夕暮れコントラスト Act.05

「とりあえず、食事取れるところに移動しましょう。ほら、流果、いつまでもぼんやりしてない」
「わ、分かってる」

 慌てて飲みかけだったミルクティーを一気に飲み干すと、既に立ち上がり待っていた二人に続く。

 まるで初めてライブに行った時のように、足下がフワフワしておぼつかない。目の前にヒロがいると思うと、それだけで頭がパンクしそうになる。

 そして目の前で見て、改めて自分がこんなに好きだったんだと知った。

 ファンと恋の境目ってどこだろう……。

 そんな疑問を感じながら、三人揃って電車に乗り込む。もっぱら会話しているのは果穂とヒロの二人で、何だか仕事の話しをしているらしく加わりにくい。

 いや、実際に加われたとしても、何をどう話していいのかもよく分からない。緊張しすぎて頭真っ白、というのはこういうことかもしれない。

「ごめんね、仕事の話しばかりじゃ流果ちゃんが話しに入れないよね」
「あ、いえ……大丈夫です」

 実はそれよりも、果穂と呼び捨てにする方が気になります。なんてことは口が裂けても言えない。

 実際、こうして二人を見ていると結構仲がいいことは、会話の端々から分かる。お互いに気兼ねなく話している様子は、自分と透のような関係なのだと分かる。

 いや、もしかしたらもう一歩、踏み込んだ関係なんだろうか。

 そこまで考えてしまい、軽く頭を振ってその考えを振り払う。何だかそれを考えてしまうのは、下巣の勘ぐりだと思うし、何よりも浅ましい気がした。

「果穂とは仕事でも多少関係があってね。これから行く店は美味しくてお勧めなんだ」
「美味しいものは好きです。楽しみにしてます」
「食べた後にも喜んで貰えるといいんだけどね。果穂に聞いていたよりも大人しいけど、緊張してる?」
「もの凄くしてます。すみません、私の場合歌ってるヒロさんしか知らないので、もう雲の上の人というか、アイドル並に遠い人というか」

 途端に二人揃って笑われてしまい、恥ずかしさが込み上げてくる。

 でも実際、流果にとってヒロは遠い存在で、普通に話しができるなんて思ってもいなかった。何よりも、あの声で名前を呼ばれる日がくるとは思ってもいなかったから、緊張するなというのが無理だ。

 正直、頭の中は「どうしよう」という言葉ばかりが渦巻いている。下手に会話などしたら、空回り必須で話すのが怖いと思ったのは初めてだ。

「アイドルは大げさじゃないの。あくまで趣味でやってるんだし」
「そんなことない! だって、ライブとかやったらヒロさん目当てに来る人が沢山いるし、動画サイトだって新作出したらもの凄く再生数いくし」

 つい必死になってしまうのは、ヒロの人気を知らない果穂に色々言われたくないからかもしれない。

「分かった。流果がヒロを好きなことは分かったから落ち着いて」
「果穂ちゃん!」
「何よ、おかしなこと言った?」

 そうだ、好きというのにも幾つも意味がある。ヒロに対する恋心など、まだ誰にも言ったことはない。

 果穂がそういうつもりで言ったことがないのは、その表情からも分かり一人赤面ものだった。

「趣味でやってるとはいえ、できる範囲で真面目に歌ってるつもりだから、流果ちゃんにそう言って貰えると嬉しいよ。うーん、でもアイドル並みまでいくと、ちょっと大げさで僕も困るけど」

 そう言って笑うヒロはやっぱり穏やかな笑顔で、スーツ姿だからこそ、余計に大人だと思える。そして、スーツが似合う大人の男というものにクラクラしているのも確かだ。

 勿論、中身がヒロだからというのも大きいけど、スーツを着た男の人なんて父親くらいしか知らない。まさかスーツを着た男の人がこんなに格好イイとは思ってもいなかった。

 しかも、自分よりも背が高いというのはポイントが高い。見上げるという行為自体が、何だか照れくさい。

 三駅先の大きな駅で降りると、繁華街には入らず駅沿いにある細い道を入っていく。勿論、流果にとって未知の場所だ。

 その間にも、流果は全く話しをするこができなかったが、代わりに果穂が色々聞いてくれた。どうして動画サイトに投稿するようになったのか、ギターはいつから弾いていたのか。それは流果が聞きたかった情報でもあった。

 高校から始めたギターでバンドを組んでいたこともあったこと、投稿したきっかけは、友達が同じように投稿していて誘われたからだということだった。

 よくよく話しを聞いてみれば、流果が初めて行ったライブで、ハードロックを演奏していたバンドのメンバーだったらしい。

 基本的に余りライブは参加しないけど、友人、知人に誘われると出る程度で、メインは投稿ということだった。

 ヒロを知って行ったライブは二度だけで、インターネットで情報を探しても、ライブ情報は余り出てこない。誘われないと活動しない、ということなら納得だった。

「そういえば、流果が聞きたがってたけど、何の仕事してるのって」
「別に教えても構わなかったのに」
「一応、その辺はプライベートだし、どうかと思ってね」
「まぁ、他の人には余り言わないで欲しいけど、流果ちゃんなら別に構わないよ。実は輸入雑貨の店をやっているんだ」
「輸入雑貨?」
「主に服飾系がメインなんだけど、小物とかも扱ってるよ。ブレスレットとか、ネックレスとか。店も近いから、もしよければ今度遊びにおいでよ」
「こら、流果相手に営業しない」

 睨みを利かせる果穂に、ヒロは困ったように笑う。その顔も格好イイから本気で困る。何よりもマイクを通さない声は、さらに心地良いもので、心拍数だけがどんどん上がる。

「いや、別に営業って訳じゃないんだけど。うーん、でも高校生にも手頃な値段で買える品物が多いから、っていう理由もあるから営業に近くなっちゃうのかな。別に買ってという訳じゃなくて、見るだけでも楽しいかと思ってね」
「まぁ、そういう意味では流果でも楽しいかもしれないわね」
「これに地図も描いてあるから、今度遊びにおいで」

 そう言って差し出されたのは、一枚の名刺だった。当たり前だけど、名刺なんて貰う機会は滅多にない。何だか大人の品というものを受け取ると、ついマジマジと見てしまう。

「流果!」

 名前を呼ばれるのと同時に、腕を掴まれて強く引かれる。一瞬訳が分からずにいれば、名刺をじっくり見ている間に赤信号を渡ろうとしていたらしい。

 掴んだ腕を辿れば、それはヒロの手で一瞬にして身体中の熱が上がる。

「す、すみません」
「いや、僕が悪かったよ。店についてから渡せば良かったね」
「いえ、私が落ち着いてから見れば良かっただけです。その名刺とか貰う機会がなくて、つい」
「高校生だと確かに名刺とは縁がないからね。気持ちは分からなくないけど、歩きながら見るのは感心しないよ」
「すみません」
「うん、今度から気をつけてくれたらいいから」

 ヒロに注意された後、盛大に果穂から説教されて、手にしていた名刺はしっかりと鞄にしまった。そこから五分と掛からない内に店に到着して、ようやく果穂の説教から解放される。

 昔ながらの喫茶店という風情だが、やはりここもライブハウスと同じで、看板は丁重に磨かれ清潔さを保っている。ヒロを先頭にして中へ入れば、テーブルが三つほどの小さな店だった。

 四人がけのテーブルに腰掛けると、恰幅のいい店の人がやってきた。

「千尋くん、また来たの?」

 言葉とは裏腹に、店の人はとても嬉しそうな笑顔を浮かべている。そして、声を掛けられたヒロも楽しそうな笑みを浮かべている。そこには気楽な雰囲気があり、穏やかな空気があった。

「美味しいから、つい色々な人に紹介したくなるんです」
「余り紹介されると、うちの店はパンクするよ。僕一人でやってるんだから」
「でも、彼女たちは特別だから見逃して下さい」
「千尋くんのお願いは断れないでしょ。お嬢さん方、メニューをどうぞ」

 そう言って渡されたメニューはシンプルなもので、コースが二つ、それにデザート類が幾つかあるだけだった。

 コースは肉がメインのものと、魚がメインのものがあることはヒロの説明から分かった。けれども、どういう料理なのか見慣れない名前で途方に暮れる。

 結局、果穂に問い掛ければ、それぞれこういう物だと説明してくれた。正直、果穂が全部を説明できることに驚いた。

「果穂ちゃん、実は凄い人だったんだね」
「ただの食べ道楽。食べるのが好きなだけ。まぁ、ある意味家系よね。お母さんも旅行とかには行かないけど、食べることにはお金掛けるし」
「そう言われてみるとそうかも」
「流果だって食べるの好きじゃない」
「だって、剣道してると食べないと動けなくなりそうだし」
「でも、今は休み中でしょ。油断してるとブクブク太るわよー」

 少し意地の悪いことをいう果穂に、流果は小脇をつついた。

「きちんと毎日の素振りだけは欠かしてないから」
「でも、絶対的に運動量が違うから、気をつけなさいよ。太る時はねぇ、一気にくるのよ。体重計に乗るのが怖くなるくらい」

 酷く実感の籠もった言い方に、思わず流果としては口を噤むしかない。恐らく、果穂は一度そういう体験をしたことがあるのだろう。

「あぁ、そういえば、一時期ちょっとふくよかになった時期があったよね。去年の今くらい?」
「そうよ。恋人に振られてやけ食いに走ったのが間違えていたわ」
「恋人? え、果穂ちゃん、恋人なんていたの?」
「過去の話。優しいんだけど、優柔不断な男でね。もう余りの優柔不断さにうんざり」
「その説は、本当に悪いことをしたと思ってるよ」
「本当ね。余程大らかな女じゃないと、優柔不断なのは無理よ」
「手厳しいなぁ」
「そろそろ遊んでばかりもいられないし、結婚だってチラつく年なんだから、見る目厳しくなるのは当たり前でしょ」

 もしかして、会話からするとこの二人は、昔恋人同士だった、ってことなんだろうか。でも、そうだとすれば二人の気軽さとか、そういうところも納得できる。

 納得はできたけど、胸が痛い。誰かを好きになったことなんてないけど、これが嫉妬だってことだけは分かる。既に付き合っていないのだから、今さら嫉妬も何もない。

 そう思うのに、心の奥底でグズグズと燻るモヤモヤした気持ちは収まらない。一層のこと、聞いてしまえば楽になるし、諦めもつくのに、徹底的な言葉を突きつけられたら、今すぐこの場から逃げ出しそうだ。

 そんなことをモヤモヤと考えている内に、会話は違う話しへと移っていく。

 途中、色々話し掛けられたけど余りよく覚えていない。食事の味もよく分からなくて、気づいた時には家に帰り、玄関先で果穂を見送っている最中だった。

「流果、緊張しているのは分かるけど、もう少しヒロと話しすれば良かったのに」
「そうなんだけど……あのさ」
「なに?」
「何でもない。今日はヒロさんに会わせてくれて有難う。凄く嬉しかった」
「そう言って貰えると会わせた甲斐があるわ。折角名刺貰ったんだし、今度電話でいいからきちんとお礼しなさいよ。結局ヒロにごちそうになったんだし」
「うん、分かった。果穂ちゃんも気をつけて帰ってね」
「大丈夫。それじゃあ、また今度連絡入れるから」

 ヒラヒラと手を振ると果穂は玄関の扉を開けて出て行ってしまった。母親はしきりに泊まって行くように言っていたけど、果穂は仕事があるからと自宅に帰ったらしい。そんな母親の愚痴を聞きながら、流果は用意された紅茶を飲んだ。

 母親の愚痴は右から左で、考えていたのはヒロと果穂の関係だった。

 もし恋人同士だったとしても、今あれだけ仲がいいのであれば再び付き合う可能性もあるのかもしれない。いや、それ以前に、いがみ合って別れた様子では無かったから、その可能性も高い。

 もし果穂とヒロを取り合うことになったら、勝てる気がしない。年齢的な問題も、精神的な問題も、色々な面で果穂には勝てない。果穂に勝てるとすれば、持久力と体力くらいだ。でも恋の勝負でそんなものは毛の先ほども役に立たない。

 鬱蒼とした気分のまま布団に潜りこむと、楽しかった筈の一日を終えた。

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