結局、貴美が亡くなってから二日間、岡嶋と梁瀬はうさぎの家へ泊まり込んでくれた。二人が心配していたように、家に光輝が来ることは無く梁瀬は先程心配しながらも貴美の社葬に出るために、一度帰って持って来た喪服に着替えてうさぎの家を出て行った。
そして、うさぎも用意を終えると階下に戻り、ソファで寛いでいる岡嶋に声を掛けた。
「すみません、お待たせしました」
「じゃあ、行こうか」
手にしていた新聞をテーブルの上に置くと、岡嶋はソファから立ち上がる。二人で家を出てしばらくすると、岡嶋が手を握ってきてうさぎは驚きで思わず立ち止まってしまう。
「別に深い意味は無いから」
「でも、普通はしません」
「かもね。でも、少しは緊張解れるでしょ」
岡嶋の手に触れるのは別に初めてのことじゃない。けれども、うさぎに比べて大きな手はやっぱり男の人の手で、緊張しない訳が無い。
「別の意味で緊張します」
「うーん、でも、別の意味での緊張の方がいいかな」
そう言って笑う岡嶋の顔は穏やかで、緊張を見抜かれていたうさぎとしてはばつが悪い。
昨日の夜、梁瀬から実家の電話番号を聞いて、光輝に電話をした。電話向こうの声は落ち着いたもので、今日会いたいことを伝えれば、何でも無いように了承してくれた。
岡嶋も梁瀬も盗聴器については光輝がしたものだと確信している様子で、うさぎもそれに異論は無い。恐らくあの盗聴器から何も聞こえなくなったからなのか、メールはあれ以来ぱたりと止まっている。
それにも関わらず、光輝との電話は終止落ち着いた声で行われたことがうさぎには怖かった。
「恋人について光輝に聞かれたらさ、きっぱり梶さんが恋人だって言いきるんだよ」
「でも、本当は違いますしこれ以上梶さんに迷惑かけるのは」
「いいの、いいの。少しくらい迷惑掛かってもあの人なら気にしないと思うよ」
明るい声で言われても、うさぎとしては本当にいいのか迷いどころではある。
利奈は沙枝と梶の婚約が破談するという話しをしていたけれども、実際にそれをきちんと確認はしていない。もし、うさぎが梶の恋人だと言ったことが沙枝の耳に入ったらと考えると、口にするのはかなり憚られる。
「嘘ついてでも、きっぱり断って。じゃないと、ずるずると後引くことになるよ。それに、嘘ついてでもうさぎちゃんには身を守って貰わないとね」
果たして嘘をつくくらいで身を守ることになるのかうさぎには判断がつかないけれども、ここまで岡嶋が強く言うのであれば意味が無い訳ではないと分かる。
「身を守ることになりますか?」
「うん、お付き合いをお断りしたい時には、きっぱりはっきり言わないと誤解されるよ。まぁ、普通であれば嘘までつく必要は無いんだけどね」
苦笑する岡嶋さんは、本当に色々なことを考えてくれていると思う。そして、握られた手から伝わってくる体温は、確かに安心を与えてくれる。一層のこと岡嶋のことが好きだったら、もっと簡単だったのに、と思わないでも無いけど気持ちなんてそう簡単に動くものじゃないことはうさぎだって身を以て知っている。梶のことを好きだと今なら分かる。
それなのに、沙枝との婚約破談を喜べない自分は、もしかして梶よりも沙枝の方が大切なのか、そんなことも考えたけど、考えたところでどうなる問題でもない。大切な者は大切、大切が幾つあっても構わないと思う。利奈あたりに言わせたら、一番じゃないなんて本当の好きじゃないと言われそうだけど、うさぎには一番をつけられない。沙枝も利奈も大切だし、今なら岡嶋や梁瀬、そして梶だって大切だ。
でも、うさぎの中で光輝は大切じゃない。だったらすっぱりと切り捨てるべきかもしれない。大切な人にこのまま心配されるくらいであれば――――。
待ち合わせていたのは学校近くのカフェで、岡嶋とうさぎは一旦離れると三十分程早くついたうさぎは一人で席についた。振り返れば岡嶋が見える距離、それはとても安心出来るものだった。
今頃、梁瀬や梶は社葬の真っ最中に違いない。二人がどうしているのか気にならない訳じゃない。そして貴美を思えば胸も痛むし、今すぐ駆けつけられない自分の立場に焦りも覚える。けれども、今は自分の事を片付けないと、そんな気持ちで窓の外へ視線を向ける。
夏の日差しで出来た濃く黒い影は、微かに聞こえる蝉の声と共に暑さを際立たせている。涼しい店内でアイスティーを飲んで待っていれば、十五分もしない内に光輝は店内へとやってきた。うさぎを見るなり落ち着いた笑みを見せるとうさぎの前にある椅子に腰を落ち着ける。
近付いて来たウエイターにアイスコーヒーを頼むと、光輝はうさぎに視線を合わせて笑う。そうして見せた笑みは、先程とは違い梁瀬に似た人好きする笑顔で、随分と光輝の印象と違う。もしかして、うさぎと梁瀬の繋がりを知っていて、わざと梁瀬に似せているのかと穿った見方をしてしまった自分を少しだけ反省した。
「桜庭さんから連絡貰えると思わなかったから嬉しかったよ」
「用件が無ければ一生連絡しなかったと思います」
そう言ってうさぎはテーブルの上に黒いどこにでもあるようなボールペンを置いた。途端に光輝の笑顔が強張るのが分かった。
「これをお返しします」
「何のことだか分からないな」
「そうですか。けれども、このボールペン、買った記憶がありませんし、出掛ける前まではバッグに入っていませんでした。なので梁瀬先輩の物だと思ったのですが。もし違うなら一応高価そうなので警察に届けようかと思っています」
途端に光輝の顔色が変化する。どう切り出せばいいか悩んでいたうさぎに、こう言えばいいと岡嶋が言っていたことをそのまま伝えたけれども、予想していたよりも効果覿面だった。
「あぁ、それなら俺のかもしれない」
「そういうことでしたらお返しします。それから、この間答えなかったことですが、私には恋人がいるので梁瀬先輩とのお付き合いは改めてお断りします」
「あぁ、梶さん?」
何故光輝が梶のことを知っているのか、盗聴器で聞かれたのかと思ったけど、記憶を遡っても梶の名前を出したのは遅刻したあの一回だけしかない。もしかして、梁瀬はうさぎが思っている以上にうさぎの回りをウロウロしていたのだろうか。そう考えたら薄ら寒くなる。
「……何で名前を知ってるんですか?」
「まぁ、色々とね。大変そうだね、彼。君は行かないの?」
「あくまで社葬ですから、会社に関係無い私は行けません」
「そういうものなんだ。ねぇ、彼とはどこまでした?」
あからさまな言葉にうさぎは眉根を寄せる。先程までの爽やかそうな声は成りを潜め、ねっとりとした声に鳥肌が立ちそうだ。
「答える義務はありません。それに、今後のお付き合いはお断りします」
「いいのかな、そんなこと言って。俺は切り札を二つ持ってるよ」
それだけ言った光輝は手元の鞄からメモリーカードを取り出すとテーブルの上に置いた。
「ここに映るのは君のヌードもある。ネットに流したらどうなると思う? 勿論、モザイクなんて掛けないよ。掛け方知らないし」
これ見よがしにメモリーカードを置いたということは、恐らくこれはコピーに違いない。そうとは分かっていても落ち着いていられるものでも無い。
「……あの盗撮器も先輩が?」
「別に俺が仕掛けた訳じゃないよ。ある人に譲って貰ったんだ。その人から君がネットでやったあれこれも聞いた。大変だろうね、桜庭さんでは無くて梶さんが。セキュリティー会社社長の恋人がハッカーなんて、ちょとした話題になるかもしれないね」
完全に脅しが入ってきて、うさぎは緊張からカラカラになった喉に水を流し込んだ。光輝とラストの繋がりはこれで分かった。
「どう? これでもお付き合い断る?」
正直、ここまで光輝が話すと思わなかったからこの先の展開まで岡嶋とは相談していない。どうするか、悩んでいたところで前に座る光輝の表情が強張った。あからさまな変化に訝しむ間もなく、その視線がうさぎよりも背後に注がれていて誰を見ているのかそれだけで分かった。
「久しぶりだな、光輝」
「岡嶋さん……何でここに」
「まだ気付いてないの? 梁瀬と俺とうさぎちゃんの繋がり」
「え?」
「ククッ、ラストも人が悪いねぇ。お前、利用されたんだよ、ラストに」
普段聞く声とは全く違う声音で話す岡嶋に、うさぎは怖くて振り返れない。何だか背後に立つ気配すら違うように感じて、思わず唾を飲み込んだ。
「今の会話、全部録音させて貰ったけど、この足で親元行って全部聞かせてやってもいいんだけど」
途端に目の前に座っていた光輝は勢いよく立ち上がると、手元にあった水の入ったグラスを岡嶋に投げつける。確かにその瞬間までは見ていたけど、急に視界を塞がれて何も見えなくなる。聞こえたガラスの割れる音と、回りから上がる悲鳴に慌てて顔を上げようとするけど「動かないで」という岡嶋の言葉にうさぎは固まる。
何が起きたのかよく分からない。混乱する中でゆっくりと視界が晴れると、もう目の前には光輝の姿は無い。慌てて振り返れば、岡嶋がシャツを片手に心配そうな顔でこちらを見ている。視界を塞いだのは恐らく岡嶋のシャツだったに違いない。
「怪我は無い?」
「ありません」
答えながらも岡嶋をよくみれば、胸元辺りからすっかり濡れていて慌てて駆け寄ってきたウエイターがタオルを渡している。岡嶋の足下にはグラスの破片が散らばり、うさぎは改めて岡嶋を見上げた。
「岡嶋さんこそ怪我はありませんか?」
「うん、大丈夫だよ。ご迷惑掛けて申し訳ありません」
岡嶋はほうきを持って来たウエイターに頭を下げて謝ると、うさぎも慌てて頭を下げる。周りに人がいなくて良かったかもしれない。
「あの、先輩は?」
「逃走。まぁ、家に逃げ帰ったんだろうね」
そんな会話の合間にも、足下は片付けられてしまい岡嶋に促されて店を出た。店を出る時に岡嶋が多めにお金を置いて行こうとしたけど、店の人はそれを断りうさぎを見て「また利用して下さい」と優しい笑みで言われた。この店は沙枝や利奈たちと何度も利用していて、学校帰りの溜まり場にもなっていた。店の人に頭を下げて謝り、店を出ると岡嶋と二人で大きく溜息をついた。
うさぎをガラスの破片から守ってくれた岡嶋のシャツは腕に掛けられていて、今はTシャツ一枚になっている。
「シャツ、大丈夫ですか?」
「んー、怖くて着れないから捨てることになるかな。まぁ、安物だし」
そう言って笑う岡嶋だったけど、庇われたうさぎとしては非常に申し訳ない気持ちになる。
「あの、せめてシャツだけでも弁償させて下さい。それにTシャツも濡れてますし」
「いいよ、別にシャツくらい気にしないで。濡れてるのもこの暑さだしすぐに乾くよ。それに今はそんなことよりもしたいことがあるから」
そのままうさぎの手を掴んだ岡嶋は、どんどん駅に向かって歩き出す。
「岡嶋さん?」
「梁瀬の実家に行く。光輝にきちんと確認取らないといけないこともあるから。本当ならうさぎちゃんを連れて行きたく無いところだけど、家に一人でいて何かあると困るから悪いけど一緒に来てくれるかな」
有無を言わせぬ強さがあって、うさぎは岡嶋の言葉に素直に頷いた。電車に乗ってからも珍しく岡嶋の口数は少ない。けれども、その表情は普段と変わらない。
「……もしかして、怒ってたりします?」
問い掛ければ、一瞬、意外そうな顔をしてから岡嶋の表情は苦笑へと変わる。
「ごめん、まぁ、怒ってるかな。下手したらあそこにいた誰かが怪我した可能性だってあるし、うさぎちゃんが怪我した可能性だってある訳だから」
「正直、岡嶋さんって余り怒らないのかと思ってたから意外です」
途端に悪戯めいた顔をして笑みを浮かべた岡嶋は、少しだけ屈み込んでうさぎの顔を覗き込む。
「あれ、前にうさぎちゃんにも怒ったじゃない」
「でもこういう感じじゃなかったから」
「俺ね、基本的にやられたら三倍返しを基本にしてるから」
爽やかな笑顔でサラリと言われて、うさぎはその意外性に岡嶋をマジマジと見てしまう。余り気性の激しさを感じたことは無いし、大抵は穏やかな顔で流しているから、岡嶋の三倍返しという言葉が俄に信じがたい。
「今回、あいつにどれだけ振り回されたか。ああいう奴はぎっちりと締められる時に締めておかないとね」
そう言った岡嶋の顔は確かに笑顔だったけど、どこか薄ら寒いものだった。
「……程々にしておいて下さい。一応、梁瀬さんの弟さんですし」
「そういう優しいこと言ってると、本当につけ込まれるよ。まぁ、うさぎちゃんのいい所なのかもしれないけどさ」
小さく溜息をついた岡嶋は、ようやく穏やかに笑う。その表情にホッとしながら、繋いだままの手に少しだけ力を込めた。
もうすぐ公演があると言っていた岡嶋が怪我をしなくて本当に良かったとうさぎは改めて思う。もし、これで怪我なんてして舞台に上がれないとなれば、うさぎは後悔しても後悔しきれないに違いない。それこそ、俳優を目指している岡嶋の顔に傷でも残った時のことを考えたら背筋が冷えた。
数駅で電車を降りれば、岡嶋の足は迷い無く進んで行く。元々、岡嶋は梁瀬と家の行き来があったようなことを言っていたから、梁瀬の家を知っているのだろう。スピードこそうさぎに合わせてくれているけど、無言なのが少し怖い。
五分ほど歩くと、一つの家の前で足を一旦止めてから、近くにある公園に足を運ぶ。それからうさぎの手を離したかと思うと、岡嶋は公園の入り口にある自動販売機でジュースを二本買うと、二本とも差し出してきた。
「どっちがいい?」
岡嶋の手にあるのはアイスティーとアイスコーヒーで、うさぎはさして迷うことなくアイスティーを手に取った。
「有難うございます」
「お礼を言われると困るかな、一応お詫びだし」
そう言われても一体何に対するお詫びが分からないだけに首を傾げれば、岡嶋は微かに苦笑した。
「ちょっと怒りに任せて突っ走りすぎたかな、と思ってさ。女の子に気遣い忘れたら駄目だよねー」
先程とは違いわざと軽い口調で言う岡嶋に、うさぎは少しだけ笑う。
「十分気遣いの人だと思いますよ、岡嶋さん。彼女になる人は喜ぶと思います」
「うーん、どうだろうね。まぁ、それ以前に恋人を作る気が無いけどね」
何だか意外なことを聞いた気がして、うさぎは岡嶋を見上げれば岡嶋は更に笑みを深めた。
「今はそっちに気持ちを割いてられないというか、正直、目的の為に手段を選ばないみたいな所があるから、恋人を泣かせることになるのが目に見えてるかな」
目的の為に手段を選ばないということについては、どの程度手段を選ばないのか分からないだけに、何とも言えない。けれども、実際公演が近いにも関わらずこうしてうさぎの揉め事にも付き合ってくれたりして、岡嶋は優しい。
「岡嶋さんは優しいから恋人泣かせたりしないと思いますよ」
途端に岡嶋の手が伸びてきてうさぎの頭をくしゃりと撫でる。その指先は優しいと思う。
「だって、少し思いましたよ。岡嶋さんを好きになってたら良かったなって」
「うさぎちゃん、俺としては嬉しい言葉だけど、でも、無理なことは分かってるでしょ?」
からかうような笑みで問われて、うさぎは素直い頷いた。だって、どう転がしてみたって梶を好きなことは変わらない。
「だったら、そういうことは簡単に言ったら駄目だよ。下手したら相手が勝手に誤解することもあるからね。梁瀬辺りに同じこと言ったら、あいつ、顔真っ赤にして逃走するよ。試してみる?」
悪戯めいた言葉と視線に、うさぎは慌てて首を横に振る。そんなうさぎに岡嶋は優しく笑ってから、大きく伸び上がる。
真夏の日差しは厳しくて木陰に入ってはいるけど、やっぱり暑いことは暑い。公園の真ん中にある時計に視線を向けた岡嶋は、ポケットから携帯を取り出した。
「さてと、冷静になったことだし、梁瀬にも連絡入れるか」
取り出した携帯を慣れた手つきで操作すると耳に当てた。
先程まではすぐにでも光輝に会う様子を見せていた岡嶋だったけど、この公園に寄ったのは冷静になろうとしてだったのかもしれない。何だか意外な岡嶋の一面を見たような気がして、電話する岡嶋をそっと窺い見て微かに笑みを浮かべた。
自分が大切な人たちの知らない一面を知るのは少し嬉しい。例えそれが嫌な面だったとしても、うさぎとしてはそれを見せてくれたことが嬉しかったりする。
電話を切った岡嶋は、うさぎへ視線を向けた時、何とも言いがたい顔をしていて意外に思う。
「何かあったんですか?」
「それが、梶さんと梁瀬もこっちに向かってるらしい」
「社葬、終わったんですか? え、でも、色々挨拶したりとか梶さんはある筈ですよね」
「それよりも、こっちを片付けるのが先だって話しみたい。俺もよく分からないけど」
てっきり、今回ばかりは梶も会社のことで手一杯だと思っていたから、こちらに立ち寄るということに驚いた。それは岡嶋も同じなのか、幾分困惑した様子を見せていることからも分かる。
「あと五分もすれば到着するって。取り合えず、そこに座ってようか」
そう言って岡嶋が指差した先にはベンチがあり、そこも丁度木陰になっていて二人で座る。時折買って貰ったアイスティーを口にしながら、多少の会話をしていると公園脇に見慣れた一台の車が止まる。岡嶋と二人立ち上がれば、向こうも気付いたらしく運転席と助手席から二人が降りてくるなりこちらへと足早にやって来た。
「取り合えず、梁瀬から詳しい話しは聞いた。これからどうするつもりだ」
「光輝をここに呼び出すつもりです。梶さんは出来るだけうさぎちゃんと一緒にいて貰えませんか。梶さんとのことまだ疑っていると面倒なんで」
「あぁ、分かった」
返事をした梶はうさぎの横に立つと、腕を伸ばしてきてうさぎの肩を抱く。引き寄せられて近付いた距離に、うさぎとしては落ち着かない気分にさせられる。落ち着かなくて当たり前だ。好きな人にこんなことをされて落ち着ける人がいるならうさぎだって見てみたい。
「一応、俺が連絡するから、梁瀬はちょっと隠れててよ」
「何で俺が隠れるんだよ」
「まぁ、いいから。きちんと後で出て来て貰うし」
「おい」
梁瀬の言葉は聞かずに、岡嶋は携帯を操作してしまうと耳にあてる。どこか納得行かない様子の梁瀬だったけれども、それでも近くにある遊具の裏に隠れた。
「岡嶋です。今、家の近くの公園にいるんだけど出て来て貰えないかな。出て来ないなら家に行くけど、どうする? ……うん、そう。それなら待ってるよ」
それだけ言って岡嶋は電話を切るとポケットへとしまい、持っていたアイスコーヒーを一気に飲み干すと手近にあるゴミ箱へと空き缶を入れた。そんなタイミングで玄関を開き、辺りを窺うようにして光輝が顔を出した。すぐにうさぎたちを見つけたらしく、周囲を警戒しながら岡嶋の前に立ち、それから木陰にいたうさぎと梶を見た途端、光輝の表情が強張った。
「何でここにこいつが……」
その声は忌々しげと言いたげな感情を隠すことも無く、光輝は梶を睨みつけている。睨みつけられた梶の方も光輝を見据えている。
「それは恋人が心配で駆けつけてきたに決まってるでしょ。何なら法的手段を取るって言ってるけどどうする?」
「こ、こっちには桜庭さんがグレーだってことも知ってますし」
「証拠は? きちんとした証拠はあるの? 無いならそれも名誉毀損で訴えられるけど」
途端に光輝の表情が愕然としたものに変わる。そして、それを聞いたうさぎもそんな簡単なことに気付けなかったことに苦い思いが広がる。
基本的にハッキングを訴えるにはそれなりの証拠が無ければいけないし、証拠もそれなりの技術が必要だ。ラストであれば証拠を集める技術もあるから訴えることも可能だと思ったけれども、ラストがその技術を光輝に教えるとは思えない。だとしたら、光輝の手に証拠なんてものは無いに違いない。もし光輝が下手にネットに情報を落としたとしても、証拠が無いのであればやはり訴えられるのは光輝の方だ。
「質問に答えるなら不問にしてもいいけど。あぁ、でも、今後少しでもうさぎちゃんに近付くような真似をしたら、親にも警察にも言うよ」
「……分かりました」
余程親に知られるのは怖いのか、それとも今に至ってようやく警察が動くことをしでかしたことに気付いたのか、どちらなのか分からない。けれども、うさぎに見せていた不遜なまでの余裕は、今は欠片も見当たらないし、顔色は既に青いのを通り越して白くなっている。
「ラストとは連絡を取ってるの?」
「今は連絡ありません。メールが来たんです。その……」
ちらりと光輝の視線がうさぎに向いて、うさぎはすぐにその視線を逸らした。途端に梶の腕がうさぎを抱き込み、そんな場合じゃないと分かっているのにもの凄い勢いで顔に熱が集まるのが分かる。
心臓が口から出てきそうだと思ったのは、これが初めてでは無い。けれども、いつでもここまでうさぎの心臓を動かすのは梶だった。
「桜庭さんのことを教えてやるからチャットに来いってメールがあって」
「それで?」
「チャットにいったらラストって奴がいて、桜庭さんを手に入れる方法を教えてくれるって。最初はそんなの信じなかったんだけど、桜庭さんの家の北側の生け垣にいいものがあるから見て来いって。それで見に行ったら、何か変な機械があって、一回家に持って帰ってきたんだ。そしたら、その機械の中にメモリーカードが入っていて、パソコンで見たら」
「盗撮映像が入っていたと」
頷く光輝に岡嶋の視線はかなり冷たい。そして、見上げた梶も冷たい視線を光輝に向けていて口を挟みにくい。それでも思い切ってうさぎは光輝に声を掛けた。
「その映像、今、どうなってますか?」
梶の腕の中から問い掛けた途端、光輝の視線を受けるよりも早く梶が庇うようにして光輝の視線からうさぎを庇う。守られてる、そう思うとすぐ近くにいる光輝がいるにも関わらず少しだけホッと出来た。
「家のパソコンの中に」
「じゃあ、そっちの始末は梁瀬に任せることにするよ」
「に、兄さんには言わないで下さい!」
「言わない訳にはいかないだろう。両親には言わないけど、梁瀬に言わない訳にはいかないよ。知ってるだろ、うさぎちゃんと仲良しなことは」
「そ、それは……」
今、光輝がどんな表情をしているのかうさぎからは分からない。けれども、その声が必死なことだけは分かる。いや、むしろ両親に言うと言われた時よりも必死になっているように聞こえる。
「理由言えば考えてもいいよ」
「兄さんに弱味を握られるのは嫌なんだ! あの人は好き勝手にやってるくせに親にはいい顔して、いつでも兄さんの真似しろって! 冗談じゃない! それなのにいつの間にか桜庭さんとも仲良くなってて、大嫌いだよ、あんな奴」
辺りに響くくらい大きな声は、光輝の心そのものだと思った。
けれども、うさぎは胸に痛かった。光輝に対してというよりも、これを聞いているだろう梁瀬の気持ちを考えたら痛い。親兄弟からこういう言われ方をされたら傷つかない訳が無い。実際にこうして光輝とは全く関係の無いうさぎが聞いていても胸が痛い。
「そういうけど、光輝、好きな奴いるの? お前の場合、自分以外好きじゃないだろ」
「……桜庭さんは好きだ。何があっても毅然としてて、まるで悩みなんてないみたいにしっかりしてて、噂とかそういうのも全然きにしてなくて、強いと思った。俺だってそうなりたいって思った」
聞いているうさぎですら、それは誰のことだと思う。毅然としてる訳では無くて、ただ人との付き合いが苦手で、悩みだって沢山あるし、噂とかは全く耳に入っていないだけで、全然強くなんて無い。一体、何を間違えてそう思い込んでいるのかうさぎには全く分からない。
「違うよな。そうなりたいんじゃない。そういう毅然とした奴を従わせたいんだろ?」
嘲笑うかのように岡嶋が言えば、途端に光輝の視線が鋭いものになり岡嶋を睨む。
「悪いかよ! そうだよ! 誰にも媚び諂わない奴が自分にだけ従うって最高だろ!」
余程興奮してるのか、徐々に大きくなる光輝の声に対して、あくまで岡嶋の声は冷静だった。
「それはな、結局相手が好きな訳じゃなくて、自分が好きなだけだろ。そういうの、正直、吐き気がするんだよね。どんだけナルシストなんだよ、お前」
「違う! 俺は」
「違わないよ。自分だけが大事で、自分が一番上であることに喜びを見出す、そういう奴だよ。他人の傷には鈍感な癖に、自分の傷にはギャーギャー騒いでどんだけみっともないんだよ」
岡嶋の冷めた声が、まるで違う人の声みたいで怖い。でも、これも岡嶋なんだと分かってる。怒ってると言ってた岡嶋は、今こそ本気で怒ってるんだと思う。
不意に梶の腕が微かに動いたかと思ったら、先程よりもきつく抱きしめられて一瞬呼吸を忘れる。梶がつけてるオーディコロンの香りが濃く漂い、頭がクラクラする。
「お前に彼女は死んでも渡せないな。これは俺のものだ」
梶の低い声がうさぎの耳に届いた時、一瞬、その言葉の意味を理解出来なかった。けれども、その意味を理解した途端、膝から力が抜けそうになって足を踏ん張る。
違う、本気で梶がそう思ってる訳じゃない。分かっているのに、言葉だけで正直気を失いそうな程嬉しく思っている自分がいてうさぎは顔を上げられない。間違いなく自分は赤い顔をしているに違いない。そんな場合じゃないと思ってるのに、梶の言葉に喜びを見出した自分に内心した打ちしたい気分だった。けれども、舞い上がる気持ちが止められない。
演技だと分かっていてもそんなことを言われたら、もっと好きになる――――。
不毛だと分かってるのに――――。
うさぎは下ろしたままの掌をギュッと握り締めてから、細く息を吐いた。とにかく、この舞い上がった状態からは落ち着かないといけない。
「ずっと、ずっと前から、俺の方が先に好きになってたのに、どうしてそうなるんだよ! あぐっ……」
激しい打撃音と共に呻き声が聞こえて、覗き込もうとした途端に梶に押さえつけられる。一体何が起きたのか分からない。
「お前、いい加減にしろよな!」
その叫ぶような声は梁瀬の声だった。微かに震えている声は怒りなのか、悲しみなのか分からない。ただ、今、梁瀬の顔を見てはいけないような気がして梶の腕に逆らうことはしなかった。
「いつまでも甘ったれてんな! 何が自分に従わせるだ! お前に従わせるだけの何かがあるのかよ! あぁ!?」
「に、兄さん、何で」
「ふっざけんなよ! お前がそういう考えだから、今誰も近くにいないんだろうが! それを脅して従わせて、そこまで自分の傍に誰かが居て欲しいのかよ! だったら自分で変わる努力くらいしろよな!」
「いつでも回りに友達がいる兄さんには分からないよ!」
「あぁ、分かりたくもないね! ほら、立て。データ消しに行くぞ。お前今度うさぎちゃんに近付いてみろ、俺がお前を警察に突き出してやる」
しばらく叫ぶような遣り取りが聞こえていたけど、それは徐々に遠くなり最後に聞こえなくなるとゆっくりと梶の拘束が解かれた。
「うさぎちゃん、大丈夫?」
心配そうな岡嶋の声に顔を上げれば、酷く同情的な目で自分を見ている視線を合う。恐らくそれは、梶への気持ちを知っているからこその視線だと分かる。
「大丈夫です」
「気分が悪いとかもないか?」
続けて梶に問い掛けられて、うさぎはそれに対しても同じ答えを返す。ただ、まだすぐには梶の顔を見られそうになくて、梁瀬の家に視線を向けた。
「梁瀬さん、大丈夫なんですか」
「大丈夫だと思うよ。あいつもそこまで馬鹿じゃないし。一度兄弟喧嘩くらいしとくべきだったんだよ、あいつのところは」
「兄弟喧嘩したことないんですか?」
「まぁ、梁瀬って基本的に年下に甘いところがあるから、喧嘩になりかけると基本的に梁瀬が引いちゃって喧嘩にならなかったんだろうな。それで、光輝の方が一方的に突っかかれば親も黙ってないし。光輝はそんな梁瀬に相手にされないって思って面白くない、の悪循環だったんだろうね」
それは初めて聞く梁瀬の兄弟としての距離で、あの梁瀬でも弟と上手くいかないことがあるのかとうさぎは驚いた。梁瀬の性格であれば誰にでも好かれるとばかり思っていたから、そういう確執が生まれるなんて考えもしなかった。
「それにしても、あいつが出て来てくれて助かったよ。俺が手を上げるところだった」
そう言いながら本気で安心したような溜息をつく岡嶋に、梶の言葉も混じる。
「そうだな……私たちが手を出したらさすがに不味い」
何が不味いのか分からずにいれば、そんなうさぎに気付いたのか岡嶋が僅かに苦笑する。
「俺も梶さんも段持ちだからさ、一般人に手を出すと捕まっちゃうんだよね。この間みたいに表沙汰にならない確信がある時はまだしも、一応、人目も多い場所だし、少なからず友人の弟となると問題ありだからね」
どうりでこの間助けられた時に二人が想像以上に強いと思ったけれども、そういうことであれば納得だ。
うさぎは一歩梶から離れると、ペコリと頭を下げた。
「色々すみませんでした。それから有難うございました」
お礼を言って頭を上げた途端、梶の手が伸びてきて頭をくしゃりと撫でられる。やっぱり、梶の指は綺麗で、その手で撫でられると嬉しくなる。
「私にとって君は大事な人間だからな」
今のは聞き違いだろうか。そんな思いで梶を見上げれば、梶が微かに笑う。果たしてそれはどういう意味なのか、聞くのがかなり怖い。
「梶さん、うさぎちゃんを誑かさないで下さい」
「別にそういうつもりは無い」
「でしょうね」
呆れたような顔をして梶を見る岡嶋と、困惑げに岡嶋を見る梶という構図はかなり奇妙だ。そして、何よりも梶の言葉が奇妙だ。一体、うさぎはいつから梶の大事な人間になったのかさっぱり分からない。特別に思われて嬉しく無い訳では無いけれども、何だか不安が残る。
「私は一旦社に戻ってラストについてもう少し詳しく調べてみる。君たちはどうする」
「一旦うさぎちゃんの家に戻って梁瀬を待ちます。恐らく夜には一度来るでしょうし」
「分かった。そしたら私も彼女の家に夜には一度行く」
それだけ言うと、梶は踵を返すと車に乗り込み立ち去ってしまう。残されたうさぎは、ただ呆然と梶の車が立ち去った方向を見ていた。
「うさぎちゃん、大丈夫?」
心配そうな声で岡嶋に聞かれたけど、うさぎは梶の車が消えた方向から視線を動かすことが出来ない。ただ、何か胸騒ぎがする。
「はい、大丈夫ですけど……何かおかしい気がするんですけど、何がおかしいのか分からないのが気持ち悪いです」
「多分、梶さんの態度だと思うよ。あのさ、酷な事言うようだけど、あの発言に深い意味は無いと思うから、期待はしない方がいいよ」
「それは大丈夫だと思います。今は驚いていて期待どころじゃありませんし」
けれども、確かに梶に俺のものだ発言された時に、淡い期待みたいなものが沸き上がらなかったか、うさぎは確認してからそれを全て心の中だけで叩き潰した。ありえない期待を持つほど辛いものはないことをうさぎだって知っている。そして、そういう意味での忠告を岡嶋が投げていることだってきちんと分かってる。それなのに、大事な人だと言われて浮かれている自分がいて、両方向へ進もうとする気持ちに溜息をついた。
「取り合えず、帰ろうか」
「はい、何だか疲れました」
実際に身体疲れていた訳じゃない。勝手に梶の言動に振り回されて疲れている、というのが正解な気がする。
駅まで歩き電車に乗ったけど、その間、うさぎと岡嶋に会話は無かった。けれども、うさぎはうさぎで考えて込んでしまい、会話が無いことに気付いてもいなかった。
* * *
寒河江から連絡が来たのは、光輝の一件が片付いた翌日だった。実際に連絡が来たのは寒河江の秘書からで、今晩梶に会いたいというものだった。既に会社が動き始めている今は、梶は社長という立場的に時間を捻出するのが難しい。何よりも、今は先行投資的な意味であの二人に出来る限り時間を割きたいという気持ちもあった。それでも、梁瀬から聞いていた話しを考えれば早めに確認しておかないといけないこともあり、渋々ながら夜八時の約束を取り付ける。
仕事を終えて寒河江の家へ向かえば、秘書は梶を寒河江の部屋まで送るとそのまま辞去してしまった。大抵、この秘書は寒河江の傍に仕えているので、こういうことは珍しい。
それでも扉をノックして返事が聞こえてから梶が開ければ、肘掛けのついたソファに腰を下ろした寒河江がこちらを見ていた。視線だけで人が刺せるのであれば、殺されていたかもしれないだろう視線に内心苦笑しつつも部屋に足を踏み入れる。
「今晩はどのようなご用件でしょうか」
「お前と沙枝の婚約を取り消してやる」
一体どのような気紛れをこの老人が起こしたのか、梶には分からない。いや、恐らく貴美が亡くなったことでこれ以上、梶に繋がりをつける気は無いということなのだろうか。
「そうですか、非常に残念です」
全く残念そうな顔をせずにそれだけ言えば、老人は口の端を上げた。
「残念だろうな、今のお前にとっては」
皮肉げに笑う老人に、梶は表情を動かすことは無く内心だけで苦笑するしかない。実際に繋ぎはあった方がより一層いい。けれども、銀行融資もあったので別段急いで繋ぎをつける必要も無い。
「別に貴美が死んだからじゃない。貴美に頼まれていたからだ」
「貴美が?」
それは梶にとって意外な言葉だった。社のために結婚の一つや二つくらいして当たり前と吹聴していたのは貴美だった筈なのに、どういう風の吹き回しなんだか今となっては知ることも出来ない。それとも寒河江が適当に言い訳を並べる為に言っているのだろうか。
予想していなかった寒河江の言葉に思考が囚われ、落ち着いた頃に寒河江を見れば面白くなさそうな顔をしている。いや、この老人はいつでも自分と会う時に面白そうな顔をしていたことは無い。この老人が笑顔など見せるのは沙枝と貴美の前以外、梶には記憶が無い。
「貴美があの事故に会う前日にこちらへ顔を出した。援助はいらないからお前と沙枝の婚約を取り消せ、と」
老人の表情から感情は読み取れない。それは年の功なのか、経験の差なのか、ただ単に読みにくい表情なのか梶には分からない。
そしてもっと分からないのは貴美の思考だ。寒河江からの資金が無ければ、システムセキュリティーという会社は回らない。いや、今現状は回るだろうが、何かあった場合の保証金などを考えれば、それだけで会社は飛んでしまう。
寒河江の出任せだろうかとも考えたが、さすがにこの老人でも死者に鞭打つような真似をするとは思いたく無い。第一、可愛い孫を泣かせてまで婚約を取り消すとすれば、それなりの理由がある筈だ。
「勿論、その時は断った……だがあの事故で、まるで貴美の遺言のようにわしの中に残っている。わしに残した遺言と思えば放っておく訳にもいかない。今後五年間、融資は続けてやる。その五年で寒河江の融資など必要ないように下準備をしろ。その間に会社が危機的状況になったとしても年間融資以上の追加融資は行わん」
「融資、して下さるのですか?」
それは本当に意外な申し出だった。貴美は融資を断ってでも沙枝との婚約破棄を願った。実際に婚約破棄をしたのだから融資も打ち切られるものだとばかり思っていたが、どういう風の吹き回しなのか老人の心は読めない。驚いた顔をしているだろう自分に寒河江は大きな溜息を吐き出すと、ゆっくりと口を開く。
「一つ条件がある」
「何でしょうか」
「一度、沙枝と食事に行ってくれ」
「食事ですか? それは構わないですけれども、婚約者でもないのに宜しいのですか?」
途端に寒河江の顔は苦虫を噛み潰したようなものになり、珍しいことだと梶は思う。やはり、この老人は今となっては沙枝以外のために表情を動かすことはしないのかもしれない。
「沙枝が融資を打ち切るのであれば、家を出て行くと言ってな」
不本意とその顔には書いてあり、思わず梶は笑いそうになってしまう。国の重鎮と言われる人間でも、孫の我侭には頭が上がらないものらしい。沙枝の背後にある寒河江を考えれば美味しい餌には違いないが、こんな時に限って梁瀬の「好きでもないのに結婚なんて」という言葉が浮かび苦笑してしまう。そして、その苦笑を寒河江に見咎められた。
「何を笑っている」
「私自身は彼女との結婚を悪く無いと思ったのですが、咎める者がおりましてね」
「ほぉ、沙枝では不服というのか?」
「いえ、愛の無い結婚は不幸だ、と」
「……そうかもしれんな」
呟いた老人の視線の先にいるのは梶であって梶では無いように見える。どこか遠くを見ている寒河江を見るのは梶にとって初めてでもあった。
けれども、老人はすぐに我に返ると梶を見据える。その目はいつもと変わらぬ、上に立つ者の傲慢な視線だった。
「沙枝との食事はお前から誘え」
「分かりました。こちらからお誘いしたいと思います。きちんとお断りした方が宜しいですか?」
何を、とは言わなかった。けれども老人には分かっているのか鷹揚に頷いた。
「そうしてやってくれ。あの子の気持ちのためにも、あの子の友情のためにも」
友情のためというのがどういう意味だかは分からなかったが、気持ちのためにと思うのは梶も同じだ。
沙枝のことを決して嫌いでは無い。梶へと漂わせる恋心が煩わしいだけで、嫌いではない。だったら、今後繋がりの薄くなる可能性を考えれば、きちんと失恋させてやるのはある意味優しさに違いない。
「話しは終わりだ」
「お時間を作って頂き有難うございました」
「月末の収支報告にはお前が報告書を持って来い。お前の口でお前が報告しろ」
老人の発言を梶は意外に思う。
もしかして、この老人にも自分に対する興味が多少でもあったのだろうか。疎ましく思われているとばかり思っていたからこそ、それは意外でもあり、ありえないのではないかと即座に否定したいところだ。けれども、老人が自分を見る目が思ったよりも優しくて、梶は困惑しながらも頭を下げて屋敷から引き上げた。