鏡の前で化粧をする。それは一種の戦闘準備ともいえる。パウダーをはたきアイシャドウとアイラインを引いて綿棒でぼかす。
リップライナーで唇の形取りをすると、最後に色とりどりある中から少し地味な印象のある口紅を選んで唇に乗せる。
鏡の中にいる私は綺麗ではかない印象を持った薄幸美人だ。言い聞かせるように鏡の中の自分と見つめ合う。
子どもの頃に辛気くさいと言われた顔だが、それでも顔立ちは整っていたから子どもの頃でもそれなりの恩恵は受けた。この部分だけは親に感謝してもいい。
鏡の中で少しだけ笑う。口の端だけ僅かに上げて目を細める。決して豪快に笑う必要はない。それは私のイメージを損なうことだと知っている。
椅子から立ち上がり姿見で全身をチェックする。柔らかい生地の丈の長いフレアスカートにチュニックに合わせた丈が長めのカーディガン。
首元に目が粗い柔らかい色と手触りの良い淡い若草色の長いスカーフを巻けば完成だ。保護欲を煽る色味と顔立ちは、女に好かれなくとも男に受けはいい。
ブランド物ではない鞄を手にすると中身を確認し、足下で愛嬌を振りまくアトムの頭を一撫でしてから、鏡台の前が定位置となっているアンクレットを手に取り足につける。
涼やかに見えるアンクレットは一見シルバーに見えるがプラチナで、はめ込まれた石はガーネットでできている。大体サンダルを履く時期になると大抵はこれをつけている。
これをくれた男は、私にこういう生き方を教えてくれた男だ。今となっては感謝なんて言葉では足りない幸福を感じている。だから、このアンクレットは願掛け的なものでもある。
もう一度姿見でアンクレットが格好から浮かないことを確認してから鞄を持って外に出た。
快晴とは言えないが薄雲が掛かった空は、気温を少し下げて過ごしやすい気温になっている。たまには歩くことも考えたけど、結局、面倒くさくなってタクシーを掴まえた。
場所を伝えれば運転手はカーナビをセットして車窓が動き出す。
何でも屋に依頼したのは恋人との穏やかな別れだ。今付き合っている彼と別れたいので、恋人のふりをして欲しいと頼んだ。
当日打ち合わせだと思っていたのに、事前面談をしてその上で依頼を受けるというから想像していたよりも厳重だ。
あとから調べれば社員二人でやっている何でも屋だったので失敗したかもしれないとも思った。だが、逆に美形の社長というブログにあたりそこへ任せることにした。
もし中身がないような馬鹿であれば自分が動けば良い。何よりも美形というのは敷島への牽制になる。それはコンプレックスを持つ敷島を説得させるのに言葉よりも雄弁だ。
都心に位置する場所に事務所を構えていることもあって、家からタクシーで十分程度の距離だった。
多めの金額を払って車を降りると建物内に入る。埃一つないところを見ると、かなり管理のしっかりしたビルらしい。
近代的なビルだが、ロビーには二階へ上がる半円状の階段が両サイドから伸びていて中世感も感じる。
その中央にあるエレベーターに乗るには、すぐ傍にある受付に声を掛けるシステムになっているらしい。
顔立ちの整った自分とは違う系統の美人が背筋を伸ばして座っており、その正面に立てば受付嬢が笑顔を浮かべる。
けれども、その視線がサラッと頭から足下までチェックを入れたことが分かった。勿論、不躾な視線ではなかったが、自分の顔立ちを理解する同類なのだろう。
「久世と申しますが、三階のJOATさんへ伺いたいのですが」
「少々お待ち下さいませ」
綺麗な声で答えた受付嬢が受話器を上げて会話を交わす。けれども、それは確認でしかなく短いものだ。
「中央のエレベーターを三階へ上がり、右手の扉がJOATになります。ロックを外してあるのでそのまま中へ入って下さいとのことです」
「有難うございます」
受付嬢の笑顔に負けない笑みを浮かべると、そのままエレベーターに向かって歩き出す。
受付嬢はどちらかといえば華のある美人タイプなので系統は違う。けれども、お互いに負けていないという感情だけは伝わった。
ふと、あそ席に座ることは大変なことなのかもしれないと思ったが、同時に馬鹿馬鹿しいとも思った。
これだけのビルに座れる受付嬢のレベルと考えればプライドは保たれるが、大したお金にはならないだろう。結局は受付嬢でしかない。
エレベーターを三階で降りれば、エレベーターホールを挟んで左右に廊下が伸びる。受付嬢に言われた通り右手に進めば数十メートルで扉の前に到着した。
視界の端、扉の上部に小型の監視カメラがあることに気づき、改めて居住まいを正す。既にここから演技は始まっている。
ためらうように手を伸ばして扉を開けた。窓から差し込む太陽光は間接的なもので部屋の中は明るい。広く取られた空間の奥に応接セットがあり、所々に植物が置かれている。
「久世小鳩と申します。先日お電話させて頂きました」
「どうぞ、こちらに」
そう言ってソファから立ち上がった男は確かに噂に違わぬ美形だった。彼が僅かに動くだけでストレートな髪が柔らかく揺れ、ブランド物のスリーピースをきっちりと着こなしている。
涼やかな目元と薄い唇は上品な笑みを浮かべていたが、目の奥は笑っていない。
スカートの裾を気にしながら促されたソファに座れば、すぐに紅茶がテーブルに置かれる。持って来た人物に目を向ければ、挨拶した男とは違い随分とラフな格好をしていた。
別段ブランド物を身につけている訳ではないが、唯一、靴だけは桁の違ういい物を身につけている。
笑顔を浮かべて礼を言えば、途端にデレデレとした笑みを浮かべる。大抵の男の反応はこうであるのに、スーツの男にはどうにも容姿だけでは利かないらしい。
むしろ男は顔立ちも容姿も整っているから、顔が良い女から笑顔を向けられることに慣れているのかもしれない。少しだけやりにくい。
名刺を渡され目の前にいる円城寺が社長だと知り少しだけ驚いた。この若さで一等地で会社を持てることを考えれば、パトロンがいるに違いない。むしろ自分と同じ穴の狢かと思えば驚きは軽減した。
「依頼内容ですが恋人と別れたいとのことですが?」
「えぇ、今の彼とできたら穏便に別れたいんです」
「それでは、彼に別れる意志が全くないということですか?」
「いいえ、恐らく簡単に別れてくれると思います。とても優しい方なので」
円城寺の指がボールペンを握りペン先が書類に何かを書き込んでいる。その爪先までもがきちんと手入れされたもので、見ていると腹立たしく思う。
綺麗な男は観賞用として好きだ。けれども、ここまで隙のない男だと嫌悪感が湧いてくる。
「パーティーへのエスコートということでしたが、そこで男性と会って問題が起きる可能性はありますか?」
「いえ、恐らくないと思います。元々、穏やかな方ですし私が好きになった人を見たいというお話でしたから」
意識してゆっくりと話していたが、円城寺は身動ぎ一つせずこちらを見ている。まるでその目は観察するようなもので、とても異性に向けるものではない。
当日のパーティー会場についても説明し、彼の立場も簡単に説明した。そして、円城寺はボールペンを止めると顔を上げる。その口元には確かに笑みが浮かんでいるが感情が全く読めない。
「久世様に問題がなければ私が同行しようと思っておりますが如何でしょうか」
確かにこのレベルを連れて歩けば鼻も高い。けれども、このレベルまでいくと自分も見劣りがするし、変に人目を集める可能性がある。
何より、この男といると息苦しさを感じる。たかが年下の綺麗な男だが、向けられる視線が肌に合わない。
ふと部屋の片隅に目を向ければ、そこにはデスクが二つあり、その片方に先ほど紅茶を持って来た男がいた。
モニターの横から僅かに顔を覗かせてこちらを見てた男は、視線が合うなり慌てた様子でモニターの影に隠れた。
そう、こういう反応が望ましい。あの服装は頂けないが、恐らく磨けばそれなりになるだろうし、この際、敷島よりも顔立ちやスタイルが整っていれば問題ない。
下手に見栄えのよすぎる男を連れて行けば、敷島はおかしな方向に心配しだす可能性もある。それなら、こちらをチラチラと伺っている男の方が敷島の警戒心を下げるには一役買っている。
「できたらあちらの彼にお願いできますか?」
「彼に、ですか?」
「え? 俺!?」
慌てて立ち上がった男は、私と見て、それから途方に暮れたような顔で円城寺に視線を向けた。
「分かりました」
「おい、コウ!」
その声を聞いた円城寺が彼に冷ややかな視線を向け、それを受けた彼はグッと言葉を呑み込むと再び椅子に座りその顔がモニターに隠れてしまう。
「隠れるな、こっちへ来い」
その声におずおずと出てきた彼は、本当に困ったという顔をして現れると円城寺の隣に座った。
「あの、本当に俺でいいんですか? 確かにエスコートの仕事はしますけど、余り大きなパーティーには行ったことがないんですけど」
完全に眉尻が下がり困り果てている彼に、穏やかに微笑みかける。円城寺には利かない笑みだが、分かりやすいくらいに彼には利いた。
一瞬目を見開いた彼は、途端に視線を逸らしてこちらを意識したことが伺える。
「えぇ、正直言うと……その、円城寺さんでは人目を集めてしまって彼の立場が……」
「あー、あぁ、納得です」
途端に苦い笑いを浮かべて円城寺に視線を向けた彼だが、円城寺は全く気にした様子がない。
「確かに人目集めますよ、こいつ」
「あの、もしスーツとか必要でしたらこちらでご用意しますのでお願いできないでしょうか?」
「大丈夫ですよ。エスコートは始めてではないですし、スーツもきちんとしたのがあります。あ、すみません、遅れましたが」
そう言って彼が差し出してきたのは名刺だった。そこに書かれているのは岸谷徹という名前で書かれている。
ニコニコと笑顔を振りまく岸谷は、円城寺とは対角にあるといってもいい。こちらが手に取るように感情がダダ漏れで、何よりも私自身に好意を持っている。
それに服装に思っていたよりも顔立ちは悪くない。セルフレームの眼鏡で軽い印象を受けるがチタンフレームの眼鏡にすればそれなりに落ち着いた印象になるに違いない。
何より隣に立った時、長身の円城寺よりも岸谷相手の方がバランスも取れる。
「岸谷さんですね」
「はい。大きなパーティーだとやらかしそうで怖いんですけど、それでも良ければ宜しくお願いします」
勢いよくペコリと頭を下げる姿は子どものようで、その純朴さは都合がいい。
「えっと、俺は久世さんにどういう立場で接したらいいですかね」
「一応、彼には大学のOB会で再会したと言っています」
「久世さんはサークルとかには?」
「一応、料理研究会に」
「そしたら、俺はそこにちょくちょく料理目当てに顔を出す後輩だったという設定でどうです?」
「それで大丈夫だと思います」
ポンポンと弾む会話は小気味良いが、円城寺とは違う意味で岸谷もマイペースな男らしい。
口調は会社員としてかなり荒いが、隣に座る円城寺が口を挟むことがないところを見ると咎める気はないのだろう。
「あの失礼ですが、おいくつですか?」
問い掛けられた岸谷はきょとんと顔をしてから、気恥ずかしげに後頭部を掻いた。
「すみません、一応二十五歳なので後輩としてはギリギリセーフだと思うんですけど……ダメですかね?」
恐らく格好がラフだからなのだろう。随分と若く見える。
「すみません、もう少し下かと……」
「あー、よく言われます。一応、こいつと同じ年なんですけど余り信じて貰えないですよ。まぁ、こういう口調だからっていうのもあるんでしょうけど。あ、勿論、会場ではきちんとしますよ。仕事ですから」
そう言って笑う顔には屈託がない。気持ちいいくらい感情はストレートで、まさに適役でもあった。
何よりも岸谷は確実に私に興味を持ち始めている。少なくとも円城寺よりも私に好意があるし、岸谷は恐らく惚れやすいタイプなのだろう。
少し優しくすれば落ちる可能性はあるが、岸谷をターゲットにしても仕方ない。でも、好意はある程度持続して貰わないと困る。
だから、少し考えた末に私はおずおずと遠慮気味に声を掛けた。
「折角ですからこの後、二人で打ち合わせすることは可能でしょうか?」
その言葉に岸谷は二つ返事で頷き、その横で初めて円城寺が僅かに顔を引き攣らせたのを見て先ほどまでのイライラの溜飲を下げた。