夕暮れコントラスト Act.11

「ちょっと、どうしたの、その顔」
「沙和……」

 泣いていたところに、さらに親友ともいえる沙和が現れて涙が決壊した。ボロボロと泣き出した流果の前で、沙和は鞄からハンカチを取り出すと流果の顔に押し付けた。

「泣くのは後。とにかくこっちに来る」

 手を繋いで連れて行かれた先は、チェーン展開するカフェの一つだ。中に入りカフェラテを二つ頼んだ沙和は、有無を言わさず流果に座るように勧める。

 促されるままに席に座ると、とにかく飲みなさいという沙和の言葉でカフェラテを口に含む。柔らかい泡と共に温かいカフェラテが口に広がる。

 カップから口を離すなり、流果の口からは大きなため息が零れた。

「で、なにを大通りで泣きながら歩いてた訳よ」
「……振られた」
「誰に!」
「……ヒロさん」
「ヒロさんって……えぇっ!」

 驚く沙和に、今までの顛末を全て話した。本当は内緒と言われていたけど、今は何もかもぶちまけてしまいたい気分だった。

 好きで告白して返事を貰えなかったこと、困らせてしまったこと。そして、まだ好きなこと。

 全てを話したら、流果の中では少しだけ重かった気持ちが軽くなってきた。そして、聞いていた沙和は小さくため息をつくと、唇を尖らせた。

「私にまで内緒にすることないじゃない。はぁ……それにしても武部があのライブハウスでバイトねぇ。じゃあ、武部は事情をある程度知ってる訳だ」

 それに頷きで返せば、沙和は今度こそ大きくため息をついた。

「事情は分かった。それで、逃げ帰ってきた流果は、これからどうする訳?」
「もうどうにもしないし、ならない。最初から今日の告白がダメだったら、これ以上会うつもりなかったし」
「諦められるの?」
「諦めるしかないから。それにもうタイムリミット。三月になったら、大学の方に顔出すように言われてるし、今日が最後の賭けだったんだ。だから頑張って諦めるよ。それにこれ以上、ヒロさんに迷惑掛けられないし」

「そっか……よし」

 何やら気合いを入れた沙和は、正面に座っていた椅子から立ち上がると、唐突に流果の横へと移動してきた。手には沙和愛用のコスメポーチがある。

「沙和?」
「今の自分の顔見てみる?」

 差し出された手鏡で自分の顔を見れば、思わず情けない顔になってしまう。涙で濡れたためにはがれたアイラインで目の周りは黒く、この顔見たらパンダだって真っ青になりそうな勢いで酷いものだった。

「うわぁ、私こんな顔で歩いていた訳?」
「ほら、こっち向く」

 顎を掴まれて顔を上げれば、沙和の持ったコットンを頬に当てられる。ヒヤリとした感覚からも、コットンに何かを馴染ませているらしい。

「一回、軽く落としてメイクし直すから」
「もう、綺麗さっぱり落としていいや」
「なんでよ」
「だって、意味ないもん。私のメイクはヒロさんに見せたかっただけだし」
「充分楽しんでいたじゃない。ヒロさんのためだけじゃなくてさ」

「そうかな?」
「そうよ。だから、これからも続けていきなよ。負担にならないなら。綺麗な流果なら、他にも男が寄ってくるって」
「しばらくは恋愛はこりごり」
「大丈夫、結構振って湧いてくるもんだから。恋なんてもんは」

 そういうものだろうか。今まさに振られたばかりの流果には、どうにも納得しづらいものがある。

 ヒンヤリとしたコットンで目元を抑えられると、熱を持った瞼が気持ちいい。

 それくらいの感覚で恋の熱も冷めたら、こんなに苦しくないのに。そう思ってしまうのは、まだ心が痛むからかもしれない。

「初恋だったな」
「随分遅い初恋ね。でも、初恋は実らないって言うし」
「失恋したばかりの私に冷たい」
「馬鹿ね。とっとと諦めなさいって活入れてるだけよ。すっきりしたら、他のものにも目がいくようになるし」

「そういうもん?」
「そういうもん。だって、男なんてこの地球上に何人いると思ってるの。ヒロさんよりもいい人だっているよ」
「そうかな……そう思えるようになったらいいな」
「大丈夫、時間が経てば失恋の傷なんて癒えるもんだから。少なくとも一生引き摺ることでもないでしょ。手酷く振られたとかじゃないんだしさ」
「一層のこときっぱり振られたかったんだけどね」
「まぁ、その気持ちは分かるけど、今さらでしょ。はい、できあがり」

 再び手鏡を渡され、鏡の中にいる自分は化粧をしない普段の自分に近いものだった。

「何か、化粧してないみたい」
「ナチュラルメイクだからね。でも、しっかり化粧はしてるから肌の色つやはいいはず。今はがっつり化粧って気分じゃないんでしょ?」
「うん……ありがと」

 鏡の中の自分は普段と余り変わらないけど、確かに沙和が言う通り、化粧をしていない時よりも肌のきめは細かくなっている気がする。

「普通はね、この年になれば失恋の一つや二つや三つくらいしてるもんよ。時間が経てば、傷は癒える。絶対に」
「そうかな」
「大丈夫、失恋してきた私が言うんだから」

 胸を張る沙和に、思わず笑ってしまえば沙和が柔らかく笑う。

「笑ってなよ。そしたら気持ちも上向いてくるから」
「分かった。良かった、沙和に会えて……ところで、こんな所で沙和は何してたの?」
「あ、あー……実は塾に行く途中だったんだよね」
「え? それってまずいよね」
「まぁ、凄くまずい訳じゃないからいいや。塾よりも流果の方が大切。それに塾行くほど切羽詰まってる訳じゃないんだよね」
「だったらなんで」

 一瞬言葉に詰まった沙和だったが、しばらく流果を見てから小さくため息をついた。

「まぁ、流果だからいいか。実は、塾の講師が好きな人」
「沙和、好きな人いたの?」
「一ヶ月くらい前から。図書館で勉強してる時に教えてくれたのがきっかけ。おっかけて名刺ゲットして塾に入った!」
「それで進展は?」
「ある訳ないでしょ。早々に美味しいことなんて転がってる訳ないんだから。それどころか塾生の一人としか認識して貰ってないし」

「何か……沙和って凄い」
「そうやって、みんな強くなっていくもんなの! 流果の失恋だって、今に笑い話になるんだから」
「そっか……うん、そうなるといいな」
「なる。絶対になるから。まぁ、傷心の流果に沙和さんがケーキくらいごちそうしてあげましょう」
「何個?」
「馬鹿ね、一個に決まってるでしょ」

 緩やかに笑いながら、沙和は鞄から財布を取り出すと言葉通りケーキを買うために席を立つ。

 残された流果は、カップの中に残るカフェラテを眺めながら小さくため息をついた。

 時間が経てば傷は癒える、か……。

 今まで恋をしたこともないから、失恋に癒える時間がどれだけ掛かるのかよく分からない。でも、いずれは癒えるのだと、沙和にも言われて安心している自分がいる。

 ここで一つ区切りをつけるのが正解なのかもしれない。

 そんなことを考えながらカフェラテを口につけたところで沙和が戻ってきた。

 そこからは、沙和の失恋話を聞いたり、沙和が好きだという講師の話を聞いたり、ゆるやかな時間が過ぎた。

 家に帰り、どことなくぼんやりとした日常を過ごす。早めにベッドで横になった時、初めてヒロからメールがこない現実に気づく。

 胸は痛むけど、仕方ないことなんだと言い聞かせると眠りに落ちた。


 * * *

 寝て起きたら忘れられる特技は、さすがに失恋には有効じゃなかったらしい。

 少し鬱蒼とした気分で目が覚めた朝五時。外はまだ薄暗いけれども、ゆっくりと明るくなってきているのが分かる。

 毎日の日課となっている素振りにも身が入らず、こんなんじゃダメだと思いながら朝の練習を終えた。

 とにかく集中したい気分で、昼休みになると透に声を掛けた。

「今日もバイト?」
「伝書鳩はしないぞ」

 先日手紙を渡して貰ったことが記憶に新しいこともあり、透の眉間には綺麗な縦皺が刻み込まれている。そんな透につい笑ってしまいながら、ゆるく首を横に振った。

「そうじゃなくて、バイトまで時間あるなら手合わせしない?」
「流果から言い出すのは珍しいな。何かあったのか?」
「まぁ、あったような、なかったような。どうする?」
「三十分くらいしか付き合えないぞ」
「それで充分。何か素振りだと物足りなくて」
「それ、きちんと落としてから来いよ。部室で待ってる」

 指先を軽くつついた透は、すぐに踵を返すと教室を出て行こうとする。その背中に「サンキュ」と少し大きめな声を掛ければ、透は軽く手を上げて教室を出て行った。

 自習ばかりの授業が終わり、放課後部室に向かう。更衣室で着替えて部室の扉を開ければ、そこには透一人が立っていた。既に透も着替え終えたらしく、面を小脇に抱えて窓際に立っていた。

「道着持ってきてたの?」
「俺は時々部活に顔出してたから、道着はここに置いたままだ」
「知らなかった……後輩はうざったい先輩だと思ってるだろうね」
「道場開いてないから、ここ以外で竹刀振れない。俺が家の前で竹刀振ってたら警察呼ばれる」

 透の家は大通り沿いのマンションだ。あそこで竹刀を振っていれば間違いなく警察沙汰に違いない。近くの公園などでも、透であれば同じことだろう。

「道場、早く再開するといいけどね」
「でも、流果は早く再開はしてほしくないんだろ?」
「今は再開して欲しいかな」

 流果の言葉に透は何かを言いかけたけど、それ以上何かを言うことなく口を閉ざす。そして壁にある竹刀置き場から竹刀を一つ手に取る。既に竹刀を手にしていた流果は、透に続いて部室を後にした。

 今日は試験前で部活は休みとなっている。だから道場は静まりかえっていて、畳の上を歩く足音までが響く。

 審判はいない。軽く身体を動かして温まったところで、素振りを始める。お互いに会話はない。けれども、息詰まるようなこともない。

 お互いの存在を感じながらも、ただ無心に素振りを行う。少なくとも、流果にとって自宅の庭よりか集中できる環境だった。

 ある程度身体がこなれてきたところで、お互いに道場の真ん中に立つと必然的に一礼する。緊迫した空気は流果にとって久しぶりのもので、身体中の筋肉が引き締まるのが分かる。

 透から一本取ることは難しい。何度も考えて戦略を変えてみるけど、透から有効を取れても一本を取ることはできない。

「まだまだ!」

 声を張り上げながら、流れる汗を気にすることもなく竹刀を振るう。竹刀同士があたり弾けたような音が響く。手に伝わる衝撃と痺れは、痛いけれども心地よさもある。

 どれだけの時間打ち合っていたのかは分からない。道場内に響く手を打つ音に足裁きを止めれば、入口のところには顧問の先生が立っていた。

「約束の一時間だ。お前らだから特別に許したが、普通はこんな無茶聞かんぞ」
「すみません、無理を言いました」
「え? あ、すみません」

 道場の鍵を借りてきたのは透だ。だから、顧問の言い分からもかなり透が無茶して鍵を借りてきたことが分かる。

 隣に立つ透を見れば、面の向こう側にある顔には汗がながれ、その目はまっすぐに顧問を見ていた。

 そんな表情を見て、やっぱり透だな、とよく分からないことを思いつつ流果は面を取った。途端に涼しげな空気が頭部を撫でる。それが酷く気持ちいい。

「あー、すっきりした」
「お前らも早く帰れ。今日は俺も忙しいんだ。それから更衣室のシャワーは工事が入って、今日は使えないから身体冷やさないようにして帰れよ。ほら、鍵閉めるからとっとと着替えてこい」

 顧問に急かされるようにして更衣室に駆け込むと、すっかり汗で濡れた胴着を脱ぎ散らす。

 正直、これだけの汗をかいてシャワーを浴びないのは気持ち悪さもある。けれども、精神的にはどこかすっきりした気分になっていた。

 始めるまでは迷いもあった。けれども、透と打ち合っている内に集中してきて、一瞬でもヒロのことを忘れることができた。それは進歩だと思いたい。

 こうして日常を繰り返す内に、ヒロのことは思い出になっていくに違いない。沙和が言ったように、いつか初恋だったと笑える日がくるのかもしれない。

 そんなことを考えながら着替えを終えると、更衣室の扉を開けた。正面に壁へ凭れかかる透がいて驚く。

「待ってたの?」
「あぁ、色々聞きたいことがある。いや、言いたいことがあるんじゃないのか?」
「言いたいことは別に」
「なら最初の中途半端な手合わせはなんだ? 何かあるから迷いが出るんだろ」
「……敵わないなぁ、透には」

 更衣室の扉を閉めて二人並んで歩き出す。まだ道場にいる顧問に声を掛けてから昇降口へと向かった。

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