うさぎが逃げる Act.17:コラプス 崩壊

家に帰り部屋で色々と調べていたけど何だか落ち着かなくて、うさぎはノートパソコンと薄手の毛布を持って一階へと降りた。リビングのテーブルにノートパソコンを広げてからテレビをつけると、ソファを背もたれにしながら毛布に包まる。何だか無音の部屋というのが怖くなったのが一番の原因だった。

何度か利奈と沙枝に電話をしようと手を伸ばしたけれど、結局、電話をすることは出来なかった。分からない相手からの電話やメールで、電話というものに拒否反応を起こしていることにうさぎが気付いたのは深夜になってからだった。

家にいて怖いと思ったのはラストの時以来で、少し過敏になっているのかもしれないとうさぎは思う。でも、警戒するのは悪い事ではない筈だと思いながら、うさぎは今日会った男について調べるが、これといって何も掴めない。

途中で休憩を挟みながら色々とネットを巡ってみたけれども、やっぱり顔しか分からない相手では雲を掴むような話しでどうにも進展は無い。気付けば外はすっかり明るんでいて、時計を見れば七時を回るところだった。

一度パソコンとテレビの電源を落としてから風呂に入ってしまうと、うさぎはのんびりと湯に浸かる。やっぱり、これ以上ハッキングしないうさぎには調べようのないことで、男のことを梶に伝える以外に方法は無いようにうさぎには思えた。今日、あそこに行ったら梶に言おう。そう決めてさっぱりした心境で風呂から上がれば、既に八時近くになっていた。

寝不足ではあるけれども、基本的にうさぎは寝不足から思考が鈍ることは余りないタイプなので寝不足は余り気にならない。むしろ昨日、電車の中で深い睡眠を取ったことで頭痛もない分、昨日よりも頭はすっきりしていた。

鞄を用意して家を出ようとしたところで玄関のチャイムが鳴り、うさぎの足が止まる。また光輝であれば正直面倒は避けたい。どうしようか悩んでいる内に今度は遠慮がちに玄関をノックする音まで聞こえてきて、うさぎは玄関に向かうと覗き穴から外を覗く。

そこに立っているのは何故か梁瀬で、困惑しながらも扉を開けた。

「うさぎちゃん! 良かったー、携帯繋がらないからどうしたかと思って」
「すみません、電源落としてて……あの、どうかしましたか?」
「ニュース! ニュース見てない?」

酷く取り乱した様子を見せる梁瀬に更に困惑は深まるものの、うさぎは梁瀬の問いに答えた。

「ニュースですか? いえ……取り合えず上がって下さい」
「両親は?」
「いませんのでどうぞ」

少し悩んだ様子を見せた梁瀬だったが、すぐに上がり込むとうさぎと共にリビングへと足を運ぶ。

「あの、コーヒーでいいですか?」
「ごめん、それどころじゃなくてリモコン、テレビのリモコン!」

唐突とも言える梁瀬に言葉に訳が分からないながらもテーブルの上にあるリモコンでテレビをつければ、唐突に飛び込んできたのは飛行機事故のニュースだった。そして画面の下の方には数名の名前が並んでいて、何気なく見たその中に、知っている名前を見つけてうさぎの呼吸は一瞬止まった。

「社長が亡くなったって梶さんから連絡あって、今日は来なくていいって言われたんだ。うさぎちゃんにも連絡するように言われたからしたけど、携帯繋がらなくて」
「嘘……だって、昨日も梶さんと連絡取ってて」
「うん、でも、もう遺体も回収されてる。嘘じゃないんだ」

テレビから流れてくるニュースを見ているにも関わらず、現実感は無くてただ呆然とテレビの画面から目を離せない。

「うさぎちゃん?」
「梶さんは、今」
「会社の方が大変らしくて、電話もすぐに切れたからどうなってるか分からない」
「どうすれば……」

多分、今現状で出来ることなんて何も無い。分かっていても口から出てきて、うさぎは口元に手をあてた。

最後に会ったのは、数日前にあったあのパーティの日だった。ドレスを選んでくれて、色々な話しをしてくれた貴美がもうこの世にいないなんてうさぎには俄かに信じられない。けれども、テレビに映し出される貴美の名前を見ると、否応なしに現実を突き付けられる。

「うさぎちゃん、取り合えず座ろう」

促されるようにリビングのソファに腰掛けると、梁瀬はキッチンへと姿を消した。

途端にうさぎの思考にヒヤリとしたものが流れ込む。もしかしたら、昨日の男と関係があったんじゃないか、もっと早く梶に言うべきだったんじゃないか、そう思ったら身体の震えが止まらなくなる。もうニュースの音すら入ってこなくなり、うさぎはどうにもならない程の恐怖に襲われて、震える自分の身体を抱きしめる。

どうしよう、どうしよう……。ただそれだけが頭の中をぐるぐる回って、コップに水を入れてきた梁瀬の腕を縋るように掴んだ。

「うさぎちゃん!?」
「どうしよう、もしかしたら私のせいかもしれません」
「取り合えず落ち着いて、話し聞くからこれ飲んで」

うさぎが勢い良く掴んだことで水は零れてしまっていたけど、震える手で梁瀬の差し出すコップを掴もうとする。けれども、震えが酷すぎて、結局梁瀬に手伝って貰って水を数口飲むと、酷く口の中が渇いていたことに気付いた。

「大丈夫?」
「多分、大丈夫です」

そう答えたものの、何が大丈夫なのかうさぎにもよく分からない。

「先の話しはどういうこと?」
「あのパーティでラストの知り合いらしい人と会って、システムセキュリティーのデータ寄越せって言われて。あと、変なメールが携帯にあって、それから」

見上げた途端、梁瀬と視線が合って、慌ててうさぎは口を噤んだ。さすがに、梁瀬本人に光輝のことを言うのはためらわれた。

「うさぎちゃん?」
「あ、あの……その会った男が目的は崩壊って。崩壊ってシステムセキュリティーのことかと思ったら、もしかして、梶さんに言わなかったせいかもしれないって」

きちんと説明したいのに、頭の中がぐちゃぐちゃで果たして梁瀬に上手く伝わっているのか分からないのがもどかしい。

「大丈夫だから落ち着いて。貴美さんが亡くなったのは事故だから。絶対にうさぎちゃんのせいとかじゃないから」
「でも」

言葉途中で玄関のチャイムが鳴り、うさぎの言葉は宙に浮く。玄関に向かおうとする梁瀬の腕を掴んで、首を横に振った。もし光輝が来たのだとしたら梁瀬には会わせたく無いし、うさぎも会いたく無かった。

「大丈夫、多分、岡嶋だから。オレ、うさぎちゃんに連絡つかなくてあいつに連絡入れたから心配して来たんだと思う」
「でも」
「うん、見て岡嶋じゃなかったら出ないから」

そう言って梁瀬はうさぎの震える指を一本ずつ外すと玄関に姿を消した。少し間があって、玄関の開閉音の後にリビングへ現れたのは梁瀬と岡嶋の二人で、うさぎは大きく溜息を吐き出した。

視線が合った途端に岡嶋は顔をしかめると、座っているうさぎのすぐ側に立つと腰を屈めて視線を合わせる。

「随分顔色悪いけど……もしかして、うさぎちゃん寝てないの?」

岡嶋に問い掛けられて嘘もつけずうさぎは頷いた。

「取り合えず、一旦ソファで横になって」
「大丈夫です」
「大丈夫そうじゃないから言ってるんだよ。横になっても話しは出来るから」

岡嶋に手を貸して貰いながらソファに横になると、風呂に入る前までうさぎが包まっていた薄手の毛布を上から掛けてくれる。そして岡嶋は、ソファ横のフローリングに座り込むと、テーブルの上に置いてあったリモコンでテレビを消した。

「取り合えず、ゆっくり深呼吸して落ち着いたら話せばいいから。大丈夫、俺も梁瀬もここにいるから」

震える手に岡嶋が指を絡ませてきて一瞬手を引きかけたけれど、それよりも早く岡嶋の手がうさぎの手を握りしめた。温かい掌の温度にうさぎはホッと息をつくと目を瞑った。途端に目尻から涙が落ちて、空いている手でうさぎは涙を拭った。手の温かさが伝わってきて先程までの混乱が徐々に落ち着いてくると、うさぎはゆっくりと口を開いた。

「あのパーティのあった日、知らない男の人が声を掛けてきて、システムセキュリティーのデータを寄越せと言われました。そしてラストからの伝言もその人持っていて」
「どうして言わなかったの?」
「少し自分で調べてから言おうと思っていたんです。でも、一昨日と昨日の夜、調べても分からなかったから今日は梶さんに報告しようと思って……」

でも、その報告があればもしかしたら貴美が亡くなることは無かったのかもしれない。そう思った途端、胸が痛み息苦しくなってきて、思わず手元にある毛布と触れている岡嶋の手を握り締める。もし、それが原因だとしたら、申し訳なさすぎて梶に合わせる顔がない。

「ねぇ、うさぎちゃんのせいじゃないよ。だって事故は事故だから。だからうさぎちゃんが気にする必要無いって」

梁瀬の手が伸びてきて頭を優しく撫でる。それが何だか心地いい。まるでぬるま湯に浸かってるかのように、意識がたゆたってくるのが分かる。うさぎとしては、説明しなければいけないと思うのに、容量オーバーになった感情を落ち着かせるために、身体が強制終了させようと命令を出している。

「でも、その人、昨日会った時に聞いたら、目的は崩壊って」
「昨日!? 昨日も会ったの?」
「多分、偶然だと思うんですけど……あと、携帯のメール……」

そこまで言ったところでうさぎの意識は途切れて闇の中へ落ちた。

* * *

すっかり意識は無くなった筈なのに、絡めた指の力は抜けることなく、離さないとばかりに指先に力が入っている。それを解くことはせずに、岡嶋と同じようにフローリングに座り込む梁瀬に視線を向けた。

「一体、何が起きてると思う、この状況」
「さっぱり分からん。ただ、パーティで男が接触してきたことと、うさぎちゃんあてに携帯にメールが来てることだけは分かった。そんでもって、携帯にメールが来るから携帯の電源切ってるっていう予想」
「ついでに追加するなら、ラストがまだ絡んでるってところかな」
「だな……この場合、携帯見てもいいと思う?」

さすがにプライベートを覗くようで率先して良いとは言えないけれども、今は状況が状況だけに見なければ始まらない気がする。少なくともうさぎが寝ている今、確認出来るものは携帯メール以外は何も無い。

「後で一緒に謝ろう」

溜息混じりにそれだけ言えば、梁瀬はすぐさまテーブルの上にある携帯を手にすると電源を入れた。梁瀬の指が携帯の電源を入れると、ぼんやりと薄明かりが灯り、しばらくすると待ち受け画面が表示される。けれども、そこに表示されたメールの数に梁瀬と共に顔を顰めた。

着信五件は恐らく梁瀬と岡嶋が掛けたものだろうが、メールの数は十二通となっていた。

「開けるからな」

それに対して岡嶋が短く「あぁ」と答えれば、梁瀬の指がメールのボタンを押すとずらりとタイトルが並ぶ。それら全てが同じ相手からで、タイトルのみで本文が無いという奇妙なものだった。

「お帰り」
「遊ぼう」
「チャットに来て」
「待ってる」
「早く」
「遊ぼう」
「メール見て」
「無視しないで」
「メール見て」
「携帯電源切ってる?」
「見てよ」
「どこ行くの?」

深夜に送られてきたメールを最後に、その後メールはきてない様子だった。

「なぁ……キモくねぇ、このメール」
「その前にきてるメールは?」

岡嶋の声に梁瀬はメールを操作すれば、やっぱりそれ以前にも何通かメールが送られてきている。そのどれもがタイトルのみで、とにかく遊ぼうとかそういう内容のものばかりだった。

「なぁ、このメールでたらめに送ってる訳じゃないみたいだな」

一番最初のメールを開けた梁瀬の指が止まる。そこに表示されているのは、うさぎたちと会うことになった最初の場所であるあのチャットのアドレスが表示されていた。

「こっちもラスト絡み、ということか」
「それだけじゃなくてさ、このお帰りってメール、おかしいんだよ」

梁瀬の指が手早く携帯を操作すると、タイトル一覧を表示すると岡嶋に向けてくる。

「これの何がおかしいんだ」
「いや、昨日、うさぎちゃん早めに上がったんだよ。多分、そのまま帰ってきたんだとしたら確かにこのメールが来た時間には帰ってると思うんだよ」

タイトルと共に差出人である相手のアドレス、そして時間が表示されているが、確かに岡嶋が梁瀬から聞いてる帰宅時間よりも随分早い時間だった。

「適当に送ってるだけとか?」
「いや、多分違う」

少しスライドさせた梁瀬はもう一度岡嶋へと携帯を向けた。

「ここに仕事行くの? ってメールがあるだろ。丁度俺がうさぎちゃんに電話したのがこれくらいの時間。昨日、うさぎちゃん、寝坊して遅刻してきたんだ」
「もしかして、男を調べてたっていうからそれをやっていて遅刻したということ?」
「いや、問題はそこじゃなくて、電話してるんであって、メールはしてないんだ」

梁瀬が言いたいことが分からずにいれば、その空気を読み取ったのか梁瀬は更に口を開く。

「だから、この相手はどこでうさぎちゃんが仕事に行くと判断したのか、ってこと。先まではただ携帯かパソコンをハッキングされてるんだと思ってたけど、このタイミングだと違うな。このメールを送ってくる奴、すぐ近くにいるぞ」

そう指摘されると、先日会った時にうさぎが随分と怯えていたことを思い出す。顔色の悪さも、警戒心を露わにしたあの反応もこれだけ気味悪いメールを送られていたのであれば納得出来た。

「うさぎちゃん、気付いてたと思う?」
「多分……オレでも気付くくらいだし」

梁瀬と視線を合わせて、どちらともなく溜息を零した。

「言ってくれたらいいのに」

その言葉にはどこか拗ねたような響きがあって、心情的には岡嶋にも似たようなものだったけれども、同意の言葉は口にしない。

「でも、今日梶さんに言うつもりだったって言っていたから、手に余ると判断したんじゃないのかな」
「でもさ、梶さんに言う前にオレたちにでも相談してくれたら良かったのにさ。それにパーティの時に会った男って何だよ。そんなの見てないし」

確かにパーティで会った男に脅されたと言っていたけれども、基本的にうさぎの近くには大抵、岡嶋や梁瀬がいたのだから接触しようもない……いや、一度あった。

「お前がトイレ行ってた時だ」
「は? トイレ?」

間抜けな顔を見せる梁瀬を放置して、岡嶋は小さく舌打ちした。

そう、パーティ途中で寒河江に会った後、岡嶋がロビーへ戻った時にうさぎは一人で座っていた。あの時、疲れたと言っていたうさぎの顔色は随分と悪く、岡嶋は気にはなったにも関わらずサインを見逃した。様子もおかしかったことにも気付いていたのだから、これは岡嶋の失態だろう。

「おい、オレにも分かるように説明しろよ。トイレって何だよ」
「あの爺さんに会った後、お前トイレに行っただろ」
「あ……まさかあの時に?」
「恐らくね。お前がトイレ行ってる間に俺がうさぎちゃんと合流しただろ。その時、うさぎちゃんの様子がおかしかったんだよ」
「たかが数分じゃねーか」
「数分も、だよ、この場合。別に梁瀬を責めてる訳じゃないからね。お前が悪いと思うなら俺も同罪だよ。気付いていたのに見過ごした訳だし」

最初から貴美と梶は酷く警戒していた。もしかしたら、こういう可能性も警戒していたのかもしれない。可能性を考えていたのであれば、こういうことは予め先に言っておいて欲しいと思うが、今更それを言った所で後の祭りだ。

「あーっ、クソッ」

頭をガシガシと掻く梁瀬と岡嶋の心境はほぼ同じものだったに違いないし、岡嶋としても同じ言葉を吐き出したい気持ちだった。けれども、今更反省会をしても始まらないし、既に起きてしまったことよりも、いつでも大切なのはこれから先だ。

「それにしても、うさぎちゃんの腕で男について調べがつかないって珍しいよなー」

感情の切り替えが早い梁瀬があっけらかんとした口調でそれを言うのを聞くと、岡嶋は色々な意味で苦笑してしまう。時折、この梁瀬の切り替えの早さが岡嶋には羨ましく思える。

「お前も誓約書書いただろ」

呆れたように言えば、梁瀬は驚いた顔をした後に顔を顰めた。

「まさかこんな事態になってもあの誓約書を守ってるのか?」
「真面目だからね。それに念を押されてるだろ、爺さんに」
「あぁ、お友達、か」

見たのはほんの数分ではあったけれども、岡嶋の目から見ても、随分とうさぎはあの二人を友人として大切にしていることは窺えた。一番に思ったのは、あの二人と話す時のうさぎの口調が岡嶋たちに対するものよりも多少砕けたものになっていたし、何よりも見せた表情が違う。だからこそ、そんな大切にしている友達の面識ある爺さんからハッキング禁止令を言い渡されたら、うさぎとしてはハッキングは行えなかったに違いない。

「ハッキングしてないんじゃ調べられないよなー」
「だろうね、余程の有名人じゃなければ至難の技だと思うよ」

有名人であればともかく、一般人の写真が早々ネットに出回ることなんて数多くある訳じゃない。大抵、脅しを掛けてくるような人間であれば、大なり小なり警戒心はあるだろうからネットに写真が載るような真似をするとは思えない。うさぎを腕のいいハッカーだと知っているなら尚更、そんな馬鹿な真似をするとは思えない。

岡嶋は男との面識が無いからどちらにせよ探しようもないが、ハッキングを行えばメールの相手だけでも探し出せる可能性は高い。

「……お前、何考えてる」

珍しく真面目な顔をした梁瀬に問い掛けられて、岡嶋は肩を竦めて見せた。

「恐らく、想像通りだと」
「お前、今回プロダクション決まったばかりだろ。問題起こすなよ、馬鹿」
「とは言っても、梁瀬もうさぎちゃんも誓約書に縛られてるし、ここは俺しかいないと思わない?」
「無理、お前の腕じゃ」

あっさりとそれだけ言った梁瀬は、テーブルの上に置かれたままになっているうさぎのノートパソコンを開いた。

確かにハッキングの腕に自信があるかと問われたら、岡嶋の腕は余りいい方では無いに違いない。特にうさぎや梁瀬と比べてみれば、多少の興味程度で始めた岡嶋の腕では全く歯が立たない。それはお互いに分かっているからこそ、梁瀬の発言に繋がったのだろう。

「美樹ちゃんに怒られるよ、職失ったら」

真面目な雰囲気を壊すようにからかいがちに言えば、途端に顔を上げた梁瀬が嫌そうな顔をする。

「馬鹿、ここで女の子見捨てた方が、美樹ちゃんに嫌われるぞ、オレ」

そんな軽口を叩きながらも梁瀬の指がキーボードを叩く。梁瀬のキーの叩き方は、本人の大雑把さをそのままに、かなり乱雑でカタカタとうるさい。岡嶋が指摘した一時は静かに打っていた頃もあったけど、結局スピードを求めるとカタカタと音が鳴るほどリズムに乗れる、と梁瀬は言っていた。けれども、今、この静かな空間でそのキーボードの音だけが現実感を表しているようにも感じる。

初めて入ったうさぎの家は、どこも静かできちんと片付きすぎていて無機質に感じる。恐らくうさぎ自身もここでは余り生活していないのか、うさぎの私物は今梁瀬が使ってるノートパソコンと、うさぎが掛けている薄手の毛布、そしてテーブルに置かれたマグカップくらいしかない。それ以外についてはまるでモデルルームのようで、酷く冷たい印象を受ける。

恐らくうさぎの部屋は別にあるだろうし、ノートパソコンで作業するよりもデスクトップパソコンの方が色々と利便性はいい。音楽を聞かないと言ったうさぎの恐怖を和らげたのは、もしかしてテレビだったのだろうか。だとしたら、余りにも寂しすぎる気がする。

「うーん、何度触ってもうさぎちゃんのソフト使い勝手いいなぁ。ファンシーなのがちょっとオレ的に頂けないけど」
「まぁ、そこら辺は女の子だし」
「分かってるけどさ、よし、取り合えず携帯のログ取れたぞ……って、やっぱり飛ばしの携帯だな」
「中継局は?」
「……ん?」

それきり困惑げな顔を見せた梁瀬は、手早く操作して一旦接続を切った様子だった。

「てっきり、ストーカーじみてるからこの家の近辺の中継局だと思ったけど違う」
「そんなに離れてるの?」
「いや、そんなって程じゃないな。一応都内だし。四谷なんだよな……ストーカーって考え違いか?」

問い掛けのように聞こえる梁瀬の声は、実際には自答自問しているだけで答えを岡嶋に求めている様子は無い。すっかりパソコン前で考え込んでしまった梁瀬を眺めながら、岡嶋は先程見た携帯のメールを思い返してみる。

梁瀬に説明されて、岡嶋はストーカーの件は納得したけれども、ストーカーという符号に嫌な予感がしている。いや、先程からチラチラと一人の人物が頭に浮かんでいて、それを口にするべきかためらいもある。四谷であれば、恐らく……。

ただ、もしメールの相手がそうであるなら、そいつは夜中に出歩ける環境には無いから、結局、うさぎの近くでうさぎの行動を見ている人物がもう一人いなければならない。そこまでくると、岡嶋の思考は手詰まりになる。

「なぁ、お前、何考えてる」
「色々」
「言え、全部言え。何か思いついただろ。手掛かり欲しいんだから、思いつきでも何でもいいから言え。今は梶さんからもうさぎちゃんからも手が借りられないんだから、何かあるならマジで言え。オレが思ってないことお前なら考えただろ」

真剣な表情で真っすぐに見据えてくる梁瀬に、岡嶋は軽く肩を竦めて見せる。

「随分、買ってくれてるねぇ」
「頭の良さは認めてるからな。だから早く言え」
正直、梁瀬の前でこれを言うにはそれなりに覚悟も必要で、岡嶋は大きく溜息をついた。
「俺たちの近くに執着心が強くてストーカー気質の知り合いが一人ばかりいると思うんだけど」

それだけでは分からないのか、考えている様子の梁瀬にもう一言付け加えてやる。

「うさぎちゃんに興味がある身近な人」

途端に梁瀬の目が見開かれると、すぐに口が開く。

「光輝か! 確かにあいつなら四谷の予備校通ってるし可能性は高いけど……でも、メールは送れても予備校通ってる間はストーカー出来ないよな」
「そう、俺もそこで今手詰まり。でも、四谷とストーカーで思いついたのは光輝だけなんだよ。もしそうだとしたら、光輝はラストと繋がりがあることになる」
「まさか、あいつがパソコンやってる所、俺見た事ないぞ」
「そういう光輝だってお前がハッキングまでしてるの知らないだろ」
「いや、そうだけど……あいつが?」

しばらく悩んでいる様子を見せた梁瀬だったが、ソファから勢いよく立ち上がるとデニムのポケットから携帯を取り出した。

「何するつもり?」
「勿論、光輝に直接聞く」

意気込む梁瀬につい呆れた視線を投げてしまうと大きく溜息をついた。どうしてこの兄弟は、こうも性格が正反対なのか岡嶋としては不思議でならない。

「……素直に、はい、そうです、って答える訳ないだろ」
「あ、そっか……どうすればいいかな」

情けない顔で問い掛けてくる梁瀬に岡嶋としてはもう苦く笑うしかない。ただ、身内のことで動揺する気持ちは分からなくは無い。

「取り合えず、きちんと考えてから行動した方がいい。じゃないと、家全体巻き込んだ大騒ぎになるよ」
「だよな、ストーカーって余りにも問題ありだし」
「それだけじゃないよ。光輝、受験じゃないのか?」
「あ……」

どうしても自分が通り過ぎてしまった過去の記憶は忘れがちだし、梁瀬の頭から受験のことがすっかり忘れ去られていたことは仕方ないとは確かに思う。けれども、受験でどれだけ苦労したか、覚えているのは教えた岡嶋だけなのかもしれないと思うと溜息の一つだってつきたくもなる。

「あれだけ苦労したのに……」
「仕方ないだろ、そんな昔のこと」
「まぁね。一応、こんな時だけど梶さんには連絡入れておこう。うさぎちゃんからもきちんと話しを聞いて、とにかくそれからかな」
「そうだな……梶さん、大丈夫かな」

正直、それについては岡嶋には答えられない。実際にあの会社がどういう形で動いていたのか岡嶋には分からないが、社長が亡くなった今、梶にその権限が渡ることは間違いないと思う。恐らく、報告を入れたところで、とてもこちらに構っていられる状況ではないに違いない。

「オレ、就職未定になったりして」
「それは大丈夫じゃない、会社が無くならない限りは」
「おいおい、不吉なことを」

けれども、全く無いとは言いきれない。実際、梶は技術者としてはかなり出来ることは分かるけど、果たして社長となった時にはどうなのか。岡嶋が知る限り、副社長という地位にはいたけど、実質、会社に連動して動くというよりも個人で動いていることが多いように見えた。貴美が会社を、実務を梶が握って動かしていたのであれば、会社としてはかなり危ないことになるのではないかと思う。果たして梶にどれだけ外交能力があるのか、それによってどちらにでも転ぶ可能性はありうる。

勿論、不安になっている梁瀬に対してそれを口にするようなことはしなかった。

「まず、梶さんにメールを入れておこう。想像まで含めて」
「光輝のことか?」
「そういうこと。ただ、今現在手出し無用ということと、うさぎちゃんの言っていた男のことも付け加えて。後はまたうさぎちゃんから詳しいことを聞いてから報告しても問題は無いでしょ」
「んじゃ、メール入れとく」

早速梁瀬はうさぎのパソコンでメールを打ち始めたのか、激しい打鍵音が響く。それを聞きながらソファの上で寝ているうさぎに視線を向ければ、余程熟睡しているのか身じろぎ一つしない。けれども、繋がれた指は解けることなく握られたままで、その手を軽く握りしめた。

もう少し、他人を頼ってくれる子だったら安心だったんだけどね……。

小さく零した溜息は、梁瀬に聞きとがめられることもなく零れ落ちた。

* * *

最初に貴美死亡の一報が入ってから、ひっきりなしに入る寒河江の血縁者からの電話に辟易した気分で梶は手にしていたファイルを床に投げつけた。

まさにあの一族はハイエナのようだと思いながら、梶は社長秘書である国立に身内からの電話は取り次ぎしないように伝える。この会社に出資しているのは実質寒河江のみで、一族の人間に一円たりとも出して貰ってはいない。それなのに、貴美がいなくなったら、ここぞとばかりに自分のものにしようとするのがいやらしく、梶としては嫌悪しか覚えない。

社員から動揺の声が上がる中、それを有無を言わさず押さえつけ、佐伯の両親にも連絡を入れた。貴美に惚れていた佐伯としては、一緒に死ぬことが出来てさぞ本望だったに違いない。そんな毒舌めいた言葉が浮かんだのは、精神状態が悪いせいだという自覚はあった。

梶にとって貴美は血は繋がらなくとも、ただ一人の肉親であり、大切に思える人間でもあった。その貴美が頼むのというのであれば、会社くらい守ってみせる。だからこそ、何よりも先にしたことは会社の権利書を銀行の貸金庫に預けることだった。それから社員に声を掛けて今日は休みを取らせると、資産を全て一時凍結させてから顧問弁護士を呼び出した。その合間に国立に関連企業へ連絡を入れさせ、葬儀会社と連絡を取り社葬の打ち合わせもした。途中、遺体引き取りの連絡が入ったが、数日は行けないことを伝え電話を切った時にはさすがに溜息が零れた。

貴美の才覚と、認めたくはないが佐伯の手腕があったからこそ、このシステムセキュリティーという会社は成り立っていた。恐らく、社員から脱落者が出るのは否めない。けれども、今はとにかく寒河江がどう出るか、そこが一番の問題であった。そこが一番問題と思いつつも、梶には既に予想がついていた。

恐らく、寒河江は資金援助を打ち切るだろう。あれは貴美がいたからこそされていた援助であって、梶一人の会社となれば余程純利が出ることを証明出来なければ寒河江は資金援助をするとは思えない。そうなれば、今後、どのように資金調達をするかを考えれば、解決方法は然程多いものではない。まだ寒河江が手を引かない内に銀行に融資を頼むべきだろう。

すぐさま梶は動き、秘書である国立と共に銀行からの融資を取り付けた。取り付けた融資は寒河江の資金援助額の半分ではあるが、これで当面は会社を動かすことは出来る。そうなれば、後は余分な人員整理を行わないとならない。

だが、こうなる前に既に十人分の人材を担うだけの人材を二人も手に入れていたのは幸運だったかもしれない。まだすぐに使える段階には無いが、あと二週間もすればそれなりになるに違いない二人の顔を思い出すと口の端を上げた。

一通りこなしたところで時間は既に夜になっていて、社長室の椅子に腰掛けて梶は一人溜息をついた。

梶の手腕を見いだしたのは、二つ年上の貴美だった。何事にも飽きっぽい梶に対して、貴美は根気よく付き合い、そして大学を出て海外で二年下積みをしてから寒河江に資金援助を願い会社を立ち上げた。立ち上げと同時に梶も大学を卒業したこともあり、やりたいことがあった訳でもなく貴美に会社へと引き入れられた。最初こそ、五名程の小さな会社だったが、貴美の経営手腕は確かなもので、徐々に大物顧客を捕まえると後は仕事が増えるのも早かった。

基本的に貴美が社外のことに立ち回り、社内のことは佐伯と梶にまかされた。事務面では佐伯、実務面では梶が取り仕切り、そうやってこの会社は大きくなった。

けれども、貴美も佐伯もいない今、この大きさを保っていくには至難の業だ。それでも梶は、ここを誰かに譲るつもりは無かったし、手放すつもりもなかった。貴美や佐伯とは違うが、既に梶の手の内には手駒も揃っている。一層のこと、数年後にはあの二人を実務面での核にしても構わないだろう。

寒河江を切り捨てるのも手ではあったが、利便性を考えれば寒河江との繋がりは切らないに越したことは無い。だとすれば、やはり沙枝との結婚が一番の近道であることは確かだった。

恐らく梁瀬辺りが聞けば怒るに違いない。岡嶋やうさぎはそんな自分をどう思うのか、考えたけれども想像はつかない。

暗闇の中、椅子から立ち上がった梶は一人、低く笑った。会社を残すことを優先させた梶にとって、自分を含め、生きている誰かの為の感情は何も無かった――――。

* * *

指先から何か大切なものが零れ落ちて行く夢を見て目が覚めた時、すぐ近くに座っていたのは梁瀬だった。

「あ、目が覚めた?」
「すみません、どれくらい寝てましたか?」
「んー、ほぼ一日。今、夜の七時だけど起きられる?」

寝ていた筈なのに身体は泥のように重く、起き上がろうとした時にふれている温かさに気付いて慌てて手を離した。

「す、すみません!」
「ん? あぁ、別に構わないけど、ごめんなー、岡嶋がどうしてもレッスンあるっていうから、途中で交代したんだよね」
「もう、本当にすみません」
「別にいいって」

そう言って笑う梁瀬さんの笑顔にうさぎはホッと溜息をついた。

「えっと、うさぎちゃんの両親っていつ帰ってくるの?」

遠慮がちな質問に、不思議に思われても仕方ないと思いつつうさぎは素直に答える。

「多分、帰って来ないと思います。今、夏休み中だから」
「は? 何で夏休み中だと帰って来ない訳?」
「日中、私が家にいるから大丈夫だと言ってましたから。元々、余り外に出るのも好きじゃないですし、昼間家にいるなら家事もこなせるから自分たちは必要無いって考えみたいです」
「食事とか作ってるの?」
「作ったりする時もありますけど、殆ど出前とかお弁当買って来ちゃってます」

一応、家庭科で習うものに毛が生えた程度のものであればうさぎにも作れるが、やっぱりレパートリーが少なければ自分で作っても飽きるのも早い。それにここ最近はアルバイトで帰りが遅かったこともあり、食事らしい食事を余りしていなかったことを思い出す。

「よし、じゃあ買い物に行こう。で、今日は三人でご飯食べよう!」
「三人……岡嶋さんもですか?」
「うん、九時前にはこっちに戻ってくるって言ってたし。あー、あのさ、ごめんね」

唐突に謝られてしまい、一体うさぎとしては何の事だかさっぱり分からない。元気だった梁瀬のテンションが落ちてしまい、本当に申し訳無さそうな顔をしていて、うさぎとしてはその豊かな変化が少し羨ましい。

「ご両親帰って来ないなら、今日、オレも岡嶋と泊まらせて貰うことになると思うんだ。その女の子一人の家に男が入るだけでも問題なのに、しかも二人いて泊まりとか本当に悪くってさ」
「いえ、それは構わないですけど」
「今回は場合が場合だから聞き入れて貰うことになっちゃうけど、でも、こういうこと気軽にしちゃダメだからね」

多分、もの凄く梁瀬は真剣にうさぎを心配してくれている。けれども、そんな気遣いはくすぐったくもあり、少しだけおかしかった。少なくとも、うさぎにとって家に呼べる異性がいないから、余計におかしく感じてしまったのかもしれない。

「なんだか梁瀬さん、お父さんみたいです」

途端に梁瀬さんはがっくりと肩を落とすと、ソファに座るうさぎの肩に手を置いた。

「ごめん、そこはせめてお兄さんにして欲しいかも」
「訂正します。お兄さんみたい、です」

言い直してみたけれども、何だかもうそういう問題でも無い気がする。

「……すみません」
「いや、いいけどさ。じゃあ、夕飯の材料買いに行こうか」
「買いに行くのはいいんですけれども……余り料理は」
「それは大丈夫、オレが作れるから」

それは初耳で思わず梁瀬を尊敬の眼差しで見つめたら、梁瀬が照れたように頭を掻いた。

「いや、実は今の恋人に教えて貰ったんだよね。スパルタだったけど」
「恋人って美樹さんですか?」
「そうそう、って、あれ? オレ、うさぎちゃんに話したっけ?」
「あ……すみません、前に岡嶋さんと話してるのを少し聞いてしまって」
「いや、別に隠してないから全然オッケー」

楽しそうに笑う梁瀬にうさぎも口元が緩んだけど、ふと彼女の気持ちを想像したら慌てた。

「梁瀬さん、それこそ泊まりは駄目です。美樹さん怒りますよ」
「大丈夫、きちんと言ってあるから。まぁ、全部は言ってないけど、女の子見捨てるようなら縁切るって言われちゃった。だから大丈夫」
「大丈夫って……余り大丈夫じゃ無い気がするんですけど……」
「うん、だから、今度落ち着いたら一度うさぎちゃんと会いたいって、ダメかなぁ」

心配混じりに窺うような顔で問い掛けてくる梁瀬にうさぎの顔には自然と笑みが浮かぶ。そういうことであればうさぎとしては断る理由も無い。むしろ好奇心丸出しで申し訳ないけど、そこまで梁瀬が大切にしている美樹に会ってみたい気すらする。

「大丈夫です。その時には会わせて下さい。私も会ってみたいです」
「はぁー、良かったー、そう言って貰えるとオレも助かる」

いかにも安心しましたと言わんばかりの表情で笑う梁瀬に、うさぎも少しだけ声を立てて笑った。そんな中、玄関のチャイムが唐突に鳴りうさぎの顔からは笑いも消えて沈黙が落ちる。

どうするべきか悩んでいると、梁瀬が立ち上がった。

「見てくる。もしかしたら岡嶋が早く帰ってきたかもしれないし」

少し悩んだ後にうさぎも梁瀬と一緒に立ち上がると玄関先へと向かう。梁瀬が覗き穴から外の人間を確認すると、微妙な顔で振り返った。

「あの、うさぎちゃんの友達みたいなんだけど……どうする?」

そう言って梁瀬が場所を譲ってくれたので、うさぎも覗いてみれば外に立っているのは利奈だった。慌てて鍵を外し玄関を扉を開ければ、明らかにホッとした顔をした利奈にうさぎは首を傾げる。

「もう、どうして電話に出ないのよ!」
「ごめん、電話……ん?」
「あぁ、ごめん、岡嶋と相談した結果、電話のボリューム少し下げさせて貰ったんだ」
「え、梁瀬さん?」
「どうも今晩はー」

明るく挨拶する梁瀬に対して、利奈は酷く困惑した様子だった。それもそうかもしれない、既に七時を回る時間に男の人が家にいるのだから普通であれば驚くに違いない。けれども、利奈は急に納得したような顔になり、次の瞬間には顔を歪めた。

「梶さんの会社の社長さん、亡くなったんだって? 沙枝から聞いた」
「あ、うん……そうなんだ」

答えた瞬間、今の今まで貴美のことを忘れていた事実にうさぎ自身驚く。やっぱりどこか自己逃避気味な自分に気付いて、顔を顰めた。

「こんな時に何だけど話しがあって……」

そう言って利奈はちらりと梁瀬を見上げた。

「あ、ごめん。でも、ちょっと今うさぎちゃんの調子も良く無いから出来たら家の中で話して貰えないかな」
「大丈夫ですよ、私」
「うん、でも状況が状況だから」

梁瀬が言いたい意味が分からない訳でも無い。だから、うさぎはそれ以上梁瀬に言い募ることなく利奈を家の中へ招き入れた。リビングまで来ると梁瀬は廊下へ出てしまい、部屋にはうさぎと利奈の二人だけになる。いつもの利奈らしくなく、それは奇妙な沈黙でもあった。

「うさぎ、携帯新しくしないの?」
「ごめん、色々あってまだ」
「違うよね、もう持ってるでしょ。あれ」

そう言って利奈が指差した先には確かにうさぎの携帯があって、うさぎは嘘をついていたことが居たたまれなくて謝ることしか出来ない。

「ごめん、色々あって」
「うさぎはいつでも秘密主義だよね」

別に秘密主義という訳では無い。少なくとも、ハッキングの件以外には利奈や沙枝に隠し事をしたことは無い。全てはあれが絡んでくるから、言えないことがどんどん増えていく。梶の件だって、恐らくあの事件さえ絡んでいなければもっと早くに教えていたに違いない。

「ごめん……」

利奈は大きく溜息をつくと、ソファへと座り込んだ。途端に顔を上げてマジマジとうさぎを見上げてくる。

「うさぎ、具合悪いの?」
「大丈夫だから」
「よく見たら大丈夫って顔色じゃないじゃない。もう、どうして言わないかなぁ。それに、梁瀬さんだって言ってたのにどうして私は気付いてあげられないんだろう」

少し怒った様子で立ち上がった利奈は、うさぎの腕を掴むと強引にソファへと座らせてから、うさぎに視線を合わせると苦笑した。

「ごめん、少し八つ当たり入ってたかも。色々ごめん」

何でそこで利奈が謝るのかよく分からない。しかも、八つ当たりと言われるほどの何かを言われたとも思えない。

「利奈?」
「私、こういう性格だから些細なこととか気付けなくてごめん。梶さんの件も」

そう言われて、唐突な切り出しにうさぎとしては更に混乱が広がるばかりだ。

「利奈、言ってることがよく」
「うさぎ、梶さんのこと好きだよね」

確信を持った強い口調に、うさぎは一旦否定しかけて、それから口を噤む。これ以上、利奈に嘘をつくことはうさぎとしても辛かった。だから素直に頷けば、目の前にいる利奈は泣き笑いのような顔になる。

「ごめん、沙枝のこと考えればうさぎが、あの時梶さんを好きなんて言える訳無かった。本当にごめん」
「別にそれはいいよ。気にしてないから」

うさぎの言葉に利奈はもう一度謝ると、少し言い辛そうに言葉を切り出した。

「最初に、うさぎの気持ち、沙枝が気付いたの」
「沙枝が? 私、それらしいことした?」
「分からない、私は分からなかったけど、沙枝は確信持ってた。昨日、会社に行ったじゃない、あの時に確信持ったみたい。それで沙枝が泣き出したこともあったし、うさぎも忙しそうだったから二人で先に帰ったの。ごめん」
「それは構わないよ。こっちもごめん」
「それで、ここから本題なんだけど……私、これから凄い酷いこと言うと思う」

こうして利奈が前置きすることは珍しい。少なくともうさぎが付き合いだしてからは初めてのことだった。

基本的に利奈は明るくて、世話焼きで、時々抜けてる部分はあるけど、他人を傷つけるようなことを進んで言うタイプでは無い。大雑把な性格に隠されてるけど、他人に優しい性格であるし、世話好きで他人を放っておくことが出来ないことをうさぎは知ってる。だから、そんな利奈が言う酷いことがうさぎには想像がつかない。

「沙枝がね、急に御大に婚約を破棄するように言われたらしいの。それで昨日から少し感情的になってて、その、うさぎと梶さんがそういう関係になったからだって思ってるみたいで……ほら、あの子基本的にお嬢様だから、他人からの否定は上手く飲み込めないみたいで……」

遠回しではあったけれども利奈が言いたいことは少しだけ分かる。基本的にほんわかおっとりした沙枝だけど、うさぎや利奈が沙枝のお願い通りに動かないと拗ねることは何度もあった。そういう部分も沙枝のおっとりとした性格と相まって可愛く見えて、そういうことを甘やかしていた自分たちも余りよく無かったのかもしれない。

けれども、今の問題はそこじゃない。

「うさぎの名前に過剰反応するんだよね。あれは何だろう敵対意識かな? 昨日から少し変ではあったんだけど、昨日の夜、御大に言われてから輪をかけて言動が少しおかしくて……あの子、他に友達いないでしょ」

寒河江の名前が大きすぎて、沙枝に近付いてくるのは友人のふりした別物だったことも多かったらしい。だから、うさぎや利奈のことを、寒河江を気にせずに出来た友達だととても喜んでいた。実際にうさぎとしては誓約書の件はあるにしろ、そういう色眼鏡で沙枝を見る気は今でもないし、それは利奈も同じに違いない。

「うさぎには今、梁瀬さんや岡嶋さんがいるから、しばらくの間、私は沙枝の傍にいようと思うの。うさぎのことは大好きだけど、同じくらい沙枝も大好きだから、少しの間……うさぎとは離れることにしたの」
「利奈……」

多分、利奈は色々と考えた結果、言ったんだと思う。確かにうさぎは沙枝に会ってないから、どういう風に変なのか分からない。うさぎの名前に過剰反応すると利奈は言っていたから、それこそうさぎが沙枝に近付けばどんな反応をするか予想もつかない。けれども、うさぎにとっては沙枝も利奈も大切な友達だからこそ、それは凄く悲しい選択だった。

「ごめん。本当はもっといい選択方法があるのかもしれないけど、今の私にはこれしか考えられなくて……本当にごめん」
「大丈夫だよ。私は大丈夫だから、沙枝の傍にいてあげて。沙枝は脆いところもあるし……」
「沙枝が落ち着いたら、きちんと連絡入れるから、それまで連絡はしないで欲しいの。もしかしたら、沙枝と一緒にいる可能性があるから」

そう言って抱きついて来た利奈の肩は震えていて、うさぎもつられて泣きそうになる。けれども、ここで泣けば余計に利奈の負担になることが分かっているだけに、奥歯を噛んでグッと涙をこらえる。喉からせり上がってくる何かを耐えながら、利奈の背中を優しく宥めるように何度も何度も叩く。

多分、一番辛い選択をしたのは利奈に違いない。同じ人を好きになってしまったばかりに、間に立たされた利奈は昨日今日でどれだけ頭を悩ませたのか、それを想像するだけで本当に心苦しく感じる。

「ごめんね、利奈。こんなことになっちゃって」
「違うからね……好きになるのは悪いことじゃないから、だから人を好きになるのを止めないで……」

くぐもった声で続く利奈の声を聞いて、利奈が本当にうさぎのことを考えて、そして知っていてくれたことに気付く。

余り人との触れ合いは好きじゃない。だから他人と一定の距離を開けて付き合ってきた。そんな中で出来た好きな人は、うさぎにとって初恋と言えるものでもあった。恐らく、それを利奈は知っている――――。

それがうさぎには嬉しくも、そして悲しくもあった。

「大丈夫だよ、大丈夫だから」

そう言って、何度も何度も利奈の背中を叩く。

知ってくれていたことが嬉しかった。けれども、それを知ってる友達と期限も分からずに離れることが悲しくもあった。夏休み一ヶ月、その間にどうなるのかうさぎには分からない。そして学校が始まってから、三人の関係がどうなるのか、これもよく分からない。

抱きついていたうさぎからゆっくり離れた利奈は、鼻の頭を赤くしながらも、手の甲で涙を拭うとしっかりとうさぎと目を合わす。その目が赤く充血していて見ているだけで痛々しい。

「沙枝にも同じ事言うけど、うさぎにも言う。頑張れ、上手くいったらいいと本当に思ってる」
「ありがとう、それで十分だよ」

これ以上、利奈に負担を掛けるようなことはしたくなくて、うさぎは上手く出来ているか分からないけど、自分に出来る精一杯の笑顔を利奈に向けた。

「大丈夫だから。だから、沙枝のことお願い」
「任せてよ!」

そう言った利奈の目は赤く、まだ涙声だったけれどもいつもの利奈で、玄関くらいまでは見送ろうとしたうさぎをソファから立ち上がらせることもせず「またね」と軽く手を振ってリビングを出て行った。しばらくして玄関の扉が締まる音がしたけど、うさぎはただぼんやりと利奈が消えたリビングの扉を眺めていた。

やっぱり、誰もいなくなるのかもしれない――――。

その気持ちはどこから来たのか分からないけど、うさぎの思考にひっそりと浮かび上がった言葉だった。何故そんな言葉を思いついたのか分からず、けれども、どこか諦め気味にうさぎは溜息をついた。

遠慮がちにリビングの扉がノックされて返事をすれば、梁瀬が申し訳無さそうにこちらを見ていた。

「あのさ、こんな時になんだけど……買い物行こっか」

最初、梁瀬の言葉と利奈の言葉の落差が激しすぎて何を言われてるのかうさぎには理解が出来なかったけど、理解が追いつくと思わず笑ってしまった。

「そうですね、買い物、行きましょうか」

途端に梁瀬が笑顔を浮かべ、うさぎも笑みを浮かべる。今は、気付きたく無いこと、知りたく無いこと、忘れたいことが多すぎて、目の前のことを片付けるしかうさぎには出来なかった。

Post navigation