「お前、どうする気だ?」
唐突に問われて、怪訝な顔をすれば正面に座る藤森夏樹はチラリと視線を窓際に向けた。そこにいるのは、腐れ縁となった流果が池上沙和子と携帯プレイヤーを片手に盛り上がっていた。
「別にどうもしない」
「どうもする気がないなら、その不機嫌面どうにかしろ」
言われて改めて眉間に皺を寄せていたことに気づき、指先で伸ばしてみる。
夏樹とは幼なじみということもあり、ほとんど透の感情は筒抜けだ。あえて言葉にされたことは無いけれども、流果が好きだということはバレバレだ。
「悪かった」
「まぁ、気になるのは分かる。この一ヶ月であいつ綺麗になったもんな」
「お前もそう思うか?」
「誰の目から見ても明らかだろ。スポーツ少女がいきなり乙女になったんだからな」
「乙女……すまん、耳が拒否しそうになった」
正直、乙女なんて言葉だけでも鳥肌ものだ。けれども、誰の目から見ても流果は綺麗になったように見えるのだろう。実際、透の目から見ても綺麗になったと思う。
いつも乾いたままにしていた髪は、短いながらも手入れされ今は跳ねていたりしていることもない。薄くつけたグロスだって女らしさを感じさせるものだし、肌も随分綺麗になった。
今は以前のように迂闊に触れることすらできない気がする。
何よりも変化したのは流果の周りだろう。今までは池上としか付き合いは無さそうに見えたにも関わらず、今や他の女子と共に化粧の話しに盛り上がっている。
「お前、ウカウカしてると鳶に油揚げさらわれるぞ」
サラリと言われた夏樹の言葉を聞き流しそうになり、思わず正面へと視線を直す。
「まさか、それはないだろ」
「あいつを好きになる物好きは俺だけだ。そんな時期はとっくに過ぎてると思うが」
「あの流果だぞ」
「そう思ってるのはお前くらいだ。この間、駅前で千種に会ったけど、正直俺は度肝を抜かれた。下手なモデルよりも目立つぞ、あいつ。実際、駅前でナンパされてたし」
「お前、それ眺めてたのか」
「いや、さすがに助けたよ。お前、俺をそこまで無慈悲な人間だと思ってるのか」
「無慈悲だろ。少なくとも俺に対しては」
「確かに男にやる慈悲はないな」
どう言ったところで、夏樹に勝てる筈もなく小さくため息をついた。
「少し前なら、大丈夫だと思えたんだがな」
「だったらお前はうぬぼれすぎだ。女は化け物だぞ。うちの姉貴を見せてやりたい」
「そういう意味では見ておきたかったかもしれない。心構えができたからな」
いつまでも流果は剣道に打ち込み、変わらないのだとばかり思っていた。流果の良いところは他の男なんぞに分からなければいい。そう思っていたけど、この急激な変化で視線を集めているのは確かだろう。
剣道一筋で、誰かとつるむ流果なんて一ヶ月前には想像だってつかなかった。
「言わないのか?」
主語なんてなくても分かる。流果に告白しないのかと聞かれている。でも、透の中には答えがない。
今このタイミングで告白したら、それこそ流果に誤解されそうな気がする。
確かに流果を好きではあるけど、透が好きになったのは綺麗な流果だからという理由じゃない。
小学生の頃からいがみあい、何かと張り合ってきた流果が可愛く思えたのは、初めて透が流果に剣道で一本取った時だ。
面越しに目が合った流果の目に涙が溜まるその顔を、今でも思い出すことができる。その時、初めて可愛いと思ったのも遠い昔だ。
「誰にも興味ない奴が、いきなりアイドルおたくもどきになるなんて、考えもしなかった。しかも、そのお陰で可愛くなるとか無いだろ、普通」
「でも現実にあっただろ。一つ勉強になってよかったな」
「そんな勉強したくない。本気で慈悲ないな」
「今日は持ち合わせがないからな」
「いつでもないだろ」
ふて腐れて夏樹に言えば、言われた夏樹が薄く笑う。
「意気地がない、ってことか? 鬼の剣道部部長が?」
「意気地の問題じゃねぇよ。今はタイミング悪い。まるで可愛くなったから好きになったみたいだろ」
「タイミング計ってる間に鳶が現れても知らないからな。俺は一応友人として忠告はしてやった」
それだけ言うと、夏樹は手にしていた文庫本に視線を落としてしまう。
実際、夏樹に言われなくても透自身、少し焦りを感じていた。
今はまだ、アイドルもどきに熱を上げているだけだからいい。でもこれが身近な自分以外の人間に、その視線が移ったら。そう考えただけでも、嫉妬心が駆り立てられる。
長い付き合いだったからこそ、流果のいいところはよく知っている。何よりも試合をすればよく分かる。
真っ直ぐな剣、そして柔軟さのある思考と戦略。いざとなれば冷静さを失わない強さ。何よりも、自分に厳しく他人に優しくできるところは、流果の一番好きなところでもあった。
勿論、顔も好きだし、満面の笑顔を向けられただけで、透は何でもできるような気になれる。
けれども、何も伝えなければ気持ちはそこで終わりだ。言わなければ、何もないのと一緒だから伝えるべきなのだとは思う。
ただ、それをいつ伝えるか。そんなことを悩んでいたらこの体たらく。
あの流果がまさかアイドルもどきに熱上げ、しかもそのために自分を磨くなんて思ってもみなかった。
集中すれば一直線、剣道にだってそうやって打ち込んできたのだから、想像することはできた筈だ。それを考えもしなかったことは自分の手落ちだったかもしれない。
タイミングの悪さに苦い思いでいれば、正面からため息が聞こえて顔を上げた。
「だから、その顔やめろ。お前がそういう顔をすると、周りが怖がるんだよ。分かれ」
「元々こういう顔だ」
「八つ当たりは見苦しい。俺はお前のサンドバッグになる気はない。ただ、愚痴の一つや二つは聞いてやる。三つは嫌だがな」
「それは有り難い友情だな」
「脆いけどな」
「……お前なぁ」
「まぁ、そろそろお前も一歩踏み出せよ。何年越しだ」
「だから今は……」
「そういう顔してるくらいだったら、当たって砕けろ。骨くらいは拾ってやる」
「有り難くて涙が出そうだ」
「そうだろ。俺は友情に厚い男だからな」
「殺意芽生えるけどな」
投げやりに答えた透に、夏樹はクツクツと喉で笑うと本を閉じた。
「とりあえず、ストーカーになりかけたら全力で止めてやる」
これが本当に友人の言葉なんだろうか。
鬱蒼とした気分で夏樹に視線を向ければ、夏樹は唇の端を上げ薄く笑った。
* * *
夏樹に指摘された通り、最近はイライラしていることが多い。だからこそ気持ちを落ち着けたくて、放課後は引退したばかりの剣道部に足を向けた。その途中、正面から歩いてくる流果が見えた。
「流果も剣道か?」
「私は部室に忘れた物を取りに来ただけ。もしかして剣道部に顔出すつもり? 煙たがられると思うけど」
「今は道場も開いてないから、部の道場くらいしか顔出すところ無いんだよ」
丁度最後の大会が終わる頃、透や流果が通っていた道場の師範や師範代が事故に巻き込まれて怪我をした。後遺症が残るような大きな怪我ではなかったが、三ヶ月ほど道場を一時閉めることを聞かされた。
家に帰って素振りをすることも考えたけど、今は集中して誰かと向き合いたかった。
「試合しないか?」
「やめとく。沙和にマニキュア塗って貰ったばかりだし」
そう言って差し出してきた流果の爪は、淡いピンク色を纏っていた。
「似合わないことしてるな」
本気で似合わないと思った訳じゃない。ただ、このマニキュアもあのヒロという男のためだと思うと、考えるよりも先に言葉が出ていた。
「相変わらずストレート。でも、いいの。これも自己満足の一つだから」
そう言って笑う流果の顔は明らかに引き攣っていて、自分の失言に気づく。
「……悪い、今のは八つ当たりだ。似合わないなんてことない」
「別にお世辞はいらないから。むしろ気持ち悪いし」
「いや、本当に……」
余りの情けなさに流果の顔も見られず、視線を窓の外へと向ければ、視界を遮るように流果が顔を見せる。
余りの近さに度肝を抜かれてのけぞれば、いたずらの成功した子どものような顔で流果が笑う。楽しげなその顔がやっぱり好きだと思わせる。
「最近、機嫌悪いみたいじゃん。何か悩み事でもあり? 今さら推薦取り消したくなったとか?」
「面倒なく大学行けるならそれに越したことない。いや、本当に悪かった」
逃げるように流果に背を向けたけど、すぐに背後からシャツを掴まれた。振り返れば、少し困ったような顔をして自分を見上げる流果と視線が絡まる。
「ねぇ、本当に大丈夫? 最近、透ちょっと変だよ」
「別に何も……」
「何かそうやって言いよどむところが、透らしくない。私、何かした?」
「何でそうなる」
「だって、最近不機嫌そうにこっち見てることあるし」
まさか本人に気づかれるほどガン見してたのかと思うと、穴があったら入りたい。ついでに入ってそのまま埋まってしまいたいとすら思う。
「見てない。断じて見てない」
「嘘つき。……もしかして、よっぽど化粧したりするのが気に入らないとか?」
「別に女は大抵そういうものに興味があるもんだろ」
「……悪かったわね、今まで全く興味がなくて」
決してそういうつもりで言った訳じゃない。勿論、流果を女として見ているし、そうじゃなければ好きにもならない。
「お前はそのままでいいんだよ」
言ってから、下手したら化粧なんて必要ないと遠回しに言ってしまったような気がして、続く言葉に詰まる。そして流果からの言葉もない。
お互いの間に沈黙が落ち、校庭からは喧騒が聞こえる。
「……まぁ、今さら色気づいたと思われても仕方ないけどさ。でも、今だからこそやれることはやっておきたいんだよね」
いつもとは違い、少し真面目な口調に透はようやく流果に視線を向けた。
「どういうことだ?」
「道場が始まるか、大学に行ったら、また剣道一本でしょ。だから、今できることをやっておきたいんだよね。というか、今しかできない気がするし」
「アイドルもどきのおっかけも?」
「まぁ、それは本当に好きでやってるけど……でも、それも今だけだと思う。私、好きなもの一つしかできない単純なタイプだからさ」
照れくさそうに笑う流果は、やっぱり可愛くなったと思う。剣道一本でやってきたけど、可愛く見せたり、そういう普通の女の子みたいなことが流果もやってみたかったのかもしれない。
「どっちも剣道始まったら終わりか?」
「多分ね。そんな余裕無くなるだろうし」
肩を竦める流果は、少し残念そうだ。それなりに化粧なども楽しんでいるらしいことが、その表情からも分かる。
正直、根底がヒロという男なのは面白くない。面白くはないけれども、流果がそれを楽しんでいるのなら、透が文句を言える立場ではない。
楽しんでいるのは今だけ、そう割り切るのは、今が楽しければ楽しいほど、結構厳しいことのように思える。今だけと割り切っている流果に、これ以上無茶を言いたくない。
「……別に誰も悪いとは言ってない」
「でも、透は不機嫌だし」
「だから別に不機嫌じゃない」
「嘘つき。まぁ、そんな訳で今だけ剣道はお休み。でも、家で素振りだけはしてる」
「それならいい。同じ大学行くのに腕が落ちた、なんてことになったら試合と称してボコボコにしてやる」
「そこまでサボらないし。そうだ、透に一つ聞きたいことがあったんだ。何で透は推薦あの大学にしたの?」
高校と一緒で、流果と同じ大学に行きたかったから、などと口が滑っても言える筈もない。
でも、高校に大学、よくよく考えれば、これはストーカー一歩手前か? もしかしなくても、そろそろ夏樹に全力で止めて貰うべきなのだろうか。
そんなことを考えながらも無難な「家から近いから」という理由を答えた。それで納得した流果は、沙和と待ち合わせしているから、と廊下を走り去っていった。
残された透はその場で動けないまま、ストーカーの定義について深く考え込んでいた。