夕暮れコントラスト Act.08

「ヒロさん?」
「階段あるから気をつけてね」

 問い掛ける流果の声とヒロの声が重なる。振り返ったヒロはいつもの笑顔だったから、促されるままに階段を上がった。階段を上がりきったそこは、キッチンとなっていて大きなシンクやグラスが所狭しとおかれていた。

「下で出す食事やドリンクは、全部ここで作られているんだ。こっちにおいで」

 言われるままについて行けば、キッチンのさらに奥へと続く扉をヒロが開いた。途端に飛び込んできたのは、目が眩むような眩いオレンジ。余りの眩しさに手を翳せば、徐々に目が慣れてくる。

 正面にある大きな窓から見えるのは、ビルの谷間に沈もうとする夕日だった。

「凄い……綺麗」
「ここは夕日を眺めるには最高の場所なんだよ」
「おっ、連れてきたのか?」
「紹介するよ、彼がここのマスターである竹中くん」
「おい、頼むからこの年になってまでくん付けで呼ぶな」
「もう癖だから、そこは諦めてよ。彼女は果穂の妹の流果ちゃん」
「マジか? 果穂よりいけてるぞ」
「果穂ちゃんのこと知ってるんですか?」

 あっさり果穂の名前で納得している竹中に困惑しつつもヒロを見上げる。穏やかな笑みを浮かべると、ヒロは小さく頷いた。

「竹中くんも、僕や果穂と同期なんだよ」

 そう言われても俄に信じがたいのは、髭をはやし、ドレッドヘアをした竹中と、果穂やヒロが同じ年には見えない。

「おっ、混乱してる、混乱してる」

 どこか楽しそうな竹中と共に、ヒロは少しだけ声を立てて笑うと、ようやく説明してくれた。

 高校とは違い、大学は幾つからでも入れる。ヒロのように別大学から入学しなおす場合もあれば、一旦社会人になってから、改めて大学に入る人もいる。

 よく考えれば当たり前のことだけど、つい忘れてしまうのは、学校で同級生に囲まれているせいかもしれない。

「実際、竹中くんは今三十」
「え?」

 思わず声を出してしまい、慌てて口を押さえたけれども、時すでに遅し。
 竹中とヒロはお互いに顔を見合わせると、そのまま盛大に笑い出した。

「いいねぇ、素直な反応で」
「果穂より可愛いでしょ」

 ヒロの言葉は子どもに対するもので、決して正当な評価としての可愛いという事じゃない。そう思っているのに、早鐘を打つ心臓が、さらに早くなる。

「すみません、本当にすみません」

 赤い顔をごまかすように慌てて頭を下げたけど、竹中は気にするなと笑う。自分の発言の恥ずかしさと、赤面した顔を見られたくなくて俯いていれば、先ほどから繋いだままの手を引かれ、窓際へと移動する。

 窓際においてある小さなテーブルと椅子。まるでその景色を楽しむだけに用意された場所だ。

「はい、流果ちゃんはここ」
「それじゃあ、俺は温かい紅茶でもいれてくるかねぇ。ミルクとストレート、どっちがいい?」
「ミルクでお願いします」

 頭を下げれば、その頭をぽんぽんと軽く二回叩かれて、そのまま竹中は扉の向こうに消えた。

「果穂ちゃんはここに来たことは?」
「果穂はうるさいのが嫌いだから、ライブには来ないよ。そもそも、音楽が好きじゃないから」
「そういえば、家でも音楽を聞いてるの見たことがないです」

 よく考えてみれば、いつも家にいる果穂は本を読んでいた気がする。小説から雑学本、時には流果の目から見て難しすぎて何の本を読んでるのかも分からないことがあった。

「だから、果穂と会う時はここ以外の場所になるかな。竹中くんと三人でよく呑みに行ったりするよ」
「お酒かぁ。飲んで見たいとは思うんですけど……」
「果穂から聞いた。お母さんが泣くんだって?」
「そうなんですよ。不良になっちゃ嫌、そんな子に育てた覚えはありません、って。うちではお母さんが最強です」
「それはどこの家でも一緒だと思うよ。基本的に女の人は強いから」
「そうなんですかね」
「一般論だけどね」

 穏やかに笑うヒロを見ていると、心がほんわかと温かくなる。それと同時に、胸が痛いくらいにドキドキしている。

「うちは母親が結構過保護で、手を焼いた口だから少し分かるよ」
「うちは過保護って訳じゃないんですけど、悪く見せるようなものはダメみたいです。でも、兄弟いても過保護になるんですか?」
「僕は子どもの頃、マイペースすぎて少し手の掛かる子どもだったから、その延長みたいな感じかな。最近はそこまでマイペースではないつもりなんだけどね」
「でも、果穂ちゃんはヒロさんのこと、マイペースだって言ってましたよ」
「うーん……果穂とは伊達に短い付き合いじゃないからなぁ」

 小さく唸りながら零すヒロは、多少なりとも自覚はあるらしく反論はない。でも、それを知っている果穂にちょっとジェラシーだ。いや、ジェラシーなんて可愛いものじゃない。

 シクシクと心が痛む。でも、その痛さも呑み込んで側にいることを選んだのは自分だ。だから、絶対に苦しくても後悔だけはしない。

 改めてヒロの顔を見れば、夕日に映し出されたヒロの顔は憂いを帯びて流果の目には綺麗に見える。長いまつげも、少し薄い唇も、そして通った鼻筋も、まるで彫刻のように見える。

 ふわふわと癖のある髪は夕焼けに染まり、所々金色にも見える。

 触れてみたい。だから手を伸ばしてみた。

 指先に触れたか、触れないか。その瞬間に目を見開いて驚いた顔をするヒロと視線が合う。伸ばした腕を動かすこともできず、お互いに見つめ合ったまま時が止まる。

 しばらくして、先に動いたのはヒロの方だった。

「竹中くん、遅いね」

 そう言って椅子から立ち上がったヒロの腕を、慌てて掴んだ。

「好きです。ヒロさんのことが好きです」

 勢いと本心、絡み合った結果の告白。でも、そこには緊張もあったし、伝えたいという気持ちもあった。

「そう言って貰えるのは嬉しいよ。ありがとう。少し待っててね」

 それだけ言うとヒロは部屋を出て行ってしまった。

 ……これは、どう取ればいいんだろう。

 告白してお礼を言われた。そこまでは流果にも理解できる。ただ、この場合はお断りされた、ということなのだろうか。この半端な感じがモヤモヤとした気持ちを増幅させる。

 せめて、ありがとうじゃなくて、ごめんの方が分かりやすかったのに……。

 そう思ってしまう流果に罪はないと思いたい。でも、友人の妹に気がないにも関わらず告白されたら、そういう返答になってしまうのも分からなくはない。

 あと考えられるのは、流果の告白を本気で取り合って貰えなかったという可能性だ。

 迷惑がられているのか、分かっていないのか、そのどちらなのか分からない。

 だったらごめんとか、迷惑と言われるまでは引かない。それくらいで諦められるなら、とっくの昔に諦めてる。何より、本気と取られていないのなら問題外だ。

 長い影が伸びる部屋の中で、流果は拳に力を込めると再び気合を入れ直した。

* * *

 年が明けて一月になると、周りはセンター試験に向けて受験一色になる。その中でも推薦が決まっている流果や、既に内定を貰ったクラスメイトは比較的穏やかな空気が漂っている。

 いつもなら一緒にいる沙和は受験組ということもあり、最近は話すことも少ない。受験組はセンター試験に向けて、休み時間になっても勉強している人が多い。

 やることがない流果は、教室を後にすると中庭に足を運んだ。寒い冬の最中ということもあり、中庭に人影はない。幾つか置かれたベンチの一つに座ると、流果は大きく溜息を吐き出した。

 あの告白から、ヒロとの変化は何もない。ことあるごとに告白しているけど、ヒロからの返事はいつも「ありがとう」だけで、生殺しの状態が続いている。

 一層のこと、きっぱりと振られた方が気持ちに区切りがつく。そう思うのに、ヒロからの返事は何もない。

  何度か返事を促してみたけど、ヒロは穏やかに笑うばかりですぐに話しを逸らしてしまう。そして逸らされると、流果もそれ以上追求することもできず、告白はいつでも宙に浮いたままだ。

  既に両手では足りないくらいに告白をしているのに、本気だと思っていないとは思えない。だとしたら、遠回しの断りかと思えば、相変わらずヒロからのメールは変わりなく送られてくる。

 反応に困ったのは最初だけで、もうそろそろ生殺しの状態からは逃げ出したい、そういう心境になりつつあった。

「お前、こんな寒いところで何してるんだ?」
「……そういう透こそ、何でここにいるの?」
「いや、お前がぼっちになってるのが窓から見えたから」

 言いながら透が指差すのは、流果たちがいるクラスの窓だ。

  あそこから見られていたのかと思うと、何だか気恥ずかしいものがある。

「そういえば、お前、あのヒロとかいうのとどうなったんだ?」
「別にどうもしない。ヒロさんも言ってたけど、元々果穂ちゃんの友達ってだけだし」
「でも、流果は好きなんだろ? お前それだけ分かりやすいのに、相手が分かってないと思ってんのか?」
「知ってる……もう告白したし」
「ってことは、お断りされたのか?」

 その問いかけに、流果は数秒の間を置いてから小さく首を横に振った。

「なら付き合ってるのか?」

 それに対しても首を横に振る。途端に訝しげな表情をする透に、流果は苦く笑うしかない。

「返事は貰ってないの」
「何だそれ。それなのにライブに来たりしてるのか?」
「それは私の勝手でしょ」
「……お前、反応楽しまれてるんじゃないのか?」
「ヒロさんはそんなことしないもん」
「だったら今の状況は何だよ。しかも聞いたら二十六っていうだろ。大人の男が高校生に本気になると思ってるのか?」

 そんなことは透に言われなくても、何度だって考えた。それでも諦め悪く何度も告白したけど、返事はない。

 やっぱりあれはヒロなりの断りの態度、ということなのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなる。

 いつでも、猪突猛進に突き進んできたけど、こんなに分からなくなったことはない。何よりも、もう流果には告白までしてしまって打つ手がない。どうしたらいいのか、知りたいのは流果の方だ。

 一層のこと諦めがつくとか以前に、もうはっきりさせてほしい。好きじゃないというのなら、それで構わない。

 でも、好き……。

 苦しくて、今はヒロに会うのが辛い。でも会わないという選択は流果の中にない。

「……っ! おい」

 鼻が痛い。視界が滲む。それでも奥歯をかみ締めて耐えていたけど、一度涙が溢れると決壊したかのように、次々と地面に水玉を描いていく。

「好きなの……自分でもどうしたらいいのか分からないくらい……」
「泣くくらい辛いならやめればいいだろ」
「でも好きなの。会えば辛いのに会いたいし、声を聞きたい」
「……泣くな。流果に泣かれるとマジで困る」
「ごめん」
「責めてるんじゃなくて……」

 そのまま言葉尻を無くした透は、流果の隣に座る。

「なら攻めるしかないだろ」
「もう何度も告白して、でも答えを貰えなくて、それが辛い」
「早々、上手くいくもんじゃないだろ」
「分かってる……分かってるつもりだった」

 分かっているのと、分かっているつもりは、似ているけど全然違う。実際、今その違いを身をもって感じている。

 告白して上手くいったらラッキー、お断りされてもしばらくへこむけど立ち直れる。そう思っていた。でも現実は流果が想像していたものと全く違う。

 辛くて、苦しくて、でも傍にいたくて、声が聞きたくて……。

 色々な感情がひしめきあって、それが苦しい。好きになるのがこんなに辛いことだとは想像してなかった。

「問い詰めろよ。そんなのお前らしくないだろ。結果が出ないと苦しいばかりだ」
「分かってる……多分、その方がいいと思う。分かってるけど……」

 問い詰めて、傍に行くことすらできなくなるかもしれない。それが怖い。

 こんなに辛いのに、何故傍にいたいと思うのか自分でも不思議だ。でも好きっていう感情は確かに流果の中にある。

「いつまでも前に進めなくなるぞ」
「そうだね。透の言う通りだと思う。今は前にも後ろにも行けない感じ」
「だったら、とっとと体当たりして結果出せ。元々、白か黒かはっきりしないと気がすまないタイプだろ、お前の場合」
「そうかも」

 言われてみれば、昔から白黒はっきりしないものは嫌いだった。確かにこの状況は、自分らしくない。

「とっとと結果奪い取ってこい。結果ふられたら慰めてやるくらいはしてやる」
「どういう風に?」
「そりゃあお前……おごってやる。流果の好きなところで」
「透にしては大盤振る舞いだ」
「当たり前だ。逆の時には同じように大盤振る舞いして貰う予定だからな」
「ちょっと、それじゃあ私の方が赤字じゃん」
「やけ食いはいいぞ。気持ちが浮上する」
「そういうもん?」
「そういうもんだって言い聞かせるんだ。試合に負けた時とかすっきりする」

 もしや、透は試合に負けるたびに、そうやって気持ちを浮上させてきたのだろうか。そう思うと何だかおかしくなってきて、声を立てて笑ってしまう。

 最初こそ憮然とした顔をしていた透だったが、いつになく優しい顔で同じように笑う。

「何か久しぶりに笑った気がする。ありがとね、透」
「別に何もしてない」
「でも背中押してくれた。凄くすっきりした気分」
「それは、よかったな」
「うん、だからありがとう」
「別に礼言われるようなことしてない」

 ぶっきらぼうに言う透は、酷く照れくさそうで、その顔に穏やかな気持ちになってくれる。ヒロが言っていたように、透は透で心配していたらしい。

 こうした気遣いは本当に嬉しく思うし、自分が元気になっていくのが分かる。

「そうだ、今日は部の道場に来いよ。気合入れしてやる」
「それも悪くないかもね。うん、今物凄く気合が必要な気がするし。それに最近、素振りばかりで腕が鈍りそう」
「だろ? それじゃあ、今日は放課後道場で」
「分かった。必ず行く」

 チャイムが鳴ったこともあり、二人揃ってベンチから慌てて立ち上がる。恐らくまだ目は赤いだろうけど、今できる限りの笑顔を透に向けた。

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