もの凄く鬱蒼とした気分で寝た筈なのに、翌日起きてみれば頭も気持ちも、今日の天気のように晴れ晴れとしたものになっていた。
そんな自分をどうなんだと突っ込みながら、流果はベッドから起き上がると、パジャマから手早く着替えて壁際に置いてあった竹刀とハンガーに掛けてある制服一式、下着類を抱えた。
音を立てないように階下へ降りると、リビングのソファに持っていた全てを一旦置いてしまうと、洗面所で濡れたタオルを用意する。その足で再びリビングに向かうと、リビングの窓から庭へと素足のまま降り立った。
ひんやりとした冷たさと、手入れされた芝生の感触が足の裏を刺激する。けれども、毎日の日課なので慣れたものだ。
既に冬になったかならないか、そんな時期になるのに庭には母親が植えた花々が咲いている。残念ながら流果は花に興味がないから、どんな名前の花なのかよく分からない。
ただ、そのカラフルな色合いを見ているだけで元気が出てくる気がした。何よりも、花に興味はなくても、見ているには綺麗で嫌いじゃない。
「よし、今日も気合い入れて」
本来であれば声も出したいところだけど、さすがに住宅街でやれば近所迷惑になる。朝五時という時間もあって、唇を真一文字に引き結ぶと、竹刀を構える。
清々しい朝の空気が肌に刺さる。けれども、静寂さと朝の引き締まった空気は流果にとって大好きなものの一つだ。
竹刀を構えたまま、基本である構えを見直す。それから、ゆっくりと全ての思考を無にしてから竹刀を振り上げる。
背後から名前を呼ばれ、竹刀を止めて振り返れば母親が窓から顔を覗かせていた。気がつけば朝日もすっかり昇り、辺りの喧噪も聞こえてくる。
「流果、もう少しで朝ご飯よ」
「分かった」
短く返事をして、額から流れ落ちる汗を手近においてあったタオルで拭う。それからリビングの窓際に座ると、用意してあった濡れタオルで足を綺麗に拭う。
その足で洗面所へ向かうと、濡れて張り付く服を脱ぎ捨て風呂場に入る。昔から流果は朝夕二回風呂に入るのが日課だったから、別段違和感もない。
シャワーだけで頭から身体まで全て洗い流しさっぱりすると、用意していた制服を身につける。少し前までは使わなかったドライヤーで髪を乾かし、整髪料で髪型を整える。
鏡の中にいる自分と向き合い、それから気合いを入れると親が待つリビングに向かった。
昨日は色々と感情の起伏が激しすぎて、寝る前にはネガティブ思考に陥った。けれども一度睡眠を取れば持ち直せるのは流果の自慢できるところでもあった。
確かに二人は付き合っていたかもしれない。けれども、今現在付き合っている訳じゃない。果穂に勝てるとは思わないけど、何もしないで手をこまねいているのは性分じゃない。
とにかく、やれることは何でもするべきだ。何よりも期限付きの自由なのだから、何もしないで指をくわえているなんて冗談じゃない。
基本ポジティブ、猪突猛進は私の武器。
そう言ってくれたのは師範だった。勿論、その後に先走りするな、とも言われたけど、今はそこを考えない。
ヒロに会って思ったことは、やっぱり自分がヒロを好きだということ。その気持ちに嘘はない。だったら、ぶつかっていくしかない。
とにかくヒロのことが知りたいし、もっと会いたい。何よりもあの声がもっと聞きたい。
だったら今できることは何か。店に突撃して、もっとヒロとの仲を親密にすることが第一歩だ。ぶつかって、それでダメなら諦めだってつく。
「よし、今日も頑張る」
「余り頑張りすぎないでよ。流果ちゃんの場合、頑張りすぎると空回りするんだから」
「お母さん、お願いだから出鼻をくじかないでよ」
「だってそんな気合い入れて言われたら心配にもなるじゃない」
そう言われてしまうと、返す言葉もない。でも、とにかくネガティブとはおさらばだ。できることはやる。
用意された朝食を取り終えると、いつもと同じ時間に家を出た。両親から「いってらっしゃい」と声を掛けられて、元気に「いってきます」と答えるのもいつものこと。
歩く足がいつもより軽いのは、自分の気持ちにケリがついたからだ。
ヒロが好き。
今はそれだけでも充分だ。とにかく、好きなのか、ファンなのか、そんなことを考える時期はとうに越えた。だからこそ、どこかすっきりした気分で学校に向かう。
ヒロと約束したからヒロと会ったことは誰にも話さなかった。でも、午後になるとヒロの店に行くこともあり、徐々に緊張してきた。
緊張もしてるけど、ワクワクした気持ちも半分。会いたいと思っている自分が確かにいる。その感覚は少しくすぐったい。
授業が終わり、ダッシュで学校を後にすると切符を買って電車に乗り込む。既に心臓は早鐘を打っていて、気持ちが浮き足立つ。
店を持っていると言っていたから、ヒロが店長なのかもしれない。だとすれば店にいない可能性もあるけど、電話でお礼を言うだけじゃなくて、できることなら会いたい。
気合いを入れすぎて、持っていた切符を握りつぶしてしまい、改札を抜ける時には少し恥ずかしい思いをした。そんな恥ずかしさよりも、ヒロに会えるかもしれない、という期待感の方がずっと高い。
名刺を片手に見知らぬ道を歩く。でも全く不安を感じないのは、気持ちが昂ぶっているからなのか。自分でもよく分からない。
少し大通りから離れた細い道には、小さな店舗がひしめきあっていた。雑貨や小物を扱う店から、洋服が並ぶ店、学生向けの店もあれば、OLさんを対象にしたスーツを売っている店もある。
少し前の自分であれば、見向きもせずに素通りした通りが、今は楽しい。そして、それを楽しめる自分がいることが楽しい。
通りを歩いている内に、ようやく名刺に書かれた店をみつけた。店がひしめき合う中で特別に見えるのは、間違いなく流果の感情故だろう。
両開きのガラス扉は大きく開け放たれ、中には服や雑貨が並んでいるのが見える。よく見れば文房具などもあるらしく、カラフルなノートには流果も心惹かれた。
少し緊張しながら店に入れば、店の人が明るい声で「いらっしゃいませ」と声を掛けてくれる。本来であれば、すぐにレジでヒロを呼び出して貰おうと思っていたけど、気持ちを落ち着かせる意味で、並べられている商品に視線を向ける。
確かにヒロが言っていた通り、流果でも買えるくらいのお手軽値段の物も多い。さすがに服とか買うにはお財布の中身が心配になるけど、小物を買うには困らない。
結局、十五分ほど掛けて店内の物を見ると、店に入ってきた時に気になったカラフルなノートと、麻紐で閉じるタイプのレターセットを手に取った。
友達には大抵携帯メールで全てが済む。けれども半月に一度、今は会うことのない師範たちに手紙を書くことにしている。だから、このご時世でも流果にとってレターセットは重要なアイテムだった。
少し師範たちに出すには可愛すぎる気もしたけど、まぁ、いいか、と気を取り直すとレジに向かう。会計を終えてからヒロに貰った名刺を取り出すと、店員さんに改めて声を掛けた。
「千種流果と申しますが、千尋さんはいらしゃいますか?」
「お待ち下さいね」
店員さんは笑顔で答えると、背後にある扉を開けた。
「店長、お客さん」
「今行きます」
確かに奥から聞こえてきた声はヒロの声で、途端に心臓がバクバクと騒ぎ出す。
落ち着け、と念仏のように心の中で唱えている間に、ヒロは奥の扉から出てきた。流果を見るなり少し驚いた顔をしたヒロだったが、次の瞬間には嬉しそうな笑顔に変化する。
「流果ちゃん、本当に来てくれたんだ」
「はい、早速ですが来ちゃいました。先日は色々と有難うございました」
「別にお礼を言われるようなことはしてないよ。ちょっと待っててね」
一旦会話を打ち切ったヒロは、最初に取り次いでくれた店の人に「ちょっと出てくるからお願い」と声を掛ける。それから改めて流果へと向き直った。
「ここだと落ち着いて話しもできないから、外に出よう」
店の外へと促されて、ヒロと共に店を出た。すぐ脇にある裏道に入ると、店の裏側には小さなカフェがあった。そのまま中へと促されて、足を踏み入れる。
シンプルな作りのカフェは、コンクリートを打ちっぱなしにしてある。それでも寒々しい感じがしないのは、所々に灯されたアンティーク風のカンテラランプの明かりがあるからだ。
「あれ店長、どうかしました?」
「ちょっと席借りるね」
そんな会話を交わすと、ヒロは窓際にある一番奥の席へと案内してくれた。カウンターの中にいる人が店長と言っていたから、ここもヒロの店なのかもしれない。
「ここもヒロさんの店なんですか?」
「ここも、というか向こうの店とこっちの店、実は繋がっているんだ。それを二分割してお店を二つにしているだけ。いずれ独立させたいとは思っているんだけど、今はまだ難しくてね」
「何か自分の店があるのって、ちょっと格好イイ気がします」
「そういう感想言われると、ちょっとホッとするね」
「そういうものですか?」
「そういうものです。そうだ、この間渡し忘れた物があってね」
そう言ってヒロはポケットから小さな紙袋を取り出した。緑系のストライプが描かれた紙袋を差し出され、素直に手を差し出した。掌にのせられた紙袋はさほど重さはない。
「何ですか? これ」
「開けてみて」
ヒロに促され紙袋を開ける。小さな紙袋を逆さまにすれば、掌に落ちてきたのはネックレスだった。少し太めのチェーンに、中央には地球をあしらった骨組みがある。そしてその中には緑色の石が入っていた。
「あの、これ」
「確か流果ちゃん五月生まれだよね。中に入ってるのは安物だけど一応エメラルド。うちでお願いしているアクセサリーデザイナーさんが試作品として持ってきたんだ。でも、試作品は店頭に並べられない。それなら流果ちゃんなら使うかと思って。どう? 余り気に入らない」
「いえ、そんなことないです。細工が細かくて凄いなぁ、と思って。でも、こんな高そうなの貰えません」
「でも試作品だから、気にしないで貰ってよ。実は、これ作ってるの僕の友達なんだ。だから、無料であげてくれって言われててね」
「でも」
「気に入らない?」
「そんなことないです!」
思わず即答してしまえば、正面に座るヒロが楽しげに笑う。ムキになってしまった自分が恥ずかしい。思わず視線を落とせば、そこにはヒロから渡されたネックレスがある。
窓から入る日の光で、緑の石が淡く反射する。その光が綺麗で、思わず手の中にあるネックレスを優しく撫でた。
「貰ってくれる?」
「有難うございます。でも、お礼に来たのにネックレスを貰ったら本末転倒というか……」
「別にそれはこの間会った時に渡そうと思ってた物だから気にしないでいいよ」
丁度そのタイミングでカウンターにいた人が、紅茶を二つ運んできてくれる。温かい紅茶が湯気を立てていて、一口飲むと緊張で喉がカラカラだったことに気づく。
「そういえば、なんで私の誕生日を知ってたんですか?」
「前に果穂から聞いていたから。子どもの日なんだってね。子どもの頃に、誕生日だから兜が欲しいって泣いてお願いしてた、っていう話しを聞いたから覚えていたんだ」
「それはまた……忘れて欲しいくらいには恥ずかしい話しなんですけど」
「果穂から聞く流果ちゃんの話しは、色々と面白かったよ。僕にも妹がいたら楽しかっただろうな、って思ったし」
「兄弟いないんですか?」
「上に兄貴が一人いるんだけど、やっぱり男兄弟だと感覚が全然違うと思うよ。余程用事がなければ電話だってしないし」
果穂とは一週間に一回、用事がなくても電話をしている流果としてはピンとこない。
「仲が悪いんですか?」
「あはは、別に悪くはないよ。ただ、これといって用事がないと話すことが無いんだよね。流果ちゃんと果穂は仲がいいみたいだね」
「果穂ちゃん、色々聞いてくれるから、つい」
「それは妹の特権とでも思っておけばいいよ。果穂もあれで、流果ちゃんから色々話して貰えて嬉しいみたいだし」
そういうものなんだろうか。妹の立場としては余りよく分からない。ただ、果穂のことを話すヒロが楽しそうで、チクリと胸が痛んだ。