋の腕が背中に回り、うさぎは岡嶋の腕の中に閉じ込められる。
「……うさぎちゃん」
名前を呼ぶ岡嶋の声も辛そうなもので、うさぎは縋るように岡嶋のシャツを更に握りしめる。こんな自分は弱すぎると思う。けれども、今は誰かに縋らないと自分で立てそうにない。五年という月日で傷は癒えた気がしていたけど、やはり直撃されたら痛いし、どうしていいのか分からない。
「ねぇ、俺と結婚しようか」
一瞬、聞き違いかと思った。だからこそ、確認するようにうさぎは岡嶋を見上げたけれども穏やかな顔で岡嶋は笑っている。
「うさぎちゃんが良かったらだけど、俺と結婚しよう」
「な、んで……」
「大々的な名目でうさぎちゃんを守れるようになるから。もし、うさぎちゃんに好きな人が出来たら別れても構わない。うさぎちゃんの腕があれば、自宅で仕事だって出来るから会社に勤める必要は無いし、何なら俺と梁瀬がやっていた仕事を再開してうさぎちゃんが後をついでも構わない。合法的に梶さんからうさぎちゃんを守ってあげられるよ」
恋に溺れて人生を踏み外す話しは何度も聞いたし、目にもした。それはニュースであったり、新聞であったり、ネットであったり、大学構内であったり、色々な場所で見聞きした。
けれども、自分がその立場になれば、その気持ちだって分かる。どうにもならない激情が身体中を渦巻いていて、自分一人ではどうにも出来ない。
そして、岡嶋の言葉は逃げ出したいと願う今のうさぎには甘い誘惑でもあった。だから、うさぎはその誘惑に抗えずそのまま一つ頷いた。抱きしめている岡嶋の腕に更に力が籠るのが分かったけど、うさぎは何も言えずに岡嶋の胸に顔を埋めた。