「あれ、それうちの店の袋だよね。何か買ったの?」
「レターセットとノートを買わせて貰いました」
「それくらいなら、言ってくれたらあげたのに」
「売り物なら、なおさら貰えません」
「そういうところは果穂とやっぱり似てるね」
ほぼ完璧な果穂と比べられるのはかなりきつい。恐らくヒロは共通の話題として果穂の名前を出してくれているのだろう。でも、流果としてはヒロの口から果穂の名前を出して欲しくなかった。
勿論、そんな我が儘言える筈もない。だからとっさに話題を変えた。
「そういえば、果穂ちゃんから聞いたんですけど、剣道の試合見に来たことがあるんですか?」
「……果穂が言ったの?」
「言ってました」
問われるままに答えれば、ヒロは困ったような何ともいえない微妙な顔をしている。その表情に恐る恐る声をかける。
「……聞いちゃいけない話しでした?」
途端に視線をこちらに戻したヒロは、困ったような顔のまま少しだけ笑う。
「いや、そんなことはないよ。実家から会場が近くて、果穂が前から騒いでいたからね。それならと思って見に行ったんだ」
「それ聞いて、あの負け試合を見られたのかと思うと情けなくて」
「情けなく思うことはないよ。悔しく思ったことは忘れない方がいいし、それがバネになる。それに、あの試合を見て僕は良かったと思ってるよ。剣道があんなにしなやかで綺麗なものだと思わなかったから」
「剣道が綺麗……?」
どうにも剣道と綺麗という言葉が流果の中では結びつかない。確かに構えが綺麗とか、すり足が綺麗とか、そういう言い回しをすることはある。でも剣道が綺麗、という表現をした人は流果の周りにいない。
「綺麗とは遠い競技だと思うんですけど」
「でも僕は綺麗だと思ったよ。本当は男子の剣道しか見たことがなかったんだけど、女子の剣道はしなやかさと、竹刀を捌いた後が綺麗だと思った。見て本当に良かったと思うよ」
別に自分が褒められた訳じゃない。ただ、自分がこれまでやってきたことが無駄じゃなかった、好きなものを好きだと言ってくれる人がいることが嬉しかった。
「凄く嬉しいです。有難うございます。好きな物を褒められるとやっぱり嬉しいです」
「僕も昨日は色々流果ちゃんが言ってくれて、本当に嬉しかったよ。例え趣味でも、認めてくれる人がいるとやり甲斐を見いだせるからね」
「そうなんですよ。別に褒められたくてやってるんじゃなくて、ただ認めて欲しいんですよね。努力の結果というか、上手く言えないんですけど」
「分かる、分かる」
笑顔を見せるヒロに見とれてしまいそうになる自分を叱咤しつつ、ヒロの話しに耳を傾ける。それからは、ヒロの今後の活動予定を聞いたり、流果は大学に入学したら再び剣道を頑張るという話しをした。
そして一時間ほどすると、ヒロに電話が入り解散となった。でも、またおいで、と言われて天に舞い上がるような気持ちになったのは確かだった。
知れば知るほど好きになる。それは底なし沼のようで少し怖いけど、それを凌ぐほどに好きという気持ちが溢れてくる。
でも、こうして仕事の邪魔をしてしまうことを考えると、やたらと店に行くのも問題があるように思えた。次なる手段を考えないといけない。
そう思いながら帰宅した流果の心は、かなり浮かれていた。だから勢いのままにヒロに初めてメールをしたものの、送信画面を見てからようやく我に返る。
いや、幾ら名刺貰ったからって、いきなりメールはやりすぎな気がする。もっと本来であれば時間をかけて……いやいや、かける時間がないから焦ってる訳で。
既にキャンセルできない送信画面を眺めながら、流果はベッドの上に勢いよく寝転がる。ベッドのスプリングでふわふわと揺れたまま、携帯電話を眺めていた。
子どものお守りは大変、とか思われていたらかなりマズい。一層のこと、ヒロに届かなければいいと思いつつ電話を握り締めた。
途端に震えた携帯電話に慌てて画面を見れば、ヒロからの返信だった。勢いよく起き上がると、恐る恐るメールを開く。
そこにあったのは、楽しかったこと。今度は休みの日にでもゆっくりご飯でも食べに行こう、という誘いだった。
勿論、それが社交辞令と分からないほど子どもじゃない。でも、この場合、子どものふりして甘えるのもありか?
少しだけ腹黒いことを考えて、すぐにその考えを打ち消した。余り図々しくして疎ましく思われたくない。もし、ここで子どものふりしたことで、ヒロに子どもだと思われるのは嫌だった。
早く大人になりたい。そしたら、ヒロと対等に話しだってできるのに。
部屋の中に流れるヒロの声は、生の声を聞いたばかりでは霞んで聞こえる。
あの声が自分の名前を呼ぶ。自分の言葉で反応を返してくれる。笑ってくれる。その甘さを知ってしまった今は、ヒロの音楽を聴くだけでは物足りなく感じる自分がいた。
* * *
あれから一ヶ月、毎日メールの遣り取りは続く。毎日送るのは迷惑だと思い、流果からメールを出さずにいればヒロからメールがくる。
今日はこんな友達と会ったとか、ライブの打ち合わせをしたとか、ヒロからは色々な情報が入ってくる。
でも、こうして遣り取りしていると、やっぱりあの声が聞きたくなる。あの笑顔が見たくなる。欲張りになっていく自分が少しだけ嫌だと思いながら、メールの内容に一喜一憂している自分がいる。
好きだから近づきたい。でも近づきすぎて嫌われるのは怖い。こんなに自分が臆病だとは知らなかった。物事はなせばなる、何事も。それを信条にしてきたけど、そろそろ撤回しないといけないかもしれない。
この一ヶ月の間に、ヒロとは二回食事をした。土曜日に一回、日曜日に一回。
会って話しをすれば凄く楽しい。ヒロも優しいし、何よりもヒロとの会話は楽しい。
けれども、子どもの自分と話していてヒロが楽しいのかどうかは分からない。「楽しい?」と、問い掛ければ「楽しいよ」と答えてくれるのは分かってる。
でも、それが本心とは限らない。あくまで流果は果穂の妹であって、ヒロにとっては果穂のおまけでしかない。
だから時折、歌が好きとごまかして、本音を零してみるけど、ヒロはさすが大人だ。余裕で「ありがとう」と受け流されてしまう。
事あるごとに好きだと伝えているけど、いまいち伝わっていない気がする。いや、あの反応からすると伝わっていないに違いない。
一層のこと、気合いを入れて告白するか?
そんな思考を繰り返す毎日だ。伝わらない気持ちは少し苦いけど、それでも楽しい。
夕方からのライブだからと誘われて、ヒロに指定された店に到着したのはオープン三十分前の三時半だった。さすがに早く到着しすぎたと思い、店の前で踵を返したところで名前を呼ばれて振り返る。
そこにいたのは、白シャツに黒いネクタイ、そして長いエプロンをした透だった。
「透、こんな所で何してるの?」
「何って、バイトしてる。流果こそ何でこんなところに……あぁ、ライブか」
そう言って透は、チラリとライブハウスの入口にある看板に視線を向けた。
何となく、ここ最近の透は少しおかしい。会話がかみ合わないというか、やけに突っかかってくる気がする。だから、何となくクラスでも話しをしなくなっていた。
「その格好、もしかして、このライブハウスでバイトしてるの?」
「あぁ、春休み終わりまでっていう条件が合ったからな。相変わらずおっかけみたいなことしてるのか?」
「別におっかけって訳じゃない。元々ヒロさんのライブは少ないし」
「他でもやってるんじゃないのか?」
「趣味でやってる人だから、他のライブハウスではやらないの」
「ふーん。随分詳しいみたいだけど、調べたのか?」
「違う。それは……」
「話し声がすると思ったら、やっぱり流果ちゃんだ」
まるで話しを遮るように聞こえてきた声は、ヒロのものだ。けれども、辺りを見回してもヒロの姿はない。
「上、二階」
言われて見上げた先には、いつもと変わらない笑顔を浮かべたヒロが手を振っていた。
「もし良かったら上がってこない?」
「時間まで外で待ってますよ」
「寒いでしょ。流果ちゃんに風邪なんてひかせたら、僕が果穂に怒られるよ。ほら、上がっておいで」
それだけ言うと、ヒロは顔を一旦引くと窓を閉めた。どうしようかとオロオロしていれば、がっしりと両肩を掴まれた。
「お前、一体どうなってるんだ? 何でただのおっかけが本にと仲よくなってるんだよ」
「えっと、色々事情があって、その」
「どうやって知り合った」
まるで問い詰めるような透に、流果としては返答に詰まる。できるだけ果穂繋がりで知り合ったとは言いたくない。透に言えば、決定的な何かを突きつけられる気がする。流果が知りたくないと思っている何かを……。
「別に流果ちゃんがナンパしたとか、そういうことじゃないから。元々流果ちゃんのお姉さんと僕が、大学の同期だったってだけだよ。だから、その手を離してあげてくれないかな」
「果穂さんの知り合い?」
何度か道場に迎えに来てくれた果穂のことを、透は覚えていたらしい。いや、もしかしたら昔、透と流果が喧嘩していた時に、喧嘩両成敗と平手打ちされたことが記憶にあるのかもしれない。
「そう、今でも交流があって、果穂を通じてお互いに知り合ったんだ。今日もここには僕が誘ったんだけど、まだ説明不足?」
「……いえ」
少し強張った顔で短く答えた透に対して、ヒロは間に割り込んでくると、透の手首を掴んで流果の肩から離してくれる。透の力は結構籠もっていたらしく、自然とため息が漏れた。
「それじゃあ流果ちゃん、向こうに行こう」
手を繋がれて、一気に心拍数が上がる。初めての接触に口から心臓が飛び出しそうだ。
ヒロに手を引かれたまま、まだオープンしていないライブハウスの入口をくぐる。扉が閉まるまで、背中に透の視線を感じた。
「もしかして、お邪魔だった?」
「いえ、そんなことはないです。腐れ縁で付き合い長いんですけど、何か最近変なんですよ。元々、お互い喧嘩越しみたいなところはあったんですけど、最近は理由もなく突っかかってきて……」
「流果ちゃん、可愛くなったから腐れ縁としては、色々心配しているんじゃないの?」
「だったら普通に心配してる、くらい言えばいいのに」
「男は、そういうことを素直に言葉にできる生き物じゃないからね」
「でも、ヒロさんならさらりと言いそうですけど」
「言うよ。だって言わないと伝わらないでしょ。言葉は大切だと思っているからね」
ヒロが歌う曲は、全てヒロが作詞している。確かに声もいいけれど、歌の中に鏤められた言葉に、心を鷲掴みにされることもある。確かに「言葉」というものを大切にしている人なんだと思う。
「腐れ縁って言ってたけど、もしかして剣道?」
「そうですけど、何で分かったんですか?」
「筋肉の付き方が独特だからね。肩の辺りにがっしり筋肉がついてた。素直に彼が引いてくれて良かったよ。彼に殴られたら情けない所をみせるところだった」
「引くもなにも、大した話しはしてませんよ。だから透さんが殴られる理由なんてないですって」
「そう? それにしては険悪に見えたけど」
確かに酷くピリピリとした空気が、透との間にあったのは確かだ。でも、決して険悪というのは違う。ただ、これだけ長い付き合いにも関わらず、透の考えていることが分からないのは初めてのことかもしれない。
「何をムキになってるんだろう……あいつ」
握ったヒロの手にキュッと力が入ったのは分かった。