Act.21:セパレーション 離別

二週間の合宿を終えて岡嶋が自分の家へ帰れば、扉の前で待っていたのは梁瀬だった。

「よっ、お疲れさん」
「どうしたんだ、珍しいな」

家への行き来はあるし、梁瀬がここへ来るのは珍しくは無い。けれども、連絡も無しにここへ来るのは珍しいことだった。

「いや、帰らないなら帰らないでもいいかと思ったから連絡しなかったんだけど、悪い、疲れてるよな」

そして更に珍しく気遣いを見せる梁瀬に、岡嶋は不可解さを覚える。

「別に疲れてはいないよ。昨日は殆ど打ち上げだったしね。入って」

鍵を開けて扉を大きく開けば梁瀬は、いつもよりも随分と消沈した様子で家の中へと入った。こんな梁瀬を見るのは珍しいことに思える。

先に部屋へ入った梁瀬は勝手知ったるという勢いで部屋の電気を点けると窓を開けた。蒸し暑い部屋の中に夜の幾分ぬるい風が入ってくると、少しだけ体感温度が落ちる気がした。岡嶋は早々に持っていたトランクケースを壁際に追いやると、手に持っていたビニール袋をテーブルの上に置いた。

「ビールしかないけどいい?」
「ん? あぁ、そうだな、ビールの方がいいかな」

どこか曖昧な返事は本当に梁瀬らしくないと思いつつ、岡嶋は冷蔵庫の中からビールを二缶取り出すと一本を梁瀬に手渡した。二人してフローリングの上に座り込むと、岡嶋はテーブルの上に置いたビニール袋の中から豆やら乾きものなどを取り出して広げる。いつもであれば、こういう時に率先して話し出す梁瀬が黙っているのは珍しい。

「で、何の話し?」

切り出せば、梁瀬はしばらくの間、迷う素振りを見せたけれども、大きな溜息をつくとビールの缶を開けてグーッと飲み出したのを岡嶋は冷静に観察する。幾分疲れは見えるものの、見た目は余り代わり映え無い。けれども、正直、無口な梁瀬というのは見慣れないだけに困惑する。

半分程を一気に開けたのか、もう一度大きく息を吐き出した梁瀬がようやく岡嶋へと視線を向けた。

「オレ、もう、ちょっと見てられないかも」
「色々と説明が無さ過ぎてコメントに困るんだけど」
「うさぎちゃんのことに決まってるだろ」

その言葉だけで、梁瀬が言いたいことが分かった気がする。岡嶋が梶に会ったのは梁瀬の実家前で会ったのが最後だったが、その時点で梶の言動に違和感を感じた。

少なくとも、岡嶋が知る限り光輝の手前とは言え、梶がああいう言動を出来るタイプとは思ってなかったし、それらしい言動を見たことは一度も無かった。むしろうさぎへの対応を見る限り、女性への扱いは余り上手く成さそうだとすら思っていただけに、光輝の前でよくあんな言葉が出て来たもんだと驚いたものだった。今までの素っ気ない程の対応から、あの時のような態度に変化して継続されたままであるなら、うさぎはかなり辛い立場にあるに違いない。

「あの人、相変わらず君が大事だとか言ってる訳?」
「そう、だからうさぎちゃんがもう、何て言うか見てられないくらい疲れちゃっててさ。オレ、こういう時ってどういう風に声掛けたらいいか分からないし、でも、梶さんもうさぎちゃんの気持ちに気付いてるんだか気付いてないんだか、って感じだし」
「それは恐らく……気付いてないだろうねぇ」

呆れて物が言えなくなりそうだったが、溜息混じりにそれだけ言えば梁瀬はがっくりと肩を落とした。恐らく貴美がいなくなったシステムセキュリティーという会社の中に、梁瀬とうさぎは確かに必要な人材なのかもしれない。実際、うさぎ相手だけではなく、梁瀬にも大事だとか言うらしいが、余りにも安易なその言葉にうさぎは随分振り回されているに違いない。

「何だか折角明るくなってきてたのに、うさぎちゃんも徐々に口数減って来ちゃったし……もう諦めちゃえばいいのに」

最後にボソリと呟いた声は、梁瀬の本音だったに違いない。恐らく、バイト中、余程色々とあるらしいことはその言葉だけでも十分理解出来た。

「人を好きになるってそういうもんじゃないって梁瀬だって分かってるだろ。しかも、相手が変に優しければ余計に諦められる筈ないだろ」

他人の恋話ほど馬鹿らしい程は無い。それでも気になるのは、お互いに妹のように思っているうさぎがその中心にいるからだ。

「分かってるよ、分かってるけどさ! でも、あんなの生殺しだよ」
「だったら、うさぎちゃんに告白でも勧めてみたら?」
「言ったよ、でも友達の件もあるからうさぎちゃんからはするつもりないみたいで」
「だとしたら後は本人の問題だろ?」

好きでいるか、嫌いになるか、諦めるか、そんなのは本人の問題であって回りが口を出すような問題じゃない。けど、そう言う梁瀬だって、恐らくそんなことは分かっているに違いない。

「分かってるけど……本当に見てられないんだよ。また、うさぎちゃんがそんな感じだから、梶さんが気を使って食事に誘ったりするもんだからもう悪循環」
「あの人そんなことまでしてるの?」

まさに唖然とした口調を隠すこともせずにいれば、口を尖らせた梁瀬はビールに軽く口をつけてから憮然とした顔を見せる。

「そうだよ、それでうさぎちゃんは断れないしで……なぁ、お前も少しうさぎちゃんに会って話しだけでも聞いてやってよ? いや、忙しいのは分かるんだけど、もう本当にどうにもならない感じでさ」

梁瀬がここまで言うくらいだから、うさぎの状態はかなり悪いのかもしれない。気にならないと言えば嘘になる。そして、近くにいて見ている梁瀬が放っておけない気持ちも分からなくもない。

岡嶋は溜息をつくと、ポケットから携帯を取り出し手早く操作してメールを送る。

「うさぎちゃんにメール送った。会って話しが出来るようならするけど、余り期待するなよ」
「岡嶋ー!」

それこそ喜びで抱きついてきそうな勢いの梁瀬を手で軽く振り払ってから、ようやく岡嶋は缶ビールのプルタブを開けて喉に流し込む。疲れている身体に美味しい筈のビールは、思っていたよりも強い苦みがあって顔を顰める。いつも飲んでいるものと同じ銘柄だから味が違う筈も無く、ただの気分にすぎないことは岡嶋にも分かってはいた。

「お前さ、せめてもう少し話すの後にしてくれたら良かったのに」

ビールの美味しくなくなった理由を梁瀬へ遠回しに言えば、途端に梁瀬の顔が情けないものになる。

「だって、お前も会ったら分かると思うけど、もう本当に放っておけない感じなんだよ。あれじゃあ、食事だってきちんと取ってるか分からないし」
「だからって」
「本当に壊れちゃいそうで不安なんだよ!」

力強く言った梁瀬の目は真剣で、どれだけうさぎが不味い状態なのか先よりもずっと強く感じる。

「追いつめられてる?」
「凄く……多分、梶さんの言葉に浮かれては、期待しないって自分で押さえつけて、精神的にきついんだと思う。ほら、一日の内に感情の起伏激しいと疲れるじゃん。あれだと思う。それに、あと少ししたら学校だって始まるのに、友達とも連絡取ってないみたいだし」
「逃げ場が無い、か」

それは高校生のうさぎにとってかなりきつい状況かもしれない。普通であれば、そんな場所から逃げ出してしまいそうなものなのに、下手に梶が気遣うものだからそれも出来ない。何よりも、うさぎの真面目さがそれを許さないのだろう。

「お前から逃げろって言ってやればいいだろ。そこまで不味い状況だと思うなら」
「そうかもしれないけど」

その後は言葉を飲み込んでしまったのか梁瀬から続く言葉は無く、岡嶋は大きく溜息をついた。大抵のことには思い切りのいい梁瀬なのに、どうにも恋愛感情が絡むとぐだぐだになりがちなのは昔からだ。何よりも梁瀬自身、うさぎにシステムセキュリティーを辞めて欲しく無いという気持ちが根底にあるから言い出せないに違いない。

困ったような顔で俯いていた梁瀬だけど、急に顔を上げた途端、真剣な視線を投げてきて、それを受けながら岡嶋は乾きものへと手を伸ばした。

「なぁ、梶さんってうさぎちゃんのことどう思ってると思う?」
「それは俺に聞かれても答えられないよ、俺は梶さんじゃないし」
「それは分かってるよ。ただ、お前から見ててさ」

質問された時点で梁瀬の聞きたいことは分かってはいた。けれども、正直、岡嶋はそれを口にしたくなかったからこそのお断りの言葉だったけど、やはり梁瀬に通用するものでは無いらしい。

本当にうさぎがどうにもならないくらい不味い状況であるなら、いざとなれば梁瀬が動くと思うから、状況はまだ平気だろう。だからこそ、本当にどうにもならない状況でない限りは余り他人の恋愛に首を突っ込みたくはない、というのが岡嶋の本音でもあった。
うさぎのことは気にはなるけど、気になるからこそ苦手としている他人との交遊や恋愛について口を出すのは控えたかった。

「……無いだろうね、そういう気持ちは全く」
「はぁ、岡嶋にもそう見えるならやっぱり無理か。オレから見ても、梶さん、今は仕事で手一杯って感じだし。まぁ、それでも面倒見は前よりもいいくらいなんだけど、多分、あれはそういう意図じゃないだろうしなぁ」

溜息混じりにそう言った梁瀬は、チビチビとビールを飲んでいる。恐らく梁瀬のビールも余り美味しいものではなく、岡嶋と同じように苦味の強いビールに違いない。

「ただ、もしかしたらうさぎちゃんの気持ちには気付いているかもしれないね」
「はぁ? それであの言動だったらスゲームカつくけど」
「あれだけうさぎちゃんからのアピールがあって気付かないって、どんだけ鈍いの、って話しになるでしょ。それに、あの人も必死なんだよ。うさぎちゃんを引き止めるのに。前にお前が言ってただろ、卒業後にシステムセキュリティーに引っ張りたいって」
「確かに言ってたけど……まさか、そのためにあの言動?」

言った岡嶋にも確信がある訳では無い。ただ、梶もいい年なのだからそこまで他人の感情に疎いとは思えない。あの顔立ちであればそれなりに恋人だっていただろうし、あの立場であれば取引先との商談だってあるのだから、他人の感情に疎ければ今まであの立場にいられるとは思えない。少なくとも、貴美はそこまで身内に甘いような人間だとは思えなかった。

「まぁ、その為というよりかは無意識かもしれないけどさ。だって、お前にもその調子なんだろ?」
「はは、聞いてて時々鳥肌立つぞ」

思い出したのか梁瀬は軽く身震いすると、ビールを一度手にしたが口をつけることなくテーブルに置かれた乾きものへと手を伸ばした。既に岡嶋もつまみにばかり手が伸びて、ビールは喉を多少潤すためのものでしか無くなっている。

ほんの僅かの間に落ちた沈黙の中で携帯がメールの着信を知らせてきて、岡嶋はテーブルに置いてある携帯を手に取った。返信はやはりうさぎからで、そこには了承すること、そして会うのが楽しみだと書いてあり、岡嶋は小さく苦笑した。

「何、うさぎちゃん?」
「うん、空元気って感じだな」
「会社でもそうだよ。でも、余り笑わなくなった」
「あの調子で梶さんが壊れてるなら、笑えなくもなるだろうね。明日、会ってみるよ」

梁瀬の実家前で会ってから一ヶ月、うさぎとは連絡を取っていないからまだうさぎの恋心が本物かどうか岡嶋に確信は無い。それこそ初恋の熱病かもしれないし、吊り橋効果かもしれない。ただ、初恋だとすれば少々、いやかなり厳しい展開には違いない。なまじ頭が回るだけあって、思い切り相手にぶつかることも出来ずに悶々とした日々を過ごしているに違いないことは岡嶋にも想像はついた。

「マジで頼むな。本当はオレが上手く聞けたら良かったんだけど」
「まぁ、九月になる前で良かったよ。俺も九月になったら身動き取れないから」

九月から十月までの一ヶ月は本公演が入るから、岡嶋としては大学と劇団に時間を取られて動けないことが分かっている。うさぎにとって少しでも気晴らしになればいい、それくらいの軽い気持ちで岡嶋は久しぶりに会うことを楽しみにはしていた。

それからは合宿の様子や、光輝の様子、そして今の仕事など雑談混じりに話しながら夜は更けた。けれども、最後までビールの苦味は岡嶋の舌を刺激して美味しく飲むことは出来なかった。

***

合宿から帰ってきた岡嶋からメールがあり、三時過ぎに待ち合わせをすることになりうさぎは駅前に到着した。人待ち顔で改札にいた岡嶋は、うさぎを見るなりその笑顔が消える。酷い顔をしているだろうことは毎日顔を合わせる鏡と、梁瀬の表情や梶の態度から知っていた。

「お久しぶりです」

約一ヶ月ぶりに会う岡嶋にペコリと頭を下げれば、声を掛けられるよりも先に頭を撫でられた。今まで頑張ったと言わんばかりに何度も撫でられて、少しだけ心が軽くなったような気がした。

「取り合えず、お茶でも飲もうか」
「はい」

出来るだけ元気に返事をして岡嶋と並んで歩く。

夏休み終了まであと三日、気付けば夏だとばかり思っていた季節はいつのまにか秋への移行準備にはいっていたらしい。少し前ならこの時間にある影は真下だったにも関わらず、少しだけ長い影が出来ていてつい吐き出しそうになる溜息をうさぎは慌てて飲み込んだ。隣に立つのは岡嶋だから、溜息なんてついたら失礼だし、岡嶋相手ではすぐに気付かれる可能性は高い。

いつでも岡嶋はうさぎの感情を先読みしていて、それに助けられてきていた。けれども、今のネガティブ思考はさすがに先読みされたいものではなくて、うさぎは少しだけ対応に困っている自分に気付く。もしかしたら、梁瀬さんから言われたからこうして合宿の翌日、疲れているにも関わらず誘ってくれたのかと思うとうさぎは申し訳ない気持ちになる。

自分の気持ちなのにままならないのは、本当に困る。もう、いい加減諦めたらいいのに、とうさぎ自身思うのに気持ちも感情も毎日梶に振り回されている。この数日は好きという気持ちを試されているのではないかという猜疑心まで浮かび上がってきて、どうにも身動きが取れなくなっている自分にうさぎは気付いてはいた。

けれども、選択肢なんてものは元々無く、沙枝のことを考えればうさぎに出来る選択は諦める以外に無い。そう分かっているにも関わらず、近くに梶がいるからこそ、諦めもつかなければ、時折接する優しさに触れてもっと好きになっていく。その度に、うさぎは罪悪感に捕われて思考は更にネガティブになっていく。

元々前向きな思考ではないうさぎには、ネガティブになればなる程、身体の不調は増えていった。最初は軽い頭痛から始まり、続いて現れたのは不眠、そして最近は食事があまり喉を通らなくなっている。ただ梶を好きなだけならまだしも、うさぎにとって辛いのは沙枝裏切っているようなその気持ちが辛かった。

適当に入ったカフェでアイスコーヒーとアイスティー、そして岡嶋が珍しくケーキを頼むと改めて視線が合った。

「随分痩せちゃったみたいだけど、ご飯食べてる?」
「ちょっと夏バテ気味で」

そう言って笑ってみたけど、目の前に座る岡嶋はいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべているように見える。けれども、その目が笑っていないような気がしてうさぎは急に居心地が悪さを感じる。何だか観察されているみたいだと思ったのは、岡嶋相手には初めてのことかもしれない。信用している相手にすらそう思ってしまうのは、やっぱり精神的に余りいい方向にいないんだろうことをうさぎに自覚させる。

「じゃあ、今日は一緒に夕飯でも食べようか。何か食べたい物とかある?」
「正直、余りなくて」
「うん、でも食べないと生き物だから死んじゃうから、今日はどうあっても付き合って貰うからね」

笑顔で言われてしまい、うさぎとしては何の反応も返せなかった。ここ数日、食べれた物なんて些細なものばかりで、きちんと白いご飯を食べたのはいつだったのかもう思い出せない。食べたいとも思わなかったし、食べられるのか自信も無かった。だから、うさぎの口から咄嗟に出て来たのは嘘だった。

「今日は夕方から友達と会う約束があって」
「……そう」

長い沈黙の後に返ってきた一言に、うさぎは怖くて顔が上げられなくなった。嘘というのはうさぎは必ずしも悪いものではなくて、必要悪というものもあると思う。でも、この嘘が必要悪なのかと思うとうさぎには分からない。一緒にいて気遣わせてしまうのも悪いと思ったけれども、今は岡嶋に色々見透かされることが怖いと思ったのも事実だった。

沈黙の中で頼んだものが並べられると、岡嶋はうさぎの前にケーキを置いた。

「じゃあ、これを食べられたら行かせてあげる」

思わずその言葉に顔を上げれば、岡嶋は笑顔でうさぎを見ていた。穏やかな笑顔を見ていれば聞き違いかと思うくらい、岡嶋の言葉は珍しく強引なものだった。

「あの」
「うん、言葉通りの意味だよ。これ全部食べられたら夕方までにはうさぎちゃんを解放してあげる。でも、食べられなかったら夕飯まで付き合って貰うから」

時折、岡嶋が強引な面を見せることはあったけれども、うさぎ自身はここまであからさまに強引に事を進められたことは無い。ただ呆然とうさぎは岡嶋を見ていたけど、岡嶋の笑顔が崩れることは無い。

「はい、食べて」

そう言って岡嶋が指差すのは彩り鮮やかなフルーツタルトで、色々な果物が飾られている。うさぎも甘いものは嫌いではない。ただ、それは普通の時であれば————。

それでも渋々フォークを手に取ったのは、岡嶋の視線が許してくれそうになかったからだ。取り合えず、赤い色をしたいちごをフォークで刺して口に含む。噛めば甘酸っぱいいちご独特の味がして、甘みが口の中に広がる。いつもなら美味しいと思えるものも、うさぎにとって今は余り喜びを感じられるものでは無かった。

それでも、岡嶋の前だからと次々口に含むけど、半分も食べたところでフォークを置くとごまかすようにうさぎはアイスティーに口をつける。甘みがねっとりと口の中に残る感じで、少し気持ちが悪い。せめて甘みの少ないものであればもう少し食べられるけど、ケーキのような重みのある食べ物は今のうさぎにはかなりきつい。それでも、食べなければ解放されないと分かっているからフォークに手を伸ばしたところで、岡嶋に手首を掴まれてうさぎは顔を上げた。

「もう、いいよ。無理に食べることないから」

先までの笑顔とは違い、困ったような、どこか泣きそうなそんな顔で言われて、うさぎは自分が失敗したことを悟った。

「すみません」

試されていることには気付いていた。けれども、心配されることが分かっているからこそ嘘を突き通したかったのに、それが叶わなくて申し訳ない気持ちになる。

「いいよ、でも夕食には付き合って貰うよ」

途端に胃の辺りが凭れるような感覚があったけど、うさぎは了承の意味で一つ頷いてみせた。頷いたところで手首に触れていた岡嶋のひんやりとした手が離れ、うさぎは持っていたフォークを皿の上に置いた。岡嶋が手にしたグラスから氷同士が当たって涼やかな音がうさぎの耳にも届く。

もう、食べられないことは知られてしまったのだから隠しようもないし、それを分かった上で岡嶋がうさぎを誘ってることも分かる。正直、岡嶋相手に隠し通せるとも思っていなかったところもあったから、ただ、岡嶋を心配させてしまうことを心苦しく思う。

その一方で、岡嶋との間に少しだけ距離を感じるの気がするのはうさぎがネガティブになっているからなのか、うさぎは判断がつけられずにいた。気遣われてるのは前と変わってないし、心配もされている。けれども、うさぎは何かが違う気がした。

「本当はさ」

先程よりも柔らかい声に岡嶋に視線を向ければ、岡嶋はうさぎを穏やかな目で見ていて、ようやく一ヶ月前の岡嶋に出会った気がした。

「弱ってるから優しくしてあげたいんだけど、怒ってるから無理」

一瞬、岡嶋の言った言葉の意味が理解出来ずにうさぎは困惑する。けれども、岡嶋は変わることなくうさぎを見ていて、うさぎも岡嶋をマジマジと見てしまう。

岡嶋は一体何で怒っているのか。少なくとも八つ当たりをするような人じゃないことは、うさぎだって短い付き合いながらに知っているし、先のケーキの件にしても嫌がらせをされたという感じではない。でも怒ってる、というのであれば、それは嘘ではないと思うし、うさぎの何かに怒っているに違いない。

それが少し前のうさぎであれば、理由も分からずに謝ってしまったかもしれない。けれども、今は違う。岡嶋が色々と怒る理由を考えてみるけれども、うさぎにはどうしても分からなかった。

「どうして怒っているのか分かりません」
「うん、そうかもしれないね。うさぎちゃんだし。でも、きちんと考えて」

まるでなぞなぞのようだとうさぎは思いつつも、先程までの岡嶋の言動を色々考えてみる。岡嶋は心配していると思うし、それはうさぎにだって分かっている。一番単純な理由は心配を掛けたことかもしれない、と頭をかすめはしたけれども、それくらいで岡嶋が怒るとは思えなかった。前に一度、心配を掛けてやっぱり岡嶋を怒らせたことがあったけれども、前の時のように危機的状況とは全く違う。あの時は危険だったからこそ怒られたと知っている。

だとすれば今は一体何に対して怒ってる?

浮かんだのは一つの言葉だったけれども、まさか岡嶋がそれを期待しているとは思えない。けれども、いつまでも無言で岡嶋と座っていても何も前に進まない。これ以上食べられることなく半分になったケーキを見つめながら、恐る恐るうさぎは口を開いた。

「相談、しなかったからですか?」
「当たり」

即答とも言える早さで言われて、うさぎは弾かれるように岡嶋を見上げれば、そこには苦笑混じりの岡嶋がうさぎを見ている。

「でも、自分のことなのに」
「うん、けどね、自分のことでもどうしても迷った時には相談くらいはしていいんだよ。そんなに俺や梁瀬は頼りない?」

そんなことは絶対ない。だからこそ、うさぎは勢いよく首を横に振って岡嶋の言葉を否定する。

「今、つらい?」

岡嶋の問い掛けに、少しだけ悩んでから素直に頷いた。自分のことにも関わらず解決出来ず、人に相談しなければならない自分が情けなくて顔が上げられない。決して岡嶋や梁瀬が頼りにならない訳ではなく、ただ、うさぎにとってそんな自分が情けなく、自分自身に嫌悪感を覚えていた。

「少し外歩こうか」

立ち上がる岡嶋の気配に顔を上げれば、穏やかな顔で椅子から立ち上がった岡嶋がうさぎに手を差し出してくる。いつでも、この手に元気づけられているけど、いつでも手を繋ぐ時はうさぎは子供になった気分になる。差し出された手を素直に掴んで椅子から立ち上がり、バッグを持つとレジまで手を繋いで歩く。先までは冷たいと思っていた岡嶋の手は温かい。

クーラーの利いたカフェだったからうさぎの手が冷たくなっているのだと気付いたのは、店を出て夏の日差しに照らされてからだった。岡嶋の足はゆっくりとしたもので、急かすような雰囲気は無い。ただ、ゆっくりと駅前を通り抜けてあてどもなく歩いているように感じる。しばらく歩くと緑のある遊歩道と交差して、遊歩道の上をのんびりと歩き出した。

「まだ、梶さんのこと好き?」

穏やかで静かな声だったから、うさぎは一瞬聞き逃しそうになってしまった。けれども、その声はきっちりとうさぎの耳に届いたからこそ、短く「はい」と返事をした。隣を歩く岡嶋がこちらを見る気配があって、うさぎが顔を上げれば目が合った途端に苦笑される。

「本当に難儀な人、好きになっちゃったね」

同情含みな声に、うさぎは返す言葉を見つけられない。実際に、難儀な人を好きになったと自分でも思う。けれども、やめることも、忘れることも出来ないのが辛い。会わなければまだ、諦めることだって出来たかもしれないのに事情が、立場が気持ちをややこしくする。

「何度も言うけど、梶さんはうさぎちゃんのことをそういう目で見てないよ」

他人が聞けば酷いと言うのかもしれない。けれども、うさぎにはそれが岡嶋の優しさだと知っている。

「分かってます。でも、どうしようもなくて……」

本当にどうしようもない、とうさぎも思う。もう、やめたいと思っているのに、近くにいるからどうしても梶への感情を止められない。

梁瀬は婚約解消の件を梶に確認しようと言ってくれたけど、それを聞くことによってあの場所にいたこと、そして二人を見てショックを受けたことを知られるのが怖くて聞かないで欲しいと頼んだ。最初からショックを受ける立場にうさぎはいないのだから、それ以上何も聞きたく無かった。

梁瀬は告白してきちんと気持ちに整理をつけた方がいいとも言ってくれたけど、全てが壊れてしまう気がして首を振ることしか出来なかった。でも、本当は壊れることよりも、否定されることが怖いだけなのかもしれない。

臆病な自分に気付き、うさぎはもう笑うしかない。どうしようもないというよりは、どうにも動きようが無いというのが正しいのかもしれない。

「まぁ、人を好きになるなんて、そんなもんだよね。上辺だけ押さえ込んでも、感情まで押さえ込めないから。でも、辛い恋になると思うよ。実際に辛いだろうし」
「分かってます」
「俺としてはね、今の内に逃げることを推奨するけど」

予想もしていなかった言葉に思わず岡嶋を見上げれば、思いのほか真剣な顔をした岡嶋と視線が合った。

「梶さん、うさぎちゃんの腕には惚れてるから、うさぎちゃんが望んでいる形とは違う意味で執着していると思う。でも、それはとても辛いことだよ」

それはうさぎにも分かってる。梶とうさぎでは求めるものが根本的に違う。でも、求められる言葉は本物だからこそ迷う。

「梶さんに全く執着が無いならいいんだ。でも、下手に相手が執着を持ってると、人間って馬鹿だから勘違いしたくなるんだ。誰だって好きな人には好かれたいから、この人は自分を好きなんじゃないかって」

知っていると言わんばかりの岡嶋の言葉にうさぎは梶の「大切な人間」という言葉が蘇り、視界が徐々にぼやけていく。まさに岡嶋が言うように感情に振り回されている。そして、期待してしまう自分を止められずにいる。

「俺が言うのも何だけど、うさぎちゃんは一旦システムセキュリティーから離れた方がいい。このままだとうさぎちゃんが壊れちゃうよ」
「でも、仕事もありますし」
「うん、仕事っていうのはいつまでもあるものだよ。仕事に終わりは無いから、もう逃げていいんだよ。うさぎちゃん、十分頑張ったから」

正直、もう頑張ることに疲れていることはうさぎも自覚していた。どれだけ好きだと思っても、どれだけ梶の為に頑張ったとしても振り向いては貰えない。頑張れば頑張るだけ、梶からうさぎはそういう対象じゃないと突きつけられている気がした。

「もう、辛くて辞めたいです」

何を、とは言わなかった。ただ、梶の近くにいることが、梶のためだと思って働くことが辛かった。立ち止まって俯いたうさぎの足下に水滴が落ちて、明るいレンガ色に黒い染みを作る。同じようにとなりで立ち止まった岡嶋は、繋いでいた手を離すと優しくうさぎを抱きしめてくれる。

いつでも岡嶋は優しい。それなのに、この腕が梶だったらと考えてしまう。そう思うこと自体、岡嶋に失礼だと分かっているのに、それでも願わずにはいられない。

「うん、その方がいいと思うよ。うさぎちゃん、凄く頑張ったよ。もう大丈夫だから」

岡嶋の頑張ったという言葉に、うさぎの心は少しだけ救われる。この恋が終わる時、もっと子供みたいに大泣きするんだとばかりうさぎは思っていた。けれども、一粒だけ落ちた涙はそれ以上出てくることもなく、ただ心だけが疲れきっていた。岡嶋の胸元から心音が一定のリズムで鳴っていて、それが少しだけ心地いい。

「泣いてもいいよ」

そんな岡嶋の言葉とは裏腹に、本当に悲しすぎると涙も止まるんだと、うさぎはこの時初めて知った。結局、泣けないまま岡嶋から離れると、少しの間何も話さないまま二人で歩いた。遊歩道が終わりに近付きうさぎがお礼を言えば、岡嶋は穏やかな笑みを浮かべるだけでそれについては何も言わなかった。

けれども、手を繋いだまま連れて行かれた先は小料理屋で、きっちりと約束は果たされた。余り食欲の無いうさぎだったけれども、岡嶋が頼んだものは夏にも限らず湯豆腐で、初めて食べる鍋物にうさぎは少しだけ軽い気持ちになった。梶のことには触れず、岡嶋の話す合宿の様子や、梁瀬との受験戦争、それから梁瀬と美樹の熱烈っぷりを聞いて、うさぎは久しぶりに楽しいと思える時間を過ごせた。

初めて食べた湯豆腐は、うさぎが想像していたよりもするりと入り、久しぶりに口にした割りには胃の凭れも無かった。岡嶋はまだまだ少ないと言っていたけど、うさぎにとってはかなり食べられた方で満足感のある夕食になった。岡嶋は家まで送ると言ってくれたけど、別段危険がある状況でもないし、色々と考えてみたかったからうさぎの最寄り駅で岡嶋とは別れた。

家を出て来た時に比べたら随分と気持ちが上向きになった気がする。それだけ岡嶋に気を使わせたことを思えば心苦しくもあったけど、それよりも感謝する気持ちの方が上回っていた。

梶への気持ちは消せない。けれども離れたら何かが変わる、そう思えるようになったのが今日一番の進歩に思えた。うさぎの中に離れるという選択肢は無かったから、それを言ってくれた岡嶋には感謝しても感謝しきれないかもしれない。

角を曲がればあと少しで家が見えるという位置まで来た時、うさぎの足は一人の人物を視界に入れて止まる。ここにいる筈の無い人物にうさぎは驚きを隠せない。

「どうしてここに?」
「司法取引で他の極悪人ご一行様を差し出してきたから無罪放免。なぁ、グレーには生きにくいだろ、この世界」
「別にそんなことありません」

今現在、梶からも目の前に立つラストからも逃げ出したいと思ってる。実際に岡嶋は逃げてもいいと言ってくれたけど、現実から目をそらしてまで逃げ出すことは絶対に勧めないに違いない。

「グレーが無理せず生きて行ける場所があるよ。俺が連れて行ってあげるけど」
「必要無いです」

少し前のうさぎであれば、ラストの言葉に僅かながらも心惹かれたかもしれない。けれども、今のうさぎには僅かに心惹かれただけできっぱり断りたいという強い気持ちがあった。第一、何の見返りもなく、そんなことをラストが言う訳が無い。

「冷たいねー」
「あんなことした人に優しくする理由もありませんから」
「もうしないって言ったらどうする?」

そもそも、ラストに対してうさぎは信用していないのだから、どうもこうもない。それに過去の所業を考えれば、どうしたってうさぎが信用する筈も無い。

「どうもしません」

梶と同じようにラストも自分の腕を欲しがっていることは知ってる。けれども、うさぎはもう二度とあの世界に触れるつもりは無かった。

「もう、一生ハッキングはするつもりありません」
「意固地だね。まぁ、今はいいや。俺も余り派手に身動き取れないし。でも」

離れていた距離が一気に縮まり、逃げ出そうとしたうさぎの腕をラストが掴む。けれども、ラストはその手に何か紙を握らせると、うさぎの腕をすぐに離した。すぐにラストとの距離を取ったうさぎは握らされた何かを確認するために掌を開けば、そこには一枚のメモ用紙が四つ折りになって収まっている。

「気が向いたらさ、連絡頂戴。絶対に後悔させないよ。もし、システムセキュリティーを潰したいとグレーが思ってるなら、それだって協力するし」

その言葉で、ラストにうさぎの気持ちが知られていることが分かる。けれども、怯むことなくうさぎはラストを睨みつけた。

「そんなことは望んでいません」
「まぁ、そうかもね、今は」

喉で笑うラストにうさぎは逃げ出すべきか、どうするべきか判断に迷う。けれども、気にした様子も無いラストはすれ違いざまにうさぎの肩を軽く掴むと、耳元で囁いた。

「君はこちら側の人間だよ」

ラストの囁きは、まるで悪魔の囁きのように響き、勢いよく振り返ったけれども、ラストは背中向けて振り返ることはしない。走って家の中に入ると、リビングにあるゴミ箱の中にメモ用紙を投げ入れようとした。けれども、それを離すことが出来ずにうさぎは床に座り込む。

梶にもラストにも、技術ばかりを期待されてうさぎ自身には何一つ期待なんてされていない。そんな自分の居場所は一体どこにあるんだろう。そんなことを考えながら、うさぎはフローリングの上で膝を抱えてうずくまった。

夏休み最終日、梶から封書が届き、中には一枚の書類が入っていた。それは機密事項保持について書かれたれた書類で、うさぎはこれといった感慨も無くサインをすると、返信用に封筒に入れて近所のポストに入れた。

それまで、何の感慨も湧かなかったにも関わらず、この時になって始めてこれで梶と会うことは無いんだと朧げながらにうさぎは理解した。そして辞めると言ったうさぎに書類一枚送るだけで、梶は連絡を寄越すこともしなかったことに気付く。必要とされていたのは、本当に技術のみだったのだと知り、激しい愁傷感がうさぎを襲った。

けれども、もう涙は枯れてしまったのか流れ落ちることは無かった。

* * *

朝、会社に出ようと玄関を開けた途端、岡嶋と顔を合わせてさすがに驚いた。

「お前、どうしたんだよ」
「これから会社行くんだよな」

岡嶋から流れる冷ややかな空気に気圧されるように詰まりながら「あぁ」と梁瀬は辛うじて短く返事をした。基本的に岡嶋が怒ることは余り無い。正直、光輝の時だってあれだけ怒るとは梁瀬は予想もしていなかった。けれども、今はあの時の比じゃない。少なくともこの数年は見た記憶が無いくらい怒りを滾らせてる。いや、一層怒ってますという態度を取ってくれればまだマシなのに、岡嶋の場合怒れば怒るほど静かになっていくのが梁瀬にとっては怖いと思う。

声も掛けられないピリピリした空気に、声を掛けるのはためらわれたけれども、それでも梁瀬は覚悟して昨日からずっと気になっていた質問を岡嶋に投げ掛けた。

「うさぎちゃん、どうだった?」

梁瀬が聞いた話しでは、昨日、岡嶋はうさぎと会っていた筈だ。一体、どんな話し合いが持たれたのか、梁瀬は気になって仕方が無かった。正直、昨日の夜に連絡くらいは来ると思っていたのに、それすら無かったから余計に気になっていたのかもしれない。

「会社、辞めるよ」

さらりと一言だけ落とされた言葉は梁瀬にとって予想外で、一瞬、岡嶋が怒っていることも忘れてしまうくらいの衝撃はあった。

「は? どうしてそうなるんだよ。辞めないで上手くいく方法無いのか?」

岡嶋は大抵のことは叶えてくれる、そういう信頼が出来る人間という感覚が梁瀬の中にはあった。だから、今回のこともてっきり岡嶋がどうにかしてくれるとばかり思っていた。

「無いな。どうみても限界だろ。お前、ああなる前に何で止めなかったんだよ」

冷ややかな視線を投げられて、梁瀬は言葉に詰まる。正直、梁瀬も何度も口にしかけた。ここに拘ることは無いんじゃないか、離れた方がいいんじゃないか、その類いの言葉を何度も飲み込んだ。それは、うさぎのあの腕に憧れに近い感情があったし、だからこそ身近で見ていたいというエゴも確かにあった。だから岡嶋の言葉に反論することも出来ず、梁瀬はそのまま黙り込んでしまう。

「……悪い、八つ当たりだ」

しばらく歩いていると岡嶋から謝られてしまい、やはり梁瀬は言葉が返せない。

「でも、どうしてうさぎちゃんに言わなかったんだ。お前なら梶さんと一緒というだけじゃないだろ」

さすがに何年もの付き合いがあるだけに、言わなくても身近でうさぎを見ていたいと思った気持ちがあったことを知っている岡嶋の口調に梁瀬は苦笑するしかない。

「傍にいたいと思ったんだよ。好きな相手なら……だから言えなかった」
「確かに好きな相手なら辛くても一緒にいたいだろうけど、何事も限度があるだろ」
「うん、分かってるつもりだった」
「ということは、見極めが甘かったってことか」
「ごめん」
「謝るなら俺じゃなくてうさぎちゃんに謝ってあげなよ。まぁ、そんな謝罪受け取らないだろうけど、あの子は」

こういう時、岡嶋はフォローなんてことはしないことは長い付き合いで知っている。だから、自分自身で反省するしかなく、梁瀬は大きく溜息をついた。

それでも気を取り直すと、横で涼しい顔をしている岡嶋に問い掛ける。

「で、今日は何しに行く訳?」
「縁切り」
「は?」

本日二度目になる梁瀬の間抜け声にも、岡嶋の視線はやっぱりどこか冷たい。

「色々呆れた。いい大人があそこまで追いつめるって何? 確かに大変だろうけど限度あるだろ。鈍いにも程がある。あぁ、一層のこと梁瀬も転職考えた方がいいかもね。もし本気で鈍くて気付いてないんだとしたら、あの会社、一年も持たないだろうから」

清々しい程に毒舌絶好調の岡嶋に、梁瀬はそれ以上何も言えずただ口を閉ざした。いや、でも半分は本当のことだから毒舌というには語弊があるのかもしれない。実際に梁瀬だって、本当にそこまで人間鈍くなれるものだろうかという気もしている。

岡嶋とはこれといった会話も無いまま電車を乗り継ぎ、梁瀬はいつものように正面入り口からシステムセキュリティーのあるビルへと岡嶋と共に入った。ここに来てもう一ヶ月以上になるから、他の階に勤めているスーツ姿のサラリーマンに出会うのはもう慣れた。エレベーターの中で徐々に少なくなっていくサラリーマンたちの中で、最後までエレベーターに乗っていたが、目的階につくと梁瀬よりも先に岡嶋はエレベーターを降りて行く。いつも以上に足早に歩く岡嶋の背中を追い掛けていくと、岡嶋は酷く乱暴に社長室の扉をノックした。

「岡嶋です」
「あ、梁瀬です」

慌てて自分も名前を言えば、少し間があって中から梶の秘書である国立が扉を開けてくれた。そして梶は正面にあるソファに腰掛けて書類から視線を上げるところだった。

「珍しいな、岡嶋がここへ来るのは」
「うさぎちゃんからメールが来ませんでしたか?」
「あぁ……その件か。これから説得に行くつもりだ。一緒に行くか?」

背後で扉が閉まる音がしたから、恐らく国立が出て行ったことは分かったけれども、梁瀬は岡嶋と梶の遣り取りが気になり振り返りもしなかった。岡嶋の冷ややかな視線に気付いている筈なのに、梶は全く気にした様子も無くソファの背凭れに掛けてあったスーツのジャケットを手にすると岡嶋の前に立つ。気付いていないのかとも思ったけれども、故意に無視しているように梁瀬には見える。

「それとも辞めた方がいいと進言したのは君か?」
「そうだと言ったら?」
「余計なことをしてくれたもんだと思ってな」

その言葉で激情に駆られたのは岡嶋だけじゃない。聞いていただけの梁瀬にも初めて梶に対して怒りを感じた。

「本気でそう思ってるのかよ!」

岡嶋よりも先に口を出した梁瀬に梶の冷ややかな視線が突き刺さる気がした。けれども、それを更に睨み返せば、梶は態とらしいくらい大きな溜息をついた。

「当たり前だ。彼女がいるといないでは全く違う」
「あんなに追いつめられてるのに、それでも当たり前だって言うのかよ!」
「会社の為だ」
「会社の為なら個人はどうでもいいってことかよ!」
「そこまでは言わないが、仕方ないこともある」

梶はわざと核心を避けている。仕方ないというのは、何が仕方ないのか。それはうさぎの気持ちに対してなのか、そう思った途端に梁瀬は頭から氷水を被ったような底冷えを感じる。

「あんたの……ハッカーとしてもネットワーカーとしてもスゲーと思うし、尊敬もするけど、あんたの人間性だけは嫌いだ」
「だが、うちの社に入社するんだろ」

自信満々のこの男を殴りつけてやりたい、そんな衝動に駆られたけれども梁瀬は辛うじて拳を握るに止める。けれども、梁瀬の視界の端で動く影があり、目の前に立つ梶の目が驚きで一瞬見開かれる。それと同時に頬を打つ激しい音がして、その手の主である岡嶋へと視線を向けた。驚いた顔もそのままに岡嶋を見ていたけれども、梁瀬と視線を合わせるなり岡嶋は口元に笑みを浮かべた。その視線は、お前だって殴りたかっただろと言われたようで苦笑するしかない。

岡嶋はそのまま梶へと向き直ると、口元から笑みを消した。

「俺はあんたの会社に入る訳じゃありませんから、怒りのままに一発殴らせて貰いました。これでも随分と手加減したんですから」

確かに殺陣の訓練もかねて色々な格闘技をやっている岡嶋が殴ったにしては随分手加減したに違いない。実際に梶は倒れることもなく、呆然とした呈で岡嶋を見ている。

「……好きだったのか?」

その問いかけは静かな部屋に何とも間抜けな響きを落とした。けれども、梶のその問いかけに岡嶋は鼻で笑う。

「だったらどうだと? それこそあなたには関係無いことです。今後一切、あの子に関わることは止めて下さい」

それに対して梶からの返答は無かったけれども、岡嶋は笑みを消すことなく無言の梶に更に言い放った。

「梁瀬はともかく、俺はもうあなたと顔を合わせるつもりもありませんし、関わるのも冗談じゃないという気分なんで失礼します」

岡嶋はそれだけ言い捨てると、笑顔を崩すことなく部屋を出て行ってしまった。残された梶は口元に微かな笑みを浮かべると、梁瀬へと視線を向けてきた。

「君は行かないのか?」
「……オレは、あんたが何を考えてるのかさっぱり分からない。けど、うさぎちゃんに近付くなっていうのは同意します。意見されて納得行かないというのであれば、首にしてくれても構わないですよ」
「する訳が無いだろう。彼女が居なくなって、岡嶋は関わらないと言っている。どうして君を切ると思う」
「なら、仕事はお世話になります。ですけど、オレもプライベートでのお付き合いはこれ以上勘弁です。失礼します」

言いたいことを全て言ってすっきりすれば、もうここに用はない。だからこそ梁瀬は梶に背を向けたけれども、苦々しげな梶の声だけは耳に届いた。

「期待させるくらいなら、気付かないふりをするしかなかっただろ……むしろ私の方が殴りたい気分だ」

それは会社を辞めさせるような選択をさせた岡嶋に対して怒ってるのかと思えば、言葉を返す気にもなれない。優しく追い回すようなことをしたくせに今更何をとは思ったけれども、振り返ることもなく梶の部屋を出た。扉を怒りのままに閉めれば大きな音で扉が閉まり、そこに岡嶋がいることに気付く。

「何か言われたか?」
「期待させるくらいならあの行動だと、訳分かんねーよ、ったく」
「まぁ、大人の事情って奴でしょ。会社の責任に捕われすぎてあの人自身、身動き取れないんだろうけどね」

恐らく、自分が聞いているよりも岡嶋は多くのことを梶から聞いているのかもしれない。けれども、その口調に同情めいたものは無く、嘲笑する響きすらあった。

「これからお前はどうするつもり?」

岡嶋の問い掛けに梁瀬は肩を竦めて見せる。実際、もう大学側にも就職先として提出してしまっている、今現状後戻りも出来ない。勿論、無理に振り切ることは可能だけど、梶はともかく仕事には満足している。

「辞めないよ。潰れない限りは」
「そうか、まぁ、頑張れよ」

それだけ言うと、岡嶋は梁瀬の肩を軽く叩くと長い廊下を一人で歩いて行ってしまう。まだ、岡嶋の中にはくすぶる思いがあるに違いない。恐らく梁瀬と岡嶋の中にあるうさぎの立ち位置は似たようなものだと思ってる。ただ、可愛いくて仕方ない妹みたいな存在。

それが梶には分からないのだから、確かに鈍いのかもしれない。けれども、うさぎの気持ちを分かっていてあの態度だと知れば、もううさぎを梶に近づけたいとは梁瀬は思えなかった。それは岡嶋も同じだろう。

背後で扉が開き振り返れば、部屋から出て来たのは頬を赤くした梶だった。

「痛そうですね」

声を掛ければ、そこにいるとは思っていなかったらしく、驚いた顔で見返される。けれども、その表情はすぐに感情の見えないものに変化してしまい、梁瀬には読み取れない。

「痛いな」
「ざまーみろって気分です。仕事に入ります。あぁ、言っておきますけど、これ以上うさぎちゃんに関わるならオレが色々と社内のこと暴露しますよ」

それだけ言い捨てて梁瀬は今日から一人になる部屋へと向かう。恐らく梶も来るだろうが、今日は会話にならないだろうことは安易に想像はついた。

うさぎが心配ではあったけれども、恐らく岡嶋が上手くやるだろうし、梁瀬も落ち着いた頃に連絡を入れてみるつもりだった。とにかく、少しでもうさぎが落ち着いた気分になれるならいい。

それだけを願って窓の外へと視線を向ける。腹立たしい程の快晴に、梁瀬は舌打ちをした。

梁瀬たちにとって非日常だった夏が終わろうとしていた————。

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