毎日ヒロの曲を聴き、歌詞を見ずに歌えるようになった頃、沙和と共にライブへと向かうため沙和の家を訪ねた。勿論、お泊まり道具一式持って来たのは言うまでもない。
いつもの格好で構わない。そう言った沙和は普段よりも気合いが入っているように見える。
「……何か、いつもより気合い入ってない?」
「それは気合いも入るでしょ。だってヒロに会えるんだよ?」
そう言われてしまうと、普段着であるデニムパンツにTシャツを会わせた流果としては立つ瀬がない。
「普段着でいいって言った癖に」
「別に普段着で行くのも構わないでしょ」
そう言って笑う沙和はいつもよりも艶やかな笑顔だ。化粧をしたことがない流果にとって、化粧は魔法の道具にすら見える。
「今日はピンググロスじゃない」
「この格好にピンクは合わないでしょ……そうだ、流果も化粧くらいしてみる?」
「……別にいい」
「よくない。今まで人のグロスなんて興味すら無かったのに、少しは興味が湧いてきたってことでしょ。それは悪い事じゃないし」
「でも敷居が高いというか……似合わなかったらショック受けそうな気がする」
「バカね、化粧なんて何回も繰り返して練習込みで上手くなっていくもんよ。ほら、そこに座って」
沙和に促されるままにベッドに座ったのは、やっぱり興味があるからだ。流果が普段しているのはリップクリームを塗る程度で、洗顔したら化粧水までがやっとだ。
だから沙和が色々な小瓶を手に取り顔へ塗りたくることに、まだ塗るのかとショックすら受けた。綺麗になるというのは大変だと実感したのは、初めてのことだった。
粉をはたかれ、筆ペンみたいなもので目の上を描かれたり、ジッとしているのも性に合わない。時折、部屋を出て行っては新たな物を追加していく沙和の手腕は脱帽したいくらいだ。
名前も分からない化粧道具で施された顔は、最後の最後まで見せて貰えなかった。
満足そうな沙和の「完成」という声と共に手渡された鏡に映る自分は、もはや別人のようにも見えた。綺麗とか可愛いとかじゃなくて……怖い。
「……何か可愛くない」
「それはそうでしょう。目指したのは格好好いだし」
「えー、格好好いって何か違わない?」
「違わない。それに今日の格好だと流果には格好好い化粧の方が似合うからこれで良し。そこを文句言うならまず服から揃えないと」
「うー……」
鏡の中にいる自分は、普段よりもどこか凄味がある。やっぱり素直に怖い気がする。少なくとも、流果であれば近づきたくない感じがする。近寄りがたいというか、冷たそうというか……。
「流果の場合、その長身も生かして格好好い方が絶対にいいと思う。ほら、まだ座ってて」
そう言って沙和が手に持つのは整髪剤だ。ブラシを通しながら、沙和が流果の髪を手早くまとめていく。正直、整髪料すら流果にとっては初体験のものだ。
鏡の中でどんどん変化する髪型に、不安にすらなっていく。
「これ、似合ってるの?」
「絶対に似合う。断言する」
「ごめん、その感覚がよく分からないんだけど」
「流果が目指すのはこれよ、これ!」
背後から差し出されたのはファッション系の雑誌で、表紙には外人モデルがトップに映っている。そう言われてみれば、確かに流果の髪型はそれに似ている。
「これは外人さんだから似合うんであって」
「そんなことない。絶対に今の流果には似合ってる」
「でも、こんなセクシーダイナマイトみたいな色気無いし」
「そこはこれからの課題」
「それってダメダメじゃん」
「そんなことないって。ほら、最後に仕上げするから」
そう言って顎を掴まれて上を向かされると、筆のようなもので口紅がひかれる。少し香りのきつい口紅は、正直美味しいものじゃない。元々食べ物じゃないのだから、文句を言えるものではないのかもしれないけれど。
「ほら、完成」
再び鏡に映る自分を見れば、ボルドー色の口紅が塗られた自分がいる。まるで人を食いそうだと思ったけど、さすがにそれを沙和には言えない。
満足そうな沙和とは裏腹に、初めての化粧に流果としては不安倍増だ。
「本当に似合ってるの? これ」
「似合ってるって! 信じてないなー。どう、初めての化粧は」
「顔にビニールとかサランラップとかつけてる感じ。しかも笑った途端にピキッと崩れ落ちそう」
「サランラップ! その表現いいなー」
楽しげに声を上げて笑う沙和に、流果としては面白く無い。
「笑い事じゃないし」
「大丈夫、化粧している内に慣れるもんだから」
「そういうもん?」
頷く沙和にそれ以上言える筈もなく、時間に急かされて鞄を掴む。二人揃って家を出ると、駅に急ぐ。そんな中、タイミング悪く出会う時には出会うものだ。
コンビニ袋を手に持って正面から歩いてくるのは透だ。似合うのか似合わないのか分からない化粧した自分を見られるのは恥ずかしい。だからこそ、沙和の後ろへゆっくりと逃げ込んだけど、身長差がある沙和の後ろに隠れられる筈もない。
顔を上げた透が最初に気づいたのは沙和の方だ。
「これから出掛けるのか? にしちゃ、派手すぎだろ」
「いいの、ライブだから」
「あぁ、もしかして例の……って、お前よく見れば流果か!」
「あらら、よく見ないと気づけない訳?」
「お前なぁ……こいつで遊ぶな」
「別に遊んでないし、本人了承の上での行為でーす」
もう穴があったら入りたいくらいの心境なのに、透の視線は沙和と会話しながらもこちらに向いているのが分かる。余り見ないで欲しいと思うけど、透の視線は遠慮なしだ。
「流果に似合ってると思わない?」
「派手すぎだな……まぁ、似合ってるとは思う」
「でしょー! ほら、言った通りじゃん。女は度胸、開き直りが肝心。流果がいつも言ってるじゃん」
「……分かった、開き直る」
「そうそう、その調子」
丸めていた背筋を伸ばし、平らに近い胸を張ってみせれば沙和から拍手。けれども、透はいつも以上に不機嫌そうに見える。
「透、どうかした?」
「いや……派手なのも程々にしとけ。じゃあな」
苛立たしげに立ち去る透に、流果としては首を傾げるしかない。会った時には驚いていたものの、普段と変わらないように見えた。それなのに、別れ際には不機嫌そのものだった。
沙和がいるにも関わらず不機嫌丸出しというのは非常に珍しい。
「一体、何怒ってるんだか」
「男心は微妙だからねぇ」
「え? 沙和は理由分かってるの?」
「まぁ、それなりに。とにかく、今は武部じゃなくてヒロよ、ヒロ。ほら、早く行かないと」
確かに流果の化粧をしていたせいで、出てきた時間は既に遅れ気味だ。正直、ここでのんびりしている訳にはいかない。透のことも多少気にはなったものの、足早に駅へと向かう内に、頭の中はヒロ一色になっていく。
電車に乗って向かった先は、流果が滅多に来ることのない三駅先の大きな街だった。
「ほら、こっち、こっち」
沙和に促され、人波をかき分けるようにして沙和の背中を追いかける。
繁華街を抜け、少し外れた路地裏にあるライブハウスは、かなり年期の入った場所らしく、見るからにボロい。けれども、壁に掛かる木の看板は毎日磨かれているのか、ニスを塗ってある様子もないのに艶めいている。
入口でチケットを渡して中に入ると、独特な熱気がそこにある。正直、ライブハウスなんて同年代くらいしかいないものだと思っていたけど、思っていたよりも大人が多い。いかにも学生はいないけど、少し背伸びした恐らく流果たちと同じくらいの年代もそこそこいる。
オールスタンディングということで、椅子やテーブルの類は何もなく、ただ広い場所とステージだけが用意されている。勿論、その広い場所は人波で溢れかえっている。
「やっぱりヒロって人気あるんだ」
「半分は今日出るインディーズバンドのファンだと思うよ。服見てると分かるけど、ゴスロリ系の人たちはバンドのファン。あっちのOL系たちはヒロのファン」
「服だけで分かるもんなんだ」
「まぁ、大体は。ほら、始まるよ」
沙和の言葉と共に客席の証明があちらこちら落ちる。スポットライトを浴びた中で、いくつかのバンドが演奏していく。
聞いたこともないハードロックや、インスト、ラテン系もあり、ジャンルは様々だ。けれども、奏者は勿論、客席も楽しそうな空気が伝わってきて、沙和から事前に聞いていた諍いみたいなこともない。
そして流果の目当てだったヒロは最後から二番目に出てきた。バンドではなく、アコースティックギター一本を持って狭いステージに立つ。
「まずは最初にナイツ」
マイクを通して聞く声だけど、やはり動画サイトや携帯プレイヤーで聞くのとは違う。まるで最初にヒロの曲を聴いた時のように、肌が粟立つ。
ヒロの持ち歌は、基本的にバラード系が多い。あの声を引き立たせるには最高の選曲に思える。
動画サイトでは顔は見えない。でも、あの声から二十代後半から三十代を想像していたけれども、見た目は思ったよりも若い。何よりも、穏やかな物腰や顔立ちが、甘い声によく似合っていた。
聞いているだけで背筋がゾクゾクする、そんな声を初めて知った。どれだけ周りにあの俳優の声がいいとか言われても、ふーんとしか思えなかった。それなのに、今こんなにヒロにはまっている自分が不思議で仕方ない。
うつむき加減のその顔は穏やかだけど、声が感情を揺さぶる。恋心を歌われても歌詞は理解できない部分が多いのに、その声で切なさが伝わる。それは凄いことだと思う。
恋心が分からない、ようは恋したことがないから分からないけど、多分、ファンというよりも、この感覚は恋に近いのかもしれない。いや、もしかしたらファンというのは、恋に近いものがあるのかもしれない。
三曲を歌い終えてお礼をするヒロは、最後まで穏やかだった。優しげな風貌と柔らかそうな髪が印象的で、声を裏切らない。一瞬だけ視線が交わったその瞬間、たった一瞬だったにも関わらずドキリとした。
これが俗に言うトキメキだとしたら、かなり重症かもしれない。
ライブの最後まで聞き終え、ライブハウスを出た途端、流果の唇からはため息が零れた。
「初めてのライブで緊張した?」
「緊張してたのは最初だけ。もう、何て言うかヒロが声も顔も格好好くて、そんなヒロにドキドキした自分に驚き」
「あはは、それは流果には良い傾向だと思うけどね。何をするにも剣道、剣道だったし、もう少し乙女らしく周りにも目を向けるべきだと思うよ」
「乙女……ごめん、それはさすがにそぐわない気が」
「恋をしたら誰でも乙女。私が決めた」
「うーん……」
少なくとも子どもの頃から剣道一筋だったこともあって、余り女の子扱いされることが無かった。俗に言う女の子らしいこともしてこなかったから、女の子を飛び越えて乙女と言われてもピンとこない。
「まぁ、他にも目を向けなさい、ってこと。化粧しかり、ファッションしかり」
「うぅ、精進します」
「今日は帰ってから他のお勧めも聞かせるからね」
「はーい」
少し気の抜けた返事をしながら沙和と歩く。足下はフワフワしてて、今でもヒロの声が耳に残る。
優しくて胸が痛くなる声。確かに沙和が言う通り、それは恋かもしれない。そう初めて自覚した。