悪意の回廊 Act.01

月末ということで、二十五日までの勤務表を一枚の紙に纏めるべくパソコンに向かっていると、少しだけ影ができて顔を上げた。
「仕事中にごめんね」
話し掛けてきたのは営業一課で事務を請け負っている野口だ。同期入社ということもあり、それなりに会話をすることも多い。
「大丈夫だよ。今日までだったっけ」
二週間ほど前に回ってきた書類で、野口が退職することは連絡されていた。一課にはもう一人事務がいるが、今年入社ということもあり引き継ぎは由香里がすることになった。
基本的に由香里がいる二課も営業ということもあり、引き継ぎはさほど手間取らずに終わったが、引き継ぎ中にも野口は休んだりしていた。それだけ体調は優れない、そんな様子だった。
「そう。急なことでごめんね。山吹さんには迷惑掛けることになって」
「体調不良は仕方ないよ。今日も顔色悪いけど、大丈夫?」
見上げた野口の顔色は、相変わらず青白い。化粧はしているけど、数ヶ月前に比べたら、頬も痩せこけ、目も落窪んで見える。化粧はしていても、顔色の悪さも唇の色合いも隠しきれていない。
「最後の日くらいは出社しないと」
「確かにね。これから一課では送別会とかあるの?」
その言葉に野口は少しだけ躊躇した様子を見せてから、緩く首を横に振った。由香里のいる二課に比べて、営業一課はかなり忙しい。俗に言う営業の花形部署でもある。けれども、気兼ねなく課内の人間が話す様子から仲がいいのは一目瞭然だ。
それなのに、病気療養で退職する野口のため、送別会をしないということは酷く意外に思えた。少なくとも、何かあれば飲み会をしている一課にしては珍しい。
ただ、これだけ顔色の悪い野口を見れば、送別会という名の飲み会をするには難しいかもしれない。恐らく一課の自粛、といったところなのだろう。
ちらりと一課へと視線を向ければ、営業ということもあって、一課のデスクにはほとんど人影はない。座っているのは、それこそ今年新人で入った事務の相沢と、一課課長の空峰の二人だけだ。
「とりあえず、大まかな引き継ぎも終わってるし、相沢さんのことも聞いてるから大丈夫。でも、余り無理しないでね」
「うん……あの」
「ん?」
短く問い掛けたけど、しばらく何か言おうと逡巡していた野口は、結局ゆるく頭を振った。ふわふわした優しげな茶色の髪がやんわりと揺れる。
「ごめん、何でもない。迷惑かける事になったけど、あとはお願い」
「分かった。顔色悪いし、本当に無理しないでね。とにかく身体を元に戻すことを考えてゆっくりしなよ。体調良くなったらお茶くらいはしたいし」
「その時はきちんと連絡するね」
どこかぎこちなく笑った野口は、最後にお礼を言うと自席へと戻っていく。その後ろ姿を見ても、線が一際細くなったことが分かる。
元々、同期とはいっても仲が良かった訳じゃない。一緒にお弁当を食べたりはしていたけど、余り突っ込んだ話しをしたことはない。
それでも、異様なほどやつれていく様子に理由を聞いたことはある。ただその時は、野口はダイエットだと言っていたこともあり、余り無理したら身体壊すから止めた方がいい、とは伝えた。
実際、野口はダイエットを必要とするほどの体型だとは思えなかった。ただ、その時は余り強くいうこともなかった。あくまで会社の知人程度の人間に、強く言う気にもなれなかったからだ。
けれども、こうして体調を崩して線の細くなった野口を見ていると、もう少し強く言うべきだったかもしれない、と少しだけ後ろめたい気持ちになる。
もしも、なんてものはない。けれども、あの時強く言っていれば、ここまでならなかったかもしれない、という気持ちはどうしても膨らむ。
仕事の手を止めてぼんやりそんなことを考えていれば、背後から肩を叩かれた。
「ぼんやりしてどうした?」
「ちょっと考え事。一旦戻り?」
「そう。呼び出されて行ったのに、本人不在ってどうよ」
「しつこいから嫌がらせとか?」
「それ言っちゃ俺たちの仕事は終わりでしょ。しつこくしてなんぼなんだから」
そう言って情けない顔をするのは、同期で二課営業の内海だ。新人研修から何かとうまが合い、それ以来何かと話すことが多い。
気の回る同期で、進んで他人と関わろうとしない由香里に、何かと声を掛けてくる。それを煩わしく思わせないことが凄いと思う。
周りに気遣いができ、顔立ちも整っているとなれば、社内での人気も高い。だから他の課の人間から由香里は羨ましがられるが、残念ながら内海の顔は由香里の好みじゃない。
ただ、遠慮のいらない相手であるのも確かで、由香里が遠慮なく軽口を叩く相手は社内でも内海くらいなものだ。
「冗談よ。冷たい麦茶でも入れてこようか?」
「サンキュー、夏の暑さは本気できつい」
「お疲れさま。ちょっと待ってて」
途中まで打ち込んであったデータを一旦保存すると、給湯室へ向かうために由香里は席を立った。よほど暑かったのか、内海はスーツの上着を脱ごうとしているところを課長の呼ばれ、慌ててスーツを着直していた。
課から近い給湯室で冷蔵庫に入っていた麦茶をグラスに注ぐ。最初は内海の分だけだったが、結局、課内全員分のグラスを用意して麦茶を淹れる。
課内全員分と言っても、用意したグラスは全部で九つだ。一課、二課の課長、それから由香里を含めた事務員四人分、事務長、部長、そして内海の分だ。三課の課長は朝から出張で今日は出社していない。
営業部は全員で五十人ほどの大所帯だが、午前十一時では大抵全員が出払っている。内海が昼前に戻ってきたのも珍しいことだ。
お盆に用意したグラスを持ち、課内に戻るとまず向かったのは部長のところだ。去年から部長になった江崎は、かなりやり手らしい。実際、課内の人間がやってしまったミスに自ら率先して動くタイプだから、課内の受けも良い。
中途入社組であり、社長の甥ということで上に対しての発言権も大きい。そのために、課長クラスは酷くやりにくそうではある。それを差し引いたとしても、課長クラスのフォローもしているからケチのつけようがない。
鋭い目つきと、どこか鋭い雰囲気を持つ江崎は、人なつこさを見せる内海とは対照的に敬遠されがちだ。ツヤを消したシルバーフレームの眼鏡が、鋭さをさらに助長している気がする。
だが、事務の女性陣にも気遣いできる人だということをもう知っている。
「こちらに置いておきます」
「あぁ、ありがとう。だが、こういうことはしなくていい。君の仕事もあるだろう」
「私が飲みたかったから、ついでです」
まず江崎が就任してから、掃除やお茶汲みから事務の女性陣は解放された。それぞれが飲みたい時に自分で取りに行く。掃除は新人が毎日交代で行う。そのかわり、事務の仕事は前に比べたら重要なものが回ってくるようになった。
それはある意味、やりがいのあるもので、女性陣にも非常に受けが良かった。
「君は同期に甘いな」
近くにいる由香里にだけ聞こえるような声は、他の人間に聞かせないための気遣いだろう。どうやら先程の内海と交わした会話をしっかりと聞かれていたらしい。ちらりと見上げてきた江崎の口元には小さく苦笑が浮かんでいる。
「今後気をつけます」
「まぁ、それくらいは構わないだろう。目に見えて贔屓する訳でなければな」
そう言って僅かに笑う江崎は、正直いって悪人顔だ。初めて会ってヤクザと言われたら、恐らく誰もが信じるに違いない。いかつい顔つき、という訳ではない。恐らく一般的にいえば、整った顔立ちだとは思う。
けれども、いかんせん醸し出す雰囲気が鋭すぎて、どうにも一般人には見えない。けれども、営業課においては既にいなくては困る、そんな存在でもある。
一礼して部長の前を立ち去ると、先に一課の課長にもグラスを渡す。事なかれ主義という一課の空峰課長は、腰が低く押しに弱いタイプだ。けれども、お礼はきちんと言うタイプだし、由香里としては近くにいないからこそ、余り気にならないタイプだ。
「ありがとう」
ほんわかという雰囲気が似合う空峰は、課長という役職にはそぐわない。そう評したのは、まだ元気だった時の野口だ。
その野口も退職していなくなる。そうなると女性同期で残っているのは、由香里と三課で事務をしている倉田の二人だけだ。
元々、女性の同期が少ないこともあったが、最初の二割りしか残っていないのは、今年頭で入社四年目になったことも大きい。三年を区切りにして辞めた人間が多い。だから、男女合わせても、既に同期は四割弱程度しかない。
別に仲良くしていた同期がいる訳ではないから、寂しいとは感じない。そもそも、退職だって人それぞれ色々考え方があるに違いない。
そんなことを考えながら、二課の課長の前に立つとグラスを置いた。二課の課長である碓井は、まさに名前の通り影が薄い。口を開くことは滅多になく、寡黙というよりも陰気だ。数年碓井の下にいるが、由香里自身交わした会話は数少ない。
部下が何かしても、賞賛することもなければ、叱責することもない。ミスが発覚すれば、個々の責任だと言って、自ら動く事もない。何もしない口も出さない上司となれば、存在が薄くなるのは当たり前だと思う。
ただ、本人はそれでいいと思っているのか、相変わらず何も変わらない。ただ黙って課長席にいるだけだ。恐らく年内に降格もあるだろう、というのは二課にいる営業の人たちの言葉だ。
実際、問題があれば碓井を飛び越えて、江崎に報告するというのが二課では暗黙の了承となっている。
無言でグラスを受け取った碓井は、やはり何か言うことなく手元の書類へと視線を落としてしまう。
内心溜息をつきながら、碓井から離れた由香里は、事務長である渡瀬のデスクを周り、一課の野口や相沢、そして三課の倉田にもグラスを配ると、最後に内海へとグラスを手渡した。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
笑顔で受け取った内海は文句を言うこともなく、グラスに口をつけた。見る見る間にグラスの中にあった麦茶は飲干され、最後にグラスから口を話した内海は酷く満足げに溜息をついた。
「あー、生き返った。本当にありがとな」
「別に大したことはしてないよ。暑い中お疲れさま」
「おっ、珍しく優しい」
少し浮かれた口調になる内海に、由香里はすぐさま書類を突きつけた。
「生き返ったところ、これ修正。請求書の類いは紙に張ってから提出。それから、勤務表に間違い。赤でチェックしてあるから、修正後提出」
「ちょっ、山吹さーん。これくらいは甘く見てよ。同期のよしみで」
「そんなよしみならいらないから」
さらに突きつければ、情けない顔をしながら内海は書類を受け取った。表情がくるくると変わる内海は、これでも外に出れば立派な営業マンらしい。
実際、課内での売上は平均以上を叩き出しているし、入社年数からいけばかなり頑張っている方だろう。これだけ感情が顔に現れるのに営業が勤まるのかと思わないでもないが、やっぱり社内は社内、外は外、だということなのかもしれない。
一旦トレーを給湯室へ持ち帰り、今度こそ落ち着いて自席へ戻るとグラスに口をつけた。ひんやりとした麦茶が喉から胃へと流れ落ちていくのが分かる。
改めて気を取り直すと、再び出勤簿を精査するために由香里はパソコンへと向かった。

* * *

昼前には本日付けで退社する野口が挨拶をして課内から出て行った。見送ったのは課内にいた僅かな人数だけで、少しだけ野口が気の毒になる。相変わらず青白い顔をしている野口は、それでも微かに笑みを浮かべると最後に一礼して立ち去った。
そして、由香里はいつものように手作り弁当を片手に小会議室へと向かう。幾つかの会議室の内、一番小さい会議室で昼食を取る。由香里と野口、そして倉田の三人で昼食を取るのがいつものことだったが、野口が退職した今、寂しいことになるだろう。
とはいっても、ここ最近は野口が出勤していないこともあり、倉田との昼食に慣れつつあった。時折、他の同期が混じることもあるが、基本は由香里と倉田の二人だけだった。
「なぁ、俺も入れてくれないか?」
小会議室に向かう足を止めさせたのは、内海のそんな一言だった。
「それは別に構わないけど、出先はいいの?」
「連絡取ったら、急な出張で九州に飛んでるらしくて午後一からは別の会社を回ることにした。どうせなら昼食とってから出たいし。それにあそこで食うのも何だろ?」
確かに内海の気持ちも分からなくはない。由香里たち事務の女性陣が課内から出てしまえば、部屋に残されているのは課長二人と部長の三人だけになる。由香里自身もあそこで弁当を広げたいとは思わない。
「まぁ、好きにしたら。他の同期も気が向いた時には合流みたいな感じだし」
「え? 他の連中もいることあるのか?」
「他の階から来ることもあるよ。まぁ、ほとんどが野口さんか倉田さん目当てだったみたいだけど」
「あぁ、野口さんすっかりやつれちゃってたな」
「うん……病気って怖いね」
「……だな」
丁度会話が途切れたところでエレベーターホールに到着し、内海は近くのコンビニで昼食を買ってくるということで別れた。由香里はエレベーターホールを通り抜け、その先にある会議室へと向かった。
第一から第六まである会議室は、それぞれ大きさが異なる。第一会議室はきちんと応接室の様相を呈していて、大抵大口の顧客はここか、社長室の隣にある応接室に通される。
第二会議室は三十名程の人間が入れるようになっていて、部会などは第二が遣われる。第三以降については徐々に小さくなり、第六会議室にいたっては会議机二本にパイプ椅子が六脚、それしか用意できないようなこじんまりとした部屋だ。
一番端にある第六会議室で一応ノックをして扉を開ければ、既に倉田が待っていた。
「遅い」
「ごめん、ちょっとキリのいいところまでと思ったら遅れた。あとから内海もここに来るから」
「珍しいね」
「午後一から出るから、課内でぼっちにしないでくれって」
途端に笑い出す倉田も、あそこに残される内海を想像したのかもしれない。
「まぁ、あの三人の中に取り残されたくはないよね。私だってごめんだし」
そう言って肩を竦める倉田の意見に、由香里も同感だ。あの中で食事なんてしたら、消化に悪そうだと思う。
「さてと」
そんな声と共に倉田が小さいバッグから取り出したのは、昼食ではなくメイクポーチだ。いつもであれば食後にするメイクだけど、今日は内海がくるから気合を入れる、ということなのだろう。
そんな倉田を視界の端に入れながら、由香里は小さなバッグから家で作ってきた弁当箱を取り出した。
倉田は由香里と違い、男性に良い顔をしたいタイプだ。由香里は残念ながら両親が不仲だったこともあり、恋人という存在に意義を見い出せない。だから年齢イコール恋人がいない年数だ。
別に縁がなかったということもない。学生時代には告白されたこともあったが、別段必要に感じたこともなかったから全てお断りしている。
それなりに身ぎれいにはしているけど、それは一般的なもので服飾にお金を掛けるのは季節の変わり目だけだ。それ以外は老後のために貯蓄に回すようにしている。
だから化粧品もドラッグストアで買える、自分の年代に合ったものしか買ったことはない。倉田が持つようなブランドもの化粧品には、正直興味がなかった。
「ねぇ、こっちの色とこっちの色、どっちがいいと思う?」
「右側のは赤すぎでしょ。別に職場じゃなければありだと思うけど、職場でそれは引く人もいるんじゃない?」
「やっぱりそっか。仕方ない、今日はこれにしておこう」
そう言って倉田はポーチからリップライナーを取り出すと、唇の輪郭から整えていく。由香里であれば、直接口紅を塗って終了だ。でも、努力しているだけあって、倉田は社内でも評判の美人だ。
そういう意味では今日退社した野口も美人だった。倉田がくっきりした美人だとしたら、野口は可愛い感じの美人だった。今日会った感じでは、面影はあるものの、あの頃の可愛らしさはすっかり影を潜めてしまっていた。
「野口さん、何の病気だったのかな」
「山吹さん、まさか病気療養って理由、本気にしてる訳?」
「違うの?」
「違うよ。一課に高井さんっていたの覚えてる?」
「あぁ、七月で退職した高井さんでしょ?」
「残業してた野口さんに乱暴したらしいの」
「……は? 乱暴って」
余りにも予想外な言葉に、弁当の蓋を開けようとして由香里の手も止まる。そんな由香里を気にした様子もなく、倉田は鏡と向き合いながら話しを続ける。
「だから高井さんが野口さんを強姦したの」
「嘘、だって高井さんでもの凄い愛妻家だったでしょ?」
「愛妻家なんて、幾らでもそんなふりできるでしょ。加害者だった高井さんは即刻クビ。でも、野口さんも辛かったんじゃないかな。本当に病気みたいにやつれちゃってたし」
「……そんなの、全然知らなかった」
「公然の秘密ってやつだったんだけど、山吹さん、そういうことに疎そうだから誰も言えなかったんじゃないの」
「この年でそこまで純情乙女な訳ないんだけどね」
「まぁ、男が夢見る純情なんて、あってなきがごとしよね。この年になると」
最後に鏡で唇をチェックした倉田は、ようやく弁当を取り出した。
大学を卒業して四年、由香里も倉田も同年の二十六歳になる。同期の野口や内海も同じ年だ。まだ若輩と言われるけど、社会に出ていれば誰しもそれなりの洗礼は受けている。いつまでも純情でなんかいられない。
ふと、先程内海としていた会話を思い出す。病気だと言った由香里に、内海は微妙な間を置いてから同意した。だとしたら、内海はあの時点で既にその噂を知っていたのかもしれない。
だったら教えてくれたらよかったのに。そう思ってしまうのは、いささか八つ当たり気味かもしれない。
室内にノックの音が響き、倉田が返事をする。扉を開けて入ってきたのは内海で、由香里はつい内海を軽く睨みつけてしまった。

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