はるか彼方へ Act.01:デイリー 日常

「そう、私は茨の姫。私はただ呪うことしかできない」
怨嗟を込めて台詞を紡げば、監督からカットの声が掛かる。
「よし、今日はここまで」
監督のその言葉に、その場の空気は一瞬で穏やかなものに変化する。その中で遥も緊張感を解いた一人だ。
「遙香、今日の演技は良かったぞ」
監督が去り際、直々に声を掛けてくれて遥のテンションは自然と上がる。滅多に褒めない監督に褒められたのだから当たり前のことだ。
「有難うございます!」
遥が元気一杯にお礼を言えば、監督は笑顔を見せてスタジオから出て行った。
監督と入れ替わるように駆け寄ってきたのは、マネージャーだ。マネージャーといっても、売れっ子たちとは違い専属マネージャーではない。
ただ最近は事務所から遥の仕事が増えたことで専属マネージャーも考えていると言われた。
女優を目指す遥にとって専属マネージャーをつけて貰うことは、事務所内での自分の実力を図る指針になる。
専属マネージャーが欲しい訳ではないが、事務所内での立ち位置を知るためには分かりやすい指針でもあった。
事務所で専属マネージャーをつけて貰えるようになれば、事務所から強くプッシュして貰えるようにもなる。それは、遥が望んでいることでもあった。
「早くして、遙香。ラジオの収録に遅れるわ」
日替わりマネージャーな急かされて「はーい」と間延びした返事をすると、まだスタジオに残っている共演者たちに「お疲れ様でした」と声をかける。
事務所にプッシュをして貰いたいが、相応の実力がなければ上にのし上がることはできない。
本当ならもっと演技の練習に時間を取りたかったけど、上り調子になっている今、どんな仕事も疎かにはできない。
マネージャーと共にスタジオを出るとロッカーで手早く着替えながら声を掛けた。
「今日、どこかで演技指導を受ける時間は取れないかな。できたら今日中に言われたことを忘れないように叩き込みたいと思ってるんだけど」
「今日はラジオの収録が終わった後、グラビア撮影も入ってるから無理ね。でも、明日、朝一で八時からならスケジュールを空けることも可能よ」
「それでお願いします」
遥が伝えれば、マネージャーは即座にタブレット端末を操作し始めた。恐らく講師に朝一の連絡をつけてくれているのだろう。
そういう意味では、例え日替わりマネージャーでも有難く思える。

少し前の遥にはマネージャーもつかず、毎日、集団レッスンとオーディションの繰り返しだった。
転機が訪れたのは、週刊誌のグラビアに抜擢されたことだった。書類審査から面談へと進み、そこでカメラマンの目に留まった。
水着のグラビアなんてやりたくもなかったけど、この業界は何で人気に火がつくかわからない。そもそも、遥に断るという選択肢は既になかった。事務所が決めた依頼に沿うことしかできない。
カメラマンの目に留まったのは、遥の黒髪だった。少しつり上がった勝気な目元と黒髪で、グラビアアイドルという肩書き手に入れた。

遥にとって、それは随分と遅いデビューでもあり、ようやく手に入れた芸能人としての肩書きだった。
それでも肩書きがつくようになると、テレビや雑誌にも呼ばれるようになり、舞台なども端役程度ならオーディションもパスできるようになった。
そして、人前に晒されることにより、自分自身が垢抜けてくるのがわかる。もう、自己流の化粧なんかじゃなく、メイクさんに指導して貰い基礎を叩き込まれた。
普段着なども宣伝を兼ねて、幾つかのブランド服を身につける。それだけで、随分と変化した。
何よりも変化したのは、個人レッスンにお金が掛からなくなったことだ。
発生の練習に歌のレッスンをし、女優として動けるようにダンスのレッスン、そしてメインである演技のレッスン。それらは遥が望めば時間が許す限りレッスンさせて貰える。
ジュニア時代は可愛げがないと敬遠されてきたが、二十歳を越えればそれが売りにできるらしい。
事務所と相談して、気の強く、何事にも動じずに仕事をこなす遙香というアイドルが出来上がった。
実際、負けず嫌いではあるから、このキャラ付けは遥にとっても気楽なものだった。ただ、人前で常に冷静でなければならないのは多少の息苦しさもあった。
練習生だった頃のようにアルバイトはできなくなったけど、レッスン費用が掛からなくなったことで遥の生活は楽になった。
それに仕事であれば交通費も出るし、当たり前だが出演料も出る。今までかかっていたオーディションなどの申し込み費用や交通費を考えれば完全に黒字になり、質素な生活をすれば、ようやく貯金ができるようになった。
そして今は舞台の仕事があって、毎日が楽しくて仕方ない。例え嫌いなグラビアの仕事があったとしても、それくらい帳消しになるくらいには楽しかった。
だから気が緩んでいたのかもしれない。
グラビア撮影が終わり、日替わりマネージャーに家まで送って貰い住み慣れたアパートに到着した。
家の鍵を開けた途端、背後から腕を掴まれ部屋に押し込まれる。
突然のことでなにがあったのか理解が追いつかない。その間な床へ押し倒されて、息よ荒く「遙香ちゃん」と呼ばれた瞬間、叫び出しそうだった。
人前で遙香は強気なアイドルた、それを崩してはならない。
「離しなさい!」
「僕の遙香ちゃん」
「あなたの遙香じゃないわ」
「そういう気が強いところが好きなんだ、あいしてる」
果てしなく気持ち悪い。掛かる息も気持ち悪ければ、太腿に擦りつけられるあれも気持ち悪い。
不思議と怖くなかったのは、相手がファンで何故か殺されないと思っていたからだ。
「誰か警察呼んで!! 誰か!!」
遥の声で始めて男の顔が引き攣る。
「う、うるさい! 黙れ、黙れ! 黙れ!!」
震える声で叫び始めると、ポケットからカッターナイフを取り出した。
それを見た途端、遥は血の気が引いた。顔に傷でもつけられたら駆け出し芸能人の遥に芸能人としての未来はない。
「やめて!」
必死になった遥を見て、男のは顔に歪んだ笑みを浮かべる。
「大丈夫、遙香ちゃんが変なことしなければ傷つけたりしないよ」
「あのー」
男の声に、さらに知らない男の声が重なる。男の背後に視線を向ければ、開きっぱなしになっていた扉の向こうから男が顔を覗かせる。
その顔には見覚えがあった。見覚えどころではない。遥が女優を目指すきっかけになった人だった。
「警察呼びましたけど、どうします?」
途端に男の顔が青褪め、玄関に立つ男を突き飛ばすようにして逃げて行った。
だが、遥の視線はすでに新たに現れた男の姿に釘付けだった。遥の記憶にあった姿より幾分ぼんやりした印象がある。
けれども、眼鏡と帽子を外した姿は、間違いなく憧れの人だった。
「怪我はない? まだ警察に連絡入れてないけど、入れた方がいい?」
「いえ、必要ないです。その、警察沙汰は困るので」
「まぁ、そうだよね。マネージャーさんに連絡入れる?」
「いえ、それも必要ないです。あの、岡嶋さんですよね?」
確信を持って問いかければ、少し驚いた顔をした後、照れくさそうに笑みを浮かべた。
「ごめん、どこかで会ってたかな?」
「いえ、テレビで見てました。もうテレビには出られないんですか?」
「今は芸能プロにも所属してないんだ。遥香さんだよね。うちの劇団にもファンがいるよ」
「名前を知って貰えているのは嬉しいです。ありがとうございます!」
元々テンション高く騒ぐタイプタイプではないが、それでも憧れの人の前となれば話しは別だ。しかも、駆け出しにも関わらず名前を知って貰えているのは、まさに天にも上るような気分になる。
「でも、岡嶋さんはどうしてここに?」
「仕事でちょっとね」
そう言って岡嶋が軽く上げた手には少し大きめの茶封筒がある。どうやら、それを届けにきたか、渡しにきたらしい。
不意に携帯が鳴り出し、その呼び出し音に岡嶋が反応した。
「もしもし、うさぎちゃん? うん……きちんと貰えたよ。大丈夫、怒られたりしてないし……」
先よりも穏やかな顔をして話す様子から、余程気心知れた相手なのだとわかる。少なくともメディアで見せていた顔とは違う。
「そうだね、あと三十分もあれば戻れると思う……わかった、お弁当でも買って帰るよ」
笑い含みのその声は本当に優しげなもので、女優相手に愛を囁いていた時よりもずっと甘さを含んでいた。気心どころか、まるで恋人相手のようだった。
そういえば、岡嶋は結婚間近というところで芸能界を引退した。あの後、結婚していたとしてもおかしな話しではない。
電話を切った岡嶋が改めて遥へと向き直り、心持ち顔を曇らせた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
あと三十分もすれば同居中の彼も帰ってくる。一人ではないから然程心配もない。
「事務所にはきちんと報告しておいた方がいいよ。何かあってからじゃ遅いし、もう少し安全な場所に引越できるかもしれないから」
事務所云々は抜きにしても、そろそろ引越を考えてもいいかもしれない。今回は運が良かっただけで、毎回こんなラッキーが続くとは思えない。
「そうします。本当にありがとうございました」
頭を下げてしっかりとお礼をすれば、岡嶋は気にした様子はなく挨拶を交わして背を向けた。その背中はずっと憧れていた背中だった。

Coming soon……

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