Chapter.IV:見知らぬ世界へ Act.03

翌日、目覚ましをかけ忘れたこともあり、皐月は弓弦に起こされる羽目になった。まるで昨日のことなど忘れたように振る舞う弓弦に、皐月も事務的に答えてしまう。

相手が事務的になると、羞恥心とかそういうものも湧かないものらしい。いや湧かないというよりも、反応する自分が自意識過剰のような気がしてくる。

着替えてから那奈と共にダイニングのテーブルにつくと、弓弦の作った朝食を口にする。けれども規則正しい生活を送ることの方がまれな皐月には、八時の朝食というのはかなり辛いものがある。何よりも、眠りについた時間が余りにも遅すぎて睡眠不足なのも否めない。

コーヒーとサラダをどうにか口にしたけど、どうやっても用意してくれたサンドウィッチやら果物までは入りそうにない。

「お口には合いませんでしたか?」

困惑そうに顔色を窺う那奈に、苦く笑いながらも皐月は首を横に振った。

「すみません、今まで朝食を取る生活をしていなかったので」
「それは宜しくないですわね」
「えぇ、身体に悪いと思いますよ。それでしたら、明日からは少しずつ朝食を食べられるように量を調整していきましょう」
「あ、いえ、大丈夫です。正直言うと、課題が立て込むと徹夜とか凄くなるので、朝は起きられないこともありますし」

朝からきっちりとした服装をした二人を前にそれを言うのは恥ずかしくもあったが、恐らく隠しきれるものでもない。

「長期休みは昼夜逆転することもありますし」
「今の時期はどうかしら」
「大丈夫ですよ。ただ月末になると厳しいですけど……課題をやらないといけないので」
「それでしたら昨日のお話通り、数日間は昼型の生活をお願いしたいのですが」

正直、この時間からでも寝ていたい気分だった。でも、皐月のマイナス部分を知る願ってもないチャンスだ。みすみすそのチャンスを逃がす訳にはいかない。

「分かりました。こちらこそお付き合いさせて下さい」
「朝食が終わりましたら、早速ですが型紙を作らせて頂きたいので宜しいですか?」
「分かりました。布は私が用意した方がいいですか?」
「その方がイメージに合うとは思うけれども……布の知識は?」
「一応、那智さんから説明は受けましたけど趣味の手芸レベルです」
「説明って本社で?」
「いえ、日暮里の方で……何か問題ありましたか?」

つい最後にそんな質問を投げてしまったのは、滅多に表情を変えない那奈がどこか引き攣ったような顔をしていたからだ。困惑しつつ弓弦を見れば、弓弦は完璧な笑顔で感情を隠してしまっている。

「皐月さん、あなたお兄様に」
「那奈さん、余計なことは言うものではありませんよ」

笑顔で弓弦に言葉を遮られた那奈は、弓弦を見上げ、それから皐月を見つめてくる。その顔にはもう困惑した様子はなく、那奈は小さくため息をついた。

「……そうですわね。とりあえず、午前中に打ち合わせを済ませてしまって、午後からは私の友人と三名で日暮里まで布を買いに行きましょう」

ものすごいはぐらかされ方だとは思ったけど、既にいつもの無表情になってしまった那奈からは何も聞き出せないに違いない。追求は諦めて違うところへ質問を投げかけた。

「お友達、ですか?」
「えぇ、瑞穂というのだけど、彼女の縫製技術は私が知っているアマチュアの中では一番。口も堅いから皐月さんのデザインを任せても問題ないわ」

こうして聞いていると、那奈は本当にデザインの流出に気を遣っていることが分かる。けれども、そこまでデザインに拘る那奈の姿は、皐月には理解しがたい。気をつけるべきだとは思っても、那智ならともかく皐月自身のデザインにそこまでの価値があるとは思えない。

実際、那奈にも悪い部分は色々と指摘されている。だからこそ、誰かが皐月のデザインをどうこうするとは思えない。

でかけることを約束して朝食を終えると、皐月は自室に戻り出掛けるための支度をする。とは言っても、いつもの肩掛け鞄に財布やハンカチ類を揃えるだけで五分と掛からない。

リビングで那奈を待っていれば、暇そうに見えたのか弓弦がコーヒーを持ってきてくれた。

「那奈さんの支度でしたら三十分は掛かりますよ。テレビでも見ますか?」
「いえ、余りテレビとか見ないので」
「テレビはデザインをするなら見ておいた方がいいですよ。インスピレーションの鍵になることもありますし」

さすがは那智の友人というべきなのだろうか。それとも、那奈と一緒にいるからなのだろうか。

そんなことを考えている間に、リビングにある大型テレビが音声と共に映像を伝えてくる。その聞き覚えのある声に目を向ければ、そこには見覚えのある駅前が映っている。

そしてテレビの真ん中に立つのは健吾と佐緒里の二人だ。別に二人が一緒にいることを見るのは不思議なことじゃない。特にここ最近、皐月は二人との約束を反故してるのだから何かを言える立場でもないし、言うつもりもない。

ただ、余りにも二人が寄り添っていることに驚きを隠せなかった。少なくとも皐月が知っている友人の距離とは思えない。健吾の手はしっかりと佐緒里の腰に回っているし、インタビューを受けている佐緒里も気にした様子はない。

大げさにショックだと騒ぐ気にはなれなかったけど、少なからずともショックではあった。二人が付き合っていることを知らされていなかった、ということに……。

確かにここ最近の皐月はバタバタしていたこともあって、とても伝えられる状況ではなかったかもしれない。そう考えると二人を責めるきにはなれない。それどころか、気を遣われたことを申し訳なく思うくらいだ。

でも、タイミングとしては悪くなかったのかもしれない。実際、皐月も今は美術館巡りをする状況でもないし、こうして同居する生活となれば気軽に行き来できる訳でもない。

多少の疎外感はあるけど、それはそれで仕方ないか。佐緒里は元々健吾のことが好きだったみたいだし、素直におめでとうくらいは言いたいし。

そんなことを考えながら弓弦の用意してくれたコーヒーを手にすれば、近くにいた弓弦が意味ありげな視線を投げてきた。

「先日見えた佐緒里さんと健吾さんですね」
「二人が付き合ってるなんて全然知りませんでした」
「そうですか」

さらに続きそうな雰囲気だったけれども、那奈が現れたことで弓弦は口を閉ざしてしまう。そして、浮かべるのは笑顔という名前の防壁。那智といい弓弦といい、本当にこういうところはやりにくい。

何よりもその笑顔で皐月も何も言えなくなってしまう。那智が余りにも笑顔で厳しいことを言うから、少し臆病になっているのかもしれない。それに、完全な笑顔ほど全てを拒否しているような気がするのは、皐月がひねくれているからなのか。

「弓弦さん、車の用意を。それから、日暮里に向かう前に瑞穂の家に」
「分かりました」

それだけ言うと弓弦はそのまま部屋から出て行ってしまう。しっかりとテーブルの上には那奈のコーヒーも用意してあるところが素早いかもしれない。

那奈がソファに座るのを見て、皐月は上げかけた腰をもう一度降ろす。途端にカップを持った那奈が声を掛けてきた。

「弓弦さんと何かお話しをされましたか?」
「特にこれといって大したことは話してません」
「そう……皐月さんも余り弓弦さんに気を許さないことね。ここへ来たということは、皐月さんもお兄様の監視対象なんでしょうし」
「それは違うかと……恐らく見るにみかねてとか、うちの兄貴の友人だからとか、そういうことかと」
「あの人がそんなおめでたい人な訳ないわね。我が兄ながら、あの冷徹さにはゾッとするくらい。だから皐月さんには何かがあるんだと思うわ」

何か、と言われても、正直皐月に思い当たるものは何一つない。皐月としては、てっきり兄と上手くいかなくなったこともあり、仕方なくだとばかり思っていた。

けれども、那奈の言い分を聞いていると絶対にそれはありえない、と言わんばかりだ。ただ、那奈が言うように心底冷徹かというと、そうでもないような気がする。良い人だと絶賛できる相手ではないが、少なくとも皐月にとって悪い人ではない気がする。

二人でコーヒーを飲み終えてマンションを出ると、出入り口に滑り込んできた車が一台。車には詳しくないけど、それが高級車だということくらいは皐月にも分かる。

てっきりそのまま乗り込むとばかり思っていたのに、那奈は扉を開けようともしない。困惑する皐月をよそに、運転席から降りてきた弓弦が後部座席の扉を開けた。

そんなものはドラマや小説の中、いいところ高級ホテルとかそういう場所でしかありえないと思っていた。これはちょっとしたカルチャーショックでもあった。
お嬢様だ。本物のお嬢様がここにいる……。私はこんなお嬢様と本当にやっていけるんだろうか。

そんな不安が過ぎったけど、まさに今さらというもので後戻りもできない。それこそ佐緒里や健吾に泣きを入れたら、どうにかなるかもしれない。でも、自分で決めたことだからこれくらいでへこたれていられない。

もう後ろ盾になってくれる兄貴はいない。いつまでも健吾や佐緒里に甘えていられない。

そんなことを考えていたからか、やけに神妙な顔で車に乗り込んでしまう。そして、その顔を那奈に見咎められた。

「もしかして、車酔いするのかしら?」
「あ、いえ、大丈夫です」

それでも薬の心配をする那奈に、本当に大丈夫だと伝えると車は出発する。慣れないせいで乗り心地の悪い車の中、那奈は大判のノートを取り出すとページを捲りだした。

お互いの間に会話はなく、ほどよく涼やかな車の振動で急激に眠気が襲ってくる。

ただ皐月としては瞬きしたつもりだったけれども、次の瞬間には隣にもう一人女の子が乗っていて本気で驚いた。

「え、あれ?」
「起きた? 初めまして」
「あ、はい。こんにちは」
「よく寝てた。引っ越したばかりで余り眠れなかった?」
「いえ、ちょっと色々本とか見てたら寝たのが遅くて……あの」
「那奈、きちんと説明してないの?」
「まかせるわ」
「本当に使えないわね」

ため息混じりに言い捨てた瑞穂に対して、那奈は表情を変えることもない。けれども、文句をつけるつもりもないらしい。瑞穂の無遠慮さに驚きもしたけど、それだけこの二人は仲がいいということかもしれない。

「那奈の従姉妹で笹塚瑞穂。全員那智さんも含めて全員笹塚だから、私のことは瑞穂で」
「はい。私は」
「皐月ちゃんでしょ。寝てる間に多少の事情は聞いた。那奈のことだから色々説明不足だと思うけど、今回、皐月ちゃんがデザインした服は私が縫うわ。デザインの型おこし、ようは型紙作りは那奈がやるから」

驚きとともに眠気がどこかへ飛んでしまう。そして瑞穂が加わったことにより、かなりホッとした。

正直、お嬢様が二人と考えれば気も重かったけど、瑞穂は俗にいう普通の人だ。那奈のように丁重な言葉を使う訳でもなく、服装も至ってシンプル。

瑞穂と話す内に那奈の一つ上ということも分かり、今年服飾科を卒業して那智の会社に就職することも聞けた。

「それにしても那智さんに目をつけられるなんて災難ね」
「災難……なんですか?」
「私から見たら」

肩を竦めて見せる瑞穂の意見は、さきほど那奈に言われたものと余り代わり映えない。身内だからこその辛口なのか、本当にそうなのか。他人である皐月には判断がつけにくい。

「色々と遣り方がえげつないっていうか、目的のためには手段を選ばないっていうか。うん、だから何かあったら那奈なり私なりに泣きついていいから。そもそも、未成年の保護者気取ろうっていうんだから、本当に何を考えてるんだか」
「逆に未成年だからこそ、那智さんを頼らないといけない状況だったんで……」
「そう? それなら何も弓弦さんをつける必要はないのよ。それこそどこか家でも用意してあげれば済むんだし」

言われてみればその通りかもしれない。ただ兄貴の手前、一人暮らしというのは説得が難しかったのだろうか。でも、そもそも皐月は一人暮らしをしていたのだから、一人でもおかしな話しではない気がする。

だとしたら、那奈や瑞穂が言うように何かしらある、ということなんだろうか。
考えてはみるものの、これといって思い当たるものもない。

「ごめん。別に皐月ちゃん困らせるつもりはなかった。それで、使うデザインは既に決まってるの?」

すっかり話題を変えた瑞穂にそれ以上問い掛けることもできず、皐月は鞄の中から折り畳んだデザイン画を一枚取り出した。

必要な布地を聞かれて幾つか答えたけど、全ての布地について知っている訳でもない。少なくとも、皐月は今まで小物を作る程度しか布を触っていない。幾つかは実際に触れてみて考えるつもりでもあった。

話している間に日暮里に到着し、布の問屋街へと三人で歩き出す。弓弦は車で待っているのかと思いきや、少し離れたところを後ろから歩いてくる。

だからこそ、監視役という那奈の言葉は、あながち間違えていない気がした。

布を選び、精算する段階で弓弦が全てカードで支払ってしまう。困惑するのは皐月だけで、那奈も瑞穂も全く気にした様子はない。

二人が他の布を見ている間に弓弦に聞けば、基本的に洋裁系の物は出費は月に幾らまでと那智から言われているらしい。せめて自分の分は払うと言ったけど、笑顔で断固として受け取って貰えなかった。

苦情、意見は那智へ直接と言われてしまえば、それ以上弓弦に言い募ることもできない。驕って貰うのとは訳が違う環境に、相変わらず困惑しながらも瑞穂を含め四人でマンションへと戻る。

買ったばかりの布は袋から出されるなり、ネットに入れられて洗濯機へ放り込まれる。そして、皐月が出したデザイン画を見て、手早く那奈がパターンを起こしていく。

島崎から一通りは教わったものの、那奈の手際の良さに驚いた。それと同時に、あれだけひらひらとした袖でよどみなく線を引いていく那奈にも驚いた。

途中、マネキンのようなトルソーに型紙をあてて修正していく。ロータリーカッターで型紙を切り終えると、洗濯の終わった布に那奈と瑞穂の二人でアイロンをあてていく。

正直、皐月に手を出せる部分は全くない。それだけ、二人での作業が手慣れていて下手に手を出せば邪魔をするだけになってしまう。

最終的には余りにもやることがなく、ウロウロしていたら瑞穂に笑われてしまう。結局、弓弦に淹れて貰ったコーヒーを片手にソファに座ることを余儀なくされ、作業場所である洋裁部屋からは追い出されてしまった。

そうなると、今度はできばえがどうなのか落ち着かない。無意味に手近にある雑誌をめくってみたけど、内容なんてものはこれっぽっちも頭の中に入ってこない。

そして放置されたまま一時間が経とうとする頃、ようやく部屋に呼ばれた。部屋の真ん中に置かれたトルソーが来ているワンピースは、確かに皐月がデザインしたものだった。

けれども、こうして改めて出来上がった服を見ると予想とは若干デザインが違う。いや、実際デザイン画通りだけど、頭の中にあるイメージと違う、というのが正しいのかもしれない。

「何だか色々分かった気がします」
「デザイン画と違った?」
「そういう意味じゃなくて、デザイン画ってラフ程度の物を描けばいいと思っていたけど、きちんと要所要所にポイントをつけないといけないんだと思って。例えば、このウエストの切り返し、私の中ではもっと上なんです。でも、デザイン画にはそんな指示は描いていないし、普通ならこの位置に持ってくるのも分かります」

「他に違う部分はありますか?」
「袖の部分もここまで膨らませないで、もう少しぴったりめ。後は襟ぐりももう少し深めで……色々足りない部分が多すぎて伝わらないデザインの描き方をしてたんだと思って。それと、結局はデザインするのにも作り手の気持ちを考えないといけないんだなって」

「上出来ですわ。それに気づけるなら皐月さんのデザインはこれからも良くなると思いますわ」
「何でそう上から目線なんだか。那奈の場合、デザインが壊滅的でしょ。皐月ちゃん、これでも那奈としては精一杯褒めてるつもりだから。私も那奈も、実はここでつまづいたんだよね」
「つまづく、ですか?」

「そう。服飾だからデザインも勿論するんだけど、デザイン班とパタンナー、そして縫製、まさに今の状況みたいに三班に別れて実技があってね。どうしてデザイン通りに作ってくれないんだろうって腹立って、他の班とやりあっちゃった。結局、自分たちがパタンナーになるまでの一ヶ月、気づけなかったし」

確かに図面だけで人に何かを伝えることは難しい。けれども、事細かに描かなくていいものまで描く必要はない。必要ない情報はそぎ落とさないといけないし、このラインは譲れないという部分は描かなければいけない。

それは風景画にも少し似ている。風景画というのは目に映るもの全てを描く訳じゃない。見えるものから、不必要なものはそぎ落としてキャンバスに描いていく。

そして出来上がった風景画が初めて自分の世界となる。勿論、癖やタッチなどで自分らしさを表現できるけど、それだけじゃない。

結局、誰かに何かを伝えるためには、凝縮された情報じゃないと伝わらないんだと思う。

そこまで考えると、こうしてデザインした物を実際に作って貰うことはとても意味あることだと思えた。

誰かに見て貰うためのデザイン、ということを決して忘れてはいけないんだと思う。

「皐月さんのデザイン、こうして意見を聞くとまた違った見え方がしそうな気がしますわ」
「直します。色々直して、それから改めて見て貰ってもいいですか?」
「私は見てみたいけど、まず最初はお兄様に見て貰うべきじゃないかしら。でも一つだけ分かることがあるわ」

「何ですか?」
「この服、佐緒里さんをイメージして作られたんじゃありませんか?」
「そうです。佐緒里のイメージですけど……問題ありですか?」
「……正直、佐緒里さんをイメージしたものはお兄様には見せない方がいいかもしれません」
「どうしてですか?」

問い掛けたけど、それ以上那奈は答えてくれない。助けを求めるかの如く瑞穂を見たけど、瑞穂は肩を竦めて見せただけでやはり答えてはくれなかった。

不思議な気はしたけど、とにかく皐月としてはやるべきことが見えたことは大きな一歩だった。

「デザイン画修正しつつ、最初に那奈さんが言っていた通り、ゴシック系のデザインもやってみます。そっちは見て貰えますか?」
「そちらは喜んで見せて頂くわ」

何か指針があるというのは遣る気になる。だからこそ、皐月は机の脇に置いたままにしていたスケッチブックを開くと、すぐさま鉛筆を走らせた。

Coming soon……

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