うさぎが逃げる Act.20 エクスペクト 期待

結局、夜には四人で合流し、取り合えず光輝の一件が片付いたということで一旦解散することになった。

光輝については梁瀬がかなり派手に殴りつけたらしく、親からかなり叱責されたらしい。それでも光輝との約束だから兄弟喧嘩ということで、一応のところ納まりはついたという報告だった。その時にうさぎも梁瀬から謝罪を受けたけれども、むしろ警察沙汰にならなくて良かったとすら思った。

もし、警察沙汰になっていたら光輝はともかく、何も関係もない梁瀬の両親も大変だろうし、梁瀬自身の負担は大きに違いない。だからうさぎとしてはこの結末に文句は無かった。勿論、データについては梁瀬が監督の元削除して貰ったし、ラストからメールが来た日を聞けば、一週間も経っていなかったという話しだった。

梶が調べたところでは、やはりラストが逮捕されたという話しは無く、恐らくラストも司法取引をして減刑、もしくは無罪放免になった可能性があるらしい。ただ、こちらについてはもう少し調べてみるというのが梶の話しだった。

もう一人の男については気にはなるけれども、今のところ接触も無いのでしばらく様子を見ることで落ち着いた。

確かにいつまでもうさぎの家に泊まるには二人にとって不便だろうし、何よりも翌日からはシステムセキュリティーが通常業務になるということで梁瀬もうさぎも再びバイトの日々が始まる。そして岡嶋は明後日から合宿があるとのことで、やっぱり演劇漬けの日々が始まると話していた。

その日、うさぎは一人の家では中々寝付けなくて結局リビングのソファで眠った。大抵、梁瀬と岡嶋がいた時は全員リビングで雑魚寝状態だったけれども、それが少しだけ懐かしく思う。

けれども仕事が始まってしまえば、そうも言ってられなくなった。今まで以上に仕事の量が増え、仕事の内容がより高度な物に変化したのがすぐに分かった。それに対して梁瀬はブツブツ言っていたけど無難に片付けているし、岡嶋は公演の準備に忙しいらしくここ二週間程顔を合わせていない。

そんな中で一番変わったのは梶の対応だった。きっかけは貴美が亡くなったことに起因することは確かだと思うけれども、とにかくおかしいとしか言いようが無い。

システムセキュリティーという会社の中で、うさぎと梁瀬は異質な存在だと分かっている。ただのアルバイトというには内部を知りすぎているし、恐らく仕事の内容からもかなり重要部分まで任されている気がしないでも無い。だからこそ不安にもなるのに、輪をかけて梶に手を掛けられているように感じる。

実際は前に比べて席を外していることも多いけれども、部屋にいれば口を挟むことも多くなった。勿論、それは仕事についてだからおかしくは無いのかもしれないけれども、ただ、前のように自分で解決するまでの時間を余り取らせて貰えなくなった。それこそ前であれば十分悩んでいたらアドバイスくらいだったものが、三分でアドバイス、五分後に回答みたいな感じでとにかく余裕が無い。

梶の気が急いているのは分かるけれども、何故そこまで焦っているのかがよく分からない。そして仕事量が増えたにも関わらず、残業はほぼ禁止という状態になった。今までならば、一日にやる仕事が終わらなければ帰れない、という所があったにも関わらず、梁瀬と二人であと三十分もあれば終わるという分量でも残業を認めてもらえない。

それはうさぎにとって、かなりのプレッシャーでもあった。

「どうした」

きっちり五分、パーテーションの向こうから声を掛けられて、うさぎの身が強張る。余計な事を考えていて手が止まったことに梶が気付いたらしい。慌てて指を動かしたけれども既に遅く、梶の立ち上がる気配があり、うさぎはモニターから顔を上げることが出来なくなった。

「何か分からないことがあったか」

問い掛けてと共に肩に置かれた手は、少し前には無かったことだった。増えるスキンシップにもうさぎとしては落ち着いてなんていられない。

「いえ、大丈夫です。少し予想していた設計とずれているみたいだったので確認していただけです」
「あぁ、この部分か」

背後から伸びてきた指先がモニターの一角に触れる。途端に背中に梶の胸板が触れる感触があって、うさぎはそのまま身じろぎ出来なくなる。そして、包み込まれるような梶のオーディコロンの匂いで頭すらクラクラしてくる。

「ここはユーザからの変更があって設計変更になった場所だ。依頼変更の紙を回してあった筈だが」
「すみません、見落としたみたいです」

今現在、うさぎの手元にある依頼変更書は五十枚近くに上り、注意力散漫なために抜け落ちたものだと分かる。机の上に置いてあるボックスから依頼変更書を取り出そうとしたよりも、梶の手は早く依頼変更書を取るとパラパラと捲っていく。

「私が探します」
「いや、私が探した方が早いだろ」

そう言いつつ梶は紙束の中から一枚の紙を取り出すと、キーボードの上に置いた。

「これのことだ」

屈み込んだ梶の声を耳元で直撃してしまい、うさぎはもう逃げ出したい気分になる。心臓に悪いとはまさにこのことかもしれない。

「変更書などはファイルに綴じていつでも開けるようにしておけ。終わったものはチェックして分けておけば少しは余裕も出来る。まぁ、少し量が多すぎたかもしれないな」

そう言った梶を見上げた時には笑顔を浮かべていて、またそれが心臓直撃の笑顔でたちが悪い。今まではこんな笑みを見せることなて無かったのに、本当に梶はずるいと思う。けれども、梶なりに仕事をしやすいように気を使っているのは分かるから、うさぎとしては何も言えない。

「少し疲れてるか?」
「いえ、大丈夫です」

不意に伸びてきた梶の手がうさぎの額にあてられて、うさぎは身を竦めたけれども梶は気にした様子も無い。これではまるで背後から抱きしめられているようで、うさぎの心臓はまさに口から飛び出て来てしまいそうに鼓動を強く打っている。

「熱は無いな」
「梶さーん、それセクハラ」

隣のパーテーションから顔を出した梁瀬の声に梶の手と背中に感じていた体温が離れ、オーディコロンの香りが薄くなると、ようやくうさぎは呼吸出来るような気がする。

「そうか?」
「間違いなく」

真剣な顔で頷く梁瀬に、梶は少し考えた様子だったけれども、こちらへと視線を向けると微かに苦笑した。

「つい君が特別だから大事にしすぎるらしい」

分かってる、別に梶にとって大切だからではない。会社にとってうさぎの腕が大切なだけで、高校生アルバイトということで特別というだけだ。そう分かっているのに、更に心臓の音はせわしなくなり、うさぎは慌てて椅子から立ち上がった。

「ファイル取ってきます」

不自然さを出さないように壁際にある書棚のところで屈み込むと、鉄製の扉を開けた。そこにはファイリング用の文房具が揃えられていて、うさぎはそこから紙ファイルを二冊取り出すと殊更ゆっくりと扉を閉めた。その間に梶が机に戻ってくれることを祈りながら振り返れば、うさぎが望んでいたように梶の背中は自席へと戻り始めていて内心溜息をついた。

一層のこと、そういう言動は止めて下さい、と言いたいところだけど、多少のスキンシップが増えたものの梶の言葉はあくまで会社のことを考えての言葉であって梶個人の言葉ではない。だから下手なことを言ってうさぎの気持ちに気付かれるのは困る。そうなるとうさぎもどう言えば分からなくて、結局言えないまま梶の言動は放置という結果になっている。

けれども、さすがにこれが続けばどうなるのか。うさぎは梶の言動に振り回される自分を想像して、それに付随する疲労度を考えて誰にも聞かれないように小さく溜息をついた。

そして、今日も終業時間と共に仕事を打ち切られると、うさぎは梁瀬と共にビルから追い出されお互いに視線を合わせると大きく溜息をついた。まだ夕暮れ前の空を見上げながら梁瀬は両手を上げて大きく伸び上がる。

「疲れてるみたいですけど大丈夫ですか?」
「うーん、確かに疲れてはいるけど……うさぎちゃんの方こそ大丈夫?」

少し屈み込んで視線を合わせてくる梁瀬に、うさぎは力無く笑う。正直、もうどう答えればいいかうさぎにも分からない。仕事は確かに大変で疲れはするけど、梁瀬が聞きたいのはそういう事じゃないことうさぎは十分に理解していた。

「梶さんも、無意識なのがタチ悪いんだよなー。あれ、他の女の子でも誤解するぞ」
「過敏に反応する自分もどうかと思うんですけどね」

そう言ったうさぎの声に溜息が混じり、梁瀬の同情混じりの視線が飛んでくる。正直なところ、うさぎは同情されることも嫌いじゃない。確かに下に見られたと怒る人もいるけれども、うさぎにとっては同情してくれるくらい近くに人がいるということだから、それが少し嬉しい。

「飯でも食って帰ろうか。オレも今日は美樹ちゃんバイトでいないし」
「そうしましょうか」

うさぎは気軽に梁瀬に同意すると、安いと評判のビザ屋に二人で入った。ピザの種類はいつ来ても豊富で、生地も三種類から選べることもあり、梁瀬と二人で三枚のピザを頼むとようやく落ち着く。

「はぁー、それにしても仕事きついなぁ。オレ、秋から大学始まったら超不安なんだけど」

溜息ながらに零した梁瀬は、テーブルの上に伸ばした手と上半身を預けてしまい、すっかりテーブルに懐いている。

「同じです。学校始まったらこの仕事量をどこまでセーブしてくれるのか不安です。それに、梶さんも変ですけど、仕事内容も変ですよね」
「あ、やっぱりうさぎちゃんも思ってた?」
「えぇ、何だか随分機密事項まで流れて来てる気がして。それだけ信用されてるということかもしれませんけど、既に就職の決まった梁瀬さんはともかく、まだアルバイトの私に回されていい仕事なのかと考えるとちょっと悩みます」

途端に梁瀬が何か思いついたようにテーブルと仲良くなっていた身体を起こす。

「そういえば、うさぎちゃんはこれからどうするつもり? 大学行くとか、就職するとか」

唐突な質問ではあるけど、梁瀬の唐突な話題転換は結構いつものことなので、うさぎも気になることもなく慣れたものだった。

「一応、大学進学予定です。親もそれを望んでいますし」
「うさぎちゃん自身はどう考えてるの?」
「私も大学進学希望です。就職するのに大学を出ていた方が今は有利ですし、気になる分野も幾つかあるので」
「あー、そっか、うさぎちゃん頭良いんだよね、あの学校に通えるくらいだし……そっか、大学かぁ」

何故かうさぎが大学進学することに困った顔をする梁瀬に、うさぎの方が困惑する。

「あの、何か問題がありますか?」
「いや、あのさ、もし梶さんに誘われたら、システムセキュリティーと大学、どっちを選ぶ?」

それはうさぎにとって中々難しい問題に思えた。システムセキュリティーでもうさぎの知らないことを学ぶ機会は多い。けれども、大学はやはり学ぶべき場所だけに学ぶ種類は多種多様だ。

「難しいですね、正直、今は考えられないです。あと半年経てば、また色々と気持ちも固まると思うんですけど」
「そっか、まだ高校二年だもんなぁ。オレなんて進路決めたの三年の六月くらいだったし」
「それはまた……随分遅い方じゃないですか?」

一瞬言い淀んだうさぎだったけれども、相手が梁瀬であれば怒りはしないだろうと思い、そのまま思いついた言葉を口にした。案の定、梁瀬は全く気にした様子もなく肩を竦めて見せると、その頃のことまで思い出したのは微妙に嫌そうな顔になる。

「担任、ギャーギャー文句言ってたよ。就職するなら七月から企業回りしないといけないからって」
「そうですよね。でも、どうして大学進学に決めたんですか? 聞いても良ければ聞かせて貰えたら助かります」
「んー、多分うさぎちゃんの助けにはならないと思うよ」

そんな前置きをして梁瀬はきたばかりのピザを口にほおばる。湯気の立つピザは確かに美味しそうで、うさぎも同じように口元へ運べばバジルの香りで食欲をそそられる。

「オレの場合は、ラグビー部の先輩に誘われたんだよね。大学でもラグビーやらないかって。ほら、皆は将来を考えて大学選んだりするけど、オレ、その頃ってまだ将来の夢とか全然無くてさ。だから誘われて、よしこれだ! みたいな感じなんだよね」

でも、うさぎから見ればとても梁瀬らしいと思う。短い付き合いではあるけど、梁瀬は割合ときっぱりしている。楽しめることは楽しむ、考える時は考える、嫌になったら辞める、全てにおいて方向性があって分かりやすい。選択に迷いが無いということは、それだけ強いということかもしれない。

迷いは余り無かったという梁瀬だけど、怪我でラグビーを出来なくなったことに不満は無いのだろうか。

「後悔してませんか?」

言ってしまってからうさぎはしまったと思ったけれども、梁瀬は全く気にした様子もなく笑顔すら浮かべている。

「後悔? そんなの毎日してるよー。大学入ったのにラグビー出来なくなっちゃうし、システムセキュリティーに就職決まったけど仕事辛いし、もう毎日後悔いっぱい! でも、毎日は巻き戻らないから寝て忘れる」
「忘れられる……ものですか?」
「まぁ、うさぎちゃんに見栄はっても仕方ないから言うけど、怪我した時は荒れたよー。もう、あちこち破壊して歩くくらいに、ってのは大げさだけど、まぁ、誰にでも八つ当たりって感じだったな。でもね、そんな時に近くにいてくれたのが美樹ちゃんと、岡嶋」

拗ねたような顔をしていた梁瀬だったけれども、二人のことを言う時には嬉しさを隠さない笑顔だった。うさぎは、梁瀬の晴れやかともいえるその笑顔を見ることが結構好きだった。何となく、こちらまで晴れやかな気分になってくるのが不思議ではあったけど、梁瀬の笑顔にはそういう効果があるように感じる。

「もうね、まさに飴と鞭。美樹ちゃんが飴だったら、岡嶋は鞭。もう、あいつ本当に容赦無くてさー。怒ると態度だけじゃなくて言葉も容赦なくなるんだよ。もうオレ、マジであいつの言葉で泣いたことあるぞ」
「あー……何か想像出来ます」

恐らく前のうさぎであれば、岡嶋が怒る姿なんて想像すら出来なかったに違いない。けれども、今は光輝に対峙していた時の岡嶋を知っているから、想像するのも難しくは無い。

「あ、そういえば聞いてなかったんですけど……その、梁瀬先輩が持っていた写真、大丈夫でした?」
「あぁ、あれもばっちり一発殴ってから回収したよ。コラージュだったし、うさぎちゃんへの嫌がらせというか、岡嶋風に言うと愛情表現?」

一応、何故光輝がそんな写真を持っていたのか、という理由を梁瀬は分かりやすく説明したつもりなんだろうけれども、うさぎとしては嬉しくも何ともない。

「……だから、そんな愛情表現いりません」
「うん、オレもいいや」

二人してどこかげんなりした気分で、ピザを口に入れる。

将来か……。

うさぎにとって将来というものはまだまだ先の話しすぎて見えて来ない。何をしたいという目的も無く、興味だけはあれもこれもと幅広い。それを全部やろうと思ったら、大学すら一つに絞りきれない現状にうさぎは小さく笑う。

けれども、それを見逃す梁瀬ではない。

「何、何で笑ってるの?」
「いえ、知りたいことは沢山あるんですけど、これといって将来なりたい職業が無いのは困ると思って」
「困れ、困れー。いいじゃん、その頃の特権みたいなもんだし、ある意味、そこが人生の分岐点って気がするよ。勿論、やり直しは利くけど、近道をしたかったらそこで凄く考えて選択した方がいいと思うな。まぁ、オレの場合は棚ぼただったけどさ」

そう言って笑うと梁瀬は、最後の一切れを指差して食べていいか確認してくる。うさぎとしてはもう満足してしまって、とてもこれ以上入らないから素直に頷きを返した。

「棚ぼたなんですか?」
「じゃなかったらあんなレベル高い大学受けないって。オレ元々成績あんまり良く無かったから推薦取っててもかなり勉強しないと不味いレベルだったからさ。もう、決めた時は速攻岡嶋に泣きついたよ。あいつ頭良いんだよ。だから演劇馬鹿になった時は超ビックリした」
「え、いきなりだったんですか?」

初耳だったこともあり、思わずうさぎも聞き返してしまう。岡嶋は昔から演劇が好きで、そういう道に進むべく努力を続けている人だとばかり思っていた。正直、岡嶋という人はうさぎの中で、一度決めた目標以外には余り見向きをしないタイプだとばかり思っていたから、いきなり何かにはまるということが想像出来ない。

「そう、もう本当にいきなり。だから親ともスゲー揉めてさ。あっと、いけね。ついしゃべりすぎちゃった。今のはオフレコで」

不味いという顔をした梁瀬にうさぎはつい笑ってしまえば、ばつが悪そうながらも梁瀬も笑う。

「ごめんな、でも、岡嶋だったらうさぎちゃんが聞いたらきちんと答えてくれると思うから、迷いがあるなら岡嶋から話しを聞くのもありだと思うよ。少なくともオレよりか参考にはなると思うし」
「今度機会があったら聞いてみます」
「うん、そうしてやって」

丁度食べ終わったこともあり、そこで話しを終わらせて二人で店を出た。駅までの道のりを二人並んでのんびりと歩く。夕食を軽く食べて店を出ても、日差しこそ無いもののまだ夕暮れ色の空で辺りは明るい。

「うさぎちゃんはさ、会った頃に比べて変わったよね」
「そうですか? 自分では分かりませんけど」
「うん、何て言うか物怖じしなくなった。人見知りとかそういうのじゃなくてさ、最近はすぐに謝らなくなった。それに色々話してくれるようなった。そういうのオレは嬉しいかな」

そんなに言われる程、うさぎは謝っていたのかと過去を振り返ってみるけど余りよく思い出せない。けれども、幾度となく梶や岡嶋に謝らなくていいと言われた記憶はあるから、確かに謝っていたのかもしれない。

「図々しくなったんですかね」
「えぇっ、うさぎちゃんが図々しいんだったら、オレ王様並みってことじゃん!」
「そんなことないですよ。梁瀬さんだって優しいし、少なくとも図々しいって思ったことありませんよ。結構明るさに救われてる部分ありますし」

途端に梁瀬の顔が赤くなり、そっぽを向かれてしまう。訳が分からずに梁瀬を見ていたけれども、こちらへと向き直った梁瀬は足を止めるなりうさぎの肩を掴む。

「うさぎちゃん、そういうストレートな褒め言葉は頼むから岡嶋辺りまでにしておいて下さい、お願いします。オレは無理」

顔は真っ赤なのに怒ったような顔で言われてうさぎは困惑するしかない。

「無理って、あの」
「他人から誉められるの嫌いじゃないけど、女の子からは無理! どういう顔をしていいか分からないし、ストレートすぎて聞いてられないというか……」

うさぎの肩を掴みながらも、言葉を繋ぐ内に梁瀬の視線は泳ぎ出す。そして、さすがにこれだけ言われたらうさぎにだって分かる。

「照れくさい、ですか?」
「まさにそれ! だから、褒め言葉は岡嶋辺りにしておいて。あいつならサラリとありがとうくらい言ってくれる筈だから。嬉しく無い訳じゃないけど、オレは無理」

もう必死という感じの梁瀬を見ていたら、うさぎは段々おかしくなってきてついに噴き出してしまう。途端に梁瀬に睨まれて笑いを引っ込めたけど、すぐに笑いはぶり返してしまいやっぱり笑ってしまう。

「うさぎちゃん、酷い……」

悲壮感漂う顔をする梁瀬に、さすがに悪い気がしてどうにか笑いを引っ込める。

「だって、梁瀬さん、ちょっと可愛いです」
「可愛い!? オレ、生まれてこの方、可愛いなんて言われたことないぞ!」

思わずという感じでうさぎに身を乗り出す梁瀬に、うさぎはどこか微笑ましい気分で梁瀬を見上げる。

「でも、何か可愛かったです」

そう言って笑えば、梁瀬はがっくりと肩を落とす。そんな梁瀬の仕草にも笑ってしまい、また再び二人並んで歩き出す。

改札を抜けようとした時、うさぎは見知った顔を見つけて思わず走り出す。

「うさぎちゃん!?」

慌てたような梁瀬の声が背後から聞こえたけれども、今、うさぎはそれ所では無かった。人波から見えた顔は一瞬、けれども、その後ろ姿を見逃すことも無く、背後から駆け寄るとそのスーツの布地を握りしめた。背後に引かれた感覚で慌てたように振り返った男は、うさぎを見て唖然とした顔をしている。

「こんばんは」

何を言えばいいか分からず、息を切らしながらもうさぎが言った言葉は何とも二人の間にはそぐわないものだった。

「偶然、ですか?」

既にその顔に驚きは無く、無表情なままうさぎを見下ろしている。うさぎにとっても偶然だったけれども、男にとっても予想外だったに違いない。

「はい、偶然です。歩くの早いですね。走らないと追いつかない早さでした」
「忙しいもので。ご用件は何でしょう」

既に冷静さを取り戻した冷たい響きすら持つ声を、背後から追い掛けてきた梁瀬の声がかき消すように響く。

「うさぎちゃん!」

けれどもうさぎは振り返ることもせずに、男の顔を見上げたまま視線を逸らすことはしない。

「何であれ以来連絡が無いのかと思って不思議なんですけれども」
「目的が達成されてしまったので、あなたに用が無くなっただけです」
「崩壊……でしたっけ?」

目的と聞いた時にこの男は確かにそう言った。けれども、この男が言う崩壊とは何の崩壊を望んでいたのか答えは聞いていない。

「えぇ、あの時はシステムセキュリティーの崩壊を望んでいたのですが、真の目的は梶貴美をこの世から消すことでしたので、目的が達成されてしまったのですよ」

足下がグラリと揺れた気がした。やはり、この男を梶に報告しなかったばかりに貴美は亡くなることになったのかと思うと、うさぎとしては平常ではいられない。けれども、うさぎは男と視線を逸らすことはしない。

確かに、梁瀬が言うようにうさぎは変わったのかもしれない。前ならこんな風に対峙するなんてことは出来なかったに違いない。

「誤解があるようですから言っておきますけど、私は手を下していませんよ。あれは事故です。けれども、どういう形であれ、目的は達成されたのであなたに用はありません」
「ラストとの連絡は」
「お断りしましたよ。もう、私と彼では目的が違いますから」

確かにこの男が言うように、貴美さんが亡くなることを目的としていたのであれば、目的の達成したこの男とラストで繋がる必要は無くなる。

「お断りしたのはいつですか?」
「これで質問を最後にして下さるならお話ししますが?」

質問に質問を返されてうさぎは軽く唇を噛む。聞きたいことはまだある。けれども、そんなに多くのことをこの男は話してはくれないに違いない。

「二つ、答えて頂けませんか?」
「分かりました。まず一つ目は、梶貴美が死んだ当日昼ですよ。二つ目は何ですか?」
「あなたの名前を」

男は少し悩んだ素振りを見せたものの、スーツの内ポケットから名刺入れを取り出すと一枚の名刺をうさぎに差し出してきた。そこに書かれた名前には加賀谷誠二とあり、余り聞いた事のない会社の名前が入っている。肩書きには社長秘書と書かれていて、隙の無いサラリーマンのような格好に納得する。

「私があなたに何かをした証拠はありません。それでは失礼します」

男はそれだけ言うと、踵を返して歩き出してしまう。そして、うさぎはその男を再び追い掛けることはしなかった。

「うさぎちゃん、どういうこと?」
「私を脅していた男の正体です」

そう言って振り返ると後ろに立っていた梁瀬に手に持っていた名刺を差し出す。

「もう、あの男が接触してくることは無いと思います。目的が達成されたって言いきってましたし」
「それ、本当だと思う?」

懐疑的な梁瀬にうさぎは軽く首を横に振る。必ずとは言えないけれども、それでもうさぎの中で確信めいた気持ちはある。

「分かりません。けれども、実際、あれ以来全く連絡ありませんでしたし、接触する気が無いんだと思います。そうでなければこんな物置いていく筈ありませんから」

梁瀬の持っている名刺を指差せば、梁瀬は訝しげに名刺を見ている。うさぎとしても狐に摘まれたような気分ではあるけれども、問題が減るのであればそれに越したことは無い。

ただ、気になることはある。貴美が死ぬことを望んでいたとしたら、梶はどうなんだろうか。最初の目的はシステムセキュリティーの崩壊ということだったが、貴美が亡くなった今、システムセキュリティーは崩壊したも同然という考えなのか、それとも真の目的はあくまで貴美であって、梶では無い、ということなんだろうか。

そこまで考えたうさぎはの足は駅とは反対方向へと進み出す。

「うさぎちゃん?」

問い掛けながらも梁瀬もすぐに隣を歩き出し、説明のためにうさぎは口を開く。

「会社に戻ります。梶さんに心当たりが無いか聞いてみます。もしかしたら、梶さんにも危害が及ぶ可能性も無い訳ではありませんから」
「あ、あぁ、そうだよな。でも、貴美さんが亡くなることが目的って、何かスゲーな。どうなってるんだ?」

人の生死が関わる問題になると、途端に遠くの出来事のように思えるのは現実逃避なんだろうか。そんなことを考えてみたけど、うさぎには分からない。

梁瀬と共に裏口から会社に入り社長室のドアをノックしてみたけれども、出て来たのは梶の秘書である国立だけで梶は既に退社したという。結局、梁瀬と考えて携帯からメールだけは送っておいた。

そして再び梁瀬と二人で並んで帰る最中、うさぎはあるものを見てその場に縫い付けられたかのように動けなくなる。

「うさぎちゃん?」

声を掛けられたけど返事も出来ず、ただ、愕然としならがその二人をうさぎは見ていた。
梶と沙枝が楽しそうに腕を組んで歩いていた。ただそれだけのことだったけれども、うさぎの胸には鉛を詰め込まれたような重く鈍い痛みがあった。

「婚約破棄したんじゃなかったっけ?」

梁瀬の目にも二人の姿は見えたらしく、隣で困惑した様子で呟いている。けれども、うさぎはそれに答えることが出来ず、ただ二人の背中を見ていた。大通りを挟んで向こう側、一つの高級そうな店の前で立ち止まった二人は、何か話してから店の奥へと消えていった。

「あの、さ、偶然会っただけかもしれないし」

一生懸命梁瀬がフォローしようとしてくれていることは分かる。けれども、梶は今日会った時とは違うスーツを着ていたし、沙枝も随分とドレスアップしていたことを考えると偶然会ったというのは考えにくい。楽しげに腕を組んでいた様子からも、婚約破棄というのは取り消されたのかもしれない。

私にとって君は大事な人間だからな。

今日も言われたその言葉が頭の中でぐるぐる回る。

だから期待するなって思っていたのに。そういう意味じゃないって岡嶋だって言っていたのに。どうしてこんな勘違いをしていたのか、どうしてこんなにショックを受けるのか、うさぎにも分からない。でも、どこかで期待していたのかもしれない、心の奥底で勝手に————。

「うさぎちゃん、大丈夫?」
「大丈夫です。すみません、帰ります」

勝手に期待を膨らませていた自分が恥ずかしくて、うさぎはその場から逃げるように走りだした。背後からうさぎを呼ぶ梁瀬の声が聞こえたけれども、振り返ることはせずにひた走り、改札を抜けて一気に電車へと駆け込んだ。

恥ずかしさと、悲しさと、入り交じった感情にうさぎは荒い息の中で胸元を押さえた。凄い早さで心臓が脈打っていて、身体中に血が巡っているのか、耳元でもドクドクと鼓動の音がする。

最初から沙枝の婚約者だから諦めようと思っていた筈なのに、何でこんなに期待するようになっていたんだろう。一緒にいて前よりも好きになっていったからなのか、梶の変わってしまった言動のせいなのか、それともその両方なのかうさぎには分からない。ただ、分かることは、うさぎが思っていたよりもずっと梶の変だと思える言動に期待してしまっていたことだった。

そして次に浮かんだのは沙枝に対する申し訳無さだった。沙枝のことを考えたら、とても期待なんて出来る立場じゃなかった筈だ。分かっていた筈なのに、どうしてこんなことになっているのかうさぎにもよく分からない。

ぐらぐらになった思考のまま家に帰ると、うさぎは着替えることもせず、ベッドの中に潜り込んだ。頭から布団を被って、ただその中で声を殺して泣いた。

そして翌日、バイトを始めてから初めて休みを取った。朝一に梶へ電話を掛けてから泣き疲れてトロトロと眠った後、目が覚めた時にはもう夕暮れ時になっていた。一階へ降りて、冷蔵庫の中にある冷えたミネラルウォーターを飲み干すとぼんやりと誰もいない夕暮れ差し込むリビングをぼんやりと眺める。

いつからか、誰かが傍にいてくれたらいいと願っていた。だからといって両親に甘えることも出来ず、甘える方法も知らなかった。そんな中で出会った人たちは本当に優しくて、温かくて、何よりも格好良かった。うさぎよりも年上だし、他の誰よりも頼りになった。

けれども、今は誰にも会いたく無いし、誰にもこんな姿を見られたく無くて、しばらく鳴っていた携帯の電源を朝の内に落とした。ただ、今は誰とも話したく無い気分で、リビングのソファに座り込むと、つい数日前のことを思い出す。

この中に岡嶋や梁瀬がいて、そして梶がいた。想い出としてそこに残っている筈なのに、今となっては遠い昔のことのように思えてうさぎは目を細める。

もっと早くこの状況になっていたら、利奈や沙枝にも相談したに違いない。けれども、今、うさぎが唯一友人と呼べる二人は傍にいない。そして、とても二人に相談出来る内容ではないことに気付いて、うさぎは苦笑した。

そもそも、優しいあの人たちの一人を好きになったりしなければ、二人ともこんな状況になることは無かった。じゃあ、好きでいることを止められるかというと止められる筈もなく、うさぎは更に苦く思うしかない。

しかも、あと二週間もすれば学校が始まり、二人と顔を合わせることになる。どういう状況になっているのか分からないけれども、果たして二人に対して平常心でいつものように声を掛けられるのか、と言われたら今のうさぎには自信が無かった。もし、沙枝が梶の話しを持ちかけてきたら、うさぎは普通の顔をして話しを聞いていられる自信も無い。

ハッキングなんてしなければよかった。

二人と友人にならなければよかった。

あの優しい人たちに出会わなければよかった。

そしたら、こんな痛い思いをしなかった筈なのに。

そう思ったうさぎ自身、思考の逃げに入っていることは分かっていたけど止められない。誰だって傷つくのは嫌だし痛い。けれども梁瀬が言うように現実は巻き戻るものでもない。だとしたら、今うさぎがするべきこと、しなければいけないことは何なのか。考えてみたけど頭の中は真っ白で、何も考えられなかった。

疲れている自覚もあったから、うさぎはソファの上で横になるとぼんやりとリビングに差し込むオレンジ色を眺める。ただ、今は何も考えたく無くてぼんやりとしていれば家の電話が鳴り響く。静寂が破られたけど、うさぎは動く気にはなれず、ソファに転がっていた。

けれども、電話が切れるなり家のチャイムが鳴り出して渋々とソファから起き上がる。時計を見ればまだ五時で、こんな時間に来る人を考えられずセールスか何かだろうと立ち上がる気力には繋がらなかった。けれども鳴り響くチャイムにうさぎは三分程してから立ち上がると、外のインターフォンに繋がる受話器を上げた。相手にも受話器を上げる音が聞こえたのか、唐突に飛び込んできたのは、今一番聞きたく無いけど、聞きたい声だった。

「桜庭、だな」

どこか確信を持っている相手の様子に、うさぎはどう答えていいか分からずに受話器を片手に黙り込む。

「風邪の具合はどうだ」

言われてうさぎは自分が風邪をひいて休むメールを入れたことを思い出す。実際に風邪はひいていないけれども心配で梶がここまで足を運んでくれたのかと思うと、嬉しく思い、そしてそんな自分を恥ずかしく思った。

「大丈夫です。明日には行けます」
「そうか。簡単に食べられる物を用意した。玄関に掛けておくから後で取ってくれ。それから昨日のメールの男だが……いや、また明日にしよう」

そうは言われても男については気になるし、食事まで用意されてしまってはこのまま顔を出さない訳にもいかない。泣きはらした目をしているだろうことは分かっていたけど、ここまで足を運んでくれた梶を思えば顔を出さないのは失礼にあたることはうさぎにも分かる。

「今行きます」

それだけ言って受話器を置くと、うさぎは思い足取りながらも玄関へ向かい扉を開けた。一瞬驚いた顔を見せた梶だったけれども、すぐにその表情は普段と変わらぬものになり、手にしていたビニール袋をうさぎに差し出してきた。

「見舞いだ」
「有難うございます」

一層のこと、ここで婚約の件を聞けばすっきりした気分になれるのではないかとうさぎは思ったけれども、もし肯定されてしまえばしばらく立ち直れないに違いない。それが分かっているからこそ質問を飲み込むと、先程梶が言いかけた男について問い掛けた。

「あの人が誰だか分かったんですか?」
「あぁ、あの加賀谷という男自体はそうでは無いが、あの男が勤めている会社の社長が寒河江の一族だ。今、寒河江は跡継ぎ問題で揉めていることもあって、跡継ぎ候補に残っていた貴美が邪魔だったらしい」

だとすれば、沙枝は今どうしているのだろうか。貴美は実際に寒河江の一族ではあるけれども、直系では無いと聞いている。恐らく、直系である沙枝にも重責はあるに違いない。

けれども、今、梶の前で沙枝について聞くことは出来ない。聞けば、聞きたく無いことまで聞いてしまいそうな自分がいて、分かっているからこそうさぎは少しだけはぐらかした。

「梶さんには関わりあるんですか?」
「私には全く関係が無い。だから、君たちが心配するようなことは何も無い」
「そうですか、よかったです」
「君は……」

住宅街の喧噪の中で頬を撫でるように生温かい風が吹き抜ける。途端に梶は口を噤むと、続く言葉を口にすることなくそのまま背を向けた。

「早く元気になれ。君がいないと私が困る」

その言葉に、うさぎの心が再びざわめき出す。もう、やめたいと思っているのに、そんなことを言わないで欲しい。せめて会社のためだと言いきってくれたら、こんな期待はしなくてもいい。けれども、口にしない言葉は梶に伝わる筈も無く、背を向けた梶は車へと乗り込むと窓を開けた。

「明日、会社で待っている。無理はするな」

胸が痛くて声にならず頭だけ下げれば、梶はそれ以上何かを言う事無く車を走らせた。うさぎの目の前で車は角を曲がり消える。夕暮れは既に闇色へと変化していて、街頭の明かりがあちらこちらに灯る。そんな中で、うさぎはしばらく梶の車が消えた方向を見ていたけれども、出て来た時と同じくらい重い足取りで家の中へ入る。

リビングに入ってテーブルの上に梶が持って来たビニール袋を開けると、中身を出して行く。一つは丼の形をした器に入っていて、蓋を開ければ湯気と共に現れたのは中華粥だった。ビニール袋の中にはもう一つ紙袋が入っていて、それを開ければティーバッグのカモミールティーが入っていた。

身体を温める効用があると言っていたのは、確か沙枝だったと思う。もし、これを沙枝が選んだとしたら……、そう考えた時、うさぎは初めて嫉妬を覚えた。けれども、燃え上がるような嫉妬ではなく、それはすぐに潰れ、覆うように現れた感情は恥ずかしさや、醜い感情を持った自分に対する嫌悪だった。

元々、梶は沙枝の婚約者なのだから、うさぎは嫉妬するような立場にない。それどころか、友人である沙枝の婚約者にこんな感情を持つ自分が許せない気分だった。もう、ずっと諦めたいと思っていたのに、優しくされたら諦めきれない自分がいて、うさぎは途方に暮れる。

一日何も口にしていなかったからと中に入っていたスプーンで、まだ温かい中華粥を口に入れる。あっさりとした塩味は美味しいものだったに違いない。けれども、その優しさを口にするたびにうさぎの胸は痛くて、結局半分を食べたところで蓋を閉じた。

明日からはまた仕事が始まり、梶とも顔を合わせる日々が続く。果たしてそれはいつまで続くことなのか、それを考えたうさぎは心が引き連れるような痛みを覚えて顔を顰めるしか無かった。

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