JOAT Chapter.V:心から幸せを願う(intermission) Act.01

そこは随分と静かな部屋だった。事務机では社員なのだろう男が一人、キーボードをカタカタと打っている。
目の前に座る男は、黙ったまま書き込んだ資料に目を通しているのが、その視線からもわかる。
目の前に置かれているのは湯気の立つコーヒー。それは奇妙に静かで穏やかな空間でもあった。
この部屋にいる男二人は若いが、この雰囲気には慣れた様子で客人として来た自分が見ても違和感がない。
恐らく、ここに事務所を構えてそれなりの年月が経っているのだろう。都心でもビジネスビルが立ち並ぶこの場所でそれなりの年月を越せるだけの仕事をこなしているのであれば、それは信用に値するものだと割り切った。
目の前の男の顔が書類から上がる。感情のない顔が私の顔を見つめた。
「それで、このお二人を恋人にするということですが、あなたとこの二人の関係は?」
「堀内と私、私と瑶子、堀内と瑶子、それぞれが友人です。いえ、親友といっても過言ではありません。見たところ堀内と瑶子はお互いに惹かれ合っているのですが、あと一歩押しが必要みたいで。年を取ると中々恋愛には腰が重くなるものです」
そう言って笑って見せれば、目の前に座るこの事務所の所長、円城寺は薄く笑った。
「いえ、恋愛に年齢は関係ありませんよ。いつの時代でも駆け引きを楽しむものです。ですが、余計な横やりを入れることで上手くいかなくなることもあります。本当に宜しいのですか?」
「えぇ、なので私自身は何もしません。だってあなた方にプロにお願いするのですから」
少し挑発的な言葉を掛ければ、円城寺はそつがない笑みを浮かべた。それを見て、あぁ、慣れているんだなと
「わかりました。お引き受け致します。まずは三日、それ以降についてはまた後日どうされるかお聞きしたいと思います」
「えぇ、それで構わないのですが……金額の方は本当にこれでいいのですか?」
「勿論です。基本的に動いた分しか頂かないことになっていますし、そこに雑費が入ってくることになると思います。勿論、雑費も一万円を超える場合にはお知らせします」
少なくとも私が調べた何でも屋よりも価格としては安価な方だと思う。それにこれくらいの金額であれば、予算の四分の一にも満たない。
「では、お願い致します」
「乾さんご自身も同じ職場ですが、私どもがその場に現れる可能性もあります。素知らぬふりはできますか?」
「お話しないのであれば」
「それでしたら……トオル」
事務机で仕事をしていた青年が立ち上がり、こちらへとやってきた。ひょろりと細い今時の青年はニコニコと笑顔だ。
「初めまして、岸谷と申します」
そう言って差し出してきた名刺を受け取れば、そこには確かに岸谷徹と名前が書かれている。
「彼が配送業者に扮して会社に伺います。そこで山口さんをしつこくナンパします。それを乾さんは見ないふりをしていて下さい」
「見ないふりですか?」
「えぇ、口を出さない。もし堀内さんが山口さんに好意があるのであれば、それを止める筈です。その反応を見て次を考えたいと思います」
「わかりました。お願いします」
ほのかな笑みを浮かべて答えたが、円城寺はジッとこちらを見て様子を伺っている。
「本当に宜しいのですか? 失礼ですが、乾さん自身にとっても山口さんは特別な相手のように見えますが」
正直、この指摘には驚いた。私の感情については円城寺に伝えていない。けれども、彼はそれを理解している様子だ。
「どうしてそう思われるのですか?」
「色々ありますが、分かりやすいのは彼女の名前を呼んだからです。異性を名前で呼ぶのは、その年齢では珍しいことではありませんか? それは彼女と特別な関係にあった、もしくは今も特別な関係にある、ということですよね」
「……えぇ、そうです。今も私と瑶子は一応恋人関係にあります。けれども、瑶子は既に堀口に心惹かれている」
「乾さんと山口さんの仲を取り持つこと可能ですが」
「いえ、いいんです」
瑶子に気持ちがない訳ではない。だが、心の底からそれでいいと願っている。本当に二人の幸せを心から願っているし、恐らく本人たちよりも強く願っているのかもしれない。
ついウエストに手をやったのは、そこには瑶子がプレゼントとしてくれたベルトがあるからだ。自分では決して買わないだろう高級ブランドのベルトをいつでも身につけている。
確かにこのベルトを貰った時にはとても嬉しかった。いや、今でも嬉しい。でも、あの頃と今では違う。
一年近く前に瑶子から貰ったベルトを会社で身につけたことはない。恐らく、瑶子も使っているとは思っていないだろう。
「ん? 別れたいなら乾さんから山口さんに別れ話を持ちかければいいだけの話しじゃないんですか?」
会話に口を挟んできたのは先ほど紹介された岸谷だ。彼は心底不思議そうな顔をしていて、そのストレートさを微笑ましく思う。
「別れたいというよりも……瑶子に認めて欲しいんです。本当は堀口が好きだと」
「えっと……それなら乾さんが別れを告げて、それで山口さんと堀口さんが付き合うんじゃダメなんですか?」
「それだと二人が恋人になるまでの時間が掛かりすぎます。堀口は私から見てもいい男です。別れた後、寂しさに付け込むような真似はできませんし、瑶子にしてもすぐに堀口に飛び込んでいけるタイプでもない。だから、きっちりと自覚した上で私に別れを告げて欲しいんです」
「う、うーん……?」
理解できないとばかりに僅かに首を傾げる岸谷につい笑ってしまう。
「年を取ると、色々臆病になるんです。遊びも恋も仕事も……。だから勢いが必要になるんですよ」
穏やかに伝えてはみたものの、恐らく青年の域である岸谷には分からないだろうと理解していた。少なくとも、自分が岸谷の年頃だったら、何を面倒くさいことをと思ったに違いない。
けれども、老いらくの恋は難しい。お互いに気持ちがあっても成就しないことは数多くある。
「もう一度確認します。本当に宜しいのですか?」
冷静なその声に私は円城寺へと改めて向き直ると、頭を下げた。
「宜しくお願いします」
そうしてお願いしないことには、私自身、瑶子を手放すことができなかった。
* * *
依頼をしてから二日目、事務所で言われていた通り配達員として岸谷がやってきた。事務をしてる瑶子が荷物の対応に当たるが、岸谷が何かと話し掛けているのが聞こえる。
斜め横に座る堀口がソワソワしだしたのが分かったが、私は机に置いた書類から顔を上げることはしない。
「今度、お昼一緒にどうですか?」
「君、まだ学生でしょ? こんなおばさん誘ってどうするの?」
「実は俺、他の階の配達担当なんですけど……前にあなたに落とし物を拾って貰ったことがあって。だから、お昼ぐらい驕らせて下さい」
「いやよ、あなたみたいな若い子を連れて歩いていたらツバメを飼ってると思われるわ」
「ツバメ? ツバメは野鳥だから飼えませんよ?」
その答えを聞いて、思わず噴き出しそうなところを寸でで堪える。どうやら、若い彼にはツバメの言い回しが伝わらなかったらしい。
やはり岸谷の言い回しがおかしかったのか、瑶子も楽しげに笑うと「違うわよ」と否定する。
「年若い愛人のことをツバメって言うのよ」
「だったら、俺、あなたのツバメでいいですよ」
その言葉で社内は静まりかえった。元々大きな部署ではない。十人ほどで回している部署なので、岸谷の声は程よく響いた。
ちらりと確認すれば、岸谷はニコニコと邪気のない笑顔で、それに対する瑶子は困惑を露わにしている。
「あ、あのね、からかうなら」
「からかってませんよー。だって優しいじゃないですか。あんな物、普通だったら捨ててますよ。それなのに態々届けてくれて……俺、本当にあれで助かったんです」
どうやら、私が思っていたよりもあの青年は演技派だ。無邪気な顔をしてニコニコと笑っているが、恐らくそれも計算だ。
会話から瑶子が押しに弱いことを推し量って、無邪気さを装ってしっかり切り込んでいく。実際、瑶子は狼狽している。
不意に斜め前に座っていた堀口が椅子から立ち上がった。
「こらこら、大人をからかうな。そもそも、仕事中にナンパはどうかと思うぞ」
「あ……すみません。そうですよね、出直します!」
勢いよく頭を下げた岸谷は逃げるように出て行ってしまい、その後ろ姿を誰もが呆然と見送ってしまった。
けれども、瑶子のため息が部屋に響き、徐々に雑多な音が戻ってくる。キーボードを叩く音、書類を捲る音。それは日常に戻った証拠だ。
「ありがとう、堀口くん」
「これくらい何でもないよ」
穏やかな笑みを含んだ堀口の声が聞こえたが、背中に突き刺さるような視線を感じる。恐らく、二人とも私の背中を見ているのだろう。
狼狽しているのは誰の目にも明らかだったにもかかわらず、私が動かなかったことを。
斜め前の席に戻ってきた堀口は、座るよりもさきに声を掛けてきた。
「乾、ちょっといいか?」
顔を上げれば、堀口は廊下を指さす。それは外へ出られるかという合図だ。そして、そう言った堀口の顔は平常心を装っているようで不機嫌さが見え隠れしている。
だが、そんなことには全く気づいていないふりで私は笑みを浮かべた。
「あぁ、構わないよ」
時計を確認すればもう少しで昼食の時間になる。恐らくこのまま昼食を取ることになると予想して、手元にあった書類をひとまとめに片付けると堀口と共に部屋を出た。

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