夏の終わりを告げる足音が聞こえてくる頃、迸る汗の匂いと熱気が籠もり地獄のようだった道場から更衣室に移動した流果は、更衣室内にあるシャワールームにいた。
地獄の特訓を終えた後のシャワーはとても気持ちがいいもので、流果は短い髪をタオルで拭う。手早く着替えた流果は、濡れた髪もそのままに、更衣室を出たところで声を掛けられた。
「女子は終わりか?」
声を掛けてきたのは腐れ縁とも言える武部透だ。小学生時代から同じ道場に通い、競い合った透と同じ高校になったのは偶然だ。
「さすがにこの暑さは無理。男子はまだやる訳?」
「こっちも先生が根を上げた」
「そうでしょうとも。あの蒸し風呂、本気でどうにかして欲しいんだけど」
「それを俺に言うのは無茶ってもんだろ」
「まぁ、後輩には言えないただの愚痴。とは言っても、この道場とも明日でお別れだけどね」
高校三年生の夏が終わり、大会全てが終了した。本格的な練習は今日までで、明日は三年の送別会となる。物寂しさがない訳ではないが、晴れ晴れした気持ちの方がまだ強い。
別に長く続けてきた剣道が嫌いな訳じゃない。そうでなければ、大学まで行って剣道を続けようとは思わない。
ただ、既に推薦の決まっている流果としては、剣道から離れて少しだけのんびりとした時間を過ごしたいと思っていた。
「多少は寂しく思ったりするのか?」
「……全然」
つい強がりを言ってしまえば、透は笑いながら手にしていたタオルを肩に掛けた。
付き合いが長いだけあって、言い合う時には容赦しない。喧嘩になれば周りを巻き込んだ騒動になることだってある。
それでもこうして気軽に話したりするのは、お互いに翌日には絶対に持ち越さないという不文律ができあがっているからなのだろう。
遠慮ない相手というのは、流果にとって透一人だけだ。少なくともクラスの女子には気を遣うし、暴言は吐くような真似はしない。だから変な気負いが必要なくて、透といる時間というのは気楽なものだった。
「まぁ、これで終わりと思えば寂しさはあるよな」
「透がそんな感性持ってたとは驚き」
「お前なぁ……よし、手合わせするか?」
「ちょっと、冗談でしょ? 私シャワー浴びた後なんだけど」
「でも胴着でここに立つのは今日で最後だぞ?」
寂しいと思うのは、思い出があって離れがたい場所だからだ。晴れ晴れとはしているけど、それと感傷は別物だ。
「どうする?」
「着替えてくる」
「そう言うと思った。道場で待ってるぞ」
「はいはい」
普通であれば、高校生にもなって男女で手合わせはしない。元々強豪校でもないので段持ちが少ないこともあり、時折透とは部活時間内でも手合わせをする。
透の剣道はいつでも真っ直ぐで、手合わせするのは気持ちがいい。張り詰めた空気と、緊張感、高揚感、あれは透との剣道や試合、そして段位審査の時しか味わえない。
勿論、そんなこと本人に言ってやるつもりは全くない。
更衣室で再び汗で湿った胴衣に着替えると、更衣室にある竹刀置き場から自分の竹刀を掴み取る。柄に巻かれた布がしっとりと湿っていたけど、使い込まれた竹刀は流果の手に馴染みのものだ。
片付けたばかりの防具一式を身につけると、小脇に面を持って道場に入る。女子よりも後に終わったこともあり、道場内には男子の姿が目に映る。
道場の奥でクラスメイトの夏樹と話していた透は、すぐにこちらに気づくと竹刀を手にして枠外に立つ。正面で面をつける透を視界に入れながら、流果も手にしていた面をつけた。
気持ちが昂ぶり気が引き締まる。身体中が静かに熱を増していく。この瞬間が流果は一番好きだった。
* * *
送別会も終わり、剣道部部長としての仕事は全て終わった。同じ部活で頑張った子たちとお茶を飲んで帰ってくれば、既に八時を回るところで、母親には小言を言われた。
でも、こういう日だから仕方ないと理解はしてくれているらしく、雷が落ちる、というところまではいかなかった。
制服を脱いで部屋着に着替えると、高校入学と同時に買い与えられたパソコンを立ち上げる。
正直、今まで剣道中心の生活だったこともあり、十時には寝て朝四時には起きるという生活をしていた。だから今の今まで、買い与えられたパソコンは埃を被ったままだった。
基本的な使い方は学校で習っているから分かっている。鞄から友達である沙和から受け取ったメモを取り出すと、検索サイトに文字を打ち込む。
元々スポーツを得意としていた流果は、機械類は大の苦手だ。それでも人差し指一本でどうにかキーボードを打てるのは、有り難いことだと思う。
五分ほど掛けてどうにか文字を変換すると、検索ボタンを押せば一気に情報が表示される。文字ばかり並ぶ画面から、その一つを選ぶと画面が一気に切り替わる。
大手動画サイトが表示され、検索サイトのように色々なものが表示されている。正直、文字を見るのも余り好きじゃない流果としては、この流れは辟易とした。
「ここでまた文字を入れるのか……」
ついため息混じりになるのは、キーボードからキーを探すのが大変だからだ。それでも四苦八苦しながら文字を入れると、再び検索ボタンを押した。
どうにかこうにか、沙和に言われていた目的のページに到達すると、再生ボタンを押した。
別にやることがある訳でもない。だからこそ、そこまですると流果は近くにあるベッドへと寝転がった。パソコンに繋がれたスピーカーからは、聞いたこともない音楽が流れ出す。
ゆったりとした音楽は、眠くなるから余り得意じゃない。それでも沙和のお勧めらしいので、そのまま音楽を流し続ける。
前奏が終わり、歌声が伴奏にのって流れ出す。けれども、その声を聞いた瞬間、背筋がゾクリとした。
低い声が耳に甘く響く。ゆったりとしたバラードにも関わらず、喉の渇きを覚えるような叫びのように聞こえる。勿論、歌っている人が叫んでいる訳ではない。聞こえてくる声から感情が溢れ出し、それが耳に木霊する。
歌なんて興味が無かったし、音楽だってあひるの大行進だ。けれども、この歌に、この声に心がざわめく。
息を潜めて、ただその声を聞き漏らさないようにベッドの衣擦れさえ立てない。耳を澄ませてその声を身体中に反響させる。
低く甘い声、これをベルベッドボイスというのかもしれない。そう思ったのは曲が終わってしばらくしてからだった。
風呂上がりでTシャツから伸びた二の腕には、鳥肌が立っていて思わず腕を摩る。
確かに沙和が言った通り、この声は凶悪的だ。少なくとも、こんな声を持った人間に出会ったことはない。ただ低いだけじゃない。甘くて時折掠れる声に切なさを覚える。そして心臓が早鐘を打ち身体中に響いている。
勢いよくベッドから起き上がると、ステレオについていたヘッドホンをパソコンのスピーカーにつなぎ替える。
パソコン前の椅子に座り込むと、何度も何度も眠りにつくまで繰り返しその声を聞いた。
動画投稿サイトで分かった情報は、その声の持ち主がヒロという名前だけ。幾つくらいの人で、何をしている人なのか、どこに住んでいる人なのかも分からない。
ただ、その歌声は流果の心の奥底まで深く染み込んだことは確かだった。
翌日、朝練もないのに早々に学校へ到着した流果は、落ち着きなく沙和が登校してくるのを待っていた。朝のラッシュが嫌いという理由で、早めに登校してくる沙和を待つ間も携帯プレイヤーで音楽を流す。
イヤホンをつけて聞くヒロの声は、流果を幸せにしてくれる。
この歌声が好きだ。一目惚れなんてバカらしいと思っていたけど、一耳惚れがるなら一目惚れだってあるに違いない。そう思えるくらいに、ヒロの声は流果にとって衝撃的だった。
どれだけ色々な曲をお勧めされても、三度と聞くことは無かった流果が繰り返しヒロの曲だけを聴く。それは本当に珍しいことだった。
窓際にある自分の椅子に座りほおづえをつきながら、窓の外を眺める。そんなクラスメイトを見て、何が楽しいのだろうと思っていたけど、今ならその気持ちが流果にも分かる。
机においた指先でテンポを取りながら、ヒロの曲を繰り返し聴き、ぼんやりと眺める風景は予想以上に幸せな時間だ。
「おはよう。どうしたの、イヤホンなんかして」
曲の途中でイヤホンを引き抜かれ、顔を上げればそこに立つのはヒロを紹介してくれた沙和だ。相変わらず、ピンクの唇は濡れてツヤツヤしている。でも、お嬢風の沙和にはその唇が凄く似合う。
「ヒロの曲。もう紹介してくれて有難うって気分! 本当にいい!」
「でしょ! あの声だけで悩殺されるよねー」
そう言って小首を傾げると、沙和の長く毛先のカールした髪が揺れる。朝は鏡の前で三十分と言う沙和の気合いが、揺れる毛先からも伝わってくる。
「あの人、プロじゃないんでしょ?」
「プロじゃないよ。本職は普通に会社員みたい。趣味で歌ってるだけらしいよ」
「趣味であの歌声は卑怯だ。プロの声よりもずっときた!」
「うんうん、流果のその反応は初めて見た。それじゃあ、本人に生で会ってみる?」
「生ってどうやって?」
「ヒロは時々ライブやってるんだよね。そんな訳で一緒にライブ行かない?」
「行きたい!」
思わず椅子から立ち上がらんばかりの勢いで答えた声は、教室中に響き渡る。でも、教室内にはまだ人数も少なく、多少の注目はあったもののすぐに視線を外される。けれども、今は周りの視線よりもヒロのライブの方がずっと大事だ。
「でも、ライブって夜だよね?」
「まぁ、夜だね普通は」
「うーん……うちの親、大丈夫かな」
「だったらうちに泊まることにすれば?」
「その案、貰った!」
「騒ぎすぎだ、お前ら」
二人の盛り上がりに水を差したのは、登校してきたばかりの透だ。嫌そうな顔を隠そうともしない透に、流果は眉根を寄せた。
「うるさいのは悪かった。でも女の話に割り込まない」
「女……お前、女だって自覚あったのか」
「あのねぇ、喧嘩売ってる?」
思わず口元だって引き攣ろう透の発言に、流果は睨みを利かせた。けれども、長い付き合いというのは、一睨み程度では動じない。
「ヒロって何だ?」
「動画投稿サイトってあるじゃない。そこで歌ってる一般人だけど、武部も興味ある?」
「あるわけない。動画サイトなんて見たこともない」
「でしょうね。武部も流果と一緒で剣道第一だし」
答えながらも、沙和は意味深な視線を透に投げた。
「気になる?」
「……別に」
「あっそ。まぁ、そういうことにしておいてあげる」
「それはどうも」
二人だけの分かったような会話は、置いてきぼりにされたような気分になる。さすがにこの状況は面白く無い。
「何の話ししてる訳?」
「そりゃあ、ヒロの話しでしょ」
「そうは聞こえないんだけど」
「気のせいだ」
二人に言い切られると、流果としてもこれ以上は突っ込めない。そしてこちらに向ける透の視線は、いつもと変わらず真っ直ぐだけど、咎められているような気がするのは気のせいなのか。
「……何よ」
「アイドルにキャーキャー言ってる女子と変わらないな」
「私だって女子なんだけど」
「あぁ、忘れてた」
本気で忘れてたと言わんばかりに、掌に拳を乗せる動作が腹立たしい。思わず握り締めた拳を突きつけてみたけど、あっさりと透の掌に遮られた。
包み込まれた掌の大きさに、少しだけ驚く。小さい時から知っていて、どんどん流果よりも身長が伸びていく透を見ていた。それなのに、こんなにも違うのだと突きつけられた気分だった。
確かにこの差があれば、高校に入ってから一度も透に勝てないのも納得だ。でも、こうもあっさりと受け止められると腹立たしさは倍増だ。
「ちょっと、あっさり受け止めないでくれる?」
「これくらい受け止められなくてどうする。……あ、指の骨折れたかもしれない」
「折れる訳ないでしょ!」
「女子平均軽く越えたお前が言うな。アイドルボケも程々にしとけ」
本気で呆れた顔を見せた透は、流果が何か声を掛けるよりも早く背を向けてしまい、他のクラスメイトに声を掛ける。その交わし方が本気で腹立つ。
「本当にムカつく。何あの態度」
「でも、武部が女子に突っかかるのって流果にだけだよ。基本的に武部って女子には優しいし。何より顔は格好好いし、あの長身で女子には人気あるよ。私の友達にも武部が好きだって言う子いるし」
中学くらいからスクスクと伸びた透の身長は、今や百八十を越えている。流果自身も百七十はあるけれども、それでも隣に立てば見上げなければならない長身だ。
顔立ちも、確かに整っているとは思うけど、正直流果の好みではないから沙和に言われるまで気づけなかった。
でも、そう考えると透が好きだという女の子がいてもおかしくはない。あいつの外面に騙されて可哀相に、と同情してしまうのは付き合いの長さ故かも知れない。
「だとしたら、あいつ本気で私のこと女と思ってないね」
「それはないでしょ」
あっさりと沙和に否定されて、何だか納得がいかない。
「どうして断言できる訳?」
「女の勘」
「そんな第六感よりも信用ならないものを信じられる訳ないでしょ」
「バッカねぇ。私にとったら第六感も女の勘も大差ないわよ。それを実感したことがないなら、武部の言う通り、流果の方がおかしいわね」
「ちょっと、沙和まで私の女の子説を否定しないでよ」
身を乗り出して詰め寄るように言えば、沙和は楽しげに笑う。勿論本気じゃないことも分かっているから、つられるように流果も笑いだし、それからは声を潜めてライブに行く段取りを決めた。