夕方四時時になり、由香里は課内の人間に一旦声を掛けると、本日二課で発注のあった物をパソコンで取りまとめる。各自入力された伝票から発注数値を拾いだし、それを一枚の紙にまとめる。
これは数年前までは由香里の仕事ではなかった。部長である江崎が来てからまかされるようになった、課内において大事な仕事だ。
由香里の勤める会社は金属部品を提供する会社で、物によっては新規に工場へ製造をお願いすることもある。
けれども、由香里がいる二課では既存商品を売買するだけなので、新規のような複雑なものはない。
全てのデータを取りまとめると、四時半を回っていた。この時間になると殆どの人が自席へと戻り、報告書などを手掛けている。勿論、帰ってこない人もいるが、そういう人たちからは発注書ではなく、直接由香里にメールが入ってきている。
その全てを書面に起こすと、プリントアウトして最終確認を行う。ここで発注を間違えれば大惨事だ。足りなければ信頼を失い、多ければ会社の損害になる。
部品とはいっても、特殊な物が多く、在庫を持っていても次にいつ発注がくるのか分からない。既存の部品は数千もの種類に及ぶ。だからこそ、由香里は確認だけは必ずしっかり行い、それから席を立った。
向かう先は事務長のデスクだ。営業部の事務を取り仕切るのは事務長である渡瀬だ。既に四十を過ぎる渡瀬は、社内で長老組の一人だ。会社ができて間もなく入社した渡瀬に夫はいない。
だから進んで残業もするし、誰よりも働く。無愛想ではあるものの、事務の仕事であれば渡瀬にできないことはない。
正直、由香里は無愛想な渡瀬が苦手ではあったが、仕事面では信頼していた。指摘は的確だし、上のご機嫌伺いのために物事を曲げることもない。
「渡瀬さん、チェックお願いします」
「預かるわ。山吹さんの書類はミスが少なくて安心できるわね」
どこか突き放したような声だったけど、これは渡瀬にしてはかなりの褒め言葉だ。
「有難うございます」
「これはチェックしておくけど、ちょっと相沢さんの方を見てやって貰える? まだ相沢さんから休暇申請も勤怠も出てないから」
「分かりました」
渡瀬の視線が相沢に向けられ、つられるように由香里も相沢に視線を向ける。一課の人間と話しているらしく、和気あいあいとした雰囲気だったが完全に手が止まっている。
終業は六時ということもあり、これ以上遅くなれば渡瀬が帰る時間が遅くなってしまう。微かに聞こえた渡瀬の溜息を聞きつつ、由香里は相沢へと歩き出した。
相沢は今年入社したばかりで、誰に対しても愛想がいい。だから男性陣からの受けもよく、倉田曰く、第二の野口などと言っていた。
実際、可愛らしい容姿は一目を惹くもので、彼女の周りには男女問わず人が多い。確かに今年入社ということで、四年目の由香里とは違い同期が多くいるのも原因だろう。
別に私語は構わない。由香里だってすることはあるし、何よりも部長である江崎もそこまでうるさく言うことはない。ただ、時間が迫る仕事があるにも関わらず私語をかわす姿勢は好きになれない。
新入社員だから仕方ない、そう思う部分も確かにある。でも、それに甘えられて寄り掛かられるのも困る。
それこそ数年前であれば、それもありだったかもしれない。けれども、今はやるべきこともあり、連携していることで周りに迷惑が掛かる。
だからこそ、由香里は相沢の席に近づくと声を掛けた。
「相沢さん、休暇申請の書類と、勤怠のまとめできたかな」
「あ……すみません。今すぐやります」
「あとどれくらいで出来る? もし時間か掛かるようなら手分けするけど」
「あと一時間くらいで出来るので大丈夫です」
「一時間も掛かるなら手伝うよ。どっちの方がいい?」
「大丈夫です。できるだけ早く上がるように頑張りますから」
「でも……」
一時間も掛かれば、渡瀬に迷惑が掛かる、と続けようとした言葉は、近くにいた一課の人間に遮られた。
「本人やる気になってるんだし、やらせたらいいだろ」
「そもそも、渡瀬さんが言うならともかく、何で山吹さんが言うんだよ」
いきなり他の人間に口を挟まれて、由香里は間に入った二人へと目を向ける。何度か話したことのある一課の人間だったが、その表情はうざったいといわんばかりのものだ。
元々愛想のいい二人なだけに、その表情に面食らう。けれども、言われたままという訳にもいかず、口を開こうとしたところで背後から声を掛けられた。
「私がお願いしたの。そもそも、一課の事務を請け負ってるのは山吹さんなのだから、おかしなことじゃないでしょ。あくまで相沢さんはまだ補佐という立場なのだから。それに、相沢さんが早く終わってくれないと、私も帰れないの。分かるかしら?」
振り返れば、そこには渡瀬が立っていて、見るに見かねて席を立った、ということらしい。さすがに古株の渡瀬に文句を言うことはなく、そそくさと二人は自席へと戻っていった。
「それで、相沢さんはどこまでできてるの?」
「休暇申請の書類があと少しで終わります」
「じゃあ、山吹さんは一課の勤怠お願い。午後一からやってるのにまだ終わらないってことは、あと一時間で終わるとは思えないから。山吹さん、お願いできる?」
「分かりました」
返事をして自席へ戻るために踵を返す。席に座る寸前に見た相沢は目に涙を浮かべていて、少しだけうんざりした気分にさせられる。
そして、仕事に甘えを許さない渡瀬は、更に厳しい顔をして相沢を見下ろしていた。少し声のトーンを落とした二人の会話は聞こえない。けれども、ボロボロと泣く相沢の世話は大変に違いない。
渡瀬に同情しつつも、由香里は勤怠書類を作るためにパソコンへと向かう。万事あの調子だったとしたら、辞めた野口は大変だったに違いない。
そんなことを考えながら小さく溜息をつくと、由香里は気持ちを切り替えてキーボードを叩き始めた。
集中してしまえば、周りの音は気にならなくなる。しばらくは無心でキーを叩き、書類を作り上げた時には、既に七時を回ろうとしていた。
勤怠といっても時間を書くだけではなく、毎日提出される個々の報告書の一部をコピーしてまとめなければならない。単純に思われるが、意外に時間の掛かる作業でもあった。
相沢は一時間でできると言っていたが、一課の勤怠書類はまっさらなままだった。慣れている由香里ですら二時間ほど掛かっているのに、まだ慣れない相沢が一時間でできたとはとても思えない。
これから仕事の分量すら量れない相沢と仕事をしていくのかと思うと、酷く気が重い。由香里にとって一番面倒なのは、怒っている訳でもないのに泣かれることだ。
ちらりと一課へ視線を向ければ、すでに終わって帰ったとばかり思っていた相沢はまだ自席にいた。いささか呆れながらも、内心を隠して由香里は席を立つ。
プリンターは二課で一台共有のため、デスクを回って印刷した勤怠を取りに向かう。机と机の間にある通路は、狭いものではない。
それにも関わらず、前から歩いてきた二課の松本は、まるで由香里との接触を避けるかのように端へ寄る。今までにないその反応に松本を見上げれば、途端に視線を反らされた。
由香里としては松本に何かをした記憶はない。思わず眉根を寄せて松本を見つめていたが、すれ違うまで松本は視線を合わせなかった。
二年先輩である営業の松本とは、元々仕事以上の話しをしたことはない。けれども、こういう微妙な反応をされたことは始めてだった。
不可思議に思いながら、プリンターから吐き出された書類を取り出すと、一度自席に戻りチェックを行う。全てのチェックを行い、修正がないことを確認してから再び由香里は席をたった。
出来上がった書類を手に渡瀬の前に立つと、キーを叩いていた手が止まりこちらを見上げる。
「終わった?」
「はい、これでお願いします」
受け取った渡瀬の視線が書類の上を走る。渡瀬の視線はまるで速読でもしているかのように見える。けれども、これでしっかりとチェックしているし、駄目なものはすぐに突き返される。
「大丈夫ね。山吹さんは今日これで上がっていいわ」
「でも、相沢さんは」
「いいわ。今日は私が見ておくから。お疲れさま」
こちらに視線を向けることなく、渡瀬の視線はパソコンのモニターに向けられ、指が走りだす。そんな渡瀬に「お疲れさまでした」と声を掛けてから、由香里は自分の机に戻った。
確かに任されたのは由香里だが、渡瀬に言われたらそれ以上言い募ることはできないし、しようとも思わない。長年いるだけあって、渡瀬は仕事も早い。
少なくとも、由香里がここに残っても渡瀬の役に立てることはない。何よりも、由香里が作成した勤怠の書類を渡してしまえば、残るは相沢の書類待ちというところだろう。
渡瀬は分散することをしっているから、何かあれば由香里にも声を掛けてくる。それは数年来の信頼でもあった。
自分の机を片付け、課内から出る時に「お疲れさまでした」と声を掛ければ、室内からはいくつか幾つかの声が返ってきた。
人数の割りには少ないその声に振り返れば、こちらに視線を向ける人はほとんどいない。別段、いつもと代わり映えない気がする。けれども、由香里は違和感を覚えながら、廊下を歩きだした。
何が気になったのか自分でも分からない。けれども、微かな違和感が喉につかえた小骨のように気になる。自分でも納得いかないまま廊下突き当たりにある女子更衣室の扉を開けた。
「お疲れー」
そんな声で出迎えてくれたのは、既に着替えを終えた倉田だ。パーテーションの向こう側に回れば、ロッカー扉の裏側についた鏡で化粧を直している。先ほどまでバレッタでひとまとめにされていた髪は、緩いパーマが掛かり空調でふわりと揺れている。
「お疲れさま」
「災難だったね、山吹さん」
「ん? 何が?」
「相沢さんが下につくことになって」
「あぁ……」
納得の相槌を打ちながら、由香里は制服であるベストのボタンを外していく。
事務の制服は全て統一されていて、ベスト、ブラウス、胸元のリボン、タイトスカートの四点セットで会社から貸し出されている。それらを脱ぎながら、由香里は小さくため息をついた。
正直言えば、もの凄く面倒だと思う。特に相沢みたいなタイプは、由香里が一番苦手とするタイプだ。
「確かに可愛いけどさ、何でも泣いて済まそうっていうのは本当に勘弁して欲しいよね。何しに来てるんだって思うし」
「野口さん、あの相沢さん相手にどうやってたんだろう」
ため息混じりにぼやきながら、着ていた制服をハンガーに掛けてロッカーへと片付けていく。
「野口さんの場合、あのほわほわした雰囲気で誰とでも上手くやりそうな気がするけどね。それに仕事もできる人だったし」
確かに野口が誰かと上手くいかない、という話しは一度だって聞いたことはない。それどころか、愚痴だって聞いたことないのだから凄いと思う。
「これから憂鬱」
「まぁ、頑張れ。あーあ、私の下にも来年は新人くるんだろうな」
最後に唇を軽く合わせて口紅を馴染ませた倉田は、しっかりアフターファイブを楽しめる格好となっている。
「よし、できた。今日は他の課と飲み会なんだ。山吹さんもくる?」
「パス、パス。私がそういうの行かないの知ってるのに聞かないでよ」
「あはは、たまにはいいかと思って聞いてみた。まぁ、女の人数が足りないっていう下心もあったけど」
そう言ってカラッと笑う倉田は、ドルマンワンピースにショートパンツ、そしてヒールの高いグラディエーターサンダルという格好だ。由香里自身はしない格好だったが、アクティブな倉田にはよく似合っていた。
「私の分まで楽しんできてよ」
「山吹さんの分とは言わず、楽しめるものは全て楽しんでくるから。それじゃあ、お疲れさまー」
浮き足立つ倉田に、お疲れさまと声を掛けると軽やかな足取りで倉田は更衣室を出て行った。
一人更衣室に残された由香里は小さくため息をつくと、自分も着替えるべくロッカーにかけてあるマキシワンピースを取り出すと身につけた。上からボレロを着ると、由香里の着替えは終了だ。
バレッタで留めてあった髪を下ろすと、肩胛骨辺りまで伸びた髪がばさりと落ちる。ロッカーの扉についたポケットから黒い髪ゴムを取り出すと、いつものように両サイドで結ぶ。
一応、鏡で剥がれてしまった口紅を塗り直し、少しだけ浮いた化粧をパウダーで抑える。
幾ら化粧に興味がないとはいっても、最低限の身繕いをすることくらいは必要だと思っている。興味がなくても、他人から浮くような真似はしたくない。
鏡で自分を確認してから、きっちりめのトートバッグを取り出すと肩に掛けてロッカーを閉めた。誰もいない更衣室を電気を消して出ると、エレベーターに乗り一階へと下りる。
エレベーターから降りて数歩進んだところで、名前を呼ばれて立ち止まる。ロビーのソファから立ち上がったのは内海だ。少なくとも由香里が課を出る少し前に内海は帰った筈だった。
「どうしたの、こんなところで」
「話しがあって待ってたんだ。少し付き合って貰っていいかな」
「ここじゃダメなの?」
「ダメ」
即答されてしまい、由香里は小さくため息をついた。別に由香里としても用事がある訳じゃない。まっすぐ家に帰るだけだし、問題は何もない。
「……分かった。じゃあ、夕飯でも取りながら話し聞くよ」
「それならお勧めのところがあるから、そこに行こう」
「美味しいの?」
「そりゃあ、美味しくなかったら人を連れていかないでしょ。大丈夫、俺は美味いと思ってる」
「それじゃあ、少し期待させて貰う」
ロビーから二人並んで歩き出せば、足早にすぐ横を二課の松本が歩いて行く。ちらりとこちらを見たその口元に、蔑み混じりの笑みが浮かぶ。
その笑みを見た途端、先ほどあからさまに避けられたことを思いだす。一体何が言いたいんだろう、と思いつつ松本のその背中を眺める。
「山吹さん? 松本さんがどうかした?」
「別に何でもない。ところでどこに行くの?」
そこからは、これから行くお店が何かお勧めだとか、近くにあるあの店が美味しなどと雑談に花が咲く。由香里自身、外食することは少ないので、お勧めの店を聞くことは楽しかった。
連れて行かれた店は、さほど格式張った店ではなく、どちらかといえば家族でくる洋食屋という感じだった。
けれども、係の人に促されて座ったテーブルは真っ白なクロスが敷かれ清潔感に溢れていた。中央には透明な水の入ったガラスの器があり、中には紫の睡蓮が浮かぶ。涼しげに飾られた花を見て、自然と笑みが浮かんだ。
上からの照明で睡蓮の花びらが薄く透け、真っ白なクロスに紫を映す。既に夏の終わりだけど、外の蒸し暑さには辟易していた。だからこそ、目から涼む風景というのは心和むものでもあった。
「内海さんにしては、意外な選択」
「意外って……まぁ、確かに営業先の女性に連れてきて貰ったから知ってたんだけどさ」
話しながらも内海は窓際に置かれたメニューを手に取ると、由香里に差し出してくる。それに対して、由香里は緩く首を振った。
「折角お勧めされたし、私はホタテのクリームコロッケかな」
「じゃあ、俺はカツレツで」
頼むべきものはすぐに決まってしまい、席を案内してくれた係の人間に伝える。一礼して係の人間が立ち去るのを見送った後、由香里は正面に座る内海に顔を向けた。
「それで、話しってなに?」
「あ……それは食べ終わってからでいいか?」
「別に構わないよ。じゃあ、食後のコーヒーでも飲む時に聞く」
一体、内海がどんな話しをしたいのか由香里には想像もつかない。ただ、こうして同期で集まる時以外に内海と食事をするのは初めてのことだ。
いや、それ以前に、会社の人間と二人だけで外食する、ということが初めてのことだ。できるだけ個別の誘いには乗らないようにしているし、会社の人間とは距離を取るようにしている。
何かもめ事が起きれば面倒だし、馴れ合いになるのも面倒くさい。適度に距離がある方が踏み込まれないし、踏み込む必要もない。その距離感が由香里にとって、会社の人間との楽な距離感だった。
だから、こうして内海と二人だけで食事を取るのは少し緊張する。それでも内海がふってくる話題は豊富で、緊張は由香里が思っていたよりも早く解けた。
しばらく待った末に出てきた料理は、彩りも豊かで美味しいといえば内海は鼻高々だ。気兼ねなくかわす会話が楽しかったこともあり、油断もしていた。
美味しい食事を取った最後に出てきたコーヒーに口をつける。正面には同じようにコーヒーを飲む内海。けれども、さきほどまで朗らかな様子だった内海の口数は明らかに減っている。
「それで、話しってなに?」
仕方なく由香里から話しを振ったけれども、曖昧な表情で内海はまだ話すことを迷っているようにも見えた。だから、コーヒーを飲んで内海が話しだすのを待つ。
実際、由香里としては内海が話そうと話さなくても、どちらでもよかった。少なくとも美味しい食事と楽しい会話をできたのだから、それだけで満足だった。
「……山吹さんはさ」
ようやく口を開いた内海に、由香里は手にしていたカップをソーサーに戻した。先程とは打って変わって真面目な顔をする内海は、いつものようなおちゃらけた雰囲気はない。
確かにこういう顔をしていれば、やり手営業マンと言われても納得できる。顔立ちも整っているし、こういう二面性があるから他の女性社員たちが騒ぐのかもしれない。
「社内にある噂とか耳にすることある?」
余りにも予想外の話しに、由香里は眉根を寄せる。けれども、すぐに野口の噂を思いだす。
「それって野口さんの噂のことについて?」
「まぁ、それもあるけど」
「全然知らなかったから、どうして内海さんが教えてくれなかったのか不思議に思ってたところだけど」
「ああいう噂って広めるもんじゃないし」
「まぁ、確かにそうだけど……」
少なくとも噂されて嬉しい類いのものじゃない。自分が当事者であれば、もう放っておいて欲しいと思うに違いない。
知らなかったからこそ、野口に対して不用意な発言をしていなかったか、つい考え込んでしまう。
「今、あっちこっちで噂になってるのもを聞いてる?」
「野口さんの件じゃなくて?」
「違う。山吹さんの噂」
「私の? 私、噂されるようなネタは何ももってないけど」
途端に困ったといわんばかりの顔を見せる内海に、少しだけ不安を覚える。それは多かれ少なかれ、いい噂じゃないことが伺えたからだ。
「どんな噂?」
「山吹さんが……売春してるって」
「……そんな突拍子がない噂が立ってる訳?」
呆れたという気持ちを隠すことなく内海を見れば、内海が少しだけ身体を縮めたのが分かる。
「それが、結構広まっていて変に具体的な内容も出回ってるから気になって」
「気になって、っていうのは私が本当に売春しているか、ってこと?」
「違うよ。山吹さんの耳に入っているのか気になって。自分が分からないところでコソコソ噂されるのって面白くないだろ」
確かに面白いものではない。けれども、噂なんてものは当人の与り知らぬところで広まるものだとも思う。実際、野口の噂も噂であって事実かどうか、由香里は知らない。
「……具体的な内容ってなに?」
「会社近くにあるKホテルから年の離れた男と出てきたとか、社内の誰々と不倫してるとか」
「誰々って、具体的に名前が出てるの誰?」
「……うちの課長」
「えーと……ごめん、私にも選ぶ権利があると思うんだけど」
内海とは同じ二課だから、この場合噂の相手というのは薄井のことだ。けれども、あの陰気さ故に近づきたくないと思う相手と付き合うなんて絶対に無理だ。むしろ、あの薄井と結婚している奥さんを褒めたたえたいくらいだ。
「まぁ、噂だから」
「噂ねぇ……」
ここで必死になって否定したところで、騒ぎが大きくなるだけで由香里の得にはならない。噂というのは、そういうやっかいなものだ。
けれども、その話しを聞いて分かったことがある。
「営業部でもその噂を知ってる人間が多いってこと?」
「正解。あからさまに態度にだす人間もいるし。ほら、さき相沢さんのところで他の営業に突っかかられたのも、そういう噂のせいだと思う。実際、あの噂が流布するまで、あの二人もあんな態度とってなかったし」
売春と聞いて、面白おかしく噂を広める人間もいれば、不快に思う人もいると思う。それにプラスして課長との不倫とくれば、嫌悪する人が出てもおかしくない。一課の人間だけではなく、松本の態度にもようやく納得がいった。
少なくとも、由香里が他人の立場であれば、真偽の有無に限らず、そんな噂が立つ人間と関わりたくない。面倒に巻き込まれたくないし、近づくことで自分も噂のネタにされるかもしれない、という微かな恐怖があるからだ。
「とりあえず、そういう噂が部内に広がってることは分かった。教えて貰って良かったと思う」
「不愉快な話しでごめん」
「別に内海さんが噂を立てた訳じゃないでしょ?」
その問い掛けに内海が慌てて首を横に振る。その動作が必死すぎて、おもちゃじみていたことで笑いを誘われる。
「分かってる。私も内海さんがそうだとは思ってない。でも、思い当たる節もないし、どうしてそんな噂が流れ出したんだろう」
「恋人は?」
「今はいない。少なくとも数年いた記憶がないから、噂を立てられる理由が分からない。そもそも課長と不倫なんて、絶対したいと思わないけど。でも、どうしてそんな話しになったんだか」
別に恥ずかしくはないけど、探られると面倒だから年齢イコール恋人なし、ということは言わなかった。けれども、嘘はついていない。
由香里としては、売春云々という遠い話しよりも、薄井と不倫という噂のほうがずっと気分が悪い。少なくとも由香里は薄井に好意なんてものは欠片もないし、もし言いよられたとしても本気でお断りだ。
「少し前に山吹さん香水変えたでしょ」
「もう夏も終わるから変えたけど」
「同じタイミングで課長も変えたの知ってる?」
「正直、課長にそこまでの興味がないから全然知らなかった」
「その香水がお互いに送りあったものだっていうのも噂になってて」
もう呆れて溜息しか出てこない。噂というのは遠くにいればのんびり聞いていられるけど、当人になれば楽しいものじゃない。それがこんな噂であれば益々不愉快になる。
「それで、内海さんはわざわざ私に本当か確認したかったの?」
「違う、噂を信じていた訳じゃない。ただ、一課の連中がどうしてああいう態度を取ったのか、不思議そうな顔をしていたから、一応小耳に入れておこうかと思って」
「知らないより知ってた方がいいよ。一応当人だし不自然さは感じてたから」
すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけるけど、苦みしか感じず少しだけ飲んでソーサーに戻す。
折角美味しい食事と楽しい時間だったのに、酷く胃がもたれる気分にさせられる。それでも話しを食事の後にしてくれた内海に感謝すべきかもしれない。少なくとも、食事は美味しく取れたのだから。
「色々教えてくれてありがとう。余り気にしないことにする」
「噂なんてすぐに治まると思うから」
どこかぎこちない空気のまま二人で席を立つ。自分が誘ったから支払うという内海に、由香里は譲ることなく自分のことを教えてくれたのだから、と二人分の代金を払う。結局、押し問答の末に割り勘ということになり、苦笑気味に店を出た。
駅までの道のりを二人並んで歩き出す。二人の間に会話はない。しっとりと湿ったぬるい風が頬を撫でる。それを不快に思いつつ、大きな公園を抜けていく。
その途中、背後から名前を呼ばれて立ち止まる。隣を歩いていると思っていた内海は、数メートル後ろにいて、まっすぐに由香里を見ていた。
「どうかしたの?」
「もし良かったら付き合ってることにしないか? そしたら噂なんて一掃できるし」
それは由香里にとっても悪くない話しだ。内海にそんな気が本当にないのであれば、少しくらい心惹かれたに違いない。けれども、内海はそうじゃないことを由香里はもう知っている。
一緒に食事をした時に向けられた視線、あれは同期に向けるようなものじゃない。だからこそ、由香里の返事は即答だった。
「無理」
「なんで? その方が楽でしょ? 俺もある程度フォロできるし」
「本当にそれだけの気持ちだったら、少し考えたと思う。でも、内海さん違うよね」
まっすぐに内海を見つめ返せば、さきに視線を反らしたのは内海の方だ。まるで表情を隠すように髪に手を入れるとくしゃりと軽く握り、それから大きく溜息をついた。
「……それなら、本気で好きだから付き合って下さい、って言ったら?」
「それも無理。ごめん、私恋愛を心底蔑んでるから、どうあっても誰かと恋愛することはできないと思う」
「うん、ダメもとで玉砕してみた」
ゆっくりと手を下ろした内海が、口角を僅かに上げる。それが自嘲の笑みだとうことは由香里にも分かった。
「ごめん……」
「謝る必要ないから。それを薄々分かっていて告白なんてしたのも俺だし」
「分かってた?」
それは意外な言葉だった。少なくとも、そんなあからさまな態度を取ったことは一度だってない。恋愛に奥手と思われても、恋愛を蔑んでいることを知られているとは思ってもいなかった。
「だって、同期連中で恋愛話になっても、山吹さん絶対に乗ってこなかったし。それに、聞かれたら空気読んでやんわり返してたけど、イライラしてるのは分かってたから」
「イライラしてた?」
「してた。山吹さん、イライラすると親指の爪を反対の指で撫でる癖があるの知ってた?」
「……知らなかった」
まさか自分がそんなことをしていることすら知らなかった。それだけ、内海は由香里を見ていた、ということかもしれない。
「俺だけが知ってる山吹さんの癖」
そう言って笑うと、内海は両手を上げて大きく伸びをした。百九十近くある内海は、社内でも長身なほうだ。その身体が大きく伸び上がると、公園内にある照明に照らされて、道の上に長い影が落ちる。
「玉砕したけど、諦めるのは無理。でも、誓って山吹さんに気持ちを押し付けるようなことは二度としない。だから、山吹さんもこれから同期として接して。告白したことも忘れていいから」
「随分思い切りがいいんだ」
「諦め悪いけどね。でも、玉砕したことなんて覚えていて欲しいもんでもないでしょ。それに、変に気遣われるのも、避けられるのもイヤだしさ」
「それでいいなら、私は助かるけど……」
「そんな悪いな、って顔をしないでよ。つけ込むよ?」
そう言って朗らかに笑う内海は、そういう姑息な真似はしないと長い付き合いで知っている。少しでも由香里の心を軽くするために内海が気遣っていることが分かる。。
「山吹さん、JRでしょ? 俺、地下鉄だからもう少しさきなんだ。改札まで送ったほうがいい?」
どこかからかい含みに聞いてくる内海に、由香里は「いらないから」って笑って返す。空気を軽くしようとする内海に、由香里も乗っかる形で笑う。
通りを渡った向こう側にはJRの駅がある。一旦その場で足を止めて、それから近づいてきた内海と向かい合う。
「色々教えてくれてありがとう。本当に知らないより知ってる方がいいと思ってる。でも内海さんが噂を気にする必要は全くないからね」
「俺としてはもう少し頼ってくれると嬉しいんだけどね。何かあったら言えよ。少しくらいは力になるから」
そう言って優しい顔で笑う内海に、少しだけ罪悪感を感じながらも小さく頷いた。
「それじゃあ、また明日」
「おう、お疲れ!」
手を振る内海に軽く手を振り返して、由香里は駅に向かって大通りに掛かる横断歩道を渡り出す。まさか、それが内海の姿を見る最後になるとは考えもしなかった————。