「ここか……」
一人呟いて見上げた目の前にあるのは、近代的なガラス張りのビル。私の今日の目的はその三階にある。
信用できるかどうかは分からない。ゴクリと喉を鳴らし、肩に掛かったバッグの紐を握り締めると一歩を踏み出した。
自動扉が開き、広々としたロビーが広がる。受付があり奥には左右から円を描くように階段が二階へと伸びる。そして階段の中央にはエレベーターが用意されている。
酷く場違いだと自覚しながら受付の前に立った。
美人な受付嬢が制服を着こなし笑顔を向けてくる。少し緊張しながらも私は口を開いた。
「あの、三階のJOATへ取り次いで頂きたいのですが」
「お名前をお伺いしても」
「新川、新川萌と申します」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
柔らかい笑顔で答えた受付嬢は、手元にある受話器を上げると電話を繋ぐ。受付嬢が名前を伝えれば相手からも返答があったのだろう。
短い時間で受話器を置いた受付嬢は顔を上げると再び笑みを浮かべた。こうした柔らかい笑みを見ていると、うちの会社にいる能面のような笑みを浮かべる受付嬢とはランクが違うのだと分かる。
「中央のエレベーターを三階で降り、右手の扉がJOATになります。ロックを外してあるのでそのまま中へ入って下さいとのことです」
「分かりました。有難うございます」
お礼を言ってエレベーターに乗り込むと、三階のボタンを押したところで緊張していた身体が力が抜けて自然とため息が零れた。
でも、これくらいで疲れている訳にはいかない。私は俯いていた顔を上げると、挑むように前を見据えた。
何せこれからの私の生活が掛かっているのだから、ここで気を抜くことはできない。
エレベーターから降りて受付で案内された通り右手に廊下を歩いて行けば、行き止まりには曇りガラスの両開きの扉がある。
そこを前に立ち止まり、一度深呼吸をすると扉を開けた。
燦々と光が入る中、人のシルエットが見える。
「どうぞお入り下さい」
落ち着いたその声に促されるように中へ入れば、それなりの広さがあった。中央に応接セットがあり、左サイドに扉が二つ、右サイドには高級感のあるデスクが二つ並んでいる。
「新川萌さんですね」
その問い掛けに改めて正面に立つ人物に視線を向ければ、そこに立つのは芸能人張りに整った顔をした男がいた。
サラサラの黒髪は男が動く度にゆれ動き、つり目気味の目が僅かに細められ口元に薄い笑みを浮かべている。
正直言えば、凄く綺麗な男の人だと思った。少なくとも、身近にこんな綺麗な男など見たことはない。
さらりと着こなしたスーツはスリーピースで、身体から浮いたところがないのを見るとオーダーメイドなのだとわかる。
「こちらへどうぞ」
その声で我に返ると、進められるままにソファへと腰を下ろした。
適当にスマホから近場の何でも屋を探したのに、まさかこんな高級オフィスでやたら綺麗な男の人を見ることになるとは考えてもいなかった。
目の保養にはなる。けれども、追加料金はないと言っていたが、一体幾ら掛かるのか考えるだけでも憂鬱な気分になってきた。
座ったソファも柔らかすぎず固すぎず、人工ではないレザーが張られていて高級品だと分かる。
「トオル、お茶」
同じように向かいのソファに腰掛けた彼はそれだけ言うと、スーツの内ポケットから名刺入れを取りだし名刺を差し出してきた。
「JOAT社長の円城寺と申します」
先ほどよりも近くで見たその笑顔は、恐らく一生見ることが叶わないだろうと思うくらいには絶品なものだった。
思わず見惚れてしまうくらいには。
浮き立ったまま名刺を受け取り、名刺に視線を落とせばそれは商社のようなシンプルな名刺で、円城寺浩輔と書かれている。
カチャリという音で顔を上げれば、目の前に紅茶が置かれる。でも、そのことよりもそれを持って来た人物に目を奪われた。
高級オフィスだというのに、Tシャツにパーカー、そしてカーゴパンツにブーツという格好に唖然とする。
下から徐々に見上げていけば、その本人と視線が交わる。縁なし眼鏡をした彼の頭はツンツンと立っていて、どう考えてもこのオフィスには似合わない。
それでも笑顔を向けてくることもあって、反射的に私も笑みを浮かべていた。その彼は目の前に座る男の人の前にも紅茶を置くと、部屋の端にあるデスクに腰を落ち着ける。
既にその顔はパソコンモニターに隠れて見えなくなっていた。
「今回の依頼が引越ということでしたが、何故うちに?」
落ち着いたその声にようやく今日の用件を思い出し、慌てて前を向いた。
「実は彼と一緒に住んでいるんですが、彼のDVから逃げ出したいんです」
「失礼ながら、その頬のガーゼも」
「えぇ、彼が……だから明日にでも」
頬に張りつくガーゼに手を当てれば僅かに引き攣るような痛みが走る。
「時間の指定などは?」
「朝一〇時から十一時半の間に」
「その時間に恋人が家にいない、ということですか?」
「えぇ、必ず朝一でパチンコに行くので」
私が答えるままに円城寺さんは手元の書類に何やら書き込んでいる。
伏し目がちになると、その顔はさらに引き立つ。サラサラと揺れる髪の清潔感と、きっちり着こなしているスーツから上品さが伺える。
間違いなく自分と住む世界が違う住人だと分かる。それでも、その整った顔から視線を外せない。
「持ち出す荷物の量は?」
「幅百二十センチのチェストとダンボール箱四つくらいです。ただ、彼が出て行ってから荷物を詰めるので少し時間が掛かります」
「分かりました。因みにどちらまで運ぶ予定ですか?」
「埼玉の上尾まで」
「でしたら明日の朝でも可能です。少々お待ち下さい。その間にお茶をどうぞ」
にっこりと笑顔で言われ、その笑顔にのぼせ上がりながらも紅茶に口をつける。ダージリンの香りが口の中に広がり、緊張して乾いていた喉が潤う。
円城寺はソファから立ち上がると、デスクの方へ向かい動き出したプリンターから紙が吐き出されるのを待っている。
その後ろ姿をぼんやりと眺める。
思っていたよりも長身で、柔らかな顔立ちにも関わらずひょろりとした印象はない。それなら、先ほどからトオルと呼ばれている彼の方がずっとひょろりとした印象を受ける。
プリンターから吐き出された紙を取ると、再び円城寺は向かいのソファへ戻って来た。そして手にしてた紙をテーブルの上に置く。
「お値段は今聞いた限りではこのお値段です。もし、あなたの恋人と鉢合わせたり、荷物が増えるようでしたら、ここに加算されることになります」
「え、本当にこの値段でいいんですか?」
思わず身を乗り出して聞いてしまうくらいこのオフィスの雰囲気とは似つかわしくない金額だった。
「えぇ。新川さんが言われた通りのことでしたら、このお値段で可能です」
「でしたらお願いします!」
すぐさまお願いすれば、正面に座る円城寺が気品漂う微笑みを浮かべた。
* * *
キッチンを片付けてゴミをまとめると既に時計は十時を回ろうとしている。慌ててゴミを捨てるために袋を持って外に出ると鍵を掛ける。
その足でゴミ収集所にゴミを捨てたところで、マンション前にあるゲスト用駐車場に一台のワゴンが止まるのが見えた。
そこから降りてきたのは、昨日のスーツとは違いラフな格好をした円城寺だ。丈の短い少しミリタリーが入ったようなジャケットだが、円城寺の整った顔立ちにも似合った形だ。
本人が選んでいるのであればセンスがいいと思いつつ声をかけた。
「おはようございます」
「おはようございます。恋人は?」
「もう出掛けました」
「それなら早速始めましょう」
助手席からはトオルと呼ばれていた彼もダンボール箱を持って降りてきた。そのまま会話もなく三人でマンションに入る。入口に管理人室があるが、そこに人影はない。
鍵を開けて部屋に入ると、中は薄暗くタバコの匂いが鼻につく。
「それじゃあ、これに荷物を詰めて下さい」
そう言ってトオルが持っていたダンボール箱の一つを差し出してきた。それを受け取ったところで、円城寺が小さく咳き込む。
「すみませんが、水を一杯頂いても宜しいですか?」
「え、えぇ、大丈夫ですか?」
「すみません、タバコが余り得意ではなくて」
「いま持ってきます」
慌ててキッチンに入ると食器棚からグラスを取りだし、水道水をグラスに注ぐ。それを円城寺に差し出せば、受け取った円城寺はふと笑ってお礼と共にグラスを受け取る。
けれども、そのグラスに口をつけることなくテーブルの上に置いた。
何故、すぐ飲まないのか訝しく思っていれば、円城寺はぐるりと部屋を見渡したあと、私へと視線を向けてきた。でも、その顔には先ほどまでの綺麗な笑みはない。
「あなたが一体誰ですか?」
「え?」
「少なくともここはあなたの家ではない筈だ」
「コウ、お前何言ってるんだよ」
言い募ろうとするトオルを片手で制すと、おもむろにキッチンに向かった円城寺は手袋をはめた手で冷蔵庫の扉を開ける。
「こういうものがあるのに、頼んだ業者相手とはいえ水道水を出すとは思えない」
そう言って近くにあるテーブルの上に円城寺はミネラルウォーターのペットボトルを置いた。言われてみれば、冷蔵庫の中にそれが常備されていたことを知っていた。
「それは今、急いでたから」
「あなたは自宅でミネラルウォーターを使う生活を送っていない。だから、とっさにこれを思い出すことができなかった。違いますか?」
「違うわ」
「それでは次に行きましょう。朝にも関わらずカーテンを開けていない訳は?」
「余り開ける習慣がないから……」
心臓がうるさい。脈が速くなっていく。絶対に上手くいくと思ったし、大丈夫だと思っていたからこんなことを聞かれることは想像していなかった。
「あなた自身、タバコを吸わない。もしくは吸っても日に数本程度だ。それにも関わらず、この部屋の中で窓も開けず、換気もしていない。とても過ごしやすい空気とは思えない」
「それは、窓を開けると彼に怒られるから」
確かに前に来た時よりもずっとタバコの匂いがきつくなっていて、身体中にまとわりついてくる気がする。でも、息苦しく感じるのは何もタバコのせいだけじゃない。
「違いますよね。違うと思った理由は他にも幾つかあるが、この部屋にある物とあなたが身につけているものはランクが釣り合わない。例えばそこにあるワンピース」
円城寺が指さした先はソファで、その背もたれには確かにワンピースが無造作に放り投げられている。
「元々あれはブランドもので軽く十万を越えるし、その横にあるTシャツも三万を越えるものだ。だが、今あなたが着ているものは全身で一万円にも満たない」
「それは部屋の中で着るものだから!」
「ですが、昨日の格好も正直似たようなものだったかと。玄関にあったサンダルもブランド物で、この部屋に住む女性は随分と羽振りが良かったようです。ただ、あなたが言うようにDVを受けていたのも本当のことでしょう」
そう言って円城寺の指先がダイニングテーブルを撫でる。よく見れば、そこは奇妙にへこんでいた。
「今なら不問にします。あなたはどうしてここの鍵を手に入れたのですか?」
若い何でも屋二人組、これならどうにかなると思っていた。けれども、どうにも上手くいかないものらしい。
「……萌から貰ったの。彼女とは前職が一緒で家が近かったから、お互いに鍵を預け合う仲だった」
「あなたは何をここから持ちだそうとしてましたか?」
「洋服と貴金属類。売ったらお金になると思って」
「ご本人はどちらに?」
「知らないわ。数日前から連絡が取れなくなって……多分、あの男から逃げたんだと思う」
嘘をつくつもりはなかった。既にここまで言えば、嘘で取り繕っても仕方がない。
萌と連絡が取れなくなったのは五日前だ。男が朝一パチンコに行くことを知っていたから、その隙間を縫ってこの家に来た。
いつもであれば出迎えてくれる筈の萌は出て来ない。最近、酷くなっていたあの男の暴力で動けなくなっているかもしれないと思って合い鍵で部屋に入った。
でも、そこに萌の姿はなかった。玄関先にあるポールハンガーには萌がいつも持ち歩いているバッグもない。
いずれ男の目を盗んで逃げ出すと言っていた萌は、この場所から逃げ出したに違いない。そして、部屋を見渡して色々な物が目につく。
元々、萌と私の生活レベルは違う。アパレルアルバイトの私は、生活していくだけで精一杯だったのに、社員として地位を得た萌は違う。
萌がこの時間、家にいないことはありえない。特にここ最近は男の拘束が激しく、家を一歩も出られない状態だった。
その萌がいないということは、彼女はここを出て行ったと考えるのが妥当だろう。まだ萌の物が残る部屋から、私は罪悪感と共に彼女がいつも身につけていたブレスレットを手にするとその部屋を後にした。
相変わらず萌からの連絡はなく、毎朝、自室の窓から萌の彼氏がパチンコに行く姿だけは見える。
今思えば魔が差したんだと思う。
萌が全てを捨てて出て行ったなら、残された物を自分の物にしてもいいのではないかと————。
「警察に通報する?」
「……いえ。あなたは本当に彼女の友人ですか?」
「えぇ。でも、こんなバカなことする私が友人なんて言えないと思ってる。本当にバカなことしたな……でも、これで良かったのかも」
今になって罪悪感がわいてきて、視線を床に落とすと手首につけていたブレスレットに触れる。それは、萌の部屋から一番最初に持ち出した物だった。
そもそも、他人と生活レベルを考えること自体が間違えていた。そして、萌がどれだけ努力していたのかもこの目で見ていたのに、ただ妬んだ。
「……あなたが本当に彼女の友人だというのなら、あなたはここを出て警察に通報すべきだ」
「えぇ、自首します」
「違う。彼女は既に殺されたかもしれない。この部屋に住む男によって」
「おい、何言い出してんだよ」
今までだんまりを決め込んでいたトオルが慌てた様子で口を挟んだが、円城寺はある一点を指さした。
そこにあるのはただの白い壁だ。訝しげな顔をしながらその壁に近付いたトオルは、一瞬ンにして顔色を変えた。
「これ……」
「血痕だ。大きさからいって女性のものだろう。血に濡れた手でここに触れたんだ。後から拭ったんだろうが、きちんと拭えてなかったんだろうな」
「……まさか……」
にわかにその言葉が信じられずトオルの横にたつと白い壁を見る。薄茶色のそれは確かに手形だった。
見た途端、背筋がゾクリとして指先が震える。
見えるところにこそなかったけど、萌の身体には痣が沢山あった。知っていたけど、でもそれが死に繋がるとは考えてもいなかった。
「あなたがすべきことはここから出た後、警察に駆け込んで彼女の姿が見えなくて心配していると伝えるんだ。もし、彼女の実家の連絡先を知っているなら、家族にも連絡を入れた方がいい。……そして、ここへは来たけど部屋には入らなかったことにした方がいい。そうでなければ、下手をするとあなたにも容疑がかかる」
その言葉にパニックになったまま何度も頷く。
結局、私たちは萌の部屋で何一つすることなく部屋を後にした。マンションの前で円城寺たちとは別れ、私はふらつく足で警察に駆け込んだ。
* * *
「徹、紅茶飲むか?」
「んあ? んじゃ、頼む」
コウの声に答えるが、視線は目の前にあるコードから視線を外せない。先の細い半田ごてでコードを一本一本、丁寧に繋いでいく。
ここで間違えれば半田がダマになって使い物にならなくなる。慎重に線を繋げていき、最後の一本まで繋ぎ終える。
思わず口から安堵のため息が零れ、目元にあるゴーグルタイプの眼鏡を外した。
そのタイミングでデスクの片隅にマグカップが置かれる。
「お、サンキュ」
「ついでだからな。今は何を作ってる」
「俗に言う隠しカメラ。一旦スイッチを入れるとメモリ容量マックスまで連写するすぐれもの」
「別に連写は必要ないだろ」
「ビデオの代わり。やっぱり荷物は減らしたいし、電波で飛ばすタイプだとどこで拾われるか分からないから怖いしな」
既にこの事務所には俺が作った盗聴器やら小型カメラ、隠しビデオなんてものがゴロゴロしてるが、よりコンパクトで使い勝手のいいものが作りたくなる。
これはほとんど趣味の世界だ。紅茶で口を潤してから、まだ作りかけのそれを爪先で摘む。
「でも、落としたら一貫の終わりなんだよな。一層、GPSでもつけるか」
「ピアノ線でもつけたらどうだ。落下防止に」
「おいおい……ん、でもその案、悪くないかもな」
「そろそろ片付けておけ。客人が来る」
「はいよー」
投げやりな返事をしながらも、二センチ四方厚さ一センチのカメラの作りかけを、無造作に開いた机の引き出しに入れる。
工具類もデスクの足下に片付けたところで、タイミングを計ったように受付から電話が入った。
「アリバイは?」
「ばっちり」
「書類をプリントアウトしておけ」
「はいよー」
コウに言われて早速パソコンに向き直ると、メーラーを開き一通のメールをプリントアウトする。
プリンタが紙を吐き出す間、すっかり空になったカップを片付けるべく立ち上がり、隣の部屋にある簡易キッチンに足を踏み入れた。踏み入れる直前、視界の端にちらりと映った人数は二人。
コーヒーサーバに用意されたコーヒーを客用カップで三つ用意すると、トレーに並べる。
茶菓子を探したけど、棚にあるのはコウがお気に入りのお菓子と、俺が食べるジャンク系しかなくて早々に諦めた。
キッチンから出れば、ソファに腰掛けこちらを向いた二人が一瞬だけ驚いた様子を見せる。でも、そんな視線は慣れたもので無言で客人の前にコーヒーを置き、最後にコウの前にも置いてやる。
そのままデスクに座り、俺は口を挟むことなくその会話に耳を傾けた。
「では、こちらに新川萌さんから依頼があったと」
「えぇ、そうです。こちらを見て頂ければ分かりますが、メールでのご依頼でした」
コウが差し出した書類を年配の男が受け取り目を通す。それを横から若い男が覗き込む。若い男と言っても、コウや俺よりも年上なことは間違いない。
「こちらは頂いても?」
「どうぞ。もし必要であればメールも転送しますが」
「いえ、そこまでは必要ないでしょう。既に男は殺害を認めてますし、あなた方の名前が出てきた訳でもありません。ただ、防犯カメラに映っていたから確認に来ただけですから」
「そうですか」
そこで会話が途切れて三者三様にコーヒーに口をつけ、奇妙な沈黙が部屋に落ちる。
「それにしても、立派なオフィスですね」
あちらこちらを眺めながら若い男が口を開く。不躾とも取れる視線だが、年齢に対しても職業に対しても部不相応なことは俺にだってわかる。コウが分からない筈もない。
「所詮、生前贈与という奴ですよ」
「何故ここでこんな仕事を」
「おい」
年配の男に窘められて、慌てて若い男の方が口を噤んだ。
まぁ、こんな仕事と言われてしまうのも理解はしてる。だからこそ、モニターの影に隠れてこっそりと苦笑するしかない。
「家賃が掛かる訳でもありませんし、所詮末っ子の道楽ですよ。折角ですからやりたいことをやってみようかと思って友人と起業しました」
途端に視線がこちらに向かってきたため、ペコリとおじぎをして見せる。すると向こうからも会釈をされる。
強面顔の二人組に会釈されても、さほど嬉しくない。
「失礼しました。うちのが失言をした」
「いいえ、気にしないで下さい。言われ慣れてますから」
笑顔でチクリといくのはコウの手だ。そして予想通り、その言葉を聞いた若い男は居心地悪そうに居住まいを正す。
「今回は協力を有難うございます」
「いえ、これくらいのことでしたらいつでも」
そつない挨拶をお互いに交わし、俺とコウは男二人の背中を見送った。
「徹、これ一応保存しておいてくれ」
そう言ってコウが投げてきたのは二枚の名刺だ。警視庁捜査一課と書かれた名刺には、西垣勲と松葉哲也と書かれている。
早速パソコンに名刺を取り込むと、室内カメラから引っ張ってきた映像の顔写真も入れてファイルに登録する。
「正直言うとさ、あの人、警察に言わないでばっくれるかと思ってたんだけどな」
「それはないだろう。彼女は確かに友人だった。あの部屋に彼女と二人で映った写真が飾られていた。少なくない繋がりだったんだろうな」
「で、お前は今回、どこからきな臭いって思ってた訳?」
「最初からだな」
まだ温かいコーヒーではなく隣のデスクに戻ってきたコウはすっかり冷めてしまっていうr紅茶に口をつける。
「は? だって、別に最初は普通の依頼だっただろ」
「DVを受けているという割りには、彼女に余裕がありすぎた。どれだけジロジロ見られたと思う」
「あー、熱い視線投げてたもんな。いいじゃん、その顔が決め手になったんならさ」
「相変わらず馬鹿だな。DVを受けてる女性が男二人の事務所に長居するか? そもそも、恋人がいつ帰ってくるのか分からない状況で、あれだけのんびりしていられるか?」
言われてみれば、確かにほのぼのとした会話を交わした記憶がある。指摘されるとどれだけ彼女に危機感がなかったのかわかる。
「あー、確かにそうだな」
「まぁ、終わったことだ。明日の依頼はなんだ」
「夜のエスコートだってさ。まぁ、頑張れよ」
ヒラヒラと手を振って見せれば、コウの顔が途端に憮然としたものになる。会社を始めてから半年になるが、この手の依頼にコウは拒否反応を示す。
草むしりさえ笑顔でやる男が女のエスコートを嫌がる理由が分からない。少なくとも自分であれば、炎天下の草むしりよりも酒も飲めて、飯も食えて、適当におだてて気を遣ってやるエスコート依頼の方がずっと楽だ。
「写真見たけど美人だったぞ。ちょっと控えめな大和撫子タイプ」
「面倒くさい」
「だったらそういう依頼は受けなきゃいいだろ」
「それが一種の売りになってるから仕方ないだろ」
コウの指摘する通り、JOATにとって売上の中で一番の売りになっているのは女性のエスコートだ。
それなりに金もあって仕事をしなくても生きていけるのに、それでも仕事をして、嫌なことも仕事は仕事だと割り切ってやりきるコウを見ていると時々マゾなんじゃないかと思うこともある。
「まぁ、頑張れよ。運転手くらいはしてやる。車も既に手配済みだしな」
話しながらもマウスを操作し、先ほど読み込んだ刑事二人のファイルを閉じた。
二度と会うことはないだろうと思った刑事たちと再会することになるとは思ってもいなかった————。